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俺を殺した彼女が、世界を越えて追ってくる
俺――瀬川理人(せがわ りひと)は、裏社会を仕切る久世美月(くぜ みづき)が、自分の想い人を守るために選んだ身代わりだった。 結婚して3年目、俺は8度目となる美月の敵対者による拉致を受けた。 美月は部下を連れて助けに来たが、交渉が始まって5分もしないうちに、彼女の想い人の相沢航(あいざわ わたる)から電話がかかってきた。 「美月さん、罰ゲームで、ここにいる女の人とキスしなきゃいけなくなったんだ。でも、初めてのキスは美月さんにあげたい。こっちに来てくれない?」 美月がためらいもなく立ち去った瞬間、刃物が俺の腹部に突き刺さり、血が噴き出した。 彼女の部下は、これまでの7回と同じように金で話をつけ、俺を病院へ運んだ。 救急車の中では、航が一人前になる日まで俺が生きていられるか、誰かが面白半分に賭けていた。 皆がどっと笑うなか、泣いていたのは俺だけだった。 裏社会の女帝を救うという任務は失敗し、俺は間もなくシステムに消去される。 美月、俺はその日まで生きられない。
Chapters (1)
第1章
俺――瀬川理人(せがわ りひと)は、裏社会を仕切る久世美月(くぜ みづき)が、自分の想い人を守るために選んだ身代わりだった。
結婚して3年目、俺は8度目となる美月の敵対者による拉致を受けた。
美月は部下を連れて助けに来たが、交渉が始まって5分もしないうちに、彼女の想い人の相沢航(あいざわ わたる)から電話がかかってきた。
「美月さん、罰ゲームで、ここにいる女の人とキスしなきゃいけなくなったんだ。でも、初めてのキスは美月さんにあげたい。こっちに来てくれない?」
美月がためらいもなく立ち去った瞬間、刃物が俺の腹部に突き刺さり、血が噴き出した。
彼女の部下は、これまでの7回と同じように金で話をつけ、俺を病院へ運んだ。
救急車の中では、航が一人前になる日まで俺が生きていられるか、誰かが面白半分に賭けていた。
皆がどっと笑うなか、泣いていたのは俺だけだった。
裏社会の女帝を救うという任務は失敗し、俺は間もなくシステムに消去される。
美月、俺はその日まで生きられない。
第1話
医師が耳元でため息をついた。
「瀬川さん。前回のけがで腸が損傷し、感染まで起こしたのに、今回もまた同じ場所を刺されています。このまま十分に休養を取らなければ、腸がんを引き起こす可能性もあります」
俺は天井を見つめた。自分の声がひどく遠くから聞こえるようだった。
「分かりました。もう、いいんです」
医師が出ていくと、システムまでため息をついた。
「任務は失敗しました。あなたは消去されます。任務をやり直し、もう一度彼女を救いますか?」
俺は首を横に振った。
「消してくれ」
「分かりました。消去プログラムを開始します。残り時間は72時間です」
目を閉じると、辺りはしんと静まり返った。
それなのに、しばらくすると何かに取りつかれたように航のライブ配信を開いていた。
航は今日、美月に買ってもらった郊外の屋敷で、絵を描く様子を配信していた。
画面の中の航はゆったりとしたシャツを着て、手首にはヘアゴムを通し、イーゼルの前で絵の具を混ぜていた。
胸元には赤い痕が残っていたが、航は俺より2歳年下なだけなのに、澄んだ目で明るく笑うその姿は、いつまでも社会に出たばかりの好青年のように見えた。
「ヘアゴム?彼女のだよ。この痕は……みんななら分かるよね。昨日の夜、ちょっと激しくてさ」
そう言うと、航はカメラの外にいる誰かを振り返り、目を細めて笑った。
