南風の吹く夕暮れに、さよなら

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大学入試が終わったあとのクラス会で、私たちは試験前に自分宛てに書いた手紙を、順番に読み上げていた。 高瀬怜司(たかせ れいじ)の番になると、彼は言った。 「僕が書いたのは、ラブレターなんだ」 思わず顔が熱くなり、私はうつむいた。入試が終わったら付き合おうと、彼は私に言ってくれたから。 みんなが一斉にはやし立てた。誰もが憧れる彼の心を射止めたのは、いったい誰なのか。 「絶対、紗絵でしょ。クラス一の美人だし、前からお似合いだと思ってたんだよね」 「私もそう思う!紗絵、怜司が理想のタイプだって言ってたし!」 「怜司、早く読んでよ。みんなで祝ってあげるからさ」 白石紗絵(しらいし さえ)は両手で顔を覆っていた。耳の付け根が、ほんのり赤くなった。 怜司は照れたように笑うだけで、否定しなかった。 せっかちな学級委員長がつかつかと近づき、怜司の手から手紙をさらった。 「学年トップの高瀬怜司が誰にラブレターを書いたのか、見せてもらおうか」 便箋を広げた委員長は、最初の1行に目を走らせるなり叫んだ。 「告白の相手は、紗絵だ!」 カラオケの個室が、静まり返った。直後、耳が痛くなるほどの歓声が上がる。 「クラス一の美人と学年トップって、最高の組み合わせじゃん!」 「おめでとう!」 誰かが隣の紗絵をせかした。 「ほら、紗絵も何か言いなよ!」 紗絵は顔を覆ったまま、耳までほんのり赤くして、小さな声で言った。 「怜司、私にも何も言ってくれなかったから……」 秘密がようやく明かされたかのように、はにかんだ笑みを浮かべる。 みんな笑っていた。みんな、2人をはやし立てていた。 私だけが、ただ呆然とそれを見ていた。頭の先から足元まで、冷えきっていた。

Chapters (1)

第1章

大学入試が終わったあとのクラス会で、私たちは試験前に自分宛てに書いた手紙を、順番に読み上げていた。 高瀬怜司(たかせ れいじ)の番になると、彼は言った。 「僕が書いたのは、ラブレターなんだ」 思わず顔が熱くなり、私はうつむいた。入試が終わったら付き合おうと、彼は私に言ってくれたから。 みんなが一斉にはやし立てた。誰もが憧れる彼の心を射止めたのは、いったい誰なのか。 「絶対、紗絵でしょ。クラス一の美人だし、前からお似合いだと思ってたんだよね」 「私もそう思う!紗絵、怜司が理想のタイプだって言ってたし!」 「怜司、早く読んでよ。みんなで祝ってあげるからさ」 白石紗絵(しらいし さえ)は両手で顔を覆っていた。耳の付け根が、ほんのり赤くなった。 怜司は照れたように笑うだけで、否定しなかった。 せっかちな学級委員長がつかつかと近づき、怜司の手から手紙をさらった。 「学年トップの高瀬怜司が誰にラブレターを書いたのか、見せてもらおうか」 便箋を広げた委員長は、最初の1行に目を走らせるなり叫んだ。 「告白の相手は、紗絵だ!」 カラオケの個室が、静まり返った。直後、耳が痛くなるほどの歓声が上がる。 「クラス一の美人と学年トップって、最高の組み合わせじゃん!」 「おめでとう!」 誰かが隣の紗絵をせかした。 「ほら、紗絵も何か言いなよ!」 紗絵は顔を覆ったまま、耳までほんのり赤くして、小さな声で言った。 「怜司、私にも何も言ってくれなかったから……」 秘密がようやく明かされたかのように、はにかんだ笑みを浮かべる。 みんな笑っていた。みんな、2人をはやし立てていた。 私だけが、ただ呆然とそれを見ていた。頭の先から足元まで、冷えきっていた。 第1話 「森川夕花(もりかわ ゆうか)、何ぼうっとしてるの?ほら、席を空けて!」 誰かが私の名前を呼んだ。反応する間もなく腕を引かれ、立たされる。みんなはさっきまで私がいた席――怜司の隣に、紗絵を押しやった。 全身が冷え切るって、こういうことなんだ。真夏だというのに、個室の冷房は18度。しかも私は、冷たい風が吹きつけるエアコンの真下に立っている。体のどこにも、ぬくもりなんて残っていなかった。 去年の今日を、懸命に思い出す。 校舎の廊下の曲がり角で、怜司は私の行く手をふさいだ。口元の笑みを抑えるようにして、こう言ったのだ。 「夕花、入試が終わったら、付き合おう」 入試が終わったら、付き合おう。 その言葉を、私はもう一年近く、何度も心の中で繰り返してきた。 