私の幸せ、もうあなたと割り勘しません

GoodNovel Completed

杉森陸(すぎもり りく)と付き合って7年。彼が定めた細かなルールにも、すっかり慣れきっていた。 食事は割り勘。光熱費も半分ずつ。クリスマスプレゼントでさえ、互いのレシートを見比べて差額をきっちり精算し合う。 彼が6400円の口紅を贈ってくれたなら、私、与那嶺凪(よなみね なぎさ)も同じ価格帯のネクタイを返す。 私の方が160円高くついたときは、すぐさま彼からPayPayの送金があった。添えられたメッセージ欄には【差額分】と、ただ一言だけ。 友達に愚痴をこぼせば、誰もが呆れたように「あんたの彼氏、歩く家計簿じゃん」と笑い飛ばした。 そのたび、私は彼をかばい続けてきたのだ。この7年間ずっと。 「そういう人なの。誰に対しても公平なだけだから」と。 スーパーセールの夜、陸の幼なじみのSNSを目にするまでは。 画面を埋め尽くす9枚の写真。そこには空っぽになったショッピングカートのスクリーンショットが並んでいた。合計金額は54万円。 添えられていたのは、こんな一文だった。 【陸くん、今年もありがとう!毎年セールの日にカートの中身を全部買ってもらって、もう5年目だね】 その投稿には陸からの「いいね」がついており、コメント欄には返信まで残されている。 【前から言ってるだろ。遠慮すんなって】 指が勝手に過去の投稿を遡っていく。去年のセール。一昨年のセール。その前の年も。 毎年、何ひとつ変わっていなかった。9枚の写真、空っぽのカート、そして【陸くんありがとう】の言葉。 スマホの画面を見つめたまま、ふと先月の出来事を思い出した。胃の痛みに耐えきれず、深夜の救急外来へ駆け込んだあの夜のことだ。 会計窓口で、彼は明細書を受け取るとこちらへ振り返った。 「とりあえず俺が立て替えとくから。あとで半分送ってくれ」 2930円。 この人は、私の診察代すら割り勘にするのだ。 怒りもしなかった。泣きわめきもしなかった。問い詰める気さえ起きなかった。 ただ会社のメールを開き、S国への赴任承諾書に署名をした。本当に、ただそれだけだった。

Chapters (1)

第1章

杉森陸(すぎもり りく)と付き合って7年。彼が定めた細かなルールにも、すっかり慣れきっていた。 食事は割り勘。光熱費も半分ずつ。クリスマスプレゼントでさえ、互いのレシートを見比べて差額をきっちり精算し合う。 彼が6400円の口紅を贈ってくれたなら、私、与那嶺凪(よなみね なぎさ)も同じ価格帯のネクタイを返す。 私の方が160円高くついたときは、すぐさま彼からPayPayの送金があった。添えられたメッセージ欄には【差額分】と、ただ一言だけ。 友達に愚痴をこぼせば、誰もが呆れたように「あんたの彼氏、歩く家計簿じゃん」と笑い飛ばした。 そのたび、私は彼をかばい続けてきたのだ。この7年間ずっと。 「そういう人なの。誰に対しても公平なだけだから」と。 スーパーセールの夜、陸の幼なじみのSNSを目にするまでは。 画面を埋め尽くす9枚の写真。そこには空っぽになったショッピングカートのスクリーンショットが並んでいた。合計金額は54万円。 添えられていたのは、こんな一文だった。 【陸くん、今年もありがとう!毎年セールの日にカートの中身を全部買ってもらって、もう5年目だね】 その投稿には陸からの「いいね」がついており、コメント欄には返信まで残されている。 【前から言ってるだろ。遠慮すんなって】 指が勝手に過去の投稿を遡っていく。去年のセール。一昨年のセール。その前の年も。 毎年、何ひとつ変わっていなかった。9枚の写真、空っぽのカート、そして【陸くんありがとう】の言葉。 