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恋したのは、もう一人のあなただった
妊娠が分かって、柴崎渚(しばさき なぎさ)が一番最初に訪れたのは弁護士事務所だった。弁護士に離婚協議書を公正証書にしてもらい、離婚届の提出まで一任するためだ。 「柴崎さん、離婚協議書を公正証書化する場合、手続きにはおよそ1ヶ月ほどかかります。すべて完了しましたら、こちらで離婚届の提出も代行いたします」 渚は穏やかなに頷いた。「分かりました。よろしくお願いします。ただ、今日は夫が仕事の都合で来られないんです。私一人でも、手続きをお願いすることはできますか?」 弁護士はわずかに眉を寄せ、困ったような表情を浮かべた。「できれば、ご夫婦お二人でお越しいただくのが望ましいのですが……」 「彼も離婚には同意しています。ただ、仕事が忙しくて時間が取れないだけです。必要でしたら、今ここで電話して、先生に直接お話しさせます」 そう言うと、渚はスマホを取り出し、夫・柴崎洋介(しばさき ようすけ)の番号を押した。「もしもし。洋介、少し話したいことが――」 最後まで言い終える前に、冷え切った声が言葉を遮った。 「前にも言っただろ?好きに決めればいいって。俺は忙しいんだ。お前のことに付き合ってる暇はない」
Chapters (1)
第1章
妊娠が分かって、柴崎渚(しばさき なぎさ)が一番最初に訪れたのは弁護士事務所だった。弁護士に離婚協議書を公正証書にしてもらい、離婚届の提出まで一任するためだ。
「柴崎さん、離婚協議書を公正証書化する場合、手続きにはおよそ1ヶ月ほどかかります。すべて完了しましたら、こちらで離婚届の提出も代行いたします」
渚は穏やかなに頷いた。「分かりました。よろしくお願いします。ただ、今日は夫が仕事の都合で来られないんです。私一人でも、手続きをお願いすることはできますか?」
弁護士はわずかに眉を寄せ、困ったような表情を浮かべた。「できれば、ご夫婦お二人でお越しいただくのが望ましいのですが……」
「彼も離婚には同意しています。ただ、仕事が忙しくて時間が取れないだけです。必要でしたら、今ここで電話して、先生に直接お話しさせます」
そう言うと、渚はスマホを取り出し、夫・柴崎洋介(しばさき ようすけ)の番号を押した。「もしもし。洋介、少し話したいことが――」
最後まで言い終える前に、冷え切った声が言葉を遮った。
「前にも言っただろ?好きに決めればいいって。俺は忙しいんだ。お前のことに付き合ってる暇はない」
第1話
その直後、電話の向こうから甘えるような女性の声が聞こえてきた。
「洋介、リンゴは剥かなくていいよ。もうお腹がいっぱいだから……」
石森美波(いしもり みなみ)の声だった。
次の瞬間、通話は一方的に切られた。
渚はスマホを静かに下ろし、弁護士に微笑みかける。「……今のを聞いていただければ、分かっていただけたかと思います」
弁護士は難しい表情のまま、しばらく考え込んでいたが――やがて、小さく息を吐いた。「……分かりました。では、こちらで手続きを進めましょう」
「ありがとうございます」渚は静かに頭を下げた。
弁護士事務所を出た渚は、ようやく肩の荷が下りたような気がした。足取りも自然と軽くなる。
家に戻ると、気分は驚くほど晴れやかだった。渚は大切にしまってあったフォトフレームを取り出し、柔らかな布で一つひとつ、丁寧に磨き始めた。
その様子を見かけた使用人たちは、いつものことだというように、ひそひそと顔を寄せ合う。
「奥様って、本当にご主人様のことがお好きなのね。あの写真、1日に何度も眺めるし、フォトフレームだって毎日欠かさず磨いてるもの」
「好きでも仕方ないわよ。ご主人様は奥様のことなんて、ちっとも愛してないわ。ずっと冷たくしてるじゃない」
「そうよね。石森さんが海外にいた頃から、しょっちゅう会いに行ってたでしょう?今は帰国したから、毎日のように一緒にいるみたいだし……家にも、ほとんど帰っていらっしゃらないわ」
使用人たちの声には、渚への同情が滲んでいた。けれど、渚はそんな話など少しも気に留めなかった。
そもそも――写真に写っているのは、洋介ではない。渚が愛していたのも、最初から洋介ではなかった。
彼女が洋介と結婚した理由はただ一つ。彼が、柴崎拓海(しばさき たくみ)とまったく同じ顔をしているからだ。
洋介と拓海は、一卵性双生児だった。
渚と拓海は大学時代に出会い、恋人になった。卒業したら渚を家族に紹介し、そのまま結婚しようと拓海が約束していた。
――けれど、その約束が叶う前に、拓海は事故でこの世を去った。
あまりにも突然のことだった。最期の言葉を交わすことすらできないまま、渚は愛する人を永遠に失った。
拓海ほど深く、惜しみなく愛してくれた人がもう現れない。この先、誰かを同じように愛することも、きっとできない。
そう思った彼女は、せめて拓海と似た顔をした子供が欲しかった。その子と共に、残りの人生を歩んでいきたい――
そのために選んだ相手が、拓海の弟である洋介だった。
渚は洋介に近づき、彼と結婚するためなら、どんなことでもした。周囲が呆れるほど、時には自分でも馬鹿らしいと思うほど、必死になって彼を追いかけた。
ちょうどその頃、洋介が想いを寄せていた美波は海外へ渡っていた。家からの結婚の催促にも、洋介はうんざりしていたらしい。そんな状況もあって、洋介は渚からの結婚の申し出を受け入れた。
ただし、条件があった。
――渚のほしいものは何でも与えるが、彼女を愛することだけはできない。
あまりにも残酷で、屈辱的な条件だった。それでも渚はためらわずに頷いた。
愛など、初めから求めていなかったのだから。
洋介は、渚が自分に夢中だからこそ、あの条件まであっさり受け入れたのだと思っていた。だから、それ以上深く考えようともしなかった。
結婚式当日、彼は美波から「風邪を引いた」と連絡を受けると、迷うことなく式をすっぽかした。渚を大勢の招待客の前に残したまま、美波のもとへ向かったのだ。
結婚後も、洋介は毎週のように海外へ飛び、美波に会いに行った。しかも、その航空券を手配するのは渚の役目だった。
新居のベッドサイドには美波の写真が飾られ、書斎の一角には、彼女のために準備したという数々の品が積み上げられていた。家の裏庭にまで、美波が好きだという花を植えさせた。
そんな数々の振る舞いは、いつしか渚を社交界の笑いものにした。
けれど、渚は一度だって気にしたことがない。ただ黙って、洋介の妻としての役目を果たしていた。
