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生まれ変わっても、あなたの影には戻らない
茅野稚菜(かやの わかな)は生まれ変わった。 前世の彼女は卑劣な男に騙され、一家離散の悲運に見舞われた挙句、拉致犯の銃弾に倒れて命を落とした。 死の淵で、ようやく悟ったのだ。安井恭太(やすい きょうた)がたったひとりでアジトへ乗り込み、胸を撃たれてなお、彼女を連れ帰ろうとしてくれていたことを。 彼女の死後も彼は仇を討ち、没落した茅野家を密かに立て直し、最後には彼女の墓前で自ら命を絶った。 舞い散る雪の中、泣き腫らした彼の赤い瞳。それが前世の稚菜の脳裏に焼きついた最後の記憶だった。 だからこの人生で、彼女は迷いなく彼のもとへ嫁いだ。 5年間、彼は宝物のように彼女を大切に守り抜いてくれた。ついに運命が報われたのだと、彼女は信じて疑わなかった。 だが、結婚5周年の記念日の夜。サプライズのため着ぐるみに身を包んでいた稚菜の耳に、仲間たちが別の女性を囲んで話す声が聞こえてきた。 「綾奈さん!ようやく戻ってきてくれたんですね!恭太さん、気が狂いそうなほどあなたを恋しがってましたよ! 身代わりでも置いておかなきゃ、あの人、とっくにあなたの後を追ってたはずです!」
Chapters (1)
第1章
茅野稚菜(かやの わかな)は生まれ変わった。
前世の彼女は卑劣な男に騙され、一家離散の悲運に見舞われた挙句、拉致犯の銃弾に倒れて命を落とした。
死の淵で、ようやく悟ったのだ。安井恭太(やすい きょうた)がたったひとりでアジトへ乗り込み、胸を撃たれてなお、彼女を連れ帰ろうとしてくれていたことを。
彼女の死後も彼は仇を討ち、没落した茅野家を密かに立て直し、最後には彼女の墓前で自ら命を絶った。
舞い散る雪の中、泣き腫らした彼の赤い瞳。それが前世の稚菜の脳裏に焼きついた最後の記憶だった。
だからこの人生で、彼女は迷いなく彼のもとへ嫁いだ。
5年間、彼は宝物のように彼女を大切に守り抜いてくれた。ついに運命が報われたのだと、彼女は信じて疑わなかった。
だが、結婚5周年の記念日の夜。サプライズのため着ぐるみに身を包んでいた稚菜の耳に、仲間たちが別の女性を囲んで話す声が聞こえてきた。
「綾奈さん!ようやく戻ってきてくれたんですね!恭太さん、気が狂いそうなほどあなたを恋しがってましたよ!
身代わりでも置いておかなきゃ、あの人、とっくにあなたの後を追ってたはずです!」
第1話
その一言に、稚菜の心臓は凍りついた。
立ち尽くしたまま、着ぐるみの覗き穴から外の様子を窺う。そこにはピンクのロングドレスをまとった女性に、まるで壊れ物に触れるように大切そうに寄り添う恭太の姿があった。
その眼差しに滲む優しさは、自分には一度も向けられたことのない、深く濃密な慈しみだった。
ほんの数時間前、兄の茅野健吾(かやの けんご)から写真が届き、電話が鳴った。
「恭太のやつ、浮気してるぞ!」
あの時彼女は写真に目もくれず、そのまますべてゴミ箱へ捨てた。
「この世の誰が私を裏切ろうと、恭太だけはあり得ないわ」
なぜそう言い切れたのか。理由は単純だった。彼女は本当に、一度死んだことがあるのだから。
前世、雪の舞い散るあの日。恭太は彼女の冷たい墓石にもたれかかり、静かに囁いたのだ。
「稚菜、そっちは寒いだろう。大丈夫、俺もすぐ行くから」
銃声が響いた瞬間、彼女は必死に彼を抱きしめようとした。だがその手は、次第に冷えゆく彼の身体をただ虚しくすり抜けるだけだった。
それなのに今、個室に響くあの朗らかな笑い声が、まるで鋭い刃のように彼女の心を切り刻んでいく。
「それって、稚菜さんのこと?」
あの女性の声だった。柔らかな響きに、戸惑いが滲んでいる。
かつて自分を慕い取り巻いていた面々が、今や我先にとその言葉に頷いた。
「そうだ、稚菜さんのことだよ!」
「綾奈さんは知らないでしょうけど、あの人ったら恭太さんへの想いが重すぎて、見ていて痛々しいほどだったんですから」
「恭太が何気なく『目の下のほくろが可愛い』って言ったら、血が止まりにくい体質だってのに、わざわざほくろを入れたんだぞ!」
「恭太さんがピンクが似合う人だって言えば、それきり他の色は一切着なくなって!」
「本当は綾奈さんの目の下にほくろがあって、綾奈さんがピンク好きなだけだって、あの人ったら知りもしなかったんですから」
着ぐるみの中で、稚菜は無意識に目の下のほくろへ指を這わせた。
あのほくろを入れた日、施術スタッフに何度もリスクを念押しされても聞き流し、彼女は恭太の手を握って笑ったのだ。
「恭太が可愛いって言うなら、怖くなんかないわ」
あの時、彼は稚菜の目尻に唇を寄せた。その瞳の奥にはたしかに、深い愛情が湛えられていた。
なのに、あのとろけるような濃密な優しさは、最初から自分に注がれたものではなかったのだ。
