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君を待つ理由を、雪に捨てた夜
遠距離恋愛をして3年。1ヶ月間残業を重ねてようやく休みを確保し、彼女に会いに行ったが、連絡が取れなかった。 見知らぬ土地でたった1人、10時間も待ち続けて、ようやく彼女から呑気な返信が来た。 電話越しに、俺の親友はヘラヘラと笑いながら言った。 「湊、サプライズだ!お前より先に蒼海市(そうかいし)を満喫しちゃったよ。柚葉、ガイドとしてめちゃくちゃ優秀でさ!」 親友は騒がしく楽しかった出来事を語る。柊柚葉(ひいらぎ ゆずは)のスマホに残された、俺からの30件の不在着信など全く目に入っていないようだった。 俺、瀬谷湊(せや みなと)は静かに聞いていた。彼が「寒いな」と呟くまで。 そこでようやく柚葉が電話を代わり、短く言った。 「先に彼をホテルまで送るから、もう少し待ってて」 彼女の言葉が終わった後、俺は唐突に尋ねた。 「俺がどれだけ待ったか、知ってるか?」 柚葉は一瞬言葉を詰まらせ、そして少し冷たい声で言った。 「彼、あなたの親友でしょ。そんなことまで張り合うの?」 あからさまな非難を浴びて、俺の中で何かを語ろうとする意欲は完全に消え失せた。 電話を切った後、帝葉市(ていようし)へ帰る配車アプリのタクシーが到着した。 運転手は俺をちらりと見て、たまらず口を開いた。 「お客様、もう夜中ですよ。この辺りは治安が悪いんです。どんな急用があったか存じませんが、こんな時間まで残っていらっしゃるなんて」 俺は氷雪に濡れた自分の靴を見つめ、静かに「そうですね」と呟いた。 そして笑って答えた。 「でも、もう二度とありませんから」
Chapters (1)
第1章
遠距離恋愛をして3年。1ヶ月間残業を重ねてようやく休みを確保し、彼女に会いに行ったが、連絡が取れなかった。
見知らぬ土地でたった1人、10時間も待ち続けて、ようやく彼女から呑気な返信が来た。
電話越しに、俺の親友はヘラヘラと笑いながら言った。
「湊、サプライズだ!お前より先に蒼海市(そうかいし)を満喫しちゃったよ。柚葉、ガイドとしてめちゃくちゃ優秀でさ!」
親友は騒がしく楽しかった出来事を語る。柊柚葉(ひいらぎ ゆずは)のスマホに残された、俺からの30件の不在着信など全く目に入っていないようだった。
俺、瀬谷湊(せや みなと)は静かに聞いていた。彼が「寒いな」と呟くまで。
そこでようやく柚葉が電話を代わり、短く言った。
「先に彼をホテルまで送るから、もう少し待ってて」
彼女の言葉が終わった後、俺は唐突に尋ねた。
「俺がどれだけ待ったか、知ってるか?」
柚葉は一瞬言葉を詰まらせ、そして少し冷たい声で言った。
「彼、あなたの親友でしょ。そんなことまで張り合うの?」
あからさまな非難を浴びて、俺の中で何かを語ろうとする意欲は完全に消え失せた。
電話を切った後、帝葉市(ていようし)へ帰る配車アプリのタクシーが到着した。
運転手は俺をちらりと見て、たまらず口を開いた。
「お客様、もう夜中ですよ。この辺りは治安が悪いんです。どんな急用があったか存じませんが、こんな時間まで残っていらっしゃるなんて」
俺は氷雪に濡れた自分の靴を見つめ、静かに「そうですね」と呟いた。
そして笑って答えた。
「でも、もう二度とありませんから」
第1話
柚葉が俺の不在に気づいたのは、2時間後のことだった。
彼女のスマホの着信音は、海外で流行っているロックバンドの曲だ。
俺の好みではない。
以前、俺の好きなインストゥルメンタルに変えてくれないかと冗談交じりに言ったことがある。
柚葉はひどく嫌がった。
あの時の冷たい口調は、今でも忘れられない。
「私、何でもあなたの言う通りにしなきゃいけないの?」
俺はいたたまれなくなり、すぐに謝った。
だがつい先ほど、親友の桐生翔太(きりゅう しょうた)がインスタを更新した。
