原則は私に、特別扱いは彼女に

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恋人が医師だと知ると、親戚たちは口々に羨ましがった。 「これで、お母さんが病院にかかるときも安心ね」 「お医者さんが娘婿になるなら、予約も専門医の紹介も融通が利くでしょう」 私・高瀬美緒(たかせ みお)は笑って首を横に振った。 「そういう特別扱いはしない人だから」 それが、黒川創真(くろかわ そうま)の信条だった。 母が心筋梗塞で入院し、急いで冠動脈バイパス手術を受けなければならなかったときも。 私が、どの専門医に診てもらうべきか聞いてほしいと頼んだだけなのに、創真は腹を立てた。 「美緒、俺を困らせないでくれ。俺が立場を使って誰かを特別扱いするのを一番嫌ってるって、知ってるだろ」 彼を困らせたくなくて、その後の3年間、私は二度と何も頼まなかった。 ところが今日、母の診察に付き添って病院を訪れ、特別外来の前を通りかかったとき、甘えるような女の声が聞こえた。 「幼なじみがお医者さんで本当によかった。病院に来るたび、創真が特別枠で案内してくれるの。予約も待ち時間も、気にしたことないんだから」 思わず足が止まった。 顔を上げると、水野莉奈(みずの りな)の隣に立っていたのは、3年間付き合ってきた私の恋人、創真だった。

Chapters (1)

第1章

恋人が医師だと知ると、親戚たちは口々に羨ましがった。 「これで、お母さんが病院にかかるときも安心ね」 「お医者さんが娘婿になるなら、予約も専門医の紹介も融通が利くでしょう」 私・高瀬美緒(たかせ みお)は笑って首を横に振った。 「そういう特別扱いはしない人だから」 それが、黒川創真(くろかわ そうま)の信条だった。 母が心筋梗塞で入院し、急いで冠動脈バイパス手術を受けなければならなかったときも。 私が、どの専門医に診てもらうべきか聞いてほしいと頼んだだけなのに、創真は腹を立てた。 「美緒、俺を困らせないでくれ。俺が立場を使って誰かを特別扱いするのを一番嫌ってるって、知ってるだろ」 彼を困らせたくなくて、その後の3年間、私は二度と何も頼まなかった。 ところが今日、母の診察に付き添って病院を訪れ、特別外来の前を通りかかったとき、甘えるような女の声が聞こえた。 「幼なじみがお医者さんで本当によかった。病院に来るたび、創真が特別枠で案内してくれるの。予約も待ち時間も、気にしたことないんだから」 思わず足が止まった。 顔を上げると、水野莉奈(みずの りな)の隣に立っていたのは、3年間付き合ってきた私の恋人、創真だった。 第1話 そばにいた看護師たちは莉奈の話を聞き、笑いながら口々に言った。 「水野さんは本当に幸せですね」 「黒川先生、普段はあんなにそっけないのに、水野さんには本当に細やかですもの」 「そうそう。特別診療枠はなかなか取れないのに、先生がひと言頼めば、水野さんは毎回すぐ診てもらえるんですから」 莉奈は目を細めて笑った。 「そんなことないですよ。創真は昔から気が利くんです」 控えめに否定しているようで、その声には得意げな響きが隠しきれずににじんでいた。 私はその場に立ち尽くし、母の診察受付票を少しずつ握りしめた。 昨夜からほとんど眠らずに予約枠を確認し続け、午前4時になってようやく取れた予約だった。 一般外来で待ち、検査室で待ち、会計でもまた待った。 足の悪い母は顔を青ざめさせながら、それでもずっと「大丈夫」と言っていた。 それなのに創真はどうだろう。 彼なら、ひと言確認するくらいはできたはずだ。たったひと言でよかった。 けれど、彼が私に返す答えは、いつも「原則」だった。 今すぐ駆け寄って問い詰めたかった。 創真。 あなたの原則はどこへ行ったの。 あれほど特別扱いを嫌っていたのは、何だったの。 ところが一歩踏み出した途端、母に手首をつかまれた。 やせ細った手の関節が食い込み、痛いほどだった。 「美緒、行かないで」 母は首を横に振り、私をなだめた。 「私のことで創真くんと喧嘩しないで。仕事も忙しいし、プレッシャーだって大きいでしょう。