自分が本当に愛していたのは赤だったのに、彼のためだけに庭一面をピンクのバラで埋め尽くし、丸5年、ピンク以外の服には袖を通さなかった。
それがふたりだけのロマンスだと信じ切っていたのに、今になってようやく悟る。彼が愛していたのはピンクという色そのものではなく、ピンクを愛する綾奈だったのだと。
「綾奈さん、安心してください。恭太さんの心の中には、ずっと綾奈さんしかいませんでしたから」
「あいつ、まだ本家に迎えられる前、綾奈はもうこの世にいないんだと思い込んでさ、死に物狂いで働いて北陵霊園にふたり分の墓所を用意したんですよ。ひとつは綾奈の供養塔に、もうひとつは自分のためにって」
墓所……
震える指でスマホを握りしめたまま、稚菜は北陵霊園の管理事務所に問い合わせた。
しばらくして確認が取れると、職員から告げられたのは、その墓所が恭太と橋本綾奈(はしもと あやな)のために用意されたものだという事実だった。
その瞬間、稚菜の中で何かが音を立てて崩れた。
「生きている間はずっと一緒にいて、死んだら同じ墓に入ろう」
それは結婚式の日、恭太が自分に誓った言葉だった。
なのに、死んだあとまで一緒にいられると信じていたその場所さえ、最初から自分のために用意されたものではなかったのだ。
稚菜の目から、涙が一気に溢れ出した。
前世、息絶えた後もわずかに残った意識の中で、恭太が毎日墓前に立ち、苦しげに「なっちゃん」と呼び続ける姿を見ていた。その深い想いに、彼女は何度も胸を締め付けられた。
だが今になって、ようやく理解した。彼が命を賭したのは彼女のためではなかったのだと。彼が繰り返し呼んでいた「なっちゃん」という名は、稚菜のことではなく、綾奈のことだったのだと。
自分は、ただの身代わりに過ぎなかった。
前世は死者の身代わり、そして今世は生きている人間の身代わり。
稚菜の目頭が熱くなり、胸が締め付けられ、息をするのさえ苦しかった。
手にはまだ、あのベルベットの指輪ケースが握られていた。中には、恭太が半年もかけてデザインにこだわり抜いた、5周年の記念に贈るはずだった指輪が納まっている。
だが今、この愛と誓いの証であるはずの指輪は、ひどく滑稽に思えた。
力の抜けた足を叱咤し、稚菜は今すぐこの息苦しい場所から逃げ出したかった。ついでに、この馬鹿げた贈り物も投げ捨ててしまいたかった。
だが、ようやく一歩を踏み出したその時。手の中の指輪ケースが、何気なくすっと抜き取られた。
呆然と顔を上げた稚菜の目に映ったのは、恭太がそのダイヤモンドの指輪を手に取り、周囲が囃し立てる中、優しく真剣な面持ちで綾奈の薬指へとはめる姿だった。
「綾奈、これはお前への贈り物だ」
彼の声は甘く、愛おしさに満ちていた。
「戻ってきてくれてよかった。もう二度と、俺の前からいなくならないでくれ」
着ぐるみの中で、稚菜は低く笑った。
なるほど。彼が半年もの間、製作の進み具合を自ら確認し、細部までこだわっていたあの指輪も、自分のためのものではなかったというわけか。
だが自分もまた、本当のことを言えば、密かに彼だけのための特注の指輪を用意していた。今夜、サプライズとして贈るつもりだった。
もっとも、今となっては——彼にはもう必要のないものだろうし、私自身も、もう欲しいとは思わなくなったが。
第2話
稚菜は逃げるように従業員用の控室に駆け込み、やっとの思いで着ぐるみを脱ぎ捨てた。その途端、恭太からの電話が鳴り響いた。
「なっちゃん、もう9時だぞ。まだ来ないのか?迎えに行こうか?」
「なっちゃん」。そのいつもと変わらない親しげな呼びかけに、彼女の胸は残酷に締め付けられる。震える息を深く吸い込み、辛うじて平静な声を保ってみせた。
「……いいの、今夜は用事があって行けない。みんなで楽しんできて」
恭太の返事を待つことなく通話を切る。着ぐるみを端に寄せ、手の中に残ったふたつの指輪をただ静かに見つめた。
ひとつは、結婚指輪。もうひとつは、彼女が密かに恭太だけを想って特注した指輪。
なのに今、このふたつの指輪は掌を焼くように熱く感じられ、彼女の胸をひどく締め付けてくる。
17歳のあの夏の記憶が、ふいに脳裏へ蘇った。薄暗い路地で不良たちに囲まれた時、駆けつけて庇ってくれたのが恭太だった。脚の骨を折られてもなお、彼は無理に笑ってみせたのだ。
「怖がるな、俺は平気だ」
その後、彼は安井家に戻り、身寄りのない少年から一躍後継者の座へと駆け上がった。
それでも彼女へ向ける態度は、あの頃と何ひとつ変わることはなかった。
机の上にはいつも温かい牛乳が置かれ、雨の日には決まって傘が用意されていた。悔しい思いをして泣いた時には、いつも「俺がいる」という揺るぎない言葉をかけてくれた。
付き合って4年、結婚して5年。彼は壊れ物を扱うように、まるで幼い子供を相手にするかのように彼女を甘やかしてきた。
……それなのに、自分がただの身代わりだったなんて!
