愛されたのは、私じゃなく顔だった​

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岡北隼輝(おかきた しゅんき)の不倫現場を目にした夜、それでも私・岡北奈々花(おかきた ななか)は、自分こそが彼に一番愛されている女だと信じている。 なぜなら、彼の腕の中にいる女は、私によく似た顔をしているから。 隼輝がその女の腰にそっと腕を回すのが見えた。まるで、この世でたったひとつの宝物を慈しむかのように。 以前、私がうっかり足をくじいて、彼の腕につかまろうとしたときのことが、頭をよぎる。 あのとき彼は、冷淡に言い放った。 「面倒くさい」 その女、上窪絵梨(うえくぼ えり)が、か細い声で言った。 「隼輝……私たち、こんなことしちゃだめよ。隼輝にはもう、奥さんがいるの!」 けれど隼輝はなりふり構わず、まるで取りつかれたように絵梨を抱きしめた。 「そんなの、どうでもいい!」 絵梨の頬をやさしく両手で包んだ。 「8年前、絵梨は俺に怒って、何も言わずに海外へ行っちまった。 俺は8年間、ずっと絵梨を探し続けてたんだ。今やっと、こうして絵梨をこの腕に抱きしめることができた。 手放すはずがないだろ?」 私は石柱の陰に身を隠したまま、聞けば聞くほど心が冷えていくのを感じている。 私と隼輝は、結婚して7年になる。 この7年間、彼が一番口にしていたのは、「奈々花の顔が何より好きだ」という言葉だった。 私は、それがネットでよく言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと信じ込んでいた。 けれど違った。 私が特別扱いされてきたのは、ただ別の女の面影があったからに過ぎなかったのだ。 跳ね返った泥水で汚れないよう、隼輝が絵梨のワンピースの裾をそっと持ち上げるのを目にしたとき――私は暗がりに佇んだまま、ようやく自分との「違い」を思い知らされた。 泣きもしなかった。取り乱すこともしなかった。ただ、ふと、もう「物分りのいい妻」でいるのが嫌になった。

Chapters (1)

第1章

岡北隼輝(おかきた しゅんき)の不倫現場を目にした夜、それでも私・岡北奈々花(おかきた ななか)は、自分こそが彼に一番愛されている女だと信じている。 なぜなら、彼の腕の中にいる女は、私によく似た顔をしているから。 隼輝がその女の腰にそっと腕を回すのが見えた。まるで、この世でたったひとつの宝物を慈しむかのように。 以前、私がうっかり足をくじいて、彼の腕につかまろうとしたときのことが、頭をよぎる。 あのとき彼は、冷淡に言い放った。 「面倒くさい」 その女、上窪絵梨(うえくぼ えり)が、か細い声で言った。 「隼輝……私たち、こんなことしちゃだめよ。隼輝にはもう、奥さんがいるの!」 けれど隼輝はなりふり構わず、まるで取りつかれたように絵梨を抱きしめた。 「そんなの、どうでもいい!」 絵梨の頬をやさしく両手で包んだ。 「8年前、絵梨は俺に怒って、何も言わずに海外へ行っちまった。 俺は8年間、ずっと絵梨を探し続けてたんだ。今やっと、こうして絵梨をこの腕に抱きしめることができた。 手放すはずがないだろ?」 私は石柱の陰に身を隠したまま、聞けば聞くほど心が冷えていくのを感じている。 私と隼輝は、結婚して7年になる。 この7年間、彼が一番口にしていたのは、「奈々花の顔が何より好きだ」という言葉だった。 私は、それがネットでよく言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと信じ込んでいた。 