第1章
私、篠原寧音(しのはら ねね)が、夫の篠原智景(しのはら ともかげ)と結婚してから3年が経つ。
けれど不思議なことに、私たちが夫婦で出かける時には決まって、共通の友人である森園茜(もりぞの あかね)が、当たり前のような顔をしてついてきた。
そして、街の人々から「夫婦」だと勘違いされるのは、いつも夫と茜の方だった。
休日に買い物をすれば、店員は二人にカップル限定のサービスを勧め、お洒落なレストランでは、夫婦向けの記念日コースを案内される。
旅行先で「本当にお似合いのご夫婦ですね」と微笑む通行人からカメラを渡され、二人の記念写真を撮らされるのは、本当の妻である私の役目だった。
最初は私も戸惑い、傷ついた。
けれど、智景は決して誤解を解こうとはしない。
いつも茜が、「もう、私たちって雰囲気が似てるから勘違いされやすいのよ。寧音、気にしないでね?」と笑って場を収めるだけ。
その言葉を信じて、私は何度も自分の心に蓋をしてきた。
転機が訪れたのは、年に一度開かれる、篠原家の盛大な親族の集まりでのこと。
「今年こそ、正式に妻として一族に紹介する」
そう言ってくれた智景のために、私は3ヶ月前から作法を学び直し、必死に準備を重ねて義父母の待つ本邸へ向かった。
しかし、屋敷に着くなり、義母の貴子(たかこ)が満面の笑みで手を握ったのは私ではなく、またしてもついてきた茜だった。
「いらっしゃい!まあ、智景が今日正式に紹介したい相手って、やっぱり茜ちゃんのことだったのね!
昔から、見れば見るほどお似合いの二人だと思っていたのよ」
私が智景の本当の妻だとは夢にも思っていない親戚たちも、それに同調して場が盛り上がる。
「智景と茜ちゃんは、本当に長年連れ添った夫婦みたいだな」
広間に、どっと楽しげな笑い声が響き渡る。
私は一人、その場に立ち尽くし、すがるような思いで智景を見つめた。
せめて彼だけは、否定してくれると信じて。
だが彼は、否定するどころか、照れたように笑う茜の耳元にかかった髪を、愛おしそうに指で払い、耳にかけてやったのだ。
その瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。
ああ、やっとわかった。
彼は、面倒だから周囲の誤解を解かなかったわけじゃない。
彼の心の中で「本当の妻」であるべき女性は、最初から私ではなかったのだと。
――ならもう、私があなたの妻でいる必要、ありませんよね?
これは、愛を信じ、居場所を失った私が、偽りの夫婦ごっこを終わらせて新しい未来へと歩き出すまでの物語。
第1話
篠原家の本邸の豪奢なエントランスで、私は完全に空気と化していた。
義母は、茜の手をしっかりと握りしめ、まるで本物の娘を可愛がるように長々と褒めちぎっている。
ひとしきり盛り上がった後、彼女はふと、その後ろで静かに立ち尽くしている私にようやく視線を向けた。
「あら?そちらの方は?」
「あ、私は――」
私が名乗ろうと唇を開きかけた瞬間、智景が横からすっと手を伸ばし、私の持っていた手土産の紙袋をひったくるように奪い取った。
「ああ、こいつは茜の友人ですよ。今日は茜の荷物持ちとして手伝ってくれたんです」
――荷物持ち。
その短すぎる一言が、私の3年間という結婚生活を、いとも容易くゴミ箱へ蹴り落とした。
義母は私にはもう微塵も興味を示さず、嬉々として紙袋から豪奢な装丁の木箱を取り出した。
「まあ!これ、主人がずっと探していた幻の銘茶じゃないの!
それに、こっちは私が欲しがっていた血圧を安定させる特注のサプリメント……!
