舟はもう、君を待たない

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俺は瀬戸晃平(せと こうへい)。俺たちが暮らす水郷では、女性が愛する人のもとへ嫁ぐとき、自ら一艘の手漕ぎ舟を造り、その舟の上で婚礼を挙げる風習がある。 付き合って7年目の記念日、恋人の桐生未桜(きりゅう みお)は完成したばかりの舟の進水式を行った。 大勢の人が見守り、歓声を上げる中、俺の胸も激しく高鳴っていた。 いざ舟に乗ろうとしたそのとき、彼女の親友たちが声を潜めて話しているのが耳に入った。 「本当にこの舟、直樹にあげるつもり?晃平さんに怒られない?」 「そうだよ。晃平さんって結構気が強いし、あんまりやりすぎないほうがいいんじゃない?」 次の瞬間、未桜の何でもないような声が聞こえてきた。その口調には、妙な自信がにじんでいた。 「大丈夫。晃平なんてちょろいから。私のこと、死ぬほど好きだし。 それに、この水郷じゃ28歳になっても嫁をもらえなかったら、いつまでも結婚できない男だって笑われるの。だからあいつだって、騒ぐ勇気なんかないよ。 それに、婚姻届は晃平と出して、婚礼の舟は直樹にあげる。それなら公平でしょ。これで私も……心残りを一つ、なくせるし」 俺と結婚するのに、彼女の心にはまだ直樹への未練が残っていたのか。 ちょろい。 いつまでも結婚できない男。 その言葉の一つ一つが、耳の奥に鋭く突き刺さった。 喉の奥が締めつけられるように苦しかった。それでも、涙は出なかった。 ただスマホを取り出し、一通のメッセージを送った。 【母さん。言うとおりにするよ。俺ももう28歳だ。これ以上待つのはやめる】

Chapters (1)

第1章

俺は瀬戸晃平(せと こうへい)。俺たちが暮らす水郷では、女性が愛する人のもとへ嫁ぐとき、自ら一艘の手漕ぎ舟を造り、その舟の上で婚礼を挙げる風習がある。 付き合って7年目の記念日、恋人の桐生未桜(きりゅう みお)は完成したばかりの舟の進水式を行った。 大勢の人が見守り、歓声を上げる中、俺の胸も激しく高鳴っていた。 いざ舟に乗ろうとしたそのとき、彼女の親友たちが声を潜めて話しているのが耳に入った。 「本当にこの舟、直樹にあげるつもり?晃平さんに怒られない?」 「そうだよ。晃平さんって結構気が強いし、あんまりやりすぎないほうがいいんじゃない?」 次の瞬間、未桜の何でもないような声が聞こえてきた。その口調には、妙な自信がにじんでいた。 「大丈夫。晃平なんてちょろいから。私のこと、死ぬほど好きだし。 それに、この水郷じゃ28歳になっても嫁をもらえなかったら、いつまでも結婚できない男だって笑われるの。だからあいつだって、騒ぐ勇気なんかないよ。 それに、婚姻届は晃平と出して、婚礼の舟は直樹にあげる。それなら公平でしょ。これで私も……心残りを一つ、なくせるし」 俺と結婚するのに、彼女の心にはまだ直樹への未練が残っていたのか。 ちょろい。 いつまでも結婚できない男。 その言葉の一つ一つが、耳の奥に鋭く突き刺さった。 喉の奥が締めつけられるように苦しかった。それでも、涙は出なかった。 ただスマホを取り出し、一通のメッセージを送った。 【母さん。言うとおりにするよ。俺ももう28歳だ。これ以上待つのはやめる】 第1話 薔薇の花でいっぱいに飾られた新しい舟が水面に浮かぶと、周囲から囃し立てる声が上がる中、俺は背中を押された。 「晃平さん、早く乗って!」 「晃平、7年だぞ!やっとお前らも結ばれるんだな!」 親友の倉田慎吾(くらた しんご)は興奮した声を上げていた。心から俺のことを喜んでくれているのが分かる。 皆が見守る中、未桜が舟を降り、こちらへ歩いてきた。 だが、俺のそばで足を止めたのはほんの一瞬だった。そのまま俺の横を通り過ぎ、最後に立ち止まったのは相沢直樹(あいざわ なおき)の前だった。 「誕生日プレゼント。気に入った?」 その声は軽やかで、どこか彼を甘やかすような響きを帯びていた。 