第1章
濁流が家の中へ雪崩れ込んできたとき、私、植月紗凪(うえつき さな)は5歳になる娘、植月瑠奈(うえつき るな)を抱きかかえ、窓枠の上に立っていた。
救助艇に乗って駆けつけたのは、救助隊長を務める実の兄、日笠春輝(ひかさ はるき)だった。
春輝は一度だけこちらを見上げると、手にした浮き輪を向かいにある私の親友、菊島明歩(きくしま あきほ)の家の窓へと投げ入れた。
「お前は泳げるだろ。あと10分だけ持ちこたえてくれ。次の救助艇がすぐ来る。明歩は泳げないから、待たせておけないんだ」
しかし、10分が過ぎても次の救助艇は現れなかった。
私は夫の植月浚介(うえつき しゅんすけ)に電話をかけた。指令本部で指揮を執っていた彼は、苛立った声で言い放った。
「春輝だって、お前なら持ちこたえられるって言ってたじゃないか。回線を塞ぐな。こっちは救助要請が何百件も入ってるんだ。
皆の前で、真っ先に妻を優先しろって言うのか?身内びいきだと思われるわけにはいかないだろ」
冷たい水が胸元まで達したとき、私は深い絶望のなかで娘を頭上へ高く掲げた。
最期に残った意識は、指先に伝わる痛いほどの力。娘が必死に私の手を握りしめる、その確かな感触だった。
2隻目の救助艇がようやく到着した。
彼らは、私が最後の力で水面より高く掲げ続けていた娘を助け上げた。
けれど、泥水の底ですでに冷たくなっていた私には、誰も気づかなかった。
娘はようやく助かったのだと、私は信じていた。
しかし病院に運ばれた娘は、高熱でひきつけを起こしているというのに、誰からも見向きもされなかったのだ。
当直医が診察に向かおうとしたとき、救急科の主任であり私の実母である日笠由紀子(ひかさ ゆきこ)が、腕をつかんで制止した。
「大したことはないわ、少し寝かせておきなさい。先に明歩を診てあげて。
母親のくせに、我が子を置いて自分だけ逃げたんでしょう?少し痛い目を見せて、紗凪に反省させてやらないと」
彼らはまだ、何も知らなかった。
私がとうに、彼らの歪んだ公平主義の犠牲となって、死んでいるということを。
第1話
「田中先生、解熱剤は打たなくていいわ」
母が、冷ややかな声とともに当直医の手を制した。
田中医師はハッとしてその場で固まる。彼の手には、吸い上げたばかりの薬液が入った注射器が握られていた。
「しかし主任、瑠奈ちゃんは39.8度まで熱が上がっていて、軽い痙攣も起こしています……」
「あの子の祖母はこの私よ。私が状態を知らないとでも?」
母は能面のように、表情をピクリとも変えないままベッドの上の瑠奈を一瞥し、すぐさま隣のベッドへと視線を移した。そこでは明歩が、保温毛布を3枚も重ねて厳重にくるまれていた。
「瑠奈は体が丈夫だから、少し熱を出したくらいの方が免疫力がつくのよ。
それに明歩は冷たい水に10分以上も浸かっていたうえに、重度の低血糖もあるの。今は本当に危険な患者を最優先に診ないと」
田中医師は焦燥に駆られ、額にじっとりと汗を浮かべていた。
「しかし、瑠奈ちゃんの唇は紫色に変色していて、心拍も乱れているんです」
「必要ないと言ったら、必要ないの!」
母の凄まじい威圧感のある声が、田中医師の反論を封殺する。彼女は忌々しげに瑠奈を見下ろした。
「あの子の母親はね、昔から仮病を使って同情を買おうとする子だったの。その娘も同じで、ただの甘ったれよ。
今回の未曾有の水害で、外では何百人もの命が瀬戸際にあるっていうのに。紗凪ときたら、実の娘を救助艇に乗せただけで、自分はどこへ逃げたのやら。
こんな身勝手を許していたら、この先また何をしでかすか分かったものじゃないわ」
私は宙を漂う幽鬼の身で必死に駆け寄り、娘の耳を塞ごうとした。
残酷な言葉を聞かせたくなかった。
けれど私の手は、虚しく空を切り、すり抜けて母の体を通過してしまう。
わずかな風さえ、起こすことは叶わなかった。
瑠奈は冷たい簡易ストレッチャーの上で小さく縮こまっていた。身につけているのは、ずぶ濡れの薄手の服だけ。