唯一、彼女が徹底したのは――洋介が家に帰ってくる日、必ず彼と夜を共にしたことだった。
それさえも洋介は、渚が自分を愛してやまない証だと思い込んでいた。
彼自身が、美波を愛するのと同じように。
洋介は美波を深く愛している。顔立ちがよく、家も裕福の彼だが、美波を失うことだけを恐れている。その恐怖に縛られ、結局、気持ちを伝えることすらできなかった。
そうしているうちに、美波は別の男と付き合い、そのまま海外へ渡ってしまった。
渚は一度も自分の気持ちを説明したことがない。その必要がなかったからだ。
そして今――ようやく妊娠した。
欲しかったものは、すでに手に入った。だから、もうここにいる理由はない。
そろそろ、この結婚を終わらせる時だった。
第2話
翌朝。
長いこと家に寄りつかなかった洋介が、珍しく戻ってきた。
渚の顔を見るなり、「お前、雑炊を作るの、得意なんだろ?」と言った。
渚が口を開くより早く、洋介は続けた。「美波が食べたがってる。今すぐ作って、俺と一緒に届けに行ってくれ」
さすがに断ろうとして、渚は顔を上げた。そのとき、洋介の手首にある腕時計が目に入った。
渚の表情が、わずかに変わる。
「……いいよ。石森さんが満足するものを作る代わりに、その腕時計を私にくれない?」
洋介は驚くこともなく、当然のように腕時計を外し、渚の前に置く。
「持っていけ」
こうしたやり取りは、今に始まったことではなかった。洋介は何かにつけて渚を使い、美波のためにあれこれとやらさせた。
美波に会いに行くための航空券を手配させたり。彼女の好物を買うために、店の前に並ばせたり。あるときは、美波への贈り物を選ばせることさえあった。
渚は一度も断らなかった。その代わり、必ず何かしらの「報酬」を洋介に求めた。
長年使い込まれた万年筆。いつも身につけている腕時計。あるいは、何度も読み返された1冊の本。
どれも高価な品ではない。ただ、洋介が長く使ってきたものばかりだった。
渚は腕時計を受け取ると、大切そうに箱へしまう。その様子を見ていた洋介が、ふと口を開いた。「……そんなに俺のことが好きなのか?俺が使ってた物なら、何でも欲しいってわけか」
渚の指先が、ぴたりと止まった。
やはり、そう思われているのか。
渚がこれまで洋介に求めてきたものは、すべて拓海のものだった。
拓海が亡くなったあと、彼の遺品は洋介がすべて引き取っている。大切な兄の形見だからこそ、洋介はそれらを身近に置き、今も当たり前のように使っていた。
渚がそれらの物を集めていたのは、拓海を思い出すため。拓海の面影を、少しでもそばに残しておくためだった。
けれど、それを洋介に説明するつもりはなかった。
渚は何も言わず、ただ微笑んだ。「ええ、すごく愛しているよ」
――あなたのお兄さんを。
なぜだろう。
そのとき初めて、洋介は渚の瞳に宿った深い想いに、心を揺らされた。
ふいに、この数年間のことが脳裏をよぎる。
何を頼んでも拒まず、彼女は自分や美波のために奔走していた。
胸の奥が、わずかにざわつく。
洋介は眉間に皺を寄せ、しばらく黙り込む。やがて我に返ると、まるで先ほどの感情などなかったかのように、いつもの冷たい表情に戻った。
「……いいから、早く作れ」
雑炊を作り終えると、渚と洋介は美波が入院している病院へ向かった。
車内でふいに、洋介が昨日の電話のことを思い出した。「そういえば昨日、電話で俺に何か話そうとしてただろ。話ってなんだ?」
渚は保温ポットを抱えたまま、窓の外に視線を向けている。「大したことじゃない。もう、自分で決めたから」
あまりにもあっさりした返事に、洋介は短く「そうか」とだけ答えた。そして、少し間を置いてから言う。「美波は風邪でしばらく入院する。ここ数日、俺がそばにいてやらないといけない。だから、よほどのことがない限り、俺に連絡しないでくれ」
「分かった」渚はいつものように素直に頷いた。不満げな様子は、微塵もない。
そんな彼女を見ながら、洋介はふと考えた。
渚は昔から、自分の言うことに逆らったことがない。どんな理不尽な頼みごとをしても、渚は黙って受け入れてきた。
本当に、それほどまでに自分を愛しているのだろうか。
自分が別の女を大切にしている姿を目の前で見せつけられて、それでもなお、そばにいられるほどに。
やがて車は病院に着き、2人は美波の病室を訪れた。
渚の姿を見た美波は、目を丸くする。「私、ちょっと言っただけなのに……本当に渚さんを連れてきたの?」
渚は保温ポットを置き、器を取り出して雑炊をよそいながら、淡々と答えた。「石森さんが何気なく口にしたことでも、洋介はちゃんと覚えていますよ」
その言葉に、洋介は意外そうに渚を見た。美波のために動いた自分を、渚は責めるどころか、むしろ自分と美波の関係を応援するようなことを言ったのだ。
――それなのに。
なぜか、少しも嬉しくなかった。
胸の奥に、理由の分からない居心地の悪さが残る。洋介は眉を寄せると、渚の手から器を取った。
「もういい。お前は帰ってくれ」
「……分かった」
渚は何も聞かなかった。バッグを手に取り、あっさりと背を向ける。
病室の扉を閉める瞬間、渚は最後に一度だけ、中を振り返った。
洋介は、雑炊の入った器を手に美波のそばに座っていた。
「まだ少し熱いから、ゆっくり食べな。そうだ。お前の好きなケーキも買ってきたぞ」
美波の顔がぱっと明るくなる。「本当?あのケーキ、近くの店舗じゃ全部売り切れだったのに、わざわざ買ってきてくれてありがとう!」
渚は、そっと扉を閉めた。
振り返ることはせず、そのまま静かに、病室をあとにした。
第3話
それからの日々は、洋介の言ってた通りになった。美波の世話をするため、彼はほとんど病院を離れなかった。
会社で急ぎの仕事があれば、秘書がノートパソコンと書類を病院まで運び、洋介は美波のそばで仕事を片づける。
美波が何か食べたいと言えば、どんなものでも手に入れた。欲しい果物が海外のものなら、洋介はすぐにプライベートジェットを飛ばして買い付けさせた。届いたばかりの果物を洗わせ、その日のうちに美波の食卓へ並べる。
さらに、少しでも食事を取らせるために、ひと口食べるたびに高価なアクセサリーを1つ渡す――
そんな常識外れの話は連日トレンドに上がり、何日も大きな話題になっていた。
けれど、渚はその報道を目にしても、ただ静かに微笑むだけだった。
そして、川北大学の創立百周年記念式典の日。渚は卒業生の一人として、招待を受けていた。
大学の正門で受付を済ませたところで、人混みの中にひときわ目を引く姿を見つける。