あのときの表情も、言葉のひとつひとつの響きも、曲がり角に差していた光も、漂っていた石けんの匂いも。何もかも、はっきりと。 けれど今、はやし立てるみんなの向こうで、怜司は少しかがんで紗絵の話を聞いていた。ずっと笑みを浮かべたまま。 不意に、学級委員長に肩をたたかれた。 「森川もスマホのライトつけて、上に掲げてよ。みんなで2人を祝うんだから!」 そのとき初めて、部屋の明かりが消えているのに気づいた。みんなスマホのライトをつけ、2人を囲んでいた。 目の奥が熱く、痛い。声が震えないようこらえながら、私は言った。 「ちょっと、お手洗い」 逃げるように部屋を飛び出した。洗面台で冷たい水を顔にかけて、ようやく胸の鈍い痛みが少しずつ引いていった。 トイレのドアが開き、紗絵と隣の席だった長谷川真帆(はせがわ まほ)が入ってきた。個室には入らず、洗面台に寄りかかって、小首をかしげながら私を眺める。 「あれ、こんなところでこっそり泣いてたの?」 私は何も答えず、蛇口を閉めた。 「自分の立場、わかってない人っているよね。どう頑張ったって釣り合わないのに」 そう言ってから、真帆はゆっくりと付け足した。 「紗絵と怜司は、住む世界が同じなの。あんたには無理。諦めなよ」 真帆が出ていき、ドアが閉まると、また私だけになった。 洗面台に両手をついて、鏡に映る自分を見る。平凡で、どこにでもいるような顔だった。 だから、怜司への想いは誰にも悟られぬよう、完璧に隠し通してきたつもりだ。 彼のほうからあの言葉をくれなければ、きっと私は学生時代を通して、成績表の順位が彼に近づく、それだけのことで密かに胸を躍らせていられたはずなのに。 こんなに惨めな思いをせずに、すんだのに。 第2話 気持ちを落ち着かせて個室のドアを開けると、ちょうど帰ろうとしていた怜司と紗絵に鉢合わせた。 怜司が口を開く。今夜、私に向けた最初の言葉だった。 「紗絵を送ってくる。みんなは続けてて」 私は何も感じないまま、うなずいた。 「森川は、どこの大学に出願したの?」 学級委員長の声が部屋中に響いた。 「成績いいし、ずっと央星大学に行きたいって言ってたよね。試験、どうだった?」 今度は全員の視線が私に集まった。ドアのところまで行っていた怜司も。 自分の声が、静かに響くのを聞いた。 「央星には行かない。凪瀬大学に行きたいんだ」 央星大学は、初めから怜司の夢だった。私の夢ではなかった。 怜司の足が止まった。 ほんの一瞬だけ。 紗絵が袖を引くと、彼は何事もなかったように一緒に部屋を出ていった。 彼が本気にしていないのはわかっていた。あれだけ長く自分を追いかけてきた私が、諦めるはずはない。その自信があるのだ。 主役の2人が帰っても、騒ぎは続いた。歌い始める人、じゃんけんで盛り上がる人、集まってトランプをする人。 ソファに座っていると、スマホがまた震えた。見ると、塾の先生からの確認メッセージだった。明日までに、出願校最終確認を済ませるようにと書かれている。 画面を消した。私の中では、もう答えが出ていた。 お開きになってから、私は1人で歩道をゆっくりと家へ向かった。マンションの前まで来たところで、私は足を止めた。怜司が、そこに立っていた。 足音に気づいた怜司が、顔を上げた。 目が合った。中学2年の頃から見つめてきた、世界でいちばんきれいだと思っていた瞳が、今夜はなぜか、知らない人の目のように見えた。心臓がドクンと大きく跳ねた。 けれど、今度はときめきではない。 胸が、痛かった。 「帰ったんだ」 私たちの家は、廊下を挟んで玄関が向かい合っている。 私は3歩ほど離れたところで立ち止まり、うん、とだけ答えた。 「怜司」 呼び止めると、彼が振り返った。ふわりと香水が匂う。少し頭がくらむほどの、紗絵の香りだった。 私は尋ねた。 「今夜のあの手紙……どういうこと?」 街灯の下で、怜司の表情がわずかに変わった。気まずさが一瞬、顔をよぎる。 「学級委員長が読んだだろ」 「あなたが書いたんだよね」 「うん」 「本当に、紗絵に宛てて書いたの?」 「そうだよ」 そこまで答えると、彼の声に急に苛立ちがにじんだ。 「余計なことは考えなくていい。約束は守るから」 「約束?」 思わず乾いた笑いが漏れた。 「私に何を約束したの?」 彼がわずかに眉をひそめた。 私は大きく息を吸った。 「今夜、学級委員長があの手紙を読んでも、止めなかったよね。みんながあなたと紗絵をはやし立てていたときも、ひと言も否定しなかった。