稚菜はゆっくりと目を閉じ、再び開いた時、その瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。
彼女はすっとふたつの指輪を外すと、傍らの椅子の上に無造作に置き、そのまま踵を返した。
会員制クラブを出るなり、彼女は弁護士に電話をかけた。
「吉田先生、離婚協議書を作成してください。できるだけ早く」
その「できるだけ早く」という言葉どおり、翌朝、稚菜のもとには法律事務所の職員から、分厚い離婚協議書と1枚の離婚届が届いた。
財産分与の条項を丁寧に確認し、迷いなく自分の名前を書き込む。ちょうどその時、朝帰りの恭太が扉を開けて部屋へと入ってきた。
「何にサインしてるんだ?」
その声に、稚菜のペン先がぴたりと止まる。昨夜、誰かが離婚について尋ねた時の、恭太の投げやりな声が脳裏をよぎった。
「あぁ……でも、離婚なんて考えてない。稚菜は俺の妻としてちょうどいいし、あいつがいれば連中の攻撃を綾奈の代わりに受けてもらえる。おかげで綾奈が厄介な連中に狙われる心配もしなくて済む」
その言葉は鈍い刃物のように、稚菜の胸の奥を抉り、目の奥がじんと熱くなった。
付き合って4年、結婚して5年。そこには少しくらい本物の想いがあるのだと信じていた。それなのに彼にとって、自分の価値はただ、綾奈を守るための頑丈な盾でしかなかったのだ。
今、離婚を切り出したところで、彼が素直に応じるはずがない。なにしろ、彼の心にあるのは、綾奈を守り抜くことだけなのだから。
だから恭太が再び「何にサインしてるんだ」と尋ねてきた時、稚菜はさりげなく書類の文字を手で隠した。
「前に話していた買収契約書よ。私の署名は終わったから、あとはあなたのサインだけ」
近づいてくる恭太を前に、稚菜は慎重に書類の中身を隠しながらも、心のどこかで彼が異変に気づいてくれることを、何か問いかけてくれることを、密かに期待してしまっていた。
だが恭太は中身を見もせず、あっさりと自分の名前を書き込んだ。
稚菜は一瞬呆然とし、すぐに自嘲めいた笑みをこぼす。
また、自分の勝手な期待だったのだ。
今の恭太の心も視線も、すべて綾奈でいっぱいなのだから。こんな小細工をしたのも、心の底にある無意味な期待のせいだ。
濡れた目元を隠すように深く俯き、書類を手に取って部屋を出ようとした稚菜を、恭太が鋭い声で呼び止めた。
「……俺を尾行してたのか?」
稚菜は戸惑いながら振り返る。彼の言葉の意味がすぐには分からなかったが、彼の手にあるものを見た瞬間、すべてを悟った。
それは、健吾が探偵に依頼して撮らせた盗撮写真だった。
昨夜は目もくれなかったそれを、今は恭太の手を通して、いやというほど鮮明に見せつけられている。
百枚以上もの写真の中で、ふたりは手を繋ぎ、抱き合い、熱く見つめ合っていた。鮮明な写真は、恭太の瞳に宿る愛情の色までも克明に映し出している。
その眼差しなら、嫌というほど知っている。この9年間、恭太は毎日そんな目で自分を見つめてきた。特に、目の下にあるふたつのほくろに優しく口づける時には。
だが今なら分かる。彼が見ていたのは自分ではなく、自分の影に隠れていた綾奈だったのだと。
恭太の目に浮かぶ警戒と問い詰めるような色に、稚菜は心の中が完全に空っぽになるような感覚を覚えた。
喉の奥に綿が詰まったように、言葉が出てこない。
「……そうよ。誰かに頼んで尾行させなかったら、あなたが浮気してるなんて、どうやって知るのよ」
第3話
声こそ落ち着いていたものの、稚菜の胸の奥では感情が激しく渦巻いていた。
自分でも何と張り合っているのか分からない。まるで、些細な痕跡の中から、恭太が自分を愛していた証拠を必死に探しているかのようだった。
だが結局、また笑い者にされただけだった。
なぜなら恭太は、気にも留めない様子で笑い、軽く言葉を濁したからだ。
「あぁ、それか。誤解だよ。綾奈は昔近所に住んでいた子で、最近帰国したばかりなんだ。少し世話を焼いているだけだ」
その拙い言い訳が、稚菜の心を無残に切り裂いた。
まさか彼が、まともな嘘すらついてくれないとは思わなかった。
誰がただの近所の子の手を握り、抱きしめ、ましてや口づけまでするというのか。同じホテルの一室に泊まるなど論外だ。
稚菜は恭太を見上げた。瞳には傷ついた色が滲み、胸の内には無数の問いが渦巻いている。
だが結局、彼女は喉元にこみ上げるものを無理やり飲み込み、そっと笑ってみせた。
「……分かったわ……私の勘違いね」
そう言って踵を返そうとした瞬間、彼女の瞳に光る涙に胸を突かれた恭太が、慌てて彼女を抱き寄せた。
「なっちゃん!嘘なんかじゃない。俺が愛してるのはいつだってお前だけだ。それに綾奈は来月には南港市に行くから、変な誤解はするな」
その「愛してる」という言葉のあまりの白々しさに、稚菜はほとんど吹き出しそうになった。頭の中には、昨夜恭太が綾奈に囁いた「もう二度と、俺の前からいなくならないでくれ」という切実な言葉が渦巻いている。
だが結局、彼女は笑わなかった。ただ涙を流すに任せ、力いっぱい恭太を押しのける。
「もう『なっちゃん』って呼ばないで。嫌なの」
誰かの代わりの名前で呼ばれるのも、誰かの代替品にされるのも、彼女はもう耐えられなかった。
家に留まる気になれず、稚菜は自ら法律事務所へ向かい、離婚協議書を弁護士に預け、手続きを進めてもらった。条項は明確で、あとは必要な手続きが終わるのを待つだけだった。
帰り際、彼女は弁護士に尋ねた。
「離婚届の提出も、受理証明書の受け取りも、本人が行かなくて大丈夫ですか?」
「ええ。ただ、離婚届については、代理人が本人に代わって離婚の意思表示をするわけではありません。本人たちが必要事項を記入して署名した届書を、代理人が窓口へ持参して提出する形になります。受理証明書のほうは、委任状があれば代理人でも請求できますよ」
稚菜は静かに頷き、それ以上は何も聞かずに、その足で海外移住の手続きを進めた。
実家が再び前世と同じ道を辿らぬよう、生まれ変わった後すぐ、彼女は両親に海外への移住を勧めていた。今では家族は皆国外にいる。国内にひとり残っていたのは、恭太のためだった。
幸い、あと少しもすれば、恭太は彼女の人生から完全に消える。ようやく家族と再会できる日が来るのだ。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなる。だがその安らぎも長くは続かなかった。
その静けさを破ったのは、LINEに届いた見知らぬ相手からのメッセージだった。
表示された名前は【橋本綾奈】。
稚菜はすぐにトークを閉じ、そのまま無視したが、相手は諦めず、何度もメッセージを送ってきた。
【一度会わない?アヤナ・ルーチェネイルサロンで待ってる】
それでも稚菜が返事をしないでいると、さらにメッセージが続けて届いた。
会う気などなかったが、その住所を見た瞬間、稚菜は何かに突き動かされるようにその場所へ向かった。
店の前に着いた瞬間、彼女の心は一気に沈んだ。そこは、かつて彼女が目をつけていたあの店舗だったのだ。
1ヶ月前、思い立ってカフェを開こうと決めた稚菜は、早々にこの物件を見つけ、賃料の話までまとめていた。ところが突然、誰かに高値で横取りされてしまい、彼女はしばらく落ち込んでいた。
あの時、恭太は優しく彼女を慰め、根っからの箱入り娘なんだから気楽に暮らせばいいと言っていた。
まさか横取りしたのが恭太自身で、その店を綾奈に贈っていたとは思いもしなかった。
稚菜の胸に苦い痛みが広がった。彼女は無理やり視線を逸らし、恭太の痕跡が色濃く刻まれた内装から目を背ける。
窓際に座る綾奈は彼女の反応を余さず見て取り、満足げに唇の端を吊り上げた。
稚菜が席に着くなり、向かいに座る女は口を開いた。
「私たちをずっと尾行してたよね。昨夜も長々と盗み聞きしてたんだから、もう全部分かったでしょう」
わざとらしいその態度に、稚菜はまぶたを上げる気力すら湧かなかった。
「不倫相手気取りのくせに。要件があるならはっきり言ったらどう?」
その「不倫相手」という言葉に、綾奈の完璧な笑顔へわずかな亀裂が入った。
「稚菜さん、愛されてもいないのに居座ってるほうが、よっぽど邪魔なんじゃない?
