第1章
近所の人たちは、口をそろえて言う。梅谷知代(うめたに ともよ)は変わった、と。
梅谷文幸(うめたに ふみゆき)のためなら死んでやると喚き散らしていた、あの狂気じみた女はもういない。いまの知代は、誰もが一目置く、物分かりのいい貞淑な妻だ。
文幸が川波清子(かわなみ きよこ)を映画に誘っても、引き止めもしなければ問い詰めもしない。
それどころか前売り券を自ら用意してやり、夫が家を出る前には、清子の好物である梅干し飴をそっとポケットに滑り込ませておく。
文幸が仕事を放り出し、清子とふたりで市民文化祭に参加したときも、知代は泣きも喚きもしなかった。演目が終わるなり、客席の誰よりも早く拍手を送ったのは、ほかでもない知代だったのだ。
足をくじいた清子を背負い、文幸が町の診療所へ駆けこんで朝まで付き添っていたと聞いたときでさえ、そうだった。知代は鶏の雑炊をことこと煮込み、「清子さんにしっかり養生してもらって」と夫に持たせたのである。
職場の昼休みともなれば、同僚の女たちが声を潜めて噂をささやき合う。
「ねえ、梅谷さんとこのご主人、聞いた?出向先から県庁の本庁に戻ったんですってよ。まだまだ上に行くって話だし、末恐ろしいわよねえ」
「末恐ろしいったって、心はずっと川波清子のとこに置いたまんまじゃないの。3日と空けず通いつめては、あれこれ買ってやったり、引っ越しまで手伝ったり。奥さん、いったいどういうつもりなのかしら。まるで何も気づいてないみたいに平然としてるんだから」
「あら、知らないの?昔はあんなじゃなかったのよ。それはもう、目も当てられない騒ぎようでね。それが今じゃ、しおらしく良妻ぶっちゃって。ご主人が出世したら、あんな鬼嫁はお払い箱だって、怖くなったんでしょうよ」
第1話
心ない嘲笑を耳にしても、知代は黙々と作業の手を止めなかった。
前世でも、同じだった。
あのときの知代は、噂話が聞こえた途端に手元の部品を作業台へ叩きつけ、職場じゅうの視線を集めるなか、ひとりずつ指さして罵り返した。相手が顔を真っ赤にして黙りこむまで。
陰では誰もが彼女を「頭がおかしい女」と呼んだ。それでも構わなかった。
文幸さえいてくれれば、他人に何を言われようとどうでもよかったのだ。
文幸は、県庁から出向してきた職員だった。いつも糊のきいた白いワイシャツを着こなし、すらりと背が高い。端整な顔立ちには、周囲の男たちとは明らかに違う品格が漂っていた。
知代はひと目で恋に落ちた。
その年、川に飛びこんで文幸の窮地を救った知代は、命の恩を盾にして、自分との結婚を迫ったのである。
首尾よく籍は入れた。けれど、知代は痛いほどわかっていた。彼の心には、ずっと清子という幼なじみが住み着いていることを。
諦めきれなかった知代は、あらゆる手を使って子を身ごもった。子どもさえいれば、彼の心をつなぎとめられると信じたのだ。
ところが、生まれた娘までもが、なぜか清子の背中ばかり追いかけた。毎日「清子おねえちゃん」と慕い、すっかり懐き、実の母親である知代のことなど眼中にないようだった。
前世では、会社は東北の過疎の町に新設された工場を立ち上げるため、各部署に応援要員の割り当てを出していた。異例なことに、既婚者までもが対象とされた。
その候補名簿に自分の名前が載ったとき、知代は裏で金を積み、つてを頼って、自分の名前をこっそり清子の名前に書き換えさせたのだ。
物思いに沈んでいると、路地の入り口がにわかに騒がしくなった。
顔を上げると、文幸と清子が肩を並べて歩いてくるのが見えた。うつむきがちに言葉を交わしては、ふたりで笑い合っている。
娘の梅谷早百合(うめたに さゆり)も弾んだ声で「清子おねえちゃん!」と呼びながら両手を広げて清子の胸に飛びこんでいった。
まるで、絵に描いたような親子3人の姿だった。
その和やかな光景は、前世の知代が、死ぬまで手に入れられなかったものだった。
清子が地方へ発ったあと、知代は持てるすべてを注ぎこみ、文幸のよき妻になろうと努めた。
仕事に没頭するあまり食事を忘れる彼のために、弁当を作って職場まで届けた。
毎晩遅くまで残業する彼を、茶の間に小さな明かりをひとつ灯して待ち続けた。
それを何年間、1日たりとも欠かさず続けた。
やがて文幸も、少しずつその献身に応えてくれるようになった。
ときには彼女の仕事が終わるのを待って一緒に帰ってくれたり、夜勤明けに温かいお茶を淹れてくれたりした。知代が熱を出したときには額に濡れタオルを当てて、ひと晩じゅうそばに寄り添ってくれた。
ようやく、本当の妻として受け入れてもらえたのだと、そう信じた。
けれど、その喜びも長くは続かなかった。地方から、突然清子の訃報が届いたのだ。
