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彼は想い人のために、死んだ私の心臓を奪う?
白石美咲(しらいし みさき)――それが、私の名前だった。 死んでから、5年。 そして今日、私がずっと想い続けた人、神崎悠真(かんざき ゆうま)が、ようやく私の眠る墓を訪れた。 理由は、ただ1つ。 彼の最愛の女性が、心臓移植を必要としていたからだった。 悠真は、私が生前に署名した臓器提供の同意書の写しを手に、風雨にさらされ、名前さえ読めなくなった私の墓石の前に立っていた。 霊園の管理人は、その様子を見かねて声をかけた。 「兄ちゃんよ、この子はもう5年前に亡くなったんだ。交通事故で、その場で即死だったんだ。遺体もひどい状態でな……いったい何の用なんだ?」 しかし、悠真には管理人の声など届いていなかった。 「……美咲はどこだ。今すぐ俺の前に連れてこい」 低く押し殺した声だった。 管理人は目を丸くし、困ったようにため息をついた。 「何を言ってるんだ。もう火葬も終わってる。ここにいるはずがないだろう。 葬式のときだって、ご両親は来なかった。この墓も、大学の友達が金を出し合って建ててくれたんだ」 その言葉を聞いた瞬間、悠真は勢いよく顔を上げた。 瞳には、凍てつくような怒りが宿っていた。 「……嘘だ。あいつが俺を置いて勝手に死ぬはずがない」 悠真は管理人を鋭く睨みつけた。 「あいつに伝えろ。3日以内に俺の前へ現れなければ、あいつのヤバい写真を全部ネットに晒す。後で泣いても知らないからな」 「……写真だって?」 管理人は困ったように眉をひそめた。 「あの子は、生きてる頃、新しい服1着買うのさえ我慢してた子なんだ。派手な遊びなんてするような子じゃなかった。 そんな子が、人に知られたくないような写真を撮るとは思えないな……」
Chapters (1)
第1章
白石美咲(しらいし みさき)――それが、私の名前だった。
死んでから、5年。
そして今日、私がずっと想い続けた人、神崎悠真(かんざき ゆうま)が、ようやく私の眠る墓を訪れた。
理由は、ただ1つ。
彼の最愛の女性が、心臓移植を必要としていたからだった。
悠真は、私が生前に署名した臓器提供の同意書の写しを手に、風雨にさらされ、名前さえ読めなくなった私の墓石の前に立っていた。
霊園の管理人は、その様子を見かねて声をかけた。
「兄ちゃんよ、この子はもう5年前に亡くなったんだ。交通事故で、その場で即死だったんだ。遺体もひどい状態でな……いったい何の用なんだ?」
しかし、悠真には管理人の声など届いていなかった。
「……美咲はどこだ。今すぐ俺の前に連れてこい」
低く押し殺した声だった。
管理人は目を丸くし、困ったようにため息をついた。
「何を言ってるんだ。もう火葬も終わってる。ここにいるはずがないだろう。
葬式のときだって、ご両親は来なかった。この墓も、大学の友達が金を出し合って建ててくれたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は勢いよく顔を上げた。
瞳には、凍てつくような怒りが宿っていた。
「……嘘だ。あいつが俺を置いて勝手に死ぬはずがない」
悠真は管理人を鋭く睨みつけた。
「あいつに伝えろ。3日以内に俺の前へ現れなければ、あいつのヤバい写真を全部ネットに晒す。後で泣いても知らないからな」
