死んだはずの夫に、もう愛はなかった

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実家が破産し、その巻き添えで夫の神谷直人(かみや なおと)は借金取りに川へ沈められ、命を落とした。 借金を返すため、私・水野千紗(みずの ちさ)は闇カジノで殴られ役として働いた。 一発殴られるたびに、もらえるのは1000円。 そんなある日、VIPルームへ酒を運ぶよう命じられた。 わずかに開いたドアの向こうには、死んだはずの直人が上座に座り、高級ワインをゆっくりと傾けていた。 「千紗とはもう3年以上会ってないな。今頃、どうしてるんだろう」 破産したはずの母は、きらびやかな宝飾品を身につけたまま、ため息をつく。 「どうせどこかに身を隠して、何年か泣いて暮らしてるだけよ。そのうち立ち直って、別の人と再婚するでしょ。 とにかく、あなたが死んだとあの子が信じてさえいれば、結衣と安心して暮らせるんだから」 大野結衣(おおの ゆい)は、母と昔の恋人との間に生まれた娘だ。 部屋を見渡せば、そこにいるのは見覚えのある顔ばかりだった。 かつて親友だと思っていた人たち。 そして、直人を死に追いやったはずの「仇」まで、そこにいた。 何もかも、最初から仕組まれていたのだ。 芝居ではなかったのは、地獄のような私の3年間だけだった。 私は20本のビールを載せたトレーを手に、静かに笑い、首を振った。 あと1万円。 骨壺を買う金さえ貯まれば、もうみんな自由だ。

Chapters (1)

第1章

実家が破産し、その巻き添えで夫の神谷直人(かみや なおと)は借金取りに川へ沈められ、命を落とした。 借金を返すため、私・水野千紗(みずの ちさ)は闇カジノで殴られ役として働いた。 一発殴られるたびに、もらえるのは1000円。 そんなある日、VIPルームへ酒を運ぶよう命じられた。 わずかに開いたドアの向こうには、死んだはずの直人が上座に座り、高級ワインをゆっくりと傾けていた。 「千紗とはもう3年以上会ってないな。今頃、どうしてるんだろう」 破産したはずの母は、きらびやかな宝飾品を身につけたまま、ため息をつく。 「どうせどこかに身を隠して、何年か泣いて暮らしてるだけよ。そのうち立ち直って、別の人と再婚するでしょ。 とにかく、あなたが死んだとあの子が信じてさえいれば、結衣と安心して暮らせるんだから」 大野結衣(おおの ゆい)は、母と昔の恋人との間に生まれた娘だ。 部屋を見渡せば、そこにいるのは見覚えのある顔ばかりだった。 かつて親友だと思っていた人たち。 そして、直人を死に追いやったはずの「仇」まで、そこにいた。 何もかも、最初から仕組まれていたのだ。 芝居ではなかったのは、地獄のような私の3年間だけだった。 私は20本のビールを載せたトレーを手に、静かに笑い、首を振った。 あと1万円。 骨壺を買う金さえ貯まれば、もうみんな自由だ。 第1話 いつものように帽子を目深にかぶり、ビールを1ダース、テーブルに置いた。 次の瞬間、冷たい手に手首をつかまれた。 「千紗?」 水を打ったように静まり返った個室で、全員の視線が私に集まった。 反射的にさらに顔を伏せた、そのとき。 帽子を乱暴に取り払われた。 隠していた顔が、あらわになった。 「本当に千紗なのか?なんでこんなところで働いてる?」 直人の視線が痛いほど突き刺さった。 直人の顔を最後に見たのは、3年前だった。 川の中でもがき、必死に水面へ顔を出そうとしていた直人の姿がよみがえる。 借金取りの手からようやく逃れ、私が川へ飛び込んだときには、直人はもう息をしていなかった。 死んだのだと思っていた。 だから毎月どうにか6000円を捻出しては、霊園へ墓参りに通っていた。 それなのに今、直人は何事もなかったかのように目の前にいる。 不思議なくらい、胸の内は静かだった。 私は黙ったままビールを注いだ。 すると母が、いきなり私の腕を引き寄せた。 「何年も家に帰ってこないと思ったら、こんなところで働いてたの?電話の一本くらいできなかったの?」 今でも覚えている。 床に押さえつけられ、殴られていたあの日。 真っ先に母へ電話をかけた。 けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、楽しげなバースデーソングだった。 「結衣、お誕生日おめでとう!」 あの日は、私の誕生日でもあった。 3年。 誰一人、私を捜そうとはしなかった。 