辺りは不自然なほど静まり返った。 直樹の目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。 二人は手をつなぎ、そのまま舟へ向かって歩いていく。 再び俺の前を通り過ぎようとしたとき、未桜は足を止め、何でもないことのように言った。 「晃平、この舟はひとまず直樹にあげることにしたの。次の舟はもう造り始めてるから、焦らないで」 面白がるように二人を見る者もいれば、俺の顔を窺う者もいた。 水郷でも有名な短気者の俺が、今にも大暴れするのを待っているようだった。 けれど、俺はただ静かに彼女を見つめた。「もういらないよ、未桜」 彼女はわずかに目を見開いた。俺がそんな反応をするとは思ってもいなかったらしい。 妙な空気になったのを察し、未桜の親友たちが慌てて彼女をかばい始めた。 「晃平さん、変に考えないで。未桜はただ、直樹の誕生日のお願いを聞いてあげただけだから!」 「そうそう。未桜のお婿さんになるのは絶対に晃平さんなんだから」 あまりにも苦しい言い訳を聞いていると、かえって笑いたくなった。 隣にいた慎吾は悔しそうに歯を食いしばった。 「未桜のやつ、よくこんなことができるな! この水郷じゃ、女が一生に一艘しか婚礼の舟を造れないことくらい、あいつだって分かってるだろ!」 胸の奥に、じわりと苦いものが込み上げた。 そうだ。この水郷では、3歳の子供でさえ知っている。 女性が自ら造った最初の舟で愛する人のもとへ嫁いで初めて、夫婦が仲睦まじく添い遂げられると言われているのだ。 隣で、慎吾が怒りを滲ませた声で吐き捨てた。 「晃平、俺まで悔しくなってくる…… 人の恋人にちょっかい出してる、ただのアシスタントだろ。未桜は何考えてんだよ!」 けれど本当は、直樹はただのアシスタントではない。 桐生家と古くから付き合いのあった家の息子で、ある事情から昔より桐生家の世話になっている。 だからこそ、未桜はいつだって直樹だけを特別扱いしてきた。 どんな場にも彼を連れていき、俺たちの記念日でさえ、俺に贈るものと同じように彼の分まで用意していた。 そしてついには、俺が7年間待ち続けた婚礼の舟まで、たった一つの「誕生日のお願い」のために彼へ贈ってしまった。 「もうどうでもいいよ、慎吾」 俺はそう言って、彼の肩を軽く叩いた。 ほどなくして、舟の上で一通りの儀式を終えた二人が岸へ戻ってきた。 直樹の口元にはまだ笑みが残っていた。こちらへ歩いてくると、いつもの無邪気な口調で言った。「晃平さん、未桜はただ僕の誕生日のお願いを聞いてくれただけですから、変に考えないでくださいね」 「未桜」、か。 ずいぶん親しげに呼ぶものだ。 俺が口を開こうとした瞬間、未桜が前へ出て、俺の肩を押さえた。「晃平、たかが舟一艘でしょ。こんなに人がいるんだから、騒がないで」 声は相変わらず優しかったが、その目にははっきりと警告の色が浮かんでいた。 「騒がないよ」俺は一歩後ろへ下がり、笑みを浮かべて直樹に頷いた。「誕生日、おめでとう」 その一言を口にした途端、辺りは奇妙な静寂に包まれた。 未桜は宙に取り残された自分の手を見て、一瞬呆然とした。 無理もない。 以前の俺なら、とっくに怒鳴り散らして大騒ぎしていたはずだから。 見ていられなくなった慎吾が、大声で未桜を問い詰めた。 「未桜、その舟をこいつにやったなら、何に乗って晃平のところへ嫁ぐつもりなんだよ! 晃平はもう7年もお前を待ってるんだぞ。いい加減、はっきり答えてやれよ!」 皆の視線が、一斉に未桜へ集まった。 俺も黙って彼女を見つめた。 心のどこかには、まだほんのわずかな期待が残っていた。 未桜。これが、俺がお前に残す最後のチャンスだ。 1秒。 2秒。 爪が掌に食い込むほど、拳をきつく握りしめた。 俺が耐えきれず、自分からその場を取り繕おうとした、そのときだった。 未桜はふっと笑い、さして気にも留めていないような口調で言った。「次こそは、絶対にね」 あまりにも軽い一言だった。 