「初キスと初夜が同じ日になるなんて、俺も思わなかった」
女の穏やかな声が聞こえた。
「あなたも同じくらい、私に痕をつけたでしょう?」
コメント欄は歓声で埋め尽くされた。
【航くん、ついに憧れの人と結ばれたんだ!もっと二人の日常を見せて!】
「二人の日常を配信するのは難しいかな。彼女は仕事が特殊だから、顔は出せないんだ」
話しているうちに、シャツの袖に赤い絵の具がつき、ヘアゴムにも少し色が移った。
航が小さく声を上げると、細く白い指が画面に伸び、袖を整えた。
その薬指には、帆船をかたどった指輪がはまっていた。
「汚れても平気よ。また今度、私が使ったものをあげるから」
航の笑みがさらに深くなった。絵の具を置くと、その手をつかんで画面の外へ連れていった。
カメラの外から、想像をかき立てるキスの音と荒い息遣いが聞こえた。
コメントが目まぐるしく流れるなか、こんな書き込みが目に入った。
【今の声、裏社会の大物・久世美月じゃない?】
女が口を開くと、その声は一転して冷たくなった。
「私ではありません」
配信は突然途切れた。俺はスマホを置き、そのまま深い眠りに落ちた。
夢の中で、俺は片づけをしている最中、彼女のアクセサリーがぎっしり入った箱を、誤って倒した。
慌てて謝ったが、彼女は激怒し、勝手に私物に触るなと怒鳴った。
その箱はごみとして捨てられ、それ以来、家の中で彼女の私物を目にすることはなかった。
夢の最後に残ったのは、美月の後ろ姿だった。
この3年間、俺が苦しんでいるさなかに、航のもとへ急いで向かったときと同じ後ろ姿だった。
うとうとしたまま目を覚ますと、真っ先に帆船の指輪が目に入った。
視線を上げると、航はシンプルなTシャツとジーンズに着替え、保温ポットに入っていたスープを勢いよく飲んでいた。
家政婦が申し訳なさそうに言った。
「瀬川さん、申し訳ありません。お食事を一人分しか用意していなかったうえ、相沢さんもこのスープがお好きだったものですから」
「あ、全部飲んでしまった。理人さん、ごめん」
第2話
航は、それが入院患者である俺のために作られた食事だと、今になって気づいたような顔をした。一瞬、気まずそうに目を伏せると、何も言わずに口をつぐんだ。
美月が病室へ入ってきたとき、航は両手を固く握り、何度も俺に頭を下げていた。
「理人、また何をしたの!航は心配して見舞いに来てくれたのよ!」
家政婦が気まずそうに説明しようとしたが、航が先に口を挟んだ。
「美月さん、怒らないでくれ。腹が減っていて、スープの匂いにつられたんだ。少しだけのつもりだったけど、全部飲んでしまって……理人さんが怒るのも無理はないよ」
航が申し訳なさそうに何度も頭を下げると、美月は痛ましげに航を見た。
「たかがスープ一杯でしょう。退院したら、いくらでも飲ませてあげる。航を責めるほどのこと?」
美月は家政婦を冷たく見た。
「航は最近食欲がなかったのに、あんたのスープは珍しく気に入ったみたいね。今すぐ戻ってもう一度作って、航の屋敷へ届けて」
家政婦は慌ただしく出ていった。美月は表情を和らげ、航の肩を支え、顔を上げさせた。
「もう頭を下げなくていい。このままじゃ腰を痛めるわよ」
航はようやく体を起こして笑った。
「大丈夫。まだまだ美月さんを喜ばせないといけないから」
二人は楽しそうに笑い合いながら病室を出ていき、辺りは再び静かになった。
これまで何度も繰り返されてきた誤解も、叱責も、詰問も、今日は不思議なほど心を揺らさなかった。
もう言い争いたくも、騒ぎたくも、弁解したくもなかった。
それから1時間後、医師が傷を診に来たとき、美月の部下が気だるそうに扉を開けた。敵対者がまだ動いているから、早く退院しろとせかされた。
