Loading promotion info...
99回、君を許した
付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。 最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。 2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。 それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。 とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。 ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。
Chapters (1)
第1章
付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。
最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。
2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。
それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。
とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。
ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。
第1話
役所の入口の階段は、座り続けた僕の体温で熱を帯びていた。
何度目かもわからないまま、スマホの画面をつける。瀬戸夏帆(せと かほ)からの最後のメッセージは、3時間前のままだ。
【急患が入ったの。少しだけ待ってて】
少しと言われて待っていたら、何時間も過ぎていた。
見慣れた白いSUVがようやく現れた。思わず勢いよく立ち上がりかけて、そのまま動けなくなる。
助手席にいたのは宮坂悠真(みやさか ゆうま)。どこまでも僕たちにつきまとう、あの研修医だった。
夏帆が窓を下ろす。その声には、聞き慣れた焦りがにじんでいた。
「早く乗って!悠真が急に動悸を訴えてて、すぐ病院に連れていかないと」
悠真が待っていたように苦しげなうめき声を上げ、座席で体を丸めた。そちらへ目を向けると、今日は髪まできっちりセットしている。白衣の下からのぞくシャツの襟にも、丁寧にアイロンがかかっている。
血色だって僕よりいい。
その様子を見て、突然の動悸だと素直に信じる気にはなれなかった。僕も医者だということを、夏帆は忘れたのだろうか。
深く息を吸った。
「夏帆、今日は入籍する日だって、覚えてる?」
夏帆は苛立たしげにハンドルをたたいた。
「覚えてる!でも今は悠真の容体が危ないの。こんなときまで、自分のことばかり言わないで!」
悠真が力なく顔を上げた。また、遠慮がちな、物わかりのいい顔を作っている。
「僕は大丈夫です、瀬戸先生。お二人は先に手続きを……僕は、自分でタクシーを呼びますから……」
そう言ってシートベルトを外そうとした悠真が、ふと顔をこちらに向けた。その口元に、勝ち誇った笑みが浮かぶのを僕は見逃さなかった。
こうして悠真が気を遣うふりをするほど、夏帆の目には僕がわからず屋に映る。夏帆は声を荒らげ、ベルトを外そうとする悠真の手を押さえた。
「岸本遼(きしもと りょう)、何を考えてるの!?こんな状態なのに、まだそんなことを言うの?入籍なんていつでもできるでしょう。悠真に何かあったらどうするの!命がかかってるの。わがままもいい加減にして!」
わがままなのは、僕なのか。
ここにいる3人とも医者だ。こんな下手な芝居でごまかせると思われていることが、医者としても腹立たしかった。
「午前の回診のときは、ナースステーションで冗談を言ってたよね。それが急にICUに入るほど悪くなったの?」
「いい加減にして!」
夏帆が勢いよく車のドアを開けた。
「今、脈が速くなって、息苦しがってるの。いつ何が起きても――」
「窒息する?ショックを起こす?」
僕はその先を遮った。
「心臓の病気でどんな症状が出るか、君も知っているだろう。今の彼が、そんなに切迫した状態に見える?」
悠真の演技が途切れた。取り繕おうとする顔に、焦りや戸惑いが次々と浮かぶ。
それでも夏帆は、僕が悠真を見殺しにしようとしていると決めつけていた。ますます声を荒らげる。
「もう少し大人になれないの?いつも悠真を目の敵にして、何になるの!」
目の敵、か。
悠真のためなら、夏帆はいつでも僕に譲らせ、何度でも約束を破ってきた。僕たちの関係を大事にしてほしいと、一度言っただけで、そんなふうに受け取られる。
思わず、ふっと鼻で笑った。ゆっくりと書類をポケットに戻す。
「99回目だよ」
「……何が?」
「入籍をしようとするのは、今日で99回目だ。君が彼のために僕との約束を破ったのも、これで99回目」
背を向けて地下鉄の駅へ歩きだす。背後のヒールの音が一瞬途切れ、それから僕を追ってきた。
「最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がってるからって、僕との旅行を放り出して、その夜の飛行機で病院に戻って、彼に付き添った。