けれど違った。 私が特別扱いされてきたのは、ただ別の女の面影があったからに過ぎなかったのだ。 跳ね返った泥水で汚れないよう、隼輝が絵梨のワンピースの裾をそっと持ち上げるのを目にしたとき――私は暗がりに佇んだまま、ようやく自分との「違い」を思い知らされた。 泣きもしなかった。取り乱すこともしなかった。ただ、ふと、もう「物分りのいい妻」でいるのが嫌になった。 第1話 ​ 家に戻ると、私は7年間しまい込んだままのカメラを探し始めた。 ​ 隼輝と出会う前、私はH新聞社経済部の記者だった。 ​ 隼輝を取材したあの日、彼は私の顔をじっと見つめたまま、何も言わなかった。 ​ 取材どころではなくなり、私は思わず口を開いた。 ​ 「岡北さん、私の顔に何かついていますか?」 ​ 彼は慌てて首を横に振り、小声でぽつりとつぶやいた。 ​ 「やっと見つけた……」 ​ そのときの私は何がなんだかわからず、成功者には妙な癖があるのだろうくらいに思っていた。 ​ 今になって、ようやくわかった。 ​ 彼が見つけたのは、忘れられない女の身代わりだったのだ。 ​ 付き合い始めてからというもの、隼輝は私に記者をやめさせようとした。 ​ 私を抱き寄せながら、やさしいのに逆らえない口調で言った。 ​ 「奈々花、記者なんて大変すぎる。疲れるだろ?奈々花が心配なんだ。 ​ 絵画教室に申し込んでおいたから、通ってみるといい。美意識も磨けるし」 ​ あの頃の私は、隼輝が本当に私をいたわり、私のためを思ってくれているのだと、何の疑いもなく信じていた。 ​ その日から、カメラはクローゼットの一番奥に押し込んだ。 ​ そうして絵を習い始めたものの、講師には「絵の才能がまるで無い」と言われてしまった。 ​ それでも隼輝をがっかりさせたくなくて、歯を食いしばって続けた。 ​ 長いこと探して、ようやく見つけたカメラを見つめているうちに、涙がこぼれた。 ​ 男に愛されようとするあまり、私は一番大切にしていた仕事を手放してしまったのだ。 ​ 隼輝の腕の中にいた絵梨の姿を思い返す。 ​ 彼女は若くして名を上げ、今もっとも注目を集めている女性画家。 ​ 棚の上に置かれている、私の描いた練習作品が、今では醜く歪んで見えた。 ​ まるで、バカみたいな私を笑っているようだ。 ​ 玄関の開く音がして、隼輝が帰ってきた。 ​ 床にへたり込んでいる私を目にすると、彼は眉をひそめた。 ​ 「何してるんだ?」 ​ 私は絞り出すような声で答えた。 ​ 「また、記者に戻るわ」 ​ 隼輝の声に、苛立ちが滲んだ。 ​ 「前にも言っただろ。もう記者はやるなって」 ​ 「でも、私はこの仕事が好きなの」 ​ 私は初めて、彼に言い返した。 ​ 「絵なんて最初から好きじゃなかった。明日からもう、絵画教室には行かない」 ​ 「奈々花」 ​ 私を見つめる彼の瞳に、有無を言わせぬ威圧感が宿っている。 ​ 「今日はどうしたんだ?誰かに何かされたのか?」 ​ 私は首を横に振った。 ​ 自分が単なる身代わりだったと気づいたなんて、口が裂けても言えない。 ​ そんなことを認めれば、プライドがズタズタになってしまう。 ​ しばらくして、彼はため息をつき、私の隣に腰を下ろした。そして手を伸ばし、私を抱こうとした。 ​ 私は身をかわして、その腕から逃れた。 ​ 彼の体には、まだ絵梨の香水の匂いが漂っている。 ​ 隼輝は一瞬きょとんとしたものの、気に留めなかった。 ​ 「最近、会社が忙しすぎるんだ。ずっと残業して、奈々花と過ごす時間がなかった。