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弾丸を遺し、私は夜明けの海へ
6年前、私はニュー・エデンで最強と謳われるマフィアのドン、ダンテ・ロマーノを庇って凶弾に倒れた。その傷のせいで、私は二度と母親になれない体になるはずだった。 病室のベッドの傍らで、ダンテは私に誓ってくれた。 「君さえ生きていてくれれば、子供なんていらない」と。 だが、奇跡的に私は身籠った。 その喜びを彼に伝えようとした矢先、彼の携帯に残された音声メッセージから、幼女が彼を「パパ」と呼ぶ声を聞いてしまったのだ。 そこで初めて知った。彼がかつての秘書であるビアンカとの間に、双子の子供をもうけていたことを。 ロマーノ・ファミリーの人間は皆、その事実を知っていた。私一人を除いて。 彼は相変わらず私を「愛するただ一人の女」と呼びながら、裏ではビアンカに指輪を贈り、彼女の息子にファミリーの跡目を継がせる準備を進めていた。 私は彼を責め立てることも、彼の子を宿していると打ち明けることもしなかった。 そして結婚記念日。私はクルーザーの爆発事故を偽装し、「マダム・ロマーノ」であるエレナが、お腹の子供と共に海の藻屑と消えたと世界中に思い込ませた。
Chapters (1)
第1章
6年前、私はニュー・エデンで最強と謳われるマフィアのドン、ダンテ・ロマーノを庇って凶弾に倒れた。その傷のせいで、私は二度と母親になれない体になるはずだった。
病室のベッドの傍らで、ダンテは私に誓ってくれた。
「君さえ生きていてくれれば、子供なんていらない」と。
だが、奇跡的に私は身籠った。
その喜びを彼に伝えようとした矢先、彼の携帯に残された音声メッセージから、幼女が彼を「パパ」と呼ぶ声を聞いてしまったのだ。
そこで初めて知った。彼がかつての秘書であるビアンカとの間に、双子の子供をもうけていたことを。
ロマーノ・ファミリーの人間は皆、その事実を知っていた。私一人を除いて。
彼は相変わらず私を「愛するただ一人の女」と呼びながら、裏ではビアンカに指輪を贈り、彼女の息子にファミリーの跡目を継がせる準備を進めていた。
私は彼を責め立てることも、彼の子を宿していると打ち明けることもしなかった。
そして結婚記念日。私はクルーザーの爆発事故を偽装し、「マダム・ロマーノ」であるエレナが、お腹の子供と共に海の藻屑と消えたと世界中に思い込ませた。
第1話
「今回のサン・ローザへの視察、私はパスするわ」
そう言いながら、私はスマホの画面に表示されていた妊娠の診断結果を静かに削除した。
ダンテは動きを止め、怪訝そうにこちらを見た。
「どうしたんだ?いつもなら、俺が1人で出張に行くのを嫌がるくせに」
3日前。彼の暗号化された専用端末から、ある音声メッセージが流れるのを聞いてしまった。
【パパ、お兄ちゃんと一緒にイルカを見に連れてってくれるって約束したよね】
スピーカーから響いたのは、どう聞いても4歳以上にはなる幼女の声だった。
ダンテと結婚して6年。ニュー・エデンの裏社会で、ドンであるダンテが妻を溺愛していることは周知の事実だった。
私が敵対組織に拉致された時、彼は私を連れ戻すために1つの組織を丸ごと壊滅させたこともある。
どこへ行くにも私を伴い、まるで数日離れることすら耐えられないかのように振る舞っていた。
