あなたが読まなかった一枚、それが別れ状

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桐生誠司(きりゅう せいじ)が私と口をきかなくなってから3日が経った。私たちが経営する会社の社長でもある彼は、秘書の皆川玲奈(みながわ れな)が持ち込んだ不動産投資案件を、あっさりと決裁した。 どう試算しても赤字にしかならない案件だった。 私、桐生恵理奈(きりゅう えりな)が社長室に怒鳴り込み、決裁を取り消せと詰め寄る。誠司はそう高を括っていたのだろう。 けれど、私は動かなかった。 1週間後。出張から戻った誠司は、私が文句ひとつ言わず騒ぎも起こさなかったと知ると、ここ数か月見せたことのない満足げな眼差しを私に向けた。 そしてあろうことか、私を役職から外し、その座に玲奈を据えたのだ。 今度こそ私が怒りを爆発させる。そう踏んだに違いない。 それでも、私は何も言わなかった。 担当していた案件の資料をひとつ残らず整理し、玲奈の新しいデスクに整然と並べて置いた。 すると誠司は、私が書き上げた企画書の責任者欄から私の名を消し、玲奈の名前に差し替えた。彼女にボーナスを受け取らせる、ただそれだけのために。 それに対してすら、私は抗わなかった。 玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、誠司の耳元で囁いた。 「ね、私の言った通りでしょ?恵理奈さんとは正面からぶつかっちゃ駄目なのよ。しばらく冷たくあしらい続ければ、勝手に折れてくるんだから。あなたを失うのが怖くて仕方ないのよ。だからやっと大人しくなったってわけ」 誠司はその言葉を、微塵も疑うことなく真に受けた。 それどころか、人の心理をよく分かっていると玲奈を褒めた。 その夜、誠司は私を社長室に呼び出した。昇給と元の役職への復帰、それに3年も先延ばしにしてきた海外への新婚旅行を約束すると言い出したのだ。 彼が私にこれほど優しい言葉をかけたのは、本当に久しぶりのことだった。 私が感極まって涙を流して喜ぶとでも思っていたのだろう。 でも、私は泣かなかった。 7日前、玲奈が持ち込んだ、破綻するのが目に見えていた案件を、ろくに確認もせず急いで決裁していたあの時。誠司は、私が書類の山に紛れ込ませておいた離婚協議書にも、中身を確かめることなく署名を済ませていたのだから。 そのことを、彼はまだ知らない。

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第1章

桐生誠司(きりゅう せいじ)が私と口をきかなくなってから3日が経った。私たちが経営する会社の社長でもある彼は、秘書の皆川玲奈(みながわ れな)が持ち込んだ不動産投資案件を、あっさりと決裁した。 どう試算しても赤字にしかならない案件だった。 私、桐生恵理奈(きりゅう えりな)が社長室に怒鳴り込み、決裁を取り消せと詰め寄る。誠司はそう高を括っていたのだろう。 けれど、私は動かなかった。 1週間後。出張から戻った誠司は、私が文句ひとつ言わず騒ぎも起こさなかったと知ると、ここ数か月見せたことのない満足げな眼差しを私に向けた。 そしてあろうことか、私を役職から外し、その座に玲奈を据えたのだ。 今度こそ私が怒りを爆発させる。そう踏んだに違いない。 それでも、私は何も言わなかった。 担当していた案件の資料をひとつ残らず整理し、玲奈の新しいデスクに整然と並べて置いた。 すると誠司は、私が書き上げた企画書の責任者欄から私の名を消し、玲奈の名前に差し替えた。彼女にボーナスを受け取らせる、ただそれだけのために。 それに対してすら、私は抗わなかった。 玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、誠司の耳元で囁いた。 「ね、私の言った通りでしょ?恵理奈さんとは正面からぶつかっちゃ駄目なのよ。しばらく冷たくあしらい続ければ、勝手に折れてくるんだから。あなたを失うのが怖くて仕方ないのよ。だからやっと大人しくなったってわけ」 誠司はその言葉を、微塵も疑うことなく真に受けた。 