想いの果てに、すべては消える

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不倫から家庭に戻った妻の高城美晴(たかしろ みはる)に、僕はあの男ときっぱり縁を切るための面会を3回だけ認めた。 彼女はその機会を逃すまいと、彼と夕食を共にし、一緒にものを作る時間を過ごし、夜通し看病した。 戻ってくると、彼女はあの男にまつわるものをすべて捨て、あらためて僕の手を握った。 「信じて。もうあなたを裏切らないから」 それは、僕が運転中に血気盛んな若い男と衝突事故を起こすまでのことだった。 相手の男が苛立たしげに助けを求めて電話をかけると、聞こえてきたのは妻の親しい友人の声だった。 「美晴、行かないほうがいいよ。3回とも、もう使い切ったでしょ。今度行ったら、旦那さんはきっと離婚を切り出すよ」 続いて聞こえたのは、それでも動じない美晴の声だった。 「悠人(ゆうと)は孤児で、これまで誰にも愛されたことがないの。離婚を恐れているのは、私よりあの人のほうよ。 みんな、このことは黙っていて。ちゃんと分かってる。これが最後だから」 血だまりに横たわる僕は、心まで冷え切っていった。 目の前で余裕を見せる男こそ、彼女が心を捧げた浮気相手だったのだ。 20分後、もう家庭を裏切らないと誓った美晴が、血相を変えて病院へ駆け込んできた。

Chapters (1)

第1章

不倫から家庭に戻った妻の高城美晴(たかしろ みはる)に、僕はあの男ときっぱり縁を切るための面会を3回だけ認めた。 彼女はその機会を逃すまいと、彼と夕食を共にし、一緒にものを作る時間を過ごし、夜通し看病した。 戻ってくると、彼女はあの男にまつわるものをすべて捨て、あらためて僕の手を握った。 「信じて。もうあなたを裏切らないから」 それは、僕が運転中に血気盛んな若い男と衝突事故を起こすまでのことだった。 相手の男が苛立たしげに助けを求めて電話をかけると、聞こえてきたのは妻の親しい友人の声だった。 「美晴、行かないほうがいいよ。3回とも、もう使い切ったでしょ。今度行ったら、旦那さんはきっと離婚を切り出すよ」 続いて聞こえたのは、それでも動じない美晴の声だった。 「悠人(ゆうと)は孤児で、これまで誰にも愛されたことがないの。離婚を恐れているのは、私よりあの人のほうよ。 みんな、このことは黙っていて。ちゃんと分かってる。これが最後だから」 血だまりに横たわる僕は、心まで冷え切っていった。 目の前で余裕を見せる男こそ、彼女が心を捧げた浮気相手だったのだ。 20分後、もう家庭を裏切らないと誓った美晴が、血相を変えて病院へ駆け込んできた。 第1話 カーテンの向こうから、美晴の、心配と苛立ちの入り混じった声が聞こえた。 「どうしてすぐ私に電話しなかったの?何のために私の番号を教えたと思ってるの?」 神谷怜央(かみや れお)は無理に上体を起こし、いかにも物分かりのいい顔をした。 「旦那さんから許されたのは3回までだって言ってたから、怖くて……」 「3回って何よ?」美晴は声を荒らげた。「何かあったらいつでも電話して。あなたにもしものことがあったら、私はどうすればいいの?」 隣のベッドで静かに聞いているうちに、僕の視界は滲んでいった。 事故が起きたときも、僕の意識ははっきりしていて、真っ先に彼女へ電話をかけた。 けれど何回立て続けにかけても、1度も出なかった。 怜央がかけたのは、たった1回。その電話には、美晴はすぐに出た。 美晴は、僕には頼れる人がいないから、どれだけ遅くなっても彼女からの折り返しを待ち続けると知っていたのだ。 そのとき、医師が処置のために入ってきた。 カーテンが開いた瞬間、「事故を起こした張本人」である僕へ向けていた美晴の怒りが、すっと顔から消えた。 一瞬、呆気に取られたものの、彼女の口から飛び出したのは―― 「怜央のことをこっそり調べたの?わざと車をぶつけたの?」 僕がけがをしていないか確かめようともせず、美晴は事故の責任を僕に問いただした。 僕が浮気に気づいてから、美晴は怜央に関する情報をひた隠しにしてきた。 「彼は家庭環境に恵まれていないの。