赴任してほどなく、清子は地元のならず者に目をつけられ、無理やり身ごもらされたらしい。
世間体を取り繕うために結婚するしかなかったが、男には毎日のように殴られ、あげく身体を売って金を稼げとまで強いられた。
清子は死んでも首を縦に振らなかった。そしてついには激しい暴力の末に流産し、出血多量で息を引き取った。
亡くなったとき、その体には手当てもされないままの傷が百カ所以上もあり、その多くがひどく化膿していたという。遺体は町の病院の霊安室に置かれたまま、引き取り手すら現れなかった。
近所の誰もが知っていた。知代が名簿をすり替えたせいで、清子があんな惨い死に方をしたのだと。陰では誰もが知代の血も涙もない振る舞いを罵った。
けれど文幸は、悲報を聞いても最後までひと言も口にしなかった。知代を責めることもなければ、かばうこともしない。
ただその日の夜、ひとりで清子のいた町へ向かい、弔いのいっさいを済ませた。
翌日戻ってきた彼は、周囲の目には何も変わっていないように見えた。
知代だけが知っていた。彼が決定的に変わってしまったことを。
魂をすっかり抜き取られたように目からは光が消え失せ、口数も日に日に減っていった。
知代がどれだけ取り乱し、泣き喚こうとも、文幸が知代に視線を向けることは二度となかった。
時が経てば、いつかは元の夫婦に戻れる。そう信じて、知代はひたすら耐えた。
けれど月日が過ぎるほど、文幸の瞳は暗く深く沈んでいくばかりだった。
追い打ちをかけるように、娘までもが知代を疎むようになった。ご飯は清子おねえちゃんのほうがおいしかった、母さんは優しくない、母さんは清子おねえちゃんじゃない、と。
ある時など茶碗を床に叩きつけて、「どうして清子おねえちゃんが母さんじゃないの」と泣き叫んだこともあった。
心も体もすり減らしながら、知代は黙って床に散らばった陶器の破片を拾い集めた。
無理が祟り、極度の心労も重なって、知代はついに結核を患った。
文幸は仕事を辞め、何年ものあいだ、愚痴ひとつこぼさずに彼女の療養に付き添った。
誰の目にも、申し分のない良き夫だった。
けれど知代だけは知っていた。彼が必要以上の言葉をかけることも、心からの愛情をこめて彼女に目を向けることも、決してないのだと。
やがて病状は悪化した。死の淵で、文幸はただ静かに告げた。
「この人生で、俺はお前に命を救われた借りがあった。これで返し終えたことにする。だから来世では、俺と清子が結ばれるのを邪魔しないでくれ」
知代は、胸が張り裂けんばかりの悔恨を抱えたまま、ゆっくりと目を閉じた。
そして再び目を開けたとき、彼女は名簿をすり替えた直後の、あの運命の数日前に戻っていた。
足音が近づいてきて、知代ははっと我に返った。3人がまっすぐこちらへ向かって歩いてくる。鉢合わせる前に、彼女は角を曲がって別の路地へと逃れた。
そのまま会社の人事課へ直行し、応援派遣の名簿を管理している課長を訪ねて、名前を元に戻してほしいと頭を下げた。
課長は一瞬きょとんとしたあと、怪訝そうに眉をひそめた。
「ついこの間、かなりの金を積んでまで、あの人に代わってもらったんだろう。本当に戻していいのか?」
知代は表情ひとつ変えずに静かにうなずいた。
前世では、あれほど浅ましい策を巡らせて、結局何ひとつ本当のものは手に入らなかった。
だから今度の人生では、文幸はもういらない。娘も、もういい。
名簿が確定する最終日になって、知代はようやく名前を元に戻しに駆けつけたのだった。
課長は何度も念を押したあと、呆れたように応援派遣の変更届を知代へ差し出した。
出発の日付を見ると、あと10日ばかりに迫っている。
知代は派遣者の欄から清子の名前を消し、自分の名前を書き入れた。
今度の人生では、あのふたりを結ばせてあげよう。
すっかり日が暮れてから、知代は足早に家へ帰った。
文幸はすでに帰宅しており、食卓に向かって座っていた。その横顔はひどく冷ややかだった。
「明日、工場の連中が、向こうへ発つ連中の送別会があるそうだ」
そこでいったん言葉を切り、彼は氷のような視線を彼女に向けた。
「清子がお前の代わりに飛ばされることになったのは知ってる。何か贈り物を用意して持っていけ。せめてもの罪滅ぼしだ」
狭い茶の間が、一瞬しんと静まり返った。
知代は淡々と答えた。
「……わかったわ」
第2話
送別会の席では、誰もが清子を囲んで和やかに笑い合っていた。
店に入るなり、早百合が小走りで清子の胸に飛びこみ、無邪気な声をあげる。
テーブルの何人かがこっそり目配せを交わし、さりげなく知代の顔色をうかがった。
けれど知代は落ち着いた足取りで清子の前まで進み出ると、小さな風呂敷包みをその手の上に載せた。