それどころか、人の心理をよく分かっていると玲奈を褒めた。 その夜、誠司は私を社長室に呼び出した。昇給と元の役職への復帰、それに3年も先延ばしにしてきた海外への新婚旅行を約束すると言い出したのだ。 彼が私にこれほど優しい言葉をかけたのは、本当に久しぶりのことだった。 私が感極まって涙を流して喜ぶとでも思っていたのだろう。 でも、私は泣かなかった。 7日前、玲奈が持ち込んだ、破綻するのが目に見えていた案件を、ろくに確認もせず急いで決裁していたあの時。誠司は、私が書類の山に紛れ込ませておいた離婚協議書にも、中身を確かめることなく署名を済ませていたのだから。 そのことを、彼はまだ知らない。 第1話 「恵理奈さん。港南ハーバーレジデンスの最終提案書、明日の朝一で取締役会に出さなきゃいけないの。リスク評価は今夜中に仕上げておいてって、誠司さんが言ってたわ」 玲奈はそう言うが早いか、分厚い書類の束を私のデスクに無造作にどさりと置いた。 一番上には最新の環境調査報告書。その下にテナントとの係争に関する資料、融資条件、最新の改修予算書が積み重なっている。 どれか一つでも見落とせば、会社に数億円規模の損失が出かねない代物だ。 玲奈がこの案件を受け取ったのは午後3時。 だが、時刻はすでに夜の8時40分を回っている。 「わかったわ」 私は書類を手元に引き寄せた。 私があっさり引き受けるとは思っていなかったのだろう。玲奈は一瞬、拍子抜けしたような顔を見せた。 「私と誠司さん、今夜は銀行との打ち合わせなの。遅くなるかもしれないから、終わったら社長室に置いといてね」 踵を返しかけた彼女は、ふと立ち止まって振り返った。 「あ、そうそう。社長室の建築模型、埃をかぶってるみたいなの。ついでに拭いておいてくれる?」 言うだけ言うと、カツカツとヒールを鳴らしながら去っていった。 フロアに、しんとした静けさが戻る。 残業していた数人の社員が、気まずそうにちらちらとこちらをうかがっていた。 私が誠司の妻だということは、社内で知らない者はいない。 玲奈はただの秘書にすぎないはずだった。 それなのに、この桐生開発で我が物顔で周囲に指図する彼女は、まるで自分こそが社長夫人であるかのように振る舞っていた。 半年前、誠司は倒産寸前だった不動産会社から彼女を引き抜いてきた。 大型開発プロジェクトに携わった経験など皆無にもかかわらず、たった3か月で社長秘書から開発部次長の座へと駆け上がったのだ。 その彼女が今、港南ハーバーレジデンスに手を伸ばしている。 あの、私のプロジェクトに。 私は1年以上かけて用地取得の交渉を重ね、法務や資金繰りの問題を一つ一つ潰してきた。 ようやく着工にこぎつけたそのとき、誠司はプロジェクトリーダーを玲奈に替えると言い出したのだ。 先週の役員会では、7人の役員全員がこの理不尽な人事に異を唱えた。 この人事に賛成したのは、社長である誠司ただひとりだった。 それでも彼は考えを改めるどころか、私が役員たちを裏で抱き込み、新参者である彼女を追い出そうとしているのだと責め立てた。 「お前が裏で手を回したんだろう。競争相手が増えるのが気に食わないだけだ」 そして、私をプロジェクトから外した。 玲奈の起用に反対した役員たちもひとり残らず中核チームから外され、今期の賞与まで凍結された。 それ以来、誠司に楯突く者は誰もいなくなった。 その夜、帰宅した誠司は、彼なりの言い分を聞かせてくれた。 「お前は俺の妻なんだから、みんなが自然とお前の味方をするのは当たり前だろう?玲奈には、この会社に何の後ろ盾もない。庇ってくれる人間がひとりもいないんだよ。俺はただ、あいつにも公平にチャンスを与えたいだけなんだ」 それなのに私は、なぜかその言葉を信じてしまったのだ。 玲奈が港南ハーバーレジデンスの案件を引き継いで1週間後。彼女は物件の延床面積と賃貸可能面積を混同するという初歩的なミスを犯した。 そのせいで、会社は危うく12億円もの損失を出すところだった。 私は一睡もせずに収支モデルを一から組み直し、期限ぎりぎりで買付条件を再交渉する羽目になった。 それでも、玲奈がその座を追われることはない。 誠司は相変わらず、それを「公平」と呼んだ。 