その場しのぎで、どこまでもぞんざいな答え。 胸の奥にかろうじて残っていた最後の愛情は、針を刺された風船のように一瞬でしぼんだ。 あとに残ったのは、不思議なほどの静けさだけだった。 第2話 隣にいた慎吾は怒りで目を真っ赤にしていたが、俺はそんな彼を引き止めた。 新しい舟の進水式が終わると、そのまま舟の上で祝いの宴が始まり、皆で酒を酌み交わすことになった。 近くでは、通りすがりの人たちまで足を止めて見物していた。 「また一組、夫婦になるんだね。立派な婚礼舟だなあ」 「おめでとう!」 誰かが大声で祝福する。 直樹は船首に立ち、未桜の手を握った。 「未桜、僕、もう一つ誕生日のお願いがあるんだ」 わざと周囲に聞かせるかのような大きな声に、その場にいた全員が一斉に彼へ目を向けた。 「僕……7日間だけ、未桜に僕の彼女になってほしい!」 その瞬間、場が一気に沸いた。 「付き合っちゃえ!」 「いいじゃん、受けちゃえよ!」 未桜は思わず笑い出し、その手を握り返した。迷う素振りなど、ほんの少しもなかった。「約束だからね。7日間だけよ」 最初から最後まで、彼女の視線が俺に向けられることは一度もなかった。 直樹はさりげなく俺を一瞥すると、口元の笑みをさらに深くした。 事情を知っている友人たちの視線が、時折こちらへ向けられる。 同情する者、面白がる者、憐れむ者。 これじゃ、俺はもう元彼も同然だ。そんな俺がこれ以上ここにいるのもおかしいだろう。 そう思って歩き出そうとしたとき、未桜に呼び止められた。「晃平、もう帰るの?」 「ああ。元彼がここにいたら、邪魔だろ」 彼女は眉をひそめた。 「変なこと言わないで。ただ直樹のちょっとしたお願いを聞いてあげてるだけでしょ。 先にタクシーで帰ってて。このあと直樹を家まで送らなきゃいけないから。夜、蟹おこわを買って帰るから。家で待ってて」 そう言うと、彼女は俺のバッグから車のキーを取り出し、再びあの賑やかな宴の中へ戻っていった。 その後ろ姿を見つめていると、結局、目の奥が少しだけ熱くなった。 家に帰ってしばらくすると、直樹から動画が送られてきた。 動画の中で、直樹は酒に酔ったのか顔を真っ赤にしていた。 周囲から囃し立てられ、その勢いのまま未桜をぎゅっと抱きしめた。 誰かがからかうように言った。「未桜、もういっそのこと結婚式も直樹と挙げればいいじゃん!晃平なんかより、うちの直樹のほうがずっといいだろ!」 直樹は笑いながら、形ばかりにたしなめた。「お前、飲みすぎだろ」 未桜はただ笑みを浮かべてその様子を見ているだけで、否定はしなかった。 続いて、メッセージが届いた。【晃平さん、どうして先に帰っちゃったんですか?動画送りますね。晃平さんも一緒に楽しんだ気分になってください!】 不思議なことに、そんなものを見ても、もう心は少しも波立たなかった。 俺はただ、動画に映る手漕ぎ舟をぼんやりと見つめていた。 未桜は昔、何度も俺の耳元で言っていた。 婚礼の舟は、この水郷で暮らす恋人たちにとって一生に一度の大切なものだから、何一つ妥協したくない、と。 甲板には檜を使う。両側の船べりには俺が一番好きなアイリスの花を飾る。舟の幌は俺自身がデザインする―― やっぱり、少しだけ心残りはあった。 ずっと楽しみにしていたものだから。 ただし、未練があるのは人ではない。 あの舟のほうだった。 未桜が帰ってきたのは、もうかなり遅い時間だった。 彼女は両手に何も持たず、玄関から入ってきた。 俺と目が合うと一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにこちらへ歩み寄り、いつものように俺を抱きしめた。 その瞬間、きつい男物の香水の匂いが鼻を突いた。 俺が最後に香水をつけたのは、5年前だった。 あのとき未桜は眉をひそめて言った。「男のくせに香水なんかつけて、気持ち悪くない?」 今日になって初めて分かった。 どうやら彼女が「気持ち悪い」と感じるかどうかは、相手次第だったらしい。 