俺が悪かった」 ​ 私の頬を軽くつまんだ。 ​ 「落ち着いたら、ちゃんと奈々花との時間を作るから」 ​ 私は彼の目を見つめた。 ​ 「本当に?」 ​ 彼はふいに視線を逸らした。 ​ 「本当」 ​ 私が何か言うより先に、彼は立ち上がって出ていった。 ​ 深夜、隼輝は私の隣に横たわったが、いつものように私を見つめようとはしなかった。 ​ そのまま、そっけなく明かりを消した。 ​ 以前は、いつも私の顔を飽きるほどじっと眺めていた。 ​ その目には、うっとりするような熱が満ちていた。 ​ 私は、それがネットで言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと思っていた。 ​ けれど実際は、彼が見ていたのは私じゃなかった。 ​ 私の顔を通して、別の誰かを見ていたのだ。 ​ 翌朝、隼輝は昨夜のことなど忘れたような顔をしている。 ​ 後ろから私を抱きしめて言った。 ​ 「友人から、明後日に絵梨の帰国祝いパーティーがあるって聞いた。奈々花も一緒に来てくれ」 ​ 私は返事をしなかった。パーティーの本当の主催者が隼輝であることを知っている。 ​ 「行かなくてもいい?」 ​ 彼は抱きしめる腕に力を込めた。 ​ 「みんな来るんだ。そんな聞き分けのないことを言うな。いい子だからさ」 ​ 第2話 ​ 夕方、ホテルに着いた頃には、もうパーティーは始まっていた。 ​ 会場へ足を踏み入れると、隼輝と絵梨が並んで立ち、周りの人たちと楽しそうに話している姿を目にした。 ​ まるで夫婦のようだ。 ​ 隼輝の親友たちも、みんな集まっている。 ​ 私はゆっくりと近づき、彼らの話し声に耳を澄ませた。 ​ 「隼輝のやつ、絵梨ちゃんを8年も探し続けて、やっと見つけたんだな!」 ​ 「学生の時からずっと絵梨ちゃん一筋だったもんな。これでやっと想いが報われたな!」 ​ 「でも、奈々花さんはどうするんだ?」 ​ 誰かが疑問を口にした瞬間、全員が黙り込んだ。 ​ しばらくして、誰かがため息をついた。けれど、それきり誰も何も言わなかった。 ​ 私は会場の隅に立ち尽くしたまま、胸を強く締めつけられるような痛みに耐えている。 ​ そういうことだったのだ。 ​ みんな、隼輝は忘れられない女がいることを知っていた。 ​ なのに隼輝は、自分の過去を一度も話してくれたことがなかった。 ​ お互いが初恋相手なのだと、私はずっと思っていた。 ​ けれど、彼はずっと前から、別の女をあんなにもひたむきに愛していたのだ。 ​ 絵梨が壇上に上がり、挨拶を始めた。 ​ 私は隅に立ったまま、隼輝が彼女をうっとりと見つめ、熱のこもった拍手を送る姿を眺めている。 ​ パーティーが終わるまで、隼輝は私の存在に気づかなかった。 ​ ただひたすら絵梨を見つめ、二度と消えてしまわないようにとでも思っているかのようだ。 ​ パーティーが終わり、疲れ切った私は帰ろうとした。そのとき、入口で隼輝と絵梨に出くわした。 ​ 私を目にとめた隼輝は、苛立ったように口を開いた。 ​ 「どこにいたんだ?パーティーの間、一度も見かけなかったぞ」 ​ 私は苦々しく言った。 ​ 「隼輝の目には、もう他の人なんて映らないんじゃないの?」 ​ 彼は一瞬、言葉を失い、眉を寄せた。 ​ 「どういう意味だ?」 ​ すると隣にいる絵梨が、場を取りなすように言った。 ​ 「奈々花さんですよね?私は隼輝の友達、上窪絵梨と言います」 ​ 「絵梨!」 ​ 隼輝はたしなめるように彼女を見た。 ​ 私は絵梨の美しい顔を見つめ、しばし呆然とした。 ​ 世の中には、こんなにも私によく似た人がいるのか。 ​ 私が頷くと、彼女は笑いながら言った。 ​ 「私たち、本当によく似ていますね。奈々花さんを見ていると、昔の自分を見ているみたいです」 ​ 私は口を開きかけた。 ​ けれど、その前に隼輝が口を挟んだ。 ​ 「そんな言い方するな。絵梨だってまだ十分若いだろ」 ​ 私は口元を引きつらせ、そのまま背を向けた。 ​ 背後から、絵梨が隼輝に私を追いかけるよう促す声が聞こえてきた。けれど、私の胸にはただ力の抜けていくような感覚だけが残った。 ​ 他人から施しのように与えられる愛なら、そんなものはいらない。 ​ 隼輝が追いかけてきて、私の腕をつかんだ。 ​ 苛立った声が飛んできた。 ​ 「また何を拗ねてるんだ?俺の気持ちを考えたか?気まずいだろ」 ​ 私は彼を見つめた。 ​ 「じゃあ、隼輝は?私を別の女の身代わりにしておいて、私の気持ちなんて考えたことあるの?」 ​ 彼は言葉を失った。 ​ しばらくして、苦しげに葛藤しながら口を開いた。 ​ 「俺は8年間ずっと絵梨を愛してきた。もう二度と彼女を離したくないんだ。 ​ 奈々花さえ良ければ、これからも不自由はさせないし、欲しいものは何でも買ってやる。 ​ ただ……愛だけは、もう与えられない」 ​ 私は冷ややかな視線を彼に向け、きっぱりと言い捨てた。 ​ 「お断りよ」 ​ そのまま背を向け、溢れ出す涙を拭おうともせず歩き去った。 ​ 隼輝も、それ以上は追ってこなかった。 ​ 家に戻ると、私は荷物をまとめ始めた。 ​ けれど、何年も一緒に暮らしてきたのに、本当に好きだったものは家にほんのいくつかしかないことに気づいた。 ​ 本当は、可愛らしいピンクが好きだ。 ​ それなのにクローゼットに並んでいるのは、青い服ばかり。 ​ 隼輝が、青い服を着た私を見るのが好きだと言っていたから。 ​ 私は、この前の結婚記念日に隼輝から贈られた青いワンピースを手にしたまま、ぼんやりしている。 ​ そこへ隼輝が帰ってきた。 ​ 私がワンピースを抱えているのを見るなり、彼は眉をひそめた。 ​ 「奈々花、本気で自分を身代わりだと思い込んでるのか? ​ 今さらそのワンピースを着たところで、美しさでは絵梨の足元にも及ばない」 ​ まさか、こんなにも冷たい言葉が彼の口から出てくるなんて、信じられなかった。 ​ 私はワンピースを床に投げ捨て、冷ややかに言い放った。 ​ 「勘違いしないで」 ​ 今まで、隼輝にこんなふうに腹を立てたことなど一度もなかった。 ​ 彼は呆気に取られたように瞬きをし、それから脇に置かれたスーツケースに気づいた。 ​ 「出ていくのか?そんな必要ない」 ​ 隼輝はネクタイを緩めた。 ​ 「俺はもうここには戻らない。この家は奈々花にやる」 ​ 第3話 ​ そう言い残すと、隼輝は書斎へ入り、仕事の書類を手に取ると、一度も振り返ることなく出ていった。 ​ 広い部屋に残されたのは、私ひとりだ。胸の奥が、切なく苦しく疼いた。 ​ 7年間の歳月も、積み重ねてきた想いも、彼の忘れられない女にはどうしても敵わないのだ。 ​ テーブルの上のカメラを見つめた。 ​ 少なくとも、私にはまだ、自分が心から好きだった仕事がある。 ​ もう一度、記者として働き始めた。 ​ 履歴書を送り、面接を受けるうちに、気づけば何日も隼輝に会っていないことさえ忘れていた。 ​ そんなある日、ようやく手に入れたA市経済サミットの取材許可証を手に、疲れ果てて家へ戻った。 ​ すると、隼輝がソファで私を待っている。 ​ 顔は険しい。 ​ 「どこへ行ってた?」 ​ 私はうつむいたまま靴を脱いだ。 ​ 「隼輝に関係ないでしょ」 ​ 彼は低い声で言った。 ​ 「また記者に戻って、あちこち飛び回ってるのか? ​ どうして一言も言わなかった?家で5時間も待ってたんだぞ!」 ​ 私はようやく彼を見た。 ​ 「何か用?」 ​ 私の冷ややかな視線を目にして、隼輝はふと胸騒ぎを覚えたようだ。 ​ 「何でもない。ただ、もう何日も奈々花を見てなかったから」 ​ 私は彼を見つめた。 ​ 「絵梨、帰ったの?」 ​ 彼は少し咳払いした。 ​ 「まだ手続きが残ってる。何日か海外へ行ってるんだ」 ​ 私はうなずいた。 ​ なるほど。だからまた私のところへ戻ってきたのか。 ​ 「それで、何の用?」 ​ 彼は苛立ったように言った。 ​ 「用がなきゃ会いに来ちゃいけないのか?」 ​ 私は彼を見ようともせず、静かに言った。 ​ 「近いうちに離婚届を用意しておくから、その時はサインをお願いね」 ​ 彼は信じられないという顔をした。 ​ 「俺と離婚するのか?」 ​ 「当たり前でしょ」 ​ 私は淡々と言い返した。 ​ 「隼輝の一番好きな女、もう戻ってきたんだから。 ​ 私が身を引くよ」 ​ 「離婚しない!」 ​ 隼輝は眉を寄せ、私の言葉を遮った。 ​ 「奈々花がわがままを言わないなら、ずっと囲ってやるって言っただろ」 ​ 私は淡々と答えた。 ​ 「隼輝に囲われるつもりなんて、最初からないわ」 ​ しばらくして、彼は嘲るように口を開いた。 ​ 「じゃあ、どうする?記者の仕事だけで食っていくのか?」 ​ 「そうよ」 ​ 隼輝は私をじっと見つめた。 ​ やがて、乱暴にドアを閉めて出ていった。 ​ その日を境に、それまで決まっていた取材の話はすべて取り消された。 ​ 私と仕事をしようという人も、誰ひとりいなくなった。 ​ 隼輝が裏で手を回し、私を屈服させようとしているのだと分かっている。 ​ 私は以前、H新聞社で一緒に働いていた先輩を訪ね、どうか取材に連れていってほしいと頭を下げた。 ​ 数日後、その先輩は私をA市最大の宴会場へ連れていった。 ​ そこでは、ある実業家が愛する女性にプロポーズするらしい。 ​ このロマンチックな瞬間を記録するため、A市中の記者が招かれている。 ​ 私はカメラを構え、つま先立ちになって最後列からレンズを向けている。 ​ けれど主役が姿を現した瞬間、全身が凍りついた。 ​ 耳元ではシャッター音が絶え間なく鳴り響いている。 ​ 私は呆然と、壇上に立つ隼輝を見つめた。 ​ 彼は穏やかな笑みを浮かべ、慈しむように絵梨の髪へ口づけを落とした。 ​ そしてゆっくりと片膝をつき、ポケットから指輪を取り出した。 ​ 「絵梨……俺と結婚してくれるか?」 ​ これ以上聞いていられず、私は逃げるように背を向け、外へ走り出した。 ​ 涙が頬を伝って落ち、大きく息を吸っては吐いた。 ​ そして、どうしても思い出してしまった。 ​ 私と隼輝が結婚した日のことを。 ​ あの頃、彼はまだ事業を始めたばかりで、持っていたお金をすべて仕事につぎ込んでいた。 ​ そのとき彼は申し訳なさそうに私の手を握り、言った。 ​ 「今の俺には、奈々花にちゃんとした結婚式を挙げてやる余裕がない。でもいつか必ず、もっと盛大な式を挙げて補うから!」 ​ その言葉を信じて、私は7年間ずっと夢を見続けてきたのだ。 ​ それなのに今、彼はこの街で一番盛大なプロポーズを、別の女のために捧げている。 ​ 私も、そろそろ夢から覚める時が来たようだ。 ​ 第4話 ​ 私は家へ駆け戻り、震える手で荷物をまとめ始めた。 ​ するとクローゼットの中から、一つのファイルが落ちてきた。 ​ ファイルを開き、しばらく中を見つめていた私は、泣きながら、なぜか笑ってしまった。 ​ 中に入っているのは、離婚届だ。 ​ 隼輝のほうが、私より先に動いていたのだ。 ​ きっと前に帰ってきたとき、私にサインさせようとしていたのだろう。 ​ けれど、私のほうから先に離婚を切り出したせいで、意地を張って言い出せなかったのだ。 ​ だから、このファイルをクローゼットに押し込んだのだろう。 ​ 私はそこに迷いなく書かれた名前を見つめた。 ​ 少し黙ってから、隣に自分の名前を書き込んだ。 ​ 隼輝の望みを叶えてあげるわ。これからは、お互い別々の道を歩めばいい。 ​ スーツケースを引いて、7年間愛を注いできたこの家を、一度も振り返ることなく後にした。 ​ さようなら。 ​ …… ​ プロポーズの会場では、絵梨が眉をひそめながら隼輝を見ている。 ​ 「隼輝、まず立ち上がって」 ​ 隼輝は笑いながら駄々をこねた。 ​ 「絵梨がうなずいてくれないなら、立ち上がらない」 ​ 絵梨は、周りでまだ写真を撮っている記者たちを見回すと、力ずくで隼輝を立ち上がらせた。 ​ そして声を落として尋ねた。 ​ 「今日は大事な話があるからって、私を呼んだんじゃなかったの?」 ​ 隼輝はうなずいた。 ​ 「これが、その大事な話だ」 ​ そう言うと、彼は手を高く掲げた。すぐにスタッフが風船を放ち、花を撒き始めた。 ​ 周囲からは、冷やかす声が飛び交った。 ​ 「いい加減にして!」 ​ 絵梨の声に怒りが混じった。 ​ 「私、隼輝と一緒になるために帰国したなんて、一度も言ってないわよ! ​ こんなことして、奈々花さんの気持ちはどうなるの?」 ​ 隼輝は首を横に振った。 ​ 「もう、そんなこと考えてる余裕はないんだ! ​ 奈々花には俺からちゃんと話す。誤解なんて絶対にさせない。 ​ 8年間も絵梨を待ったんだぞ。これ以上なんて待てるわけないだろ!」 ​ 「最低!」 ​ 絵梨は怒鳴った。 ​ 「8年前にも、私が断ったでしょ! ​ あのときも言ったはずよ。私たちは合わない。一緒になるなんてありえないって! ​ 隼輝はもう何年も結婚してるんだから、とっくに諦めたと思ってた。 ​ こんなにしつこくて人の話を聞かない人だって知ってたら、会いになんて来なかったわよ!」 ​ 周りの記者たちは何かがおかしいと察し、絵梨の顔へ一斉にカメラを向けた。 ​ 絵梨は隼輝を押しのけ、険しい顔のまま去っていった。 ​ 隼輝は、その場に立ち尽くして動かなかった。 ​ やがて、手にしていたダイヤの指輪を、思い切り床に叩きつけた。 ​ すべてのことを片づけ終えた頃には、もう深夜だ。 ​ 隼輝は疲れ切ったようにソファへ身を沈め、手を上げて目元を覆った。 ​ 頭が割れそうなほど痛い。 ​ ふと、仕事でくたくたになって家へ帰るたび、奈々花が黙ってそばに寄り、こめかみを揉んで疲れを和らげてくれていたことを思い出した。 ​ この7年間、奈々花はずっと文句一つ言わず、自分を陰で支え、甲斐甲斐しく世話をしてくれていたのだ。 ​ 彼は目を開けると、立ち上がって家へ向かった。 ​ 何日も彼女の顔を見ていない。 ​ ふいに、会いたくなった。 ​ 玄関の扉を開けると、家の中は真っ暗だ。 ​ 隼輝は物音を立てないようにシャワーや洗面を終え、寝室へ入った。 ​ 寝室は静まり返っていて、息が詰まりそうなくらいだ。 ​ 隼輝は明かりをつけた。 ​ 部屋の光景を目にした瞬間、彼の顔から一気に血の気が引いた。 ​