誰にも私たちの絆は引き裂けない。そう信じて疑わなかった。あの幼女が彼を「パパ」と呼ぶのを聞くまでは。
「少し疲れているだけよ」
私は彼の視線を避け、手元のワイングラスをそっと遠ざけた。
ダンテは私の皿に好物を切り分けて乗せながら、優しく言った。
「なら、屋敷でゆっくり休むといい。港のトラブルが片付き次第、すぐに帰ってくるから」
夕食後。彼の書斎の前を通りかかると、ダンテと彼の母親、ヴィットーリアが声を潜めて言い争うのが聞こえてきた。
「レオはもう5歳なのよ。ロマーノ一族の血を引く、唯一の男の跡取りじゃないの。あの子をいつまで日陰の身にしておくつもり?」
「それは母さんが決めることじゃない」
「ビアンカはあなたに息子と娘を産んでくれたのよ。せめてレオだけでも、正式な跡継ぎとしてファミリーにお披露目すべきだわ」
しばらくの沈黙の後。ダンテの冷ややかな声が響いた。
「ビアンカと子供たちの生活は保障する。だが、あいつらの存在はエレナには絶対に秘密だ」
「いつまで隠し通せると思ってるの?」
「一生だ」
ヴィットーリアは皮肉めいた笑い声を上げた。
「あの子はロマーノに跡継ぎを残せなかったのよ。それなのに、どうしてあの子のために、私の可愛い孫たちが一生隠し子として生きなきゃならないの?」
私は無意識のうちに、自分のお腹へと手を当てていた。
6年前、ダンテの心臓を狙った弾丸を私が代わりに受けた。一命は取り留めたものの、医師からは「二度と妊娠は望めないだろう」と宣告された。
手術後、ダンテはベッドの横に跪き、私の手を強く握りしめて言ったのだ。「子供なんていらない、君さえ生きてそばにいてくれれば、他には何も望まない」と。
1週間前、定期健診を受けた。そして3日前、病院から妊娠の確定診断をもらったばかりだった。
彼にこの奇跡を伝えようと準備していたその時、私は彼の決定的な裏切りを知ってしまったのだ。
携帯の着信音が、私を現実へと引き戻した。
苛立った様子のダンテが電話に出た。
「緊急時以外はかけてくるなと何度言えば――」
電話の向こうから、幼女の泣き声が漏れ聞こえた。途端に、彼の声から棘が消え去った。
「泣かないで。パパも会いたいよ」
ヴィットーリアが弾んだ声で歩み寄る。
「まあ、私の可愛いお姫様かしら?」
ダンテがスピーカーをオンにすると、「おばあちゃん!」という愛らしい声が部屋に響いた。
ヴィットーリアは嬉しそうに笑った。彼女がこれほど温かい声を出すのを、私は一度も聞いたことがなかった。
これ以上、聞いていられなかった。
私は1人、庭園へと足を踏み入れた。そこに咲き誇る薔薇はすべて、ダンテが私のために植えさせたものだ。
この6年間、彼はこの薔薇園を埋め尽くすほどの愛を私に捧げていると証明し続けてきた。
しかし今、彼は別の女と2人の子供の存在によって、「愛」と「忠誠」が全く別物であると証明して見せたのだ。
闇夜の下に立ち、私は叔父が遺した緊急連絡先へと電話をかけた。
母は死の間際、私にこう言い残していた。「もしロマーノ・ファミリーに裏切られることがあれば、叔父さんが必ずあなたをニュー・エデンから逃がしてくれる」と。
電話が繋がる。相手は無言でこちらの言葉を待っていた。
「2週間後、クルーザーの爆発事故を手配してちょうだい」
「本気か?」
「ええ」
離婚などという手段で、私がダンテから逃れられるはずがなかった。