茜ちゃん、主人の好みや私の体調のことまで、こんなに気遣ってくれていたのね!」
それを聞いた茜は、一瞬だけきょとんとしたが、すぐにその美しい顔に柔らかな笑みを浮かべ、つつましく頷いた。
「ええ。お気になさらないでください。当然のことをしたまでですから」
胸の奥が、ギリッと音を立てて軋んだ。
その茶葉は、私が知人に頼み込み、遥か遠方の産地からようやく取り寄せた希少な品だ。
サプリメントだって、義母の体調を調べ上げ、1ヶ月も前から特別に手配して準備していたものだった。
結婚してからの3年間、智景は私を一度も両親に会わせようとはしなかった。
「篠原の家は格式を重んじる。君のような一般的な家柄では、親族がすぐには受け入れられない。俺が上手く立ち回るから、もう少し時間をくれないか」
その言葉をずっと信じていた。
いつか彼らに認められ、光の当たる場所で堂々と「お義父様、お義母様」と呼べる日が来る。
そう信じていたからこそ、会ったこともない義父・宗介(そうすけ)の好む茶の銘柄を覚え、義母の健康を誰よりも気遣い、見えないところで尽くし続けてきたのだ。
「本当に、この子は昔から気が利くのよねえ」
義母は愛おしそうに、茜の手をぽんぽんと撫でた。
その贈り物を、本当は誰が、どんな思いで用意したのか。
誰も問わない。
私がなぜ、こんな入り口にポツンと立ち尽くしているのか。
誰も関心を持たない。
……
広々としたダイニングルームに通されると、茜は当たり前のように智景の隣に腰を下ろした。
一方の私は、まるで部外者のように一番遠い下座へと追いやられていた。
前菜が運ばれてくる直前、智景は少しだけ席を立つと、私の腕を掴んで部屋の隅へと引き寄せた。
「……さっきの玄関でのこと、これがあなたの言う両親への挨拶なの?」
私が小声で問い詰めると、彼は悪びれる様子もなくため息をついた。
「前に母さんが、俺と茜のツーショット写真を見て彼女だと勘違いしちゃってさ。
母さんは心臓があまり良くないだろ?だから今日は、とりあえず話を合わせておいてくれないか」
「でも――」
「いいか?いくらここで茜を妻だと思わせたところで、俺たちがすでに籍を入れている事実に変わりはないんだ。少しの間だけ我慢してくれ」
私が反論する隙も与えず、彼はさっさと席へ戻り、茜のために優しく椅子を引いてやった。
食事が始まると、智景の目は茜に釘付けだった。
茜の皿から彼女の苦手な食材をごく自然に避け、メイン料理も彼女が食べやすいように、わざわざナイフで一口大に切り分けてから彼女の前に置き直してやる。
茜が「少し胃が痛いかも……」と呟いただけで、彼は即座にスープの温度を確かめ、使用人に胃薬と温かい白湯を持たせた。
「だから、胃の調子が悪い時は冷たいものを飲むなと言っただろう?」
口調こそ咎めるようだったが、その手つきも眼差しも、甘やかでとろけるように優しかった。
――結婚2年目のことだ。
私が39度の高熱を出し、ベッドの中で彼のシャツの裾を握りしめて「病院に連れて行ってほしい」と懇願した日があった。
だが彼は、ベッドサイドに解熱剤の箱をポンと置いただけだった。
「今日はどうしても外せない重要な会議があるんだ。とりあえずその薬を飲んで、自分でなんとかしてくれ」
そう言い残して去った彼。結局、意識が混濁した私を見かねて救急車を呼んでくれたのは、隣に住む住人だった。
けれど、恋人だった頃の智景は違った。
雨の日に私が足を捻挫した時、彼は高級なスーツが濡れるのも構わず、私をおぶって2キロもの道のりを歩いてくれたのだ。
病院に着く頃にはずぶ濡れだったのに、しゃがみ込んで私の足を優しく撫でながら、こう言ってくれた。
「俺がいるんだから、もう一人で無理して強がらなくていいんだよ」
……ああ、そうか。
今、彼が心から大切に想い、守りたいと願う相手は、もう私ではないのだ。
食後、満ち足りた空気の中で、義母がベルベットの小箱を取り出した。
「茜ちゃん。これはね、篠原家の正妻に代々受け継がれてきた指輪なのよ」
義母は満面の笑みで、そのアンティークの指輪を茜の薬指にはめた。
茜は頬を赤らめ、「こんな大切なもの……!」と遠慮がちに外そうとする。
しかし智景は、そんな彼女の細い手をそっと包み込むように押さえた。