一人だけ、気の毒そうに俺を見て、鎮痛剤を多めにもらうかと聞いてきた。
俺は首を横に振った。
「もういい」
この程度の痛みには、もう慣れていた。
部下は俺を家の前まで送り届けると、薬の袋だけを置いて走り去った。
美月が俺を軽んじているから、部下たちも俺を人として扱わなかった。
袋を提げて玄関を開けたが、家の中はひっそりとしており、掃除に来る家政婦の姿さえなかった。
美月から電話がかかってきた。その声はいつもどおり冷たく、ぬくもりがなかった。
「航の具合が悪いの。あんたのところの家政婦は気が利くから、全員こっちへ来させたわ。しばらく一人で過ごして。航がよくなったら戻すから」
敵に5か所も刺され、死にかけたのが航であるかのような言い方だった。
「分かった」
淡々と答えると、美月はしばらく黙ってから続けた。
「食べたいものがあったら、メモしておいて。家政婦が戻ったら作らせるから」
「分かった」
電話越しでも、美月が眉をひそめている様子が目に浮かんだ。
「何を拗ねてるの?スープ一杯のことで?理人、忘れないで。結婚するときに言ったでしょう。あんたは航の身代わりにすぎない。3年間、私の夫だったからといって、航より上だと思わないで!」
俺は機械的にうなずいた。
「分かった」
「あんた……」
美月が怒りをあらわにしかけたとき、電話の向こうから航の声がした。
「美月さん、早くケーキ食べよう!」
電話は切れた。
システムに消去されるまで、残り48時間。
腹が減っていたが、台所へ行くと食材はすべて持ち出され、冷蔵庫は空だった。
美月は特殊な立場にいるため、俺が出前を頼むことを決して許さなかった。
仕方なく戸棚を探し回り、賞味期限の切れたインスタント麺を一袋だけ見つけた。
電気ケトルは壊れたまま放置されていたため、仕方なく鍋で湯を沸かし、麺を戻して食卓へ運んだ。
そのとき、航がライブ配信を始めたという通知が表示された。
今日は屋敷ではなかった。背景からすると、温泉宿らしい。
航はゆったりとしたTシャツを着て、美月のヘアゴムで少し長めの髪を後ろに束ねていた。
ケーキを食べながら視聴者とやり取りし、カメラの外にいる女も時折フォークを伸ばして一口食べていた。そのたびに航は、愛情のこもった視線を向けた。
【二人の日常、本当に配信できないの?この指を見ただけで、すごい美人だって分かる!】
航は首を横に振った。
「俺の彼女は世界で一番きれいな人だよ。笑ってくれると、それだけで幸せになるんだ。先に好きだと言ってくれたのは彼女なんだ。でも俺はあれこれ不安で、ずっと返事を延ばしていて、ようやく付き合うことにした」
第3話
「ケーキより、俺たちのほうが甘いかもな」
女がくすりと笑うと、航も目を細めて笑った。
航がケーキを半分食べ終えたころ、俺もまずいインスタント麺を食べ終えた。
画面の中で、航のもう一台のスマホが光った。内容を確認した途端、航は大きく目を見開き、動揺を隠せない様子だった。
ほどなくして、10万人を超える視聴者の前で息をのみ、全身を震わせた。
配信が慌ただしく終了した直後、美月から電話がかかってきた。
開口一番、激しい怒声を浴びせられた。
「理人、スープ一杯と家政婦のことで、私と航が付き合っていることをネットに流すなんて!それで航が傷つけられたら、あんたが何度死んだところで償いきれないわ!」
俺は口を開いた。
「何のことか分からない。家に戻ってから、ずっと食事を……」
「まだ認めないの?その写真は、航が間違えてあんただけに送ったものだと言っている。他の誰にも見せていないし、私さえ持っていない!