手柄はすべて玲奈のもの、尻拭いはすべて私の役目。 階段のほうから足音が近づいてくる。 私が顔を上げると、役員フロアから誠司が下りてくるのが見えた。 チャコールグレーのコートに、銀色の機械式腕時計。玲奈が誕生日に贈った時計だ。 私も今まで、彼に何本か高級な腕時計を贈ったことがある。けれど、彼がそれを身につけてくれたことは一度もなかった。 仕事中に手首に何かあると気が散る。それがいつもの言い訳だった。 それなのに、玲奈が贈ったあの時計だけは、この3週間、1日も欠かさず腕にはめているのだ。 誠司の視線が、一瞬だけこちらに向いた。 私のデスクを埋め尽くす書類の山に、その視線がわずかに止まる。 こんな時間まで何をしているのか、とは聞かなかった。 ただ腕時計に目をやり、そのままエレベーターへ歩いていった。 数分後、玲奈が化粧室から戻ってきた。 口紅を引き直し、ジャケットも脱いでいた。彼女が身にまとっていたのは、体のラインにぴたりと沿う黒のタイトワンピース一枚だけだった。 彼女は弾むような足取りで、私のデスクの脇を通り過ぎていった。 「あんまり頑張りすぎないでね、恵理奈さん」 エレベーターの扉が開いた。 中では誠司が待っていた。彼は扉を押さえ、玲奈が乗り込むのを待った。 扉が閉まるまで、彼が私に目を向けることは一度もなかった。 誠司は、すべてわかったうえでやっているのだ。 すべての始まりは3か月前。誠司の車のカーナビに、玲奈の住むマンションが「よく行く場所」として登録されているのを見つけたことだった。 ひと月で17回。 だから私は、彼を問い詰めた。 第2話 「玲奈は遅くまで残業してるんだ。家まで送ってやってるだけだろうが。それの何が問題なんだ?」 誠司の口ぶりは、どこまでももっともらしかった。 妻帯者が、深夜0時を過ぎてから女性秘書を幾度となく家まで送り届け、そのまま1、2時間も部屋に上がり込んでいる。それがさも当然であるかのように彼は言い放った。 どうして一言も話してくれなかったのか。私がそう問い詰めると、誠司はみるみる険しい顔つきになった。 「なんだ、尋問のつもりか、恵理奈」 そして、あからさまに矛先を私へと向けてきた。 走行履歴を盗み見るなんてプライバシーの侵害だ、束縛が激しすぎる、被害妄想だ、嫉妬深い、と。 彼に言わせれば、玲奈はただの頑張り屋の若い部下であり、自信のない妻の嫉妬で辱めを受けるいわれなどない、ということらしい。 翌朝、誠司は玲奈を自分の直属の部下にした。 「そんなにあいつの能力が信用できないなら、これからは俺が直接面倒を見る」 私が異を唱えても、彼が玲奈と距離を置くことはなかった。それどころか私の反対を口実に、ますます彼女との距離を縮めていく。 それからの誠司は、玲奈へのえこひいきを隠そうともしなくなった。 土地の入札に出向くときも、連れて行くのは玲奈ひとりだけ。業界の会食では彼女を自分の隣に座らせ、妻である私は別のテーブルへと追いやられる。 ある晩、見かねた同業者がとうとう誠司のそばに寄り、小声で耳打ちした。 「桐生さん、奥さんもいらしてますよ」 誠司は眉をひそめ、私を見た。 「恵理奈は、そんな些細なことで目くじらを立てるような女じゃないんですよ」 彼は、何もかもわかっていたのだ。 私が黙っていれば、このまま玲奈をパートナーのように扱い続けられる。私が口を開けば、それこそ私が心の狭い女だという証明になる。 その夜、家に帰るなり私たちは激しく言い争った。 お前のせいで恥をかいた。嫉妬深くて面倒な女と結婚したと皆に思われたと、誠司はそう私をなじった。 そして私を懲らしめるために、4日間姿を消した。電話にもメッセージにも一切応じなかった。私が謝るまで、ずっと。 ようやく帰ってきたとき、彼は友人を何人も引き連れていた。 彼らはうちのリビングに陣取り、代わる代わる、いかに私が間違っているかを説いて聞かせる。 「玲奈さんはただの部下だろう?」 「誠司は仕事だけでも手一杯なんだ。少しは支えてやったらどうだ」 「夫婦には信頼が大事なんだよ。こんなふうに疑われ続けて、耐えられる男なんていないって」 誠司はソファの真ん中に腰を下ろしたまま、彼らが寄ってたかって私を責め立てるのを黙って眺めていた。 