私だけが、あなたの外側にいた

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黒瀬怜司(くろせ れいじ)は、自分の領域に人を入れることをひどく嫌っていた。3年付き合っていても、私は彼の家に入るための暗証番号を知らなかった。 泊まりに行くたび、前もって許可を取り、彼が下まで迎えに来るのを待たなければならなかった。 必要な線引きなんだ、と彼は言った。私はその考えを尊重していた。 けれど、ある日、予定より早く着いて電話をかけようとしたときのことだった。 エレベーターのドアが開き、彼の同僚の望月千晴(もちづき ちはる)が、カードキーでセキュリティ扉を通り抜けた。 そして、彼の部屋の前では指紋認証のセンサーに指を当てた。 ドアが開いた。 振り返って私に気づいた彼女は、一瞬、きょとんとした。 「どうしてここにいるの?怜司、今夜は都合が悪いって言ってたけど」 どうして指紋を登録してあるのか、私は尋ねた。 「去年からよ。よく猫にごはんをあげに来るから」 彼は、猫を飼っていることすら教えてくれていなかった。猫の毛にアレルギーがあるから、ペットは飼えない。そう言って、猫を飼いたいという私の頼みを、3回も断ったのに。 あとで千晴の投稿をさかのぼり、あの猫は、彼女が誕生日プレゼントとして贈ったものだったと知った。 私はスマホから、彼の家に行ってもいいか、いちいち確認していたメッセージをすべて消した。 怜司、あなたの引いた線が閉じ込めていたのは、私一人だけだった。彼女は、とうの昔に、あなたの領域の中で暮らしていたのに。

Chapters (1)

