第1章
「枝織、またお前のせいで進行が遅れた。今日の式は中止だ」
18回目の結婚式。
私の婚約者である周防陽向(すおう ひなた)は、呆れ果てた目で私、橘枝織(たちばな しおり)を見下ろした。
「俺が完璧主義だって知っているだろう?なぜ言われた通りのタイミングで動けないんだ。
次にリズムを乱したら、いっそお前の親友に花嫁を代わってもらうからな」
彼が私を測る絶対の基準にしているのは、時間に異常なほど正確な私の親友、須藤咲良(すどう さくら)だ。
仕事終わりに待ち合わせ場所へ向かうのが彼女より1分遅れれば、陽向は私を置いて咲良を車に乗せて走り去っていく。
恋人たちの記念日、予約したレストランに入るのが数歩遅れれば、私のためのディナーの席に咲良を座らせる。
休日の旅行で空港の待ち合わせに20秒遅刻しただけで、私の搭乗券を容赦なくキャンセルし、咲良と二人きりで旅立った。
そして、私たちの結婚式でさえも。
彼はこれまで17回も式を途中でキャンセルし、そのたびに私の代わりに咲良を祭壇に立たせて、理想の式の流れを演じさせてきたのだ。
18回目こそは成功させよう。
私は会場の至る所に秒数を正確に刻む時計を配置し、毎晩徹夜で200回以上も進行のタイミングを練習した。
それなのに。
誓いの予定時刻より10秒早く、咲良が横から食い気味に「誓います」と叫んだのだ。
会場中に仕掛けた無数の時計が、正確な時間を知らせるアラームを一斉に鳴らしているのに、陽向はそれを完全に無視して私を睨みつけた。
「18回目もキャンセルだ」
ああ、やっと分かった。
不完全だったのは私のリズムなんかじゃない。
彼にとって、花嫁が咲良じゃないことこそが一番の不完全だったのだ。
なら、その完璧主義、私が叶えてあげる。
陽向は再び優しく咲良の手を取った。
「ほら、見てろ。俺たちがもう一度、完璧な手本を見せてやる」
その姿に、私は張り詰めていた糸が切れたように笑みをこぼした。
そして二人の薬指に、そっと結婚指輪をはめてあげる。
「手本なんていらないわ。二人とも、末永くお幸せにね」
さて、完璧な彼と時間厳守の親友。
お似合いのカップルを置いて、私は私の自由な人生を始めよう。
第1話
しんと静まり返った豪奢なチャペルに、陽向の冷ややかな声が響いた。
「進行表にそんなセリフはない。削除だ」
彼は不愉快そうに、ちらりと私を横目で見下ろした。
私が勝手に自分のセリフを付け足したことに、苛立っているらしい。
私は一瞬呆然とし、目の奥がツンと熱くなった。
今この瞬間でさえ、彼は私がこの「完璧な結婚式ごっこ」に大人しく付き合っていると思っているのだ。
私の思いや意見なんて、彼からすればいつでも好き勝手に削除できるただのバグでしかない。
削られたのは、この言葉だけじゃない。
彼は私が一番好きだったチューリップの装花を却下し、咲良が好きだと言った白バラで会場を埋め尽くした。
ずっと親しくしていた私の幼馴染をブライズメイドから外し、咲良の職場の同僚をそのポジションに据えた。
祖母から三代受け継いできた大切なウェディングドレスすら、咲良がカタログを見て気に入ったデザインのものに無理やり変えさせられた。
私が少しでも不満をこぼすたびに、彼は「咲良が選んだものの方が、俺の理想とする式のテーマに完璧に合っている」と冷たく切り捨てた。
完璧を追求するからといって、私の好みをすべてゴミ箱に放り込んだのだ。
それなのに、咲良のミスに対してはいとも簡単に完璧主義を投げ捨てて、あっさりと妥協を許した。
祭壇の前で立ち尽くす私を見て、咲良がにっこりと笑って場を和ませようとする。
「そんなに堅いこと言わないでよ。枝織ちゃんだって悪気があるわけじゃないんだから。
それに、末永くお幸せにって祝福の言葉があったほうが、結婚式としてもっと完璧になると思わない?」
彼が決めたルールは絶対に覆らない。