そのうえ家まで送って、あんなに長く2人きりでいて」 少し顔を上げて、彼を見た。 「最初から最後まで、私のことなんて一度も見なかった。 凪瀬大学に出願するって言ったときだけは見たけど。あれは私を見ていたの?それとも、まだ自分を追いかけてくるか確かめていただけ? 怜司、入試が終わったら付き合うっていう約束は、嘘だったの?」 彼の目を見つめているうちに、こらえきれず涙がこぼれた。 怜司は顔を上げ、眉を寄せたまま、しばらく何も言わなかった。 そのとき、彼の口元に気づいた。街灯はそれほど明るくなかったけれど、口の端についた薄い赤い跡は見えた。 今夜、紗絵がつけていたリップと、まったく同じ色だった。 私の視線に気づいた怜司が、一瞬動きを止めた。すぐに手で口元をぬぐい、その手に目を落としてから、ポケットに戻した。 私はうつむいた。どうしても声が詰まった。 「もう、わかった」 束の間、空気まで動きを止めたようだった。 次に口を開いたとき、彼の声は柔らかくなっていた。 「夕花、そういうことじゃないんだ」 少し間を置いて、続けた。 「約束をなかったことにするつもりはない。ただ、紗絵は……」 第3話 彼は黙り込んだ。 なんだか、おかしかった。こんなに長く好きだった人には、自分の本心を認める勇気さえなかったのだ。 もう、この人に何かを言い続ける気にはなれなかった。 階段に向かおうと背を向けると、腕をつかまれた。 「そうやって、僕を追い詰めるんだね」 心底失望したとき、人は取り乱さない。その瞬間、初めてわかった。 私は怜司のスマホを取り上げた。彼が反応するより先にケースを外し、背面との隙間から紗絵の証明写真を抜き取る。 掲示されていた順位表からちぎり取ったような写真だった。大切にしまっていたのだろう。傷ひとつついていない。 入試が終わった日、偶然目にしたものだ。友達同士で交換した写真かもしれない。たまたま拾っただけかもしれない。自分をだます理由をいくつも探したけれど、どれも苦しい言い訳にしかならなかった。 それ以来、あの写真のことは考えないようにしてきた。今、このときまで…… 手の震えを、うまく止められなかった。 「本当に、私の思い違い?紗絵が好きじゃないって、言えるの?」 彼を見据えて、答えを待った。 けれど怜司は一瞬あっけに取られただけで、すぐに私の手から写真を取り返した。そして、写真の端を、傷つけないようにそっと整えた。 心が、一気に底まで沈んだ。 目の前の人に期待するものは、もう何もなくなった。 踵を返して、階段を上った。ほとんど同時に、背後で足音がした。彼が追いかけてきたのは、たった1歩。さっき個室でそうしたように、それきり足を止めた。 私の名前を呼ぶ声がした。 今度は、振り返らなかった。 …… 部屋に入った途端、床にしゃがみ込んだ。体から力が抜けていた。長いことそのままでいて、しびれた脚をどうにか伸ばし、ようやく立ち上がった。 机の隅にある卒業写真に目が留まった。手に取って、じっくりと眺める。みんなの中で、怜司は隠そうともせず紗絵を見つめていた。優しく、まっすぐに。 その隣には、私と怜司だけで撮った写真があった。彼の顔には、何の感情も浮かんでいない。仕方なく撮影に付き合っただけなのが、隠しようもなく伝わってきた。 好きか、そうでないか。写真には、こんなにはっきり写るのだ。 写真を裏返して机に置いた。そうすれば、胸に込み上げる切なさまで押さえ込めるような気がした。 そのとき、パソコンのメッセージアプリのアイコンが光った。どうやら、怜司は私のパソコンでログインし、そのままログアウトを忘れていた。 引き寄せられるようにトーク画面を開いた。紗絵からだった。 【央星大学に出願した?】 怜司はすぐに返した。 【うん】 少しして、紗絵から嬉しそうな顔の絵文字と、メッセージが届いた。 【怜司、私のところに来てくれてありがとう】 そこで突然、アプリがログアウトされた。私のパソコンでもログインしたままだと思い出したのかもしれない。 画面の前で長いこと動けずにいた。頬が冷たく濡れていることに、遅れて気づいた。 どうして忘れていたのだろう。芸術系の進路を目指す紗絵の夢も、央星大学だった。 彼が央星を選んだ理由は、初めからずっと紗絵だったのだ。私は追いかける相手を間違えた。招かれてもいないのに、2人の世界に無理やり入り込んでしまった。 手の甲で乱暴に涙をぬぐっても、視界はぼやけたままだった。 机に広げた出願要項を、夜風がめくっていく。