あなたの特別を、私はもう待たない

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私・篠原涼乃(しのはら すずの)は、社長の桐生宗佑(きりゅう そうすけ)との社内恋愛を、5年間ずっと隠し続けている。 平日の朝は、通勤途中に彼の車に乗せてもらうのがいつもの流れだったのだが、ただし会社に関係を知られないよう、降ろしてもらうのは会社から5キロほど離れた駅。しかし、その日はいつもの場所に近づいたところで、私は弱々しく声を上げた。 「今日、生理でお腹がすごく痛くて……そのまま会社の地下駐車場まで行ってくれない?」 宗佑は顔をこちらへ向け、血の気のない私の顔をじっと見たが、それでも、返事に迷いはない。 「この時間、会社の地下駐車場は人が多い」 結局、私はいつもの駅で車を降りるしかなかった。 それから20分後、腹部を押さえながら、冷や汗をかきながらようやく会社までたどり着いた私の目に飛び込んできたのは、宗佑の車から降りてくる新人の女性インターン・成海夕夏(なるみ ゆうか)の姿だった。 彼女は頬を赤らめ、車内へ向かって頭を下げる。「桐生社長、会社まで送ってくださってありがとうございました。それに、わざわざ遠回りして生理痛の薬まで買っていただいて……」 自分の席に戻ると、私は無心で鎮痛剤を1錠飲み込み、そのまま宗佑にラインを送った。 【別れよう】

Chapters (1)

第1章

私・篠原涼乃(しのはら すずの)は、社長の桐生宗佑(きりゅう そうすけ)との社内恋愛を、5年間ずっと隠し続けている。 平日の朝は、通勤途中に彼の車に乗せてもらうのがいつもの流れだったのだが、ただし会社に関係を知られないよう、降ろしてもらうのは会社から5キロほど離れた駅。しかし、その日はいつもの場所に近づいたところで、私は弱々しく声を上げた。 「今日、生理でお腹がすごく痛くて……そのまま会社の地下駐車場まで行ってくれない?」 宗佑は顔をこちらへ向け、血の気のない私の顔をじっと見たが、それでも、返事に迷いはない。 「この時間、会社の地下駐車場は人が多い」 結局、私はいつもの駅で車を降りるしかなかった。 それから20分後、腹部を押さえながら、冷や汗をかきながらようやく会社までたどり着いた私の目に飛び込んできたのは、宗佑の車から降りてくる新人の女性インターン・成海夕夏(なるみ ゆうか)の姿だった。 彼女は頬を赤らめ、車内へ向かって頭を下げる。「桐生社長、会社まで送ってくださってありがとうございました。それに、わざわざ遠回りして生理痛の薬まで買っていただいて……」 自分の席に戻ると、私は無心で鎮痛剤を1錠飲み込み、そのまま宗佑にラインを送った。 【別れよう】 第 1 話 すぐに既読がついたが、宗佑からの返信はなかった。 10分後、部署合同のミーティングが始まり、宗佑も会議室に姿を現した。 一瞬だけ目が合ったものの、その表情には何の変化もない。 まるで私から届いた別れのメッセージなど、何とも思っていないかのようだった。 各自の報告が終わると、宗佑は資料を1部手に取り、眉を寄せた。「このプロジェクト、誰が担当した?」 私は椅子を引いて立ち上がった。「私です」 彼が資料をテーブルの上に放り投げる。 「篠原課長、君のチームが作成した資料をもう一度よく確認した方がいい。 顧客の成約見込みの欄に、初歩的な数値ミスがある」 彼から向けられる視線は冷たく、一切の容赦がなかった。 「こんな仕事をさせるために、会社は君に高い給料を払ってるわけじゃないんだから」 会議室は一瞬で静まり返り、誰もが息を潜めた。 よりによって、そのタイミングで下腹部がまた激しく痛み始め、額には次々と冷や汗が滲んでくる。 隣にいた部下の吉岡佳奈(よしおか かな)がそれに気づき、立ち上がろうとしたので、私は先にその肩を軽く押さえた。 宗佑は目を伏せ、そのやり取りを黙って見ていた。 私は俯いたまま、平静を装って答える。「申し訳ありません。私の確認不足ですので、会社の処分には従います」 場が数秒間、沈黙に包まれた。 宗佑は顔を上げて私を見つめ、淡々と口を開く。 