【マジウケる。3ヶ月前にとあるバカに勧めた曲、俺はもう聴き飽きたってのに、あいつまだ着信音にしてるし】
柚葉は3分前にそれに返信していた。
【バカって誰のこと?】
【お前のことだよ!】
翔太からの返信は早かった。
スマホはまだ絶え間なく着信を知らせている。
俺はふと笑いそうになった。柚葉は一体いくつの心を持っていれば、同時に2人の男の間を揺れ動くことができるのだろう。
俺が電話に出ないのを見ると、着信攻撃はメッセージへと変わった。
【一体どこに行ったの?もうふざけないで。夜中だし、私すごく疲れてるんだけど】
柚葉は絶え間なく文句を並べ立てる。
その時、ふと思い返して背筋が寒くなったのか、運転手の声が再び響いた。
「ご存じですか?ついおととい、お客様がいらっしゃったあの駅で強盗事件があったんです。被害者は助からなかった。市全体がその話題で持ちきりなんですよ。
だから今日お客様をお乗せした時、本当に驚いたんです。こんな遅い時間なのに、あの駅に人がいらっしゃるなんて」
俺の指がビクッと震え、視線は再び画面に落ちた。
【どうしてそんなに物分かりが悪いの?少し迎えに行くのが遅れただけじゃない。
翔太はせっかく遠くから来てくれたんだし、あなたの親友でもあるでしょ。少し譲ってあげたっていいじゃない】
スマホを握る手が震え、心臓をナイフでえぐられるような痛みが走った。
運転手はバックミラー越しに俺の赤くなった目元を見て、慌てて慰めるように言った。
「申し訳ありません、お客様。言い過ぎましたね」
俺は目を赤くしたまま首を横に振り、不意に何かの呪縛から解き放たれたような気がした。
「いえ、感謝すべきなのは俺の方です」
少し間を置いて、俺が返信しないのを見て、柚葉は突然こう送ってきた。
【もういいわ。これ以上あなたをなだめる気力はないわ。自分で少し頭を冷やして】
28件のメッセージのうち、そのほぼ全てが俺を責め立てる言葉で埋め尽くされていた。
そして最後に、なだめる気力はない、ときた。
潮が満ちるように強烈な眠気が襲ってきて、俺はスマホの電源を切り、そのまま目を閉じて眠りに落ちた。
目が覚めると、すでに家に着いていた。運転手は俺が疲れ切って眠っているのを見て、起こさずに3時間も待ってくれていたのだ。
俺はチップとして2000円を多く支払った。
運転手のおじさんはとても喜び、別れ際にも忠告を忘れなかった。
「お客様、お帰りになったらすぐに靴を履き替えてくださいね。中までずぶ濡れじゃないですか」
俺は胸の奥が温かくなるのを感じ、「はい」と頷いた。
第2話
シャワールームでお湯が出るのを待っている間、翔太のインスタがまた更新された。
【話題の新作フラペチーノ!とある人が俺のために1時間も並んでくれたけど、味は微妙。1口飲んで、残りはあいつにお持ち帰り】
この「とある人」とは、明らかにレンズに向かって微笑む柚葉のことだ。
俺は今まで知らなかった。極度の潔癖症で、俺と絶対同じコップを使おうとしない彼女が、他の男の飲み物を飲むなんて。
俺は小さくため息をつき、指を動かして「いいね」を押した。
そして、上司に電話をかけた。
「篠原社長。気が変わりました。例の海外プロジェクト、まだ引き受けられますか?」
電話の向こうからは驚きの声が漏れたが、それ以上に安堵の響きがあった。
「ようやく目が覚めたか、瀬谷君。このプロジェクトを成功させれば、帰国した暁には2階級特進を約束しよう。
それに海外への赴任はたった1年だ。俺を信じろ、本物の愛なら、1年離れるくらいどうってことないさ」
俺は笑みをこぼすだけで、反論はしなかった。
実際のところ、俺がこの仕事を引き受けると決めた時点で、俺の恋はすでに終わっていたのだ。
俺はゆっくりと熱いシャワーを浴びた。
バスルームから出ると、先ほどのインスタの投稿は消えていた。
俺は少し驚いた。どうやら翔太も、そこまで厚顔無恥というわけではなかったらしい。
突然、柚葉からの着信が鳴った。
嫌な予感がしたが、それでも応答ボタンを押した。
「わざと嫌がらせしてるの?