「いいんだ。母さんが喜ぶから、今日は着けたままにしておいてよ」
そのやり取りは、誰がどう見ても本物の家族だった。
智景の言葉に、茜がはにかみながら「お義母様」と微笑みかける姿は、あまりにも自然で。
私はふと視線を落とし、自分の空っぽの指先を見つめた。
「両親に認めてもらえたら、その時は俺の手で、篠原家に伝わるあの指輪を君に贈るから」
入籍したあの日、彼が私に誓った甘い約束。
その言葉だけを信じて待ち続けた3年間は、一体何だったのだろう。
それだけでは終わらず、義母はさらに分厚いアルバムを持ち出し、茜がどれほど篠原家と親密な関係を築いているかを私に見せつけてきた。
ページをめくると、お盆の墓参りや義父の誕生日祝いなど、家族の重要行事には必ず茜の姿がある。
そして、一枚の家族写真。
茜が智景の腕に親しげに絡みつき、義父と義母の間に立って微笑んでいる。
写真の日付は、去年の大晦日だった。
――あの日、智景は「急な海外出張が入った」と言って家を出た。
私は彼が帰ってくるかもしれないと、一人で二人分の年越し蕎麦を用意し、大晦日の夜から元日の朝までずっと待ち続けていたのだ。
年が明けた瞬間に送った【あけましておめでとう】のメッセージ。
彼から【ああ】という素っ気ない返信が来たのは、それから6時間も経った後だった。
アルバムを閉じた義母が、思い出したように私の両親の職業を尋ねてきた。
「両親は早くに他界し、祖母に育てられました」
そう答えた途端、彼女の顔からスーッと笑顔が消えた。
「……なるほど。そういうことね」
第2話
義母は値踏みするような冷たい視線を私に向けた。
「智景の隣に立つ女性は、家柄も教養も申し分ないお嬢様でなければならないの。
あなたみたいな出自の人が、茜ちゃんのお友達でなければ、篠原の家と関わることなんて一生なかったでしょうね」
そして、ひどく残酷な提案を口にした。
「でも、せっかく茜ちゃんの大親友なのだから、二人の結婚式ではぜひブライズメイドを務めてちょうだいね」
私は無言で智景を見た。
彼は茜のグラスに水を注ぐのに夢中で、私の方など一瞥もくれなかった。
帰り際、智景は当然のように高級ブランドのドレスカバーを私に押し付けてきた。
「これ、茜が明日着る予定のドレスだから。帰り道にクリーニング屋に出しておいてくれ」
私は何も言い返さず、それを受け取った。
彼に背を向け、一人で帰る道すがら、私はスマートフォンを取り出した。
3年前に彼との結婚のために辞退した、遠方の都市でのビッグプロジェクト。その責任者だった人物の連絡先を呼び出し、メッセージを打ち込む。
【結城社長、ご無沙汰しております。以前お話しいただいたチーフデザイナーのポジションですが、まだ空きはございますでしょうか?】
送信ボタンを押した瞬間、私の中で何かが完全に冷え切ったのがわかった。
……
数日後、事態はさらに信じられない方向へ動いた。
すっかり茜を「未来の嫁」だと信じ込んだ義父母は、結婚式の準備を主導するため、なんと私と智景が暮らす都心のマンションへ数日間滞在すると言い出したのだ。
それを知った智景は、私に冷酷な命令を下した。
「母さんが数日マンションに寝泊まりすることになった。俺たちが結婚している痕跡を、完全に消しておいてくれ」
彼の指示通り、自分の私物を片付けるために主寝室の扉を開けた私は、思わず立ち尽くした。
壁に飾られていたはずの私たちのウェディングフォトは、すでに取り外されていた。
代わりに飾られていたのは、智景と茜が雪山のふもとで寄り添う旅行の写真だった。
茜が彼の肩に頭を乗せ、幸せそうに笑っている一枚。
――その写真をカメラを構えて撮ったのは、他でもない私なのに。
私がこだわって選んだベッドカバーも、オーダーメイドのカーテンも、リビングの食器もすべてそのままだった。
後日、マンションにやってきた義母は、私が窯元で買い付けた手作りの陶器の皿を撫でながら、感嘆の声を上げた。
「本当に茜ちゃんはセンスが良いわねえ。
部屋のインテリアも温かみがあって素敵。智景、こんなに家庭的な奥さんをもらえてあなたは幸せ者ね」
このマンションの空間デザインも、家具の配置も、すべて私が彼との生活を夢見て一から作り上げたものだ。
智景はその事実を痛いほど知っているはずなのに、ただ嬉しそうに笑って頷いた。