――洋介と、美波。
まさか2人まで来ているとは思わなかった。しかも、向こうもすでに渚に気づいている。
今さら避けるわけにもいかず、渚は2人のもとへ歩いていった。
先に声をかけてきたのは、美波だった。「渚さんも、川北大学の卒業生なんですか?」
「ええ」
渚が頷くと、洋介がわずかに眉をひそめた。「卒業年度は?」
「2017年です」
その答えに、美波が目を見開く。「じゃあ……洋介のお兄さんと同じ学年じゃないですか」
そして、何かを思い出したように、さらに言葉を続けた。
「渚さんって、洋介のお兄さんとお知り合いだったんですか?確か、お兄さんには恋人がいて……すごく大切にされていたそうですよね。もうすぐ家族に紹介するところだったって聞きました。でも、残念なことに――」
そこで、美波の声が不意に途切れた。
しまった、というように顔色を変える。
「ご、ごめんなさい……」と、慌てて洋介に謝る。
拓海の死は、柴崎家の人間にとって触れてはならない話題だった。長い年月をかけて、ようやく治りかけているその傷を、あえて誰かに見せようともしない。
渚の身体が、かすかに震えた。袖の下で、爪が掌に深く食い込む。胸を直接握りつぶされるような痛みに、うまく息ができなかった。
洋介の表情も、目に見えて険しくなっていた。けれど、相手が美波では強く責めることもできない。彼は話を変えるように口を開いた。
「……もう十分見て回っただろ。そろそろ食事にしよう」
……
3人でレストランへ向かうと、洋介はメニューを選ぶ際も美波の好みを最優先にした。テーブルに並んだ料理は、どれも美波の好きなものばかりだった。
食事が始まってからも、洋介は至れり尽くせりだった。えびの殻をむいてやり、ステーキは食べやすい大きさに切り分ける。魚料理が運ばれてくれば、丁寧に骨を取り除いてから、美波の皿へと移した。
渚はその光景を前にしても、特に何も感じなかった。
食事の途中で席を立ち、洗面所へ向かったときだった。
ちょうど個室の中から、美波が誰かと電話をしている声が聞こえてきた。
他人の私生活に興味はない。渚は、美波に自分の存在を知らせるため、ドアを軽く叩こうとした。
だがその時、洋介の名前が聞こえた。
「もちろん。こうしておかないと、洋介がいつまでも私に夢中でいてくれるわけないでしょ」
渚の手が止まった。
「洋介の奥さん?ふふ。あの人が何だっていうの?洋介がこの数年、彼女をどう扱ってきたかなんて、周りの人はみんな知ってるんだから。
大丈夫。ちゃんと加減は分かってるから。押してだめなら引いてみる、なんて――そういう駆け引きは、あなたより私のほうが得意よ。洋介が私のことを好きだってことに、私は気づいてないふりをしてればいいの。そうすれば、ずっと今みたいな関係でいられるでしょう?
そうしているうちに、彼はもっともっと私を好きになる。最後には、私なしじゃ生きていられなくなるわ」
そして、少し声を潜める。
「いい?簡単に手に入るものほど、大切にされないのよ」
――なるほど。
渚は思わず、小さく笑った。美波の頭の中には、最初からそんな計算があったのか。
誰もが純粋で優しいと信じていた洋介の想い人も、どうやら本当に無垢な女性というわけではなかったらしい。
そのとき、個室のドアが開いた。美波が出てきて、洗面台の前で服を整えている渚の姿を見つける。その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……いつから、そこにいたんですか?」唇を噛み、強張った声で尋ねる。「どこまで聞きました?」
渚は答えなかった。すると、美波はすぐに続けた。「余計なことを洋介に言わないほうがいいですよ。どうせ彼は、あなたの言うことなんて信じませんから」
渚は美波の変わりようを見ても、ただ呆れただけだった。
手をハンカチで拭き取り、出口へ向かおうとする。
しかしその時、美波が渚の腕を掴んだ。
「……え?」
渚が振り返るより早く――
美波は、渚の手を引いたまま、勢いよく壁へと身体をぶつけた。
鈍い音が響く。
そして、その場に崩れ落ちると、美波は顔を歪め、涙を浮かべ始めた。
騒ぎを聞きつけ、洋介が慌ただしく駆けつけてきた。
そこで彼が目にしたのは、額を赤く腫らし、涙に濡れた美波が床に倒れ込んでいる姿だった。
そのそばには、渚が立っている。ひどく冷めた目で、ただ美波を見下ろしていた。
洋介は駆け寄るなり美波を抱き起こし、庇うように腕の中へ引き寄せた。そして鋭い視線を、渚へ向ける。
「お前が突き飛ばしたのか?」
渚が事情を説明するより早く、美波が泣き出した。
「洋介、頭が、すごく痛いの……渚さん、私のことが……嫌いみたい……」
怪我をした美波を目にして、洋介の顔が苦痛に歪んだ。
彼は美波を抱き上げると、外へ向かう。
渚も、この場を離れようとした。
しかしその瞬間、洋介が振り向きざまに、渚を突き飛ばした。
渚が立っていた場所のすぐ後ろにはちょうど階段があった。足を踏み外した身体が大きく傾き、そのまま階段を転がり落ちていく。
視界が激しく揺れた。世界がぐるぐると回り、身体中を打ちつけるたび、全身の骨がばらばらになってしまったような痛みが走る。
ようやく止まったときには、渚はしばらく起き上がることすらできなかった。
――痛い。
恐る恐る身体を起こし、床に手をつく。その手のひらに、ぬるりとしたものが触れた。
渚は息を呑んだ。
手が――血に染まっていた。
その瞬間、頭に浮かんだのは、お腹の中にいる赤ちゃんだった。
渚は震える声を絞り出す。「洋介……救急車を呼んで……!」
階段の上で、洋介は冷たく渚を見下ろした。「美波に手を出したんだ。少しくらい痛い目を見ろ」
それだけ言うと、洋介は美波を抱いたまま背を向けた。
その背中を見失った瞬間、渚の胸が張り裂けそうになった。
自分がどれほど傷ついてもいい。けれど――
お腹の子だけは守らないと。
床に広がる血が、次第に増えていく。目に焼きつく鮮やかな赤が、渚の恐怖をさらに煽った。
絶望が、押し寄せる波のように渚を飲み込んでいく。彼女は震える手で、ポケットからスマホを取り出す。何度も指を滑らせながら、ようやく救急車を呼ぶ。
住所を伝えるだけで限界がきて、彼女は意識を手放した。
……
長い、長い闇の中で――渚は夢を見ていた。
夢の中には、拓海がいた。あの頃と少しも変わらない姿で、いつものように渚のそばにいてくれた。
優しくて、穏やかで。
渚のお腹をそっと撫でながら、拓海は愛しそうに微笑んでいる。「渚のお腹の赤ちゃん、男の子かな。それとも女の子かな?