私が生きている限り、彼は必ず私を見つけ出し、屋敷へと連れ戻し、「愛しているのは君だけだ」と執拗に囁き続けるだろう。
だから、マダム・ロマーノはこの世から消えなければならない。
彼にはもう、別の立派な家族があるのだから。
マダム・ロマーノの肩書きも、彼がくれたものも、すべてを返してあげる。
2週間後、私は彼の世界から永遠に姿を消す。
第2話
通話を終えて屋敷に戻ると、私のショールを手にしたダンテが階段を降りてくるところだった。
私の姿を捉えた瞬間、彼は露骨に安堵の表情を浮かべた。
「なんでこんなに長く外にいたんだ?」
彼はショールを私の肩にふわりとかけ、冷え切った頬にそっと触れた。
「夜は冷え込むんだ。体を大事にしてくれ」
そして、私の顔をまじまじと見つめ込む。
「エレナ、泣いていたのか?」
手で私の頬を包み込み、赤く腫れた目元に視線を這わせる。
「誰かに何かされたのか?」
彼の瞳に浮かぶ心配の色に、嘘偽りはないように見えた。だが、それがかえって私の心を深く抉った。
「ダンテ、私のこと、愛してる?」
彼は一瞬だけ動きを止め、それからゆっくりと片膝をつき、私の手を自分の胸元に押し当てた。
「その答えは、世界中の誰よりも君自身が一番よく分かっているはずだ」
「もし、いつかあなたが私を裏切ったら?」
「そんなことは絶対にあり得ない」
「でも、万が一そうなったら?」
ダンテは私の目を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
「その時は、ファミリーの銃で俺の心臓を撃ち抜いてくれ」
掌から伝わる彼の鼓動に、少しの乱れもない。その瞳にも、一切の揺らぎはなかった。
すでに私を裏切っているというのに、彼はいけしゃあしゃあとロマーノの名に懸けて誓ってみせたのだ。
「エレナ、一体何があったんだ?」
「なんでもないの。悲恋の映画を見たら、少し感傷的になっちゃって」
彼はほっとしたように息を吐き、私の額にキスを落とした。
「映画なんて、観客の感情を揺さぶるために作られてるだけの作り話さ」
彼は優しく微笑んだ。
「明日は、結婚記念日のプレゼントを選びに行こう」
翌朝、彼は私をある超高級ジュエリーサロンへと連れ出した。
そこはロマーノ・ファミリーの息がかかった店で、この6年間、彼から贈られた重要なジュエリーはすべてここで仕立てられたものだった。
支配人自らが私たちをVIPルームへと案内する。
「ドン、マダム。デザイナーがすでに準備を整えてお待ちしております」
ダンテは私の前に分厚いカタログを置いた。
「好きなペアを選んでくれ。記念日の夜は、これを着けて過ごそう」
ページをめくり、私はシンプルなプラチナのペアリングに目を留めた。私の指輪の裏に彼の名を、彼の指輪の裏に私の名を刻印できるデザインだ。
「これはどうかしら?」
「君が気に入ったなら、何でもいいよ」
彼は私の隣に座り、椅子の背もたれに腕を回して、結婚してから今日まで1日たりとも欠かしたことのない深い愛情を示していた。
支配人が恭しく微笑む。
「ドンは毎年、マダムへの贈り物を御自ら選ばれますからね。ニュー・エデンでマダムを羨まない女性など1人もおりませんよ」
私はダンテを見つめた。周囲の人間から見れば、彼は今でも「自分の命よりも妻を大切にする夫」なのだ。
もし彼が別の女に双子を産ませていたと知っても、皆はまだ私を羨むだろうか?