幼い体が、秋風に舞う落ち葉のように小刻みに震えている。
「おばあちゃん……さむい……っ」
瑠奈は懸命に重い睫毛を震わせた。蚊の鳴くような、ひどく掠れた声だった。
母は歩み寄ったものの、決して抱き上げようとはせず、あろうことか濡れた服を乱暴に引っ張った。
「だったら我慢しなさい。誰のせいでこうなったと思ってるの。
そこでじっと寝ていなさい。あなたのあの身勝手な母親も、そのうち心配になって、自分から迎えに来るでしょうから」
瑠奈の瞳から零れた涙が、顔にこびりついた泥水と混ざって頬を伝い落ちた。
「ママは、あたしを置いていってない……ママは、水の中に……」
「まだ嘘をつくの!?」
母は金切り声で遮ると、後ろに控える看護師長を振り返った。
「このストレッチャーを廊下に出して。処置室のスペースを占領させないで」
看護師長は躊躇いの色を滲ませた。
「しかし、廊下は隙間風が酷いうえに、まだ熱も……」
「命令よ」
第2話
母は聴診器を首にかけると、もはや瑠奈には一切目もくれず、明歩のベッドへと付き添うように歩いていった。
「明歩、動悸はする?あとで循環器内科の先生にもちゃんと診てもらうように手配しておくからね」
明歩はふんわりとした枕にもたれかかっていた。顔色こそやや青白いものの、その眼差しには確かな生気が宿っていた。
「私は大丈夫です。瑠奈ちゃんを見てあげてください、まだ子どもですから」
「子どもって言っても、もう5歳でしょう。そろそろ我慢というものを覚えさせないと」
母は明歩の布団の端を優しく整えながら、蜜よりも甘く穏やかな声で囁いた。
「あなたは本当に優しい子ね、いつも周りの人のことばかり考えてくれて。
春輝があなたを真っ先に助け上げたのは大正解だったわ。もしあの身勝手な紗凪を先に助けていて、あなたに万が一のことがあったらと思うと、ぞっとする」
その光景を目の当たりにした瞬間、私の魂の芯まで、冷たい氷の刃が突き刺さるのを感じた。
私が死に物狂いで娘を水面の上へ押し上げた最期の行為は、実母の目には身勝手と映るらしい。
明歩が乾いた暖かなベッドの上で、院内でも最高の医療を受けていることは、「強さ」と映るらしい。
廊下には容赦のない隙間風が吹き荒れていた。
瑠奈は救急外来のホールの、誰の目にも留まらない薄暗い隅へと追いやられていた。
頭上の照明は故障しかけており、無機質で冷たい光が不気味に明滅を繰り返していた。
瑠奈は小さな手の中に、プラスチックのボタンを固く握りしめていた。
それは、水が私の頭を越えようとしたあの瞬間、娘が必死に私の服にすがりついた拍子に、胸元から引きちぎれたものだった。
「ママ……っ」
瑠奈はそのボタンを冷たい頬に押し当て、声を殺してすすり泣いていた。
私はただ、娘を強く抱きしめたかった。私の体温で、少しでもこの子を温めてやりたかった。
けれど今の私には、分け与える体温すらない。
私の亡骸は今も、古い住宅街の建物の窓に無惨に引っかかったままだ。
濁った冷水が肺を浸し、泥と砂が口と鼻を重く塞いでいる。
私はただ、愛する娘が吹きさらしの廊下で、少しずつ本来の温もりを奪われていくのを、見つめていることしかできなかった。
不意に、救急室のガラス扉が勢いよく開け放たれた。
鮮やかなオレンジ色の救助隊の活動服を身にまとった浚介が、大股で入ってきた。その広い肩には、まだ雨の雫が滴り落ちていた。
瑠奈の光を失っていた瞳に、一瞬だけ、微かな希望の光が灯った。
「パパ……」
浚介の足がピタリと止まった。彼の鋭い視線が、薄暗い隅で震える瑠奈へと落ちた。
彼は足早に歩み寄り、不機嫌そうに眉をひそめた。
「なんでこんな廊下で寝てるんだ?ママはどうした?」
瑠奈は氷のように冷え切った小さな手を伸ばし、浚介の濡れた裾をつかもうとした。
「パパ、ママ、水の中……すごく寒かったの……」
浚介はひどく苛立たしげにその手を振り払い、服に跳ねた泥水を払った。