「……写真だって?」
管理人は困ったように眉をひそめた。
「あの子は、生きてる頃、新しい服1着買うのさえ我慢してた子なんだ。派手な遊びなんてするような子じゃなかった。
そんな子が、人に知られたくないような写真を撮るとは思えないな……」
第1話
「いつまで隠れてるつもりだ!」
そう吐き捨てると、悠真は私が暮らしていたアパートのドアを乱暴に蹴り開けた。
長い間、人の出入りがなかった部屋には、埃がうっすらと積もっていた。
ドアが開いた拍子に、それが陽の光の中へふわりと舞い上が上がった。
悠真は思わず眉をひそめた。
その後ろには、一ノ瀬詩音(いちのせ しおん)が寄り添うようについてきていた。
悠真にかばわれるように肩を抱かれ、青白い顔で小さく咳き込んだ。
「悠真……もう、やめよう?私は大丈夫だから……」
悠真はすぐに振り返り、優しく微笑んだ。
「詩音は気にしなくていいよ」
その声は、私が一度だって向けられたことのないほど優しかった。
「美咲のやつ……どこかに隠れれば、俺から逃げられると思ってるのか」
悠真はそう言うと、部屋の中へゆっくりと視線を巡らせた。やがて、その目が机の上で止まった。
そこには、少し色あせた写真立てが置かれていた。
あれは、私と悠真が並んで写った、たった1枚の写真だった。
誰にも見つからないよう、私は5年間ずっと大切にしまってきた。
悠真は写真を手に取ると、小さく鼻で笑った。
「姿をくらましたつもりか……相変わらず安っぽい芝居だな」
そのとき、物音を聞きつけた隣のおばさん――佐藤節子(さとう せつこ)が玄関先から顔をのぞかせた。
「あら、どうしたの?」
悠真は写真から目を離さないまま答えた。
「白石美咲を探してる」
「美咲ちゃん?あの子なら、もう5年前に交通事故で亡くなったよ」
その言葉に、詩音の目がかすかに揺れた。
けれどすぐに視線を落とし、遠慮がちに口を開いた。
「そんな……何かの間違いじゃ……少し前まで、私と電話で話してたんです」
節子は2人をじっと見比べると、あきれたようにため息をついた。
「間違えるはずないよ。あの日のことは、今でも忘れられないよ。
警察の人と一緒に、ご家族へ何度も電話したんだ。でも、誰も来なかった。最後まで来てくれたのは、大学のお友達だけだったよ。
お葬式まであの子たちが全部やってくれてね……本当に、美咲ちゃんは気の毒だった」
悠真の表情は、みるみる険しくなっていった。
「お前に何が分かる!美咲が俺を置いて死ぬはずない!全部、俺を振り向かせるための芝居に決まってる!」
節子は思わず言葉を失った。
しばらく黙り込んでいたが、やがて深くため息をついた。
「その言葉、5年前にここへ来て言ってくれたらよかったのにね……
美咲ちゃん、自分のことなんて何ひとつ贅沢しなかった。毎日節約して、お金を貯めてたんだよ。あんたにブランドの腕時計を贈るためにね」
節子は小さく首を振った。
「それなのに、その時計は別の子に渡したんでしょう」
悠真の表情がわずかに強張った。
だが、それもほんの一瞬だった。次の瞬間には、冷たく言い放った。
「……お前には関係ないだろう。
美咲に伝えろ。3日以内に姿を見せなければ、あいつの荷物は全部処分する」
節子は一歩前へ踏み出した。
「あんたに、あの子の物を捨てる資格なんてない!