まぁ、男の子でも女の子でも、僕は大好きだよ」
そして、少しだけ楽しそうに首を傾げる。
「生まれてきたら、渚に似るかな。それとも俺に似るかな?渚に似るのがいいな。渚が世界で一番可愛いから」
陽の光を浴びた拓海の顔は、驚くほど鮮明だった。まるで、一度も渚のもとから離れたことなどなかったかのように。
渚は震える手を伸ばした。もう一度だけ、その頬に触れたい――
けれど、指先が触れたのは、冷たい空気だけだった。
次の瞬間、渚は目を開けた。白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
ここは――病院だった。
身体中に痛みが残っている。怪我をした箇所にはすでに包帯が巻かれ、ちょうど医師がその交換をしているところだった。
「目が覚めましたか?」
渚が頷くと、医師はほっとしたように息を吐いた。けれど、すぐにその表情を曇らせる。
「高い階段から落ちたと聞きましたけど、あなた、妊婦さんでしょう?これから足元には十分に気をつけないと。
幸い、赤ちゃんは無事です。旦那さんに連絡して、手続きをしてもらってくださいね」
渚は、しばらく何も答えなかった。ただ、ぼんやりと天井を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……夫はいません。私が愛する人は……もう、死んでいます」
――その直後。
バンッ、と乱暴に病室のドアが開いた。そこには、顔を険しくした洋介が立っている。
「……誰が死んだって?」
第4話
医師は2人のやり取りを、ただの夫婦喧嘩だと思ったらしく、慌てて間に入ろうとした。「お二人とも、落ち着いてください。奥様のお腹には――」
「先生」
その言葉を、渚が遮った。上体を起こし、医師のほうを向く。「お薬を取ってきてくださるんじゃなかったんですか?」
医師は一瞬、戸惑ったように渚を見た。けれど、彼女の意図を察したのか、それ以上は何も言わなかった。
「……分かりました。すぐにお持ちします」
そう言い残し、病室を出ていく。
扉が閉まると、洋介は再び渚に視線を向けた。「さっき、医者がお腹って言ってただろ。お腹がどうした?」
渚はわずかに視線を逸らした。「別に。お腹にも傷があるって話だよ」
適当に言って、その場をやり過ごそうとする。
洋介の表情がほんの少しだけ強張ったが、口調は冷たいままだった。「美波に手を出さなければ、階段から落ちることもなかったんだ。今回のことは、そもそもお前が悪い。美波に謝れ」
渚は、首を横に振った。「私は悪くないのに、どうして謝らなきゃいけないの?レストランには防犯カメラがあるでしょう。映像を見れば、何があったか分かるはずだよ」
その言葉に、洋介の顔がさらに険しくなった。「見る必要なんかない。俺は、美波を信じてる。お前は黙って謝ればいいんだ!」
渚は小さく息を吐いた。
階段から突き落とされ、身体にはまだ鈍い痛みが残っている。
お腹の子は無事だった。今の自分に必要なのは、安静にして身体を整えることだけだ。これ以上、洋介と無意味な言い争いをする気力もない。
「……謝れば、放っておいてくれるの?」
どこか力の抜けた声だった。
洋介は、その言葉に一瞬だけ眉をひそめた。
――渚の様子が、いつもと違う。
そんな違和感が胸をかすめたが、結局黙ったまま頷いた。
渚はそれ以上、何も言わなかった。ベッドを降りると、そのまま美波の病室へ向かう。
扉を開け、美波の前に立つ。
「……ごめんなさい」
そう言って、渚はすぐに洋介へ視線を向ける。「これでいい?」
返事を待つこともなく、彼女は背を向け、病室を出ていく。
あとに残された洋介が、苦い表情のまま、その背中を見つめていた。
それから数日。
入院している間、渚は看護師たちの話から、洋介と美波のことを嫌でも耳にすることになった。
洋介が美波にどれほど献身的なのか。
軽い怪我だったにもかかわらず、市内でも指折りの医師を呼び集め、いつでも美波のそばに待機させていること。美波が何か食べたいと言えば、自分の手で口元まで運んで食べさせること。トイレに行くときでさえ、彼女を抱き上げて入口まで連れて行くこと。
誰もが、洋介の一途な愛情を羨んでいた。
けれど、渚は聞こえなかったふりをした。もう、それは自分とは関係のないことだ。今はただ、身体を休めることだけを考えたい。
退院の日、すべての検査を終えたあと、医師は改めて渚に告げた。「赤ちゃんはとても元気ですよ」
渚はほっと息をつき、そっと自分のお腹に手を当てた。
しばらく迷ったあと、ふと医師に尋ねる。「先生。もし……一卵性双生児の兄弟がそれぞれ父親になった場合、生まれてくる子供は、よく似ることがあるんでしょうか?」
少し変わった質問に、医師は一瞬きょとんとした。それから、穏やかに答える。「父親の遺伝的な特徴が強く出れば、似てくる可能性はありますよ。ただ、遺伝の表れ方には個人差があります」
「……そうですか」渚は、ほっとしたように微笑んだ。「ありがとうございます」
医師に礼を言うと、渚は診察室を出た。
ところが、正面玄関まで来たところで、美波と鉢合わせる。
どうやら彼女も、今日退院するらしい。
その隣には、当然のように洋介がいた。
渚の姿を見つけると、美波はいつもの無邪気な笑顔を見せた。「渚さん。この前のことは、もう気にしてませんから。これからも仲良くしましょうね」
そして、何事もなかったような口調で続ける。
「そうそう。退院祝いに、洋介がみんなを集めてくれたんです。渚さんも一緒に行きましょう」
「いえ、私は――」
断る間も与えず、美波は渚の腕を取った。そのまま、半ば強引に車へと連れて行く。
やがて、会場となった店の個室に着くと、2人の共通の友人たちはすでに集まっていた。
その夜も、洋介は美波の世話を焼いてばかりだった。果物の皮をむいてやり、酒を勧められれば代わりに断る。美波の足元が冷えないよう、自分のジャケットをそっと膝にかける。