突然、ドアをノックする音が響いた。
スタッフが慌てて外の人物を止めようとしたが、時すでに遅く、ドアは無遠慮に押し開けられた。
そこに立っていたのは、白いドレスに身を包み、余裕のある笑みを浮かべた1人の女――ビアンカだった。
彼女の後ろの廊下には、シッターに手を引かれた5歳くらいの双子が立っている。
部屋の中のダンテが見えなかったのか、幼女は背伸びをしながら尋ねた。
「ママ、パパがここにいるって言ったでしょう?どこに?」
ダンテの顔から、さっと血の気が引いた。
第3話
ビアンカは肩越しにちらりと後ろを振り返り、双子を廊下に残したままドアを閉めた。
「申し訳ありません、マダム。子供たちがどうしても父親に会いたいと我儘を言うもので。まさか、お2人揃っていらっしゃるとは思いませんでしたわ」
ダンテはすでに立ち上がっており、その表情は氷のように冷酷だった。
「ビアンカ、二度と俺やエレナの前に姿を見せるなと言ったはずだぞ」
「落ち着いて。あなたを追いかけてニュー・エデンに戻ってきたわけじゃないわ」
ビアンカは悠然と部屋に入り込むと、テーブルの上に自身のバッグを置いた。
「子供たちの父親と私は、ファミリーの用事を済ませるために戻ってきただけ。今日ここへ来たのは、オーダーメイドしていた結婚指輪を受け取るためよ」
5年前、ビアンカはダンテの専属秘書だった。
彼女は仕事にかこつけて幾度となく彼に接近し、ある夜のファミリーの宴のあとなど、彼の寝室に無断で上がり込んだことすらあった。
翌朝、ダンテは彼女を即座に解雇した。そして皆の前で、自分が愛するのは私だけであり、マダム・ロマーノの座を奪える女など存在しないと高らかに宣言したのだ。
その直後、彼女はニュー・エデンから姿を消した。誰もが、彼女は私たちの前から永遠に消え去ったのだと信じて疑わなかった。
ところが今、彼女は私の目の前に立ち、外には5歳の双子を待たせている。
ビアンカは私の方へ向き直り、左手を高く上げて、大粒のダイヤモンドが輝く婚約指輪を見せつけた。
「ご心配なく、マダム。私も今は結婚しておりますのよ」
彼女はゆっくりと指輪を回しながら、笑みの裏に明確な挑発を込めた。
「夫が200万ドルかけて作ってくれた特注品ですの。ダンテがあなたを愛しているように、夫も私を愛してくれていますわ」
彼女の視線が、私の目の前にあるカタログへと移る。
「夫から心底愛されている女なら、誰かに彼を奪われるなんて心配は無用でしょう?そう思いませんか、マダム?」
私が口を開くより早く、ダンテのビンタが彼女の顔面を打ち据えた。
ビアンカの顔が大きく弾かれ、部屋中の空気が一瞬にして凍りついた。
ダンテはゆっくりと手を下ろし、一切の感情を排除した瞳で彼女を見下ろした。
「警告したはずだ。俺の目の前で、妻を侮辱することは誰にも許さないとな」
ビアンカは打たれた頬に手を当て、信じられないという顔で彼を睨みつけた。
ダンテは支配人へ振り返った。
「こいつのVIP資格を剥奪しろ。今後、この店への出入りは一切禁止だ」
ついにビアンカの余裕の仮面がひび割れた。
「彼女のために、私にここまで恥をかかせる気?」
「失せろ」
彼女はギリッと歯を食いしばり、私に憎悪の視線を浴びせてから、足早に部屋を出ていった。
ドアが閉まり、室内には重苦しい沈黙が降りた。
ダンテは再び私の傍らに跪き、私の手を取った。
「あんな女の言うこと、気にするな」
彼は私の指先に唇を寄せ、軽いキスを落とす。
「二度とこんな不愉快な思いはさせない。ニュー・エデンで君の上に立つ女など存在しない。ロマーノ・ファミリーの頂点に立つのは、未来永劫、君だけだ」
迷いのない、確信に満ちた声。
書斎でのあの密談を聞いていなければ、さっきの一撃こそが私への絶対的な忠誠の証だと信じて疑わなかっただろう。