次は、もう役所に入るところだったのに、彼が働きすぎで倒れたと聞いて、僕を雪の中に丸一日置き去りにした」
夏帆の目を見ながら、つかまれていた手をゆっくりと引き抜いた。
「今日で99回目だよ……夏帆、今日が付き合って7年の記念日だってことは、覚えてる?」
夏帆の目に、一瞬、動揺が浮かんだ。何か言い訳をしようとした、そのとき、車の中で悠真がまたうめいた。
夏帆は一度そちらを振り返った。僕に向き直ったとき、その目はもう、あの人を案じる色に戻っている。
「怒ってるのはわかる。でも今、悠真には私が必要なの。入籍するために治療を遅らせるわけにはいかないでしょ。タクシーで帰って。私は先に彼を病院へ連れていくから」
僕はうなずいた。
二人を乗せた車が走り去る。それを見送って、この7年の何より残酷な答えを、僕はようやく思い知った。
夏帆はいつだって、自分を必要としてくれる人を求めている。
そして、その相手は一度も、僕ではなかった。
第2話
タクシーには乗らず、歩いて帰った。家に着く頃には、もう薄暗くなっていた。
玄関に立ち、靴箱の上に飾られた二人の写真を見る。3年前、南の島で撮ったものだ。夏帆は本当に楽しそうに笑っていて、その目には星がいっぱいに詰まっているようだった。
今、その輝きはすべて、別の人に向けられている。
胸の奥から、どうしようもない無力感が湧いてきた。ソファに体を投げ出すと、スマホが震えた。夏帆からだ。
【検査が終わったよ。悠真は大丈夫。少し低血糖を起こしただけだった】
画面を見つめたまま、文字を打とうとしては指が止まる。さんざん迷って、結局送ったのは短い返事だけだった。
【わかった】
すぐに、次のメッセージが届く。
【今夜、一緒に食事しよう。いつものお店で】
断るべきだった。
けれど、再び画面が光った。
【あなたの好きな窓際の席、予約しておいたよ】
それを見ただけで、情けないほど心が揺らいだ。7年間もの習慣は恐ろしい。今度こそ、自分が悪かったと気づいて、変わろうとしているのかもしれない。
残りわずかな期待を抱いて、待ち合わせの店へ向かった。
初めてデートをした、あのイタリアンレストランだった。夏帆は念入りに化粧をして、僕が贈った赤いワンピースを着ていた。
目の前のマッシュルームのクリームスープをかき混ぜながら、以前と変わらない穏やかな様子で口を開く。
「今日のことは……私が焦りすぎたと思う」
僕は何も言わずにステーキを切った。
「でも、悠真はまだ若いし、わからないことも多いでしょう。それに、本当に何かあったら……」
ナイフとフォークが皿をこすり、耳障りな音を立てた。僕は表情を動かさず、顔を上げる。
「夏帆、この食事の間だけでいいから、彼の話をしないでもらえる?」
夏帆は一瞬きょとんとした後、笑ってうなずいた。
「わかった」
ようやく、空気が少し和らいだ。来週公開される映画のこと、新しく科に来た部長のこと。話は学生時代の失敗談にまで及んだ。
ふと、昔に戻れたように感じる瞬間もあった。
それなのに――
「もう少し早く食べて」
不意に夏帆が急かした。
「どうして?」
夏帆は手元のスマホに目を落とす。
「悠真がここのティラミスを食べたいんだって。ひとつ、持ち帰ってあげようと思って」
フォークが手から滑り、皿の上に落ちた。
「本気で言ってる?」
夏帆はもう手を上げて店員を呼んでいた。
「そうだけど。今日、具合が悪かったでしょう。元気づけてあげたいの」
「じゃあ、僕たちは……」
声が震え始めた。
「夏帆、今日は入籍するはずだったんだ。君はまた彼のために、その約束を後回しにした。今こうして、二人で落ち着いて食事をしてても、考えるのは彼に何を持っていくかってことだけか!?」
声を抑えきれない僕に、夏帆が不機嫌そうに眉を寄せた。
「また何を怒ってるの?具合の悪い人が甘いものを食べたがって、何がいけないの?」
「具合が悪い?」
僕は鼻で笑った。
「検査結果、君が送ってくれたよね。どの数値を見ても、僕より健康なくらいだったけど」
「遼!そんなに心が狭いの?たかがケーキひとつで!」
夏帆が勢いよく立ち上がり、椅子が床をこする音が響いた。周りの客が一斉にこちらを見る。店員は持ち帰り用の箱を手にしたまま、気まずそうに立ち尽くしている。
周りの目なんて、もうどうでもよかった。何年もため込んできた悔しさが、行き場を求めていた。僕も立ち上がり、冷めた目で夏帆を見た。
「心が狭い?この7年、僕は君の好きな食べ物も、嫌いなものも覚えてきた。毎月いつ生理痛でつらくなるかも、君が話してくれたことも、ひと言だって忘れずにいた。それなのに君は、僕のいちごアレルギーさえ覚えてない」
夏帆の顔から血の気が引いた。
「あなた……昔のことまで持ち出すつもり?」
「先週は彼に夜食を届けた。先月は仕事を抜けて、あいつの誕生日を祝った。これからも、いったいいくつ言い訳を聞かせるつもり?」
夏帆の視線が泳いだ。周りに見られているのが耐えられないのか、座席のバッグをつかむ。
「もう、うんざり!具合の悪い人相手に、そこまで張り合って、情けないと思わないの?」
背を向けて出ていくときにも、ティラミスだけは忘れずに持っていった。
僕はその場に立ったまま、食べ残されたステーキを見つめた。焼き加減はミディアムウェル。黒こしょうを振るのが、夏帆のいちばん好きな食べ方だった。