その様子を見ていた周囲は、羨ましそうに笑っていた。
けれど、渚だけは2人のほうを一度も見なかった。
やがて誰かが、ゲームをしようと言い出した。負けた者は、「本音を話す」か「酒を飲む」かを選ぶ。
ゲームが始まり、しばらくした頃。
渚が一度、負けた。
それまでにも美波が何度か負けていたが、そのたびに洋介が代わりに酒を飲んでいた。渚は、自分の番ではそんなことは起こらないと分かっていた。
だから、迷わず「本音を話す」という選択肢を選んだ。
誰かが、面白そうに笑い、ちらりと美波のほうを見やる。
洋介、美波、そして渚。3人の関係を知っている者は、意味ありげな笑顔を見せる。
「じゃあ、一つ聞いてもいいですか?渚さんが好きな人って――この中にいます?」
渚は顔を上げなかった。ただ、目の前に置かれたジュースを一口飲む。そして、静かに答えた。
「いません」
第5話
その場にいた全員が、一瞬言葉を失った。まさか渚から、そんな答えが返ってくるとは思わなかったようだ。
渚は洋介に夢中で、彼の頼みならどんなことでも引き受けてきた。それは誰もが知っている事実だ。しかし、そんな彼女が皆の前で「好きな人はこの中にはいない」と言った。それはまるで、洋介への気持ちを公然と否定したようなものだった。
当然、洋介の顔色もみるみるうちに悪くなった。険しい表情のまま、彼は立て続けに酒を何杯も飲み干した。
その後のゲームでも、洋介は何度も負けた。渚の「いません」という一言が、どうしても頭から離れなかったのだ。
何度か負けが続くと、仲のいい友人たちは、いつまで経っても美波に告白できない洋介の背中を押そうとした。せめて美波に彼の気持ちを気づかせようと、スマホに入っている写真や、SNSでピン留めしている投稿を見せてくれと、洋介にせがんだ。
洋介は言われるままスマホを差し出した。写真フォルダを開く。
そこにあったのは、すべて美波の写真だった。
楽しそうに笑っている姿。何か考え込むように黙っている横顔。そして、ふと撮った後ろ姿まで。
SNSアプリの最上部に固定されていたのも、もちろん美波の写真だった。
周囲がざわつく中、洋介だけはどこか上の空だった。既婚者である自分が、本当に好きなのは美波であることを公にしてしまったことにすら気づいていない。
隣にいた美波の頬が、次第に赤く染まっていく。
「洋介……私、今まで知らなかった。あなたが、ここまで私のことを……」
そこから先は、恥ずかしくて言葉にならないようで、周囲もそれをあえて追及することはしなかった。
それから、そろそろお開きという頃。
美波が、洋介にそっと身を寄せた。
「洋介、お願いがあるんだけど……最近、家の周りでちょっと気味の悪いことが続いてるの。警備員にも何日か見回ってもらってるんだけど、何も分からなくて……数日だけでいいから、うちに泊まってくれない?」
「いいじゃん、美波さんが怖がってるんだし」と、周囲も次々に囃し立てた。
その中で、渚だけは何も言わなかった。フォークでフルーツを口に運びながら、淡々と食べ続けている。
美波が自分に見せつけるために、わざとこんな芝居をしているのだから、相手にする必要はないと、渚は思った。
ところが。
美波の頼みを、これまで一度も断ったことのない洋介が、初めて口にした。
「……悪い、美波。俺は、まだ片づけなきゃならないことがあってな。あとでそっちに行くから、先に帰っててくれるか?」
そう言って運転手を呼び、美波を先に送らせる。
そして、洋介は渚の手を掴み、そのまま連れ出すと、車に乗せた。
帰り道、2人はほとんど言葉を交わさなかった。重く沈黙した車内は、息が詰まりそうなほど冷え切っていた。
家に帰ってすぐ、洋介はふと足を止めた。家の中に、見慣れない薬のボトルが増えたような気がする。
渚が妊娠してから、体調を整えるために毎日欠かさずサプリメントを飲んでいた。けれど、これまで洋介はほとんど家に帰ってこなかった。だから、気づくこともなかった。
ところが今夜は、妙に気になっていたらしい。
洋介は、探るような目で渚を見る。「お前、薬を飲んでるのか?最近はずっと?」
渚は一瞬だけ視線を泳がせた。けれどすぐに、何でもないように答える。
「体の調子がなんとなく悪いから、サプリメントを飲んでるだけ。それより、今日は石森さんのところに泊まったら?最近石森さんの家の近く、物騒なことが続いているでしょ?」
それは、長い結婚生活の中で初めて、渚が自分から洋介を美波のもとへ送り出そうとした瞬間だった。
洋介はしばらく、何も言えなかった。
渚はこれまで、どれほど都合よく扱われても文句を言わなかった。美波への気持ちを隠そうとしない自分のことも、すべて受け入れてきた。
それなのに、どうして今になって、自分を突き放すようなことをしたのだろう。
本来なら、願ってもないことのはずだった。けれど胸の奥には、説明のつかない重苦しさが残った。
そして、ふと。
洋介は、ある結論に思い至った。
「……そうか。お前、嫉妬してるんだな?だから今日もあんな答え方をしたのか。俺が最近、美波の世話ばかりして、お前を放っておいたから」
口にしているうちに、なぜか洋介の胸の奥が少し軽くなっていく。
「結婚するときにも言ったはずだ。俺には好きな人がいる。お前に妻としての立場は与えられるが、愛情だけはやれない。それに、この前の件だって、お前が悪かった。俺が美波の面倒を見るのは当然だろ。だから、もう拗ねるな。書斎にある彫刻、ずっと欲しがってただろ?あれをやるよ」
渚は説明しようとしていたが、その言葉を聞いて、口を閉じた。
その彫刻は、拓海が自ら彫り上げ、洋介の誕生日に贈ったものだった。
拓海がこの世を去ってからずっと、渚は欲しいと思っていた。何度も洋介に頼んだが、彼は手放そうとはしなかった。
それが今になって――譲ってくれると言っている。
渚は微笑み、柔らかく頷いた。「……分かった。もう、拗ねたりしない」
洋介は満足そうに口元を緩めた。
