彼の言う「永遠」は、もういらない

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夫の神谷研(かみや けん)には、生活のあらゆる予定を優先順位ごとにきっちり振り分ける癖があった。 共有カレンダーでは、赤は変更不可、黄色は調整可能、灰色はいつ延期してもいい予定を意味している。 研の母親の誕生日は赤。 友人との飲み会は黄色。 そして、私、浅倉妙(あさくら たえ)に関する予定は、いつも灰色だった。 付き合って7年間、私はずっと、研にとって後回しにされる存在だった。 結婚記念日の日、私はレストランで、テーブルの上の蝋燭が燃え尽きるまで彼を待っていた。 けれど研は、夕食を来週に延期すると一方的に決め、ボイスメッセージを送ってきた。 「寧々さんが潔癖症で、引っ越し業者に段ボールを触らせたくないらしい。少し手伝ってくる。 君ならわかってくれるよな。今度ちゃんと埋め合わせるから」 冷めきった料理を見つめながら、私は研を問い詰めることもしなかった。 ただ、静かに共有カレンダーに残された過去の記録を開いていった。 私の胃カメラの再検査は、白井寧々(しらい ねね)の猫を迎えに行く予定のために変更されていた。 父が手術を受けた日も、彼は寧々の家の鍵を交換するために出向き、来なかった。 婚姻届を提出する日でさえ、彼は先に寧々のマットレス選びに付き添い、私は一人で役所の閉庁時間まで待たされた。 彼が変更した灰色の予定の後ろには、必ず寧々の赤い予定が入っていた。 その下のメモ欄には、たった一言だけ残されていた。 【無条件で最優先】 その一文を長い間見つめて、ようやく私は、研が以前言っていた言葉を思い出した。 「予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだ」 つまり、私の体も、私の家族も、私たちの結婚生活も――研の優先順位の中では、寧々の潔癖症にすら及ばなかったのだ。 私は共有カレンダーを削除し、離婚協議書を弁護士へ送った。 研は何もかも予定通りに進む人生が好きなら、今日から私は、彼の残りの人生のカレンダーから姿を消す。

Chapters (1)

第1章

夫の神谷研(かみや けん)には、生活のあらゆる予定を優先順位ごとにきっちり振り分ける癖があった。 共有カレンダーでは、赤は変更不可、黄色は調整可能、灰色はいつ延期してもいい予定を意味している。 研の母親の誕生日は赤。 友人との飲み会は黄色。 そして、私、浅倉妙(あさくら たえ)に関する予定は、いつも灰色だった。 付き合って7年間、私はずっと、研にとって後回しにされる存在だった。 結婚記念日の日、私はレストランで、テーブルの上の蝋燭が燃え尽きるまで彼を待っていた。 けれど研は、夕食を来週に延期すると一方的に決め、ボイスメッセージを送ってきた。 「寧々さんが潔癖症で、引っ越し業者に段ボールを触らせたくないらしい。少し手伝ってくる。 君ならわかってくれるよな。今度ちゃんと埋め合わせるから」 冷めきった料理を見つめながら、私は研を問い詰めることもしなかった。 ただ、静かに共有カレンダーに残された過去の記録を開いていった。 私の胃カメラの再検査は、白井寧々(しらい ねね)の猫を迎えに行く予定のために変更されていた。 父が手術を受けた日も、彼は寧々の家の鍵を交換するために出向き、来なかった。 婚姻届を提出する日でさえ、彼は先に寧々のマットレス選びに付き添い、私は一人で役所の閉庁時間まで待たされた。 彼が変更した灰色の予定の後ろには、必ず寧々の赤い予定が入っていた。 その下のメモ欄には、たった一言だけ残されていた。 【無条件で最優先】 その一文を長い間見つめて、ようやく私は、研が以前言っていた言葉を思い出した。 「予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだ」 つまり、私の体も、私の家族も、私たちの結婚生活も――研の優先順位の中では、寧々の潔癖症にすら及ばなかったのだ。 私は共有カレンダーを削除し、離婚協議書を弁護士へ送った。 研は何もかも予定通りに進む人生が好きなら、今日から私は、彼の残りの人生のカレンダーから姿を消す。 