それに、今日食事をしている宿には、以前あんたも来たことがある。さっき配信を見ていたことも分かってる」
最後の言葉は、歯を食いしばるような声だった。
今、俺が目の前にいたなら、きっと蹴り倒して跪かせ、航に謝らせただろう。
去年の冬もそうだった。バスケットボールをしたあと膝が痛いと言い出した航が、俺に世話をしてほしいと名指しした。
だが、腸を損傷して体が弱っていた俺が「悪いけど」と言っただけで、美月は俺を蹴り倒した。
あの日、俺は何度も土下座を強要されて、ついには額から血が滲むほどだった。そこまでしてようやく、航は傷ついたように目を伏せ、「もういい」と言った。
電話越しに聞こえる美月の荒い息が、俺を記憶から引き戻した。
インスタント麺の残り汁を見つめながら言った。
「俺じゃない。そんなことをする理由もない」
すると航が、再び怯えたような声を挟んだ。
「美月さん、外から誰かに見られている気がする。怖い……」
電話が切れたあと、俺は食卓の前で身動きもせず、ぼんやり座っていた。
案の定、10分もしないうちに美月の部下が暗証番号を入力して入ってきた。俺を引きずりながら言った。
「早く来い。姉貴が、航さんの身代わりになれってさ!」
……
温泉宿の部屋には、床から天井まで届く大きな窓があった。
俺はその窓の前に置かれた食卓に座り、本を読むよう命じられた。
部屋の一番安全な隅では、美月が怯える航を優しくなだめていた。
「怖がらなくていい。私がいる。必ず守るから」
航は美月との距離を詰め、さりげなく彼女のジャケットに手を添えた。
「美月さん、あいつら、本当に俺を殺しに来るのか?何をされるんだろう……怖いんだ」
「大丈夫。ここは安全よ。あなたには何も起こらないと約束する」
やがて声が途切れ、航が美月を抱きしめた。
「美月さんがいなかったら、俺、どうすればいいんだろう」
「何を言っているの。私がいなくなるわけないでしょう。年を取るまで、ずっとそばにいるわ」
二人が口づけを交わす音はあまりに生々しく、本に集中しようとしても、すべて耳に入ってきた。
それは30分ほど続き、二人は最後の一線を越える寸前でようやく止まった。
「美月さん、理人さんもいるよ。いくら何でも夫なんだから、理人さんにも護衛をつけたほうがいいんじゃない?」
美月は俺を冷たく一瞥した。
「私たちの写真と居場所を漏らしたのはあの人よ。あなたが怯えることになったのも、全部自業自得」
本に書かれた文字を読もうとしたが、目の前がぼやけた。
もう胸が引き裂かれるほど苦しくはないはずなのに、どうして涙が出るのだろう。
分からなかったし、考えたくもなかった。
どれほど時間がたったのか。連日のけがと疲労に耐えられず、いつの間にか眠ってしまった。
次に目を覚ましたとき、耳元で「残り24時間です」と告げる声と同時に、美月にいきなり頬を平手打ちされた。
「理人、どうしてそこまで卑劣なの!私が眠っている隙に、こっそり入ってくるなんて!」
慌てて起き上がると腹部の傷が引きつり、思わず息をのんだ。
「同情を引こうとしても無駄よ。航はどこ!」
そのとき初めて、いつの間にか自分が寝室へ入っていたことに気づいた。
そして、航の姿が消えていた。
「分からない。昨夜は確かに窓の前に……」
第4話
「言い訳はいい!航をどこへやったの!」
俺は首を横に振った。
「知らない」
「本当に何も知らないんでしょうね。もしあんたの仕業だったら、ただじゃおかないわ!」
美月は歯を食いしばってそう言い捨てると、外へ飛び出した。方々へ電話をかけ、ようやく航の居場所を突き止めた。
「何人か寄こして。こいつも連れていく!」
両足を縛られた俺は、美月が運転する車の後部座席へ押し込まれた。彼女はアクセルを目いっぱい踏み込んだ。
結婚して3年、美月はいつも冷酷で落ち着いていた。これほど取り乱す姿を見たのは初めてだった。