私は何も答えず、丁寧に頭を下げてから手を差し出した。 「お客様、ビール代は600円です。お支払いはどうなさいますか?」 直人が固まった。 まるで見知らぬ人を見るような目で、私を見つめている。 無理もない。 3年前までの私は結衣と同じように、高価な服を着て、金の心配など一度もしたことがなかった。 直人が強く私の手首をつかんだ。 眉間に深いしわが刻まれた。 「千紗、この3年で何があった?なんでこんな生活してるんだよ」 何をもって「こんな生活」と言うのか、私にはわからなかった。 ただ、生きるには金が必要だった。 治療費を稼ぎ、いつか帰るための旅費も貯める。 それに毎月、直人の墓参りへ行く金も必要だった。 でも、もうその分はいらない。 これからは全部、自分の薬代に回せる。 少しでもいい薬が買える。 直人はしばらく私を見つめ、やがて手の力を緩めた。 「……お前、俺と結衣のこと、とっくに知ってたんだろ?隠してたのは、お前を傷つけたくなかったからだ。今年中には、ちゃんと話すつもりだった」 母も続けて口を開く。 「二人は本当に愛し合ってるの。仕方がなかったのよ。あなたは思い詰めると何をするかわからないから、取り返しのつかないことになったらって、みんな心配してたの」 直人は結衣の手をしっかり握っていた。 まるで長年寄り添ってきた恋人同士のように。 周りの人たちまで、厄介者を見るような目を私に向けている。 そのとき突然、鼻の奥が熱くなった。 次の瞬間、温かいものがつうっと流れ落ちる。 結衣が甲高い声を上げた。 「お姉ちゃん、鼻血!」 第2話 私は何でもないように鼻の下を拭った。 顔から血の気が引いているのが、自分でもわかった。 それでも小さく笑い、首を振る。 2年前。 闇カジノで立て続けに殴られ、私はとうとう意識を失った。 倒れていた私を蹴り起こしたオーナーは、こともなげに言った。 「医者が言ってたぞ。お前、がんだってな。もう治らないらしい。死ぬ前にせいぜい客の相手でもして、少しは稼いでくれよ」 その後、私はオーナーのベッドに送り込まれた。 妊娠すれば、流産するまで殴られる。 そうして稼いだ金で、痛み止めを買った。 最後に残った金は、たぶん骨壺を買うために消える。 鼻血を急いで拭い、汚れていないほうの手を差し出した。 いつもの作り笑いを浮かべた。 「600円です。お支払いはどうされますか?」 直人は、ぼろぼろになった私をじっと見つめていた。 握りしめた拳に、さらに力がこもる。 「お前、いったい……」 「まだ私たちのこと、怒ってるんだと思う」 結衣が申し訳なさそうに口を挟んだ。 そして600円を支払うと、私の手を取った。 「お姉ちゃん、もう家に帰ろうよ。お金なら家にいくらでもあるんだから」 口元には愛らしい笑みを浮かべながら、指先で私の手を強くつねった。 思わず、その手を振り払った。 すると直人が、すかさず結衣の前に立った。 「何かあるなら俺に言え。結衣には手を出すな」 母も、かつて友人だった人たちも、警戒するような目で私を見ている。 まるで、私だけが何をするかわからない危険人物みたいだった。 一瞬だけ呆然としたあと、私はそのまま個室を出た。 背後から、直人の怒鳴り声が飛んでくる。 「本当に帰らないつもりか?だったらもう二度と帰ってくるな!」 振り返らなかった。 医師から告げられた余命は、あと1週間。 どこにいようと、同じことだ。 翌日も、いつもどおり店へ向かった。 だが入り口で、支配人に呼び止められた。 「明日から来なくていい。神谷さんが違約金を払った。お前を雇うなってさ」 支配人は煙草の煙を吐き出しながら、面倒そうに私を見た。 「何やったんだよ。神谷さん、お前のこと相当嫌ってるみたいだぞ。もう適当にどっかで死ぬ場所でも探したら?」 私は必死に支配人の服をつかんだ。 必死のあまり、声が裏返った。 「クビにしないでください。まだ骨壺を買うお金を稼がなきゃいけないんです。どうしても辞めさせるなら、せめて今まで働いた分の給料を払ってください!」 次の瞬間、腹を強く蹴られた。 「酒運ぶ仕事がそんなに好きか?死ぬなら勝手にどっかで死ね!」 そう吐き捨てられ、私は店の外へ放り出された。 ふらつく足で、地下にある安アパートへ戻った。 ところが部屋の前まで来ると、私の荷物が廊下にめちゃくちゃに放り出されていた。 大家が入り口を塞ぎ、汚いものでも見るような顔で私を睨む。 「さっさと出てってくれ!これ以上、厄介事を持ち込まれちゃ困るんだよ!」 