美咲ちゃんはね、雨の中、3時間もあなたを待ってた。あなたに渡す腕時計を、大事そうに抱えてね。あの時あんたは、今お隣にいるその子と一緒にいたんでしょう。
美咲ちゃんが待ってることなんて、これっぽっちも気づかなかった」
詩音は不安そうに悠真の腕をつかんだ。
「悠真……もういいよ。ねぇ、帰ろう?」
「帰る?」
悠真はその手を乱暴に振り払った。
「あいつが出てくるまで、俺は帰らない!こんな芝居で俺が揺らぐと思うな!俺が後悔するとでも思ったのか?笑わせるな!」
第2話
節子は呆れたように鼻で笑った。
「まだそんなこと言ってるのかい?美咲ちゃんが事故に遭った日ね、彼女の手には、あんたの写真が入ったキーホルダーをずっと大事そうに握っていた。
そんなこと、あんたは何ひとつ知らないんだろうね」
節子は悠真をまっすぐ見据えた。
「それに、お友達が遺品を整理してたとき、枕の下からあんた宛ての手紙が何通も出てきたんだ。どれも結局、出せないままだったけどね。あんた、一通でも読んだことあるのかい?」
悠真は拳を強く握り締めた。
「適当なこと言うな!」
「だったら、これは何だい?」
節子はくるりと背を向け、部屋の奥から色あせた紙箱を抱えて戻ってきた。
「これはね、美咲ちゃんのお友達に預かったものなんだ。『もしあの人が来たら渡してください』って頼まれてね」
詩音は目に涙を浮かべ、おずおずと口を開いた。
「違います……悠真は、美咲さんのことを本当に大切に思ってたんです……」
「大切に?」
節子は苦々しくつぶやくと、紙箱を床へ放り投げた。箱が開き、中に入っていた手紙が何通も床へ散らばった。
「本当にそうだったら、美咲ちゃんをこんなアパートでひとり暮らしなんかさせないわ。最後まで返事ひとつ寄こさないまま、放っておいたりもしない」
悠真の視線が、床に散らばった手紙へ吸い寄せられた。
見覚えのある、やわらかな文字。紛れもなく、私の字だった。
節子は静かに言葉を続けた。
「事故の前の日もね、美咲ちゃん、『もう一回だけ会いに行こうと思うんです』って言ってたんだよ。『ちゃんと気持ちを伝えたくて』って。
でも、結局会えなかった。あの子は、そのまま帰ってこなかった。
今さら後悔したような顔をしたって遅いんだよ。あの子は、もう戻ってこないわ」
悠真は唇を強く噛み締め、顔色が見る見るうちに悪くなった。
それでも彼は意地を張り、口先だけは決して折れようとしなかった。
「……信じるか!全部、あいつが仕組んだことだ!
3日待ってやる。それまでに出てこなければ、あいつの荷物は全部処分する!」
そう言い残すと、悠真は詩音の腕をつかみ、そのまま部屋をあとにした。
部屋を出る間際、詩音は床に散らばった手紙へ、そっと視線を落とした。そして誰にも気づかれないよう、数通の手紙を足でそっと机の下へ寄せた。
節子はその背中を見送り、小さく吐き捨てた。
「……本当に、どうしようもない人だね」
5年前のあの日――悠真は詩音をかばうため、私を突き飛ばし、暴走してきたトラックの前へ押し出した。
私の時間は、その瞬間に終わっていた。
だけど、不思議なことに私は消えなかった。
行き場を失った幽霊のまま、5年間ずっと悠真のそばを離れられずにいた。
悠真は詩音を助手席へ乗せ、震える彼女を支えながら、何度も優しく声をかけていた。
その眼差しは、どこまでも優しかった。
そんな表情を、私は一度も向けられたことがなかった。
5年前。あの日、私も同じ助手席に座っていた。
そして、悠真のために用意した誕生日ケーキを大事に抱えていた。
その日は、私の誕生日だった。
そして、私たちが付き合い始めて、3年目の記念日でもあった。
そのとき、不意に悠真のスマホが鳴った。
画面に映っていた名前は――詩音だった。
電話に出た悠真は小さく息をつくと、私を見ることもなく口を開いた。
「詩音の具合が悪いらしい。悪いけど、ここで降りてくれ」
私はそっと悠真の袖をつまんだ。
「悠真……今日は、私の誕生日なの。それに……付き合って3年の記念日でもあるんだよ」
悠真は私の手を払いのけると、うんざりしたように言った。
「少しは分かってくれ。詩音には俺しかいない」
そう言い残し、車は雨の中を走り去っていった。
取り残された私は、その場に立ち尽くした。
腕の中から滑り落ちたケーキは、地面へ落ちて箱ごと潰れた。雨に打たれたクリームも、ゆっくりと崩れていった。