それに、ちゃんと診てもらえたんだから、少しくらい待ってもいいじゃない」 鼻の奥がつんとした。 問題は、少し待つことではなかった。 この3年間だった。 初めて断られて以来、私は一度も彼に助けを求めなかった。 困らせたくなかった。聞き分けのない女だと思われたくなかった。 私が「わきまえのないこと」をすれば、二人の関係まで気まずくなってしまう気がしていた。 けれど今、颯真は自ら莉奈に付き添い、看護師に一つひとつ細かく念を押していた。 「セフェム系抗菌薬にアレルギーがある。カルテにはっきり書いておいて。痛みに弱いから、採血はできるだけ優しく。それから消毒液のにおいが苦手だから、診察室の換気もお願い」 淡々とした声だったが、ひと言ひと言に細やかな気遣いがこもっていた。 莉奈が彼を見上げ、嬉しそうに笑った。 「創真、まだ覚えてたの?」 創真は莉奈を見下ろした。その目には、私がほとんど見たことのない柔らかさがあった。 「莉奈のことなら、覚えてるに決まってる」 両家の顔合わせをした日のことが、ふいに脳裏をよぎった。 母は魚介類にアレルギーがあり、特にカニやエビは口にできない。私はそのことを、前もって何度も彼に伝えていた。 それなのに、初めて母に会いに来た日、創真が手土産に持ってきたのは、大きなカニとエビの詰め合わせだった。 第2話 私は言葉を失った。 すると創真は眉をひそめた。 「最近は手術続きなんだ。そんなことまで覚えていられるか。手ぶらで来なかっただけ、礼儀は尽くしただろ」 あの日、母は笑ってその場を取り繕った。 「気にしなくていいの。食卓が華やかになるだけでも嬉しいから」と。 けれど夜になると、母の肌には人知れず発疹が出ていた。私を悲しませまいと、母は最後まで黙っていた。 胸の奥が鈍く痛んだ。 私のためには曲げられなかった原則を、創真は莉奈のためなら簡単に曲げた。 私の話は覚えていられないと言ったのに、莉奈のことは何もかも覚えていた。 特別外来で楽しそうに笑い合う二人を見ているうちに、自分がひどく滑稽に思えてきた。 この3年間、私は何度も自分に言い聞かせてきた。 創真はただ無愛想なだけ。 気持ちを言葉にするのが苦手なだけ。 誰に対しても、感情より規則を優先する人なのだと。 けれど、違った。 彼は優しくできる。細やかに気遣うこともできる。 大切な人のためなら、どんな一線でも越えられる。 ただ、その相手が私ではなかっただけだ。 …… 「お母さん、病室に戻ろう」 もう問いただす気はなかった。揉める気にもなれなかった。 答えは、目の前に出ていた。 母を病室へ送り届けたあと、会計を済ませ、薬を受け取り、診察結果を医師に確認した。 病室に戻ると、母はもう眠っていた。 スマホが何度も震えた。すべて仕事のグループチャットからの通知だった。 ノートパソコンを開き、企画書の修正に取りかかった。 本当は、ひどく疲れていた。 明け方から予約を取り、母の検査に付き添い、入院手続きを終えるまで、丸一日で口にしたのはパンを半分だけだった。 それでも、休むわけにはいかなかった。 働いて、母の治療費と手術費を稼がなければならない。 創真には彼の原則があり、助けてはくれない。 ならば私は、誰にも頼らずに済む人間になるしかなかった。 仕事を終えたときには、午前2時を回っていた。 病室には、医療機器のかすかな作動音だけが響いていた。母はまだ眠っていた。 コップを手に給湯室へ向かうと、その入口に創真がいた。 白衣姿の彼は、目元に疲れをにじませていた。 私に気づくと、自分から歩み寄ってきた。 「顔色が悪い。どこか具合でも悪いのか?」 見上げた彼の顔に、廊下の明かりが落ちていた。 3年間、好きだった顔だった。 冷ややかなほど端正で清潔感があり、俗世のわずらわしさなど決して寄せつけないように見えた。 私は彼を見つめ、かすれた声で口を開いた。 「創真。明日、お母さんが専門医に診てもらえるよう、予約を取ってくれない?」 その言葉を聞いた瞬間、彼の表情が変わった。 顔から穏やかさが消え、見慣れた困惑だけが残った。 