第1章
大学の同級生グループチャットで、匿名の暴露話が流行り出した。ルールは、ある人物の特徴を描写し、それが誰かをみんなで当てるというものだ。
誰かがこんなメッセージを送信した。【大学1年の新入生歓迎フェスで司会を務めた、クール系イケメン】
話題は瞬時に私の彼氏、九条北斗(くじょう ほくと)に絞られた。
続いて、その匿名の人物は爆弾発言を連発する。
【左の肩甲骨に火傷の跡がある。ある女子を熱湯から庇ってできたものだ】
【酔うと甘えん坊になって、ベタベタくっついてはハグをせがんでくる】
皆は騒然となり、次々と北斗をメンションして【本当なの?】と問い詰めた。
北斗は呆れたようなスタンプを送信した。【誰だよ、暇なやつ。でたらめ言うな】
しかし匿名の人物はさらに図に乗って送信した。【彼の背中には隠しタトゥーがある。アルファベットのTだ】
これにはグループチャットも蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。なぜなら、クラスのマドンナの名前が橘朋美(たちばな ともみ)だからだ。
タイミングを見計らったように、朋美が本アカウントでメッセージを送ってきた。【もうみんな、からかわないで。北斗が怒っちゃうから】
北斗は怒るどころか、私に個人メッセージを送ってきた。【同級生同士の冗談だから、本気にしないで】
私は呆然と北斗のアイコンを見つめていた。
彼の背中にある「T」は、そもそも彼が私を引っ張って彫りに行ったものだった。
「T」は私の名前である高梨紬希(たかなし つむぎ)のイニシャルで、私を一生守るために体に刻むのだと彼は言っていた。
今になってようやく分かった。あれは彼が他の女のために体に刻んだ証だったのだ。
私たちの秘密の交際は2年になり、彼はいつも「大学を卒業したら公表しよう」と言っていた。
だけど今回は、もう無理に求めるのはやめようと決めた。
第1話
キッチンでは、北斗の好物であるしじみ汁が、小鍋の中でことことと温められていた。
菜箸を握ったまま、私の視線は調理台に置いたスマホの画面に釘付けになっていた。
グループチャットでは冷やかしの声が絶えない。
同級生たちはこぞって北斗と朋美をメンションし、【早くごちそうしろ!】と囃し立てている。
朋美は照れたようなスタンプを送信した。
その下には【運命の二人だな】と感嘆するメッセージが続いた。
北斗はグループチャット内で自ら否定することはなかった。
代わりに、私との個別トーク画面に通知が届いた。
【毎日顔を合わせる仲なんだし、俺が否定したら朋美のメンツが丸潰れになる。お前も大人になって、いちいち拗ねるなよ】
スマホの画面を長いこと見つめ、私はコンロの火を消した。
胸の奥がツンと痛み、息苦しくなる。
あの熱々だったしじみ汁がすっかり冷め切ってしまっても、北斗が帰ってくる気配はなかった。
壁の時計は午前3時を指していた。
スマホがブブッと一度震えた。一通のメッセージだ。
送信元は間違いなく北斗の番号だったが、その文面は彼のものではなかった。
【北斗ったら酔っ払って、抱きついて全然離してくれないの。今夜は私が面倒を見るから、安心してね】
私はすぐに電話をかけた。
呼び出し音が一度鳴っただけで、相手に切られてしまった。
再びかけ直すと、すでに電源が切られていた。
翌朝の早朝、ドアの鍵がカチャリと回った。
ドアが押し開けられる。朋美が北斗を支えながら入ってきた。
北斗は彼女の肩にもたれかかり、目をうっすらと閉じている。
朋美はドアのそばに立つ私を見ると、口元に笑みを浮かべた。
彼女は私を避けることなく、あろうことか私の目の前で、乱れた北斗のシャツの襟元を直すように手を伸ばした。
そのわざとらしい仕草で、襟ぐりがわずかに引き下げられる。
露わになった彼の首筋には、くっきりと生々しいキスマークが残っていた。ひどく目に刺さる。
朋美は声を潜めて口を開いた。
「昨夜、北斗がどうしてもって暴れて聞かないから、ベッドで休ませるのに一苦労だったわ。この人、胃が弱いから、早く何か温かいものを作ってあげて」
