どんな生活費の申請も夫の秘書に却下される件

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結婚して3か月目のことだった。 夫の久世怜司(くぜ れいじ)は、私、西原紗月(にしはら さつき)が生活費が楽に手に入りすぎていると言い、生活費の申請に優先順位をつけるようになった。 その優先順位は色で名付けられていた。赤は最優先、黄は通常、青は却下。 お金が必要なら、まず申請する。それを審査するのは、彼の秘書、相川瑠奈(あいかわ るな)だった。 結婚は慈善事業じゃない。妻だからこそルールを守れ、と彼は言った。 胃腸炎で3日間入院したときも、返事は青。領収書がなければ承認できないという。 母、西原志乃(にしはら しの)への誕生日プレゼントも青。予算は1000円。 妊娠して腰がつらくなり、ロボット掃除機が欲しいと頼んだときも青。却下された。 やがて妊娠後期に入り、医師から早産の可能性があるので、早めに備えるようにと言われた。 私はいつものように申請を出した。 2分後、瑠奈から返事が届く。 【青、申請却下】 もう我慢できず、会社へ向かった。 すると、怜司のオフィスから瑠奈が出てきた。その手首で光るブレスレットに目を奪われる。 見覚えのある品だった。1週間前、怜司の通販サイトのカートに入っていた、56万円のブレスレットだ。 瑠奈は伝票を掲げ、みんなに笑いかけていた。 「今夜の食事会の費用、12万円。社長が承認してくれたよ!」 その場に歓声が上がる。 「瑠奈、さすが!」 「ほらね。社長を動かせるのは、やっぱり瑠奈だって言ったでしょ!」 お腹を支えていた手がこわばった。 この2年間の自分が、急にひどく滑稽に思えた。 泣きも騒ぎもせず、私は背を向け、法律事務所へ行った。 弁護士は私のお腹を見て、不思議そうに尋ねる。 「西原さん、今日はどのようなご相談ですか?」 「離婚です」

Chapters (1)

第1章

結婚して3か月目のことだった。 夫の久世怜司(くぜ れいじ)は、私、西原紗月(にしはら さつき)が生活費が楽に手に入りすぎていると言い、生活費の申請に優先順位をつけるようになった。 その優先順位は色で名付けられていた。赤は最優先、黄は通常、青は却下。 お金が必要なら、まず申請する。それを審査するのは、彼の秘書、相川瑠奈(あいかわ るな)だった。 結婚は慈善事業じゃない。妻だからこそルールを守れ、と彼は言った。 胃腸炎で3日間入院したときも、返事は青。領収書がなければ承認できないという。 母、西原志乃(にしはら しの)への誕生日プレゼントも青。予算は1000円。 妊娠して腰がつらくなり、ロボット掃除機が欲しいと頼んだときも青。却下された。 やがて妊娠後期に入り、医師から早産の可能性があるので、早めに備えるようにと言われた。 私はいつものように申請を出した。 2分後、瑠奈から返事が届く。 【青、申請却下】 もう我慢できず、会社へ向かった。 すると、怜司のオフィスから瑠奈が出てきた。その手首で光るブレスレットに目を奪われる。 見覚えのある品だった。1週間前、怜司の通販サイトのカートに入っていた、56万円のブレスレットだ。 瑠奈は伝票を掲げ、みんなに笑いかけていた。 「今夜の食事会の費用、12万円。社長が承認してくれたよ!」 その場に歓声が上がる。 「瑠奈、さすが!」 「ほらね。社長を動かせるのは、やっぱり瑠奈だって言ったでしょ!」 お腹を支えていた手がこわばった。 この2年間の自分が、急にひどく滑稽に思えた。 泣きも騒ぎもせず、私は背を向け、法律事務所へ行った。 弁護士は私のお腹を見て、不思議そうに尋ねる。 「西原さん、今日はどのようなご相談ですか?」 「離婚です」 第1章 怜司が帰ってきたのは、すでに深夜だった。瑠奈に体を支えられ、2人で玄関を入ってくる。 ソファに座っていた私と、目が合った。 「まだ起きてたのか?」 怜司は眉をひそめる。 「今日は会社の食事会だって言っただろ」 その口調はいつもどおりで、少し不満げだった。まるで何事もなかったかのように。 ぴったり寄り添う2人の体を、私は黙って見つめた。 