第1話 家に戻ると、家の中は灯りもついておらず、ひっそりとしていた。 研はまだ帰ってきていなかった。 ダイニングテーブルの上には、朝出かける前に飾った花があった。花はもう、すっかり元気を失い、うなだれている。 本来なら、記念日を彩るためのものだった。 けれど今見ると、枯れゆくその花は、私たちの結婚の行き着く先を映しているようだった。 私は玄関で灯りをつけ、うつむいたまま靴を脱いだ。 昔、研はよく言っていた。 私が家にいるかどうかは、すぐに分かる、と。 どんなに遅い時間に帰ってきても、家の中から聞こえる生活音と、灯りがついているのを見れば、家には自分を待っている人がいると分かるのだと。 けれど今になって、ようやく気づいた。 彼が好きだったのは、私じゃない。 いつも明かりが灯っていて、いつまでも自分を待ってくれる誰かがいる「家」が好きだっただけだ。 私はキッチンには向かわず、そのまま書斎へ入った。 書斎の一番奥の棚には、私の書類ケースが置いてある。 パスポート、銀行のカード、父がこの数年で受けた手術の診療記録、それから祖母が私に残してくれた小さな家の権利書…… どれも研とは関係のない、私だけのものだった。 そして、ここを離れる私が何より先に持っていくべきものでもあった。 書類をバッグにしまい終えたその時、玄関の鍵が回る音がした。 研が帰ってきた。 彼は靴を履き替えながら、うつむいたままスマホを見ていた。 眉間には、面倒ごとを片付けたあとの疲れが浮かんでいる。 車のキーを玄関の棚に置き、そこでようやく私の存在に気づいたように口を開いた。 「もう帰ってたのか。寧々さんのところ、荷物の片付けが終わった」 私は短く「うん」とだけ答えた。 彼はダイニングのほうへ視線を向け、テーブルの上の萎れた花に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。 ネクタイを緩めながら、少し困ったような声で言う。 「まだ怒ってるのか?今度埋め合わせるって言っただろ。寧々さんは一人で引っ越しだし、荷物も多かったんだ。 それに、師匠が亡くなる前に寧々さんのことを頼むって言ってた。放っておくわけにはいかないだろ」 私はバッグのファスナーを閉めた。 「ええ。放っておかなくていいのよ」 研が顔を上げ、私を見る。 たぶん、私の声があまりにも静かだったからこそ、逆に落ち着かなかったのだろう。 「妙、君……前はこんなんじゃなかったよな」 「前って、どんなだった?」 「少なくとも、俺の話を聞いてくれてただろ」 私は彼を見つめた。 7年の間、彼は約束を破るたび、必ず理由を用意していた。 寧々の猫がストレスを感じていたから、病院へ連れて行かなければならない。 寧々の家の水道管が壊れたから、様子を見に行かなければならない。 寧々のアレルギー、風邪、引っ越し、鍵の交換、不眠…… 彼女の人生は、まるでどこかで絶えず水漏れしている家のようだった。 そして研は、いつだって誰よりも早く工具箱を抱えて駆けつける業者だった。 しかし、私のほうはどうだった。 胃が痛くても、我慢すればよかった。 記念日は、あとで埋め合わせればよかった。 父の手術に立ち会えなくても、仕方がなかった。 役所の職員が帰ってしまっても、婚姻届は別の日に出せばよかった。 以前の私は、研はただ責任感が強すぎるだけなのだと思っていた。 でも後になって、ようやく気づいた。 問題だったのは、責任感じゃない。彼の中にある、明らかなえこひいきだったのだ、と。 研が近づいてきて、私の顔に触れようと手を伸ばした。 「もう怒るなよ。明日の夜、店を予約して、君が好きなあの料理屋に連れて行ってやるから」 私は体を横にずらし、その手を避けた。 彼の手は宙に残ったまま、表情がわずかに曇る。 「妙」 「私、明日は少し出かけるから」 「どこへ?」 「片付けたい用事があるの」 彼は眉を寄せた。 「俺たちの記念日より大事な用事なのか?」 その言葉が彼の口から出ると、なぜか妙におかしく感じた。 私は答えず、書類ケースをスーツケースの一番下へしまった。 研はそれを見て、ようやく何かがおかしいと気づいたようだった。 「荷物をまとめて、何をするんだ?」 