清子がうつむいて包みを解くと、中から出てきたのは香りのついたコールドクリームだった。少し驚いたように顔を上げる。
「どうして私がこれを好きだって知ってるの?」
知代はクリームへちらりと目をやっただけで、何も答えなかった。
知らないはずがないのだ。
清子のところから帰ってくるたび、文幸のシャツからはいつもこの甘い香りが漂っていたのだから。
前世では、そのことで幾度言い争い、幾度涙を流したかわからない。それでも結局、何ひとつ変わることはなかった。
今はもう、嫉妬して争う気力すら湧いてこない。
文幸の眉がかすかに動いた。その鋭い視線が、ほんの一瞬、探るように知代の顔へ留まる。
けれどすぐに目をそらし、冷ややかに言い放った。
「受け取っておけ。これくらい、当然の詫びだ」
清子は申し訳なさそうに微笑んでクリームを受け取ると、やわらかな声で言った。
「ありがとう、知代さん。気をつかってくれて」
言い終えるか終えないかのうちに、文幸はごく自然な仕草で清子の隣へ腰を下ろした。
知代はふたりを一瞥しただけで静かに背を向け、末席の隅へひっそりと座った。
前世でも、こうして送別会が開かれていた。
あのときの知代は何度も輪に入ろうと彼に話しかけたが、返ってくるのは礼儀正しくも短い相槌だけだった。
同席していたほかの面々も同じだった。表面上の愛想はよくても、どこか見えない壁を感じたのだ。
今度の人生では、もう自分から彼らの領域へ踏みこもうとは思わなかった。
すっかり吹っ切れたのだ。彼に執着し、こだわるのはもうやめにした。
食事が一段落すると、知代は箸を置いて立ち上がった。周囲の嘲るような視線と含み笑いを背中に受けながら、ひとり店をあとにする。
家に帰り着くと、彼女はすぐに自分の荷物をまとめはじめた。夜が明けたら、役所で離婚届をもらってこよう。
ところが翌朝早く、玄関の引き戸がけたたましい音を立てて乱暴に開け放たれた。
土足のまま上がりこんだ文幸が、知代の腕をつかんで強引に引き寄せる。その指先の力は、骨が軋むほど強かった。
「病院へ来い」
病室のベッドでは、清子が枕に背を預けていた。その首元には真っ白な包帯が巻かれている。
知代の顔を見るなり、清子はみるみる涙ぐんだ。悔しさを必死に押し殺しながらも、その声の震えは隠しきれない。
「知代さん。本気で私を受け入れてくれたから、あのクリームをくれたんだと思ってたのに。もうすぐ遠くへ行くっていうのに、どうしてこんなむごい真似をするの?」
清子が涙ながらに包帯の端をめくると、その下からは赤くただれた痛々しい皮膚がのぞいていた。
文幸の顔が、鬼の形相のように険しく曇る。
知代は眉をひそめ、その赤い発疹をじっと見つめた。
「あのクリームは未開封だったでしょう。渡したとき、あなたもその場にいたはずよ。私には関係ないわ」
言い終わるやいなや、清子は針で突かれたように跳ね上がり、涙まじりの声を張り上げた。
「知代さん、それどういう意味?まさか私が、自分で自分に毒を塗ったとでも言うの?」
知代はわずかに身を強張らせた。そういう意味じゃない、と言いかけたそのとき。
文幸が重い口を開いた。腹の底から湧き上がる怒りを押し殺した、地を這うような声だった。
「いつまで醜い意地を張るつもりだ?
病院の検査結果はもう出てるんだ。クリームを贈ったのはお前だし、清子と直接接触していたのもお前だ。それで問題が起きたら、『私じゃない』のひと言でしらばっくれる気か?」
知代は息を呑み、言葉に詰まった。白くなるほど唇を引き結び、まっすぐに彼を見返す。
「私じゃないって言ってるでしょう。信じられないなら……」
「母さんがやったんだ!」
突然、ティッシュの箱が知代めがけて勢いよく飛んできた。
ベッド脇に、早百合が立ちはだかっている。裏返った甲高い声が病室に響いた。
「母さんのせいだもん!清子おねえちゃんのこと嫌いだから、わざと意地悪したんでしょ!母さんなんか、私の母親でいる資格ない!」
知代は雷に打たれたように、その場に凍りついた。少し離れたところに立つわが子を、ただ呆然と見つめることしかできない。
自分に向けられた実の娘の目には、嫌悪と軽蔑の色が浮かんでいた。
胸の奥を、針で鋭く突き刺されたような痛みが走った。
第3話
「わかったわ。そこまで私を疑うなら、徹底的に調べればいい」
知代は床に落ちたティッシュの箱を拾い上げた。
「警察に届けて、きちんと調べてもらえば、真相はすぐにはっきりするでしょう」
清子は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに悔しそうに顔を歪めて泣き出した。声が小刻みに震えている。