私はただ、それを見つめていた。
あとになって知った。
あの日、詩音は体調が悪かったわけじゃない。ただ、買い物に付き合ってほしかっただけだった。
私は雨に打たれたせいで高熱を出し、3日間寝込んだ。
それでも、悠真から連絡が来ることは、一度もなかった。
あの頃の私は、悠真は、ただ少し不器用なだけなんだと思っていた。
だけど、そうじゃなかった。
私たち3人の前へ、制御を失ったトラックが突っ込んできたあのとき、悠真は、一瞬たりとも迷わなかった。詩音を守るために、私を突き飛ばした。
その瞬間、ようやく思い知った。
私は最初から、一度も愛されてなんていなかった。
私の身体は、トラックにはね飛ばされた。意識もゆっくり遠のいていった。
薄れゆく視界の中で、最後に映ったのは――詩音を強く抱き寄せ、必死にその名を呼び続ける悠真の姿だった。
そこに倒れていた私へ、悠真が視線を向けることは最後までなかった。
私は、最期の最期まで、彼の目に映ることすらなかった。
私を見つけ出せない悠真は、やり場のない怒りを私の遺品にぶつけるしかなかった。
私が暮らしていたアパートの荷物は、すべて悠真の家へ運び込まれた。
「あいつが姿を見せたら、その場で全部処分してやる」
ソファに座っていた詩音は、積み上げられた荷物へ目を向けた。
何度も洗われて色あせた服。読み古された本。どれも質素なものばかりだった。
詩音は一瞬だけ口元を緩めた。けれど、すぐに困ったような表情を浮かべた。
「悠真……そんなことまでしなくても……美咲さんが知ったら、きっと悲しむよ……」
悠真は隣へ腰を下ろすと、詩音の手を包み込んだ。
「あいつのことはもういい。詩音は何も心配するな。
君に適合するドナーは、必ず見つける。どんな手を使ってでも、俺が君を助ける」
第3話
詩音は悠真の胸へ身を寄せ、小さく唇を震わせた。
「でも……美咲さんはあの事故のとき……私を助けようとして……」
悠真はその言葉を最後まで聞かず、首を横へ振った。
「君のせいじゃない。あれはあいつが勝手に飛び出しただけだ。
それに、美咲は俺のためなら何でもする女だった。君を守るくらい、あいつなら当然する」
その言葉を聞いても、もう胸は痛まなかった。
ただ、氷のように冷え切っていくだけだった。
私の命でさえ、悠真にとっては、その程度の価値しかなかった。
そのとき、悠真のスマホが鳴った。病院からだった。
「神崎さんですね。申し訳ありませんが、一ノ瀬さんの容体があまり思わしくありません。適合するドナーが見つからなければ、かなり厳しい状況です」
電話を切った悠真の表情は、さらに険しくなった。
悠真はそのまま、積み上げられた私の荷物へ歩み寄った。
まるで何かを探すように、1つひとつ箱を開け始めた。
やがて、古びた紙箱の底から銀行のキャッシュカードと1冊の日記帳を取り出した。
キャッシュカードは、昔、悠真が「生活費に使え」と言って渡してくれたものだった。
けれど私は、1円も使わなかった。
後になって、「あれは貸した金だ。ちゃんと返せ」と言われたからだ。
そして、その日記には、悠真との日々が綴られていた。
初めて出会った日のこと。
初めて名前を呼んでもらえた日のこと。
笑ってくれた日のこと。
傷つく言葉を向けられた日のこと。
どんな些細な出来事も、私は大切に書き残していた。
悠真は日記を開き、黙ったままページをめくっていった。読み進めるたび、その眉間には少しずつ深い皺が刻まれていった。
「こんなもん、いちいち書いてたのか」
詩音も隣からのぞき込み、小さく声を上げた。
「悠真、ここ……」
開かれたページには、私の字でこう綴られていた。
【今日も悠真が笑ってくれた。少しだけでも、私のことを好きになってくれていたらいいな】
悠真はしばらくその文字を見つめていた。
やがて、無言で日記を閉じた。
「……くだらない」
そう吐き捨てながらも、日記だけはポケットへしまった。
そして、3日の期限が過ぎても、私は姿を現さなかった。
悠真の怒りは、ついに限界に達した。
私の荷物を庭へ運び出させると、一か所へ積み上げた。
詩音は不安そうに声をかけた。
「悠真……もうやめよう?こんなことしなくても……」
悠真は何も答えず、ライターを取り出して火をつけた。
小さな炎は古びた服へ燃え移り、あっという間に勢いを増していった。