そう言い残すと、彼女は北斗の体を私に預け、背を向けて去っていった。
私は北斗を支えてソファに座らせ、キッチンから温め直したしじみ汁を運んできた。
北斗はお椀を手にとって一口飲んだ。すると即座に眉をひそめ、ドンッとお椀を強く置いた。
「なんだこれ、不味すぎる。昨日は迎えにも来ないくせに、今日はしじみ汁一つまともに作れないのか。紬希、お前どんどん物分かりが悪くなってるぞ」
私は何も反論せず、うつむいてまな板の上のリンゴを切り始めた。
心が少し動揺していた。
刃先がスルッと滑り、人差し指の腹を深々と切り裂いた。
カチャンと澄んだ音を立てて、フルーツナイフがシンクに落ちる。
北斗が振り返った。彼の顔から苛立ちが綺麗さっぱり消え失せ、血相を変える。
彼はすぐにキッチンに飛び込んできて、私の手を掴むと蛇口の下へ持っていき、水で洗い流した。
冷たい水が傷口を洗い流す。
北斗の両手は震えていた。「なんて不注意なんだ!こんなに深く切って……絵を描く手に何かあったらどうするんだ!」
彼は焦った様子で救急箱を引っ張り出し、うつむき加減で慎重に薬を塗り、包帯を巻いてくれた。
この瞬間、彼はまたその目に私しか映していなかったあの頃の北斗に戻っていた。
しかし手当てが終わると、彼は私の手を離した。そしてため息をついた。
「朋美は一晩中、俺の面倒を見てくれて疲れてるんだ。周りの無責任な噂話のせいで、あいつに敵意を向けるのはやめてくれ。いつもそうやって意地を張るの、いい加減にしてくれないか」
北斗は立ち上がった。彼の着ているシャツは完全に前がはだけていた。
私に背を向けた時、左肩の後ろにあるタトゥーがむき出しになる。
黒々とした「T」の文字。
彼へのすべてのときめきが、このアルファベットの前で粉々に打ち砕かれた。
私はフルーツ皿を片付け、静かに後ずさりした。
「わかったわ。もう意地は張らない」
北斗は一瞬きょとんとした。私が今日これほど落ち着いているとは予想外だったようだ。
彼はこくりと頷き、寝不足を補うため寝室へと入っていった。
机の上のスマホが突然震えた。指導教官からファイルが送られてきた。
【S市芸術大学・進学特別推薦申請書】
添えられたメッセージが続いた。
【高梨さん、これはまたとないチャンスだ。あちらへ行けば、業界トップクラスの現場でイラストの技術を磨くことができる。締め切りは1週間後だ。よく考えてみなさい】
ファイルを開き、画面を一番下までスクロールする。私の視線は、署名欄の空白に釘付けになったまま、長いあいだ動かなかった。
第2話
北斗は卒業制作展に向けて、昼夜を問わずアトリエにこもりきりで作業を続けていた。
私は新しく買った輸入物の絵の具を手に、彫刻科のアトリエの前までやって来た。
ドアノブに手をかけた瞬間、ふと動きを止めた。
廊下のガラス窓越しに、室内に二つの人影が見えた。
作りかけの粘土彫刻の前に立つ北斗と、そのすぐ隣にぴったりと寄り添う朋美の姿だった。
アトリエの中は冷房が強烈に効いているようだった。
朋美は黒いマウンテンパーカーを羽織っている。
それは北斗が一番気に入っている上着だった。普段なら他人が少し触れただけで露骨に嫌な顔をするくせに、それが今、朋美の肩に掛けられている。
北斗はうつむき加減で、この上なく優しい眼差しを向けていた。
彼が握る彫刻刀が、少しずつ胸像の輪郭を整えていく。
その彫像の目鼻立ちは、もともと私をモデルにして作られたものだった。
私が丸2日間もモデルを務め、彼が丹念に彫り上げたものだ。
すると朋美が顔を寄せ、彫像の目元を指差した。
「ここ、もう少し柔らかい感じにした方が素敵になると思うな。北斗はどう思う?」
北斗は笑みを浮かべて頷いた。
彫刻刀が彼女の言葉通りに動き、元のシャープな輪郭を削り落としていく。
まるで見知らぬ別物へと変わってしまった彫像を見つめながら、私は大学1年の頃を思い出した。
あれは土砂降りの雨の日だった。
私が焼き栗を食べたいとこぼした。北斗は二つ返事で雨の中へと飛び出していった。