そんなフォローは無駄だと教えようとしたその時。
次の瞬間、陽向は彼女の甘えるような視線に絆されて、あっさりと折れたのだ。
「……わかった。まあ、付け足してもいいだろう」
ため息交じりでありながら、その声には明らかな甘さが滲んでいた。
その言葉を聞いて、私は思わず指先をきつく握り込んだ。
胸の奥に、鋭いトゲがグサリと突き刺さる。
これまで幾千回となく味わってきた失望の中で、私が一度も反抗しなかったわけじゃない。
けれど、陽向は私に対しては絶対に、何ひとつ妥協してくれなかった。
一番ひどい喧嘩になったのは、私が亡き母の形見のブレスレットをつけて式に出たいと頼み込んだ時だ。
天国の両親に、私が幸せになる姿をちゃんと見守ってほしかった。
なのに、どれだけお願いしても、泣いてすがっても、彼は頑として首を縦に振らなかったのだ。
一旦は諦めたフリをして、本番直前にこっそり身につけようとしたこともあった。
それでも彼は、私からブレスレットを外させるためだけに、5回も式を中止にしたのだ。
自分の原則のためなら、私の心などいくらでも踏みにじってきた。
それなのに今はどうだ。
私がどれだけ血を流して叩いても開かなかった扉が、咲良の一言でいともたやすく開け放たれた。
なんだ。
彼は自分の原則を破れないわけじゃなかったんだ。
ただ、私が彼の「例外」になる資格を持っていなかった。
ただそれだけのことだったのだ。
ぼんやりとしている間に、陽向は咲良の腰を抱き寄せ、タイミングぴったりに誓いのキスのフリをして見せた。
ワァッと会場が沸き立つ。
「陽向も人が悪いな!咲良ちゃんにベタ惚れなのは皆知ってるのに、数ヶ月おきにこんな結婚式ごっこ見せつけやがって!」
「花嫁のすり替え劇はもう十分堪能したよ!次は違うサプライズにしてくれ!」
冷やかしの歓声に、陽向は何も答えなかったが、その目元にははっきりと嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
彼はこの進行表にない悪ふざけを、完全に受け入れている。
そして、私がこの茶番の中で18回もすり替えられる「ピエロ」であることを、当然のように黙認しているのだ。
ふと会場を見渡す。
参列者の席を埋め尽くしているのは、陽向と咲良の友人や職場の関係者ばかり。
私の親族や友人は、これまで17回も繰り返されたドタキャンと恥辱のせいで、とうの昔に愛想を尽かして去ってしまった。
だから、ここにいる誰も、私が本当の花嫁だなんて認識していないのだ。
でも、陽向は知らない。
どれほど従順なピエロだって、疲れ果てる日は来る。
全身を縛り付ける窮屈な糸を断ち切って、彼の完璧な舞台から永遠に降りたくなる日が来るということを。
第2話
控室に戻り、重苦しいウェディングドレスを脱ぎ捨てた。
着慣れた普段着に袖を通すと、ようやくまともに呼吸ができた気がした。
荷物をまとめていると、扉が開いて陽向と咲良が入ってきた。
陽向は私を見るなり、いつものように冷ややかな説教を始めた。
「今回は予定より5分早く退場したうえに、誓いの言葉のタイミングもずれていた。よって、本日のパフォーマンスはマイナス5点だ。
この失敗を胸に刻んで、次の式まであと5ヶ月、一人でみっちり練習しておけ。俺たちにお前のミスを尻拭いさせるな」
陽向は、式の完璧さを「点数」で評価する。
1点減点されるごとに、1ヶ月練習期間が延びるというルールだ。
5ヶ月、また5ヶ月。
18回の結婚式を繰り返す中で、私は彼を丸7年も待ち続けてきた。
7年待っても辿り着けなかった結婚に、8年目が来たところで何が変わるだろう。
私に無駄にできる7年はもうない。
これ以上、待つつもりもなかった。
私が無言でいるのを肯定と受け取ったのか、陽向は鼻で笑った。
その横で、咲良が不思議そうに首を傾げる。
「えっ、減点なんてあるの?陽向くんの採点って加点式じゃないの?