その時、彼の携帯が鳴った。画面を一瞥したダンテは、通話を拒否した。
しかし数秒後、再び着信音が鳴り響く。
彼の瞳に僅かな苛立ちが走った。彼は立ち上がり、「ファミリーで少しトラブルが起きたようだ。ここで待っていてくれ、すぐに戻る」と言い残した。
「行ってらっしゃい」
ダンテは慌ただしく部屋を出ていった。
ドアが閉まったのとほぼ同時に、見知らぬ番号から私のスマホにメッセージが届いた。
【地下駐車場に来て】
立て続けにメッセージが届く。
【さっきあなたが目にしたのは、彼があなたに見せたかっただけの虚像よ。降りてらっしゃい。私の夫がどれほど私を愛しているか、見せてあげるわ】
私はそれを見つめ、静かに立ち上がってエレベーターへと向かった。
第4話
地下駐車場。薄暗い空間の中で、ビアンカはダンテの正面に立っていた。
「エレナの前に姿を見せるなと警告したはずだ」
誰が聞いても身すくむような、絶対零度の声。
「今日の件で彼女が傷ついたら、ただじゃ済まさないぞ」
「じゃあ、レオとミアはどうなるのよ!?」
ビアンカは目を真っ赤にして声を荒らげた。
「この子たちはもう5歳よ。それなのに、街から離れた場所で隠れるように生きなきゃならない。
外で自分の父親を『パパ』と呼ぶことも許されず、ファミリーの人間を見かけたら赤の他人のふりをしろだなんて!」
彼女は少し離れた場所に立つ双子を指差した。
「レオは、『どうして自分の苗字はロマーノなのに、一族の系譜に自分の名前がないのか』ってずっと気にしてる。ミアなんて、毎晩『パパはいつ帰ってくるの』って泣くのよ!」
ダンテは沈黙した。
ミアがおずおずと彼に近寄る。
「パパ……私がいい子にしてないから、一緒に住んでくれないの?」
その瞬間、ダンテの顔から冷酷な仮面が剥がれ落ちた。
彼は屈み込み、娘をそっと抱き上げた。
「ミアのせいじゃない。お前は何も悪くないよ」
傍らに立つレオは泣いてこそいなかったが、その強い眼差しは頑なにダンテを捕らえて放さなかった。
「いつになったら、僕たちのパパだって皆に言えるの?」
ダンテは短く目を閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「今回のサン・ローザ視察から戻ったら、俺自身の手で、お前たち2人の名前をロマーノの系譜に刻んでやる」
ビアンカが息を呑んだ。
「本当……?」
「それが済めば、こいつらが俺の子供だということは裏社会の全員が知ることになる」
レオの顔がパッと輝いた。
「じゃあ、もうコソコソ隠れなくていいの!?」
ミアはダンテの首にぎゅっと抱きついた。
「パパを知らないふりしなくてもいいの?」
ダンテは双子の顔を見つめ、最後にはっきりと頷いた。
「ああ。もう隠れる必要はない」
子供たちは2人揃って、彼に勢いよくしがみついた。
その光景を傍らで見守るビアンカの顔には、完全なる勝利の笑みが浮かんでいた。
私は物陰に潜んだまま、娘を片腕で抱き、息子の肩にもう片方の手を置くダンテの姿をただ静かに見つめていた。
その光景を見ても、私の心はもう崩れなかった。
ただ、ダンテがかつて「絶対に君を失えない」と言った言葉の真意を悟っただけだ。
彼は2つの人生を両方とも手放したくなかったのだ。
「愛する妻」である私と、「跡取りを産んだ女」であるビアンカ。
私たち2人を引き離しておきさえすれば、彼はすべてを永遠に独占できると信じ込んでいるのだ。
だが、私だけのものであるべき夫を巡って、他の女と争いながら生きるつもりなど毛頭ない。
私は踵を返し、その場を離れた。
少しして、ビアンカから指輪のデザイン画の画像が送られてきた。
それは先ほど私が選んだばかりの、あのプラチナのペアリングだった。
