零時を過ぎたら返却拒否

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私と藤崎友香(ふじさき ゆか)は10歳から、誕生日にあるゲームをするようになった。 毎年誕生日には、相手から何か借りて、24時間経ったら返すというゲームだ。 10歳の誕生日、彼女は私がもらったばかりの白いスカートを選んだ。 18歳の誕生日、父親がくれたカメラを。 25歳の誕生日、私の車を借りていって、零時前にやっと嬉しそうに笑いながら返しに来た。 この20年間、私は彼女が何を借りようと、一度も断わったことはなかった。 そして30歳の誕生日の日、彼女はシャンパンを一杯飲み干し、テーブルに山のように積み上げられたプレゼント越しに、私の隣にいる東一樹(あずま いつき)を指さした。 「今年は何もいらない」 そう言うと、彼女は顔を傾けて、酔って焦点が定まらない目つきで、またこう言った。 「ねえ、琴葉(ことは)、今年は旦那さんを一日貸してよ」

Chapters (1)

第1章

私と藤崎友香(ふじさき ゆか)は10歳から、誕生日にあるゲームをするようになった。 毎年誕生日には、相手から何か借りて、24時間経ったら返すというゲームだ。 10歳の誕生日、彼女は私がもらったばかりの白いスカートを選んだ。 18歳の誕生日、父親がくれたカメラを。 25歳の誕生日、私の車を借りていって、零時前にやっと嬉しそうに笑いながら返しに来た。 この20年間、私は彼女が何を借りようと、一度も断わったことはなかった。 そして30歳の誕生日の日、彼女はシャンパンを一杯飲み干し、テーブルに山のように積み上げられたプレゼント越しに、私の隣にいる東一樹(あずま いつき)を指さした。 「今年は何もいらない」 そう言うと、彼女は顔を傾けて、酔って焦点が定まらない目つきで、またこう言った。 「ねえ、琴葉(ことは)、今年は旦那さんを一日貸してよ」 第1話 テーブルを囲んでみんな大笑いした。 誰かがテーブルを叩きながら大きな声を出した。 「藤崎さん、今年、そこまでやるか?」 そしてスマホをあげて、カメラを私たちのほうへ向けてくる人もいた。 私は今回の誕生日で初めて顔を曇らせた。 一樹はこの時、大皿に盛られたおかずを私の取り皿に分けてくれているところで、その手を空中でピタリと止めた。彼はまさか友香から自分のほうにふられるとは思ってもいなかったようだ。 友香はテーブルに肘をつき、頬に手をあてて、私のほうへウインクした。 「ね、24時間だけ。前はカメラに車に、いろいろ借りてきたけど一度も嫌がったことないじゃない」 私は目の前の、一樹がおかずを盛ってくれた皿を彼のほうへ押しやり、友香のほうを見た。 「貸さない」 その瞬間、個室の笑い声は突然消えた。 友香は少し驚いて、次に口角を上げた。 「なによ、独占欲丸出しじゃないの」 「彼は人よ、遊びでそんなことできないわ」 私は厳しい口調で返した。 すると友香は私を通り越して一樹のほうへ視線を向けた。 「じゃ、一樹君がいいって言ったら?」 私は心が沈んだ。 一樹は友香に冗談を言うなと怒ることはなかった。 彼は箸を置くと、私を見た。 「一日、彼女に付き合うだけだろう」 私は聞き間違いかと思った。 「今なんて言ったの?」 一樹は眉をひそめた。 「琴葉、ただの誕生日でやってるゲームなんだろう。そんなこの場が白けるようなこと言うなよ」 その言葉に私は頭にきた。 「さっき貸さないってはっきり言ったわよね。場が白けようが私にはどうでもいいわ」 友香の顔から笑みが少し消えた。 「もういい、他のものにする」 彼女はそう言うと、テーブルの上に置いてある車の鍵を取ろうと手を伸ばした。 