電話にも出ないし、メッセージにも返信しないくせに、翔太のインスタにいいねして当てつけがましいことするなんて」
彼女は早口でまくし立てた。俺に対して向けられたことのない、露骨に翔太を庇う響きがあった。
急に、どうしようもない徒労感がこみ上げてきた。
彼女に会いに行くために、1ヶ月間ぶっ通しで残業をこなしたというのに、結局こんな結末を迎えるとは。
「柚葉、君は一体、誰の彼女なんだ?」
彼女は言葉を詰まらせ、長い沈黙が流れた後、最後には失望したような口調で言った。
「どうしてそんなにすぐムキになるの?」
「柚葉……俺からあいつに話そうか?」
電話の向こうから、翔太のおどおどした声が聞こえてきた。
時計を見ると、夜の11時を回っていた。つまり、朝の8時から今まで、彼らはずっと一緒にいたということだ。
「いいわ。甘やかすとすぐ図に乗るんだから」
「でも、あいつは俺の親友だし……」
2人はごそごそと、何か低い声で相談していたが、やがて一方的に電話が切られた。
その手慣れたやり取りには、阿吽の呼吸とでも言うべき慣れが感じられた。
俺はここでようやく悟った。2人が一線を越えていた期間は、俺が想像していたよりもずっと長かったのかもしれない、と。
軽く仮眠をとったが、凍傷にかかった足の腫れはひどくなる一方だった。
俺は適当な傘を杖代わりにして、タクシーで病院へ向かった。
医師に患部の洗浄と処置をしてもらう間、俺は歯を食いしばって痛みに耐え、最後に薬をもらって帰宅した。
しかし、ドアを開けた途端、ふわりとした柔らかい体に抱きつかれた。
馴染みのあるジャスミンの香り。俺が呆気にとられて彼女を見つめていると、柚葉は機嫌良く笑った。
「あなたが無視するから、こっちから会いに来るしかなかったじゃない」
俺の目頭が熱くなり、何かを言おうと口を開きかけた時、柚葉は無造作に俺の持っていた薬を取り上げた。
「どうしたの?」
「足が凍傷になったんだ」
彼女は「へえ」と生返事をしただけで、その袋をテーブルの隅にポイと放った。痛みの程度はおろか、そもそもなぜ凍傷になんてなったのか、気にかける素振りすら見せなかった。
その時、柚葉のスマホが鳴った。あの神経を逆撫でするような着信音だ。
翔太が何を言ったのかは聞こえない。
だが柚葉は鈴を転がすように笑い、弾んだ声でこう返した。
「あんたが来いって言うんだから、行かないわけないじゃん」
心臓が鉛のように重く沈み込む感覚がした。先ほどわずかに芽生えた感動は、瞬時に跡形もなく吹き飛んでいった。
俺は足を引きずりながらテーブルのそばへ歩み寄り、シートから錠剤を押し出して口に放り込むと、水で一気に喉へと流し込んだ。
柚葉は電話を切ると、こちらへ歩み寄ってきて俺を背後から抱きしめた。
そして甘えるように言った。
「もう怒らないで。あの日、スマホをマナーモードにしてたの。後であなたが帰っちゃったって知って、私、一晩中辛かったんだから」
俺は自嘲気味に口元を歪めた。翌朝の彼女の弾けるような笑顔は、どう見ても一晩中落ち込んでいた人間のものには見えなかったからだ。
「それに、彼だってわざわざ遠くから何度か遊びに来てくれてるわけじゃない?だからさっさと観光案内を終わらせて、残りの時間はあなたに専念しようと思ってたのよ……」
俺は水を飲む手をピタリと止めた。
「あいつ、頻繁にそっちへ遊びに来てたのか?」
彼女は悪びれる様子もなくふふっと笑う。
「ヤキモチ?心配しないで。彼なんてガサツだし、私の方から願い下げよ。
たまに旅行の相棒をしてただけ。あなたがいつも仕事仕事って、全然構ってくれないからいけないのよ」
追求されるのが鬱陶しいのか、柚葉はシャワーを浴びてくると言ってさっさと背を向けた。バスルームへ向かう前、彼女は忘れずにスマホを手に取って持っていった。
第3話
しばらくして、パジャマを持ってきてほしいとバスルームから声がした。
俺が適当なものを1着手に取り、ドアを開けて入ると、柚葉は慌てた様子でスマホの画面を伏せた。
水滴の滴る顔で、取り繕うように微笑みかけてくる。
「ありがとう」
バタンと、無情にもドアが閉ざされる。