海辺に着くと、両手首を縛られた航が、船から吊るされていた。航は悲鳴のような声を張り上げた。
「美月さん、遅いよ!怖かったんだ。早く助けて!」
「航!」
美月は切羽詰まった声で名を呼び、船上の敵を険しい目でにらんだ。
「航を放して。代わりに夫を差し出す。縄張りを二つ、それに店を10軒つけるわ」
敵のいかつい顔に笑みが浮かんだ。
「話は決まりだ」
俺がゆっくり吊り上げられていく一方で、美月は航をきつく抱きしめ、落ち着かせるように声をかけていた。
最も高い位置まで吊り上げられたとき、彼女は愛する男を連れて背を向けた。
またあの後ろ姿だった。ただ今回は、その隣に航がいた。
敵は煙草に火をつけ、こちらを横目で見た。
「始めろ」
真っ赤に焼けた鉄を肌へ押しつけられ、耐えきれず絶叫した。
「いっそ殺せ!」
男は首を横に振った。
「楽に死なせたら、殺された仲間に申し訳が立たない。じわじわ苦しめたほうがいい。久世美月なんて恐れるほどの相手じゃないと、裏の連中にもよく分かるだろう」
必死に身をよじっても、焼けた鉄は容赦なく何度も肌へ押しつけられた。やがて、あまりの痛みに声すら出なくなった。
何度焼かれたのかも分からない。痛みで意識が遠のきかけたころ、ようやく下へ降ろされた。
だが、息を整える暇もなく、手首に鋭い痛みが走った。
男は刃物で俺の手首を切り、そのまま海水へ沈めた。
傷口から流れ出た血が海へ広がり、周囲の水をみるみる赤く染めていった。
体を押さえつけられて身動きもできないまま、顔だけを無理やり手首へ向けられた。血が流れ出ていくさまを、否応なく見せつけられた。
不意に、乾いた笑いが漏れた。
美月。俺がここで死んだら、愛する航を守るために、また別の身代わりを探すのだろうか。
それとも、そのまま航と結婚するのか。
だが、どちらにしても、もう俺には関係なかった。
意識が遠のき、今にも気を失いそうになったころ、美月の部下たちがようやく現れた。
交渉する声が聞こえ、そのあと俺は救急車へ運び込まれた。
車内で部下たちは平然とカードゲームをしながら笑っていた。その声がうるさくて、眠ることもできなかった。
ぼんやりするなか、誰かが言った。
「姉貴は本当に航さんが大事なんだな。もう手を引くつもりだったのに、航さんの手首がちょっと擦りむけてるのを見た途端、逆上してあいつらを全員始末したらしいぞ」
「そういえば聞いたか?姉貴、航さんのために裏の世界から足を洗うんだってさ」
……
救命処置を受けて意識を取り戻すと、システムが「残り6時間です」と告げた。
救急車の中で聞いた話を思い出した。
美月は、航が手首を少し擦りむいただけで、裏の世界から足を洗うと決めた。
包帯を巻かれた自分の手首と、全身に残る数えきれない傷を見下ろし、苦く笑った。
俺が3年かけても叶えられなかったことを、航はあっさり叶えてしまった。
残念だけど、システムの任務を成功させたのは俺ではなかった。
残り4時間。医師たちの制止を振り切り、弱りきった体を引きずって屋敷へ戻った。
最後に、あの写真をもう一度見たかった。
だが、やっとの思いでたどり着いた屋敷は、庭が荒れ果て、室内もすっかり空になっていた。
客用の寝室はひどく荒らされ、引き出しの中身も消えていた。
慌てて美月へ電話をかけると、彼女は苛立ちを隠そうともせずに言った。
「裏の世界から足を洗うことにしたから、今までの不動産は全部処分するわ。表の世界で暮らせるようになったら、新しい家を買うつもりよ。あんたは適当な場所を見つけて。航が落ち着いたら、離婚するから」
俺は口を開いた。
「でも、寝室の引き出しにあったものが……」
「理人、いい加減にして!航が傷ついたのは全部あんたのせいよ。部下を迎えに行かせただけでも十分でしょう。それとも、あんた一人のために家を残して、引き出しのがらくたまで大事に取っておけと言うの?」
第5話
行くあてはなかったが、今さら住む場所を探す必要もなかった。