素性を暴かれたら、彼に迷惑がかかるでしょう」 それなのに、僕が親のいない施設育ちだということは、周囲にはとうに言いふらしていた。 僕がどれほど彼女なしでは生きられないか、周囲に知らしめるためだけに。 喉の奥の苦みを飲み込み、僕は自嘲するように笑った。 「これで4回目だ。約束を破ったね」 かつて僕が離婚を言い張ったとき、美晴は僕たちの家の屋上に立った。 「私と離婚するなら、ここから飛び降りる!あなたがいないなら私も生きていけない。私は一生、あなただけを愛するって言ったでしょう!」 僕はたちまち決意が揺らぎ、彼女に、あの男ときっぱり縁を切るための機会を3回与えた。 美晴が浮気の痕跡をすべて消したのを見て、僕はこの結婚を守り抜いたのだと、愚かにも信じていた。 だが今日、残酷な現実に思いきり頬を打たれた。 「3回が4回になったくらいで、何が違うの?彼が事故に遭ったのよ。放っておけるほど、あなたは薄情なの?」 美晴は怜央に聞かれまいと、声をひどく低めた。 僕に、何が言えただろう。 僕も事故に遭ったことか。彼は膝をすりむいただけなのに、僕は肩を10針縫ったことか。 そのとき、怜央が美晴に声をかけた。 「向こうとの話、どうなった?金を払うことになりそう?」 美晴は慌てて彼の不安をなだめた。 「あの人は大丈夫よ。あなたは安心して治療に専念して」 病床でその皮肉な呼び方を聞き、僕は笑った。 傷がどれほど痛もうと、胸の痛みの1万分の1にも及ばなかった。 美晴が僕に示した唯一の気遣いは、僕が眠っている間に、テーブルの上に山積みになった病院関係の書類へ署名したことだけだった。 けれど、少しでも書類の内容にきちんと目を通していたなら―― その中に、僕が署名を済ませた離婚届が紛れていることに気づいただろう。 第2話 その夜、傷口が炎症を起こし、熱は40度近くまで上がった。 僕はたった一人で医師を呼びに行き、会計も済ませた。 背後では、看護師たちが声を潜めていた。 「神谷さんはかすり傷なのに、恋人が特別個室へ移したんでしょう。この人はこんな状態でも一人なのね」 僕は自嘲気味に笑い、振り返った。 その瞬間、正面から現れた美晴に頬を打たれた。 「悠人、いいかげんにして! どうして私の家族カードで払ったの?怜央にあなたが夫だと知られるでしょう! ちゃんと話したじゃない?彼とは必ず別れる。でも、時間が必要なの。ここまでしているのに、まだ何が不満なの?」 ただでさえ衰弱していた僕の体は、今にも倒れそうに揺れた。 焼けつくような平手の跡が、真っ赤な両目をいっそう痛々しく見せていた。 そこでようやく美晴は声を和らげ、1歩近づいて僕を抱きしめた。「この世界で、あなたを一番愛しているのは私よ。それくらい、あなたにも分かるでしょう。 あなたが待っていてくれさえすれば、私は必ずきっぱり別れて家庭に戻るから」 誰からも疎まれる施設育ちだった僕は、美晴から大勢の前でプロポーズされたとき、自分ほど幸せな男はいないと思った。 周囲の人々は信じられないといった顔で、よくこう漏らした。 「どれだけ運がよければ、美晴みたいな奥さんをもらえるんだ?」 僕はその愛に溺れ、抜け出せなくなっていた。 あのときまでは…… 怜央が機嫌を損ねると、美晴は僕がいじめられている映像を公然と見せて、彼の機嫌を取った。そのせいで僕は財界の御曹司たちから露骨に排斥された。 怜央から電話が1本入っただけで、彼女は僕を人けのない山あいに置き去りにした。歩いて帰る途中、野生動物に襲われかけたこともある。 やがて仕打ちはますますひどくなり、美晴は怜央が深夜に電話をかけ、2人がベッドで交わす吐息を聞かせることさえ黙認した。僕は心を病む寸前まで追い詰められた。 それなのに彼女は、僕の心が狭く、少し脅されただけで大げさに騒いでいると責めた…… 頬を冷たい涙が伝い、痛みで額には汗が噴き出した。 それでも美晴は、苦しむ僕の顔を直視することを避け、ただ車の鍵を僕の手のひらに押し込んだ。 「あなたがここにいたら、怜央が落ち着いて療養できない。今すぐ退院の手続きをして」 全身が熱を帯び、目の前が何度も暗くなった。