「篠原課長は今回の業務上のミスにより、今年度の評価を減点し、賞与は全額カットする」 私は何も言わずに座った。 胸の奥には、じわじわと痛みが広がっていく。 続いて、次の部署の報告に移った。 報告者は、新しく入社した夕夏。 今朝、宗佑の車から降りてきたあの女性だった。 夕夏の報告を聞き終えると、宗佑はすぐにいくつかのミスを指摘した。 先ほどの私への処分を見ていたせいか、夕夏はたちまち顔を青ざめさせる。 「も、申し訳ありません、社長。すぐに修正します」 宗佑は資料から顔を上げ、わずかに眉を上げた。 「俺がそんなに怖いか?」 夕夏は反射的にこくりと頷いた。 けれど、すぐに気づいたらしく、今度は慌ててぶんぶんと首を横に振る。 その様子を見た宗佑は拳を口元に当て、顔を背けた。 そして、堪えきれなかったように小さく笑う。 その瞬間、いつも冷たい宗佑の表情がふっと和らいだ。 夕夏は耳まで赤くし、呆然と見つめている。 宗佑は立ち上がり、スラックスのポケットに手を入れ、穏やかに言った。「次からは気をつけるように」 それから全員を見渡す。「ミーティングは以上」 宗佑が会議室を出ていった途端、室内は一気に騒がしくなった。 同僚たちは自然と2つのグループに分かれた。 ひとつは、夕夏を取り囲んで冷やかす人たち。 「成海さん、今の社長、完全に特別扱いだったよね!」 そのうちの一人が、面白がるようにこちらをちらりと見た。「同じようなミスなのに、かなり詰められてた人いたよね。それにしても、成海さんにはずいぶん優しい社長じゃん。 将来社長夫人になって出世しても、私たちのこと忘れないでね」 夕夏は頬を染めた。「もう、変なこと言わないでくださいよ」 もう片方は、私を慰めに来た人たち。 その中でも、うちのチームに入ったばかりの佳奈が、申し訳なさそうに私を見た。 「課長、すみません。あの資料を作ったのは私なのに、課長に責任を取らせてしまって…… 私、今すぐ社長に本当のことを話してきます」 私はその手をつかんで引き止め、気にしなくていいとなだめた。 宗佑があれほど重い処分にするとは、誰も予想していなかったのだから。 そのあとトイレに入り、鍵をかけた瞬間、ずっと張り詰めていた身体から一気に力が抜けた。 冷たいドアに背中を預け、そのままずるずると座り込む。 さっき会議室で聞いた同僚たちの言葉と、私と夕夏に対する宗佑のあまりにも違う態度を思い出した途端、涙が溢れた。 口元を手で押さえ、声だけは漏らさないようにする。 大人になると、泣き崩れるときでさえ、誰にも気づかれないようにしなければならないことがあるのだ。 しばらくして気持ちを落ち着かせると、私はスマホを取り出し、宗佑のプライベートのラインを削除した。 人間というのは、不思議なものだと思う。 5年間も関係を隠して付き合ってきたけれど、宗佑が仕事に私情を持ち込まない人間なのは、ずっと前から知っていた。 私自身、仕事でミスをして、みんなの前で厳しく叱られたことも一度や二度ではない。 それでも今回は、どうしても自分を納得させることができなかった。 それは、今朝始まった生理の腹痛のせいかもしれない。 あまりにも痛かった…… だから、大勢の社員が見ている前で夕夏が宗佑の車から降りてくるのを見た瞬間、もう自分に嘘をつけなくなった。 私はこの5年間、宗佑も少しくらいは本気で私を好きでいてくれた……そう信じていただけだったのかもしれない。 その日は仕事が終わっても、私はいつものように同僚が全員帰るのを待って、地下駐車場の宗佑のところへ向かうことはせずに、そのまま近くの地下鉄の駅へと向かった。 改札を通ろうとしたところで、突然腕をつかまれる。 振り返ると、スーツ姿で険しい顔をした宗佑が立っていた。 私が何か言うより先に、強引に連れていかれる。 車に乗せられると、宗佑は身を乗り出して私のシートベルトを締め、それからこちらを見た。 「答えろ。なんで別れるなんて言い出したんだ? 成海さんを会社まで送って、君を送らなかったからか?」 目の奥が熱くなったけれど、私は何も言わなかった。 宗佑が目を閉じる。 これは苛立って、そろそろ我慢の限界にきているときの癖だ。 