恭太が離婚しないって言ってるからって、いつまでも奥さんでいられると思わないほうがいいよ。
悪いことは言わないから、自分から身を引いたほうがいい。じゃないと、そのうち後悔するよ」
そう言いながら、綾奈はバッグから離婚届を取り出し、テーブルの上に放った。ペンまで丁寧に用意されている。
だが稚菜は根っから脅されるのが嫌いな性格だった。綾奈のこの一言が、かえって彼女の反骨心に火をつけた。
「そう?じゃあ、断るって言ったらどうするの?」
綾奈はまるでその返事を予期していたかのように微笑み、スマホの録音を再生した。
第4話
「恭太さん、そんなに奥さんが目障りなら、俺に遊ばせてもらえないか?」
「俺もやってみたいっすね。学生時代、あの女ってミスキャンパスだったし、まだ抱いたことないんで……ククク」
下卑た笑い声と雑音が少し続いた後、恭太の低い声がはっきりと響いた。
「好きにしろ。死なせるなよ」
その「好きにしろ」の一言が、稚菜の心を守っていた仮面を一瞬で粉々に打ち砕いた。
録音はまだ続いている。自分の話をする恭太の冷え切った声音が、鈍器のように容赦なく胸へ打ち込まれた。
なるほど、恭太は自分を愛していないどころか、他人の腕の中へ送り込みたいほど疎ましく思っていたのか。
稚菜は唇を強く噛みしめた。両手は抑えようもなく震え、目頭が何度も熱くなる。それでも彼女は歯を食いしばり、涙をこぼすまいと必死に踏ん張った。
人は9年もの間、ここまで完璧に演技ができるものなのか。
実に滑稽だった。
恭太のことを、愛情深いと呼ぶべきか、それとも非情と呼ぶべきか、もはや分からなくなっていた。
非情だと言うなら、彼は身代わりのために脚の骨を折られ、銃弾まで受けた。前世、自分が結婚した時には、傷心のあまり薬を大量に飲んでしまい、胃洗浄を受けるほどだったことさえあったのだ。
けれど、もし本当に情のある人だったというのなら。
今世では、学生時代から結婚するまでの9年間、ふたりで雨宿りをしたり、授業を抜け出したり、互いのために酔いつぶれるほど飲んだり――そんな時間をずっと一緒に過ごしてきた。
それなのに彼は、彼女にほんの少しの情けさえかけようとはしなかった。
稚菜は突然、声を上げて笑い出した。笑い声は次第に大きくなり、涙もそれに比例して止めどなく溢れ出す。
この二度の人生は、まるで滑稽な冗談そのものだ。いつも間違った道ばかり選んでいる。
取り乱す稚菜の様子を見て、綾奈は内心で快哉を叫びながらも、表面上は心配げな顔を作った。
「これで恭太の本心が分かったでしょう?さっさとサインしてくれれば、彼にあんなことはさせないよう説得するから」
得意げな綾奈を前に、稚菜は冷ややかに笑い、涙を力任せに拭って立ち上がった。
「私たちのことに、あんたが口を出す資格はないわ。妻の座が欲しいなら恭太に言えばいい。愛してるって言い続けてるんでしょう?」
言い終えると彼女は踵を返そうとしたが、綾奈に腕を掴まれる。
「待ちなさいよ!サインしないなら、それでもいい。だったら私のものを返してもらうから!」
次の瞬間、綾奈が稚菜の首元に手を伸ばし、ネックレスを力ずくで掴んだ。
「それ、恭太のお祖母様が『いつか孫のお嫁さんに』って大事にしてた指輪でしょ。
ずっとあなたが持ってたみたいだけど、そろそろ返してもらうわ」
指輪は、切れにくい丈夫なチェーンに通してあった。
強く引っ張られてもチェーンは切れなかったが、そのぶん首元に食い込み、稚菜の肌には何本もの赤い擦り傷が走った。ところどころ、うっすらと血も滲んでいた。
鋭い痛みに、稚菜は力任せに綾奈の手を振り払い、そのまま平手で彼女の頬を打った。
「これは私のものよ。あんたに触る資格なんてないわッ!」
言い終えるや否や、強い力で突き飛ばされ、稚菜の肩は背後の本棚に激しくぶつかった。
肩から半身にかけて、瞬く間に痺れが走る。
見間違えるはずのない人影が慌てて駆け寄ってきたが、向かった先は彼女ではなかった。
「なっちゃん!大丈夫かッ?」
綾奈は首を振り、片頬を赤く腫らしながらも、健気な笑みを浮かべてみせた。
「稚菜さんの首のネックレスに見覚えがあって、よく見せてもらおうとしただけなの。
うっかり失礼なことをしちゃって……私が叩かれるのも当然だわ」
その見え透いた芝居を見抜いた稚菜には、もはや弁解する気力すら湧かなかった。
「警察を呼んで防犯カメラを確認してもらえば?あんたがさっき『見せて』と言っていたのか、『奪おうと』していたのか、はっきりするはずよ」
その言葉に綾奈の顔色がさっと変わり、突然どさっとその場に膝をついた。涙が一気に溢れ出す。
「稚菜さん、本当にただ見たかっただけなんです!私、貧しいけど、盗んだり奪ったりなんて絶対にしません!」
突然その場に膝をついた綾奈に、稚菜は一瞬言葉を失った。何か言おうとした瞬間、手首を強く掴まれる。
頭上から、怒りに満ちた恭太の声が響き渡った。
「稚菜、綾奈はただの近所の子だって前に説明しただろう。なんでまだ絡みに来るんだ?しかもこんなふうに膝までつかせて!お前、いつからそんなに攻撃的な人間になったんだ!」
第5話
稚菜は呆然と恭太を見つめた。その瞳の奥から、ゆっくりと光が消えていった。
かつて彼は、たとえ世界を敵に回そうと、是非を問わず味方でいると約束してくれたはずだった。
なのに今、事情を尋ねることもなく、真っ先に自分を犯人と決めつけている。
強く掴まれた手首が痛み、稚菜は力任せにその手を振りほどいた。