それよりも前に、一樹が鍵を手にとり、立ち上がってコートをとった。 「行こう」 私はその瞬間、勢いよく彼の手首をつかんだ。 勢いよく立ち上がったせいで、椅子がガタンッと音をたてて激しく倒れた。 「ちょっと一樹、それ、どういう意味?」 血の気が引くほど力を込めて握った私の手を彼は見下ろした。 「彼女が毎年の誕生日に借りる時は、君も喜んでオッケーしてたじゃないか。今日は彼女の誕生日のお祝いとして付き合うよ」 「私と彼女の誕生日は一緒よ」 私は声を震わせた。 「それなのに、あなたは彼女を祝ってやって、私はここに置き去り?」 すると一樹の表情が微かに曇った。 友香がそっと彼の服を引っ張った。 「琴葉、本気で怒ってるみたいだから、一樹君はここに残って」 彼を気遣うようなその言葉がナイフになって、私の心を抉るかのようだった。 しかし一樹は眉間に皺を寄せた。 「琴葉は甘やかされ過ぎて、わがままになってしまったんだよ」 彼は私の手を引き剥がしていった。 「明日には帰るから」 その言葉の後、私の手から彼が離れていった。 私は彼と友香が肩を並べて個室を出ていくのを見つめていた。ドアが閉まる直前、友香が振り向いて声を出さずに唇を動かした。 「にじゅうよじかん」 個室にいた人は誰も笑えずにいた。 私は鞄を手にとり急いで二人を追いかけたが、エレベーターがちょうど目の前で閉じた。 ドアが閉じる寸前のかすかな隙間から、一樹が友香の肩紐に絡まった長い髪をはずしているのが見えた。 彼の慣れた手つきに、私は気分が悪くなった。 家に帰ると、スマホをテーブルの上に放り投げ、30分耐えたが、やはり一樹に電話をかけることにした。 3回呼び出し音が鳴った。 すると友香が出た。 電話越しにさわがしい音楽が聞こえてきた。それに男女の笑い声が混じっている。 「琴葉?」 私はスマホをぎゅっと握りしめた。 「一樹にかわって」 友香は笑い声をあげた。 「借りたものは、約束の時間まで返せませーん」 「彼と電話をかわってってば」 電話の向こうから、うっすらと一樹の声が聞こえてきた。 しかし友香はスマホをさらに自分の耳元に近づけた。 「私たち、ルールを決めてたでしょ?」 その言葉に、私は声を詰まらせた。 「今のはルール違反よ」 そして電話は切られた。 私はソファで空が白むまで過ごした。 一樹は帰ってこなかったし、メッセージ一つ寄越さなかった。 私は二回顔を洗いに行った。鏡に映る自分の目は真っ赤に腫れていた。 結婚して5年、彼は出張に行っても到着したら、まずは私に連絡してくれていたというのに、今同じ街にいながら、私は彼の居場所すら分からない。 私はもう彼に電話をかけなかった。 彼自身が自分を貸し出したのだ。彼がどんな顔をして帰ってくるか、私は待つことにした。 第2話 空が暗くなってから、ようやく玄関のドアが開く音が聞こえてきた。 一樹がドアを開けて入ってきた。 シャツはきちんと整っているが、髪は湿っていた。そして彼から強い香水の匂いがする。 私は彼を睨みつけた。 彼は気まずそうに鼻に触れていた。 「まだ怒ってるのか?」 私が口を開く前に、友香が彼の後ろから顔を出した。 「責任持って、ちゃんと彼を返しにきたよ~」 そして彼女は笑顔で手のひらを広げた。 するとそこから結婚指輪が現れた。 「うっかりこれを返すのを忘れるところだったわ」 その瞬間、私の頭の中で張り詰めていた何かが、ぷつんと切れた。 私はその指輪を手に取った。 内側には私と一樹の名前が刻まれている。横には去年ぶつけた時にできた細かい傷がある。 「どうして外したの?」 一樹はゴクリと唾を飲み込んだ。 友香はドアの枠に寄りかかり、ゆったりと余裕たっぷりな様子でこう言った。 