枝織ちゃんは今、何点くらいなの?」
喉がカラカラに乾いていた。
私は掠れた声で答える。
「マイナス5点よ。あなたは?」
「私?私はもう6000点を超えてるよ!」
その言葉に、私は全身が凍りついたように動けなくなった。
咲良は私が疑っているのだと思ったらしい。
得意げにスマートフォンを取り出し、SNSの画面を私に見せつけてきた。
画面を埋め尽くすのは、陽向と咲良の仲睦まじいツーショット写真。
そして、投稿の文面にはどんどん加算されていく点数が並んでいた。
【完璧にクッキーが焼けたから+10点】
【定時ピッタリに退社できたから+20点】
【俺の助手席に乗せて雨に一切濡れさせなかったから+50点】
一番上にあるのは、たった3分前に投稿されたばかりのものだった。
【枝織の結婚式の尻拭いを完璧にこなしたから+100点!】
投稿しているのは、私が見たことのない陽向の別のアカウントだった。
でも、アイコンの画像を見た瞬間、息が止まった。
それは、私が婚約の証として彼にプレゼントした、あの高級な腕時計だったのだ。
陽向が複数のアカウントを持っていて、私とは別のアカウントで咲良と繋がっていることは知っていた。
だが、それは仕事用か、あまり使わないただのサブ垢だと思っていたのだ。彼なりに私に配慮してくれているのだと、ずっと信じていた。
けれど違ったのだ。
私の連絡先リストの中で、一度も投稿をしたことがない静かな彼のアカウント。
そっちのほうが、彼にとってはどうでもいいサブ垢だったということに。
視界に飛び込んできたその残酷な点数を見つめたまま、私は俯いた。
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪える。
この7年間、彼のために血の滲むような努力をしてきた結果がマイナス5点だなんて。
私の存在そのものが、滑稽なピエロのようだ。
咲良もさすがに気まずいと思ったのか、ポカポカと陽向の腕を叩いた。
「もう、陽向くんのバカ。枝織ちゃんは一応、婚約者なんだから、マイナス点なんて可哀想だよ!」
二人は私の目の前で、点数のことで楽しげにじゃれ合い始めた。
私はその光景から目を逸らし、静かにスマホを取り出した。
そして、以前から声をかけてくれていた取引先の社長宛てにメッセージを打ち込む。
【結城社長。以前おっしゃっていた海外支社への引き抜きの件ですが、まだ有効でしょうか?】
【もちろんです!明後日の朝一でフライトを予定していますが、一緒に来ますか?】
顔を上げると、不意に陽向の冷たい視線とぶつかった。
ビクリと心臓が跳ねる。
彼は眉間に皺を寄せ、チッと舌打ちをした。
「……分かったよ。5点プラスしてやる。これなら文句はないだろう。俺が厳しすぎるとか言われたくないからな。
だが、次にまたそのボロボロのドレスを持ち込んだら、さらに2点減点だ。
何度も言ってるだろう。そんな古臭いもの、とっくに捨てるべきなんだよ」
彼の視線の先には、キャリーケースからはみ出している、私の祖母から受け継いだ大切なウェディングドレスの裾があった。
スマホを握る手にぐっと力が入り、私は迷いなく送信ボタンを押した。
【明後日、空港で】
そして、キャリーケースからそのドレスを引きずり出すと、彼が完璧な結婚式のために私に押し付けてきた趣味の悪いアクセサリーや衣装と一緒に、控室のゴミ箱へと迷いなく放り込んだ。
「……ええ、そうね。古いものは、もう捨てるべきだわ」
陽向はゴミ箱の中身を見つめ、一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべた。
彼が何か口を開こうとしたその時、控室の時計が次のスケジュールを知らせるアラームを鳴らした。
私は彼の言葉を遮るように言った。
「披露宴の挨拶回りの時間よ。これ以上モタモタしていると、完璧なリズムに乗り遅れるわよ」
咲良の期待に満ちた眼差しに促され、陽向は彼女を連れて踵を返した。
ドアを閉める直前、彼は少しだけ立ち止まって言った。
「自らリズムに気を配った姿勢を評価して、3点プラスしてやる。次の準備期間は1週間だ。
安心しろ。次こそは完璧な結婚式にしてやるから」
私は荷物をまとめる手を止めなかった。胸の奥には、さざ波ひとつ立っていない。
彼は知らないのだ。
1週間後には、もう花嫁の私なんていないということを。
今更ご褒美みたいに与えられた例外なんて、もういらない。
第3話
賃貸アパートに帰宅した私は、すぐに航空券を手配し、必要最低限の荷物をトランクに詰め込んだ。
それから、部屋中の壁や棚に設置された36個ものタイマー時計を、ひとつひとつ無心で取り外していった。
彼が完璧な彼女の基準として私に強要した窮屈な服やアクセサリーも、すべてゴミ袋に叩き込む。
彼の狂気じみた完璧主義に付き合うためだけの、こんな拷問器具のようなもの。これからの私には、もう必要ない。
トランクのファスナーを閉め、大きく息を吐き出した。
さあ、あとは陽向に婚約破棄の電話をかけるだけだ。
そう思いスマホを手にした瞬間、見知らぬ番号から着信が入った。
「もしもし、ルミエールタワー3棟501号室の周防さんのお電話でしょうか?