彼女は俺を見つめ、相変わらず優しい声で言った。「ちょっと遅くまで盛り上がっちゃった。まだ寝てなかったの?私を待ってた?」 俺は答えず、ただ尋ねた。「俺の蟹おこわは?」 未桜は俺を見ようともせず、そばにあったコップを手に取って水を一口飲んだ。 「直樹を送っていく途中で、食べてみたいって言われたから、あげちゃった。 また今度食べればいいじゃない。ね?」 これで三度目だった。 俺が食べたいと言ったのは、もう半月も前のことだ。 未桜は買ってくると約束し、実際に三度買ってはいた。 一度目は、買って帰る途中で直樹に呼び出され、そのまま彼の部屋探しに付き合った。 二度目は、直樹が職場で仲間外れにされているからと、未桜は彼に付き添って焼肉を食べに行った。 そして、今日が三度目。 俺は小さく息を吐き、胸に込み上げる苦しさを押し込めた。「未桜。俺たち、別れよう」 第3話 未桜が手にしていたコップがわずかに揺れた。 だが次の瞬間、彼女は鼻で笑った。「今度はやり方を変えたの?こっちが黙っててあげれば、いつまで続けるつもり?」 俺は一瞬呆気に取られ、彼女が何を言っているのか分からなかった。 未桜は冷笑を浮かべた。「今日、慎吾を使って、私に結婚を迫らせようとしたでしょ?それで駄目だったから、今度は別れるって言って私を焦らせるつもり?」 そこでようやく理解した。 彼女は今日、慎吾が言ったあの言葉を、俺が慎吾に言わせたのだと思っていた。俺が彼女に結婚を迫るために仕組んだのだと。 あまりに馬鹿馬鹿しく思えたが、説明する気にもならなかった。 俺は頷いた。「ああ。結婚を迫っても駄目だったから、今度は別の人と結婚しようと思ってる」 そう言うと、彼女の顔に浮かんだ嘲りはいっそう濃くなった。 「晃平、私と本当に別れられるの? もうそのくらいにしなよ。いちいち大げさに騒がないで。 あなたももう28歳でしょ。私以外に、誰があなたと結婚してくれるの? もう寝よう。明日は実家に帰って、おばあちゃんの誕生日を祝わなきゃいけないんだから」 そう言い残し、彼女は寝室へ戻っていった。 その後ろ姿を見つめながら、俺の中に残っていたのは深い疲労感だけだった。 翌日、俺は予定どおり未桜のおばあさんの誕生日祝いに顔を出した。 以前、おばあさんから宝石のついた指輪をもらっていたからだ。それだけは、きちんと返しておきたかった。 桐生家に着くと、玄関先には未桜の母親が立っていた。その隣には直樹がにこやかな顔で立っており、まるでこれから桐生家の婿になる男のようだった。 先に俺に気づいたのは直樹だった。すぐに満面の笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってきた。「晃平さん、未桜が怒ってるって言ってたから、今日は来ないのかと思ってました!」 そう言いながら、彼はわざとらしく腕時計を見せつけた。 あれは、桐生家では、婿になる男に贈ることになっているものだった。 おばあさんが用意したのは一対の指輪で、未桜の母親が用意したのは腕時計。 ただ、その腕時計はずいぶん前に未桜が母親から譲り受け、「いつか私が自分の手で晃平につけてあげる」と言っていたものだった。 もう俺が身につけることはないだろう。 未桜も腕時計に気づき、俯きながら説明した。「直樹にはちょっと貸してるだけ。そのうち返してもらうから、変に考えないで」 未桜の母親もこちらへ歩み寄ってきた。表情は淡々としていたが、その口調には俺をたしなめるような響きがあった。 「来たのね。昨日のことは聞いたわ。でも、たかが舟一艘でしょう。 直樹は今、頼れる人もいないんだから、私たちが少しくらい可愛がってあげるのは当然よ。あなたも少しはその短気なところを抑えなさい。くだらないことで騒いで、周りの笑いものにならないようにね」 誰もが、俺が怒り出すと思っている。 なのに、未桜があんなことをするのを止めた人は、一人もいなかった。 なんだか笑えてきた。 