「だって、つけてたら邪魔なんだもん」 私は思い切り手を振り上げた。 その直後、一樹の頬を叩く、バシンッという重たい音が響いた。 それには友香もその場で呆然としていた。 私は手のひらが熱くじんじんしたが、それによって滑稽な夢からようやく目が覚めた気がした。 「あんた達、寝たの?」 一樹は顔を背けた。頬はすでに赤く腫れあがっている。 彼は私を見ようとしない。 私は気持ちが悪くなり、玄関の枠をつかんで胃の中のものを吐き出した。 その瞬間、一樹が私の体を支えようとした。 でも、私は彼の手を力いっぱい振り払った。 「触らないでよ」 「琴葉」 この時、彼の声はかなり緊張していた。 「昨日の夜は酒飲んで、その後気持ちもすっきりしなくて、俺……」 「服を脱ぐ時も、指輪を外す時も酔ってたって?」 私は指輪を彼に向かって投げつけた。 「帰ってくる前にシャワー浴びて、やっと酔いが醒めた?」 指輪は床を跳ねて、友香の足元に転がっていった。 彼女はそれをちらりと見て、微かに口角をにやりと上げた。 一樹の表情は暗くなった。 「やってしまったことだ。琴葉が俺を罵ろうが、殴ろうが、俺は受け入れる」 彼は眉間を揉みほぐした。 「だけど、俺たち結婚してもう5年なんだぞ。たった24時間の事でここまで騒ぐ気なのか?」 私は胸を締め付けられるように、その言葉に苦しくなった。 私は寝室に駆け込み、彼のシャツやスーツのズボンなどをクローゼットから一つずつ床に投げ捨てていった。 それと同時にハンガーの音が大きな音をたてた。 一樹が後から追って来て、私の手をつかんだ。 「琴葉!」 私は服を拾い上げて彼の顔に叩きつけた。 「他のところで寝れば!」 一樹は唇を噛みしめた。 「俺に怒りをぶつけるのは構わない。でも友香にまで怒るなよ。彼女も昨夜はかなり飲んでいたんだ」 私はゆっくりと動きを止めた。 「つまり酒をたくさん飲んでいても、あなたの指輪を取りあげるのは、ちゃんと忘れなかったんだ?」 部屋の入り口にいる友香は目を真っ赤にさせた。 「琴葉、私たち20年来の友達なのよ。本気でたった一人の男のために、私に背を向けるの?」 私は彼女の鞄をつかんで、勢いよく外に放り投げた。 中に入っていたファンデーションのコンパクトはパカッと開き、口紅は遠くのほうまで転がっていった。 「出ていって」 友香はドアの外に立ち、数秒私を睨みつけてから、突然冷ややかに笑った。 彼女は屈んで口紅を拾うと、顔をあげて一樹を見つめた。 「ねえ、一体いつまで隠しておく気?」 その言葉に一樹の顔色が一瞬にして変わった。 友香は口紅を鞄の中に戻した。 「あのね、昨日私があれを言い出す前から、私が何を借りる気なのか、一樹は知ってたんだよ」 その瞬間、その場の空気が凍り付いた。 私は一樹を睨みつけた。さっき激しく物を投げつけた時のじんじんとした指先の感覚が残っている。 「どういうこと?」 彼はギクリとした様子で、私から目をそらした。 「彼女は、琴葉が俺のことを本当に愛してるのか確かめるために、試そうとしてくれたんだ」 その言葉に私の胸は苦しくなった。 ドアの外にいる友香が軽蔑するように笑った。 「一樹、言葉を選ぶのが上手になったよね」 全身が硬直した。 「何を試すって?」 一樹は手をドアの枠の前にさし出して、明らかに不機嫌そうな顔をした。 「琴葉、お前は今興奮状態だろ、彼女の挑発する言葉は聞くな」 私は彼を睨みつけ、目が熱くなり痛みさえも感じた。 「あなた、彼女と寝たうえに、私が挑発に乗らないか心配しているわけ?」 彼の表情は一気にこわばった。 「昨晩の事なら、きちんと説明するから」 「だったら今すぐどういうことか言いなさいよ」 私は指を震わせながら、彼の手を押しのけた。 