「もういいの。私、もうすぐ遠くへ行くんだし、これ以上大ごとにしたくない。このままでいいの」
だが、文幸の声は氷のように冷えきっていた。
「この件を、有耶無耶なまま済ませるわけにはいかない」
彼はわずかに眉を寄せて、蔑むように知代を見下ろした。
「このところ、お前も少しはまともになったと思っていた。だが、結局また同じ卑劣な手段を使うのか。
清子が入院しているあいだ、お前が工場で彼女の分まで働いて埋め合わせろ」
知代はまじまじと彼を見つめ返した。全身の血が、音を立てて凍りついていくようだった。
自分が過去にどれほどの悪事を働いてきたかは、痛いほどわかっている。名簿のすり替えに、結婚の強要。どれひとつとして弁解の余地はない。
それでも、せめて真実を調べてから罪を決めてくれるものだと、どこかで期待していたのだ。
知代は冷ややかな目でふたりを交互に見据えると、くるりと踵を返し、一度も振り返ることなく病室をあとにした。
その日から、知代は清子の穴を埋めるため、ひとりでふたり分のノルマを背負い、朝早くから夜遅くまで機械のように働いた。
2日も経たないうちに、職場では早くも噂が広まっていた。
「清子さん、入院したんだって。誰かさんがクリームにミョウバンを混ぜたせいで、顔までただれちゃったらしいわよ」
誰かがこれ見よがしに声をひそめる。
「道理で、あの送別会にわざわざ贈り物なんか持ってきたわけだ。親切を装って、腹の中は真っ黒だったってことね。恐ろしいわ」
知代はうつむいたまま黙々と作業を続け、ひと言の反論も口にしなかった。
ふたり分の激務に押しつぶされて腰を伸ばすことすらできず、手にできたたこもすっかり擦れて潰れていた。
昼休みのチャイムが鳴ると、工員たちは三々五々、連れ立って食堂へ向かった。
知代が食堂の隅に空いた席を見つけて腰を下ろし、冷めたご飯をふた口ほど口にしたところで、突如として激しい吐き気に襲われた。
青ざめた顔で立ち上がり、足早に流し台のほうへと駆けこむ。
流し台にたどり着くなり体がくの字に折れ曲がり、そのまま胃液を吐き戻してしまった。
背後で、どっと下品な笑い声が湧き起こる。
「あらあら、どうしたのかしら?」
「さあねえ。他人に毒を盛った罰が当たったんじゃないの?」
知代は冷たいタイルの壁に手をついて震える体を支えながら、さきほど配膳の列に並んでいたとき、自分を見てほくそ笑んでいた何人かの顔を思い出した。
手の甲で乱暴に口元をぬぐうと、血の気の失せた顔のまま食堂を抜け出し、そのまま病院へ向かった。
診察室の医師は渋い顔でひととおり問診を済ませると、会計を済ませてから必要な処置を受けるよう告げた。
刺すような胃の痛みをこらえながら、知代は会計窓口へ向かった。
財布から紙幣を差し出すと、会計係の女性が中身を数え、少し困ったような顔で言った。
「すみませんね、あと2500円ほど足りないんですけど」
知代は愕然として言葉を失った。
先週末に給料が出たばかりのはずだ。
慌てて鞄から通帳を取り出しページを開くと、直近の日付で、そこにあったはずの預金がごっそりと引き出されていた。
普段、家で通帳と印鑑をしまっている場所を知っているのは、自分と文幸だけだ。
通帳を握りしめる指先が、白く血の気を失っていく。知代は胃袋を焼かれるような激痛をこらえ、窓口から離れると、ふらつく足取りで入院病棟へと向かった。
病室のドアは半開きになっており、隙間から楽しげな笑い声が漏れてきた。
文幸は丸椅子に座り、うつむいて一心にりんごをウサギの形にむいている。清子は枕にもたれかかりながら、ベッドに身を乗り出した娘と笑い合っていた。まるで一枚の絵画を切り取ったような、本当の家族の温かな光景だった。
知代が力なくドアを押し開けると、3人の視線がいっせいに彼女へ向いた。
清子がおずおずと口を開いた。
「知代さん、どうしてここに?」
知代は彼女には目もくれず、まっすぐ文幸の前へ歩み寄ると、震える手で通帳を突きつけた。
「……お金が、引き出されているわ」
文幸はちらりと彼女の顔を見ただけで、ひどく平然と答えた。
「清子はもうすぐ遠くへ発つからな。餞別がわりに、うちの金から少しばかり用立ててやった」
冷酷なほどの間を置いて、さらに付け加える。
「彼女の治療費の埋め合わせだとでも思えばいいさ」
知代は信じられない思いで、目の前の男をまじまじと見つめた。自分の耳を疑うとはこのことだ。
ふたり分の過酷な仕事を押しつけられ、体はとうに限界を超えていた。それなのに文幸は、なけなしの生活費をあっさりと他人にくれてやり、おまけに治療費の埋め合わせだと言い放ったのだ。
それなら、妻である自分はいったい何だというのか?