第 2 話 「涼乃、もう大人なんだから、そんな子どもじみた真似はやめろ。 成海さんは入社したばかりなんだ。多少気にかけるくらい、会社として普通のことだろ」 私は宗佑のほうを向き、赤くなった目で問い返した。 「入ったばかりの社員には気遣えるのに、自分の彼女にはできないの? 今日の会議だってそう。同じようにミスしたのに、どうして私は評価もボーナスも全部カットされて、彼女は何のお咎めもなしなわけ? 宗佑は今まで、本当に私を彼女だと思ってた?」 自分が嫌になった。 本当なら、もっと堂々と責めればいいのに、涙だけが勝手に溢れて止まらない。 車内には、私の押し殺した泣き声とエアコンの風の音だけが響いている。 宗佑は何も言わなかった。 しばらくして、冷えた声が聞こえてくる。 「泣き終わったら、一度落ち着け。 今のままじゃ話し合いにならない」 心が一気に沈んだ。 私は乱暴に涙を拭う。「じゃあ、もう話し合わなくていい」 そう言ってドアを開け、振り返ることなく地下駐車場の出口へ歩き出した。 背後でエンジンがかかる。 涙を拭いながら、私はわざと少しだけ歩調を緩めた。 だが次の瞬間、宗佑の黒いマイバッハは、少しもスピードを落とさずに私の横を通り過ぎていった。 私はその場に立ち尽くす。 ほんの一瞬でも、宗佑が車を降りて追いかけてきてくれるかもしれないと期待した自分が、たまらなく惨めだった。 宗佑は知らない。 私はずっと前から、彼が好きだった。 まだ大学生だった頃、卒業生代表として母校に講演に来た宗佑を見て、一目で惹かれた。 その後、必死に努力して、宗佑のいる会社へ入った。 入社して間もない頃、取引先との会食に同行したことがある。 その時、隣に座っていた取引先の男性が、何度も馴れ馴れしく私の肩に手を置いてきた。 周囲は見て見ぬふりをしていた。 長年付き合いのある取引先を入ったばかりの新人のために怒らせたくない、誰もがそう考えていたのだろう。 けれど宗佑だけは立ち上がり、私の腕をつかんで椅子から立たせた。 「うちの会社で新人に最初に教えているのは、職場でのハラスメントにははっきり嫌だと言え、ということだったよな? 篠原、研修で教わったことをもう忘れたのか?」 言葉こそ厳しかったけれど、宗佑はさりげなく私を自分の後ろへ庇っていた。 その場で取引先との契約を打ち切ると宣言し、帰りは自ら私を家まで送ってくれた。 それからも、仕事でも時折アドバイスをくれるようになった。 同じ会社にいれば、自然と顔を合わせる機会も増えていく。 そのうち何度か、互いに意識しているとしか思えないような空気になることもあった。 そしてある出張先で、酒に酔った勢いもあって一線を越え、曖昧だった関係は決定的に変わった。 翌朝、宗佑は淡々と私に言った。 「涼乃。俺たちの関係を、仕事には持ち込みたくない」 会社は社内恋愛を禁止していない。 それでも、宗佑が何を言いたいのかはわかった。 こうして私たちは、誰にも知られないまま5年間付き合い続けた。 この5年、会議で彼が容赦なく皆を怒鳴りつけることもあった。 それでも会議テーブルの下では、そっと私の手を握り、親指で軽く撫でてくれることがあった。 会社の飲み会では、表向きはよそよそしいくらい他人行儀なのに、誰も見ていない場所では不意に身を屈め、私の口元へ軽くキスをしてくることもあった。 驚きと恥ずかしさで私が叩けば、宗佑は悪戯が成功した子どもみたいに笑っていた。 だから私はずっと、そんなわずかな瞬間だけを頼りにしてきた。仕事上の立場も、決まり事も全部忘れて、ほんの数秒だけ私を特別扱いしてくれる。その一瞬があったから、この関係を続けてこられた。 でも、今になって振り返ってみれば、この5年間、宗佑が私にくれた特別扱いなんて本当にわずかだった。 いや、ほとんどなかったと言ってもいい。 普段の宗佑は、ほかの社員に接するときと同じように、私にも客観的で、公平で、ときには冷たいほどだった。 だから体調が悪いと知っていても、周囲に疑われないよう駅で私を降ろした。 あの資料を私が作ったわけではないとわかっていても、責任者である私に一番重い処分を下した。 