私が口を開くより先に、瑠奈が慌てて一歩離れる。 「紗月、誤解しないで。怜司さん、かなり飲んでたから、送ってきただけなの」 怜司さん? 一瞬、思考が止まった。瑠奈は大学時代、寮で同室だった友人だ。会社に紹介したのも私だった。そのころは、緊張した様子で怜司を久世社長と呼んでいたのに。 いつの間に、呼び方まで変わったのだろう。 瑠奈には答えず、怜司に視線を向けた。 「どうして入院費を承認してくれないの?」 彼は眉間をもみ、あからさまに面倒そうな顔をする。 「お前の頭には金のことしかないのか?瑠奈が送ってくれたんだ。先にお茶くらい出せよ」 私は座ったまま動かなかった。 「56万円ものプレゼントをあげたんだから、送ってもらうくらい当然でしょ?」 その言葉に、怜司の顔が険しくなる。 「俺のスマホを見たのか?」 こんなときまで、真っ先に私を責める。 一瞬、沈黙が落ちた。 先に口を開いたのは瑠奈だった。落ち着いた様子で近づき、私の腕をつかむ。 「紗月、怒らないで。私があなたの友達だから、怜司さんは誕生日プレゼントをくれたのよ」 私は、その手を見下ろした。 1年前も、同じ手で腕をつかまれた。ただ、あのときの目に浮かんでいたのは懇願だった。 「紗月、久世社長に頼んで、私を会社に入れてもらえない? いつか絶対、恩返しするから!」 同じ大学で過ごした仲ということもあり、彼女がうちの会社に入社できるよう、私が手を回した。 まさかその恩返しが、申請を何度も青で却下することだとは思わなかった。 私は彼女の手を振りほどき、手首をこすった。 瑠奈が傷ついたような目で怜司を見る。 案の定、怜司は前に出て彼女を背中にかばい、冷たい目を私に向けた。 「なんで瑠奈に当たるんだ?ルールを守ってるだけだろ。 契約を取ってくれたから、その褒美にブレスレットを贈った。当然だ。 いちいち揉め事を起こすなよ」 私は腰を支え、ゆっくり立ち上がった。 「瑠奈が褒美をもらうのは当然で、私が出産のために入院するのは当然じゃないの?」 「まだ産んでないだろ?」 「早産の危険があるから、備えておくようにって先生に言われたの」 怜司は鼻で笑った。 「あくまで可能性の話だろ」 私は黙って彼を見つめた。 「本当に何かあったら?」 彼は相変わらず瑠奈をしっかりとかばっている。まるで自分には関係のない話のように、淡々と答えた。 「そのときは請求書を添えて申請しろ。瑠奈に通常どおり審査してもらえばいい」 瑠奈が彼の背後から顔を出し、柔らかな声で言う。 「紗月、安心して。本当に緊急なら、絶対に止めないから。赤の最優先で処理するわ!」 胸の奥に詰まっていた石が、重く沈んだようだった。 私はぎゅっと目を閉じる。 再び目を開けたとき、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。 「もう申請はしない。 怜司、離婚しましょう」 短い静寂のあと、怜司が低く笑った。 「紗月、この家の金は全部、俺が稼いだんだ。俺と別れたら、入院費も払えないだろ。 どうするつもりだ?道端で産むのか?」 頬を思いきり平手打ちされたようだった。 私は歯を食いしばり、こぼれそうな涙を必死にこらえた。 瑠奈が彼に声をかける。 「怜司さん、明日の企画書を見てくれるんでしょ。紗月もちょうど、1人で頭を冷やせるし」 書斎へ入る前に、怜司が近づき、私の頬に触れた。 「紗月、金を稼ぐのは大変なんだ。お前はすぐ衝動買いするし、欲しいと言うたびに渡すわけにはいかない。 いい子だから、早く寝ろ。子供のためにもな」 第2章 目の前で書斎の扉が閉まり、2人のひそひそ話も聞こえなくなった。 翌日、寝室を出ると、家にはもう誰もいなかった。 食卓には使い終えた食器と、半分残った目玉焼き、コップに半分残った牛乳が置かれている。 いつものように、私が片づけるのを待っていた。 私は見なかったことにして、重い体を引きずり、自分の荷物をまとめた。 子供部屋の小さな服も哺乳瓶も、申請を何度も青で却下されたあと、必死に節約してそろえたものだ。 それらもまとめて、全部スーツケースに詰め込んだ。 荷造りが終わると、仕事の先輩、藤野千晶(ふじの ちあき)に電話をかけた。 