吐き続けて脱水を起こすほど弱り、ふらふらになって病院へ駆けこんだというのに、自分の診察代すら払えない。
胃液が喉の奥まで焼けつくようにせり上がってきて、ひどく苦く、そして酸っぱかった。
何か言い返そうと乾いた唇を開きかけた、まさにその瞬間、耳の奥で突然、激しい轟音が弾けた。
知代は糸の切れた操り人形のように床へ崩れ落ち、その意識は冷たく深い闇の底へと沈んでいった。
第4話
次に目を覚ましたとき、病室の白く光る蛍光灯がまぶしく目に突き刺さった。
ベッドの脇には文幸が座っていた。その目に、一瞬だけ気遣うような色が浮かんだ。
「気がついたか。
医者の話じゃ、ひとまず大事には至らないそうだ。点滴を打って、しっかり休めってさ」
文幸の喉仏が小さく動いた。
「腹は減ってないか?何か食べたいものがあれば、俺が……」
そこへ、青い作業着姿の女性作業員が慌ただしく病室へ顔を出した。
「梅谷さん、川波さんの具合が悪いらしくて、ちょっと来てほしいって!」
文幸はそれを聞くなり立ち上がり、言いかけた言葉を飲みこんだ。
「先に清子の様子を見てくる」
まだ何か言いたそうにしていたが、結局口にしたのは短いひと言だけだった。
「……おとなしく寝てろ」
慌ただしく去っていく背中を見送りながら、知代の胸には冷ややかな自嘲の念しか湧き上がらなかった。
病室は途端に静まり返り、点滴の落ちる規則正しい音だけが響いた。
点滴が終わると、知代はナースコールで看護婦を呼んで針を抜いてもらい、靴を履いてベッドを下り、ふらつく足で家へ帰った。
門扉を開けたところで、知代は足を止めた。
庭の隅に植えてあったバラが根こそぎ抜かれ、代わりにオシロイバナが植えられていた。
文幸がバラを好きだと知ってから、ここ数年、手塩にかけて育ててきたものだった。
洗面所の窓辺には、歯磨き用のピンク色の陶器のコップがひとつ増えていた。文幸と早百合のコップに、ぴったりと寄り添うように並んでいる。
知代のコップは壁際へ追いやられ、うっすらと埃をかぶっていた。
寝室の中から清子が出てきて、目を伏せたまま小さく笑った。
「知代さん、おかえりなさい」
文幸が清子の荷物を手に、知代の前まで来た。
「清子は体の具合がよくないし、ひとりで住まわせておくのは心配だ。向こうへ行く手続きが済むまで、しばらくうちに住まわせることにした。
そのあいだ、悪いがお前は奥の小部屋を使ってくれ」
「知代さん」
清子がか細い声で言う。
「もし窮屈なら、私、出ていくわ。知代さんを困らせたくないもの」
そう言って、うつむいたまま足元の旅行鞄に手を伸ばす。
文幸の目が険しくなり、手を上げてそれを制した。
「清子はもうすぐいなくなるんだ。お前もいい加減、目の敵にするのは……」
知代は、落ち着いた表情のまま彼の言葉を遮った。
「私は別に構わないわ」
部屋が、一瞬しんと静まり返った。
「疲れたから、先に休むわね」
知代はかがんで自分の荷物を持ち上げ、奥の小部屋へ向かった。
前世では、この家を何よりも大切に切り盛りしてきた。どこもかしこも、心を尽くして整えてきた。けれど今は、何ひとつ残っていない。
自分の手で作り上げた家庭のぬくもりは、こんなにもたやすく壊されてしまうものだったのだ。
怒りや胸をえぐるような痛みが込み上げると思っていた。けれど実際には、ただ痺れたような鈍い感覚しかなかった。
所詮、偽物だったのだ。壊れたなら壊れたでいい。痛むほどのことでもない。
どうせもうすぐ、自分はここの人間ではなくなるのだから。
その夜、ほかの3人が茶の間でテレビを見ているあいだも、知代は小部屋の片づけを続けていた。
空腹で胃がしくしくと痛む。彼女は台所に立って、土鍋でおかゆを作った。
おかゆの入った土鍋を両手で抱えて、台所を出ようと振り返る。
いつの間にか、娘が入り口をふさぐように立っていた。眉をしかめて、知代の手の中にあるおかゆを睨みつけている。
「私、おかゆなんかいらない。お汁粉がいい!」
知代は取り合わず、半身になってすり抜けようとした。
すると早百合がいきなり飛びかかってきて、知代の体を思いきり突き飛ばした。
熱いおかゆが一気にこぼれる。知代はとっさに一歩踏み出し、腕を回して娘を遠ざけるようにかばった。
背中と腕にまともに熱いおかゆを浴びた。あまりの熱さに体が震え、歯を食いしばって呻き声を漏らす。
鈍い音を立てて土鍋が床に落ち、白いおかゆが四方に飛び散った。
人影がさっと駆けこんできて、娘の前にしゃがみこみ、いたわるように抱きしめた。
早百合の腕には、ほんの少しおかゆの飛沫がかかっただけだった。それでも清子の胸に飛びこんで泣きじゃくる。
「ぜんぶ母さんのせいだもん!母さんなんか大っきらい!