ご注文いただいた二日酔い用の胃薬とスポーツドリンクをお持ちしたのですが、エントランスのコンシェルジュに止められてしまって。
ご足労ですが、下まで取りに来ていただけますか?」
私は息を呑み、得体の知れない違和感に襲われた。
ルミエールタワー。それは7年前、私たちがいずれ結婚した時のために購入した高級マンションの部屋だ。
しかし彼の異常な完璧主義のせいで、完璧な結婚式が成功するまでは、絶対に新居には足を踏み入れないというルールが作られていた。
だからこそ、私たちは今日まで手狭なアパートで暮らし、あの部屋にはお互いに絶対に近づかないと誓い合っていたはずなのに。
私が急いで車を走らせルミエールタワーに着くと、501号室のドアは半開きになっていた。
わずかな隙間から、甘ったるい女の声が漏れ聞こえてくる。
「もう、陽向くんのせいだからね!枝織ちゃんにマイナス点なんか付けるから、怒って帰っちゃったじゃん!記念写真も撮れなかったのに!」
ポカポカと叩くような音のあと、陽向の楽しそうな笑い声が響いた。
「おいおい、酔っ払いはこれだから。……分かった分かった、俺が悪かったよ。
記念撮影のフローをすっぽかしたことに関しては、あいつへの減点はなしにしてやるから」
陽向は彼女のバタバタと暴れる足を優しく受け止め、丁寧にさすり始めた。
その目には、零れ落ちそうなほどの甘い愛情が浮かんでいる。
……なんだ。
彼だって、人を優しく介抱することができるんじゃないか。
私が職場の飲み会で酔い潰れ、ふらついて彼の肩に寄りかかった時、彼は私をアパートから冷酷に閉め出した。
「酔って俺にまとわりつくな。外で酔いを覚ましてから入れ」と言い放って。
気温が氷点下を下回る極寒の夜。あの日の寒さがトラウマになって、私は二度と外でお酒を飲めなくなったのに。
それなのに彼は今、自ら定めた「絶対に新居に入らない」というルールを平気で破り、泥酔した咲良を私たちの新居に連れ込んでいる。
彼女が部屋をどれだけ散らかそうと、好き放題に暴れようと、ただ甘やかしているだけ。
私が静かにドアを押し開けると、陽向はこちらを振り返った。
一瞬だけ彼の目に動揺が走ったが、私の手にあるデリバリーの袋を見た瞬間、あからさまに苛立ったように眉をひそめた。
「完璧な彼女のルール、第三条。結婚前はお互いのプライバシーを尊重し、過干渉しないこと。
勝手に俺のデリバリーを見て、ここまで押し掛けてきたな。マイナス10点だ」
言い訳ひとつなく、ただ冷たく私を責め立てるだけ。
胸の奥から込み上げる滑稽さに、私は急激な疲労感を覚えた。
もう、周波数の合わない相手と会話をするだけ無駄だ。ただの雑音にしかならない。
「ねえ陽向、私たちもう別れ……」
私が言い終わる前に、咲良がろれつの回らない声でふらふらと私に飛びついてきた。
「だーめ!枝織ちゃんの減点なんて許さない!」
彼女は陽向を押しのけ、私の手を強く握りしめた。
「親友でしょぉ?今日、一緒に写真撮ってくれなかったの、もしかして私に怒ってる……?
わざと枝織ちゃんの結婚式、横取りしたわけじゃないんだよぉ。指輪、返してあげるから、仲直りしよ!」
彼女は自分の指から結婚指輪を抜き取ると、無理やり私の指にはめようとした。
強烈なアルコールの臭いが鼻をつき、私は思わず顔をしかめて彼女の手を振り解こうとした。
その瞬間、指先に鋭い痛みが走った。
「痛っ……!」
ドンッ!