一度として、私をかばってはくれなかった。 皆が言い終えると、彼は私を見て言った。 「少しは考え直したか?」 しばらくのあいだ、私は本気で、自分自身が神経質すぎるのだと思い込みかけていた。 誠司は玲奈の仕事ぶりを買っているだけなのかもしれない。私が責めるのをやめさえすれば、私たちは元どおりの夫婦に戻れるのかもしれない、と。 そして、今回の冷戦状態に陥ってから3日目のことだった。 私は急性胃炎になり、立っているのもやっとの状態だった。医師からは、すぐ病院へ行くよう言われていた。 誠司は、ダイニングテーブルに置かれた薬を目にしていた。片手で胃を押さえ、もう片方の手で壁に縋りながら寝室から出てくる私の姿も見ていた。 それでも彼はスーツケースを手に取り、玲奈と出張へ出かけていった。 玄関のドアが閉まった瞬間、私の胸の奥で何かがすっと静まった。 彼に電話をかけ直すこともしなかった。どこへ行くのかと問い詰めることもしなかった。 この時初めて、彼の言い訳を聞きたいとすら思わなくなっていた。 ようやくわかったのだ。問題は最初から、私の我慢が足りないとか、器が小さいとか、そんなことではなかったのだと。 誠司には「嫉妬深い妻」という免罪符が必要だったのだ。そうすれば私を悪者に仕立て上げ、何度でも堂々と玲奈を優先できるから。 たとえ私があのカーナビの履歴を見つけなかったとしても、彼は別の理由をこしらえて玲奈と食事をし、家まで送り、ふたりきりの旅に出かけていただろう。 そして私が何か言うたびに、心が狭いと責め立てたに違いない。 その日の午後、誠司から玲奈の不動産案件が回ってきた。目を通してくれ、ということだった。 土地には深刻な土壌汚染のリスクがあり、融資の金利も法外に高かった。 私は報告書に、赤字でただ一言書き記した。 【投資不可】 誠司はその1行を削除し、案件を承認した。 私がそれを知れば、すぐにでも社長室に乗り込んでくる。彼はそう思っていたのだろう。 私は、何もしなかった。 1週間後、誠司と玲奈が戻ってきた。 ホテル物件の入札はたった2日で終わっていた。残りの5日間、2人は海辺のリゾートでバカンスを楽しんでいたのだ。レストランで食事をし、クルーザーで海に出て、貸し切りのワインテイスティングにまで足を運んでいた。 帰ってきてからも、ふたりは連れ立ってランチに行き、ゴルフをし、新しい開発予定地を見て回った。 表向きは、何ひとつ変わっていない。 けれど、ふたりの距離は確実に縮まっていた。 肌で感じ取れるほどに。 もう、どうでもよかった。 3年の結婚生活。それで十分だった。 その夜、港南ハーバーレジデンスのリスク報告書をもう1本仕上げたところで、スマホの画面が光った。 玲奈が新しい写真を投稿していた。 完全予約制の高級ルーフトップレストラン。そのテラスに立つ彼女の背後のテーブルには、シャンパングラスがふたつ並んでいる。 彼女が羽織っているのは、誠司の黒いコートだった。 すぐそばに誠司が立ち、彼女の首にマフラーを巻いてやっている。 添えられた一文は、こうだった。 【私が寒がりなこと、いつも覚えててくれる人がいる】 コメントは次々とついた。 【社長さん、優しすぎ!】 【社長とお似合いすぎます】 誠司は、ふたつ目のコメントに「いいね」を押していた。玲奈は照れ笑いの絵文字で返している。 以前の私なら、すぐさま誠司に電話をかけていただろう。 そして、玲奈のSNSを嗅ぎ回ってはくだらないことで喧嘩を吹っかけてくるのだと責められるのがお決まりだった。 今回私は、黙ってアプリを閉じた。 仕上げた報告書を誠司にメールで送り、パソコンの電源を落として、ひとりで車を運転して帰った。 リビングに入ったちょうどそのとき、誠司から電話がかかってきた。 ところが通話に出ると、先に聞こえてきたのは玲奈の声だった。 「恵理奈さん、リスク報告書、代わりに仕上げてくれてありがとう。誠司さんもすっごくよくできてるって。今度ご飯おごらせてね」 私が返事をするより先に、電話の向こうから誠司の声がした。 「礼なんか言わなくていい。あいつはそのために給料をもらってるんだから」 玲奈がくすくすと笑う。 