「ええ。彼女が俺たちのために、一生懸命選んでくれたものですから」
義母はウォークインクローゼットを開けるなり、そこに女性物の服が並んでいるのを見て眉をひそめた。
すかさず智景が、「ああ、それは以前ここに居候していた遠縁の女の忘れ物です」と取り繕うように嘘をついた。
それを信じた義母は、「茜ちゃんの服をしまう邪魔になるわ」と文句を言い、ただの使い走りだと思っている私に、その「居候の女」の荷物をすべて処分するよう命じたのだ。
彼女はハンガーにかかっている私の服を次々と乱暴に引きずり下ろし、床に広げたスーツケースへと無造作に放り投げた。
私の大切な服や、結婚記念日のプレゼント……この三年間で築き上げてきた生活の痕跡のすべてが、まるでゴミのように扱われていく。
その時、荷物の隙間から一つの写真立てが滑り落ちた。中に入っていたのは、私と智景が婚姻届を提出した日に撮った記念写真だ。
義母が「あら?」と身をかがめようとした瞬間。
智景が誰よりも早くその写真の上に足を乗せ、見えないように踏みつけた。そして何事もなかったかのようにそれを拾い上げ、スーツケースの底へと押し込んだ。
「なんでもありませんよ。昔のいらない写真です」
自分の顔が彼の革靴に踏みにじられるのを見て、なぜか私の心はひどく静かだった。
もう、悲しみすら湧いてこなかったのだ。
やがて義父の鶴の一声で、二人の結婚式は来月の18日に決定した。
クローゼットのハンガーを握りしめた私の手が、ピタリと止まる。
来月の18日。それは奇しくも、私と智景が籍を入れてからちょうど3年目の記念日だった。
「3年目の結婚記念日には、絶対に俺たちの関係を公にして、最高の結婚式で君に償うから」
3年前、彼は私にそう約束していたのだ。
それなのに今、彼は私の親友と結婚式を挙げ、あろうことか本当の妻である私にブライズメイドをやれと言っている。
義父母が満足げに帰っていった後、リビングには重い静寂が降り降りた。
私はソファに腰を下ろす智景を静かに見下ろした。
「アルバム、見たわ。
あなたと茜は、いつからそういう関係なの?」
智景の表情が微かに引きつったが、すぐにまた冷静な仮面を取り繕った。
「君が思っているような関係じゃない。俺はただ、両親を安心させるために話を合わせているだけだ」
私は思わず乾いた笑いを漏らした。
「話を合わせているだけ?
茜の胃の調子が悪いからって、冷たいものを飲ませないように気を配るのも?
彼女が少し眉をひそめただけで、言われなくても胃薬を用意できるのも?
……寝室の遮光カーテンだって、光に敏感な彼女のために買ったものなんでしょう?
ねえ智景、これのどこがご両親へのその場しのぎなのよ」
言葉にしてから、私自身もハッとした。
思い返せば、ずっと前から不自然な兆候はいくつもあったのだ。私が愚かにも、見て見ぬふりをして現実から目を背けていただけだった。
私はまっすぐに彼を見据えて告げた。
「離婚しましょう。すぐに離婚届を用意して」
智景はしばらく沈黙した後、突然、私の祖母の話を持ち出した。
「……そんなに感情的になるな。こんな小さなことで離婚だなんて騒ぎ立てるなら、俺は君のお祖母さんにすべてを打ち明けるしかないな」
私の顔から一瞬で血の気が引いた。
祖母は先日、心臓の大きな手術を終えたばかりだ。私が幸せな結婚生活を送っていると信じ切り、それを何よりの生きがいにしている。
智景だって、手術前の祖母のベッドの傍らで、一生かけて私を大切にしますと固く誓っていたはずなのに。
祖母が私にとってたった一人の家族であることも、彼女の心臓に負担をかけるのが私が一番恐れていることだとも知っているくせに。
それなのに彼は、茜との茶番を守るためだけに、私の最愛の祖母を脅しの道具に使ったのだ。
「君が大人しくブライズメイドとして結婚式に協力するなら、この件がお祖母さんの耳に入ることは絶対にない」
私はぎゅっと目を閉じ、震える声を必死に抑え込んだ。
「……わかったわ」
2日後、義母から渡された結婚式の準備リストを見て、私は息を呑んだ。
会場として指定されていたのは、かつて私が自分のために十箇所以上も下見をして決めた、あの憧れの高級ホテルだった。