「自分のものを、少し持っていくだけ」 彼はスーツケースを数秒間じっと見つめたあと、突然小さく笑った。 「もういい加減にしろよ。芝居はやめろ。結局、俺に気にかけてほしいだけなんだろ?埋め合わせるって言ってるのに、これ以上どうしろっていうんだ。 まだ気が済まないなら、明日また話そう」 彼はドアの前まで歩いてから、さらに一言付け加えた。 「そうだ。寧々さんが明日、病院で再検査を受けるんだ。君、午前中は空いてるだろ?ついでに送って行ってくれないか」 私はその場に立ったまま、静かに答えた。 「空いてない」 第2話 研が振り返ると、その目に一瞬だけ苛立ちが浮かんだ。 「そんなに大事な用事があるっていうのか?」 私は彼を見つめた。 「これからは、彼女のことを私に押しつけないで」 彼は2秒ほど黙り込んだ。 それから、まるで理不尽な要求でも突きつけられたかのように、手を上げて眉間を揉んだ。 「妙、寧々さんには頼れる身内がほとんどいないんだ。俺が少し面倒を見ることの何が悪い?君は俺の妻なんだから、少しくらい手伝ってくれてもいいだろ」 私はふと、もう言い争うことすら意味がないように思えた。 だから、ただ頷いた。 「ええ。あなたの言う通りよ」 研の表情が少し緩んだ。 きっと、また私が折れたと思ったのだろう。 でも違う。私はただ気づいただけだった。 彼の中では、私は拒むことすら許されない存在なのだと。 翌朝、研は珍しく早く起きた。 クローゼットの前でシャツを選びながら、スマホはベッド脇の枕元に置いたままだった。 その画面が一度光った。寧々からメッセージが届いたのだ。 【研さん、昨日の夜もあまり眠れなかった】 続けて、1枚の写真が送られてきた。 白い手首には、病院で点滴を受けた跡のテープが貼られていた。 研はすぐにスマホを手に取り、眉間にしわを寄せた。 【また病院に行ったのか?】 すぐに返信が届く。 【大丈夫。引っ越しで疲れただけかもしれないから。心配しないで。一人で大丈夫よ】 研はそのメッセージを数秒見つめたあと、すぐに電話をかけた。 「病院で待ってろ。すぐ行くから」 そう言ってから、ようやく私がベッドの端に座っていることを思い出したようだった。 「妙、寧々さんを送るのは君じゃなくていい。俺が行く」 私はうつむいたまま、最後の書類をケースにしまった。 「ええ」 研はカフスボタンを留める手を一瞬止めた。 私がこんなにもあっさり受け入れるとは、思っていなかったのだろう。 以前の私は、寧々のことになるたびに、長い間黙り込んでいた。 彼に「行かないで」と言いたかったからではない。ただ、私は彼の説明を待っていたのだ。 実はそういう説明が欲しくないのだ。 今までの7年間、私は一番欲しかったのは、彼が私を選ぶこと、彼が私のことを最優先にすることだった。 でも今更、彼の説明も、彼が私を選ぶことも、もういらない。 研はドアの前まで行くと、もう一度こちらを振り返った。 「今日、用事があるんだろ?」 「ええ」 「何の用事だ?」 「弁護士に会うの」 彼の動きが止まった。 私は、彼がせめて理由を聞いてくれると思っていたが、研はただ眉をひそめただけだった。まるで私がまた、彼の予定を邪魔しているかのように。 「今日じゃなきゃ駄目なのか?」 「今日、約束してあるの」 彼はスマホに目を落とした。 寧々から、また電話がかかってきた。着信音がまるで彼を急かすように響いている。 研は一瞬迷ったあと、声を柔らかくした。 「弁護士のこと、後回しにできないか?寧々さんが今、一人で病院にいるんだ。心配なんだよ」 私は彼を見た。 「研。今日は私の用事なの」 「わかってる」 彼は小さくため息をついた。 「でも、彼女には特別な事情があるだろ」 「彼女はいつも特別なのね」 研の表情が曇った。 「なんでいつも寧々さんのことで文句を言うんだ?彼女は俺の師匠の未亡人なんだ。師匠に、彼女を頼むって約束した。君だって知ってるだろ。どうして理解できないんだ?」 私はふと、3年前のことを思い出した。 父が手術を受けたあの日も、研は同じことを言った。 あの日、寧々の家の鍵が壊れた。 彼女は電話越しに泣きながら、怖いと言った。 研は私の手を握り、「寧々さんを送ったら病院へ行く」と言った。 