私の青春が詰まったものたちは、次々と灰になっていった。
それを見つめることしかできない私は、胸の奥が重く塞がれていくのを感じていた。
そして、悠真はスマホを取り出すと、どこかへ電話をかけた。
「白石美咲を探せ。何としてでも見つけ出せ」
炎はさらに大きく燃え上がった。その赤い光が、悠真の影を長く地面へ伸ばしていた。
悠真は燃え盛る炎を見つめたまま、低く吐き捨てた。
「美咲、見てるんだろ。俺を怒らせたらどうなるか、よく覚えとけ」
詩音は小さく咳き込み、悠真の袖へそっと手を伸ばした。けれど悠真は、気づかないまま身を引いた。
詩音の瞳に、一瞬だけ寂しさがよぎった。それでもすぐに笑顔を取り繕った。
「悠真……少し、寒いね。中へ入ろう?」
悠真はようやく我に返ると、自分のジャケットを脱いで詩音の肩へ掛けた。
「もう少しだ。全部燃えたら帰ろう」
そう言って炎へ視線を戻した。
「どうせ、俺の気を引きたいだけだ。死んだふりまでして……くだらない」
詩音はジャケットを抱き寄せ、小さく目を伏せた。
「でも……美咲さんも、苦しかったのかもしれないよ。だって、あの頃の悠真は……私のことばかり気にかけてくれてたから……」
悠真は鼻で笑った。
「だから何だ。俺を好きだったなら、そのくらい受け入れられたはずだ。病気の君を優先するのは当たり前だろ。
その程度で拗ねて、死んだふりまでして俺を試そうなんて、本当に面倒な女だ」
詩音は唇を噛み、涙をこらえるようにうつむいた。
「でも……昔の美咲さん、私にも本当に良くしてくれてたの。
朝ごはんも作ってくれたし、お花の水やりまで代わってくれたりして……
だから……私のせいで、こんなふうになっちゃったのかなって、時々思うの」
悠真は吐き捨てるように笑った。
「全部、見せかけだ。あいつは昔からそういう女だ。おとなしい顔して、腹の中じゃ何考えてるか分かったもんじゃない。
この前だって、君が入院したとき、君がアレルギーを起こす薬を、わざと薬箱に紛れ込ませただろ。俺が気づかなかったら、どうなってたか分からない。
ああいうことを平気でやる女なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、思わず笑いそうになった。
詩音はペニシリンアレルギーだった。
そのことは分かっている。けれど、私はこれほど悪質な真似をするのが絶対にありえない。
第4話
あの日、薬の名前を勘違いしたのは詩音だった。
私はそれに気づいたけれど、詩音を責めることはしなかった。代わりの薬を探すため、閉店間際の薬局を3軒も駆け回った。
病院へ戻った頃には、全身びしょ濡れになっていた。
それでも悠真は、私がわざと薬をすり替えたのだと思い込んだ。
病院の廊下で私を突き飛ばし、頭ごなしに怒鳴りつけた。
「お前、本当に最低だな。どこまで腐ってるんだ」
悠真は散らばった手紙へ目を落とし、鼻で笑った。
「それに、あいつの手紙もそうだ。あんなもの書いて何になる?情に訴えれば俺が振り向くとでも思ったのか。勘違いもいい加減にしろ。女なんて、その気になればいくらでも寄ってくる。
あんな手紙を何通書こうが、俺の気持ちは変わらない」
詩音は遠慮がちに悠真の袖をつまんだ。
「悠真……もう、そのくらいにしよう?もし美咲さんが聞いてたら……」
悠真は呆れたように肩をすくめた。
「聞いてたら何だ。あいつが勝手にやったことだろ。今さら何を言われたって知るか。
昔だってそうだ。あいつは学歴まで偽って俺に近づいた。まともな仕事にも就けず、結局は俺に養われるしかなかったくせに。そんな女がいなくなって、せいせいした」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。
不意に、付き合い始めた頃の記憶がよみがえった。
私が奨学金だけで大学に通っていたことを知ると、悠真は笑って言った。
「美咲って、本当に頑張り屋だな。卒業したら、今度は俺が養ってやる」
あの笑顔に、嘘なんてないと信じていた。
だけど今では、その言葉さえ私を傷つけるだけのものになってしまった。
「……あんた、本気でそんなこと言ってるの?」
節子はいつの間にか、また戻ってきていた。手には、さっき詩音が机の下へ蹴り込んだ手紙が握られていた。
きっと、立ち上る煙を見て駆けつけたのだろう。
悠真を見るなり、その表情が険しくなった。
「この恩知らず!