「ふふっ。自分の奥さんなのに、ずいぶん厳しいのね」 ふたりの笑い声が重なった。 私がまだ電話口にいることを誠司が思い出すまで、数秒の間があった。 「今夜は遅くなる。先に寝てろ。待たなくていい」 それだけ言うと、誠司は電話を切った。 誠司が遅くなると言った夜は、いつもリビングで彼の帰りを待っていた。 けれど、今夜は違った。 私は2階に上がり、スーツケースに荷物を詰めた。 離婚手続きが正式に完了する日まで、あと3日。 第3話 誠司と玲奈がホテル物件の入札と称して出発したあの日、私は港南ハーバーレジデンスの決裁書類の束に、離婚協議書を忍ばせておいた。 出発を急いでいた誠司は、書類のタイトルにも目を通さなかった。付箋のついた箇所に、片っ端から署名していっただけだ。 翌朝、弁護士から連絡があった。 必要な手続きはほぼ整い、10日後には裁判所で最終確認が行われ、離婚が正式に成立する予定だという。 残された時間は、あと3日。 私は早川隆一(はやかわ りゅういち)に電話をかけた。 かつての私の恩師であり、現在は外資系不動産投資ファンドを率いている。 3年前、そのファンドの本社から、シニア投資マネージャーとして来ないかと声がかかった。 けれどちょうどそのころ、誠司は桐生開発を立ち上げたばかりだった。私のことが必要だと、彼が言っていた。 だから私はその誘いを蹴り、古びたアパート1棟の運用から始めて、彼と共に今の会社を築き上げてきたのだ。 キャリアを犠牲にするな、と隆一には忠告された。 それでも私は聞き入れなかった。 恋に目がくらみ、大事な選択まで恋心に左右されてしまったのだ。 「……恵理奈」 長い沈黙のあと、隆一が言った。 「本当に、また彼のために残ったりはしないんだな?」 「ええ、しません。もう離婚協議書にサインしてもらいましたから」 「離婚協議書って、何の話だ?」 不意に、背後の戸口から声がした。 振り返ると、書斎の入口に誠司が立ち、眉をひそめて私を見ていた。 私が答えるより早く、彼のスマホが光る。 誠司は画面に目を落とし、口の端をわずかに緩ませた。 再び私に視線を戻したときには、その笑みはすっかり消え失せていた。先ほどの問いすらも、頭から抜け落ちてしまったようだ。 「こんな時でも、仕事の電話か?」 私は通話を終え、スマホを置いた。 「ちょっと仕事を片付けてたの」 誠司が、私の机の上の書類に目をやった。 「港南ハーバーレジデンスの引き継ぎ、まだ終わってないのか?」 「もうすぐ終わるわ」 彼の眉間の皺が深くなる。 「最近、仕事が遅いな。明日から玲奈が正式に引き継ぐんだ。プロジェクトを取られた腹いせに、ぐずぐず引き延ばすなよ」 私は何も弁解しなかった。 誠司は背を向け、寝室へ戻っていった。 数分後、彼の笑い声が聞こえてきた。 玲奈にボイスメッセージを送っているのだ。屈託のない、心からの笑い声だった。 彼が私の前でそんなふうに笑ったのがいつだったか、もう思い出せなかった。 私は書斎のドアを閉め、ファンドの過去3年分の投資レポートに再び目を落とした。 海外市場から離れて、あまりに長い時間が経っていた。 新しい規制も、資金調達のスキームも、市場の変化も、一から頭に入れ直さなければならない。 久しぶりに、私の意識は完全に誠司から離れていた。 本来向けるべき場所――私自身へと戻ってきたのだ。 「それ、海外の買収案件のレポートか?」 いつの間にか、誠司が戻ってきていた。 彼は1冊を手に取ってぱらぱらとめくると、短く笑った。 「うちの会社とは桁が違う案件ばかりじゃないか。読んだところで、お前に中身がわかるのか?」 桐生開発が最初の大型出資を取りつけたとき、企業価値の算定モデルを一から組み上げたのは私だった。 けれど誠司は、難しい仕事を私に押しつけることにすっかり慣れてしまい、それが専門的な技能だとはもう思っていなかった。 彼にとっては、私が当然のようにやってくれる仕事でしかなかったのだ。 私はレポートを集め、きちんと揃えて重ねた。 「ちょっと眺めてただけよ」 誠司は書類を置き、それ以上何も聞かなかった。 彼は知る由もなかった。3日後、私がそのファンド史上最年少の地域統括投資ディレクターに就任することを。 