次の瞬間、私は強い力で突き飛ばされた。
陽向が血相を変えて咲良の指を庇うように包み込み、まるで親の仇でも見るかのような目で私を睨みつけていた。
「枝織、お前、頭がおかしいんじゃないのか!?」
痛みを訴えようとした私の声は、喉の奥に張り付いて出てこなかった。
彼は血で汚れた指輪を足で遠くへ蹴り飛ばすと、咲良をソファに抱え上げ、救急箱から取り出した包帯を慌てて巻き始めた。
その血は、私の指先が切れて彼女の手に付いただけだ。拭けばすぐに落ちるというのに。
彼は咲良の指に、何重にもぐるぐると大げさに包帯を巻きつけた。
そして何かを思い出したように、咲良を横抱きに抱え上げ、玄関へと駆け出していく。
「咲良を病院に連れて行って、破伤風のワクチンを打たせる!お前はアパートに帰って、一人で反省してろ!
咲良がお前を許すまで、次の結婚式は無期限延期だ!」
吐き捨てるようにそう言うと、彼は私を残して足早に去っていった。
ドアがバタンと閉まる風圧で、私の力無い呟きは虚しくかき消された。
「……怪我をしたのは、私なのに」
第4話
マンションの下に降りると、私が乗ってきた車はすでに陽向が病院へ乗って行ったあとだった。
こんな真夜中に、私をどうやって帰すつもりなのか。私に車が必要かなんて、彼にはどうでもいいのだろう。
タクシーの配車アプリを何度更新しても、一向に捕まる気配はない。
指先はすでに赤く腫れ上がっている。
仕方なく大きな病院へ行くのは諦め、私は通りかかった小さな夜間クリニックに入ることにした。
破傷風のワクチン注射が腕に深く刺さった瞬間、鋭い痛みにすっと血の気が引いた。
待合室の椅子に座り、無意識にSNSのアプリを開くと、一番上に咲良の投稿が表示された。
【人生初の破傷風ワクチン!すっごく痛かった(>_<)】
【でも、痛みを紛らわせてくれる人がいてよかった♡】
添えられていたのは、くっきりと歯型がついた陽向の腕の写真だった。
きっとその時の彼は、痛がる彼女を甘やかすような優しい笑みを浮かべていたのだろう。
「完璧な彼女たるもの、常に自立していなければならない」
陽向は昔からそう言っていた。
だから、私が酷い生理痛で気を失いそうになり、病院に連れて行ってほしいと泣きついた時でさえ、彼は私のSOSを冷酷に無視した。
ただ、デリバリーの薬局のリンクを無機質に送ってきただけだった。
彼のその厳しすぎるルールに付き合ってきたおかげで、私は痛みへの耐性がすっかり高くなっていると思っていたのに。
気がつけば、私の頬をポロポロと涙が伝い落ちていた。
私の涙を見たのか、医師は少しだけ優しく針を抜き、「しばらく待合室で様子を見てくださいね」と声をかけてくれた。
小さく頷き、私はまたスマホに視線を落とす。
投稿のコメント欄に、見慣れたアイコンを見つけてしまったから。
【注射中も暴れずにいい子にしてたな。完璧だ。プラス100点】
【ご褒美に、君がずっと行きたがっていた旅行をプレゼントしよう】
そのコメントに添えられていた画像は、世界的に有名な雪国の高級リゾートへのペアチケットの予約画面だった。
空中に浮いた私の指先が、ピタリと凍りつく。
……それは、私と陽向が新婚旅行で行くはずだった場所だ。
結婚式が7年間も成功しなかったせいで、この旅行も7年間ずっとお預けになっていた。
「チケットの期限が切れたら、また買い直せばいい。だが、完璧なフローは崩せない。
個人の感情で、俺たちの完璧な結婚のステップを乱すことは許されないんだ」
彼はそう言って、決して妥協してくれなかったのに。
今、彼はその大切な私たちの新婚旅行を、ただの「ご褒美」として別の女にあっさりプレゼントしている。
別の女にお下がりとして使われるような新婚旅行の、一体どこが「完璧」なのだろう。
私にはもう、彼の基準がまったく分からない。
涙を乱暴に拭い、私はその投稿に静かにリプライを送った。
【気をつけていってらっしゃい】
【私たち、もう別れましょう】
私に分かるのは、誰かのお下がりの新婚旅行なんていらないということ。
そして、誰かのお下がりの男も、もういらないということだ。