「どうして彼女が事前に、あなたが頼みを聞き入れると知っていたのかをね」 一樹は口を開き、手を伸ばして私に触れようとした。 私は思わず身を引き、彼の手を避けた。 その手は空中で止まり、ゆっくりと下におりていった。 友香はドアに寄りかかっていて、顔から少し血の気が引いていった。 「琴葉、本当に知りたいなら、彼にここ半年一体何を考えていたのか聞いたほうがいいわ。彼はね、なんだかあなたが彼のことなんてどうでもいいって思ってるように感じていたらしいの。昨日の夜は、最初はあなたが彼のことで慌てるかどうか見てみるつもりで」 その時、耳の奥がキーンと鳴った。 一樹が低い声で一喝した。 「おい友香、黙ってろ」 すると彼女は口角をにやりと上げ、その後突然、前屈みになり胃をぎゅっと押さえ込んだ。 第3話 友香が胃を押さえると、一樹は顔色を変えて、無意識に彼女のほうへ向かった。 彼のその反応に、私の心も沈んでいった。 しかし次の瞬間、彼は足を止めた。 友香は痛みに額から冷や汗を流し、ドアの枠に寄りかかったまま、ゆっくりとしゃがんだ。 一樹はスマホを握りしめ、救急車を呼んだ。 「じっとしてて、すぐに救急車が来るから」 友香は顔をあげて、真っ青な顔で彼を見つめた。 「あなたは?一緒に来てくれないの?」 一樹は一瞬黙り、友香を見てから私のほうへ視線を移した。 「医者が診てくれるから」 救急隊員が友香を連れて行き、エレベーターのドアが閉じた。 一樹は振り返り、私をじっと見ていた。 私はテーブルの端を掴んだ。 「さっき彼女が言っていたのはどういうこと?」 一樹は緊張した顔で唾をゴクリと飲み込んだ。 「琴葉」 「名前を呼ばないで」 そう言い放った時、私は喉の奥が締め付けられたように苦しくなった。 「誕生日パーティーで、彼女があなたを貸してって言う前から、あなたは、ああなるって知ってたってこと?」 彼はすぐには答えなかった。 私は脳裏に、昨夜のシーンを思い返していた。 友香が彼を指名した時、彼は少しも驚いていなかった。 そして私が「貸さない」と言った時、彼もどうしてなのか尋ねることもなく、ただ私を見つめていた。 あの時、彼は私が妥協するのを待っているのかと思っていた。 今思えば、あの瞳の奥には期待が込められていたのか。 そこまで考えると、急に胸が苦しくなってきた。 そして私はぎゅっと手を握りしめた。 「一樹、私を見なさい」 すると彼は顔をあげた。 「私が『貸さない』って言った瞬間、あなたは一体何を考えていたの?」 彼は動揺したように瞳を震わせた。 私は鼻の奥がツンとしながらも、気持ちを抑えて続けた。 「あなた、彼女があなたを借りたいって言うのを前からすでに知っていたのね?」 部屋は互いの呼吸が聞こえるほど静まり返った。 一樹の顔から血の気がサーッと引いていった。 そして彼はようやく頷いた。 「そうだ」 私は強く拳を握りしめた。 彼は私を見つめながら、声を緊張させて話し始めた。 「半年前に、俺は彼女が今年の誕生日パーティーでこうすることを知ったんだ」 その言葉に胸が押しつぶされそうになりながら、彼を見つめた。 「半年前?」 彼はうつむき、無意識に強く拳を握りしめた。 「あの時、君は俺を一人家に残して、彼女と出かけた」 あの日のことはもちろん覚えている。 あの日、彼は熱を出したから、私は家で世話をすると約束した。 しかし、友香が電話をかけてきて、息もできないくらいに泣き喚いた。彼氏と別れたばかりで、私以外の人には会いたくないと言ってきた。 私は一樹に熱さましの冷却シートを貼ってあげて、先に寝ているようになだめてから、急いで出かけたのだ。 そして帰ってきた時には、彼の熱は下がっていた。 