母の教え子で、私が仕事を辞めたときには、長いこと思いとどまるよう説得してくれた人だ。 千晶はすぐに来てくれた。私のお腹とスーツケースを見て、眉間に深いしわを寄せる。 「本当に、ここまでするの? あのときはディープブルーの企画を怜司に無償で使わせて、ミレーナ市最大の取引先との契約まで取らせてあげたのに。 それでも、怜司と別れられるの?」 私は何も言い返さず、スマホに残っている、この2年間の生活費の申請履歴を見せた。 画面を埋め尽くす青。それは、少しずつ失われていった私の自尊心のようだった。 千晶はそれ以上、何も言わなかった。私の荷物を全部運び出し、帰り際にひと言だけ告げる。 「紗月、目が覚めたなら、いつだって遅くないよ」 お腹が少し張ったので、私はソファに座り、しばらく休んだ。 スマホに通知が届く。会社全体のグループチャットだ。 退職したあとも抜けずにいたが、みんな、私がいることなど忘れているのだろう。 最新の書き込みは、瑠奈の新作発表だった。 添付されたデザイン画を見て、指先が強くこわばる。 あれは数か月前、私が2週間、夜を徹して描いたものだ。そのころは、もう一度デザイン部に戻りたいと思っていた。 けれど、そのあと思いがけず妊娠し、怜司に、今はデザイン部に戻る時期じゃないと言われた。 私の作品を瑠奈に渡すには、ちょうどいい時期だったらしい。 私は1行打ち込んだ。 【私のパソコンに入っていたデザイン画が、いつからあなたの作品になったの?】 怜司がすぐに返信する。 【グループででたらめを言うな】 続いて、新たな通知が表示された。 【瑠奈が紗月をグループから削除しました】 会社へ行くと、背後でひそひそ声が聞こえた。 「ほら、会社まで押しかけてきた。器が小さいよね」 「家で楽してるのに、まだ不満なんだ。嫉妬ばっかり」 「瑠奈さんは実力でしょ。あの人は運がよかっただけ。いい人と結婚したんだから!」 背中に突き刺さるような視線を無視して、怜司のオフィスへ向かった。 瑠奈もいた。机には書類が置かれ、怜司が署名している。 目をやると、プロジェクト報奨として、車の購入費800万円と書いてあった。 まだプロジェクトも始まっていないのに、褒美はもう承認されていた。 色も、優先度もない。署名する怜司に、ためらいのかけらもなかった。 顔を上げて私に気づくと、彼は反射的に書類を裏返す。 そして低い声で言った。 「ちょうどいい。瑠奈に謝れ」 私は耳を疑った。 「私が謝るの?」 「紗月、嫉妬もほどほどにしろ。グループであんなことを言われたら、瑠奈の立場がなくなるだろ」 私は口の端をわずかに上げた。 「人のデザインを盗むのは、恥ずかしくないの? 始まってもいないプロジェクトの褒美に、車代800万円をもらうのは?」 瑠奈がそっと怜司の服の裾を引いた。 「怜司さん、車はもういいよ。私のために喧嘩しないで。じゃないと、生活費の申請を却下したことで、また紗月に責められちゃうから」 怜司の顔が、すっかり険しくなった。 「結局、金が欲しくて騒いでるんだな。 なら、思い知らせてやる」 彼は内線のボタンを押した。そして警備員に命じて、社員たちの前で私を会社から無理やり追い出させた。 外の風に吹かれた途端、下腹部に、下へ引っ張られるような激しい痛みが走る。私は慌てて、そばの石の腰掛けに座った。 スマホに、続けて2通のメッセージが届いた。 1通は病院から。 【西原さん、妊婦健診の結果が出ました。早産の危険性が非常に高いため、遅くとも明後日までには入院し、いつ出産になっても対応できるようにしてください】 もう1通は怜司からだった。 【お前の家族カードは止めた。謝ったら、また使えるようにしてやる】 第3章 いつも冷静な千晶が、怜司からのメッセージを見るなり、30分近く彼を罵った。 私に向ける目にも、もどかしさがにじんでいる。 「先生が生きていたら、あなたにどれだけ腹を立てたことでしょう」 私はうつむき、小さな声で答えた。 「もう弁護士さんが手続きを進めています。もらうべきものは、1円だって譲りません」 千晶がため息をつく。 「明日はまず入院しよう。体が一番大事だよ。お金は私が出す。でも、貸すだけだからね」 私は小さくうなずいた。