スマホの画面を見つめたまま、ふと先月の出来事を思い出した。胃の痛みに耐えきれず、深夜の救急外来へ駆け込んだあの夜のことだ。 会計窓口で、彼は明細書を受け取るとこちらへ振り返った。 「とりあえず俺が立て替えとくから。あとで半分送ってくれ」 2930円。 この人は、私の診察代すら割り勘にするのだ。 怒りもしなかった。泣きわめきもしなかった。問い詰める気さえ起きなかった。 ただ会社のメールを開き、S国への赴任承諾書に署名をした。本当に、ただそれだけだった。 第1話 「赴任の承諾書、まだ届いていないようですが」 「もう署名しました。メールでお送りしてあります」 私は人事部からの電話を切ると、デスクに飾っていたふたりの写真立てを、そっと伏せた。 ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。 陸が帰ってきたのだ。 手にはコンビニのレジ袋。中身は、見切り品のツナサンドがふたつ。 「今日の夕飯な」 彼は袋をローテーブルへ無造作に放り出す。 「値引きでふたつ240円。120円送っといて」 私は何も言わずにPayPayを開き、120円を送金した。 陸はほんの一瞬画面を眺め、かすかに眉を寄せる。 「メッセージ、なんで入れてないんだよ。 いつも『夕飯割り勘』って書いてただろ」 「忘れてた」 私は静かにそう返した。 「次から気をつけろよ。月末の精算がややこしくなる」 彼はダイニングの椅子を引いて腰を下ろすと、ノートパソコンを開いた。 慣れた手つきで立ち上げたのは、「ふたりの家計簿」と名付けられたExcelファイル。 陸が何よりも誇りにしている、自慢の力作だ。 付き合って7年、ふたりのあらゆる出費がこの表に1円単位で刻み込まれている。 「先月の救急外来、2930円は俺が立て替えたよな」 すらりとした長い指が、リズムよくキーボードを叩いていく。 「お前の未払いは1465円」 「わかった。すぐ送る」 私はうつむいてスマホを操作し、言われた通りきっちりと送金した。 そのとき、彼のスマホの画面がぱっと明るくなった。 夏田知佳(なつた ちか)からのボイスメッセージだ。 彼が画面をタップすると、しんと静まり返ったリビングに、ひどく甘えた声が耳障りなほど響き渡る。 「陸くーん、ダイソンのドライヤーがすっごく欲しいんだけど、めちゃくちゃ高いのー。前に、誕生日は高いものプレゼントしてくれるって言ってたよね?あれってまだ有効?」 陸の口元が、自然とゆるんだ。 帳簿とにらめっこしているときには決して見せることのない、生き生きとした顔だった。 彼はスマホを手に取り、録音ボタンを押す。 「有効だよ。リンク送って」 すぐさま、知佳からスクリーンショットが届いた。 第2話 65980円。 陸は迷うそぶりも見せずに決済を済ませた。パスコードを打ち込む指先には、一切のためらいもなかった。 クーポンが使えるかどうかを確かめる様子すらない。 その手際のよさを眺めたのち、私の視線はテーブルの上の、パサパサになった値引きサンドイッチへと落ちた。 6万円を超えるドライヤーは、まばたきひとつせずに買ってやるというのに。私の救急外来の2930円は、1円単位まできっちり半分に分けるのだ。 「……知佳さん、誕生日なの?」 私はさらりと尋ねてみた。 「ああ、来週」 彼は顔も上げない。 「そんなに高いものを贈って、彼女にも割り勘してもらうつもり?」 キーボードを叩く陸の手が止まった。 顔を上げたその目には、見慣れた苛立ちがにじんでいる。 「なんだ、また揉めたいのか?」 「あなたの言う『公平』の基準が気になっただけよ」 「あいつは妹みたいなもんだろ。兄貴分が誕生日プレゼントくらい贈って何が悪いんだよ」 彼は眉をひそめた。