おかゆいらないって言ったから、わざとひっくり返してやけどさせたの!」
第5話
文幸も台所に入ってきて、娘の腕を見ると、低い声で言った。
「まず冷やせ」
清子は早百合を抱いたまま流しの水で腕を冷やしてやり、それから部屋へ向かった。歩きながら、優しく背中をさすってあやしている。
知代は喉が詰まって、ひと言も出てこなかった。
小さいころの娘も、こうだった。泣きじゃくると知代の胸にもぐりこんできて、しゃくり上げながら「かあしゃん」と呼んでいた。
それが今では、よその女の腕の中で、母さんは悪い人だと泣いている。
台所は、また静けさを取り戻した。
知代はようやく動き出した。しゃがみこんで割れた土鍋の破片を拾い集め、床にこぼれたおかゆを雑巾で拭きとる。
文幸の視線が、おかゆでぐっしょり濡れた知代の背中に一瞬留まった。眉がかすかに寄ったが、すぐに目をそらした。
そして、そっけなく言った。
「早百合のやけどに薬を塗らないと。うちにはやけどの軟膏がない。近くの薬局で買ってきてくれ」
騒ぎを聞きつけて、隣の大野のおばさんが心配して様子を見に来ていた。戸口で、たまらず口を挟む。
「ここ何日か物騒なんだから。夜遅くに女が一人で出歩くなんて危ないわよ。明日の朝に買いに行ったって同じでしょう?」
それを聞いて、文幸は少しためらうような顔をした。
ちょうどそのとき、部屋の引き戸が静かに開いた。
出てきた清子が、小さな声で言う。
「よかったら、私が行きましょうか。どうせ眠れないし」
そう言ってから、迷うようにうつむいた。
「ただ、私は体調が優れないから、歩くのも遅いし……夜中に早百合ちゃんが目を覚まして、私がいなかったら……」
その言葉に、文幸の表情がわずかに動いた。
彼はあらためて知代のほうを向いた。
「すぐそこだ。お前が行け」
知代は小さくうなずいただけで、何も言わずにバッグを手に家を出た。
外はもうとっぷりと暮れ、街灯がぼんやりと黄色い光を落としていた。
路地へ曲がった瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。目の前が真っ暗になり、布袋のようなものを頭から被せられ、そのまま壁に叩きつけられる。
背中のやけどを容赦なく押さえつけられ、喉の奥から低くかすれた呻きが漏れた。
知代は必死にもがいたが、相手の手を振りほどけない。無数の拳や蹴りが次々と体に飛んでくる。
やけどを負った背中を何度も踏みつけられ、骨の髄まで突き刺すような激痛が、とめどなく込み上げてきた。
歯を食いしばり、地面を掻きむしるようにして、どうにか起き上がろうとする。そのたびに、腹や足を思いきり蹴りつけられた。
やがて痛みの感覚すら麻痺して、耳鳴りだけが残った。
ふいに、殴打がやんだ。
誰かが小さく毒づく。
「まさか、本当に死んじまったんじゃねえだろうな?」
もうひとりが苛立たしげに言った。
「川波が言ってたろ、何かあったら自分が責任持つって。死んだってこの女の自業自得だ。ほら、ずらかるぞ!」
ばらばらと足音が散っていく。
知代は地面に倒れたまま、冷たい土に頬を押しつけていた。地面をつかんでいた指から、ゆっくりと力が抜けていった。
次に目を覚ましたとき、きつい消毒液のにおいが鼻をついた。
「目が覚めたか」
ベッドの脇に文幸が座っていた。目の下には濃い隈ができ、疲れきった顔をしている。ひと晩じゅう付き添っていたようだった。
知代は彼を見つめ、掠れた声で言った。
「……っ、あの人たち、清子さんが雇ったのよ。警察に届けるわ」
文幸は眉をひそめ、しばらく黙りこんでから、ようやく重い口を開いた。
「この件は俺が調べる。お前はおとなしく傷を治せ。無理に動くな」
そう言って立ち上がり、病室を出ていった。
ドアはきちんと閉まっていなかった。わずかな隙間から、廊下に立つ文幸の姿が見える。
そばにもうひとり誰かがいて、声をひそめて何か話していた。
知代は痛みをこらえてベッドを下り、足音を忍ばせてドアの陰まで行くと、息を殺した。
「連中には口裏を合わせさせてあります。現場に残っていた痕跡も、連中に片づけさせました」
文幸が、ああ、と短く応える。
そばの男は少し言いよどんだ。
「梅谷さん、仕掛けたのはなんといっても川波さんですよ。奥さんはかなりひどい怪我ですし、本当に……不問にするんですか?」
文幸は、ためらうことなく言った。
「先に清子をかぶれさせたのは知代のほうだ。清子は人一倍、自分の容姿を気にするからな。腹に据えかねて、仕返しくらいしたくもなるだろう。
それに清子はもうすぐ向こうへ行く。経歴に傷をつけたまま行かせるわけにはいかない。
知代が清子にしたことは、これで帳消しだ」
第6話
言い終えると、革靴の足音は反対の方向へ遠ざかっていった。
知代はその場に立ち尽くしていた。顔からはすっかり血の気が引いていた。
まさか文幸が、ここまで露骨に清子を庇うとは思いもしなかった。
廊下の突き当たりに消えていく背中を見送りながら、知代の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
出発まで、あと4日。
知代はベッドのそばへ戻ると、迷うことなく自分の服に着替え、黙って病院を出た。
家に戻ってからは、清子と娘をわざと避けて、奥の小部屋でひたすら向こうへ持っていく荷物をまとめた。
まずは市役所へ行って離婚届の用紙をもらい、自分の欄を書き終えた。それから、身の回りの金目のものをすべて質屋に入れて、東北の厳しい冬に備えた防寒着を買いそろえた。
その夜更け。部屋で荷造りが半分ほど終わったところで、戸がいきなり開いた。
文幸が怒りもあらわに、1枚の念書を知代の目の前に叩きつけた。
「お前の仕業か!?