俺は動く気にもなれず、その場に立ち尽くしていた。
数秒も経たないうちに、中から再び会話の声が漏れ聞こえてきた。
翔太がガハハと下品に大笑いしている。
「なんか俺たちが浮気してるみたいにコソコソすんなよ」
柚葉は少し気怠げに答えた。
「自分の親友の性格、知ってるでしょ?湊なら、すぐ根に持つんだから」
翔太は鼻を鳴らし、下心丸出しのねっとりとした声を出した。
「早く腹筋見せてくれよ。女子のシックスパックなんてマジで見たことないって!」
柚葉はわざとらしく照れたように返す。
「もう、変態!」
……
その先のやり取りを聞く気にはなれなかった。
結局、柚葉が部屋に戻ってきたのは、それから1時間も経ってからのことだ。
彼女の頬は不自然に上気し、瞳はギラギラと変な熱を帯びて潤んでいる。
誰の目にも明らかなくらい、性的なスイッチが入っていることが窺えた。
部屋の電気を消す間もなく、柚葉はベッドにいた俺にのしかかってきた。鼻にかかった甘い声を出して、強引に唇を押し当ててこようとする。
俺は冷めた目で彼女の肩を押し返し、淡々と言い放った。
「家にゴムがない」
柚葉はハッとした顔をして、思わずこんな言葉を口走った。
「翔太が、今日は安全日だから平気だって……」
俺は鋭い視線を彼女に突き刺した。込み上げる嫌悪感を隠す気すら起きなかった。
「俺たちのベッド事情まで、あいつに筒抜けなのか?」
「違うの!」
柚葉は血相を変えて否定し、焦ったように自分の髪を掻きむしった。
俺の冷ややかな視線を受けて、これ以上の言い逃れは無理だと悟ったのだろう。彼女は不自然に視線を泳がせながら呟いた。
「彼、部外者じゃないし……」
俺は彼女の顔をまじまじと見つめた。その声、表情、仕草のすべてが、全身全霊で翔太を庇っているようにしか見えない。
むしろ、俺自身こそが彼らの間に入り込んだ「部外者」なのではないかという錯覚すら覚えた。
ここに至って、もはや彼女と同じベッドで一晩を過ごすことすら生理的な嫌悪感を催した。
「悪いが、ゲストルームで寝てくれ」
柚葉は絶句し、信じられないものを見るような目を向けた。
「たったこれだけのことで?私がわざわざ遠くから会いに来たのに、ゲストルームで寝ろって言うの?」
「じゃあ聞くが、君は俺とヤるためだけにここへ来たのか?」
柚葉は黙り込み、キッと俺を睨みつけた。プライドを傷つけられて怒っているのは明らかだった。
別れを告げるには、ちょうどいい潮時だ。そう思って口を開きかけたが、俺が言葉を発するよりも早く、彼女はバンと乱暴にドアを叩きつけて寝室を出て行った。
俺は静かにため息をつき、電気を消して眠りについた。
恋が死んだせいか、その夜の眠りはひどく穏やかなものだった。翌朝、まどろみの中でスマホを確認すると、すでに篠原社長から航空券の手配完了のメッセージが届いていた。
【明日の昼の便だ。遅れるなよ】
俺は【承知いたしました】とだけ簡潔に返し、身支度しようとした。だが、バスルームのドアを開けた瞬間、中から突然驚く男の声が上がった。
俺が一瞬呆気にとられ、ドアを閉め直そうとした時、背後から割り込んできた人影が俺を追い越し、ピシャリとドアを閉め切った。
「入る時くらいノックしなさいよ!」柚葉の刺々しい声が飛んでくる。
その瞬間、俺は本気で自分がこの家の不法侵入者か何かなのではないかと錯覚した。
「なんでこいつがここにいるんだ?」
柚葉は、全く悪びれる様子もなく言い放った。
「彼があなたに会いたいって言うから呼んだのよ」
俺がこのマンションに越してからの2年間、あいつは一度たりとも顔を出したことなどなかった。柚葉が来た途端に、急に俺の顔が見たくなったとでも言うのか。白々しいにも程がある。
俺は沈黙を貫いた。バスルームから出てきた翔太はヘラヘラと笑いながら俺に軽く挨拶をしてきた。
そしてそのまま、我が物顔でダイニングの椅子に腰を下ろした。
柚葉は手際よく朝食を作り、まずあいつの前に目玉焼きを置いた。
翔太はそれを1口食べるなり、大げさに目を輝かせた。
「やっぱお前は最高だな!俺の好みに合わせてわざわざ半熟にしてくれたんだろ」