「美緒、俺の原則は分かってるだろ」 原則? その言葉を聞いた途端、思わず笑いがこぼれた。 「じゃあ、莉奈は?」 不意に、辺りが静まり返った。 創真は思わず聞き返した。 「莉奈を特別診療枠で診てもらえるようにしていたこと、知ったのか?」 私が黙っていると、彼はため息をついて説明した。 「美緒、莉奈は事情が違う。昔から体が弱いんだ。それにそそっかしくて、アレルギーのことも忘れるし、けがをしても黙ってる。長年、俺が面倒を見てきたから、もう習慣みたいなものなんだ」 ごく当然のことのように言った。 特別扱いをしているつもりなどなく、ただいつもどおりに手を差し伸べただけなのだろう。 そのほうが、例外だと言われるよりずっと残酷だった。 習慣は、すでに彼の一部だった。 「莉奈は昔からあなたを必要としてきたから、原則を曲げてもいい。お母さんも年を取って、手術も受けて、誰かの助けが必要なのに、私の母親だから特別扱いする価値はない。そういうこと?」 創真の顔がこわばった。 「どうして、わざわざ比べるんだ?莉奈は妹みたいに一緒に育った幼なじみで、美緒は俺の恋人だ。比べるような関係じゃないだろ」 第3話 私はうなずいた。 目の奥が焼けるように熱かった。 「そうね。私はあなたの恋人だものね。だから聞き分けよくしなきゃいけない。あなたを困らせちゃいけない。 明け方から予約を取って、病院中を走り回って、治療費を払ったあとも徹夜で仕事をする。それで、あなたがほかの人にだけ特別なことをしてあげるのを、黙って見ていればいいんでしょう?」 声は次第に小さくなり、最後には自分でも聞き取れないほどになった。 創真は私を見つめ、ようやく何かに気づいたようだった。 手を伸ばして私に触れようとした。 「美緒、そういう意味じゃない」 私は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。 たった一歩だった。 けれど、その一歩で、3年間目を覚まさなかった自分がようやく現実を見た気がした。 いつも彼の言い訳を代わりに探していた私。 傷つきながらも「平気」と笑っていた私。 聞き分けよくしていれば、いつか大切にしてもらえると信じていた私。 突然、どうしようもなく疲れた。 言い争うことさえ、もう力の無駄に思えた。 私は彼を見つめ、静かに告げた。 「創真、別れよう」 彼はその場で固まった。 意味が分からないという顔だった。 数秒して、ようやく眉をひそめた。 「お母さんを特別扱いしなかったから、それだけで別れるのか?」 喉が詰まる思いだったが、それでも、私はうなずいた。 「そう。それだけ」 創真は呆れたように笑った。 「美緒、今は感情的になってる。別れるなんて、勢いで口にするな」 私は彼を見た。 もう説明する気力さえなかった。 コップを持ったまま彼の脇を通り過ぎた。 「勢いで言ったんじゃない。もう決めたの」 創真が私の腕をつかもうとした、そのときだった。 突然、彼のスマホが鳴った。 莉奈からだった。 画面を見た途端、彼の眉間に浮かんでいた苛立ちが消えた。 「莉奈?」 電話の向こうで何を言われたのか、創真の声はたちまち優しくなった。 「怖がるな。今すぐ行く」 電話を切ると、私を見た。 「美緒、この話はあとでしよう」 私は答えず、お湯を手に病室へ戻った。 扉が閉まった瞬間、その扉に背を預けた。涙がようやく頬を伝った。 別れ話まで、莉奈のあとに回されるのか。 翌朝、会計を済ませて病室へ戻ると、扉が少し開いていた。 中から莉奈の声が聞こえた。 「おばさん、美緒さんを説得してください。おばさんのことで、創真に別れを切り出したんです。創真、昨夜はつらくて一睡もできなかったんですよ」 足が止まった。 母の声が震えていた。 「別れる?どうして急にそんなことに……」 莉奈は小さくため息をついた。 「聞いてないんですか?美緒さんはきっと言えなかったんでしょうね。親孝行な子だから、おばさんの病気が原因で二人がこんなことになったなんて、知られたくないんですよ」 頭の中で大きな音が鳴り、血が一気に頭へ上った。 勢いよく扉を開け、声を荒らげた。 