戻ってきた時、彼の全身はずぶ濡れだった。ただその腕の中にだけは、あの紙袋入りの焼き栗を濡らすまいとしっかりと抱きかかえていた。
彼はまだ温かい焼き栗を私の手に押し付け、「お前は俺のたった一人のミューズだ」と言ってくれた。
それなのに、今はどうだろう。
彼はそのミューズの座を、いともあっさりと他の女に譲り渡してしまった。
私は胸の奥に込み上げるツンとした痛みをぐっと飲み込み、ドアを押し開けて足を踏み入れた。
ドアが開く音がアトリエに響いた。
振り返った北斗は、相手が私だとわかると即座に眉根を寄せた。
彼は無意識のうちに横へ一歩ずれ、朋美を庇うように背後に半ば隠した。
「何しに来たんだよ」
私は手元の絵の具を机の上に置いた。
視線は、朋美が羽織っているその上着に真っ直ぐ注がれていた。
「絵の具を届けに来たの。その上着、脱いで」
朋美はおろおろした様子で上着の裾をきゅっと握りしめ、瞬く間に目元を赤く染めた。
「ごめんなさい、紬希。この服があなたにとってそんなに大事なものだなんて知らなくて……すぐに脱ぐから」
彼女がファスナーを下ろそうとした瞬間、北斗がその手をガシッと押さえ込んだ。
彼は私を睨みつけ、ありありと苛立ちを顔に浮かべた。
「アトリエが冷えてるから、ちょっと貸してやったくらいで何なんだよ?こっちは何日も徹夜で卒業制作を進めてるんだ。いい加減、つまらないことで噛みつくのやめてくれないか?」
北斗の声は、静まり返ったアトリエの中でひどく耳障りに響いた。
私は目頭を熱くしながら、爪が食い込むほどぎゅっと両手を握りしめた。
「北斗。私たちの関係を公表しないなら、もう別れるわ」
この言葉は、ずっと前から胸の奥に抑え込んでいたものだった。
今日、ついにそれを口にした。
それを聞いた北斗は、ふんと冷笑した。
両手をポケットに突っ込み、見下すような視線を私に投げかける。
「お前、どうしても騒ぎを起こしたいらしいな。普段甘やかしてやってるのをいいことに、別れを盾にして俺を脅すなよ」
彼は、私が自分から離れられないと高を括っているのだ。
「好きにしろよ。後になって泣いて謝って、よりを戻してくれって縋りついてきても知らないからな」
朋美が横から彼の袖をそっと引き、おずおずと口を開いた。
「北斗、紬希を怒らせないで。全部私が悪いの……」
北斗は彼女の手の甲をポンポンと軽く叩いた。
「お前のせいじゃない。こいつは今まで何不自由なくやってきたせいで、わがままになってるだけだ」
私はそのまま北斗を数秒間じっと見つめ返し、静かに背を向けた。
一歩、また一歩と、アトリエを出ていく。
アパートに戻ると、私はデスクの前に腰を下ろした。
パソコンを立ち上げ、プリンターに接続する。
ジーッという機械音とともに、プリントされた数枚の申請用紙が吐き出された。
それはS市芸術大学の進学特別推薦申請書だ。
私はペンを取った。なんの躊躇いもなく、最終ページの署名欄にペンを走らせた。
高梨紬希、と。
第3話
卒業の祝いを兼ねたクラスの打ち上げは、大学の裏通りにある一番大きなレストランで開かれた。
私が個室のドアを押し開けて中に入ると、室内はすでに学生たちで埋まっていた。
メインテーブルの真ん中には、二つ並んだ空席が残されている。
ある男子がみんなにグラスを配りながら声を張り上げていた。
「おい、そこはまだ座るなよ。ど真ん中の特等席は北斗とマドンナのために空けとくんだからな!」
ちょうどその時、北斗と朋美が前後に並んで個室に入ってきた。
その瞬間、室内はドッと沸き返り、からかい交じりの歓声が響いた。
「お似合いカップルの登場だ!」
「ほんと美男美女のおでましだな!」
北斗はそれを否定しようともしなかった。
彼は笑みを浮かべたまま歩み寄り、椅子の一つを引いて朋美を座らせる。そして、ごく自然な動作で彼女の隣に腰を下ろした。
彼の本物の恋人である私は、すっかり忘れ去られていた。
私はメインテーブルから一番離れた隅の席にひっそりと座った。この茶番劇を冷めた目で見つめるしかなかった。
酒が進むにつれ、場の空気は最高潮に達した。
誰かが空の酒瓶を回して、「真実か挑戦か」をやろうと言い出した。