未桜はいつものように腕を絡めようと、俺に手を伸ばした。親しげな仕草で機嫌を取ろうとしたのだろう。 だが俺は体を横にずらし、その手を避けた。 行き場を失った手が宙に止まり、未桜はたちまち眉をひそめた。「今度は何なの?」 彼女は声を潜めたが、その口調には苛立ちが滲んでいた。「今日はおばあちゃんの誕生日なんだから、みんなの気分を悪くしないで。帰ったらちゃんと謝るから。それでいいでしょ?」 俺はまっすぐ顔を上げ、彼女の目を見た。「本当に怒ってない」 そして指輪を取り出し、未桜の母親へ差し出した。「おばさん、これも相沢さんにあげてください。俺は中には上がらず、このまま失礼します。おばあさんの誕生日を邪魔したくないので」 その瞬間、未桜の瞳が大きく見開かれた。 直樹は服の裾をぎゅっと握りしめ、傷つきながらも健気に身を引こうとするような顔をした。 「晃平さん、もしかして意地になってるんですか? 未桜、ごめん。全部僕が悪いんだ。欲張って、あの舟までもらったりしたから…… 僕のせいで晃平さんを怒らせちゃったんだよね。だったら、舟も腕時計も返したほうが……」 そう言いながら、何かを思いついたように慌てて腕時計を外そうとする。 ところが、どういうわけか、あれだけゆるく着けていたはずなのに、なぜかなかなか腕時計を外せなかった。 俺が指輪を取り出した瞬間に浮かんでいた未桜の焦りは、すっかり消えていた。 彼女は冷たく笑うと、俺の手から指輪を奪い取り、そのまま直樹のもとへ歩いていった。「返さなくていい。あげるって言ったんだから、あなたのものよ。ほら、この指輪もつけて」 そして俺を振り返ると、その目に露骨な軽蔑を浮かべた。 「いいよ、晃平。いつまでそんな意地を張っていられるか、見ててあげる。 あなたがいらないって言うなら、腕時計も指輪もしばらく直樹につけてもらうから。 中に入らないんでしょ?だったら早く帰れば?」 以前の俺なら、彼女にこうして挑発されればされるほど意地になり、言われたとおりにはするものかと、その場に残っていただろう。 けれど今は、不思議なほど肩の力が抜けていた。 「じゃあ、先に帰るよ」 そう言って、俺は背を向けた。 後ろから、直樹が気遣うように未桜をなだめる声が聞こえてきた。 だが未桜はますます腹を立てたらしく、さらに大きな声を上げた。「行かせればいいのよ!結婚を焦ってるうえに愛情に飢えてるから、こんなことして私を思いどおりにしようとしてるの。自分がもう何歳なのかも分かってないんだから!」 俺は振り返らず、そのままタクシーに乗り込んだ。 ちょうどそのとき、母さんからメッセージが届いた。【晃平、早く見て。お相手の女性から手漕ぎ舟が届いたわよ】 第4話 写真に写っていた舟は、未桜のあの舟よりも大きく、ずっと美しかった。 何より、船体全体が俺の一番好きなアイリスの花で飾られていて、薔薇は一輪もなかった。 家に帰ると、俺は荷物をまとめ始めた。 必要最低限の服や身分証明書などを、ひとつひとつ整理していった。 荷物を整理しているうちに、これまで二人で撮ってきた写真が目に入った。どの写真の裏にも、未桜が書いた言葉が残っていた。 俺は一枚ずつめくっていった。 水鏡湖で撮った写真の裏には、【一生、晃平にくっついて離れない】と書かれていた。 一緒に日の出を見たときの写真には、【日の出より晃平のほうがずっときれい】とあった。 俺はそれらをまとめて手に取り、一瞬だけ迷った末、すべてゴミ箱へ捨てた。 しばらくすると、階下からかすかに車の音が聞こえてきた。 突然雨が降り出したせいか、未桜はいつもよりずっと早く帰ってきた。 ドアが開くと同時に、直樹がつけている香水の匂いが部屋へ流れ込んできた。 俺は手を止めず、最後の一着をきれいに畳んだ。 未桜は靴を履き替えると寝室の入り口まで歩いてきて、ドア枠にもたれかかった。トレンチコートを無造作に腕に掛け、その顔には苛立ちが滲んでいた。 「いい加減、気は済んだ?」 声を荒らげているわけではない。だが、その口調はどこか人を見下したようにぞんざいだった。 