――やはり、そういうことだったのか。
そのとき、洋介のスマホが鳴った。
画面に表示されていたのは、美波の名前。
今の洋介は、もう迷わなかった。電話に出ると、そのまま家を出た。
第6話
それから数日間、洋介は一度も家に帰ってこなかった。
時折メッセージを送ってくるようになったのは美波のほうで、いつも洋介の写真や動画が添えられていた。
キッチンに立ち、料理をしている洋介の背中。ピアノを弾いて、美波に聴かせている動画。部屋を片づけるのを手伝っている姿。
それらを送ってくる理由は明白だった。
――洋介が彼女をどれほど愛しているのか。どれほど大切にしてくれるのか。
それを、渚に思い知らせるためだ。
普段の渚なら、そんな写真を見ても心が動くことはなかった。羨ましいとも、悔しいとも思わない。
けれど、拓海の誕生日の日、渚は送られてきた写真を眺めながら、ふいに胸の奥を掴まれたような気がした。
――拓海が生きていた頃も、自分に同じように優しかった。
けれど、彼がいなくなってから、自分を大切にしてくれる人は、この世にもう一人もいない。
渚は一人でケーキを作った。そして、テーブルの上に置く。
スマホを手に取ると、もう一度、美波が送ってきた写真を開いた。
画面の中にいるのは洋介。けれど、その顔を見ているうちに、どうしても拓海の姿が重なり、彼と一緒に過ごした日々が次々と胸に蘇ってくる。
渚はテーブルに突っ伏し、目を閉じた。気づけば、涙が止まらなくなっていた。
……
その夜、洋介が家に帰ってきた。
リビングへ入った瞬間、彼は足を止める。
テーブルのそばで、渚がスマホを握ったまま眠っていた。頬には、まだ涙の跡が残っている。
洋介は、わずかに眉をひそめた。ゆっくりと近づいていき、そこで、テーブルの上にあるケーキに気づく。
――渚は自分の誕生日を覚えていたのか。しかも、用意されているのは抹茶ケーキ。
彼女は自分の好みまで知っている。
これまでの誕生日は、洋介はいつも拓海と一緒に過ごしてきた。
両親は兄である拓海をより可愛がっていた。だから、洋介のためだけに誕生日ケーキを用意してくれたことなど、一度もない。
拓海が亡くなってからは、誕生日そのものを祝わなくなった。
渚と結婚してから、誕生日の日に洋介が家にいることはほとんどなかった。もしかして毎年、渚はこうして一人で、自分のためにケーキを用意していたのだろうか。
そんな考えが、胸の奥に静かに沈んでいく。
洋介は渚の隣に腰を下ろした。そのとき、うっかり彼女のスマホに触れてしまう。
ふと、視線が画面へ向かった。そこには、たくさんの写真が映っていた。
思わず彼女のスマホをそっと取り上げ、写真を一枚一枚確認していく。
保存されている写真は何千枚もあった。そして、そこに写っていたのは、すべて洋介だった。
彼の後ろ姿、横顔、笑っている顔、目を閉じて何かを考えている顔。
洋介は、黙ったまま写真を遡っていった。そして、最後の1枚まで見たとき――ふと、撮影日時に気づいた。
最も古い写真は、8年前。一方で、最も新しい写真は3年前で止まっている。
その瞬間、洋介の胸の奥で言葉にできない感情が入り混じった。
驚き。戸惑い。そして、胸の奥をかすかに温めるような感動。
――渚は、そんなに長い間、自分のことを想っていたのか。
そのとき、渚が物音に気づいて目を覚ました。ぼんやりと顔を上げ、洋介の手の中にあるスマホを見た瞬間――表情が変わる。
慌てて起き上がり、彼の手から取り戻そうとした。
けれど洋介は、それを秘密を知られた恥ずかしさだと受け取った。スマホを渚へ返しながら、わざと素っ気なく言う。「俺の誕生日を祝っていいって、許可した覚えはないぞ。それに、俺は誕生日を祝わない。そんなことも知らないのか?」
渚は、そこでようやく気づいた。
――洋介は誤解している。
けれど、渚の視線を気にすることもなく、洋介はテーブルの上のケーキを自分の前へ引き寄せた。
「今回だけだ」ぶっきらぼうに言う。「次は、こんなことするな」
そう告げたあと、少しだけ間を置いた。
「……ろうそく、つけてくれ」
渚は、しばらく迷ったが、今さら訂正するのも面倒だった。
だから彼女は、1本ずつろうそくに火を灯していき、静かにバースデーソングを歌っては、ケーキを切り分けた。
洋介に一切れ差し出しながら、そっと微笑んだ。その瞳には、深い愛情が宿っている。
目の前の顔は、拓海とまったく同じなのだから、今夜だけは、洋介と過ごしているのではなく――拓海の誕生日を、祝っているのだと思うことにした。
第7話
あの日、一緒に誕生日を過ごしてから――洋介は、少し変わった。
相変わらず大半の時間は美波と過ごしている。それでも、ほとんど毎日のように家へ帰ってくるようになった。
渚と会話を交わすことは、そう多くない。それでも、なぜか一度は渚の前に顔を出す。
そんなある日のことだった。
洋介が出ていったあと、渚は何気なく、彼が持ち帰った書類に目をやった。それは、オークションの案内冊子だった。
ページをめくっていくと、ある品の写真に目が留まる。
――クリスタルボール。
それは、かつて拓海が渚のために作ったものだった。中に埋め込まれた宝石には、2人の名前の頭文字まで刻まれている。
どうして、それがオークションに出ているのだろう。
拓海は渚への贈り物にするつもりだったから、周囲には何も話していなかった。だから、その品にどんな意味があるのか知る人もいない。
冊子に載った写真を見つめているうちに、渚の視界が滲んだ。
――絶対に、手に入れたい。
それだけを胸に、渚は急いで着替え、オークション会場へ向かった。
ところが会場に着いてみると、そこには洋介と美波の姿があった。
渚の姿を見つけた洋介も、意外そうに目を見開く。けれど、3人が言葉を交わすより先に、オークションが始まり、参加者はそれぞれ席につく。
美波は当然のように洋介の隣に座り、彼の肩へ身体を預けた。まるで、自分こそが彼の妻であるかのように。