【ダンテはずっと前から、この指輪を私に贈ると約束してくれていたの。
私と彼の間には2人の子供がいる。あなたには何もない。マダム・ロマーノの座を奪われるのも時間の問題ね】
画面を見つめながら、私は思わず吹き出しそうになった。
ビアンカは、私たちが同じ男からの選択を待つライバル同士だと思い込んでいる。馬鹿げている。
私は最後の一言だけを返信した。
【指輪も、ロマーノの名も、あの男も、全部あなたに譲るわ。彼が私を捨てるんじゃない。私が彼を捨てるのよ】
送信と同時に彼女の番号をブロックし、叔父に電話をかけた。
「計画を前倒ししてちょうだい」
「結婚記念日の後まで待つつもりじゃなかったのか?」
「気が変わったわ」
私はジュエリーサロンのショーウィンドウ越しに、美しく並べられたペアリングを見つめながら言った。
「5日後の結婚記念日。マダム・ロマーノは海の底に沈むの」
第5話
ロマーノ邸に戻っても、私には悲しみに浸っている暇などなかった。
結婚記念日まで、残された時間はたったの5日。それまでに、私の行方を示す一切の痕跡を完全に消し去らなければならない。
談話室の前を通りかかると、ヴィットーリアが子供用のフォーマルウェアのカタログを熱心に眺めているのが見えた。
開かれたページには、ロマーノの跡取りが正式に披露される際に着用する純白の儀礼服が載っている。襟元には、一族の紋章である銀の狼が誇り高く刺繍されていた。
彼女は私の姿に気付いた瞬間、慌ててカタログを閉じた。
「エレナ、どこかへ出かけるの?」
「母が遺した財産の整理に出向こうかと」
「運転手を出しましょうか?」
「お気遣いなく。1人で行けますから」
それ以上は言葉を交わさず、私は屋敷を後にした。
弁護士事務所で私を待っていたのは、叔父の部下たちだった。
テーブルの上には、新しいパスポートと、国外脱出に必要な偽造書類が一式揃えられていた。
パスポートを開く。写真は間違いなく私のものだが、その下に記された名前は「エリス・ローラン」となっていた。
「この身分証明書は、ニュー・エデンを抜け出すためだけのダミーです」
叔父の部下が説明する。
「ローランディアに到着しさえすれば、あとはモレッティ・ファミリーがあなたを完全に匿ってくれます」
その瞬間から、私はもうロマーノ・ファミリーのマダムではなくなった。私はただの、エリス・ローランだ。
「事故は徹底的に本物らしく偽装して」と私は念を押した。
「ダンテは私が死んだと簡単には信じないはずよ」
「現場には、あなたの血痕と私物を残しておきます。抜かりはありません」
私はパスポートをバッグの奥底にしまい込んだ。
ニュー・エデンの港も、空港も、裏社会に通じる闇ルートも、すべてダンテが牛耳っている。逃亡の気配を少しでも悟られれば、絶対にこの街を出ることはできない。
記念日までの間、私は「夫を信じ切っている哀れな妻」を完璧に演じ通さなければならないのだ。
その日の夕方、屋敷に戻ると、ダンテの激しい怒りが家全体を飲み込んでいた。
武装したボディガードのチームがいくつも出動の準備をしている。ダンテが冷酷な声で指示を飛ばしていた。
「捜索網を広げろ。空港、駅、ニュー・エデンを出るすべての幹線道路を徹底的に探れ」
入り口に立つ私を見つけた瞬間、彼は凍りついたように動きを止めた。
そして次の瞬間、広間を足早に横切ると、私の体を力任せに抱き寄せた。
「エレナ!一体どこにいたんだ!」
骨が軋むほどの力で抱きしめられ、息が詰まる。
「なぜボディガードを連れて行かなかった?なぜGPSを切ったんだ!」
「私はあなたの妻よ、囚人じゃないわ」
その場にいたすべてのボディガードが一斉に目を伏せた。
ダンテはふっと言葉を詰まらせ、やがて声を落として囁いた。