そして私を待っている最初の買収案件が、誠司が何年も前から欲しがっていた、都心の一等地の物件だということを。 第4話 「それから、もうひとつ」と誠司は言った。 「港南ハーバーレジデンスが正式に動き出す。玲奈はよくやってくれたから、開発部長に昇格させるつもりだ」 彼は私の顔色をうかがい、反応を待っていた。 「お前はどう思う?」 意見を求めているような口ぶりだった。けれど辞令は、きっともう出来上がっているのだろう。 「異論はないわ」 誠司の動きが、目に見えて固まった。 これまでなら、彼が私のプロジェクトを玲奈に回すたび、私は予算やデータ、リスク報告書を突きつけて食い下がってきた。 今回は、一言も言い返さなかった。 誠司の肩から力が抜けた。 「ならいい。最近のお前は新規案件をひとつも取ってきてないからな。しばらくは文書管理課へ異動してもらう」 開発部長は、会社の大型案件を一手に握るポストだ。 文書管理課は、古い契約書を整理し、保管書類を点検する部署にすぎない。 これは異動などではない。私を経営の中枢から引きずり下ろし、窓際部署に追いやろうとしているのだ。 まず私からプロジェクトを取り上げ、次にその「実績がない」ことを口実に私を左遷するのだ。 「一時的な措置だ」と誠司は付け加えた。 「お前が気持ちを入れ替えたら、元に戻してやる」 「わかったわ」 誠司は数秒のあいだ、じっと私を見つめた。 「……本当にいいのか?」 「ええ」 退職届はすでに取締役会に提出してある。 2日後には、退職が正式に有効になる。 彼が私をどこへ飛ばそうと構わない。 もう、どうでもいいことだった。 誠司は何も知らなかった。私の沈黙を、降伏と取り違えていた。 彼を愛するなら彼に従うものだと、私がようやく悟ったのだと思い込んでいた。 「じゃあ決まりだな」 誠司は言った。 「明日には下の階に移ってくれ。玲奈には投資家と打ち合わせできる広い部屋が必要なんだ」 この部屋は、誠司と会社を立ち上げた最初の年に、私が自分で選んだものだった。 それが今、彼の一言で玲奈のものになる。 「わかったわ」 立ち上がりかけた誠司の目が、私の本棚に留まった。 「あの陶器の家はどうした?」 初めて開発案件をまとめたとき、誠司が私に贈ってくれた置物だ。 台座には、こんな言葉が刻まれていた。 【誠司と恵理奈 すべてはここから】 私はそれを、オフィスのいちばん目につく場所に飾っていた。 誠司に失望するたび、それを見ては自分に言い聞かせてきた。一番苦しい時期を、ふたりで一緒に乗り越えてきたのだと。 誠司はいつも、そんな私をからかっていた。 デベロッパーからもらった安物の贈り物を、宝物みたいに大事にするなんて子どもっぽい、と。 それなのに、なくなった途端、すぐに気づいたのだ。 「落として割れちゃったの」 私は言った。 誠司は床に視線を落とした。 「破片はちゃんと片付けたのか?」 「ええ」 「清掃の人にもう一度確認させておけ。取りこぼしがあったら、誰か怪我するかもしれないからな」 私が素直に従ったことで、彼の機嫌はよくなった。声からは、いくらか棘が抜けていた。 まるで、私を気遣っているかのような口ぶりだった。 けれど明日からこの部屋を使うのは玲奈だ。 彼が心配しているのは、私ではない。 誠司が出ていったあと、私は一番下の引き出しを開けた。 陶器の家は割れてなどいない。 結婚指輪の隣に、そっとしまってある。 2日後、その両方をここに置いていく。 たとえ何があっても、この会社だけは誠司と私のふたりの場所だと、かつての私は信じていた。 けれど1か月前、予定より早く帰宅した私は、自宅の冷蔵庫にオーツミルクが入っているのを見つけた。 私はオーツ麦アレルギーだ。 玲奈は毎朝、オーツミルクを飲んでいる。 私の家の冷蔵庫には、別の女のためのものが常備されていたのだ。 玲奈がたまに打ち合わせで来るだけだ、と誠司は言った。 だから私は、スマートロックの解錠履歴を確かめた。 この2か月で、彼女は11回、私たちの家に出入りしていた。 そのうち7回は、私が家にいないときだった。 第5話 私はスマートロックの履歴を誠司に突きつけた。 