話を遮られたのが、よほど気に入らなかったらしい。 「妹相手にそんなムキになるなよ。 俺たちが割り勘なのは、対等な大人同士だからだ。俺はお前の自立を尊重してるんだよ」 私の自立を尊重してる。 7年間、彼はその言葉を一片の迷いもなく口にし続けてきた。 昔の私はそれを信じていた。考え方が進んでいて、古い価値観に縛られず、女性を男の付属品のように扱わない人なのだ、と。 今となってはただ、胸の奥から吐き気がこみ上げてくるだけだった。 「わかった。別にムキになってないけど」 私はスマホをしまった。 「じゃあ誰に向かって、そんなふてくされた顔してんだよ」 「……まだ少し、胃の調子がよくないの。先に寝るね」 返事を待たずに背を向け、寝室へ戻る。 ドアを閉め、ベッドの下からスーツケースを引っ張り出して、クローゼットの整理を始めた。 私の服は少ない。 普段より少しでも大きな出費があると、月末には決まって陸の表で赤く表示され、「もう少し節約しろ」と釘を刺されるからだ。 けれど、私は知っている。彼が知佳に贈ってきたブランドバッグや化粧品は、どの表にも一度だって記録されたことがないということを。 ドアの向こうから、陸の声が聞こえた。 「凪、明日は休みだし、ウェディングドレスの手付金を払いに行こう。 全部で16万だから、そっちは8万用意しといて。忘れんなよ」 私は最後のコートを畳み終え、折り目を手のひらでそっとならした。 「明日は用事があるの。あなたひとりで出かけて」 「手付金を払うんだから、お前もいなきゃダメだろ。あとになって『選んだデザインが気に入らない』とか言われても困るし」 「大丈夫、あなたに任せるわ」 「お前さー、今日いったいどうしたんだよ」 陸が寝室のドアを開けたとき、私はちょうどスーツケースをベッドの下へ押し戻したところだった。 彼はドア枠にもたれかかり、半分近くが空いたクローゼットへ目を走らせた。 「なんで服なんか片づけてんの?」 「季節外れで着ない服を寄付しようと思って」 私はとっさに嘘をついた。 彼は疑いもしなかった。彼の中では、私が彼のもとを離れるなど、ありえないことなのだから。 「あっ、そうだ。明日のドレスの試着、知佳も来るって」 彼はこちらへ歩み寄り、引き出しからパジャマを探し始めた。 「知佳さんが何しに?」 「お前のドレス選びを手伝いたいんだってさ。ついでにブライズメイドのドレスも見るって」 陸は、さも当然のように言った。 私はその背中を見つめた。 「……ブライズメイドのドレス代は、誰が払うの?」 彼の手がぴたりと止まり、こちらを振り返る。 「数千円のもんだろ。ついでに俺が払っとけばいい。そんなことまでいちいち計算すんのか?」 「『身内でもお金はきっちり分けろ』って言ってたのは、あなたでしょ」 「凪、こんな細かいことでいちいち嫌味を言わなきゃ気が済まないのか?」 彼は明らかに苛立っていた。 「知佳は俺たちのために来てくれるんだぞ。もう少し広い心で見られないのかよ」 「十分広い心で見てるわよ」 私は一歩後ずさった。 「だから明日は、ふたりで選んできて」 翌日の午前中、私はひとりで家を出た。 第3話 ふたりで気に入っていたものの、まだ売買契約までは交わしていなかった新居の購入を取りやめるために、私は不動産会社へ向かった。 応対に出てきた担当者は、驚きを隠せない様子だった。 「与那嶺様、こちらの物件は杉森様と1か月以上ご検討いただいていましたよね。来週には売買契約の予定でしたが……」 「購入はやめます」 「何か条件面で気になることがございましたか?でしたら、もう一度こちらでご相談を――」 「結構です。結婚しないことになったので」 私は購入申込みを取り下げる手続きを済ませ、そのまま不動産会社をあとにした。 