送信した数秒後、陽向から狂ったように着信が入り始めた。
すべて着信拒否をすると、今度はメッセージアプリの通知が滝のように鳴り続ける。
【咲良のSNSで頭のおかしいコメントして、何がしたいんだ?お前、自分が何をしたか反省してないのか?】
【咲良が広い心でお前を許してくれたんだから、俺がお前の代わりに旅行をプレゼントして謝罪するのは当然だろう。大げさに騒ぎ立てるな】
【完璧な彼女のルール第一条。連絡には即座に返信すること。無視したからマイナス5点だ】
そして一番最後には、彼なりに歩み寄ってやったとでも言うような、上から目線のメッセージが届いた。
【明日の朝10時。空港に遅れずに来い。俺たちの旅行に特別に同行させてやる】
その独りよがりな言葉に呆れ果て、私は陽向と咲良のアカウントを迷わずブロックし、連絡先も完全に削除した。
そして、結城社長とのトーク画面を開く。
【予定よりフライトが早まりました。明日の朝、出発します】
私は深く息を吸い込み、返信を打ち込んだ。
【承知いたしました】
夜間クリニックの硬い椅子でどうにか一晩を明かした私は、早朝にタクシーでアパートに戻り、あらかじめまとめておいたトランクを引いて空港へと向かった。
搭乗ロビーのベンチでフライトを待っていると、不意に視線を感じて顔を上げた。
そこには、信じられないものを見るような目で私を見つめる陽向が立っていた。
私は時計に目を落とす。まだ朝の7時だ。
陽向が何か言おうと口を開きかけた時、彼の後ろから咲良の弾んだ声が聞こえてきた。
「あ、枝織ちゃん!もしかして、枝織ちゃんも一緒に旅行に行くの!?」
大きなトランクを引きながら小走りで駆け寄ってくる彼女は、明らかに今しがた到着したばかりの様子だった。
陽向は言いかけた言葉を飲み込み、冷たく言い放った。
「いや、こいつはまた遅刻したんだよ」
……ほらね。
彼の時計の針は、いつだって咲良のためだけに正確に動いている。
昨夜、私に指定してきた集合時間は「10時」だったのに。彼女に合わせて、ちゃっかり3時間も前倒ししているじゃないか。
最初から、あの二人の甘い世界に私を同行させる気なんて微塵もなかったのだ。
一瞬の沈黙の後、陽向は仕方ないというようにわざとらしくため息をついた。
そしてポケットから、綺麗に血を拭き取られたあの結婚指輪を取り出すと、私の薬指に強引にはめ込んだ。
「いい子にしてろ。7日後には戻るから、お前はそれまでに次の式の準備を完璧に整えておけ。その日にはちゃんと行ってやるから。
だからもう、こんなところにまで押し掛けてきて子供みたいに駄々をこねるなよ。今回の遅刻に関しては、特別に減点しないでおいてやる」
彼はまだ信じて疑っていないのだ。
私がこれまで通り、大人しく彼を待ち続け、咲良との仲に嫉妬して癇癪を起こし、彼のたった一言の甘い約束で簡単に機嫌を直す都合のいい女だと思い込んでいる。
でも、それは大きな勘違いだ。
本当に未練を断ち切った人間は、言い訳すら面倒になるものなのだ。
二人で仲良く搭乗口へ向かう背中を見送った後、私は薬指の指輪を躊躇なく抜き取り、近くのゴミ箱に投げ捨てた。
そして、彼らとは反対の方向にある国際線の搭乗ゲートへと足を踏み出す。
彼が存在しない、私の新しい未来へ向かって。
……
7日後。
旅行から帰国した陽向は、空港から直接、式場のホテルへと完璧なタイミングで駆けつけた。
しかし、披露宴の扉を開けた瞬間、彼は呆然と立ち尽くした。
広々としたホールには、装花もなければ、参列者の姿も一人としてない。
ただ静まり返った空虚な空間が広がっているだけだった。
じわじわと得体の知れない不安が胸に込み上げ、彼は通りかかったホテルの支配人を慌てて捕まえた。
「おい、今日は橘枝織の結婚式のはずだろう!?参列者はどうしたんだ!」
支配人は心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「橘様ですか?橘様なら、1週間前に今後のご予約をすべてキャンセルされましたよ。なんでも、海外へ移住されたとか……」