それでも僕は「分かった」と答えた。 美晴の表情が複雑に揺れた。 そのとき、佐伯(さえき)園長の携帯から電話が入った。 園長先生が心臓発作を起こし、上の階のERに救急搬送されたという報せに、僕はよろめきながら上の階へ駆け上がった。 佐伯園長の顔は紫色に変わり、息をすることさえ苦しそうだった。 医師は処置を続けながら説明した。 「さっき若い男性がやって来て口論になり、こちらの方を殴ったうえ、ひどい言葉を浴びせたんです!」 僕は思わず目を見開いた。 両親のいない僕にとって、佐伯園長は血のつながった家族以上の存在だった。 僕がよろめきながら振り返ると、怜央が美晴の背後に立っている。 「さっき、このおあさんが僕をヒモだって罵ったんだ。僕はひと言説明しただけなのに、勝手に倒れて、僕のせいにしようとしたんだ……」 怒りがこみ上げた。「嘘をつくな!」 怜央は僕をちらりと見て、体に残るわざとらしい「つねられた跡」を見せ、さらに被害者ぶった。 一方、園長先生の服からのぞく肌には、拳で殴られた痣がいくつも残っていた。 怜央が密かに浮かべた挑発的な表情を見て、僕はこらえきれず、詰め寄って彼を殴った。 だが次の瞬間、それ以上に強烈な平手が僕の頬を打った。 第3話 たちまち、口の中に血の味が広がった。 美晴は震える手を上げたまま、その目に一瞬だけ罪悪感をよぎらせた。 「どうして怜央を殴るの?あなたのいわゆる家族が先に暴言を吐いたんでしょう。それが、あなたの受けたしつけなの?」 込み上げる熱いものを必死に押し殺し、僕は彼女がそんなことを口にしたのが信じられなかった。 親のいない子はしつけを受けていない、礼儀知らずな子どもだと、誰もが決めつけていた。 かつては美晴が酒瓶を突きつけて、僕をいじめてきた連中を黙らせ、僕を嘲笑から守ってくれたくせに…… 充血した僕の目を見て、美晴の瞳に痛ましさがよぎった。だが怜央が彼女の服の裾を強く引っ張った。 「美晴が間に合ってくれなかったら、2人に死ぬまで殴られてた……」 美晴は彼が無残に傷つく姿を思い浮かべたのか、その目に嫌悪をにじませた。 「明日のチャリティーガラで、怜央にみんなの前で謝りなさい!早く誤解を解かなければ、佐伯園長があなたをかばって、怜央について根も葉もない噂を広めるに決まっている。私には分かっているのよ!」 僕は力なく首を振った。「もし謝らなかったら……」 「謝らないなら、施設への寄付は取りやめる。あなたがずっと園長先生の治療費を払っているカードも止めるわ。 よく考えて。私の援助なしで、園長先生に適合するドナー心臓が見つかるまで待ち続けられると思っているの?」 病床でますます痩せていく園長先生を見て、僕はついに折れた。 翌日のチャリティーガラで、美晴は謝罪文を僕の手に渡した。 怜央が歩み寄り、人目につかないよう僕の腕を強くつかんだ。 その顔には、変わらず笑みが浮かんでいた。 「悠人さん、謝るなら誠意を見せないと」 次の瞬間、革靴で膝裏を蹴られ、僕は無様に床へ這いつくばった。 操り人形のように、僕は謝罪文を読み上げた。 「先に手を出したのは佐伯園長です。僕が代わって神谷怜央さんにお詫びし、治療費をお支払いします……」 客席から、ざわめきが広がった。 「やっぱり親にしつけられていない捨て子は違う。平気で人を殴るなんて。美晴さんがどこを気に入ったのか、さっぱり分からない」 「育ての親があれなら、子も同じってことね。血はつながっていなくても、品のなさはそっくりだわ」 「神谷さんのほうが、よほど育ちのいい家の出に見える。高城家の婿が入れ替わるのも、もうすぐかもね」 …… 軽蔑の視線が、炭火のように肌を焼いた。 怜央は勝者のような顔で僕を見つめていた。 僕は無理に立ち上がった。高熱の下がらない体がふらつくと、美晴はとっさに1歩踏み出した。 「具合が悪いの?ひどい顔色よ」 僕がその手を払いのけると、美晴は咳払いをした。「勘違いしないで。この場を汚されたくないだけよ」 怜央は僕を支えるふりをしながら、耳元で声を落とした。 「悠人さん、お大事に。でもさっき、園長先生へのドナー心臓の提供が突然見送られたと聞いたよ。