本当は、それだって構わなかった。 最初から、恋人だからという理由で仕事上の便宜を図ってもらおうなんて、一度も思ったことはないのだから。 私が欲しかったのは、理性や立場や損得を全部抜きにしたところで、ほんの少しだけ私に甘くなってくれること。私だけに向けられる、ほんのわずかな特別扱いだった。 でも、その小さな願いさえ、結局は叶わなかった。 翌日、人事部から連絡が入った。 夕夏が私の部署へ異動し、佳奈と同じように私が指導を担当することになったらしい。 最初は特に異論はなかった。 ところが1週間ほど経った頃、佳奈が困った顔で相談に来た。夕夏が自分の仕事をたびたび押しつけてくるという。 それだけではなく、仕事中も集中せず、何度も宗佑のオフィスを気にしているらしい。 事情を聞いた私は、一度夕夏を呼び出して話をした。 「このままの勤務態度が続くようなら、1か月後の本採用の申請にサインできないよ」 そこまで言えば、さすがに態度を改めると思っていた。 ところが夕夏は怯むどころか、大勢がいる前で露骨に不機嫌な顔をする。 「篠原課長って、ただの課長ですよね? 私を辞めさせたいなら、社長が認めるかどうかも確認したほうがいいんじゃないですか?」 声が大きかったため、周囲の社員が一斉にこちらを見る。 それに気づいた途端、夕夏の目から涙が溢れた。 数分もしないうちに、以前彼女の指導を担当していた峰岸理香(みねぎし りか)がやってきた。「どうしたの、成海さん?誰にいじめられたの?」 夕夏は理香に縋りつきながら、泣いた。 「篠原課長に、クビにするって脅されました……」 理香は慰めるようにその肩を叩いた。もともと私とは折り合いが悪い理香。 案の定、こちらを見るなり嫌味たっぷりに口を開く。 「あら篠原課長、成海さんを辞めさせたいのって、社長を取られるのが怖いからじゃないでしょうね? 私が知らないとでも思ってる?社長って、あなたの大学の先輩なんでしょ。それに、昔、ラブレターまで書いたらしいじゃない」 オフィスが一気にざわついた。 周囲から好奇心に満ちた視線が集まる。 私は淡々と答える。「何を根拠にそんなことを言ってるんですか?成海さんの勤務態度に問題があったから、改善するよう注意しただけですので」 すると夕夏が顔を上げ、傷つきながらも言い返すような表情を作った。 「どうして篠原課長がずっと私に厳しいのかと思ってましたけど……社長が私によくしてくださるから、嫉妬してたんですね……」 その言葉が終わったところで、ちょうど宗佑が姿を現した。 彼が騒ぎに気づいて事情を尋ねると、理香がすかさず口を挟む。 「社長、篠原課長が成海さんに嫌がらせばかりするんです。 さっきなんて、クビにするって脅してたんですから。 社長が成海さんのことを気にかけてるからって、嫉妬してるんじゃないですか?」 第 3 話 隣では夕夏が何度かすすり泣き、目を真っ赤にして、いかにもひどく傷つけられたような顔をしていた。 宗佑が私を見る。 私は反論せずにはいられなかった。「そもそも、成海さんがまともに仕事をしていなかったから――」 納得できずに反論しかけた私を、宗佑は冷たく遮った。「篠原課長、仕事は感情をぶつける場所じゃない。きちんとできないなら、辞めてもらって構わないから」 それだけ言うと、宗佑は自分のオフィスへ向かった。 夕夏は得意げに眉を上げ、私に向かってこっそり舌を出すと、すぐに宗佑の背中を追う。 「社長、仕事でわからないところがあるんですけど、教えていただいてもいいですか?」 「なら、早くついてこい」 背後から、同僚たちの感嘆する声が聞こえる。「うわ、社長って成海さんには本当に優しいよね」 席に戻ってから、私は退職届のメールを何度も書いては消し、消してはまた書き直した。 だが結局、送信することはできなかった。 冷静に考えれば、今の私にはこの給料が必要なのだ。 それに、担当しているプロジェクトももうすぐ終わる。 あとはクライアントから契約書にサインをもらえれば、問題がない限り年末にはプロジェクトディレクターへ昇進できるはずだ。 別れただけだ。そのために自分のキャリアまで投げ出す必要はない。そう自分に言い聞かせる。 