柚葉は得意げに笑い、あからさまに機嫌を良くしていた。続けて、彼女はもう一つの皿をついでとばかりに俺の前に滑らせる。
「ひいきしてるなんて言わないでよ。あなたにもちゃんと作ってあげたんだから」
だが、俺はフォークを握ったまま、どうしても食べる気になれなかった。
なぜなら、俺は半熟の目玉焼きが大の苦手で、一切口にしないからだ。
付き合って丸6年にもなるというのに、彼女は俺のそんな些細な好みすら記憶の片隅にも置いていなかったらしい。
「柚葉、後でゲームのランク上げ、手伝ってくれよ!」
翔太はテーブルの下で足を伸ばし、軽く彼女の脚を蹴った。
「あんた下手くそだから嫌よ」
「俺たち親友だろ?これくらい手伝ってくれてもいいじゃん」
翔太はわざとらしく拗ねたような声を出し、柚葉のすぐ隣の椅子に移動して座り直した。
2人の太ももがぴったりと密着している。
翔太はなぜか上半身裸のままで、鍛え上げられたシックスパックの腹筋をこれ見よがしにひけらかしていた。
彼は柚葉の顔がほんのり赤らんでいるのを見ると、突然ニヤリと笑い、彼女の手を無理やり引っ張って自分の腹筋に押し当てた。
「タダ飯は食わねえ主義なんだわ。ほら、恩返しとして好きなだけ触らせてやるよ」
柚葉の顔は一瞬で真っ赤になり、チラッとこちらの顔色を窺ってから、慌てて手を引っ込めた。
吐き気が喉元までこみ上げてきた。カチャッと冷たい音を立てて、俺はフォークを皿の上に置く。
俺はゆっくりと首を巡らせ、朝っぱらから発情してイチャつく翔太に向かって言い放った。
「前にも言ったはずだよな?俺たちはもう、友達でもなんでもないって」
第4話
翔太はその場に固まり、ひどくバツの悪そうな顔をした。俺がここまで真正面から縁切りを突きつけるとは予想外だったのだろう。
柚葉が不機嫌そうに眉をひそめる。
「ちょっと、あんたたち喧嘩したの?いつの話?」
俺は彼女を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
「4日前だ。こいつが俺と一緒に君のところへ行きたいと言い出して、俺がそれをキッパリと断った時にな」
つまり、こいつはそれが気に食わず、俺への腹いせのために先回りして柚葉の元へ押しかけたというわけだ。
「たったそれだけのことで?」
柚葉はまたしても、頭のいかれた人間を見るような顔をした。
実際のところ、理由はこれだけではない。ここ1年というもの、翔太は事あるごとに俺と柚葉の2人きりの時間を意図的にぶち壊してきた。
俺が彼女に会いに行こうとすると、決まって旅行に付き合えだの、熱が出たから看病してくれだのと適当な口実を作ってはまとわりついてきた。
俺と柚葉がペアリングを買った時も、わざわざ似たようなデザインの指輪を買い込み、見せびらかすように指にはめていた。
俺だって馬鹿じゃない。だからこそ、大人の節度を保ってあいつと縁を切ったのだ。
だが、人間の面の皮がここまで厚くなれるとは、正直思いもしなかった。
翔太はのろのろと立ち上がり、いかにも自分は無実の被害者だと言わんばかりの態度を見せた。
わざとらしく、しおらしい声を出す。
「ごめん。そういうことなら、帰るよ」
ガタンと大きな音を立てて、柚葉が勢いよく立ち上がった。その反動でパイプ椅子が倒れる。
彼女は翔太を庇うように、俺の前に立ちはだかった。
「あなたが彼を追い出すって言うなら、私も一緒に出て行くから」
「好きにしろ。君もさっさと出て行けばいい」
俺は間髪入れずに突き放した。俺の顔には、自分でも驚くほど冷淡な平静さが張り付いていた。
柚葉の表情から、一瞬だけ感情がすっぽりと抜け落ちた。
これまで付き合ってきて、俺が彼女を突き放すような真似をしたことなど一度たりともなかったからだ。
どんなにひどい喧嘩をした時でさえ、いつも先に折れて頭を下げるのは俺だった。
だが、もうそんな道化を演じることには心底うんざりしていた。
柚葉は一歩も引こうとせず、頬を強張らせて頑なに俺を睨みつけている。
翔太は俺を小馬鹿にするように鼻で笑うと、彼女の手を引いて強引に玄関の方へ引っ張っていった。
「行こうぜ。なんでこんなヤツにここまでコケにされなきゃなんねーんだよ!