日差しが、目に痛いほどまぶしかった。 スマホが小さく震えた。 知佳から、自撮り写真が届いていた。 ブライダルサロンの大きな鏡の前で、細かな刺繍がふんだんに施された豪華なドレスを身にまとっている。 その後ろには、ソファに座ってスマホに目を落とす陸の姿が写り込んでいる。 添えられたメッセージはこうだ。 【凪さん、これどうですか?陸くんは肌の色に合ってるって言ってくれたんですけど、ちょっとお高くて】 私は写真を拡大する。 ドレスの値札が、半分だけのぞいていた。 24万円。 できるだけ費用を抑えようと、私は16万円の一番安いウェディングドレスを選んだのに、ブライズメイドのドレスのほうが高いなんて…… 私は返信せず、そのままスマホをマナーモードに切り替えた。 30分ほどして、陸から電話がかかってきた。 私は通話ボタンを押す。 「今どこにいるんだよ。知佳と1時間も待ってるんだぞ」 その声には、はっきりと不満がにじんでいた。 「ちょっと用事で出てるの」 「ドレスの試着より大事な用事って何だよ。知佳は午後からヨガ教室なんだぞ」 「そんなに忙しいなら、ふたりで決めればいいじゃない」 「凪、すねるにしても時と場所を考えろよ」 陸は大きく息を吐いた。 「ふぅ……わかった。お前が来ないなら、俺が決めとく。 さっき、知佳がブライズメイドのドレスを選んだんだ。24万。 高すぎるとは思ったんだけど、あいつがどうしても気に入ったみたいでさ」 電話の向こうで、彼は一拍おいた。私の反応を待っているらしい。 私は何も言わなかった。 「じゃあ、こうしよう。この代金は結婚式の総予算に入れる」 彼は自分の案を切り出した。 「つまり、このドレスはふたりで12万ずつ負担するってことだ」 私は思わず笑ってしまった。笑った拍子に、胃がきりきりと痛む。 「彼女が気に入って、あなたが買う。なのに、どうして私が半分出すの?」 「知佳は俺たちのブライズメイドなんだから、これも結婚式の費用だろ!」 彼は一歩も引かない。 「ブライズメイドなんて頼んだ覚えはないし、24万のドレスもいらない」 「ふん、話にならないな」 陸は鼻で笑った。 「喧嘩する気はない。支払いはもう済ませたから、帰ったら12万送っとけよ」 「陸、私は送らないから」 「どういう意味だよ」 「言葉どおりの意味よ」 その夜、陸は夕飯を食べに帰ってこなかった。 外で友達と飲んでくる、と短いメッセージが1通届いただけだった。 私はひとりリビングのラグに座り込み、引き出しの中の細々したものを整理していた。 奥のほうから、古いスマートウォッチが出てきた。 付き合って3年目、彼の誕生日に贈ったものだ。給料の半月分以上をつぎ込んだ品だった。 だが、彼が身に着けてくれたのは、たった3日だけだった。 バンドが蒸れるし、運動すると手首が締めつけられるから、というのがその理由だった。 その翌月、知佳が彼に機械式の腕時計を贈った。 彼はそれを、まる4年も着け続けたのだ。 私はスマートウォッチをゴミ箱へ放り込み、また引き出しの奥を探った。 やがて指先に、ひやりとした金属の首輪が触れた。 むぎの首輪だった。 むぎは2年前、マンションの前に捨てられていたのを、ふたりで拾ってきたゴールデンレトリバーだ。 拾ったときにはパルボウイルスにかかっており、今にも息が絶えそうだった。 私は毎晩、夜通し動物病院で付き添い、20万円以上かけて、ようやくあの子を助けたのだ。 あのとき、陸はこう言った。 「犬はお前が勝手に助けたんだろ。治療費、俺は払わないからな」 第4話 私はただ、うなずいた。 むぎは賢い子だった。拾われた身だとわかっているのか、家の中で無駄吠えをしたことは一度もない。 