すると彼は、防犯カメラの映像をいくつか再生して見せた。どの映像にも、プロジェクトの資料を胸に抱えた玲奈が自宅に入っていく姿が映っていた。 「この家は職場から近いからな。打ち合わせには都合がいいんだよ」 「せめて一言教えてくれればいいのに!」 「ここは俺の家でもあるんだ。仕事で部下を連れてくるのに、いちいちお前の許可はいらないだろう」 そして、スマートロックの履歴を監視し、冷蔵庫を漁り、被害妄想をこじらせていくお前のほうこそ異常だ、と私を責め立てた。 それ以来、誠司はますます頻繁に玲奈を家へ連れてくるようになった。 私を安心させようとしたのではない。 わざと一線を越えてみせているのだ。私が文句を言えば、また罰を与えられるように。 そう挑発するかのように。 実のところ、ふたりが不倫関係にあるという決定的な証拠は、まだ何一つ掴めていなかった。 家に来るときには、必ず仕事の資料がある。 夜遅くなるときには、決まってもっともらしい仕事の口実があった。 一時期、私は自分の感覚さえ疑った。 ふたりが親密に見えたのは、私の思い過ごしだったのかもしれない。悪いのは、本当に私のほうなのかもしれない、と。 ふたりのことをあれこれ考えるのに費やした労力の半分でも自分のキャリアに注いでいれば、今ごろもっと多くのことを成し遂げられていただろうに。 翌朝、誠司は玲奈の開発部長への昇格を正式に発表した。 私は下の階の文書管理課へ異動になった。 誰もが、私が食ってかかるものと思っていた。 けれど私は、自分の入館証と、仕上げた港南ハーバーレジデンスの資料一式を、玲奈のデスクの上に置いただけだった。 その様子を見ていた誠司は、満足げに頷いた。 ついに私の抵抗をへし折ったと思ったのだろう。 ふたりが玲奈の昇格を祝って立食パーティーで談笑している間に、私は航空券を予約した。 ふたりが投資家とゴルフコースを回っている間に、荷造りを終えた。 ふたりが港南ハーバーレジデンスで笑顔で広報用の写真に収まっている間に、最後の引き継ぎを完了させた。 ふたりの祝賀ムードは、これから始まる。 私のここでの生活は、もうすぐ終わる。 2日後、桐生開発での最終出社日を迎えた。 退職手続きを終えたところで、人事部長の福田理沙(ふくだ りさ)に呼び止められた。 「お帰りになる前に、社長室へ寄っていただけますか。社長がお呼びです」 一瞬、断ろうかと思った。 けれど今夜を最後に、誠司とはもう二度と顔を合わせないかもしれない。 3年の結婚生活に、せめて一度くらいはきちんと別れを告げてもいいだろう。 社長室のドアは、わずかに開いていた。 その隙間から、シャンパンゴールドのドレスをまとった玲奈が、姿見の前に立っている後ろ姿が見えた。 豊かな髪を片側に寄せ、うなじをあらわにしている。 その背後に誠司が立ち、彼女の首にネックレスを留めてやっていた。 彼の指先が、彼女の肌に触れている。 それは上司と部下にしては、あまりにも親密すぎる距離感だった。 私は中へは入ることなく、そのまま踵を返そうとした。 すると鏡越しに、玲奈と目が合った。 「……恵理奈さん?」 誠司が肩越しに振り返った。 その顔から、柔らかな表情が一瞬にして消え失せた。 「アポもなしに、ここで何をしている?」 私は足を止めた。 1か月前、誠司はアポなしで社長室へ立ち入ることを禁じるルールを作っていた。 妻である私には関係のない話だと思っていた。 どうやら、とんだ勘違いだったらしい。 「福田さんから、あなたが呼んでるって聞いたからよ」 誠司は内線のボタンを押し、理沙を呼びつけた。 「恵理奈にここへ来るよう言ったのか?」 理沙が私の退職手続きを済ませてから、まだ1時間も経っていない。 私がなぜここにいるのか、彼女は誰よりもよくわかっているはずだった。 けれど同時に、玲奈に誰がついているのかも、よくわかっていた。 理沙は怯えた様子で誠司を見て、それから玲奈を見た。 「……覚えていません」 会社中の誰もが、同じ教訓を学んでいたのだ。 私のために本当のことを言えば、痛い目を見る。 玲奈のために嘘をついても、何のお咎めもない。 誠司は冷ややかに笑った。 「今度は人事まで使って、俺と玲奈のことを嗅ぎ回ろうってわけか?」 