お前がそんな下手にでてたら、これからも都合よく扱われるだけだぞ!」
柚葉は少し躊躇いを見せたものの、最後には彼に引きずられるようにして部屋から出て行った。
ドアが閉まった瞬間、俺はついに長く重い息を吐き出した。
立ち上がり、皿に残された手付かずの半熟の目玉焼きを、そのままゴミ箱に放り捨てる。
そして自室に戻り、赴任先へ向かうための荷造りを始めた。
その夜、ベッドに入って眠ろうとしていた矢先、共通の友人から突然メッセージが送られてきた。
【おい湊、とんでもねえモン撮っちゃったぜ!】
送られてきた画像をタップして開く。
それは柚葉と翔太が、帝葉市で一番有名なショッピングモールを2人で歩いている隠し撮り写真だった。
翔太は彼女と堂々と恋人繋ぎをして、ベッタリと体を密着させて歩いている。どこからどう見ても、熱愛中のバカップルそのものだ。
おそらく、ずっと前から、2人はこういう関係を続けていたのだろう。
送り主の友人はひどく激怒していた。
【マジで胸糞悪い!お前があんだけあいつらの世話焼いてやったのに、俺はマジで腹の虫が治まらねえよ】
俺が止める間も無く、事態は急展開を迎えた。
友人からビデオ通話の着信が入り、慌てて応答すると、画面の向こうでそいつは激怒して罵倒していた。
どうやら、現場で直接あの2人に突撃して怒鳴りつけているらしい。
「てめえら!湊に顔向けできるのかよ!
柚葉!お前が金なくてカツカツだった頃、自分の生活費削ってまで貢いでくれたのはどこの誰だと思ってんだよ!
それから桐生、お前もマジで恩知らずのクズだな!お前が今勤めてる会社、湊が頭下げてコネ使って押し込んでやったんだろうが。あいつの口利きがなけりゃ、お前なんかあんな大企業に入職するわけねえだろ!」
翔太は冷ややかな顔で、微塵も悪びれる素振りを見せずに言い放った。
「は?俺がアイツに頭下げて頼み込んだとでも言うのかよ?」
「もうやめて、2人とも黙って!」
柚葉が耐えきれなくなったように金切り声を上げた。
彼女はスマホのカメラ越しに俺を見つめ、必死に落ち着いた表情を取り繕った。
「湊、私たちちゃんと話し合う必要があるわ。あなたは決定的に誤解してるの。
明日の朝、あなたのところへ行くから。そこで全部、包み隠さず説明するから」
友人は彼女に向かって「ふざけんな」と吐き捨て、ブチッと通話を切断した。
俺は深くため息をつき、メッセージで友人を少しなだめてから、横になって眠りについた。
明日は6時間近くのフライトが控えている。
目が覚めると、時計の針はすでに朝の9時を指していた。
軽く朝食を済ませ、一応、柚葉がすべてを説明しにやって来るのを待ってみた。
だが、11時を回っても、彼女が姿を現すことはなかった。
俺の心に何の波風も立たなかった。呆れる気すら起きず、俺はスーツケースを引きながら部屋のドアを出た。
そのタイミングで柚葉から電話がかかってきて、出た途端に彼女は早口でまくし立てた。
「湊、今日の午後に行くから。翔太が急に食中毒になっちゃって、病院に付き添わなきゃならなくなったの」
「わかった」
さすがに何度も約束を反故にしてきた負い目があったのだろうか、彼女は少し言葉を詰まらせ、殊勝にも申し訳なさそうな声を出した。
「待っててね。ちゃんと埋め合わせするから」
俺は「ああ」とも「うん」とも答えず、無言のまま通話終了のボタンを押した。
そして、彼女の連絡先からSNSのアカウントに至るまで、片っ端からブロックした。
……
機内でたっぷり睡眠を取った後、俺は遥か遠く離れた異国の地に降り立った。
スーツケースを引きずって空港の外に出たところで、引き払ったばかりのマンションの大家さんから着信が入った。
電話に出ると、大家さんは少し怯えたような困惑した声を出していた。
「湊くん、あなたの部屋の前に女の人がずっと張り付いてて、泣き続けてるの。追い払おうとしても梃子でも動かなくて。警察を呼んだ方がいいかしら?」
俺はタクシーを拾うために手を挙げながら、「遠慮なく呼んじゃって構いませんよ」と淡々と答えた。
柚葉は一体どれくらいそこで待ちぼうけを食らっていたのか分からないが、電話口から漏れる俺の声を聞きつけるや否や、狂ったように大家さんからスマホをひったくった。