「恭太、私が膝をつかせたって言うの?何があったかも聞かずにいきなり犯人扱いするなんて。あなた、夫としての自覚、まだ残ってるの?」
真っ赤になった彼女の瞳に、恭太の胸は一瞬締め付けられた。だが口を開きかけたその時、綾奈のうめき声が遮る。
「うっ……恭太、お腹が……痛い……っ」
恭太はすぐさま身を屈め、綾奈を抱き起こした。だが彼女の口元に滲む血の跡を見た瞬間、驚愕に目を見開く。
「なっちゃん!どうしたんだ?なんで血が!」
青ざめた綾奈は再び血を吐きながら、震える手で恭太の腕にすがりついた。
「稚菜さんが……持ってきたお菓子に、毒が入ってたの。午後、私のところに来て、『西川市から出て行け』って迫ってきて、それだけじゃなくて、『今後一切、恭太に近づかない』っていう誓約書にサインしろって言われたんです。
私が断ったら、今度は『だったら、そのお菓子を全部食べなさい』って……でも、稚菜さん自身は一口も食べなかったの」
言い終わらぬうちにまた血を吐き、綾奈の顔からすうっと血の気が引いていく。
恭太の目に激しい怒りが湧き上がり、その鋭い視線が稚菜を射抜いた。
憎しみのこもった眼差しに、稚菜の胸は引き裂かれるように痛む。
「違う!恭太、彼女が私を呼び出したのよ。信じてくれる?」
慌ててスマホを取り出し証拠を見せようとしたが、恭太は一瞥しただけでそれを床に叩きつけた。
「……本当にがっかりだ。これは綾奈のアカウントじゃない。もっとマシな芝居をしろ!」
その瞬間、稚菜はすべてを理解した。これは綾奈が仕組んだ罠なのだと。
目を閉じ、自嘲気味に首を振る。
「なら防犯カメラを確認して。カメラなら嘘は……」
言い終わる前に、数枚の書類が顔へ叩きつけられた。紙の鋭い縁が頬をかすめ、赤い傷をつける。
「してないと言うのか?だったら、お前の弁護士が作ったこの書類はどう説明するんだ?
お前は薬の知識だってある。そんなお前が毒を盛ったんじゃないって、どうして信じられる!」
それは、先ほど綾奈が口にしていた誓約書だった。
稚菜がようやく中身を確かめると、そこには確かに、【今後一切、安井恭太に連絡・接触しないこと】と記されていた。
本来なら離婚の条件をまとめた書類だったはずなのに、いつの間にか内容まで差し替えられていた。
綾奈も、ずいぶん手の込んだことをするものだ。
これ以上何を説明しても無駄だと悟った。心に残っていた最後の期待も完全に消え去り、彼女は踵を返して立ち去ろうとする。
「待て」
恭太の冷たい声が響いた。
「なっちゃんを叩いたんだ。首にかけているものを詫びの品として渡せば、それで許してやる」
稚菜は足を止めた。一瞬自分の耳を疑う。だが振り返った瞬間、恭太がハサミを手に近づいてくるのが見えた。
慌てて身をかわす。
「違っ……それはお祖母様の指輪なんかじゃない!これは私の祖父の形見なのよ!」
だが恭太は聞く耳を持たず、激しく抵抗する彼女を見て、ボディガードに命じて壁へ押さえつけさせた。
冷たい刃が首筋に当てられ、稚菜は怒りと絶望で目を血走らせる。必死にもがいても抵抗は無駄だった。
「恭太、これは祖父が私に残してくれたものなのよ!綾奈が奪おうとしたから私が手を出しただけなのに、どうして信じてくれないのッ!」
喉が裂けるほど叫んだが、彼の心を動かすことはできない。
恭太は一瞬、彼女の首筋に残る赤い痕に目を留め、表情を曇らせたものの、沈黙を貫いた。
首元が軽くなった瞬間、彼の温かい指先が傷跡をなぞるのを感じた。続いて聞こえたのは、咎めるようなため息だった。
「稚菜、次に芝居を打つなら、自分を傷つけて気を引くのはやめろ」
そう言うと、彼はあの指輪を綾奈の指にはめ、身を屈めて彼女を抱き上げた。
振り向きもせず立ち去る背中を見つめながら、稚菜は嗚咽混じりに声を絞り出す。
「……っ……恭太、私にあなたを恨めって言うの?」
だが恭太は取り合おうともせず、冷たく言い放った。
「こいつを連れて帰れ。人に毒を盛るのがそんなに好きなら、何種類か用意して、全部自分で味わわせてやれ」
第6話
そう言うと、彼は綾奈を抱いたまま振り向きもせずに立ち去った。
稚菜は放心したようにその冷酷な背中を見つめていた。しばらくしてようやく気を取り直して涙を拭い、バッグを掴んで立ち去ろうとした。
恭太の脅し文句など、まったく気にしていなかった。彼のことをよく知っているつもりだったからだ。彼は元々、人をいたぶるような悪趣味な真似を嫌う性格のはずだった。
だがボディガードに無理やり椅子へ押さえつけられた時、ようやく稚菜は悟った。今回、恭太は本気なのだと。
「放してッ!私に手を出したら、あなたたち二度とこの街を歩けなくしてやるから!」
ボディガードは気まずそうな顔をしながらも、手を止めることはなかった。
「奥様、これは安井様のご命令です。私どもはただ従うだけですので」
振りほどけないまま、稚菜は思い切りボディガードの手に噛みついた。
「恭太が人を殺せって言ったら、それも従うつもり?あの言葉はただの腹立ち紛れよ、放して!」
その言葉が終わるや否や、ボディガードのスマホから恭太の冷たい声が響いた。
「誰が腹立ち紛れだと言った?稚菜、今回は本当にやりすぎだ。綾奈はまだ手術室で胃洗浄を受けている。これはお前が受けるべき罰だ」
その有無を言わせない口調に、稚菜は一瞬言葉を失った。抵抗することさえ忘れてしまう。
まさか恭太が、綾奈のために自分の原則すら破り、本当に毒を飲ませようとするとは思ってもみなかった。
あれほど説明したのに、どうして信じてくれないのか!