テーブルの中央で酒瓶が勢いよく回される。
そして、ぴたりと朋美の正面で止まった。
朋美は頬を赤らめて立ち上がった。「私、挑戦にするわ」
提案した男子が、すかさず椅子の上に立ち上がって叫んだ。
「なら、朋美からうちの看板イケメン・北斗に、10秒間の本気ハグだ!」
場内から割れんばかりの歓声と指笛が鳴り響いた。
朋美は両手で顔を覆い隠すようにしながらも、期待に満ちた上目遣いで北斗を見つめている。
北斗は手にしたライターを、指先でくるくると弄んでいた。
ふと、その動きが止まる。
人だかり越しに、彼の視線が隅にいる私へと向けられた。
私は無表情のまま彼を見つめ返した。
北斗の目の奥に、ありありと苛立ちの色が走った。彼は視線を逸らすと、迷いなく立ち上がった。
その口元には薄く笑みが浮かんでいる。
朋美の前まで歩み寄り、自ら両手を広げて彼女の華奢な体をぎゅっと腕の中に抱きしめた。
皆が手拍子に合わせてカウントダウンを数え上げる。朋美はうっとりと北斗の胸元に顔を埋めていた。
10秒が過ぎ、北斗がそっと腕をほどくと、朋美は頬を朱に染めて恥じらうように甘く微笑んだ。
私の胃の腑から、吐き気を催すほどの強烈な嫌悪感が込み上げてきた。
頭の中に、大学1年の時の記憶が制御不能なほどフラッシュバックする。
北斗が初めて私を大学裏の小さな居酒屋に連れて行ってくれた日のことだ。
あの時、彼は私の手をぎゅっと包み込み、その瞳をきらきらと輝かせていた。
「紬希、俺たちの婚約の日が待ち遠しいよ。その時は、誰にも隠さないで、みんなの前で堂々と抱き合おう」
あの時の甘い言葉の数々が、今は鋭い平手打ちとなって私の頬を容赦なく張り飛ばした。
私は席を立ち、個室を出てトイレへと向かった。
廊下の角を曲がったところで、朋美の声が耳に飛び込んできた。
彼女は数人の女子と一緒に、換気扇の下でタバコを吹かしていた。
「ねえ朋美、北斗の背中にある『T』って、本当にあんたのイニシャルなの?」
朋美の口調には、隠しきれない優越感が滲んでいた。
「当たり前じゃない。3年の時、私が酔っ払った勢いで彼の背中にタトゥーペンで適当に『T』って書いて、これが私のものだっていう印よって言ったの。そしたら彼、次の日には本当にタトゥーを入れてきちゃったのよ」
ちょうどその時、トイレの方向から歩いてくる人影があった。
北斗だった。
女子たちは慌てて口を噤んだ。
北斗は朋美の前に歩み寄ると、否定するどころか、甘やかすように彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「調子に乗るなよ。あちこちで言いふらすなって」
そう言うと、彼は笑いながら個室の方へと戻っていった。
私は影の中に立ち尽くし、彼の背中が廊下の突き当たりに消えていくのを見送った。
胸を締め付けていたあの息苦しい痛みは、もう完全に消え去っていた。後に残ったのは、果てしなく広がる虚無感だけだった。
私はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。
北斗のいる大学のグループチャットを、一つ一つタップして退会していった。
それから彼のアイコンを開き、ピン留めしてあった【大好きな北斗】と登録していた愛称を削除し、フルネームを入力し直した。
【九条北斗】
レストランを出て帰路につく頃には、夜風がひどく冷たくなっていた。
ポケットの中でスマホが震えた。
指導教官からメッセージが届いていた。
【高梨さん、S市芸術大学の進学特別推薦枠が正式に承認されたよ。向こうの大学が急いでいてね、明日の夜には出発して手続きを済ませる必要がある】
私は足を止め、夜空を見上げた。そして画面の上で指先を素早く滑らせる。
【分かりました。ありがとうございます、先生。私がS市へ行くことは、どうか絶対に秘密にしてください】
スマホの画面を消した。
薄暗い街灯の光の下を、私は再び前を向いて歩き出した。
第4話
卒業式当日、大学の大講堂は立錐の余地もないほど人で埋め尽くされていた。
この日は、北斗にとって最も晴れがましい1日だった。