会社から清子に処分に関する通知が出た。証人の証言が全部清子を指してる。お前が告げ口したんだろう?」
知代は顔も上げず、目を伏せたまま答えた。
「告げ口なんかしてないわ。あの人たちは、もともと清子さんが雇った人たちでしょう」
その言葉が終わるや、清子が入ってきて、しゃくり上げながら言った。
「知代さん、もしこれが本当だってことになったら、私の評判はめちゃくちゃよ。向こうへ行ってもどんな顔して暮らせばいいの。私の人生、もうおしまいだわ……」
両手で顔を覆って、清子は泣き崩れた。
知代は目を上げて彼女を見た。心の底から冷たい嘲りが込み上げてきて、危うく声を立てて笑いそうになった。
文幸は眉をひそめ、清子のほうへ身を寄せて優しくなだめた。それから振り返り、念書を机に叩きつけた。
言葉は短かった。
「署名しろ」
知代はうつむいて、書面に目を落とした。
そこにははっきりと書かれていた。この前のクリームの件は、自分が故意にやったこと。
今回清子に殴られたと訴えたのも、嫉妬に駆られて、仕返しのために清子を陥れようとしたこと。
知代は目を見開いた。それから両手をわずかに握りしめ、きっぱりと言った。
「署名なんかしないわ」
文幸は一瞬黙った。そして、冷ややかな声で言った。
「大野さん、市役所の出張所で働いてるんだったよな」
知代の体がこわばった。
「俺には役所にも多少は顔が利く。俺がその気になれば、あの人だって今の職場にはいられなくなる。あの年じゃ、次を探すのも難しいだろうな」
ひと言ひと言が、鋭い刃物のように胸に突き刺さった。
これまで保ってきた冷静さも、麻痺したような心も、その瞬間すべて打ち砕かれた。耳の奥で、ぐわんぐわんと音が鳴り響く。
知代の目には、驚愕と怒りしかなかった。
これほど長く耐えて、これほど長くこらえてきた。けれど、もう限界だった。清子のために、大野のおばさんまで脅しの種にするなんて、思いもしなかった。
戸口で自分の肩を持ってくれた人。自分の身を案じてくれた人。この何年ものあいだ、たったひとり自分に優しくしてくれた人。その人までも、彼は奪おうとしている。
もう、自分には何ひとつ残っていない。
「……わかったわ」
知代は口を開いた。感情のすっかり抜け落ちた声だった。
震える手でペンを取った。ペン先が紙の上で頼りなく踊っていた。深く息を吸い、握る手に力をこめて、名前を書いた。
文幸の表情がゆるみ、口調も少しやわらいだ。
「形だけのことだ。向こうには俺から話を通してあるから、お前をどうこうすることはない。余計なことは考えるな」
知代は黙ったまま、力なく目を閉じた。
指先は、死人のように冷たかった。
翌朝、まだ夜が明けきらないうちに、制服姿の男がふたり、玄関に立っていた。
警察官は厳しい顔つきで、虚偽の申告によって他人を陥れた疑いについて事情を聞きたいので、署まで同行してほしいと告げた。
知代は弁解もせず、文幸を振り返ることもなかった。
ただ黙って靴を履き、警察官に従って家を出た。
第7話
知代はうつむいたまま、警察官に促されて門を出た。
夜が明けたばかりだというのに、表通りにはすでに野次馬が集まっていた。いくらも歩かないうちに、彼女の顔に気づいた者たちが騒ぎ立てる。
「あの女だよ!」
「清子さんをかぶれさせといて、今度は罪もない人に濡れ衣を着せたんだって!」
「へえ、あいつがその鬼嫁かい。ただじゃおかないわよ!」
誰かが吐き捨てるように罵声を浴びせると、それをきっかけに周囲から次々と非難の声が上がった。
カメラを構える者、行く手を塞ぐ者まで現れ、知代はその場から動けなくなる。
やがて、どこからか投げつけられた飲みかけの缶ジュースの中身が肩にかかり、服を濡らした。
耳を塞ぎたくなるような罵声が、四方から容赦なく飛んできた。
知代は土気色になった顔で頭をかばいながら、足早に路地を抜けていった。
警察署に着くと、知代はそのまま取調室へ連れていかれた。
虚偽の被害申告をして、清子を陥れようとした疑いについて、長い取り調べを受けた。
取り調べの途中、警察官から逮捕状を示され、知代はその場で逮捕された。
警察官は事務的な口調で告げた。
「今夜はここにいてもらいます。今後の身柄については、手続きを進めたうえで決まります」
やがて留置場へ連れていかれ、背後で重い扉が閉まった。
無機質な冷たい空気に包まれ、知代はようやく、自分が本当に逮捕されたのだと実感した。
