四度目の婚姻届、もうあなたを待たない

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婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。 画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。 「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」 私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。 「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」 蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。 「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」 朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。 そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。 添えられた言葉は、たった一言だった。 【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】 ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。 映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。 「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」 私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。 私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。 ようやく私を見てくれたのだと思っていた。 けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。 市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。 今度こそ、もう蒼士を待たない。

Chapters (1)

第1章

婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。 画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。 「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」 私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。 「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」 蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。 「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」 朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。 そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。 添えられた言葉は、たった一言だった。 【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】 ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。 映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。 「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」 私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。 私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。 ようやく私を見てくれたのだと思っていた。 けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。 市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。 今度こそ、もう蒼士を待たない。 第1話 蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。 窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。 「お手続きは、どうなさいますか?」 口を開いたものの、声が出なかった。 後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。 私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。 手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。 朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。 そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。 「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」 そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。 「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」 あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。 けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。 17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。 職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。 「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」 私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。 ようやく蒼士からメッセージが届いた。 【電気は直った】 【先に帰ってて。俺もあとで戻る】 その2行を、私はいつまでも見つめていた。 まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。 謝罪の一言さえなかった。 外はすっかり暗くなっていた。 私は一人で新居に帰った。 玄関には、スリッパが3足並んでいた。 グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。 その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。 前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。 蒼士はその翌日に買ってきた。 私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。 蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。 「千紗は寒さに強いだろ?」 玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。 蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。 手には焼き栗の紙袋を提げていた。 リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。 「帰りに買ったの?」 蒼士は一瞬、言葉に詰まった。 「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買った」 紙袋を私に差し出した。 「まだ温かいぞ。いつまでもむくれるなよ」 私は受け取らなかった。 蒼士が眉をひそめた。 「今日のことは、わざとじゃない。あっちは本当に真っ暗だったんだ。電話口で泣いてたのに、放っておけるわけないだろ」 私は目を伏せた。 「じゃあ、私は?」 蒼士は少し黙った。 「千紗は違うだろ」 その言葉なら、もう何度も聞いてきた。 千紗は違う。 暗いところも平気だ。 寒さにも強い。 泣いたりしない。 蒼士は焼き栗をローテーブルに置き、少しだけ声を和らげた。 「明日、もう一度行こう。それでいいだろ?」 私は紙袋を見つめた。 袋に印刷されているのは、西町商店街にある店の名前だった。 由良がいちばん気に入っている店だ。 市役所からはずいぶん離れている。 街を横切って焼き栗を買いに行く時間はあっても、私と婚姻届を出すために戻る時間はなかったらしい。 私は本人確認書類をバッグから取り出した。 いつものように蒼士の引き出しに入れず、自分のスーツケースの内ポケットにしまった。 それに気づいた蒼士の顔が険しくなる。 「千紗、今度は何のつもりだ?」 私はファスナーを閉めた。 「別に。明日、話せばいいよ」 第2話 翌朝早く、蒼士が寝室のドアを軽く叩いた。 目を覚ますと、蒼士はもう着替えを済ませていた。 白いシャツに、黒いスラックス。 昨日と同じ服装だった。 「起きろよ」 昨夜よりも、いくらか穏やかな声だった。 「先に写真を撮り直して、それから市役所へ行こう」 蒼士を見つめた瞬間、胸が鈍く一度脈打った。 消えかけた灰の奥で、小さな火種が再び灯ったようだった。 顔を洗い、メイクをして、シャツにもう一度アイロンをかけた。 家を出る直前、蒼士のスマホに電話がかかってきた。 玄関に立ったまま、私の指先には少しずつ力が入った。 蒼士は私を一度見ると、そのままスピーカーモードに切り替えた。 由良の甘く弱々しい声が流れてくる。 「蒼くん、二人の邪魔をするつもりじゃなかったの。今日は写真スタジオを予約してるんだ。つらかったことに区切りをつけたくて、記念写真を撮ろうと思って」 由良はそこで言葉を切った。 「でも、急に午後まで待ってほしいって言われたの。一人で待っているのが、少しつらくて……」 蒼士は数秒、黙り込んだ。 次に何を言うのか、私にはもう分かっていた。 案の定、蒼士は私を見た。 「先に写真スタジオへ行こう」 私はかすかに口元をゆがめた。 「それから?」 「俺たちも結婚の記念写真を撮り直すんだし、ちょうどいいだろ。一緒に撮ればいい」 ごく当然のことのように言った。 私たちのために取っておいた時間を由良に譲ることなど、蒼士にとっては大した問題ではないのだろう。 写真スタジオには、すでに由良が来ていた。 