でも私は、手術室の前で朝まで待った。 それでも、彼は来なかった。 後になって、彼はこう言った。 「君の父親には医者がついてるだろ?寧々さんは一人で家にいて、本当に誰もいなかったんだ」 選ばれなかった人間は、いつだって、選ばれた人間のために理由を探してしまう。 私はバッグを手に取り、彼の横を通り過ぎた。 研が手を伸ばし、私を引き止める。 「妙、いったい何を怒ってるんだ?」 私はうつむき、彼の手を見た。 この手は昔、役所の前で私の手を握り、「もう二度と一人で待たせない」と言った。 でもその後、彼は何度も私を待たせた。 彼の電話を、彼の約束を、いつか彼が、私を一番にしてくれる日が来るのを待った。 私は彼の指をそっとほどいた。 「怒ってなんかいない。ただ……もう待つのに疲れただけ」 ドアが閉まる瞬間、背後から彼が私を呼ぶ声が聞こえた。 でも次の瞬間、また寧々からの電話が鳴った。 彼は追いかけてこなかった。 第3話 法律事務所は家からそう遠くなかった。 弁護士の高橋誠(たかはし まこと)は私が持参した資料に目を通し終えると、顔を上げて尋ねた。 「浅倉さん。本当に離婚されるおつもりで間違いありませんか?」 「はい。決意は変わりません」 「神谷さんが同意されない場合、手続きが長引く可能性があります」 「構いません」 私は少し間を置いてから、静かに続けた。 「彼に急いでサインしてもらおうとは思っていません。彼はいつも、私が待つものだと思っているんです。だから……彼にも一度、待つ側を経験してもらおうと思います」 誠は少し意外そうな表情を浮かべた。 法律事務所を出ると、空はどんよりと曇っていた。 その時、研からメッセージが届いた。 【寧々さんが低血糖で倒れて、点滴が終わるまで付き添う】 数分後、またメッセージが届く。 【夜、帰って一緒に飯を食べよう。君の好きなスペアリブを買って帰る】 私は長い間、画面を見つめていた。 彼はいつもそうだった。先に私の心を傷つけておいて、後から食事ひとつで機嫌を取ろうとする。 まるで、自分が埋め合わせさえすれば、私がなぜ傷ついたのかなんて忘れるべきだと言わんばかりに。 家に着いた時、研はまだ帰っていなかった。 私は書斎へ入り、自分のパソコン、カメラ、仕事の資料を段ボールに詰めた。 本棚には、分厚い旅行アルバムが1冊あった。 最初のページには、付き合い始めた頃、一緒に海へ行った時の写真が貼られている。 あの頃、研は私を抱きしめながら言った。結婚したら、毎年違う街へ連れて行く、と。 その後、彼は本当にたくさんの街へ行った。 ただ、その隣にいたのは、ほとんど私じゃなく、寧々だった。 寧々は寒がりだからと、彼は彼女を南浜市へ連れて行き、砂浜で日光浴をさせた。 寧々が失恋した時には、古城市へ気晴らしに連れて行った。 私が一度「海が見たい」と言った時、彼はいつも「忙しい仕事が落ち着いたら」と答えるだけだった。 そして仕事が落ち着いた後には、今度は寧々のことがあった。 私はアルバムを閉じ、段ボールの一番下へしまった。 …… 夕方6時。 研が帰ってきた。 手にはスペアリブと果物の袋を提げていて、家に入ってきた時には笑顔さえ浮かべていた。 「腹減っただろ?寧々さんには先に帰ってもらった」 まるで自分が何かを成し遂げたような口調だった。 でも私は、彼のシャツの袖口に薄い口紅の跡がついていることに気づいた。 私が使っている色ではなかった。 研は私がまとめた段ボールには気づかず、スペアリブをキッチンへ置いた。 「寧々さん、今日はちょっと情緒が不安定でさ。ずっと迷惑をかけてるんじゃないかって気にしてたよ。あいつ、本当はすごく気を遣う人なんだ。それに、早く帰って君のそばにいてやれって言ってた」 私は彼を見た。 「そう?」 「もちろんだよ」 研は振り返って答えた。 その瞬間、私は突然、ひどく馬鹿らしく感じた。 寧々は私の記念日を奪った。 本来なら私のために使われるはずだった時間を奪った。 それなのに、まるで施しを与えるように、研を数時間だけ私のもとへ返してくる。 そして研は、それすら彼女の優しさだと思っているのだ。 その時、スマホが鳴った。 誰からかなんて、考えるまでもなかった。 寧々からだった。 研はすぐに電話に出た。 