残り3時間。俺は玄関前の階段に座り、日差しを浴びた。
陽光が体に降り注いでも、徐々に冷えていく体を温めることはできなかった。
門がきしんだ。顔を上げると、航が腕を組んで門にもたれ、こちらを見下ろしていた。
「本当にしぶといね。あれでも死なないんだ」
一瞬言葉を失ったあと、俺は小さく笑った。
「もうすぐだ。焦らなくていい」
航が何か言いかけたとき、奥から物音がした。すると航はさっと腕を下ろし、先ほどまでの嘲りを消して、困ったような顔を作った。
「理人さん、悪気はなかったんだ。もう怒らないでくれないか。退院したばかりなんだから、無理しないほうがいい。すぐ家政婦さんに何か作ってもらうから……」
言い終わらないうちに、美月が怒りに満ちた顔で入ってきた。俺の目の前にスマホを突きつける。
画面には、誰かから届いたメッセージが表示されていた。
【姉貴の旦那、なかなかやるな。姉貴の敵全員に、姉貴が愛しているのは相沢航だから、今後は自分じゃなく航を狙えって一斉送信してる】
【写真も住所も送られてる。相沢航のSNSも全部ばらされたぞ】
逆上した美月は、俺の胸を思いきり蹴りつけた。
「助けさせるんじゃなかった。あそこで死ねばよかったのよ!」
荒い息をつきながら顔を上げると、日差しがまぶしく、目を開けていられなかった。
額に銃口が押し当てられた。金属の冷たさに、体がわずかに震えた。
「俺じゃない」
この3年間、俺は何度この言葉を口にしたのだろう。
航が慌てて駆け寄り、美月を止めた。
「美月さん、理人さんにだって事情がある。俺が美月さんを奪ったようなものなんだから、恨まれても仕方ないよ。退院したばかりなんだし、これ以上はやめてくれ。アカウントなら作り直せばいい。あいつらに狙われたって、俺なら何とかするから……」
美月は痛ましげに航を見つめた。だが、俺へ向き直ると、その顔は一瞬で険しくなった。
「あんたを選んだことを心から後悔してる。身の程もわきまえず、ここまで卑劣な人だったなんて!」
部下から電話がかかってきた。
「姉貴、敵対してる連中が何組も、航さんの命に懸賞をかけてます。どうします?航さんを連れて海外へ逃げたほうがいいんじゃないですか。誰かが屋敷の場所まで教えたらしくて、連中はもうそっちへ向かってます!」
美月の視線が俺に向いた。
「誰が教えたか、分かってる」
美月はその場でライブ配信を始めた。自らカメラの前に姿をさらすのは初めてだったが、すぐにレンズを俺へ向けた。
「久世美月です。本日をもって裏の世界から足を洗い、今後一切関わりません。私に恨みがある者は、この男のところへ行ってください。これまで私がしたことは、すべてこの男の指示です。この男とはもう縁を切ります。あとは好きにしてください」
俺は息を吸った。
「3年間、航の身代わりをさせたうえ、今度は美月の代わりに死ねと言うのか?」
美月は俺の襟首をつかみ、そのまま大通りまで引きずっていった。
路上へ放り出して立ち去るとき、冷たく言い残した。
「すべて自分で招いたことよ。生きるか死ぬかは、あんたの運次第ね」
それが、美月の背中を見た最後だった。
冷たく、迷いのない後ろ姿だった。
美月が消えてから10分もしないうちに、四方から大勢の敵が押し寄せてきた。
彼らは長年積もった恨みも怒りも、すべて俺へぶつけた。手加減する者など一人もいなかった。
両手両足の腱を断たれ、両脚を折られ、胸には何本もの刃物が突き立てられた。
彼らは親や兄弟、友人の仇を討つと叫び、顎をつかんで謝罪を迫った。
だが、もう痛みさえ感じなかった。ただぼんやりと、青く澄んだ空を見つめた。
よかった。
死ぬ前に、雲一つない広い青空を見ることができた。
この世界へ初めて来た日と、まったく同じ空だった。
「任務は失敗しました。消去を開始します。1時間後、あなたに関するすべての記録が消去されます。瀬川理人という人間は、この世界から完全に消えることになります」