オフホワイトのワンピースを着て、髪を肩まで下ろした姿は、清楚で無垢に見えた。 私を見ると、由良は申し訳なさそうに笑った。 「千紗、二人の邪魔にならない?」 私が答えるより早く、蒼士が口を開いた。 「大丈夫だ」 カメラマンが受付票を手にやってきた。 「どなたから撮影しますか?」 蒼士は由良を見た。 「由良からお願いします。やっと気持ちが落ち着いたところなので」 私は脇の椅子に座り、由良が背景布の前に立つのを見ていた。 1枚目では、由良の笑顔がぎこちなかった。 蒼士がそばへ行き、顔にかかった髪を整えてやった。 「そんなに硬くなるなよ。昔みたいに笑えばいい」 2枚目では、由良がスカートの裾がきれいに広がらないと言った。 蒼士はしゃがみ込み、裾を丁寧に整えてやった。 3枚目を撮る前、由良は蒼士の指輪を見つめた。 「ちょっとだけ貸して。昔のことに区切りをつけるためだから」 冗談めかしてそう言うと、蒼士は自分の指輪を外し、由良に渡した。 その指輪が由良の手の中に収まるのを、私はただ見ていた。 私が選んだ指輪だった。 内側には、私と蒼士のイニシャルが刻まれている。 カメラマンが気まずそうに私を見た。 「藤岡様、先にメイクを直されますか?」 私は自分の頬に触れた。 メイクが崩れていたわけではない。待ち続けたせいで、口紅が少し薄くなっていただけだった。 由良の撮影は、1時間以上続いた。 ようやく私たちの番になると、私は由良の手にある指輪を見て、静かに言った。 「もう返してあげて」 由良は今気づいたかのように目を落とし、かすかに笑った。 「ごめん。さっき、強く握りすぎちゃった」 蒼士が手を伸ばす。 「気にするな」 受け取った指輪を、ティッシュで丁寧に拭いた。 その手つきを見ているうちに、初めて自分の指輪をはめた日のことを思い出した。 少しきつかったので、外すのを手伝ってほしいと蒼士に頼んだ。 けれど蒼士は由良への返信に気を取られ、顔も上げなかった。 「せっけんをつければ抜けるだろ?」 あの日、私の指には一周、赤い擦り傷が残った。 ようやく蒼士が私の隣へ来た。 カメラマンがカメラを構える。 「もう少し、お二人の距離を近づけてください」 蒼士はスマホに目をやった。 「早めにお願いします。由良がまだ昼を食べていないので」 シャッター音が響いた。 写真の中の私は背筋を伸ばし、こわばった笑みを浮かべていた。 蒼士は写真を一度見ただけだった。 「これでいいです」 カメラマンがためらう。 「お連れ様のお顔が少し硬いようですが、撮り直しますか?」 蒼士はもう上着を手に取っていた。 「写真なんて、写ってさえいれば十分です」 これで十分。 蒼士にとって、私との結婚までその程度のものだったのだ。 スタジオを出ると、由良が蒼士の袖をそっとつまんだ。 「蒼くん、この前のお店のパスタが食べたい」 蒼士が由良に顔を向けた。 「行こう」 二人は肩を並べて歩きだした。 陽射しに包まれた後ろ姿は、撮りたての一枚のように見えた。 私はそのフレームの外に立っていた。 数歩進んだところで、蒼士がようやく振り返った。 「千紗、何をぼんやりしてるんだ?」 私はバッグから、さっき撮った写真を取り出した。 端から少しずつ破っていく。 細かな紙片が、ごみ箱に落ちていった。 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。 「二人で行って。今日はもう、婚姻届を出さない」 第3話 蒼士は、私がまだ機嫌を損ねているだけだと思っていた。 夜、新居へ戻ってきた蒼士は紙袋を一つ持っていた。 中に入っていたのは、白いボレロだった。 「昨日も今日も、千紗のことまで気が回らなかったから」 蒼士はそれを私に羽織らせた。 「この色、千紗に似合うと思って」 私はボレロに目を落とした。 値札さえ外されていない。サイズは小さめだった。 由良ならちょうどいいが、私には肩まわりがきつい。 蒼士は気づかなかった。 いや、私に何が合うのか、初めからきちんと見たことなどなかったのだ。 3日目、蒼士は仕上がったばかりの新居を見に、私を連れていった。 二人で選んだ部屋だった。 けれど、実際にインテリアショップを回り、カーテンを決め、取りつけに立ち会ったのは、ずっと私一人だった。 蒼士は仕事が忙しく、そういうことを面倒がった。 「千紗の好きなようにすればいいよ。俺はどこに住んでも構わないから」 以前の私は、その言葉がうれしかった。 私の好みを尊重してくれているのだと思っていた。 今なら分かる。ただ、どうでもよかっただけだ。 リビングの隅には、月をかたどったランプが置かれていた。 時間をかけて選んだものだった。 すりガラスのシェードは、明かりをつけると柔らかな霧をまとった小さな月のように見える。 蒼士は初めて見たとき、子どもっぽいと笑った。 「こんなのを新居に置いたら、子ども部屋みたいだな」 けれど今日は、由良も来ていた。 由良はランプの前に立ち、長い間眺めていた。 「きれい。私の部屋、夜になると暗いの。天井の照明はまぶしすぎるし」 蒼士の目元が、たちまち和らいだ。 「気に入ったなら持って帰れよ」 私の指先に力が入った。 「これは、新居に置くために私が買ったものだよ」 蒼士が振り返った。 「また買えばいいだろ?」 由良が唇をかんだ。 「やっぱりいいよ。千紗も気に入ってるみたいだし」 蒼士は構わず、作業員に配線を外すよう頼んだ。 「千紗はそんなに心が狭くない」 私はその場に立ったまま、ランプが部屋の隅から運び出されるのを見ていた。 コードが巻かれ、由良の車に積み込まれていく。 その瞬間、ずっと昔のことを思い出した。 蒼士と初めて夜店へ行った日。 星をかたどったランプが欲しくて、私は財布を握ったまま長いこと迷っていた。 蒼士が買ってくれたものの、由良が少し目を留めただけで、すぐ彼女に袋を渡した。 「千紗には、また今度買えばいい」 また今度。 