会場内は冷房が効きすぎるほど寒かった。美波が寒そうに身を縮めるのを見ると、洋介は自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩へかけてやる。
「風邪ひくなよ」
「ありがとう、洋介」美波は嬉しそうに微笑み、それから甘えるように言った。「ねえ、洋介、今日私が欲しいものなら、何でも落としてくれるって約束してくれたでしょ?約束、ちゃんと守るのよ」
洋介は、彼女を見つめる。「もちろんさ。俺が約束を破ったことなんて、今まであったか?」
低く落ち着いた声には、いつになく優しさが滲んでいた。
美波は満足そうに唇を上げる。
その隣で、渚は2人のやり取りなど気にも留めていなかった。視線はただ、ステージの上だけに向けられている。
そして――
ついに、待ち望んでいた品が登場した。
「こちらのクリスタルボール、開始価格は2千万円からとなります」
渚は、迷わず札を上げた。
「4千万円」
そのクリスタルボールは、2千万なら妥当な価格だ。4千万円ともなれば、十分に高い。これ以上、値を上げる者はいないだろう。
ところが、美波もそれに目をつけた。
「洋介。私、あのクリスタルボールが欲しい」
洋介は一瞬も迷わず、札が上がる。
「6千万」
渚の胸が、どくりと跳ねた。経済力なら、洋介に敵うはずがない。それでも、渚は札を上げた。
「8千万」
2人はどちらも引かなかった。気づけば、クリスタルボールの価格は2億にまで跳ね上がっていた。
渚は、手元の資金が底をついたことを悟った。これ以上は、どう足掻いても競り合えない。
それでも――彼女にとってかけがえのないこの品を、どうしても手放したくなかった。
渚は意を決し、初めて洋介へ懇願するような目を向けた。
「……このクリスタルボール、私に譲ってくれない?本当に欲しいの」
渚が洋介に何かを頼むのは、これが初めてだった。
洋介の目に、わずかなためらいが浮かぶ。
しかしそのとき、美波が口を挟んだ。「洋介、私もすごく欲しいの。今日手に入れられなかったら、ずっと心残りになっちゃうよ」
その一言で、洋介の目に浮かんでいた迷いが消えた。
彼は無言で札を上げる。そして、これ以上競り合う必要すらないと言わんばかりに、落札の意思を示した。
――相手がいくら提示しても、それ以上の金額を出して必ず手に入れる。いわゆる「青天井」で競り続ける構えだった。
渚には、もう勝ち目がなかった。
第8話
オークションが終わると、美波はクリスタルボールを手に、弾むような足取りで洋介のもとへ戻ってきた。
「はぁ、思ったほど特別なものじゃなかったかも」
そう言いながら、わざとらしく手を滑らせ――クリスタルボールが床に落ちた。
ガシャーン!
透明な水晶が砕け、無数の破片となって床に散らばった。
渚は息を呑んだ。次の瞬間には、床に膝をついて、一つ、また一つと散らばった破片を震える手で拾い集めていく。
けれど、一度砕けたものは、どれだけ願っても元には戻らない。
その光景を見ているうちに、渚の胸まで同じように砕けていく。これまで、洋介にどれほど傷つけられても、どれほど冷たくされても、渚は一度だってこんなふうに泣きたくなるほど悲しいとは思わなかった。
けれど、今は違う。
底の見えない悲しみが、渚の身体をすっぽりと包み込んでいた。まるで深い深い谷底へ突き落とされ、このまま落ち続ければ、二度と戻れなくなってしまうような感覚だった。
――ただのクリスタボールなのに、譲ってくれてもよかったじゃないのか。
渚は、美波と何かを奪い合いたかったわけじゃない。洋介が欲しければ、「どうぞ」と言いたいくらいだ。
あまりにも悲しそうな彼女の様子に、洋介がようやく歩み寄った。けれど、彼には何も分かっていない。
「そんなに悲しむようなものか?ただの置物だろ。いくらでも買ってやるよ」
渚はゆっくりと顔を上げた。涙で赤くなった目が、まっすぐ洋介を見据える。もう、取り繕う気にはなれなかった。
「……これは、世界に一つしかないの」
それだけを言うと、渚は床に落ちた破片を両手で大切に抱え、その場を立ち去った。
……
それから数日間、渚は洋介を遠ざけた。
洋介が帰宅すれば、眠ったふりをする。洋介が外へ出ていったのを確認してから、自分の部屋を出る。
同じ家で暮らしているのに、2人が何日も顔を合わせていなかった。
そんなある日のこと。
洋介は、仕事仲間との飲み会で酒を飲みすぎた。いつものように、仲間たちが渚へ電話をかけてくる。「渚さん、俺たち、今トワイライトって店にいるんですけど、洋介さんを迎えに来てくれませんか?」
渚は、淡々とした口調で答えた。「私、用事で行けません。こういうこと、これからは石森さんに頼んでください」
それだけ告げると、渚は迷うことなく電話を切った。
渚の返事を聞いた一同は、思わず顔を見合わせた。そして、怪訝そうに洋介を見る。
「洋介さん、どういうことなんですか?今までなら、電話一本ですぐ迎えに来てくれたじゃないですか」
「まさか、あの渚さんがついに目が覚めたとか?」
冗談めかした言葉に、洋介は何も答えなかった。胸の中が、今までにないほどざわついている。
ふと脳裏に浮かんだのは、オークションの日、別れ際に見た渚の赤くなった目。
思い出すたびに、胸の奥を掴まれているような感覚がして、むず痒くて、痛くて、どうにも落ち着かない。
「……悪い。先に帰る」
洋介は仲間たちを振り切るように席を立ち、そのまま車へ乗り込んだ。
「家まで送ってくれ」
運転手にそう告げる。
家に着くと、渚はまだリビングにいた。まさか、こんなに早く帰ってくるとは思っていなかったのだろう。
洋介は何も言わず、持っていたバッグからいくつものクリスタルボールを取り出す。それを、渚の目の前へ乱雑に置く。
「いい加減にしてくれ。似たようなものなら、いくらでも買ってやるって言っただろ?いつまでそんなことで拗ねてるつもりだ?」