痩せ細った手の中には、残りわずかな薬だけがあった。 私みたいな人間が、いったい誰にどんな迷惑をかけるというのだろう。 顔を上げる。 街頭の大型ビジョンには、直人と結衣の結婚式を告知する映像が映し出されていた。 通りすがりの人たちが、興奮した声を上げている。 「神谷さん、婚約者のために6億円もするウェディングドレスを用意したんだって。すごくない?」 「結婚式も楽しみ。総額60億円らしいよ。もう別世界だよね。結衣さん、幸せだなあ」 …… 私はポケットの中を探った。 残っていたのは、726円。 これでは、一番安い痛み止めさえ買えない。 そのとき、スマホに葬祭用品店から催促のメッセージが届いた。 【骨壺ひとつ買うのに、いつまで支払いを引き延ばすつもりですか。残金を早くお支払いください】 未払い額――1万600円。 病気の痛みには、ずっと涙ひとつ見せずに耐えてきた。 なのに、大型ビジョンに映し出される華やかな結婚式の映像を見ていると、急に涙が止まらなくなった。 震える手で、直人に電話をかける。 「どうして……私を店からも、部屋からも追い出したの?」 ところが電話の向こうから聞こえてきたのは、物が激しく壊れる音だった。 直人は取り乱したように怒鳴った。 「俺に言えって言っただろ!わざと惨めなふりをして、結衣を不倫相手みたいに叩かせて……それで満足か?」 第3話 「俺が何をしたっていうんだ。どうしてここまで俺を苦しめる?結衣が元に戻るまで、お前には一円も稼がせないからな!」 結衣を陥れたつもりなんてない。 そう説明しようとした、そのときだった。 目の前に黒いワゴン車が横づけされた。 闇カジノの男たちが、金属バットを手にこちらへ迫ってくる。 「稼げねえくせに、余計な面倒ばっか起こしやがって」 「酒運ぶだけの仕事すらクビになるなんて、お前また殴られて客の相手する仕事に戻りたいのか?カジノとの契約違反で600万円だ。さっさと用意しろ」 血の気が引いた。 「本当に……お金なんてありません……」 返ってきたのは、容赦のない暴力だった。 拳やバットが身体に叩き込まれる痛みには、もう慣れている。 それなのに。 どうして今日は、こんなにも痛いのだろう。 次に目を開けたとき、私はずっと帰りたいと願っていた家にいた。 豪華でありながら、どこか懐かしい室内だった。 視界に、母の優しげな顔が映る。 思わず手を伸ばした。 触れようとした、その瞬間。 頬に激しい衝撃が走った。 「私を怒らせて、殺す気? 直人さんが本当に愛してるのは結衣なのよ。それなのに、どうしてネットであの子を不倫相手みたいに言いふらしたりしたの! あなたを家に連れ戻そうと思ってたけど、もうその必要もなさそうね!」 スマホにニュースの通知が届く。 【神谷ホールディングス後継者の婚約者に略奪疑惑妻は家を追われ、困窮生活か】 違う。 そう言おうとした。 だがその前に、直人が手にしていたお茶を私の顔へ浴びせた。 見下ろしてくる顔は険しく、ひどく冷たい。 よく知っているはずの人なのに、恐ろしいほど見知らぬ人に思えた。 「その傷、全部メイクなんだろ?そこまでして、結衣を追い詰めたいのか?どうすれば、あいつを放っておいてくれる?」 その瞬間。 胸の奥で、何かがぷつんと切れた。 死ぬことなんて、もうそれほど怖くないのかもしれない。 天井を見上げ、力なく笑った。 「601万600円。それだけもらえれば、もう二度とあなたたちの前には現れない」 部屋が、しんと静まり返った。 直人が勢いよく目の前まで来る。 襟元をつかまれ、無理やり身体を起こされた。 暗く険しい目で、私を睨みつけた。 「……今、なんて言った?」 直人は長いあいだ呆然としていた。 まるで初めて私を見るような顔だった。 「お姉ちゃん」 張りつめた空気を破ったのは、結衣だった。 私の前まで走ってくると、その場に膝をつく。 「私が略奪したって言われるのは、別にいいの。でももうすぐ結婚式なの。直人のことも、自分のプライドも少しは考えてよ」 プライド? そんなもの、私にはもうとっくに残っていない。 この3年間。 年上の男たちに身体を差し出し、金を恵んでもらわなければ、食事すらできなかった。 今さら世間体なんて気にしていられない。 ただ死ぬ前に借金を全部返して。 せめて自分のために、ちゃんとした骨壺を用意したい。 それだけなのに。そんなに贅沢な願いなのだろうか。 口の中に、鉄の味が広がっていた。 それでも私は、歪んだ笑みを浮かべた。 結衣が一瞬、固まった。 