招待状のデザインも、BGMも、会場を彩る装花も、テーブルのネームカードすらも。
すべて、私がこの3年間、大切に書き溜めてきたウェディングノートの内容と完全に一致していた。
ドレスの試着日。
茜は、私がどうしても着たいと願っていたお気に入りのサテンドレスを身に纏っていた。
智景は彼女の後ろに立ち、その背中のファスナーを自らの手でゆっくりと引き上げる。
「うん、このドレスが一番よく似合っているよ」
私は無表情のまま、床にしゃがみ込んで彼女のドレスの裾を整えていた。
その時、ふと私の胸元から、ネックレスに通して隠していた結婚指輪が滑り落ちた。
それに気づいた智景が、ハッとして私の前に立ちはだかる。
――ようやく、私が自分の妻であることを思い出してくれたのだろうか。
しかし、彼はただ忌々しげにその指輪を私の服の中へ押し込んだだけだった。
「隠しておけ。
両親に見られたらどうするんだ」
さらに義母は、披露宴で智景が長年コレクションしていた秘蔵の赤ワインを開けようと提案した。
それは、私の生まれ年に作られた特別なヴィンテージワインだ。
かつて彼は、「君を正式な妻として皆に紹介するその日に、絶対にこれを開けよう」と甘く囁いていた。
だが今、彼は義母の提案に少しも反対しなかった。
私が3年間待ちわびた結婚式の準備が、こうして着々と進んでいく。
ホテルも、ドレスも、音楽も、ワインも、何もかもがあの時の約束のまま。
ただ一つ、新婦のポジションだけがすり替えられて。
第3話
その日の夜、遠方の企業からメッセージが届いた。
【チーフデザイナーのポジションは現在も空いております。新規プロジェクトは40日後に始動予定です】
私はその誘いを引き受ける返信を打ち、着任日を「離婚手続きが完了した直後」に指定した。
そして迎えた結婚式当日。
私はブライズメイドのドレスを着て、誰よりも早くホテルへ向かった。
ゲストが集まり始めると、義母は私を「新婦の親友」として受付に立たせ、ご祝儀の受け取りと芳名帳の管理を押し付けた。
迎賓スペースでは、茜が智景の腕に絡みつき、幸せそうに参列者に挨拶をしている。
やがてウェディングマーチが響き渡った時、私は会場に流れているBGMが、やはり私の選んだ曲であることを悟った。
司会者が読み上げる愛の誓いの言葉も、私のウェディングノートから丸写しされたものだ。
婚姻届を出した日、智景は私を抱きしめてこう言った。
「この誓いの言葉は、大勢の前で君を妻として迎える時までとっておくよ」
ドレスも、指輪も、音楽も、誓いの言葉も、あの日の約束のままなのに。
私はただステージの下に立ち、彼が別の女性を娶る姿を見上げることしかできなかった。
指輪交換の時間が近づき、智景が私にステージへ上がるよう合図を送る。
茜は満面の笑みで私に手を差し出した。
「最高の親友だもの。寧音の手で、私を送り出してね」
私は、本来なら自分の指にはめられるはずだった結婚指輪を智景に差し出した。
彼がその指輪を受け取り、茜の薬指に通そうとした、まさにその瞬間だった。
私のスマートフォンが、けたたましく着信を知らせた。病院からだった。
祖母が心臓の発作を起こし、緊急搬送されたというのだ。
原因は、近所の住人から転送されてきた結婚式のオンライン配信のURLだった。
画面の中で、自分の孫娘が、愛する夫の結婚式でブライズメイドを務めている異常な光景を見てしまったのだ。
電話口で、看護師が切迫した声で告げる。
「お祖母様が、手術前の準備を頑なに拒否されています。
配信に映っていた結婚式は一体どういうことなのか、ご主人様の口から直接説明を聞くまでは絶対に手術室に入らないと……!」
私は参列者全員の目が注がれる中、初めて智景の腕を力強く掴んだ。
「一緒に病院へ来て。お祖母ちゃんに、これは何かの誤解だって、たった一言伝えてくれるだけでいい。お願いだから……!」
涙を流して懇願する私を見て、智景は一瞬心が揺らいだのか、本当にステージから一歩足を踏み出しかけた。
しかし、茜が目を真っ赤に腫らし、ウェディングベールを握りしめて叫んだ。
「指輪交換の途中で新郎がいなくなったら、まるで私が他人の夫を奪った泥棒猫みたいじゃない……っ」
義母も慌てて智景を引き止める。
「会場には篠原家の親族が勢揃いしているのよ!