明日。 いつか。 そんな言葉が目に見えない網となって、何年もの間、私を閉じ込めていた。 蒼士は予備のカードキーまで由良に渡した。 「夜が怖くなったら、ここに泊まればいい」 私は蒼士を見つめた。 「ここは、私たちの新居だよ」 蒼士は眉をひそめた。 「たまに来るだけだ。そんな言い方するなよ」 由良はカードキーを握り、小さな声で言った。 「千紗、やっぱり受け取らないほうがいい?」 蒼士が遮った。 「持ってろ」 それから私に向き直り、きつい口調で続けた。 「どうしていつも、俺を困らせるんだ?」 私は思わず笑った。 蒼士を困らせているのは、私だったらしい。 突然、蒼士を呼び出す由良ではない。 何度も蒼士を呼び出し、私を置き去りにさせた由良でもない。 ようやく「嫌だ」と口にした私が、蒼士を困らせているのだ。 家に戻ると、私はクローゼットを開けた。 中には、ドレスショップから届いた白いワンピースが掛かっていた。 その隣には、蒼士が適当に選んだ小さめのボレロがある。 私はボレロを畳んで紙袋に戻した。 白いシャツと本人確認書類、それに数日分の着替えをスーツケースに入れた。 ファスナーが閉じる音は、とても小さかった。 蒼士はリビングで、由良にボイスメッセージを送っていた。 「ランプを取りつけたら連絡して。怖がらなくていい。いつでも電話に出るから」 私は寝室のドアの陰に立ち、長いことその声を聞いていた。 それから、スマホで列車の予約画面を開いた。 行き先は、汐見町。 明日の11時20分発。 購入を確定した。 あの瞬間、逃げると決めたわけではなかった。 ただ、一度くらい蒼士が私を引き留めるのか、確かめたかった。 第4話 4日目は、もう一度、二人で婚姻届を出すと約束した日だった。 昨夜、眠る前に蒼士が私を抱きしめた。 蒼士から抱きしめてくることは、めったにない。 腕に力がこもると、服からほのかなウッディ系の香りがした。 「千紗、もう意地を張るなよ」 蒼士は顎を私の頭にのせた。 「明日はどこにも行かない」 私は離れようとはしなかった。けれど、抱き返すこともしなかった。 ただ一つ、尋ねた。 「蒼士、本当に私と結婚したいの?」 蒼士の体が一瞬、こわばった。 ほんのわずかな変化だった。 腕の中にいなければ、気づかなかったかもしれない。 「もちろん」 蒼士は私の髪をなでた。 「ここまで来たんだから」 ここまで来たから。 愛しているからではない。 長く一緒にいたから。結婚相手として無難だから。そして由良に選ばれなかった蒼士のそばに、ちょうど私がいたから。 翌朝、私は早く起きた。 白いシャツにアイロンをかけ、髪をまとめ、必要書類をバッグに入れた。 玄関で靴を履いていた蒼士のスマホが鳴ったとき、私はもう顔を上げなかった。 画面を見た蒼士の眉が、わずかに動いた。 受話口から由良の声が漏れてきた。 「蒼くん、私、今日ここを離れるの。切符も取った。改札まででいいから、見送りに来てくれない?」 蒼士は何も言わなかった。 私は蒼士を見た。 蒼士は私の目を避けた。 「千紗」 私は、その先を代わりに口にした。 「由良を見送りに行くんだね」 蒼士は眉間を指で押さえた。 「今度こそ、本当にこの街を離れるらしい。見送るだけだ。婚姻届は午後からでも出せる」 私はバッグを肩に掛けた。 「午前中に二人で行くって約束したよね」 「じゃあ、午後に変えればいい」 「午後の予約枠はもう空いていない」 蒼士はついに苛立ちを見せた。 「だったら明日でいいだろ。千紗、婚姻届は今日しか出せないわけじゃない」 私は黙って蒼士を見つめた。 「じゃあ、私は?」 蒼士は動きを止めた。 私はゆっくりと、蒼士の前まで歩み寄った。 「由良が暗いところを怖がれば、駆けつける。写真を撮りたがれば、付き添う。ランプが欲しいと言えば、持たせる。今度は見送ってほしいと言われたから、また行くんだね」 声はひどく静かだった。 「蒼士、私だって怖いものはあるよ」 一瞬、蒼士の表情が揺らいだ。 けれど、電話の向こうで由良がか細く名前を呼んだ。 「蒼くん……」 蒼士は目を閉じた。 再び開いたときには、もう車の鍵を手にしていた。 「結婚を盾にして、俺を縛るなよ」 その言葉は、扉の向こうから吹き込む風よりも冷たかった。 蒼士がドアを開ける。 廊下の明かりが差し込み、その肩を照らした。 私は不意に口を開いた。 「蒼士」 足を止めたものの、蒼士は振り返らなかった。 「今日ここから出ていったら、私たちは終わりだよ」 その背中が止まった。 数秒後、低い声が返ってきた。 「勢いでそんなことを言うな」 ドアが閉まり、部屋は静まり返った。 スマホに、今日の予定を知らせる通知が表示された。 約束の時間まで、あと40分。 私はバッグから予定を書いたメモを取り出した。 紙の端には、握りしめた跡が深く残っていた。 市役所の前では、風にあおられた木の葉が音を立てていた。 私は中へ入らなかった。階段の下に立ち、蒼士の番号を着信拒否にした。 汐見町へ向かう次の列車は、あと20分で発車する。 駅のアナウンスが流れたとき、私は窓際の席に座っていた。 スーツケースは足元に置き、本人確認書類はバッグの底にしまった。 最後に一度、スマホが震えた。 由良がタイムラインに新しい投稿をしていた。 【出発は明日に変えた。それでも、誰かが見送りに来てくれるのか確かめたかった】 添えられた写真に写る切符の日付は、明日だった。 そして蒼士から届いた最後のメッセージが、通知画面に残っていた。 【由良を改札まで送ったら、すぐ千紗のところへ行く】 列車がゆっくりと動きだした。 窓ガラスに映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。 私は約束を書いたメモを二つに折り、破った。 紙片が、手元のごみ袋に落ちていく。 まるで7年も遅れて、ようやく届いた答えのようだった。