「そんなことしてないわ」 「まだ白々しい嘘をつくつもりか?」 嫌悪をあらわにした顔で、彼は私に詰め寄ってきた。 「そんなに俺が信用できないなら、この部屋の防犯カメラの映像を1秒残らずお前に送ってやろうか? それとも警備員に命じて、俺が誰と会って何を話したか、全部報告させようか?」 またしても、一線を越えたのは誠司のほうだった。 それなのに、またしても彼は正しいのは自分だという顔で、私を悪者に仕立て上げたのだ。 その背後で、玲奈がそっとうつむいた。 けれど、その口元に浮かんだ微かな嘲笑を、私は決して見逃さなかった。 第6話 「誠司さんったら、もう怒らないで」 玲奈は一歩近づき、彼の腕にそっと手を添えた。 「恵理奈さんは、誠司さんのことが大事だから、私に嫉妬してるだけなのよ」 それから、私のほうに目を向けた。 「ネックレスの留め具が外れちゃって、誠司さんに直してもらってただけなの。今夜は投資家の方とお会いするから、みっともない格好で行くわけにいかないでしょ?」 その声が、駄々をこねる子どもをあやすような、甘ったるい声に変わる。 「だから誤解しないでね、恵理奈さん。私たち、仕事をしてただけ。本当にそれだけなの」 私の夫との一線を越えておきながら、今度はそれにどう反応すべきか、私に説いている。 私は黙っていた。 誠司は、その沈黙を後ろめたさの表れと受け取った。 「会社には会社のルールがある」 彼は言った。 「許可なく社長室の前に現れ、中を覗き見た。今月の賞与は全額カット、給料も半額にする」 玲奈が越えたどんな一線にも目をつぶってきた男が、今さら規則を振りかざすなんて。 理沙が思わず口を挟んだ。 「社長、でも彼女はもう……」 誠司の冷たい一瞥が、その言葉を封じた。 「つべこべ言わず、俺の指示に従え」 理沙は口をつぐみ、部屋を出ていった。 私はドアのほうへ向き直った。 「待て」 誠司の怒りは、もう収まっていた。 私が素直に従ったのが気に入ったらしい。 「恵理奈、別にお前をいじめたくてやってるわけじゃない。規則はきちんと守らせなきゃならないんだ。でないと示しがつかない」 すかさず玲奈が割って入った。 「今度何かあったら、まず私に聞いてくれればいいわ。誠司さんが忙しいときは、私が話す時間を調整してあげるから」 夫の秘書が、妻である私に、夫と話す時間を取ってあげると言っているのだ。 誠司は満足げに頷いた。 「玲奈はいつも会社のことを第一に考えてくれる。お前は公私混同も甚だしい。少しは彼女を見習ったらどうだ」 見習う?何を? 他人のプロジェクトを横取りして、自分のミスの尻拭いを他人に押し付けるやり方を? 妻の留守に上がり込み、その夫まで奪っておきながら、無垢な被害者を演じるやり方を? 私は短く笑った。 誠司は、それさえも取り違えた。 ようやく私が従順になったのだと思ったのだ。 彼は一歩近づき、私の髪を撫でた。付き合い始めたころ、よくそうしてくれたように。 けれど今、その目に愛情はかけらもなかった。 そこにあるのは、飼い主がようやく言うことを聞くようになったペットに向けるような、満足の色だけだった。 「最近はずいぶん殊勝な態度になったじゃないか」 彼は言った。 「だから、褒美をやる。 来月には管理職に戻して、給料も2割上げてやるし、港南ハーバーレジデンスが軌道に乗ったら、今度こそ海外に新婚旅行に行こう。 プライベートジェットでも、海辺のホテルでも、お前の好きにしていい」 結婚して3年。新婚旅行の話を彼のほうから切り出したのは、これが初めてだった。 私を愛しているからではない。扱いやすくなったことへの、ご褒美にすぎなかった。 「これで満足か?」 その口ぶりはまるで、私がこれまで耐えてきた屈辱のすべてが、この気前のいい褒美のためにあったとでも言いたげだった。 私は彼の手を払いのけた。 持っていたクリアファイルから2通の書類を取り出し、彼のデスクに叩きつけた。 ひとつは、すでに取締役会に受理され、正式に効力を生じた私の退職書類。 もうひとつは、誠司自身が署名し、すでに弁護士を通じて提出済みの離婚協議書だった。 誠司の顔から、笑みが消えた。 「……何だ、これは」