俺はちらりと彼女を見上げただけで、スーツケースを閉じ、ファスナーを引こうとした。 俺の冷淡な態度に、彼女はとうとう我慢の限界に達したらしい。 大股でこちらへ歩み寄ると、俺のスーツケースを乱暴に引ったくった。その拍子に、ケースから乾いた音が響いた。 「いつまでこんなこと続けるつもり?」未桜は眉間に深い皺を寄せた。 「最近、会社の仕事が山ほど溜まってて、ただでさえ忙しいの。 舟の進水式でも、おばあちゃんの誕生日祝いでも、ずっと不機嫌な顔してたでしょ。そんなにみんなの前で私に恥をかかせたいわけ?」 忙しくなんかない。 直樹の機嫌を取る時間なら、いくらでもあるじゃないか。 それに何より、大勢の前で恥をかいたのは最初からお前じゃない。 俺のほうだ。 「別に、不機嫌な顔なんてしてない」 未桜は俺の手首をつかんだ。その仕草には、これでも自分は譲歩してやっているのだという傲慢さが滲んでいた。「あなたが不満なのは分かってる。でも、たかが舟一艘と腕時計一つでしょ?どっちも大したことじゃないじゃない」 俺に関することは、何だって「大したことじゃない」。 直樹に関することだけは、何だって大事なくせに。 未桜を見つめていると、ふとあの日、彼女が親友たちに言っていた言葉を思い出した。 晃平なんてちょろい。 私のことを死ぬほど愛してるんだから、本気で騒いだりできるわけがない―― 「そうだ。言っておくけど、明日から直樹と出張に行くから」 自分ではこれ以上ない切り札のつもりなのだろう。未桜は、俺の耳元でこう囁いた。 「出張から帰ってきたら、時間を作ってあなたと婚姻届を出しに行ってあげる。 7年も待ってたのは、結局、私と夫婦になりたかったからでしょ?だったら叶えてあげる」 あまりにも当然のように言うその姿は、まるで俺と結婚してやることが、この上ない施しであるかのようだった。 彼女の中では、婚礼の舟は他の男にあげてもいい。 特別な愛情も、他の男に注いでいい。 例外も、特別扱いも、そのすべてを直樹に与えていい。 俺に残されているのは、形だけの結婚の約束だけ。 それだけが、俺に用意された「結末」だった。 そんな彼女を見つめていると、俺は不意に笑ってしまった。 俺の7年間は結局、薔薇で埋め尽くされ、他の男のものになったあの婚礼の舟とともに朽ちていったのだ。 だが俺が笑ったのを見た未桜は、自分の言葉でようやく俺の機嫌が直ったのだと思ったらしい。 すっかり安心したように、表情まで軽くなった。「やっと機嫌が直った?大人しく家で待っててね」 彼女はそう言って外へ向かいながら、スマホを取り出して何度か画面を操作した。「このあと直樹とビデオ通話もしなきゃ。明日の準備もあるし……」 俺はその言葉を遮った。「未桜、明日、俺は水郷に帰る。俺――」 そのとき、突然彼女のスマホが鳴った。 未桜は片手を上げ、俺の言葉を遮った。「直樹、どうしたの?」 電話の向こうから、どこか慌てた声が聞こえてくる。「怖がらなくていい。今すぐ行くから」 電話を切ると、彼女はコートを羽織りながら俺に言った。「外、雷が鳴ってるでしょ。直樹はこういう天気になると、いつも不安になるの。ちょっと様子を見てくる。話があるなら、また今度にして」 そう言い残し、未桜は慌ただしく出ていった。 最後の言葉を、俺は結局、喉の奥へ飲み込んだ。 俺は結婚するんだ、と。 …… 一方、その頃――未桜は急いで外へ向かった。 その途中、スマホが何度か鳴った。 彼女は鼻で笑った。 さっき入籍すると約束したばかりだから、俺がまた待ちきれなくなって連絡してきたのだろう――そう思っていた。 直樹の住むマンションの前に着き、未桜はスマホを開いた。 だが、届いていたのは俺からのメッセージではなかった。 【未桜、来週の水原家のお嬢さんの結婚式、忘れずに出席してね】 その直後、結婚式の招待状が画像で送られてきた。 そこに記された内容を目にした瞬間―― 車のドアを開けようとしていた未桜の手が、ぴたりと止まった。