「莉奈、何をでたらめなこと言ってるの?」 驚いた莉奈の手から保温容器が落ち、大きな音を立てた。中のお粥が床一面にこぼれた。 たちまち目に涙を浮かべた。 「美緒さん、おばさんにはいずれ分かることよ。今話しても、あとで話しても同じでしょう?」 怒りで体が震えた。 「いい加減なこと言わないで。出ていって!」 莉奈は唇をかみ、いかにも傷ついたような顔をした。 「でたらめじゃないわ。創真の家族だって、もともと気にしていたもの。おばさんは体が弱いし、これからも治療費や、いざというときのお金がかかる。どこの家だって考えることでしょう?全部、創真一人に背負わせるわけにはいかないじゃない」 私は莉奈の肩を押した。 「出ていってって言ってるの!」 それでも莉奈は母のほうを振り返り、言い続けた。 「おばさん、嫌って言っているんじゃないんです。ただ、美緒さんはまだ20代でしょう?」 第4話 「一生、おばさんの病気に縛られて生きていくなんて、かわいそうです。本当に美緒さんのことを思うなら、これ以上彼女に無理をさせるべきじゃないと思います」 その言葉が落ちた直後、母が突然、激しく息を乱した。 胸を押さえたまま、体が横へ崩れた。 「お母さん!」 私は駆け寄って母を支えた。 額には冷や汗がびっしり浮かび、唇は紫色に変わっていた。母の指が私の袖を必死につかんだ。 「美緒……お母さんが……あなたの重荷になってるの?」 涙が一気にこぼれた。 「違う!お母さんは重荷なんかじゃない!あの人の話なんて聞かないで。お願いだから、私を怖がらせないで!」 けれど母の呼吸はますます速くなった。 胸が大きく上下しているのに、どうしても息を吸い込めないようだった。 私は夢中でナースコールを押した。 「先生!誰か来て!早く!」 病室はたちまち騒然となった。 その様子を見た莉奈も青ざめ、そっと後ずさると、そのまま病室から逃げ出した。 母は救命処置室へ運ばれた。 私はそのあとを追ったが、足に力が入らず、立っているのがやっとだった。 医師は検査結果をめくるうち、表情を険しくしていった。 「非常に危険な状態です。以前にも手術を受けておられ、心臓の機能がかなり落ちています。すぐに処置しなければなりません」 私は医師の袖をつかんだ。 「お願いします。母を助けてください」 医師は私を見た。 「難しい症例です。当院でこの種の手術に最も詳しいのは、黒川先生です」 体が凍りついた。 冷水を頭から浴びせられたようだった。 結局、私はまた彼に頼るしかなかった。 スマホを取り出したが、手が震え、番号さえうまく押せなかった。 1度目は出なかった。 2度目も出なかった。 3度目で、ようやくつながった。 向こうは騒がしく、その中に莉奈の涙声が聞こえた。 「創真、手が痛い……」 すぐに創真の声が続いた。 「俺がいる。怖がらなくていい」 私は唇を強くかんだ。 「創真。お母さんが救命処置を受けてるの。危険な状態で、先生があなたにも来てほしいって」 電話の向こうが、一瞬静かになった。 次いで、創真の声が冷たくなった。 「美緒、いい加減にしてくれないか」 私は耳を疑った。 「ふざけてなんかいない。お母さん、本当に今、救命処置を受けてるの」 彼は怒りを押し殺しているようだった。 「昨日の診察では急変の兆候なんてなかった。俺も検査結果を見たんだ。たった一日で危篤になるとでもいうのか?美緒、そんな嘘をついて何になる?」 耳鳴りがして、自分の声さえほとんど聞こえなかった。 「嘘じゃない……嘘なんかついてない。本当に危ないの。お願い、先にこっちへ来て。来てくれるだけでいいから」 彼は数秒黙り込んだ。迷っているようだった。 そのとき、莉奈の声がした。 「創真、心配しなくて大丈夫。私、さっきおばさんの病室から出てきたけど、あのときは元気だったし、何ともなかったよ。でも、美緒さんを怒らないであげて。きっと、どうしても創真に会いたかっただけだから」 そのひと言が、彼の怒りに油を注いだ。 創真の声が一段と低くなった。 「美緒、お母さんが無事でも、そうでなくても、当直の医師に任せればいいだろ。