あんた、美咲ちゃんがどんな思いで支えてきたか、何ひとつ分かっちゃいない!昼は大学、夜はバイト。手に豆を作ってまで働いてたんだよ。
全部、あんたの起業資金の足しになればってね。あの子があんたに養われてた?よくそんなことが言えるね!」
節子は手にしていた手紙を悠真の足元へ叩きつけた。
「ほら、読んでみな!全部、美咲ちゃんがあんたに書いた手紙だ。
どの手紙も、恨み言なんて一つも書いてない。もう一度だけ振り向いてほしい。それだけだったんだよ。それを腹黒い女だなんて……あんた、本当に見る目がないね」
悠真は散らばった便箋を見下ろした。
その瞳がほんの一瞬だけ揺れた。だが次の瞬間には、その目はまた冷たく細められた。
「……情に訴えれば俺がほだされるとでも思ったのか。こんなの全部、あいつの芝居だ!」
「なんよ!」
節子は思わず一歩踏み出した。
今にも悠真を殴りかかりそうな勢いだったが、詩音が慌てて間へ入った。
「お願いです、おばさん……!やめてください!悠真は、今は冷静じゃないだけなんです。美咲さんがいなくなって、取り乱してるだけで……」
一見、場を収めようとしているようだった。
だが、その言葉はまるで「白石美咲はまだどこかで生きている」と言っているようにも聞こえた。
悠真はその一言に、はっと顔を上げた。まるで溺れる者が藁をつかむように。
「……そうだ!あいつは死んでない!全部、俺を騙すためだ。俺の気を引きたいだけなんだ」
そう言うと、悠真は足元の手紙を乱暴につかみ上げ、ポケットへ押し込んだ。
「美咲!どこかで見てるんだろ!そんな手が俺に通用すると思うな!俺が後悔すると思ったら大間違いだ!」
そして詩音の肩を抱き寄せた。
「俺と詩音は予定どおり籍を入れる。俺が愛してるのは、最初から詩音だけだ。お前に振り向くことなんて、一生ない!お前に入り込む余地は最初からなかった!」
詩音は嬉しさを隠すように目を伏せた。
「悠真……そんな言い方しなくても……」
悠真は詩音の手を強く握り返した。
「何が悪い。君に合うドナーが見つかったら、すぐ籍を入れよう。美咲のことはもう放っておけ。あいつがどこで何をしていようが、俺には関係ない」
私は、固く結ばれた二人の手を見つめていた。
5年間、彼のそばを離れられなかった自分が、急に馬鹿らしく思えた。
ほんの少しでも。いつか、私を振り向いてくれる日が来るかもしれない。
そんな淡い期待だけを胸に、私はもう存在しない5年という時間をさまよい続けてきた。
だけど、悠真の世界に、最初から私の居場所なんて、どこにもなかった。
そのとき、不意に悠真のスマホが鳴った。
画面に表示されたのは、秘書からの着信だった。悠真は眉をひそめ、不機嫌そうに電話へ出た。
「何だ」
電話の向こうから、切迫した声が響いた。
「神崎社長。白石美咲さんについて、ご報告があります」