その日の夜、宗佑はまたしても地下鉄の改札前に現れた。 私は見向きもせずに横を通り過ぎたが、すぐに手首をつかまれた。 「ラインも電話もブロックして……一体どういうつもりだ?」 振り返ると、宗佑の暗く沈んだ目と正面からぶつかる。 「『別れる』って言葉の意味もわからないの?」 宗佑は一瞬言葉に詰まり、眉を寄せた。 「別れるのは構わない。ただ、俺は納得できる理由が欲しい」 私はその手を振り払い、思わず声を荒らげた。「ここ数日あったことじゃ、理由にならないの? 私と成海さんが揉めたときだって、宗佑は周りの話だけ聞いて、私の言うことなんて聞こうともしなかったじゃない!」 駅前は行き交う人で混み合い、辺りには絶えず人の声が飛び交っていた。 宗佑は昔から、人前で私と揉めることを嫌う。案の定、腕をつかんで車へ連れていこうと手を伸ばしてきたので、私は数歩後ろへ下がった。 彼の手が宙で止まり、その表情に冷たい影が差した。 「成海さん一人のことで、いつまでこんなことを続けるつもりだ?」 彼の声には明らかな苛立ちが滲んでいる。「涼乃、俺にはいつまでも君に付き合っている時間はない。 俺が成海さんを気にかけているのは、社員だからで、それ以上でも以下でもない。 俺は、言うべきことは全部説明したから、信じるかどうかは君の勝手だ」 そう言い残し、宗佑は少し離れたところに停めてあった車へ向かった。 大きな音を立ててドアが閉まり、そのまま車は走り去る。 あっという間に車の流れに紛れ、見えなくなった。 全身から力が抜け、私はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。温かい涙が、不意に地面へ落ちた。 本当に馬鹿みたいだ。 今さらまだ、宗佑が謝ってくれるんじゃないか、ちゃんと話をしてくれるんじゃないかと期待していたなんて…… …… あの日以来、私は社内で意識して宗佑を避けるようになった。 必要な業務連絡以外では話さず、偶然顔を合わせても、ほかの社員と同じように距離感を保って接する。 宗佑も当然それには気づいていたはずだが、何も言わなかった。 それから1週間後、秘書を通して、書類を社長室まで持ってくるよう宗佑から連絡があった。 私はほとんど迷わず、その書類を夕夏に渡す。 夕夏は嬉しそうに受け取り、軽い足取りで上の階へ向かった。 ところが、それから間もなく上の階が妙に騒がしくなった。 理由はわからないが、宗佑が珍しくひどく怒ったらしい。 月曜日、残業を終えた頃には、身体中が重く、すっかり疲れ切っていた。 エレベーターを降りると、少し離れたところに見覚えのある姿があった。 意外に思いながら近づいていく。「郁人くん?どうしてうちの会社に?」 瀬尾郁人(せお いくと)は以前、私が担当していたクライアントだ。 その後、ひょんなことから友人になった。 郁人は目元を和らげ、色鮮やかな花束を私に差し出した。「月曜日を祝ってってことで、はい、花束」 受け取った私は思わず苦笑する。「月曜日なんて、何がおめでたいの?むしろ一週間で一番嫌い」 郁人は笑いながら、私の頭を軽く撫でた。「お疲れさま。一緒に、ご飯でもどう?」 仕事のあとに予定もなかったので、私は頷いた。 そのとき、社長専用エレベーターの扉が静かに開いた。 中央に立っていたのは宗佑で、両手をスラックスのポケットに入れ、グレーのシルクシャツをまとった姿は、肩のラインがすっきりとしていてすらっとしている。 もう勤務時間を過ぎているせいかネクタイはなく、シャツのボタンも上から2つ外されていた。普段の冷たく尊大な雰囲気に、どこか気の抜けた気怠さが混じっている。 宗佑の視線が私の顔をかすめ、そのまま腕の中の花束へ落ち、最後に隣の郁人へ移った。 その視線に気づいた郁人が、声をかける。「桐生社長、ご無沙汰しております」 けれど宗佑は返事すらしなかった。 社交辞令の一言さえ返さず、大股でエレベーターを降り、そのまま私たちの横を通り過ぎていく。 やがて車に乗り込んだ宗佑は、前に一台も車がいないというのに、何度も強くクラクションを鳴らした。 その音が夕暮れの中にやけに大きく響いた。