「お客様……こちらもお包みしましょうか?」
店員が遠慮がちに尋ねる。首を振り、財布を取り出した。
「いえ、結構です」
帰り道、夜風が目にしみた。薄暗い街灯の下で、悠真がインスタに投稿した写真だけが、やけにまぶしい。
病院のベッドにティラミスを置いた写真に、こんな言葉が添えられていた。
【夏帆さん、ありがとう。おいしいティラミスに癒された】
その下には、夏帆から笑顔の絵文字がついていた。
スマホをポケットに押し込み、どっと疲れを感じた。
99回。いや、本当はとっくに、そんな数を超えているのかもしれない。
どちらにしても、もう終わりにしたほうがいいのだろう。
第3話
ここを離れたいと思った。一度そう考えたら、実行に移すのは時間の問題だった。
早朝の病院の廊下は、点滴のしずくが落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだ。僕は自分のデスクで、異動に必要な書類を整理していると、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
ドアが開き、作り笑いを浮かべた悠真が顔をのぞかせた。両手にコーヒーを2杯持っている。白衣の襟元から見える深い青色のシャツが、目に刺さった。
見覚えのあるデザインだった。先月、夏帆がスマホを見せながら尋ねてきたのだ。
「ネイビーとロイヤルブルー、どっちがいいと思う?」
僕は自分への贈り物だと思い込み、何気なく色を選んだ。その後で値段を見て、高すぎるからやめておこうと勧めたのだった。
あのとき、少しこわばった夏帆の笑顔。今思えば、なんとも皮肉な話だ。
「岸本先生、昨日は本当にすみませんでした」
悠真は机にコーヒーを置いた。わざとらしいほど声を落として続ける。
「ちゃんとお詫びしたくて、来たんです」
置かれたコーヒーを見たが、手は伸ばさなかった。気になるのは、やはりその襟元だった。
「いいシャツだね」
悠真はうつむいて襟を整え、得意げに口の端を上げた。
「ああ、瀬戸先生が正式採用のお祝いにくださったんです。ロイヤルブルーが僕の肌に合うって」
少し間を置き、さらに言う。
「そうそう、来週から正式に瀬戸先生のチームに入ることになりました。瀬戸先生がわざわざ呼んでくださったんですよ。そばで、もっといろいろ学んでほしいって。岸本先生、実は前から言いたかったんですが……」
悠真が顔を寄せ、さらに声を低くした。
「恋人ひとり引き留められないなんて、あまりにも情けなくありませんか?」
手の中でペンがぱきりと折れ、異動願にインクが飛び散った。
もう我慢の限界だった。それでも職場で争うのは避けたくて、立ち上がってドアを開けた。
「出ていってくれ」
すると悠真は急におびえた顔を作り、よろめきながら2歩下がった。
「岸本先生、僕は謝りに来ただけなのに、そんな……」
廊下から聞き慣れたヒールの音が近づいてきて、ようやく狙いがわかった。
次の瞬間、悠真は見えない手に押されたかのように、床へ激しく倒れ込んだ。コーヒーが全身にかかる。
ドアの前に来た夏帆が目にしたのは、ちょうどその光景だった。顔がみるみる青ざめていく。
「遼!何をしてるの!?」
コーヒーまみれの白衣をまとい、床で苦しそうに体を丸める悠真。僕は立ち尽くし、どうすればいいのかわからなかった。
「僕は何もしてない。彼が勝手に……」
「黙って!」
夏帆は駆け寄って悠真を支え起こし、こちらを振り返った。僕の言葉をはねつけるように言う。
「わざわざ謝りに来てくれた人に、こんなことをするの?」
「僕じゃない……」
「この目で見たの!悠真があなたのところへ行くって言ったときから、心配してた。また意地悪されるんじゃないかって。でも、まさか手まで出すなんて!研修医にこんなことをして、ひどすぎると思わないの!?」
廊下には、いつの間にか大勢の同僚が集まっていた。
悠真をかばう夏帆を見ていると、急に何もかもばかばかしく思えてきた。
「夏帆、彼がさっき僕に何を言ったか、知ってる?」
夏帆は冷ややかに笑った。
「それが何?私が見たのは、あなたが悠真を突き飛ばしたところだけ!」
悠真が絶妙なタイミングでせき込み、夏帆の袖をつかんだ。
「僕は大丈夫です。ただ、コーヒーがちょっと熱くて……」
夏帆は慌ててその腕を確かめた。
「赤くなってる!行こう、処置してもらわないと」
悠真に肩を貸して歩きだし、ドアのところで足を止めた。こちらを見ようともせずに言う。
「遼、今回は本当にやりすぎ。これだけは絶対に許せない。悠真に謝らないなら、私たちは終わりだから!」
ドアが乱暴に閉められた。
足元のコーヒーだまりに、ゆがんだ僕の顔が映っていた。異動願のインクは大きくにじんでいる。7年かけて少しずつ傷つけられ、染みだらけになった僕の思いのようだった。
まだ何か、未練があるだろうか。
ない。もう、何ひとつ。
息を吐いてスマホを取り出し、院長に電話をかけた。
「汐凪市への異動の件ですが、できるだけ早く移りたいんです。今週中に出発しても大丈夫ですか?
わかりました。すぐ準備します」
電話を切り、机の上の夏帆との写真を最後に一度だけ見た。そっと、伏せて置く。
99回分の許しは、もう使い果たした。
100回目は、僕自身を解き放つと決めた。