今ここであなたが席を外したら、茜ちゃんは今後どうやって顔を上げて生きていけばいいの!」
智景の足がピタリと止まった。
数秒の沈黙の後、彼は自分の車のキーを私に押し付けた。
「お祖母さんには、優秀な医者がついている。でも、今の茜には俺しかいないんだ。
結婚式は一生に一度きりだ。儀式が終わり次第、すぐに病院へ向かうから」
私は絶望の中で彼に問うた。
「……もし、お祖母ちゃんがそれまで持ちこたえられなかったら?」
彼はスッと目を逸らし、何も答えなかった。
私は彼の手を振り払い、一人で病院へと車を走らせた。
手術室へ運ばれる直前、祖母は微弱な声で尋ねた。
「智景さんは……どうして来てくれないの?」
私は彼女の冷たくなった手を両手で包み込み、必死に涙を堪えて微笑んだ。
「今、こっちに向かっているところよ」
その時、私のスマートフォンから、結婚式のライブ配信の音声が流れた。
会場を包み込む割れんばかりの拍手。
智景は、私が考えた誓いの言葉で茜に永遠の愛を誓い、大勢のゲストの前で、彼女に甘いキスを落としていたのだ。
まもなくして、式の専属カメラマンが撮影した写真がオンライン上に公開された。
その中の一枚。
茜の後ろでブライズメイドとしてドレスの裾を持っている私の姿に、大学時代の同級生たちが気づいた。
誰かが、3年前の画像を掘り起こした。それは智景が私にプロポーズし、今日茜に贈られたのと同じデザインの婚約指輪を私にはめている写真だった。
2組の写真は、瞬く間に篠原家の親族たちのグループチャットへと拡散された。
だが、義父母は私が法的な妻であることなど知る由もない。
彼らは私が、親友という立場を利用して茜に近づき、3年間も智景に付きまとっていた厚かましい略奪女だと思い込んだのだ。
第4話
祖母が集中治療室へ移された直後、義父母と茜が病院へ怒鳴り込んできた。
義母は、人が行き交う廊下で私を指差し、金切り声で罵倒した。
「家柄も教養もないくせに、姑息な真似ばかりして!茜ちゃんを利用して近づいて、智景にまとわりつくなんて、恥というものを知らないの!」
少し遅れて智景も駆けつけてきた。
茜は、その薬指に篠原家代々の指輪を光らせながら、目を赤くして彼の背中に隠れた。
まるで、自分こそが私に深く傷つけられた被害者であるかのように。
私は智景を見た。今回ばかりは、彼が真実を話して誤解を解いてくれると信じて。
しかし彼は、冷ややかな目で私の腕を掴み、廊下の隅へと引きずって行った。
「この件は、俺が早急に処理する」
その日の夜、智景は一枚の離婚届と、マスコミ向けの声明文の原稿を持って私の前に現れた。
声明文の内容は目を疑うものだった。
私が智景と茜が愛し合っていることを知りながら、祖母の重病を盾に彼を脅し、秘密裏に籍を入れさせたこと。
二人はただの戸籍上の夫婦であり、結婚後もずっと別居状態であったこと。
過去のプロポーズの写真や親密な写真は、茜に嫌がらせをするために私がわざと流出させたものだということ。
これにサインをすれば、私は自らの口で「彼らの愛を引き裂いた悪女は私です」と世間に認めることになるのだ。
私は彼をじっと見つめ返した。
「3年前、私にプロポーズをしてくれたのは誰?祖母のベッドの傍らでひざまずいて、一生私を守ると誓ったのは、一体誰だったの?」
智景は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに冷たい声を出した。
「この件に関して、茜は完全に無実の被害者だ」
「……じゃあ、私は何か間違ったことをしたと言うの?」
彼は少し苛立ったように、集中治療室の扉へ視線を向けた。
「病院の下には、すでにゴシップ誌の記者たちが張り込んでいる。
君がこれに協力しないなら、うちの両親が直接お祖母さんに問い詰めることになるぞ。
孫娘の略奪婚をそそのかしたのはあなたなのか、とな。