顔が、火であぶられたように熱い。 情けなくて、みじめだった。 午後、入院に必要な書類を取りに、千晶と家へ戻った。 歩いたせいでふくらはぎがむくんでいた。そこをさすっていると、怜司が帰ってきた。 手には折りたたみ式のペットカートを持ち、背後には瑠奈がいる。 私を見るなり、彼は言った。 「新しいデザインの原画を、瑠奈に渡せ」 私は顔を上げる。 「今、なんて言ったの?」 彼の口調は相変わらず落ち着いていた。 「瑠奈がプロジェクトを任されるのは初めてなんだ。彼女には今、自分の腕を磨くチャンスが必要だ。あの日、グループチャットででたらめを言ったお詫びとして、渡してやれ」 ふくらはぎをさすっていた手が止まった。 千晶が怒りに任せて立ち上がる。 「怜司、よくもそんな図々しいことが言えるね!」 千晶はそのペットカートを指さし、皮肉を込めて続けた。 「一番大きな取引先を獲得して、一流の経営者たちの輪に入れるようになったのは、紗月のデザインのおかげでしょ。それなのに、また彼女の作品を取り上げて、別の女にチャンスを与えるの? 今回は手ぶらじゃないんだね。ペットカート1台で買い取ろうってわけ?」 怜司はうんざりした顔をした。 「俺と紗月の問題だ。部外者には関係ない」 瑠奈が横から説明する。 「紗月、誤解しないで。これは怜司さんがポチに買ってくれたの。もう年で、歩けなくなってきたから。 ベビーカーが必要なら、怜司さんに買ってもらえばいいよ」 ポチは、彼女の犬だ。 高級ブランドのロゴを見ていると、ばかばかしくなった。 2週間前、子供のために4万円のベビーカーを買おうと、私は3回申請した。 3回とも却下された。必要性がない、無駄遣いだ、予算オーバーだという理由で。 それなのに、彼がペットカートを持っているのを見た瞬間、私はわずかでも期待してしまった。そんな自分が悲しかった。 怜司に目を向ける。喉が乾き、痛んだ。 「そのペットカートは、何色で承認されたの?」 彼は一瞬、言葉を詰まらせた。 「これは別だ。いちいち難癖をつけるな」 「何が違うの?」 「瑠奈のそばにいるのは犬だけなんだ。それに、お前の友達だろ。そんなくだらないことで張り合うなよ」 当然だと言わんばかりの顔を見ていると、もう何も言えなくなった。 私はソファに手をつき、立ち上がる。 「千晶さん、行きましょう」 2歩ほど進んだところで、手首をつかまれた。 怜司の声が柔らかくなる。まるで、譲歩してやるというように。 「紗月、デザイン画を渡せば、すぐに病院の特別室を手配してやる。出産までずっと入っていていい。 それに、子供に必要なものなら、全部申請していいぞ」 少し間を置き、なだめるような口調で付け足した。 「黄色で承認してやる」 瑠奈も慌てて言う。 「絶対に止めないから」 千晶は胸を大きく上下させていた。前に出ようとするのを、私は止めた。 そして穏やかに、怜司に言った。 「この子は、あなたの子供なのよ」 「俺の子供だからこそ、何週間も早く入院するのを認めてやるんだろ」 突然、お腹に鋭い痛みが走り、私は思わず前かがみになった。 怜司はその苦しさにも気づかず、ただ頑なに返事を待っている。 千晶が間に入り、彼の手を外した。目を赤くして、私の体を支えてくれる。 私は顔を上げ、ひと言ずつ告げた。 「原画は渡さない。でも、入院はする」 そう言って、ゆっくりと外へ向かった。 背後で怜司の冷たい声がした。 「紗月、俺を試すな。でないと、泣きついてくることになるぞ」 第4章 私は立ち止まらず、そのまま病院へ向かった。 手続きをすべて済ませてベッドに横になっても、下腹部にはまだ、下へ引っ張られるような重苦しさが残っていた。 翌朝、弁護士から連絡が届く。 【証拠はすべてそろいました。提訴に向けて準備を進められます】 ほっと息をついたところで、千晶から電話がかかってきた。 「紗月、怜司が先生のアトリエにいるの。荷物を持ち出せない」 体がぐらりと揺れ、私は壁に手をついた。その瞬間、温かいものが流れ出すのを感じた。 破水していた。 そこへ瑠奈が、書類を手に病室へ入ってきた。 「紗月、待っても無駄よ。お母さんのアトリエだって、ずっと怜司さんが家賃を払ってたんだから。