ベッドサイドの明りはついていて、水の入ったコップもテーブルの上にあった。 その時私はむしろ幸運に思っていた。 彼は今まで一度も私を困らせたことがなかったからだ。 今あの時の情景を思い出すと、あの明りがまるで炎になって私の心を焼き付けるかのようだった。 「それから?」 また一樹が口を開いた。 「あれから数日経って、友達と酒を飲んでる時に、あの時のことを話したんだ」 私はまじまじと彼を見つめた。 「何を話したの?」 「うん、たまに、俺は君のことがよく分からないって」 彼の声はかすれていた。 「君が俺に対してよくしてくれてるってことは分かってる。だけど、毎回友香が何か言ってくれば、君は率先してあっちに行ってしまう。あの頃俺はいつも考えていたんだ。もし、ある日、俺と彼女と同時に何かあった時、君は一体どちらを優先するんだろうって」 鼻の奥がツンとした。 私は手を固く握りしめて、どうにかその話を聞き続けた。 「友香はどうして知ったの?」 「彼女は後から友達に聞いたらしく、俺に会いに来たんだ」 一樹は目を赤くしながら、眉間を揉みほぐしていた。 「俺がいつまでも気になってるのなら、一度試してみないかって彼女から提案されたんだ」 「試すって、どうやって?」 彼は暫くの間黙っていた。 「誕生日の日に、俺を一日借りたいって言うって」 私は胃がチクチクしてきた。 「そしてあなたはその提案を受け入れたと?」 「あの時は断わった」 彼は顔をあげて私を見つめた。その瞳からは疲労感が漂っていた。 「俺は馬鹿馬鹿しいと思ってたさ。だけど、彼女はしつこく一度だけでも試してみたらいいって、もし君が俺のことを想っているなら絶対に拒否するからって言ってきた」 私は笑った。でも、目から涙がこぼれ落ちた。 「だからあなたは私が断わるかを見てみたのね?」 一樹の顔からは血の気が引いた。 私は一歩ずつ彼に近づいていった。 「言ったでしょ?」 彼の瞳の底には後悔の色が浮かんでいた。 「うん」 「みんなの前で『貸さない』ってはっきり言ったわ」 胸がズキズキとひどく痛んだ。 「あなたがほしい答えなら、私はあの場であなたにあげたわ。なのにどうして彼女と一緒に行ってしまったわけ?」 彼は唇を何度か動かし、最後にどうにか声を絞り出した。 「あの時はどうかしてた。君が焦って追いかけてくるか見てみたいと思ったんだ」 第4話 目の前が暗くなった。 「それから俺たち、飲み過ぎて、彼女からずっと君の話題を出されると、どんどん気持ちが荒れていってさ、完全に理性を失ってしまったんだ」 彼の声はどんどん小さくなっていった。 「琴葉、酒を理由に言い訳できないことはわかってる」 私の目から涙がポタリとこぼれ落ちた。 「だから、今やっと気付いた?」 その言葉に、一樹は固まった。 私は激しく震える指先で涙を拭った。 「嫌だった。 彼女があんなことを言い出して、私はすぐに断わったわ。だって、あなたを借りたいなんて、そんなの絶対に嫌だったから」 その瞬間、一樹の顔から完全に血の気が引いてしまった。 彼はその場にじっと動けなくなり、目を少し赤くさせた。 「君が『貸さない』って言った時に、俺はあの場に残るべきだったんだ」 その言葉を聞くと、さらに胸が塞いだ。 私は彼に背を向けて、引き出しの前まで行くと、そこから書類を取り出して机の上に置いた。 私はその書類と一緒にペンも事前に挟んでおいた。 一樹はそれを見た瞬間、呼吸が急に重たくなった。 「離婚届?」 私は頷いた。 彼は即座にそれを押し戻してきた。 紙がテーブルの上をかすって、私の手の甲にあたった。 「琴葉はまだ怒ってるんだ」 私はまた自分の元に戻ってきた離婚届を見つめ、虚しさを感じた。 しかも、一樹の声は私をなだめるような、呆れた声だった。 