電話越しに、泣き声混じりの彼女の声が聞こえた。 「研さん……うちに、誰か入ったみたい」 研の顔色が一瞬で変わった。 「家に入るな。すぐ行くから」 彼は上着を掴み、出て行こうとした。 私は彼を呼び止めた。 「研」 彼の足が止まる。 「また何だよ」 「スペアリブ、まだ作ってないわよ」 彼は少し苛立ったように言った。 「君一人で食べればいいだろ。寧々さんのほうが緊急なんだ」 私は頷いた。 「わかった」 研はドアを開けながら、ようやく私の静けさがどこかおかしいことに気づいたようだった。 彼は振り返って私を見る。 「妙、こんな些細なことでまた考えすぎるなよ。あとで戻って、君のそばにいるから」 ドアが閉まった。 私は静まり返ったリビングに立ち尽くし、ふと、彼が以前言った言葉を思い出した。 「予定にえこひいきなんてない。ただ、重要度に差があるだけだ」 彼には時間がなかったわけではない。 ただ彼は毎回、私を削除してもいい予定として扱っていただけだった。 私はスマホを取り出し、引っ越し業者へ電話をかけた。 「明日の朝8時に来てもらえますか。はい、スーツケース一つと段ボール2箱です。行き先は空港でお願いします」 翌朝7時半。 私はスーツケースを引いて寝室を出た。 研は一晩中、帰ってこなかった。 食卓の上のスペアリブは、手つかずのまま残っていた。 果物の袋には、私が大嫌いなマンゴーが入っていた。 研は寧々が辛いものを食べられないことも、海鮮アレルギーがあることも覚えている。 なのに、私がマンゴーを食べると湿疹が出ることは、ずっと覚えられなかった。 以前は、私が彼に教えていた。 でも、その後は教えるのはやめた。 本当に相手を大切に思っている人なら、どう愛せばいいのかを何度も教えてもらう必要なんてないはずだから。 引っ越し業者が到着してから、私は最後に家の中を一通り見回した。 研と一緒に買ったものは、何ひとつ持って行かなかった。 ソファも、ダイニングテーブルも、カーテンも、あのフロアランプも。 どれも私が少しずつ選んで買ったものだった。 でも、ここに残していっても、もう意味はない。 家というものは、家具や内装だけでできるものじゃない。 帰ってきた時に「疲れた?」と声をかけてくれる人、自分が食べられないものを覚えていてくれる人、予定表の一番後ろに置いていた自分を、心の一番近くへ連れてきてくれる人がいてこそ、初めて家になるのだ。 ここには何もかも揃っている。 ただ、私だけがいなくなる。 8時40分。 ようやく研からメッセージが届いた。 【昨夜は寧々さんがすごく怖がって、警察の事情聴取にも付き添っていた。起きてるか?怒るなよ。昼には帰るから】 私は返信しなかった。 飛行機の出発時刻は午後1時だった。 弁護士の誠はすでに離婚協議書を研のメールへ送っていた。 私は搭乗前に、最後の委任状へサインを済ませて提出すればよかった。 家を出る前、私は合鍵を玄関の棚に置いた。 その下には、1枚のメモを残した。 そこには一言だけ書いてあった。 【神谷研。これから先、あなたの予定表に私の居場所はもういらない】 正午、研が家へ戻ってきた。 彼がドアを開けて最初に目にしたのは、半分空になった書斎だった。 私がパソコンを置いていた場所は、何もなくなっていた。 ベランダにあった、私が5年間育てたクチナシの鉢も消えていた。 靴箱には私の靴はなく、スリッパ1足だけが残っていた。 研は玄関に立ったまま、顔色を少しずつ失っていった。 彼は私へ電話をかけた。 出なかった。 もう一度かける。 それでも、出なかった。 そこでようやく、彼は合鍵と、その下に置かれたメモに気づいた。 その時、スマホが鳴った。 誠からだった。 「もしもし、神谷研さんでいらっしゃいますか。浅倉妙さんよりご依頼を受け、離婚協議書をお渡しするよう申し付かっております。 それから、浅倉さんは午後1時の便で出発されたとお伝えするよう言われています」 研はスマホを強く握りしめ、声を震わせた。 「彼女は……どこへ行くんだ?」 電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。 「浅倉さんは、あなたが知る必要はないとおっしゃっていました」