鍵を開ける権利はあるの」 少し間を置くと、彼女の口元の笑みが深くなった。 「あなたのデザイン画も、お母さんの作品も、全部あそこにあるんでしょ」 瑠奈は笑顔のまま書類を差し出す。 「まず、これにサインして」 最初のページを開くと、その内容に全身が冷たくなった。 【西原紗月は、ディープブルー・プロジェクトに関する権利を、久世怜司に無償で譲渡する。 以後のすべての派生デザインおよび改良について、西原紗月は一切関与できない】 最後の条項には、こうあった。 【離婚する場合、西原紗月は婚姻期間中に形成したすべての夫婦共有財産に対する権利を、自ら放棄する】 手が震えた。 「脅してるの?」 「私じゃないわ」 瑠奈はやんわりと否定するように手を振り、スマホを差し出した。 電話の向こうから、怜司の落ち着いた声が聞こえる。 「脅しじゃない。取引だ。 サインすれば、お前の母親の作品は、すべてそのまま返してやる」 温かい液体が太ももを伝って流れ続け、病衣を濡らしている。肌にまとわりついて、不快だった。 「怜司、仕事を辞めるとき、あのアトリエを守ってくれることだけが条件だったのよ。約束したじゃない!」 彼は一瞬黙った。それでも声は落ち着いたままだ。 「紗月、俺はお前を愛してる。 しかしお前が、どんどん欲張りになってるんだな」 欲張り。 この2年間、彼のために譲り続けてきた私が、彼には欲張りに見えていたのか。 千晶の切迫した声が聞こえた。 「怜司、すぐにやめさせて!その原画は折らないで!」 それを聞いて、もう立っていられなくなった。私はその場に片膝をつく。 そこへ、手の中にペンを押し込まれた。 瑠奈が顔を寄せてくる。 「紗月、サインして。そうすれば、あとは安心して赤ちゃんを産むだけ。何も気にしなくていいのよ。楽でしょ」 激しい陣痛が襲い、全身から冷や汗が噴き出し、たちまち服を濡らした。 私は歯を食いしばり、残った力を振り絞って言った。 「怜司……赤ちゃんが、生まれる」 一拍置いて、彼の声に苛立ちが混じった。 「また子供を盾にするのか。まだ36週だろ。生まれるわけないだろう」 電話の向こうで、千晶の声がますます悲痛になっていく。 絶望が、私をのみ込んだ。 ペンを握り、震える手で自分の名前を書いた。 書き終えた瞬間、体中の力が抜け落ちた。 そのとき、当直の看護師が病室に入り、声を上げる。 「どうして呼ばなかったんですか!早産です!急いで分娩室へ! ご家族の方は支払いの手続きを!」 スマホから、戸惑ったような怜司の声がした。 「早産?」 瑠奈は素早くスマホを取り戻した。 「そんなに深刻じゃないよ、怜司さん。 知ってるでしょ。紗月って、いつも大げさなんだから」 合意書を持って出ていこうとする彼女を、私はかすかな声で呼び止めた。 「サインはしたわ。お願い……支払いをして」 瑠奈は足を止め、優しくほほえむ。 「いいわよ。ルールどおり、先に申請して。私が審査するから」 そう言って、もう一度スピーカーのボタンを押した。 怜司の低い声が響く。 「瑠奈の言うとおりにしろ。急ぐことはない」 頭の中で、轟音が響いた。 世界から、音が消えたようだった。 耳に残るのは、急ぐことはない、という言葉だけ。 そして、次から次へと押し寄せる痛み。 どれほどたったのか、慌ただしい足音が聞こえた。 千晶が、涙声で呼びかける。 「紗月、怖がらないで!来たよ!ここにいるから!」 頭上で手術灯がともり、激しい痛みが襲った。 体がふっと軽くなった次の瞬間、私は意識を失った。 目を覚ますと、病室は静かだった。 千晶がベッドのそばに座っている。目は赤く腫れていた。弁護士もいた。 私が目を開けたのを見て、千晶が手を握った。 「紗月、赤ちゃんは無事だよ。先生の作品も、全部取り戻した。 送ってくれた録音も、弁護士さんに渡したよ。 脅されて合意書にサインしたことを、十分に証明できるって。法律上、取り消せるそうよ」 千晶の声が涙で詰まった。 「よく頑張ったね!」 隣で、弁護士が眼鏡を直した。 「離婚訴訟、著作権侵害、それから婚姻中の権利侵害についての資料は、すべて整理できています。 西原さん、いつ訴えるかは、あなたが決めてください」 私はかすれた声で答えた。 「今です」