彼は卒業生代表として、パリッとしたスーツに身を包んで壇上に立っている。まばゆいスポットライトが彼を照らし出していた。
だが、彼の視線が客席にいる私を探すことはなかった。代わりに、彼は最前列の中央席を、熱を帯びた眼差しで見つめていた。
そこには、朋美が座っていた。
北斗はマイクに向かい、低く穏やかな声で語りかけた。
「この4年間、一番感謝を伝えたいのは――いつも陰で支えてくれた、大切な人です」
会場は一気に沸き返った。無数の視線が、一斉に朋美へと注がれる。
朋美は両手で顔を覆い、目元を潤ませながら、周囲からの羨望の眼差しをたっぷりと浴びていた。
一方、大講堂の最後列の隅――本来なら私が座っているはずの席は、ぽっかりと空いたままだった。
私は大講堂には行かなかった。一人きりのアパートで、部屋の片付けを淡々と進めていた。
特大の黒いゴミ袋を引っ張り出して口を広げる。引き出しを開け、中に入っているものを次々と取り出していった。
1年間愛用したお揃いのマグカップ。躊躇なく袋の中に放り込んだ。
続いて、バレンタインに彼がくれたシルバーのネックレス。チェーンを引きちぎり、ゴミ袋へ投げ捨てた。
最後に、鍵をかけていた金属製の缶箱の中から、赤いベルベットの小さな箱を取り出した。
蓋を開ける。中には、シンプルなペアリングが静かに収まっていた。
大学2年の時、二人で毎日カップラーメンをすすり、生活費を極限まで切り詰めてようやく買ったペアリングだ。
私はその指輪を指でつまみ上げ、数秒見つめた。
そして、ぱっと指を離し、ゴミ袋の底深くへと転がり落とした。
部屋の中から、私という存在の痕跡が少しずつ、完全に消し去られていく。
洗面用具、衣服、画材。持っていかないものは、すべて捨てた。
テーブルの上で、スマホが震えた。北斗からのメッセージだった。
【夜の打ち上げには行かないことにしたよ。早めに帰って、二人だけで卒業のお祝いをしよう。だから、もう怒らないでくれ】
私は画面をじっと見つめ、文字を打ち込んだ。
珍しく、たった一言だけ返信する。
【わかった】
メッセージを送信すると、私はスマホからSIMカードを抜き取り、真っ二つにへし折ってゴミ箱に捨てた。
唯一持ち出す黒いスーツケースの持ち手を引き上げ、振り返って2年間暮らしたこのアパートのドアを静かに閉めた。
私は、S市へ向かう列車に乗り込んだ。
発車ベルが鳴り響き、列車が重々しい音を立てて動き出す。
車窓の風景が、飛ぶように後ろへと流れ去っていった。
深夜11時半。北斗はアパートのドアを押し開けた。
「紬希、帰ったよ。お前が一番好きなチョコケーキ、買ってきたぞ」
だが次の瞬間、彼の顔に浮かんでいた笑みが完全に凍りついた。
部屋の電気はついていない。不気味なほどの静寂が広がっていた。窓の外から差し込む街灯の微かな光だけが、室内を照らしている。
北斗は壁のスイッチを押した。
明るくなった部屋はがらんとしており、まるで生気がなかった。
靴箱の靴は半分に減っている。洗面所からは、私の分のうがい用コップと歯ブラシが消えていた。ベランダに干されていたはずの私の服も、もう影も形もない。
私が存在していた痕跡はすべて、綺麗さっぱり片付けられていた。
部屋の空気からも、私がいつも使っていたシャンプーの香りがとうに消え失せている。
北斗の手から、ケーキの箱が床に滑り落ちた。
彼は半狂乱になってダイニングテーブルへと駆け寄った。
テーブルの上にあったのは、一本の錆びついた合鍵とバラバラに切り刻まれた写真の破片だけ。
それは、私たちが撮った唯一のツーショット写真だった。
だがそれはハサミでズタズタに切り刻まれ、無数の紙片となってテーブル一面に撒き散らされていた。
北斗の顔から、血の気がさっと引いていった。
彼は震える手で、慌ててポケットからスマホを引っ張り出した。私の電話番号に発信した。
しかし、耳元のスピーカーから聞こえてきたのは、冷ややかな自動音声だけだった。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」