一命を取り留めたばかりの彼女が、そんな刺激を受けてどうなるか……君が一番よくわかっているはずだ」
彼はまたしても、私の最愛の祖母を人質にして、茜のために身を引けと要求しているのだ。
私はついに諦め、ペンを手に取った。
そして、声明文と離婚届に自分の名前を書き込んだ。
サインを見た智景は、あからさまに安堵の息を吐いた。
そして去り際、あろうことか私を抱きしめようと手を伸ばしてきたのだ。
「この騒動が落ち着いたら、両親にもちゃんと俺から説明するから」
私はスッと一歩後ずさり、彼の手を避けた。
……
離婚届を役所へ提出しに行く日。
なぜかそこには、今日を境にただの他人となる智景の両親と茜、そして親族やプロのカメラマンまでもが待ち構えていた。
茜の「略奪愛」という疑惑を完全に払拭するため、智景はカメラの前で私に声明文を読み上げさせ、名ばかりの結婚で彼を縛り付けていたのは私の方だと告白させた。
読み終えた瞬間、つい先ほどまで私をゴミのように見下していた智景の母が、カメラのレンズを意識したわざとらしい満面の笑みを貼り付け、無理やり私の手にウェディングブーケを握らせた。
「あなたは茜ちゃんの親友なんだから。あなたの手で、彼女に幸せをバトンタッチしてあげるべきでしょ?」
茜が家庭を壊した略奪者ではなく、親友から祝福されて結ばれる可憐な花嫁なのだと周囲にアピールするための、吐き気がするほど周到な茶番劇だった。
私の提出した離婚届が受理された直後。
智景はそのまま茜を連れて隣の窓口へ向かい、今度は二人の婚姻届を提出した。
ものの数十分で、二人は晴れて正式な夫婦となったのだ。
役所に設置された記念撮影用のパネルの前で、智景の母は私にスマートフォンを押し付けた。
「ほら、二人の初めての記念写真を撮ってちょうだい!」
画面越しに見る茜の薬指には、あの篠原家代々の指輪が光り、彼女は婚姻届の受理証明書を誇らしげに掲げて智景の胸に寄り添っていた。
カメラの外では、親族たちが「ようやく結ばれたね」と拍手喝采を送っている。
この3年間、影で彼に尽くし続けた本物の妻である私は、つい先ほど、自らの口で「私が二人の邪魔をしていた第三者です」と宣言させられたばかりだというのに。
シャッターを切り終え、私はスマートフォンを智景の母に返した。
そして、目の前で幸せそうに寄り添う二人に向けて、感情の抜け落ちた声で呟いた。
「……ご結婚、おめでとうございます」
智景は、そんな私の冷め切った態度に気づく様子もなく、以前と変わらない日常の口調で私に言った。
「仮住まいの部屋に戻って待っていてくれ。入籍祝いの食事会が終わったら、すぐに君のところへ行くから」
私は彼に言わなかった。
私が滞在していた仮住まいの部屋は、すでに引き払っているということを。
私の荷物はすべて、昨日のうちに3年前に離れたあの街へと送り出されているということを。
役所を出たその足で、旧姓である水瀬(みなせ)を取り戻した私は、真っ直ぐに空港へと向かった。
その日の夜。親族や友人たちのSNSのタイムラインは、彼らの結婚報告で埋め尽くされていた。
茜の投稿には、こう書かれていた。
【3年前に入籍するはずだったのに、今日になってしまいました。でも、やっと本物の夫婦になれました】
それに対し、これまで一度もSNSでプライベートを明かさなかった智景が、自ら堂々とコメントを残している。
【これからの人生、俺の隣にはお前だけだ】
――その甘い言葉がネット上で祝福を浴びている頃、私の乗った飛行機はすでに空高く飛び立っていた。
3年ぶりに戻ってきたこの街の空港に降り立った時には、すっかり夜も更けていた。
機内モードを解除した瞬間。
スマートフォンがけたたましく震え、何十件もの不在着信の通知が画面を埋め尽くした。
智景、茜、義母。
そして、これまで私に連絡など一度もよこしたことのない篠原家の親戚たちから。