「もういい。母親に吹き込まれたくだらない嘘はやめろ。
さっき指揮本部で救助名簿を確認してきた。2号艇が救助したのはお前だけで、紗凪の姿なんてどこにもなかったんだぞ」
「自分ひとりで安全な避難所に逃げ込んで、俺に電話の1本もよこさずに。今度はこんな場所でお前に芝居を打たせているのか?」
瑠奈は必死に首を横に振り、大粒の涙をぼろぼろと零した。
「ううん、お芝居じゃない。お水がすごくて、ママがあたしを持ち上げてくれて、そしたらママが、見えなくなっちゃったの……!」
浚介は鼻で笑い、冷酷な嘲笑を浮かべた。
「お前の伯父さんも言ってたぞ。紗凪が窓の上に立っているのを、この目で確かに見たってな。水位はまだ足元にも届いてなかったらしいじゃないか。
あの人は昔からいつもこうだ。少しでも自分の思い通りにならないと、すぐにあてつけのように雲隠れする。
今回はさらに腕を上げたな。実の娘のお前まで、俺との駆け引きの材料に使うとは」
私は絶望に苛まれながら浚介の正面へと浮かび上がり、ありったけの声で叫んだ。
違う、あれは水位の上がるスピードがあまりに異常だったからよ!
春輝が船を出してから2分も経たないうちに、上流のダムで緊急放流が始まって、濁流は瞬く間に1階全体を飲み込んだの!
高台へ逃げる暇なんて、1秒たりともなかったのに!
けれど私の悲痛な叫びは、浚介の耳には届かない。
彼はポケットから使い捨てのカイロを取り出すと、すがりつく瑠奈には見向きもせず、そのまま処置室へと足を踏み入れた。
私もその後を追うように、処置室へ漂って入った。
明歩は浚介の姿を見るなり、目に涙を浮かべた。
「浚介さん、まだ忙しいんですよね?ごめんなさい、私のせいで……こんな大変なときに、医療の手を取らせてしまって」
浚介は足早にベッドのそばへ歩み寄った。その顔に浮かんでいた苛立ちの色はたちまち消え失せ、どこまでも甘く、優しい眼差しへと変わっていた。
第3話
「馬鹿なことを言うな。お前はもともと体が弱いんだ。冷たい水に浸かったんだぞ、軽く考えるな」
浚介はカイロの封を切り、明歩に掛けられた布団の上からそっと貼ってやった。
「どうだ?まだ寒いか?」
明歩は首を横に振り、唇を噛みしめながらドアの外へ目をやった。
「瑠奈ちゃん……私が先に船に乗ったこと、恨んでるんじゃ……」
「浚介さん、いっそ紗凪に私を一度思いきり叱らせてください。浚介さんの電話に出ないのも、きっと私に怒っているからです」
浚介の表情が一瞬にして険しくなる。
「あいつに怒る資格なんてあるものか!
春輝は人を救助しに行ったんだ。危険度の高い者を優先して助ける、それが現場の原則だろう。
紗凪は泳ぎが得意で、普段から2キロ泳いでも息一つ切らさない。お前を先に助けたくらいで何だっていうんだ。
どうせあいつは今、ただ拗ねているだけだ。救助隊長の身内だからって、自分が世界の中心だとでも思っているんだろう」
私はその冷酷な言葉を静かに聞きながら、胸の奥から底知れぬ虚しさと滑稽さがこみ上げてくるのを感じていた。
泳ぎが得意。
ええ、そうだ。昔は市の水泳チームに所属していたのだから。
でも3年前、瑠奈を産んだときの出血多量で体を壊し、ひどい喘息の後遺症が残ってしまった。
この3年間、冷たいシャワーすら浴びたことがないというのに。
夫である浚介が、それを知らないはずがないのだ。
けれど明歩の「か弱さ」を前にすると、私の病歴など綺麗さっぱり忘れ去られてしまうらしい。
己の公平無私さを証明するためなら、私の生死すら、悪意に満ちた邪推で片づけて構わないと思っているのだ。
「浚介さん、紗凪をそんな風に言わないで。きっと本当に怖かったんだと思います……」
明歩はうつむき、庇うような、それでいてどこか媚びるような甘い声を出した。
「怖かった?本当に怖いなら、どうして娘のそばを離れたんだ?どうして自分だけ先に避難した?」
浚介は立ち上がり、明歩のために温かい白湯をコップに注いでやる。