稚菜の瞳は真っ赤に染まり、まつ毛が激しく震えた。心が粉々に引き裂かれていくようだった。
「……恭太、もし本当にそんなことをしたら、一生あなたを恨むから」
画面の向こうの恭太の身体がわずかに強張り、すぐに眉をひそめた。
「間違いを犯したなら罰を受ける。これは感情の問題じゃない。お前が自分の過ちに気づけば、俺がお前のためを思ってやったことだと分かるはずだ。やれ」
その平然とした口調が、氷の刃のように稚菜の胸に深く突き刺さった。
彼はただそこに立って彼女を見ている。まるで、まったく無関係な赤の他人を見るかのように。
その瞬間、稚菜の心は完全に冷え切った。
「恭太……ふざけないでッ!」
だがその叫びは何の効力も持たない。ボディガードが彼女の顎を掴み、毒を仕込んだケーキを無理やり口の中へ押し込んだ。
どんなに歯を食いしばっても、毒は喉の奥まで染み込み、内臓を焼かれるような激痛が腹の奥へ広がっていく。
最初の一口を飲み下す前に、また別の毒入りケーキが押し込まれた。ついには稚菜の口の中は血の味でいっぱいになり、顔には苦痛で涙がとめどなく流れ落ちる。
胃の中が焼け焦げるような激しい痛みに、身体を丸めたくなったが、ボディガードにきつく押さえつけられ、それすら叶わなかった。
「やめて……」
激しい生存本能が稚菜に火事場の馬鹿力を与え、ついにはボディガードの拘束を振りほどく。
ボディガードは戸惑いながらスマホの画面を見やった。恭太の強張った顔には、痛ましそうな表情が浮かんでいる。
「稚菜、今回のことは……」
恭太が口を開こうとしたその時、スマホの向こうからか細い呼びかけが聞こえた。
「恭太……」
彼はすぐさまスマホを置き、その場を後にした。ボディガードは少し躊躇したものの、結局最後の一切れのケーキを稚菜の口へと押し込んだ。
ケーキの上に振りかけられた粉を見た瞬間、稚菜は息を呑んだ。
「やめて!それはだめ、それは……」
言い終わらぬうちに、ボディガードはすでに彼女の顎を掴み、無理やり食べさせていた。
毒が喉を通った瞬間、稚菜の全身が激しく痙攣し始めた。身を切り裂くような痛みが体中から噴き出し、彼女はもう堪えきれず、悲痛な絶叫を上げた。
まるで五体を引き裂かれるかのような感覚に、内臓まで砕け散っていくようだった。
ボディガードは最後のケーキに何が入っていたのか知らなかったが、彼女自身にははっきりと分かっていた。
それは、彼女が扱う薬品の中でも、特に厳重に管理していた危険な薬品だった。
研究室の施錠された保管庫に入れていたはずなのに、どうして……
激しい痛みに思考すらままならず、彼女はか細く呟くのが精一杯だった。
「救急車……呼んで……」
稚菜が血を吐き始めたのを見て、ようやくボディガードも慌て出し、スマホに向かって叫んだ。
「安井様!安井様!」
十数回叫んで、ようやく恭太が画面に戻ってきた。ボディガードは藁にもすがる思いで急いで訴える。
「安井様、奥様が……」
恭太は苛立たしげに遮った。
「適当に処理しておけ。俺はまだ用がある」
その無関心な一言は、劇薬よりも深く稚菜の心を抉った。
彼女の脳裏には、前世の光景が次々とよぎり始めた。恭太にまつわるあの記憶の数々が、今はまるで夢だったかのように霞んでいく。
彼女を庇って銃弾を受けたあの狂気を宿した男も、雨の中で制服を彼女にかけてくれたあの少年も、まるで最初から存在しなかったかのようだった。
視界が次第に霞み、聴覚も消えていく。
だが彼女は、死そのものに対してはもう何の恐れも抱いていなかった。ただひとつ、ささやかな願いだけが残った。
来世では、二度と彼に出会わずに済みますように。
第7話
稚菜は、長い夢を見た。
夢の中で彼女は転生などしておらず、とうにあの薄暗いアジトで命を落とし、死ぬまで救いを待ち続けていた。生まれ変わったと思っていたあの日々のすべてが、死の間際に見た幻にすぎなかったのだ。
だが夢の終わり際、彼女はまた、あの聞き覚えのある声を耳にした。
「やめろッ!」
稚菜ははっと目を覚ました。冷や汗で額に張り付いた髪が、びっしょりと濡れている。
真っ白な天井をぼんやりと見つめ、しばらくしてようやく我に返った。
自分は死んでいない。夢の中のことは全部、嘘だったのだ。
だが自分にとって、いっそあの夢の方が本物であればよかったと思った。
生まれ変わらなければよかった。恭太になど出会わなければよかったのだ。
「何度も念を押したはずだろう?なんでこんなことになった?誰の独断で本物の毒を使ったんだ!」
病室の外から、恭太の怒鳴り声が響いてきた。
その顔は青ざめ、指先までもがかすかに震えていた。
ボディガードは俯いたまま、内心では「命令したのはあなた自身でしょう」と呟きながらも、表向きは一言も反論しなかった。
恭太は答えなど求めていなかった。怒りをぶちまけた後、そのボディガードを即座に解雇し、業界からも完全に追放した。
病室の扉を開け、目を覚ました稚菜を見た瞬間、彼の顔つきがようやく緩んだ。
「なっちゃん、気がついたか!お前、俺がどれだけ心配したか……」
「その呼び方はやめてって言ったでしょう」
稚菜は冷たく遮った。
恭太は一瞬言葉を失い、すぐに彼女の手を握った。
「まだ怒ってるのか?俺が悪かった。ボディガードが本物の毒を使うとは思わなかった。これから欲しいものがあれば、何でもして償う」
その瞳に浮かぶ心配そうな色は、あまりにも真に迫っていた。だがそれが、稚菜にはただただ皮肉に思えてならなかった。