「君を束縛したいわけじゃない。ただ、君を失うかもしれないと思うと……耐えられないんだ」
あまりにも切実な響き。もし彼が他の子供たちを抱きしめている姿を見ていなければ、すっかり騙されていたことだろう。
「母の昔の顧問弁護士に会いに行っていただけよ」
「何のために?」
「母の遺した書類で、どうしても手元に置いておきたいものがあったから」
ダンテは明らかに納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。
「次は俺に言ってくれ。一緒に行くから」
「サン・ローザへの視察があるんじゃなかったの?」
彼の表情が強張った。
「出発は明日に延期になったんだ。ファミリーの書類の手配が遅れていてね」
彼はすっと視線を逸らした。
「でも約束する。向こうの片が付き次第、すぐに戻る。結婚記念日には必ず間に合わせるから」
私は小さく頷いた。
「わかったわ」
私がすでに真実を知られているとは、夢にも思っていないのだろう。
そして、彼が戻ってきた時、私がもうニュー・エデンにはいないということも。
その時、私の携帯が鳴った。叔父の部下からだった。
電話に出ると、向こうは短く一言だけ告げた。
「船の準備が整いました」
ダンテの鋭い視線が、一瞬にして私を射抜く。
「何の船だ?」
私は通話を切り、極めて冷静に彼の目を見返した。
第6話
ダンテは胡乱な目を向け、探るように私をじっと見つめた。
「結婚記念日のための船よ」
私は極めて冷静な表情を保ち、淡々と答えた。
「今年は海で過ごそうって、あなたが言っていたじゃない」
彼の瞳から疑念がスッと消え去った。彼は私を優しく腕の中に引き寄せる。
「そういう手配は俺に任せておけばよかったのに。サン・ローザから戻ったら、一生忘れられないような最高の記念日にしてやるよ」
「ええ、きっと一生忘れられない記念日になるわ」
――エレナ・ロマーノが死ぬ日なのだから。
私は彼の腕の中からそっと抜け出した。
「少し疲れたわ。今夜はゲストルームで一人で休みたいの」
「エレナ」
ダンテが私の行く手を遮る。
「ジュエリーサロンを出てから、ずっと様子がおかしいぞ。ビアンカに何か言われたのか?
あの女の出入りは禁止にした。もうサロンで君を煩わせることはないはずだ」
「あの人の話じゃないわ」
「じゃ、何の話だ」
私はわざとらしく、少しだけ口籠もってみせた。
「……もうすぐ結婚記念日でしょう。そのせいか、亡くなった母の事ばかり考えてしまって」
決して褒められた言い訳ではない。だが、重要な記念日が近づくたびに私が母を想って塞ぎ込みがちになることを、ダンテはよく知っていた。
彼の中に残っていた最後の疑念が、完全に拭い去られた。
「サン・ローザから戻ったら、一緒にお義母さんの墓参りに行こう」
「ええ。わかったわ」
彼が知る由もない。私がすでに母の遺したすべてを手にし、ニュー・エデンから永遠に姿を消す決意を固めていることなど。
自室に戻った私は、自分の持ち物の整理を始めた。
モレッティ・ファミリーが用意してくれた偽造書類と、母から受け継いだ宝石だけを鞄に詰める。
ダンテから与えられたものは、一つ残らずこの部屋に置いていく。
そして、黒いベルベットの小箱を取り出し、その中に私の結婚指輪を納めた。
指輪の隣には、ロマーノ・ファミリーのマダムの座を象徴する印章と、6年前に私の体から摘出されたあの弾丸を並べる。
箱の一番底には、書きかけの手紙を忍ばせた。
背後で不意にドアが開いた。
部屋に入ってきたダンテは、すぐにベッドの上の小箱に目を留めた。
「それは、俺へのプレゼントか?」
「ええ」
私は箱の蓋を閉じ、彼に手渡した。
「記念日の夜まで、絶対に開けないでね」