壁際に腰を下ろそうとしたとき、支給された毛布を、同室の女にいきなり足で押しやられた。
「あんたなんかに、ここでのんびり寝る資格があると思ってんの?」
その女は鼻先でせせら笑った。
もうひとりも面白がって知代の肩を小突き、嘲るような笑い声を上げた。
知代はひと言も言い返さず、冷たい床の隅で膝を抱えてうずくまった。
夜になって扉の小窓から配られた食事は、酸っぱい臭いのする傷んだ飯だった。
知代はきつく唇を引き結び、こぼれ落ちる涙といっしょに、その飯を無理やり喉の奥へ押しこんだ。
食べ終えるころにはひどく喉が渇いていた。水が欲しいと係の者を呼んだが、誰も応えなかった。
しばらくして、廊下の向こうから留置係の話し声がかすかに漏れ聞こえてきた。
「さっきから水が欲しいって呼んでますけど?」
「梅谷さんから話が回ってきてるんだ。放っておけ。水もやらなくていい。しばらく大人しくさせとけってさ」
知代はその場に凍りついた。心臓が、冷たい泥の底へゆっくりと沈んでいくようだった。
助けを求めるのをやめ、再び壁の隅へ戻ると、膝を抱えて丸く座りこむ。
唇を血がにじむほどきつく噛みしめ、決して声を上げまいと堪えた。それでも涙は止まらず、ひと粒、またひと粒と膝に落ちていく。
両手で口を強く押さえ、必死に声を殺した。やせ細った肩が、小刻みに震え続けていた。
それから丸2日間、誰も面会には来なかった。外からの言づてひとつ、届かなかった。
水もほとんど与えられないまま、昼間は同室のふたりに殴られ、執拗な罵声を浴びせられた。夜になると毛布まで奪われ、寝る場所もなく、寒さに震えながら壁の隅で体を丸め、朝が来るのを待った。
夜中には高い熱が出た。全身が焼けるように熱く、喉はひび割れるほど渇いていた。
このままここで死ぬのかもしれない。ぼんやりとそう思った。けれど、自分が死んだところで、それを気にかける人間などこの世のどこにもいないのだ。
釈放されて留置場を出た日、外のまぶしい光がいっせいに網膜を刺した。知代は壁に手をついてしばらく立ち止まり、目が慣れるのをじっと待った。
すっかり冷えきって感覚のない足を引きずるようにして、見慣れた路地を一歩一歩たどり、ようやく家へ帰り着く。
家の中には誰もいなかった。茶の間のテーブルの上に書き置きが1枚あり、文幸の無造作な走り書きが残されていた。
【早百合と清子を連れて遊園地に行ってくる。帰りは遅くなる】
知代はテーブルの前に立ったまま、その紙切れを長いこと見つめていた。まるで文字の読み方を忘れたかのように、何度も、何度もその短い文面を目でなぞった。
やがて小さく自嘲するように笑うと、書き置きを元の場所へ静かに戻した。丸めることも、破り捨てることもしなかった。
けたたましい電話の着信音が、家の中の静寂を唐突に破った。
知代は電話機のそばへ歩み寄り、震える手で受話器を取った。
受話器の向こうから、事務的な声が響く。
「梅谷知代さんですか?会社の人事課の者ですが、出発日程が早まりました。1時間後に工場の正門前に集合し、貸し切りバスで出発します」
電話が切れたあとも、知代は受話器を握りしめたまま立ち尽くしていた。ふいに、目の奥が熱くなる。
とうとう限界を超えた涙が堰を切ってあふれ出し、ぽたぽたと冷たい床に落ちていった。
もう、待たなくていいのだ。
やっと……この場所から出ていける!
知代は深く息を吸いこむと、急いで奥の小部屋へ戻り、最後の荷造りを始めた。
荷物はごくわずかで、わざわざまとめるほどの手間もかからなかった。
ボストンバッグを提げてゆっくりと門を出ると、暮らした家を、最後に一度だけ振り返った。
この数年、自分の持つすべてをこの家に捧げてきた。あの男に、そして自分を拒絶し続けたあの娘に。けれど彼らは、自分の献身をボロ雑巾のようにあっさりと投げ捨てた。
ここを出れば、もう貸し借りはなしだ。誰にも、何の借りもない。
知代の瞳からは、苦しみも絶望も、とうに綺麗に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、冬の夜空のように冷たく澄んだ、揺るぎない決意だった。
彼女は静かに視線を戻した。きびすを返し、二度と振り返ることなく歩き出した。
これからは、文幸とはまったく別の道を歩いていく。
この人生で、もう二度とあの男に会うことはない。