なんと見事な演技力なのだろう。愛してもいない相手に、9年もの間これほどまでに演じ続けられるとは。
もう彼と一言も交わしたくなかったが、祖父の形見のことを思い出し、彼女は口を開いた。
「何でもして償うって?それなら、綾奈が持ってる指輪を返して」
病室の中が一瞬、静寂に包まれた。
稚菜の唇に、予想通りの皮肉な笑みが浮かんだ。
「恭太、あの指輪はあなたのお祖母様のものなんかじゃない。私の祖父が私に残してくれた形見なの。綾奈が欲しいと言うからって……」
「知ってる」
その軽々しい一言に、稚菜の全身が凍りついた。
息が止まる。
「あなた……知ってたの!?」
恭太は頷いた。
「たかが指輪だろう。もう綾奈に渡してしまったんだから、今さら返せとは言いづらい。俺の祖母の指輪を代わりに渡すから、それでいいか?」
彼はしばらく待ったが、稚菜からの返事は返ってこなかった。
なぜなら、彼が「知ってる」と口にしたその瞬間、稚菜の世界はすでに音を立てて崩れ落ちていたからだ。
彼女はてっきり、彼が事情を知らないのだとばかり思っていた。だからこそ、自分の物を取り返そうと堂々と要求できたのだ。
だが思いもしなかった。恭太は最初から、すべてを分かっていたのだ。
あれが彼女にとって命よりも大切な、祖父の形見だと知りながら。綾奈の「欲しい」という一言のためだけに、彼は自らの手でそのネックレスのチェーンを切ったのだ。
彼は誰よりもよく知っていたはずだ。幼い頃から彼女を育ててくれた祖父が、彼女を救うために命を落としたことを。彼は誰よりも理解していたはずだ。あの指輪が彼女にとってどれほどの意味を持つかを。
それでも彼は、そうしたのだ。
稚菜は瞬きもせず彼を見つめた。涙で赤く腫れた瞳には、声にならない問いが満ちていた。
だが恭太は、ただそっと彼女の涙を拭った。
「稚菜、指輪以外なら、何でも言うことを聞く」
その言葉はまるで最後の審判のように、稚菜の心を完全に打ち砕いた。彼女は目を閉じ、二度と彼を見ようとしなかった。
負い目を感じたのか、それから二週間の間、恭太は片時も離れず病床の傍らに付き添った。
だが稚菜は、二度と彼と口をきくことはなかった。
最初は根気強く機嫌を取っていた恭太も、次第に心ここにあらずといった様子になった。
退院前日には、丸一日姿を消してしまった。
稚菜は彼の行方など気にも留めず、自分の荷物をまとめて予定より早く退院しようとしていた。
ちょうど病室の扉を開けたその瞬間、丸一日姿を消していた恭太が戻ってきた。抑えきれない怒りを滲ませながら。
「稚菜、どうしてそこまで綾奈を目の敵にするんだ!?」
第8話
突然の問い詰めに、稚菜は立ち尽くした。
言葉を返す間もなく、恭太は例の指輪を彼女に投げつける。怒鳴り散らす彼の言葉から、ようやく事情を呑み込んだ。
綾奈が姿を消したという。
無人の病室には1通の手紙と指輪だけが残されていた。自分の意思で去ったと書かれていたものの、恭太はまるで信じていなかった。
稚菜は心が冷え切っていくのを感じた。
「……私がやったと疑ってるの?」
彼の眼差しは冷ややかだ。
「お前以外に誰がいるんだ?身寄りのない綾奈が自分から出て行くはずがない。誰かに脅されたに決まってる」
そう言い捨て、彼の視線は指輪へと落ちた。
その眼差しに息を呑み、稚菜は次の瞬間、思い切り彼の頬を張った。
「最低ッ!」
怒りに全身が震え、噛みしめた唇から血の気が引く。恭太の目に、自分がこれほど最低な女だと思われていたなんて思いもしなかった。
恭太は顔を背けたが、彼女の涙を見て毒気を抜かれた。無意識に慰めようと伸ばしかけた手を、綾奈の失踪を思い出して引っ込めた。
「俺が焦りすぎた」
彼は眉間を押さえた。
「入院していたことすら忘れかけていた。お前がやってないと言うなら信じる。だから一緒に綾奈を探してくれないか?」
口では信じると言いながら、態度は彼女を犯人として警戒している。同行を求めるのは慰めではなく、監視のためだ。
その本音を見抜き、稚菜の心は底知れぬ悲哀に沈んだ。
「行かない」
二人の茶番に付き合う気などとうにない。ただ一刻も早く離れたかった。
だが恭太は有無を言わせず、彼女を助手席へ押し込んだ。
だが、綾奈はまるで煙のように消え失せていた。駅や空港に移動記録はなく、心当たりのある場所を探しても姿はない。恭太の焦燥は募り、最後の心当たりも空振りに終わると急ブレーキを踏んだ。
「正直に言え。綾奈をどこに隠した?怒らないから」
咎める問いにも、稚菜はもはや心が痛むことすらなく、淡々と返した。
「本当に知らないわ。追い出しても毒を盛ってもいないし、サインなんか強要していない。信じないなら仕方ないけど」
あまりに冷めきった声に、恭太はふと違和感を覚える。だが考える間もなくスマホが鳴り、電話を切るや否や、顔色を変えてアクセルを踏み込んだ。
目的地に着いて初めて、綾奈が拉致されたのだと知った。
車に残され、恭太が犯人と交渉するのを眺めていたが、数言交わすなり彼はこちらへ歩み寄り、有無を言わせず彼女を引きずり出した。
問い質すより早く、犯人が口を開く。
「つまり、この女と引き換えに、テメェが金を取りに戻るってことでいいんだな?」
稚菜は信じられない思いではっと顔を上げた。だが恭太は彼女を一瞥もせず、ただ綾奈だけを見つめ、軽く頷いた。
「ああ」