ダンテは宝物でも扱うかのようにその箱を書斎へ運び、金庫の中に厳重にロックした。箱の中に私の愛が詰まっていると信じて疑わない様子だった。
その箱の中に収められているのが、私たちの結婚生活の残骸だとは夢にも思っていない。
記念日の夜、彼を待っているのは、私が再び指輪をはめる瞬間ではない。
私の訃報だ。
第7話
翌日。ダンテは「サン・ローザの状況が悪化した」と称してニュー・エデンを発った。
出発の直前、彼は私の額にキスを落とした。
「屋敷で大人しく待っていてくれ」
その日の夜、見知らぬ番号からメッセージと1枚の写真が送られてきた。
写真は、サン・ローザにあるロマーノ一族の私有地で撮影されたものだった。
レオは跡継ぎの正式なお披露目で着る純白の儀礼服を身に纏い、ミアはダンテの肩車に乗っている。
ダンテの隣には、得意げに微笑むビアンカ。彼女の指には200万ドルのダイヤの婚約指輪と――新調されたプラチナの結婚指輪が光っていた。
私がジュエリーサロンで選んだものと、全く同じデザインの指輪だ。
そしてダンテの指にも、それと対になる指輪がはめられていた。
【これで、私たちが本物の家族だってわかったわね】
私は一瞥しただけで、返信はしなかった。
……
4日後。ついに結婚記念日の夜が訪れた。
ダンテはまだ帰還していなかった。
その日の朝から、私は酷い高熱を出していた。夜になる頃には、立っていることすらやっとの状態だった。
叔父が寄越したボディガードは、私の顔色を見るなり計画の延期を提案した。
「今夜は嵐です。海に出るのは危険すぎます。計画は先送りにしましょう」
「ダメよ」
「あなたは身重なんですよ。いくら救助隊が待機しているとはいえ、この荒波に飛び込めば、母子ともに命の危険があります」
私はテーブルの縁を強く握りしめ、無理やり体を立たせた。
「ダンテは明日には帰ってくる。決行するなら今夜しかないの」
何より、今夜が結婚記念日であることが重要だった。記念日だからこそ、帰ってこない夫を待ちきれずに、妻が一人で船を出したという筋書きが成立するのだ。
この機を逃せば、二度とチャンスは巡ってこない。
「港へ出して」
完全に日が落ちた後、私はモレッティ・ファミリーが手配したクルーザーに乗り込んだ。
ニュー・エデンの港を離れてしばらくすると、ようやくダンテから電話がかかってきた。
「エレナ、今ニュー・エデンに着いた。どこにいる?」
「クルーザーの上よ」
彼の声が即座に強張った。
「こんな嵐の中、一人で海に出たのか!?」
「ええ。あなたがなかなか帰ってこないから、待ちきれなくて先に出港したの」
「今すぐ船を引き返させろ!俺もすぐ港へ向かう!」
「わかったわ。すぐに戻る」
私の声は、普段と全く変わらない平坦なものだった。
ダンテは電話の向こうで、あからさまに安堵の息を吐いた。
「すまない、記念日に間に合わなくて。サン・ローザでの会合が思っていた以上に紛糾してしまってね」
私はビアンカから送られてきたあの写真を思い出しながら、彼の見え透いた嘘を指摘することはなかった。
「気にしてないわ。実は、あなたに伝えておきたいことがあったの……」
遠くの海上に、3つの光が点滅した。
待機していた救助船からの合図だ。
次の瞬間、打ち合わせ通りにクルーザーの乗組員が切羽詰まった声で叫んだ。
「何かに衝突したぞ!船体に穴が空いた!燃料が漏れてる!」
ダンテの声が瞬時に裏返った。
「エレナ!?何があった!!」
クルーザーが激しく揺れ、私はわざと携帯を甲板に落とした。
「エレナ!!」
スピーカーからダンテの絶叫が響く。
「返事をしろ、エレナ!!」
私は血に染まったショールと耳飾りを甲板に残し、暗い荒波の中へと身を投げた。
その夜、エレナ・ロマーノはこの世を去った。
生き残ったのは、お腹の子供を抱えたエリス・ローランだ。