これでは、あと10年は待つことになりそうだね。 いや、園長先生があと10年生きられるかどうかも分からないか」 怜央の挑発的な顔が視界いっぱいに迫り、僕はこらえきれず、彼の首に手をかけた。 「なぜ園長先生の命を弄ぶ?」 次の瞬間、美晴は力を緩めることなく、僕を激しく突き飛ばした。 「悠人、正気なの? 謝らせたのは、少しは懲りてもらうためよ。さらに彼を傷つけていいとは言ってない!」 僕は階段から激しく転げ落ち、全身の骨という骨に細かな痛みが走った。 怜央は挑発的な笑みを少しも引っ込めず、美晴から見えないところで僕を好き放題に嘲った。 我を忘れて美晴を押しのけ、怜央へ飛びかかろうとした、そのとき―― 病院からの電話が、僕の動きを止めた。 「高城さん、佐伯さんが、先ほど突然……いなくなったんです!」 第4話 胸が強く締めつけられた。顔を上げると、怜央はますます得意げな表情を浮かべていた。 周囲から蔑むような視線を浴びながら、僕は充血した目を据え、よろめく足で彼のもとへ向かった。 「園長先生は僕にとって唯一の家族だ。二度と手を出すな」 押し殺した声は震えていた。怒りで全身が小刻みに震えていた。 人々が口々に囁き合うなか、美晴は面目を潰されたと感じたのか、僕を強く突き放した。 「悠人、いい加減にして!」 僕はそのままシャンパンタワーへ倒れ込み、無数のガラス片が肌に突き刺さった。 美晴がとっさに1歩踏み出したものの、それより先に怜央が近づき、僕を支えた。 「さすが、よく気づいたね。あの婆さんを連れ出したのは僕だよ。じゃあ、僕がどんなふうに痛めつけるか、当ててみる?」 不安で胸が激しくざわついた。気づいたときには、両手で彼の首をきつく絞めていた。 「園長先生に手を出すな!」 次の瞬間、凄まじい力で突き飛ばされ、続けざまに頬を打たれた。 「悠人、私はもう十分我慢してきたでしょう。怜央があなたに何をしたというの?自分の姿を見なさい。まるで正気を失っているわ!」 彼女の瞳に映る僕は、取り乱し、醜態をさらす男でしかなかった。 けれど僕の頭にあるのは、生死さえわからない園長先生のことだけだった。 次の瞬間、僕は手近にあったテーブルナイフをつかみ、怜央めがけて突進した。 「美晴、助けて!」 ところが美晴は怜央の前に立ちはだかり、その刃を背中でまともに受けた。 そして振り返るなり、怒りに任せてボディーガードへ命じた。 「夫はもう正気を失っているわ。100回、額を床に打ちつけさせて謝らせなさい。少しは頭も冷えるでしょう!」 僕は押さえつけられ、1回、また1回と額を床へ打ちつけさせられた。やがて額は血まみれになった。 その途中で顔を上げると、怜央が得意げに携帯を振ってみせた。 携帯の画面には、僕が育った児童養護施設のあちこちから黒煙が立ち上る様子が映り、中からは園長先生の助けを求める声まで聞こえていた。 僕は完全に取り乱した。 「離せ!美晴、頼む、ここから出してくれ!」 拘束を振りほどこうとした僕を、美晴はさらに強く押さえ込ませた。 「100回終わるまでは、ここから出さない!」 もう何もかまってはいられなかった。僕はひざまずいたまま、何度も何度も額を床へ打ちつけ続けた。流れる血が両目を塞いだ。 憎しみを込めた視線で、その場にいる全員を見渡した。 美晴の目に戸惑いがよぎり、とっさに僕へ手を伸ばした。 けれど僕はその手を力いっぱい振り払い、振り返ることなく会場を飛び出した。 背中に美晴の視線がまとわりついているのを感じた。なぜか、その気配はひどく重かった。 僕が児童養護施設へたどり着いたとき、炎はすでに屋根裏全体に燃え広がっていた。 僕は無我夢中で中へ飛び込み、震える手で必死に園長先生の縄をほどいた。 けれど園長先生は息も絶え絶えに僕へ微笑み、そのまま息を引き取った。 僕はその場に立ち尽くした。その瞬間、僕の心は完全に死んだ。 だが次の瞬間、轟音とともに突然の爆発が襲いかかり、視界は闇に呑まれた…… 一方、美晴はチャリティーガラの寄付者代表として、記者たちに囲まれながら児童養護施設を訪れた。 ところが車のドアを開けた直後、空を焦がす炎が目に飛び込み、美晴はその場で凍りついた。