「あいつのことは気にするな。うちの義母も言っていただろう、しばらく放っておいて、あのワガママな性根を叩き直さないとな」
「皆さん、紗凪のためを思ってのことなんですね……」
明歩は小さくため息をつき、コップを受け取った。
処置室のドアが再び開く。
春輝が、同じようにずぶ濡れの救助隊の活動服姿で入ってきた。
手には保温容器を提げている。
「明歩、厨房で作ってもらった卵雑炊だ。食べやすいし、体も温まるから、冷めないうちに食べろ」
春輝はベッドのそばまで歩み寄ると、心底いたわるような優しい口調で言った。
それから振り返り、浚介を見る。
「外はだいたい落ち着いた。そっちの状況はどうだ」
「ちょうど本部の引き継ぎを終えて、様子を見に来たところだ」
浚介が静かに答える。
春輝は深くうなずき、処置室の中をぐるりと見渡した。
「瑠奈は?紗凪のやつ、まだ機嫌を損ねて顔も出さないのか?」
「廊下にいますよ」
浚介は淡々と事実だけを告げた。
「ふざけるな!」
春輝は不快げに眉をひそめた。
「廊下なんて寒いだろうに、紗凪のやつ、本当にどんどんたちが悪くなるな!」
彼は怒りを露わにしながら、大股で処置室を出ていった。
私はてっきり、兄がようやく瑠奈の様子を見に行ってくれるのだと思った。
けれど彼は廊下まで来ると、ストレッチャーの上で小さく丸まって震える娘を、ただ冷たく見下ろしただけだった。
「瑠奈、ナースステーションで電話を借りて、紗凪のやつにかけろ。
芝居はもう十分だ、さっさと戻ってこいと伝えろ。子どもを病院に置き去りにすれば、俺たちが折れるとでも思っているのかってな」
瑠奈はすでに高熱で意識がもうろうとしていた。
春輝の厳しい言葉はほとんど聞き取れず、ただ本能のままに伯父へと小さな手を伸ばす。
「おじちゃん……だっこ……」
だが春輝はあからさまに1歩下がり、泥水で汚れたその小さな手を冷酷に避けた。
「俺にそういう泣き落としは通用しないぞ。ママに仕込まれた甘え方なんて効かないからな」
春輝の声は、部下を叱るときのように厳しかった。
「うちは家族みんな人の命を預かる仕事に就いてるんだ。身内の気を引くためだからって、何をしてもいいわけじゃない。
今日はここで頭を冷やせ。紗凪が自分から出てきて、非を認めるまでは病室には入れない」
そう吐き捨てるように言い終えると、春輝は無情にも踵を返して去っていった。
瑠奈の頬に浮かぶ、尋常ではない病的な赤みにすら、一瞥もくれることなく。
これが、私が敬愛してきた兄だった。
子どもの頃からずっと、いつも道徳的な高みから、私を見下ろすように裁いてきた人。
第4話
明歩が擦り傷ひとつ作れば、それは痛みに耐える「健気さ」として称賛される。
私がひどい喘息の発作を起こせば、それは気を引くための「仮病」として一蹴される。
春輝はいつでも絶対の公平を説き、身内だからと甘やかさないことを正義として口にする。
けれど彼の言う「公平」とは、すべての愛情を明歩に注ぎ込み、すべての冷酷な厳しさを私に向けることだった。
瑠奈の手が、力なく垂れ落ちた。
あのプラスチックのボタンを強く握りしめたまま、娘の呼吸がどんどん速くなっていく。
華奢な胸が激しく上下し、壊れたふいごのようなゼロゼロという苦しげな音を立てていた。
それは、急性肺炎の合併症を起こしかけている危険な兆候だった。
若い看護師が医療トレイを運びながら通りかかり、ふと足を止めてストレッチャーを覗き込んだ。
「この子、様子がおかしいわ。明らかな重度の呼吸困難よ、すぐに人工呼吸器につながないと!」
看護師は血相を変え、慌てて瑠奈のストレッチャーを処置室へ運び込もうとした。
「何をしているの」
母がカルテを何枚か抱えて歩いてきて、冷ややかな声でストレッチャーの行く手を遮った。
「主任、この子、酸素飽和度がかなり低下しているはずです。すぐに処置を!」
看護師が切羽詰まった声で訴えかける。
母は無表情のまま瑠奈の重い瞼をめくり、瞳孔を覗き込んだ。