短い返事が、氷水を浴びせられたように稚菜の心を凍らせた。必死にもがくも、力ずくで抱え込まれた。
「稚菜、人を残してお前を守らせる。金を取ったらすぐ助けに来る。待っててくれ」
第9話
稚菜は「嫌!」と叫び、必死にもがいたが、恭太は彼女を容赦なく犯人の方へと突き飛ばした。
恭太は手を離した次の瞬間、素早く綾奈を抱き寄せた。
「なっちゃん、大丈夫か!?」
怯えたように恭太の胸へ飛び込んだ綾奈は、大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。
「恭太、来てくれて本当によかった……すごく怖かった……」
恭太は一瞬ためらったものの、すぐに彼女の腰へ腕を回して優しく慰めた。その間、一度も稚菜を振り返ることはなかった。
その光景が、鋭い刃のように稚菜の胸を深くえぐった。綾奈を連れて立ち去ろうとする恭太の背中に向かって、稚菜は掠れた声で叫んだ。
「恭太!待ちなさいよ!」
恭太は一瞬足を止め、振り返って言った。
「稚菜、心配するな。見張りがいるから何も起きない。戻ってくるまで待ってろ」
足早に去っていく恭太の背中を見つめるうち、稚菜の中に恐怖が広がっていく。前世で拉致され命を落とした記憶がフラッシュバックし、震えを抑えきれなくなる。
彼女は必死に平静を装い、犯人へ告げた。
「いくら欲しいの?言い値で払うから、先に私を放して」
犯人は案の定、ナイフを下ろした。稚菜が安堵の息をついた瞬間、続く言葉に冷や汗が背筋を伝った。
「金目当てだと思ってるのか?俺たちは頼まれてやってるだけだ」
嫌な予感に襲われ、慌てて恭太が残したはずのボディガードを呼ぼうとする。だが、工場の入り口には誰もいなかった。
絶望が稚菜を一気に飲み込んだ。必死に外へ駆け出そうとするが、髪を掴まれ引き戻される。
頭皮を走る激痛に悲鳴を上げた。ベルトを外す音が、死を告げる鐘のように心臓へ響く。
「逃げられると思ってんのか?今日はたっぷり可愛がってやるぜ!」
服が引き裂かれる音が響き、稚菜は必死にもがく。
「やめて!お願い、放して!相手がいくら払ったか知らないけど、その10倍払うから!」
犯人は下卑た笑みを浮かべた。
「くくく……橋本さんは俺の上客なんだよ。裏切るわけにはいかねえ。諦めな」
そう言いながら稚菜の足首を掴み、また布地を引き裂く。
また、綾奈だ!
稚菜は目を閉じた。脳裏には、前世で恭太が命懸けで守ってくれた光景ばかりが浮かんだ。
衣服が容赦なく剥ぎ取られ、底知れぬ屈辱感が彼女を飲み込んでいく。前世なら恭太が助けに来てくれたが、今世は違う。自分の身は自分で守るしかなかった。
彼女は思い切り犯人の耳に噛みつき、痛みにひるんだ隙に急所を蹴り上げる。
男が悶絶して転がっている間に、残された力を振り絞って出口へと駆け出した。
どれほど走ったか分からない。涙はとうに乾き、稚菜はついに力尽きて倒れ込んだ。
視界がゆっくりと薄れていく中、遠くで誰かが自分の名を呼んでいる気がした。だが応える力さえ残っておらず、口の中に広がる血の味とともに、かすかに呟いた。
「ここから連れて行って……」
幸いにも、その願いは届いた。再び目を開けた時、稚菜はすでに病院のベッドの上にいた。扉の外から恭太の声が聞こえる。
「ああ、結婚式のことは心配するな。俺も南港市まで付き添うから」
扉を開けて入ってきた恭太は、生気のない稚菜の顔を見て、胸を締め付けられた。
「稚菜、すまない……俺が遅かった。でも無事でよかった」
一瞬言葉を切り、彼は続ける。
「綾奈が向こうへ発つんだ。俺が南港市まで送って、落ち着くまで世話をしてくる。お前は家で待っててくれ。ちゃんと話し合おう、な?」
稚菜はまるで壊れた人形のように、虚ろな目でただ恭太を見つめていた。
恭太が南港市へ行くのは、綾奈と結婚式を挙げるためだと、すでに聞いていた。それでも何も問い詰めず、彼女はただ淡々と答えた。
「分かったわ」
そんな稚菜の様子に何か言いかけた恭太だが、スマホの着信音に遮られた。
彼はそのまま出て行き、二度と戻ってこなかった。30分後、届いたのはただ1通のメッセージだけだった。
【今、空港に向かってる】
稚菜はそれを一瞥すると、彼のアカウントをブロックした。その時、再びスマホが鳴る。
今度は弁護士からだった。
【本日無事に離婚が成立しましたよ】
稚菜の口元にようやく笑みが浮かんだ。医師の制止も聞かず、彼女はすぐに退院した。
その後、真っ直ぐ家へ戻った。クローゼットいっぱいのピンクの服を見つめ、気力を振り絞ってすべてゴミ袋へ放り込んだ。
庭一面を埋め尽くしていたピンクのバラにも容赦なく火を放ち、燃やし尽くした。
あの家から持ち出すものはそれほど多くない。最後に手にしたのは、身分証明書だけだった。
両親から催促の電話が再び鳴る中、稚菜はもう振り返ることなく扉を開けて家を出た。
玄関の鏡の前を通り過ぎようとした瞬間、彼女はふと足を止めた。鏡に映る自分をしばらく見つめ、靴箱の上にあったハサミを手に取ると、目の下のほくろを思い切って削り取った。
ほくろが完全に消えたのを確認し、ようやく満足げに空港行きのタクシーへ乗り込んだ。
搭乗前、SIMカードを折り、スマホをゴミ箱へ捨てた。
窓の外に見える街が次第に小さくなっていくのを眺めながら、稚菜は涙を浮かべて笑った。
恭太、あの時、私のために銃弾を受けた借りは、これで返したわ。
これで私たちには、もう何の貸し借りもないわ!