「琴葉、いくら怒りが収まらないからといって、俺たちの5年間を投げ出すようなことはないだろ?」 白くなるほど握りしめられた彼の指を見つめ、私は皮肉を込めて言った。 「私がどれだけあなたのことを想っているか知りたいと思っていたんでしょ」 私はペンを彼のほうへずらした。 「もう分かったじゃない。それなら今度は私が決める番よ」 一樹は私をまじまじと見つめた。 「琴葉、今君は感情が高ぶりすぎてるんだよ」 彼は離婚届をテーブルの片側へ押しやった。 「昨日のことは認める。君の気持ちが落ち着いてからまた話そう」 すると離婚届がひらひらと床に落ちていった。 その時、突然滑稽に思えた。 誕生日パーティーでは彼の行いを止めようとしたし、私は悲しくて泣きもした。それに離婚したいという意思もはっきりと示した。 しかし彼は、私がただ怒っているだけだと思っている。 この時、スマホが突然鳴った。 画面に友香の名前が表示された。 一樹はそれを一瞥するだけで、出なかった。 電話は続けて二回かかってきて、三回目は知らない番号からだった。 すると彼はようやく電話に出た。 電話越しに慌てる人の声が響いた。 「友香さん、胃から出血したって、さっき救急に運ばれていったばかりなんだ。先生があまり状況は良くないって、早くこっちに来て」 スマホを握る一樹の手には一気に力が入った。 彼は車の鍵をつかむと、私に背を向けて玄関に急いだ。 私は彼を止めなかった。 彼が靴を履き替えている時、私は口を開いた。 「一樹」 彼は焦った表情でこちらを振り向いた。 「病院に今すぐ行かないと、帰ってきたらまた話そう」 私は離婚届を今度はシューズボックスの上に置いた。 「今、玄関を出た瞬間、私たちに話し合いの余地はないわ」 一樹は眉間にきつく皺を寄せた。 「琴葉、こんな時に追いつめるなよ」 私はピクリと指先を動かした。 「別に追いつめてなんかないわよ」 「友香は胃から出血があったって」 彼は不満そうな口調で、まるで物分かりの悪い人間に諭すようにそう言った。 「琴葉はうちでおとなしくしてて。離婚については焦る必要はないだろ。俺が帰ってくるまで、怒りをどうやって発散させるかだけ考えていればいいよ」 私は呆然と彼を見つめた。 そして心は完全に冷めきった。 私は頷いた。 「そう、分かった」 すると一樹は安心した様子で、私の髪に触れようとした。 私は後ろにさがってその手を避けた。 彼の手は空中で止まり、すぐに引っ込んだ。 「変な方向に考えるんじゃないぞ。俺はすぐに帰ってくるから」 彼はそう言うと、玄関のドアを開けて出て行き、バタンとドアが閉まった。 そして私は寝室に戻った。 身分証、銀行カード、何着かの服、全てスーツケースに押し込んだ。 数日前綺麗にアイロンをかけておいた彼のシャツは、クローゼットにぶら下がっている。 もう二度と触れることはない。 結婚指輪を外すと、手には指輪の形がくっきり白く残っていた。 私はそれをベッドサイドテーブルの上に置いた。 一番下の引き出しには「貸し出し記録」と書かれたノートが静かに置かれている。 その最後のページを開く。 貸し出し物、東一樹。 貸し出し状況、返却拒否。 ペン先がピタリと止まり、私はノートを閉じて結婚指輪の隣にドサッと置いた。 スーツケースを引いて家を出る時、私は一度も振り返らなかった。 発車を伝える駅アナウンスが響く。 列車に乗り込む手前で、スマホにメッセージが届いた。 一樹からだ。 【まずは落ち着いて、すぐに帰るからな】 私はその言葉を見て、すぐにスマホの電源を切った。 すると画面は暗くなった。 私はスーツケースを引っ張って、振り返ることもなく、人の流れに合わせて列車に乗り込んだ。