「平気よ。小児の発熱にありがちな、ただの頻呼吸よ。点滴をして熱を下げてやれば十分だわ」
「でも、中にはまだ空いているベッドが……」
「あのベッドは、救助の最前線から運ばれてくる重傷者のために空けてあるのよ!」
母は鉄のように冷酷な目で、看護師の懇願をにべもなく遮った。
「医療従事者なら、目の前の患者だけでなく全体を見る目を持ちなさい。
あの子が私の孫だからといって、勝手に救急の限られた医療設備や人手を使うなんて許されないわ。うちの病院は、そんな身内びいきを絶対に許さない方針よ」
看護師はショックに言葉を失い、悔しさに涙を滲ませながら、指示通り点滴の準備へと向かった。
私は母を、底知れぬ絶望とともにただ見つめていた。
いつだってそうだ。
「公平無私」という自らの美しい虚像を守るためなら、実の娘を踏みにじることすら厭わなかったこの人は、今度は実の孫の命まで平然と差し出そうとしている。
全体を見る目など、一体この人のどこにあるというのだろう。
処置室の中では、明歩ひとりが設備の整ったベッドを独占し、最新鋭の生体情報モニターに繋がれて手厚い保護を受けているというのに。
春輝も浚介も、付きっきりでかいがいしく彼女の世話を焼いている。
吹きさらしの廊下には、容赦のない冷たい風が吹きすさんでいた。
瑠奈の細い腕に、冷たい点滴の針が刺される。
けれど体温は下がるどころか、小さな全身が内側から燃えるように熱くなっていく。
先ほどまで紫色だった唇は、今はもうすっかり血の気を失い、恐ろしいほど真っ白になっていた。
「ママ……っ」
その掠れた声は、ほとんど聞き取れないほどに弱々しかった。
「瑠奈を、ひとりにしないで……いい子に、するから……っ」
私はストレッチャーのそばに泣き崩れ、両手でその冷え切った小さな頬を包み込もうとした。
けれど、霊体の私には何の意味もなかった。
愛する娘に触れられない事実に、ただ己の魂が悲鳴を上げて震えるのを感じるだけだった。
深い夜が更けていく。
処置室の中で、小さな物音がした。
明歩が頭痛を訴え、軽い脳震盪の疑いがあるらしい。
母はすぐさま血相を変え、脳神経外科の当直医を呼びつけて精密検査をさせた。
春輝と浚介は、入院の手続きや薬の受け取りのために院内を慌ただしく走り回った。
その間、誰ひとりとして、暗い廊下の隅に5歳の子どもが放置されていることを覚えている者はいなかった。
午前2時。
廊下の明滅していたセンサーライトが、とうとう完全に消え失せた。
外では、吹き荒れる風雨の音だけが凄まじい轟音を響かせていた。
瑠奈の浅い呼吸が、ふっと止まる。
次の瞬間、小さな体が弓なりになり、激しく痙攣しはじめた。
恐れていた熱性けいれんだった。
酸素を求めて口を大きく開けても声は出ず、白目をむき、細い手足が異常な方向に突っ張っている。
私は半狂乱になり、ナースステーションのカウンターへと飛びついた。
緊急アラームを力任せに押したかった。机の上に積まれたカルテをすべてなぎ倒してでも、誰かに知らせたかった。
けれど私の手は、何度叩きつけても虚しく実体をすり抜けるだけだった。
私は絶望のまま処置室へと向きを変え、壁を抜けて飛び込んだ。
中では浚介が、白湯の入ったコップを、明歩の口元へ注意深く運んでやっているところだった。
春輝はその横で、果物ナイフを使って器用にりんごの皮を剥いている。
母はメガネをかけ直し、明歩の脳波検査の結果に熱心に目を通している。
「浚介!兄さん!お願いだから出てきて見て!瑠奈が危ないの!」
私は彼らの耳元にすがりつき、声が嗄れるほど必死に叫んだ。
けれど穏やかな処置室に響くのは、明歩の甘くやさしい声だけだった。
「浚介さん。お湯、ちょっと熱いです」
「じゃあ、冷ましてやるよ」
浚介はひどく根気よく、コップの白湯にふうふうと息を吹きかけていた。
その頃、暗い廊下では。
瑠奈の激しい痙攣が、だんだんと静かに収まっていった。