陸が仕事から帰ってくると、いつもスリッパをくわえて玄関で待っていた。 そのうち陸も、むぎの頭をなでたり、安いおやつを買ってきたりするようになった。 半年前、知佳が家に遊びに来るまでは。 むぎを見るなり、彼女は悲鳴をあげてソファに飛び乗った。 「キャァー!陸くん、私こういう大きい犬ほんとにダメなの。噛んだりしない!?」 陸は慌ててむぎをベランダへ閉め出した。 「大丈夫、噛まないよ」 「でも毛が抜けるでしょ。犬の毛を吸い込むと、息ができなくなっちゃうの」 知佳は胸を押さえ、息苦しそうな様子を見せた。 その夜、彼女が帰るとすぐに、陸は私に最後通告を突きつけた。 「犬、誰かに譲れよ」 「どうして?むぎはこんなにいい子なのに」 「知佳は犬アレルギーなんだ。これじゃあいつ、うちに遊びに来られないだろ」 私は、それが当然だと言わんばかりの彼の顔を見つめた。 「ここは私の家でもあるのよ。むぎだって家族の一員なの」 「たかが犬1匹のことで、俺と喧嘩する気か?」 彼は眉をひそめた。 「田舎の親戚にもう話はつけてある。明日引き取りに来るから」 「そんなことしたら、絶対に許さないから!」 私が彼の前で目を赤くしたのは、あれが初めてだった。 けれど彼は、まるで取り合わなかった。 翌日、仕事から帰ると、ベランダはすっかり空っぽになっていた。 ぽつんと残されていたのは、いつもの餌皿がひとつだけ。 私はまる1週間、むぎを探し回った。陸の親戚の家まで直接訪ねていった。 親戚の人は言った。犬は途中で逃げてしまって、どこへ行ったかわからない、と。 その夜、私は道端に座り込んで、長いこと泣き続けた。 陸から電話がかかってきた。心底わけがわからないといった調子の声だった。 「たかが野良犬1匹だろ?そこまで落ち込むことかよ。 どうしても飼いたいなら、毛のない猫でも飼えばいいじゃん」 そこまでのことじゃない。 彼にとって、私が大切にしているものは、いつだって「そこまでのこと」ではなかったのだ。 冷たい首輪を握りしめ、ゆっくりと指に力をこめる。 そのとき、玄関のドアが開いた。 酒のにおいをまとった陸が入ってきたのだ。 床に座り込み、首輪を手にしている私を見るなり、彼はすぐに眉をひそめた。 「まだそんなガラクタいじってんのか?」 靴を脱ぎ捨て、こちらへ歩いてくる。 「もう遅いんだから、さっさと風呂入って寝ろよ」 私は顔を上げて彼を見た。 「陸、むぎがいなくなったとき、あなた本当に探してくれたの?」 彼は一瞬、言葉に詰まった。私が急にその話を持ち出すとは思っていなかったらしい。 「なんでまた昔のことを蒸し返すんだよ」 「知りたいだけよ」 「探したよ。近所をひと回りして、見つからなかったから帰った」 彼はうっとうしそうにネクタイを緩めた。 「もう半年も前のことだろ。いつまでも引きずるなよ」 私は立ち上がり、首輪をポケットにしまった。 「そうね。そろそろ手放さなきゃ」 彼はほっと息をついた。いつものように、私が折れたのだと思ったのだろう。 「明日の夜、友達と飯食うことになってる。知佳も来るから」 浴室へ向かいながら、彼は言った。 「千葉たちが、お前にしばらく会ってないって言ってたからさ。ちゃんと支度しとけよ。あんまりラフな格好はやめとけ」 「行かない」 「凪、いい加減にしろよ」 彼は足を止め、こちらを振り返った。 「ここ何日か、ふてくされた顔ばっかりしやがって。こっちはずっと我慢してんだぞ」 …… 赴任前、最後の1日。 明日の午後3時、S国行きの便に乗る。 会社の手続きをすべて済ませ、私はがらんとしたマンションへ戻った。 リビングにあった私の物は、この数日で、少しずつ痕跡を消すように片づけてきた。 洗面台の歯ブラシさえ、もう捨ててある。 