次の瞬間、近くにあったナイフを手に取ると、自分の頬へ刃先を向けた。 「今ここで、自分の顔を傷つける。それから記者会見で、私が略奪したって認めるから。そうすれば、お姉ちゃんも納得するんでしょ?」 刃先が白い頬に触れかける。 直人はすぐに駆け寄り、ナイフを奪い取った。 「結衣、悪いのはお前じゃない」 母も慌てて結衣のそばへ駆け寄る。 「そんなことしないで。あなたまで傷ついたら、お母さん、生きていけないわ」 私は壁に手をついたまま、少し離れた場所からその光景を見ていた。 まるで、この部屋でいちばん悪い人間が私であるかのように。 騒ぎは10分以上も続き、ようやく収まった。 直人は心底失望したような目を私に向けた。 そして突き放すような声で言った。 「配信で結衣のことをきちんと説明しろ。お前のほうが俺たちの間に割り込んだって認めるなら、欲しい金は渡す」 第4話 配信が始まった途端、コメント欄は私をかばう声で埋め尽くされた。 誰もが結衣を、妻のいる男を奪った女だと責め立てていた。 それを見た直人の目から、わずかに残っていた私への同情すら消えた。 やがて直人は一枚の紙を差し出し、そこに書かれたとおりに読めと言った。 【皆さん、申し訳ありません。直人と付き合っていたのは結衣のほうで、私があとから二人の間に割り込んだんです。かわいそうなふりをして同情を集め、結衣の居場所を奪おうとしました】 結衣が、いかにも私を気遣うように口を挟んだ。 「無理なら、言わなくてもいいよ。私が全部引き受けるから」 私は口元だけで笑い、結衣を押しのけた。 そして大勢が見守るなか、紙に書かれた文章を一字一句、そのまま読み上げた。 さらに床に膝をつき、何度も額を床に打ちつけた。 「私が二人の間に割り込んだんです……申し訳ありません」 コメント欄の空気は、一瞬でひっくり返った。 【あれだけ味方してやったのに、最低すぎる】 【人の男を奪っておいて、よく平然としていられるね】 【妹さんがかわいそう。こっちの善意まで踏みにじられた気分】 …… 私はひたすら頭を下げ続けた。 何度、謝ったのかわからない。 やがて額が切れ、床に血が滴り始めた。 「もういい!」 直人の顔色が変わった。 なぜか、先ほどよりも苛立っているように見えた。 配信が切られる。 私は足を引きずりながら直人の前まで行き、手を差し出した。 「お金」 数秒、誰も何も言わなかった。 「金、金って……俺がお前に金で苦労させたことなんかあったか?いつからそんなに金に汚くなったんだよ!」 直人は目を真っ赤にし、珍しく感情をむき出しにして怒鳴った。 その言葉が、針のように傷だらけの胸へ突き刺さる。 込み上げてきた血の味を無理やり飲み込み、かすれた声で尋ねた。 「もし……私がもうすぐ死ぬとしたら?」 「なんでそうやって、すぐ死ぬなんて言うんだよ!」 直人の目がさらに赤くなる。 腕をつかむ手に力が入り、骨まで砕けそうだった。 「本当に死んだとしても、その金は全部、お前の葬式に使ってやる。俺は涙の一滴も流さない」 「……そっか」 私はゆっくり手の力を抜いた。 胸の奥で張りつめていたものも、それと一緒にほどけていった。 もうすぐ死ぬのなら。 誰かに泣いてもらう必要なんて、どこにもない。 背を向けると、直人の怒鳴り声が追いかけてきた。 「そんなに金が欲しいなら、自分を売ってでも稼げばいいだろ!」 振り返らなかった。 誰にも聞こえない声で、小さく呟く。 「この3年間……ずっとそうして生きてきたよ」 スマホには、借金の催促が次々と届いていた。 残された数日くらい、せめて静かに過ごしたい。 そう思い、ポケットの奥から金縁の名刺を取り出した。 先週のことだ。 黒いポルシェが私の前で止まり、運転席の窓がゆっくり下がった。 運転席の男は、私を見るなり言った。 「金が必要なら、このホテルの部屋に来い」 名刺に記された住所を頼りにホテルへ向かい、部屋のドアをノックした。 扉が開く。 私はいつものように笑みを作った。 「……何か、ご希望はありますか?」 その頃、直人はスマホで私の位置情報を調べていた。 表示されたのは、世界に名の知れた高級ホテルだった。 眉をひそめると、すぐさま車を走らせた。 やがて部屋の前までたどり着いた直人は、苛立ちを隠しきれない声で怒鳴った。 「千紗!やっぱり何ともないんじゃないか!こんな高級ホテルに泊まる金まであるくせに、何に困ってるんだよ!」 だが次の瞬間。 部屋のドアが開いた途端、直人は目を見開いた。