病院に医師は俺一人しかいないのか?俺は莉奈の手当てに付き添わなきゃならない。用もないのに電話してくるな」 まだ伝えたいことはあった。 だが、電話は切られた。 暗くなった画面を見つめ、もう一度かけた。 電源は切られていた。 救命処置室の前に立ったまま、全身から力が抜けていった。 ほどなくして、当直の医師が中へ入っていった。 第5話 看護師から、緊急処置や治療に関する同意書を何枚も渡された。 手がひどく震えた。 最後の一枚に書いた名前は、文字の形さえ分からないほど崩れていた。 私は何度も繰り返した。 「母を助けてください。お願いします。どうか、助けてください」 救命処置室のランプは、いつまでも消えなかった。 空が明るくなり、また暗くなるまで。 廊下を行き交う人が、何度も入れ替わるまで。 とうとう泣く声さえ出なくなるまで。 やがて、医師がマスクを外して出てきた。 その目は重く沈んでいた。 「高瀬さん。できる限りの処置はしましたが……残念ながら、お力になれませんでした」 その瞬間、世界からすべての音が消えた。 母がいなくなったのだと、残酷なほどはっきり分かった。 私を困らせまいと、冷や汗を流すほど痛くても「大丈夫」と言った人。 入院するたびに費用を気にして、薬を勝手に減らしていた人。 親戚に「うちの娘は立派になった」と、嬉しそうに話していた人。 その人が、もういない。 私はその場に立ち尽くした。 涙すら出なかった。 …… その後の数日間、私は抜け殻のようになりながら、たった一人で母の葬儀を終えた。 そして、最後の荷物を引き取るために病院へ戻った。 病室にはもう別の患者が入り、シーツは真っ白に取り替えられていた。 窓辺には、小さな鉢植えだけが残っていた。 入院した初日、母を元気づけたくて買ったものだった。 「美緒、退院するときはこれも家に持って帰ろうね。お母さんが元気いっぱいに育ててあげるから」 鉢を抱き上げると、涙が土に落ちた。 スマホにメッセージが届いた。 創真からだった。 【今どこにいる?】 返信しなかった。 続けて、また届いた。 【あの日は言い方がきつかった】 【一度会いたい】 【顔を見て話せないか?】 私は答えず、スマホの電源を切った。 母が残したわずかな荷物を抱え、病院を出た。 ところが正面玄関まで来ると、創真が立っていた。 ずいぶん長く待っていたようだった。白衣を腕に掛け、目には赤い血管が浮いていた。 私を見つけると、足早に近づいてきた。 「美緒」 私は立ち止まったが、何も言わなかった。 青ざめた私の顔を見て、創真は深く眉を寄せた。 「どうして何日も電話に出なかったんだ?お母さんの具合は?」 「お母さん」という言葉に、指先がかすかに震えた。 けれど、取り乱す力も、彼を責める力も、もう残っていなかった。 創真は声を和らげた。 「あの日は俺が悪かった。嘘をついてるなんて言うべきじゃなかった。あとで考えたんだ。お母さんの体が弱いのは事実だ。今度から特別枠で診てもらえるよう手配する。専門医にも連絡するし、必要なら付き添いの人も探す」 彼はいったん言葉を切った。 大きく譲歩したつもりなのだろう。 「美緒、今まで俺にも悪いところがあった。それは認める。これからは直す」 私は彼を見た。 あまりに馬鹿げていた。 以前の私なら、この言葉を聞いて泣いていただろう。 ようやく待ち望んでいたものを手に入れたと思ったはずだ。 けれど、もう遅すぎた。 母はすでに、冷たい土の下に眠っている。 彼を憎む力さえ、私には残っていなかった。 私は創真を避けて、そのまま歩き出した。 創真は私の手首をつかんだ。 「美緒、まだ怒ってるのか?ここまで譲ったのに、ほかにどうしろっていうんだ?」 手首をつかむ彼の手を見下ろし、風のようにかすかな声で言った。 「離して」 彼は固まった。 泣きも怒りもせず、助けを求めもしない私を見るのは、初めてだったのだろう。 そのとき、一人の看護師が慌ただしく駆け寄ってきた。 「黒川先生、高瀬さんのお母さまは数日前に亡くなられたと伺いました。先生からご依頼のあった付き添いの方と特別室の手配は、どういたしましょうか?」