渚は目の前に並べられたクリスタルボールを見ようともしなかった。返事もしない。ただ静かに立ち上がり、その場を離れようとする。
そのとき、テーブルの上に置かれていた渚のスマホが鳴った。洋介が何気なく視線を向ける。画面に表示されていたのは――航空券の発券通知だった。
洋介が渚の手首を掴む。「飛行機のチケットを取ったのか?どこへ行く?」
渚は、できるだけ平静を装った。「家にいるのが退屈だから、しばらく旅行に行くだけだよ」
洋介は眉を寄せた。なぜか、妙な胸騒ぎがする。
詳しく聞こうとしたそのとき、ポケットのスマホが鳴った。画面を見れば、美波からの着信だった。
「……洋介」電話に出た途端、向こうから泣きそうな声が聞こえてくる。「足を捻っちゃったの……すごく痛いよ……」
その一言を聞いた瞬間、洋介の意識はすべて美波へ向かった。
さっきまで渚に何を聞こうとしていたのかすら、頭から抜け落ちる。
洋介は慌ただしく玄関へ向い、運転手に車を出してもらった。
渚が旅行に行こうとしていることは、洋介の中から、すっかり消えていた。
第9話
旅立つその日、渚は弁護士に電話をかけた。
「今日、離婚届を提出していただく予定ですよね。ほかに私が手続きをする必要はありますか?」
弁護士は、落ち着いた声で答えた。「いいえ、特にありません。本日付で、お二人の婚姻関係は正式に解消されます」
そして、少し微笑むような声で続けた。
「新しい生活が始まると思いますが、これからも何かありましたら、いつでも頼ってください」
「ありがとうございます」
電話を切ったあと、渚は心から微笑んだ。そっと、お腹に手を当てる。
――そう。今日から自分は自由の身になり、新しい生活を始めるのだ。
これからは、この子と2人で、どこか景色のきれいな場所を見つけて、拓海を想いながらゆっくり生きていけばいい。
電話を終えると、渚は必要最低限の荷物をまとめ始めた。
そして何より大切に、これまで洋介から受け取ってきた、拓海が持っていた品々を箱に詰めていく。すべてを丁寧に梱包し、荷物と一緒に運び出す。
あとは、この家を出るだけ。
そう思った矢先だった。
「……渚?」
玄関の向こうから声がして、帰宅した洋介が、ちょうど渚と鉢合わせた。
大きな荷物を抱えた彼女を見て、洋介は一瞬、足を止める。「どこへ行くのか?」
渚は前と同じ答えを返した。「旅行に行くだけだよ」
洋介の脳裏に、先日見た航空券の通知が蘇った。「行き先は?最近なら時間がある。一緒に行ってやってもいい」
渚は目を瞬いた。洋介の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかったのだ。
渚が戸惑っているのを見て、洋介自身も、自分の態度が普段とあまりにも違っていたことに気づいたらしい。
すぐに表情を引き締め、冷たい声で言った。
「この前の埋め合わせだ。だから、いつまでもあの件を引きずらないでくれ」
渚は、どう断ろうかと考えた。
ちょうどそのとき、洋介のスマホが鳴った。
画面に表示された名前を見ると、やはり美波だった。
洋介が電話に出る。電話越しに聞こえてくる彼女の声でさえ、どこまでも甘く、柔らかかった。
「洋介、話したいことがあるの。少しだけ会えない?」
普段の洋介なら、迷うことなく「分かった」と答え、すぐに車を走らせ、美波のもとへ向かったはずだ。
けれど今日、洋介は珍しく言葉を濁した。「悪い……今は取り込み中だ。また今度にしてくれないか?」
電話の向こうで、美波が息を呑む気配がした。洋介に断られたことなど、これまでほとんどなかったのだ。
しばらく間を置いたあと、美波は真剣な口調で言った。「でも……本当に大事な話なの」
洋介は眉間に深い皺を寄せた。「……分かった。今から行く」
その返事を聞いた瞬間、渚は胸の内でそっと息をついた。そして、ほっとしたことを、洋介に悟られないように視線を伏せる。
けれど、そんな渚の様子を見た洋介は、彼女が傷ついているのだと勘違いした。
軽く咳払いをしてから、気まずそうに口を開く。「……お前が俺のことがずっと好きなのは分かってる。でも、だからって美波を放っておくわけにはいかない。俺にとって、一番大事なのは美波なんだ。今回の旅行は付き合ってやれないが、また今度一緒に行ってやるよ」
洋介が勘違いしているとわかっていながらも、渚は、それを訂正しなかった。
今日から家を出るのだ。洋介が何を思おうと、もう自分とは関係ない。
洋介は黙り込んだ渚を見て、やはり落ち込んでいるのだと思ったらしい。「空港まで送る」と言って、荷物を車に積み込んだ。
……
車は高速道路を滑るように走っていく。窓の外に広がる見慣れた景色を、渚は静かに眺めていた。
この街には、もう二度と戻らない。そう考えながら、渚は心の中でこの街に別れを告げていった。
やがて、車は出発ロビーの前に停まる。渚は、拓海が使っていた物が詰まったスーツケースを一度開け、中身が無事だと確認すると、大切そうに車から下ろした。
スーツケースの中身を見た洋介は、思わず口元を緩めた。「……そこまで俺のことが好きなのか?旅行にまで俺のものを持っていくなんて」
渚が何かを答える前に、洋介のスマホが再び鳴り響いた。美波からの着信だった。早く来てほしいと催促する声が聞こえる。
洋介は電話を切ると、渚を見た。「帰ってきたら連絡しろ。迎えに来る」
渚の返事を待つこともなく、洋介は車のドアを開け、乗り込んだ。
車はすぐに走り出し、渚を残して遠ざかっていった。
洋介の乗った車が、行き交う車の流れの中に消えていくのを見届けてから、渚はようやく息をつき、安心したように微笑んだ。
――もう、帰ってこない。洋介と会うことも、もう二度とない。
渚はポケットからスマホを取り出し、あらかじめ用意しておいた新しいSIMカードに差し替える。そして、これまで使っていたSIMカードを迷うことなく折り曲げた。
彼女はあの大切なスーツケースを押して、振り返ることなく空港の中へ入った。