紙は1枚ずつゆっくり動き、最後のページで止まった。 その最上段には、央星大学の学校紹介だ。 誰もが知る通り、総合評価では凪瀬大学の方が央星大学より遥かに格上だ。学びたい分野だって、本来なら凪瀬にある。 それでも私が迷わず央星を選んだのは、ただ怜司がいたから。 今、その央星を諦める理由も――やはり怜司だった。 凪瀬大学の出願登録サイトは、まだ開いたままだった。 しばらく黙って画面を見てから、覚悟を決めたようにキーボードをたたいた。 確定しようとすると、画面に確認メッセージが表示された。 【登録内容をご確認ください。送信後は変更できません】 私はためらわず、【確定】を押した。 第4話 ピコン、と澄んだ通知音が鳴り、画面に文字が表示された。 【出願情報の登録が完了しました】 それを見ている自分が、驚くほど穏やかだった。 彼と同じ街ではない。 彼を見かけたり、彼の話を耳にしたりするかもしれない大学でもない。 机の端には、付箋が貼ってあった。かつて私が、丁寧に書き写した言葉。 【あなたのいるほうだけを、目指していたい】 その言葉に支えられて、私は迷いもなく彼を追いかけていた。 長い、長い時間、その1行を見つめた。 最後は、ごみ箱に捨てた。 …… 翌朝、玄関のドアを開けると、向かいのドアも開いた。怜司がすっと背筋を伸ばして立っている。手には、まだ温かそうな朝食の袋があった。 少しぎこちない顔で、彼は袋を差し出した。 「1人分、多く買っちゃったから」 聞き覚えのある言葉だった。前は、私がよく口にしていた。 袋にちらりと目を向けたが、受け取らなかった。 「いらない」 自分でも淡々とした声だと思った。 彼はゆっくり手を引っ込めた。 「昨日は、態度が悪かった」 私は目を伏せた。 「そんなこと、言わなくていい。もう私には関係ないから」 「夕花!」 怜司がさらに何か言いかけたとき、彼の母親の恵理(えり)さんが部屋から出てきた。 「夕花ちゃん」 そばに来て、親しげに私の手を取る。その目には、抑えきれない期待が浮かんでいた。 恵理さんは、小さい頃から私をとてもかわいがってくれた人だ。怜司と同じように突き放すことはできず、私はきちんと挨拶した。 恵理さんは挨拶を返すと、にこやかに言った。 「ご縁ってあるものね。夕花ちゃんも怜司も央星に行くんでしょう?お互い助け合えるし、おばさん、すごく安心だわ」 私は口を開きかけた。出願校を変えたことを、どう伝えよう。 けれど恵理さんは怜司をちらりと見て、意味ありげに続けた。 「昔から仲がよかったものね。大学でも、この子を見ていてくれる?変な遊びを覚えたりしないように」 2人をくっつけたいのだと、言葉の端々から伝わってきた。 居心地が悪くなって、私は口を挟んだ。 「おばさん、実は私……」 急に怜司が眉を寄せた。 「母さん、考えすぎ。夕花だって自分の勉強で忙しいんだから」 央星には出願していない。そのひと言は、出てこなくなった。気持ちを顔に出さないよう、恵理さんにどうにか笑いかける。 「そうですね。これからは、あまり会わなくなると思います」 凪瀬大学と央星大学は、ここからまったく反対の方向にある。お互い、はるかに離れた場所だ。 怜司がじっと私を見た。その視線を無視して、私は続けた。 「用事があるので、もう行きますね。また今度、お話ししましょう」 逃げるように階段を下りた。 胸の違和感は、すぐには消えないだろう。それでも、この実らない恋が早いうちに終わってよかったと、思わずにはいられなかった。 相手を間違えた恋は、思い出にしてしまうのがいちばんだ。 …… 前期試験を終えて間もなく、凪瀬大学から思いがけない連絡が入った。成績優秀者のみに案内される「春期特別研修プログラム」への招待だった。 それからの数日は、荷造りをして過ごした。服を畳んでスーツケースに入れ、好きな本を1冊ずつきちんと並べる。そんな作業をしているうちに、ずっと胸の奥で続いていた痛みが、少しずつ和らいでいった。 出発するまで、怜司とは一度も会わなかった。 半月後、合宿中に怜司から電話がかかってきた。少しためらってから、通話ボタンを押した。 向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。 「夕花、央星の合格通知が届いたんだけど。配達の人、夕花の分はないって」 「ないに決まってるよ」 私は静かに言った。 「央星には、出願してないから」