第5話 私は最後に残ったスーツケースをひとつ、玄関まで引いていく。 それからダイニングテーブルにつき、陸のあのExcelファイルを開いた。 7年。2555日。 彼が記録し続けてきたすべての出費を、ひとつ残らず洗い直す。 彼が私に支払うべき分を差し引いても、それでも私の側に、まだ93646円の支払いが残っていた。 スマホを取り出し、PayPayからその金額を送る。 メッセージ欄には【精算完了】とだけ打ち込んだ。 送金を終えた途端、陸から着信があった。 「急に金なんか送ってきて、どうしたんだよ」 背後がやけに騒がしい。カラオケにでもいるようだ。 「お金のことはきっちりしようって、あなたが言ってたでしょ」 「もういいって。いつまでもへそ曲げてんなよ」 彼の口調が、わずかに和らいだ。 「今夜の千葉たちの集まり、タクシーでさっさと来いよ。みんなお前を待ってるんだから」 「行かない。ちょっと疲れてるの」 「凪、今日知佳が、あの24万のドレスを着てきたんだよ。みんな褒めてたぞ」 彼は声をひそめた。人の輪から少し離れたらしい。 「俺の顔を立てると思ってさ、ちょっと顔見せるだけでいいから。ドレス代も割り勘にしなくていい。な、それでいいだろ?」 24万のドレスで私に恥をかかせておいて、奢ることで恩を着せようとする。 7年間、彼のやり方はいつもこうだった。散々ひどい扱いをしておいて、あとからほんの少しの飴を差し出すのだ。 「陸」 私は彼の名前を呼んだ。 「なんだよ」 「知佳さんと、どうか末永くお幸せに」 電話の向こうが、一瞬しんと静まり返る。 「……お前、何を血迷ったこと言ってんだよ」 声が一気に冷え込んだ。 「俺と知佳は何もないって言ってるだろ。こんな大勢の前で、わざわざ俺に恥かかせたいのか?」 「好きに受け取って」 「わかったよ。来たくないなら勝手にしろ。家で反省してろ」 ブツッと乱暴に通話が切られた。 暗くなった画面を見つめても、私の心にはさざ波ひとつ立たなかった。 30分後。 配車アプリで呼んだタクシーが、マンションの前へ到着した。 5年間暮らしたこの部屋を、最後にぐるりと見渡す。 濃いグレーのソファクッションは彼が選んだものだ。私は好きじゃなかった。 抹茶色のカーテンは、知佳の勧めで決まった。あの色も、ずっと目障りだった。 もともとここには、私らしさを感じさせるものなんて何ひとつなかったのだ。 ドアを閉め、鍵はかけなかった。 合鍵は玄関マットの下へ隠しておいた。 夜の空港へ向かう高速道路は、がらんとしている。 後部座席で、窓の外を流れていく街灯を眺めながら、LINEを開いた。 陸を友だちリストから削除する。 彼がいるグループLINEも、すべて退会した。 最後に、7年間使い続けたSIMカードを抜き取り、持参したゴミ袋へ放り込んだ。 代わりに、会社から支給されたS国のSIMカードを差し込む。 …… 夜11時。 酒のにおいをまとった陸が、マンションのドアを開けた。 「凪、いい加減気は済んだのかよ」 いつもの癖で、寝室へ向かって声を張り上げる。 返事はない。 靴を脱ぎながら、何気なく靴箱へ目をやる。 凪がふだん履いていたフラットシューズが、2足とも消えていた。 彼は一瞬固まり、まっすぐ洗面所へ向かった。 洗面台の、凪の歯ブラシ立てが空になっている。 眉をひそめたまま寝室へ行き、勢いよくクローゼットを開け放つ。 凪の服が掛かっていた半分はがらんどうで、ハンガーひとつ残っていない。 陸の酔いが、一気に醒めた。 彼はLINEを開き、凪のアイコンを探し出して一言だけ送る。 【荷物、どこに運んだんだよ】 しかし、送ったメッセージには、いつまで経っても既読がつかなかった。 通話ボタンを押しても、無機質な呼び出し音が虚しく響くだけだった。