第1章

黒瀬怜司(くろせ れいじ)は、自分の領域に人を入れることをひどく嫌っていた。3年付き合っていても、私は彼の家に入るための暗証番号を知らなかった。 泊まりに行くたび、前もって許可を取り、彼が下まで迎えに来るのを待たなければならなかった。 必要な線引きなんだ、と彼は言った。私はその考えを尊重していた。 けれど、ある日、予定より早く着いて電話をかけようとしたときのことだった。 エレベーターのドアが開き、彼の同僚の望月千晴(もちづき ちはる)が、カードキーでセキュリティ扉を通り抜けた。 そして、彼の部屋の前では指紋認証のセンサーに指を当てた。 ドアが開いた。 振り返って私に気づいた彼女は、一瞬、きょとんとした。 「どうしてここにいるの?怜司、今夜は都合が悪いって言ってたけど」 どうして指紋を登録してあるのか、私は尋ねた。 「去年からよ。よく猫にごはんをあげに来るから」 彼は、猫を飼っていることすら教えてくれていなかった。猫の毛にアレルギーがあるから、ペットは飼えない。そう言って、猫を飼いたいという私の頼みを、3回も断ったのに。 あとで千晴の投稿をさかのぼり、あの猫は、彼女が誕生日プレゼントとして贈ったものだったと知った。 私はスマホから、彼の家に行ってもいいか、いちいち確認していたメッセージをすべて消した。 怜司、あなたの引いた線が閉じ込めていたのは、私一人だけだった。彼女は、とうの昔に、あなたの領域の中で暮らしていたのに。 第 1 話 「梓、ドアを閉めて」 怜司は玄関に立ち、驚いてソファの下へ逃げ込んだ猫を先に見てから、ようやく私に目を向けた。 千晴は、もうスリッパに履き替えていた。靴箱には同じデザインの男性用もある。急に用意したものではないのは明らかだった。 ドアを閉めて足元を見ると、私には使い捨てのスリッパが一足、置かれていた。 怜司の口調は淡々としていた。 「早く来るなら、どうして言わなかった?」 「メッセージは送ったよ」 「会議中で、スマホを見ていなかった」 そう言うと、彼はスーツの上着を千晴に渡した。 彼女は当たり前のように受け取り、振り返ってウォークインクローゼットに掛けると、慣れた手つきで冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出した。 猫がソファの下から顔をのぞかせた。 千晴はしゃがみ込み、優しく手を差し伸べる。 「モチ、ママが帰ってきたよ」 怜司の眉間にあった険しさが、少し和らいだ。 「あまり甘やかさないでくれ。さっきもまたカーテンを引っかいて駄目にしたんだ」 立ち尽くしたまま、私は指先をゆっくりと手のひらに食い込ませた。 モチという名前だったんだ。この家には、千晴の指紋も、スリッパも、コップもある。それだけではない。彼女の帰りを待つ猫までいた。 私は十数回も来ているのに、置いておく歯ブラシさえ自分で持ってこなければならなかった。 千晴は猫を抱き上げ、ようやく私の存在を思い出したように言った。 「森川さん、誤解しないでね。怜司は仕事が忙しいから、私がたまにモチの世話をしに来てるだけなの」 「たまにって、どのくらい?」と私は尋ねた。 猫の背中をなでる彼女の手が、一瞬止まる。 「週に3、4回かな。遅くなったときは、ゲストルームに泊まることもあるけど」 怜司が眉をひそめた。 「そんなことを聞いて、何か意味があるのか?」 「あるよ」 私は彼を見た。 「怜司、私たち、付き合って3年だよ。私はあなたの家に来るのに、前もって許可を取らなきゃいけない。彼女はいつでも入れて、泊まることまでできる。それって公平だと思う?」 彼はアイランドキッチンへ行き、コップに水を注いだ。 「千晴はモチの世話をしている。自由に出入りできるようにしておく必要があるんだ」 「私は?」 「君には必要ない」 たったひと言。迷いもためらいもなかった。思わず笑いが漏れた。 「恋人なのに、あなたの家に入る必要はないってこと?」 「梓、恋人だからといって、越えていい境界じゃない」 怜司はコップを置き、指先でキッチンカウンターを軽く二度たたいた。苛立ったときの彼の癖だった。 「何度も言っただろう。自分の空間に勝手に踏み込まれるのは好きじゃない。今日、急に来たこと自体、よくないんだ」 「でも、望月さんが来るのはいいのね」 「彼女と君は違う」 千晴は目を伏せ、小声で彼をなだめた。 「怜司、そんな言い方しないで。森川さんが傷つくよ。私の指紋登録、消そうか?これからは管理会社の人に開けてもらえばいいんだし」 消すと言いながら、彼女は動かなかった。 案の定、怜司が止めた。 「その必要はない。モチには君が必要だ。彼女がすねたからって、今までのやり方を変えることはない」 モチは千晴の腕から飛び降り、私を避けて、慣れた様子で怜司の足元に寝そべった。 彼は身をかがめ、その頭をなでた。 3年前、ペットショップの前で、前の飼い主が手放した茶トラの猫を気に入ったことがある。怜司に3回頼んだ。でも、一度も頷いてはくれなかった。それだけは譲れないのだと思っていた。 今ならわかる。譲れるかどうかも、相手次第だったのだ。 私は彼のために買ったネクタイをバッグから出し、キッチンカウンターに置いた。今日は、付き合い始めて3年の記念日だった。早く来たのは、彼を驚かせて喜ばせたかったからだ。 千晴は箱に目をやると、ふと笑った。 「これ、見覚えがある。怜司、もう持ってなかった?」 怜司は箱を開け、ひと目だけ見た。 「ああ。先月、君が似たものをくれた」 千晴は申し訳なさそうに私を見た。 「ごめんね、知らなかったの。あのネクタイ、怜司にぴったりだと思ってつい……」 怜司は箱の蓋を閉め、私の前へ押し戻した。 「返品しておいで。無駄にすることはない」 「今日が何の日か、覚えてる?」 彼は腕を上げ、時計を見た。 「木曜日」 不意に、千晴のスマホが鳴った。電話を終えた彼女は、少し困った顔をした。 「動物病院から、モチの追加の予防接種の時期だって。でも私、夜は用事があって」 怜司は車のキーを取った。 「俺も一緒に行く」 玄関まで来て、ようやく私を振り返る。 「君も早めに帰って。これからは、俺の返事を待ってから来るように」 私はネクタイの箱を手に取らなかった。ただ、小さな声で尋ねた。 「怜司、私もこの家に自由に入れるようになりたいって言ったら?」 彼は2秒、黙った。 「梓、そんなやり方で俺を試さないでくれ」 目の前で、ドアが閉まった。 …… 翌日の午後、怜司からメッセージが届いた。 【昨夜の態度は悪かった。だが、急に押しかけてきた君にも非がある。お互い反省して、この話は水に流そう】 私はその文面を長いこと見つめ、【わかった】とだけ返した。 すぐに、今度は店の住所が送られてきた。 【今夜は部署の食事会だ。俺の同僚に会いたいって、前から言ってただろう?18時に来て】 この3年間、彼は仕事関係の集まりに私を連れていったことがなかった。昨夜の言い争いで、少しは変わってくれたのかと思った。 仕事が終わると、私はわざわざ家に戻り、ワンピースに着替えた。 店に着いたときには、個室はもう人でいっぱいだった。怜司の隣に、一つだけ空いた席がある。 そこへ向かいかけたところで、千晴がケーキを提げて入ってきて、笑顔で言った。 「ごめんね。モチの手当てが長引いちゃって」 すぐに誰かが声をかけた。 「黒瀬家の奥様、お席は取ってありますよ」 千晴が頬を赤らめる。 「そんな呼び方しないで。森川さんもいるのに」 一瞬、個室が静まった。十数人の視線が、一斉に私へ向いた。 怜司は何も説明せず、千晴のために隣の椅子を引いただけだった。 「座って」 私はテーブルのそばに立ち、自分のために空けられているように見えた席を見つめた。 同僚が慌てて取りなした。 「森川さんは、こちらへ。弁護士の河原(かわはら)先生をご紹介します。黒瀬さんから伺いましたが、最近、お仕事でもご一緒されているんですよね?」 私はいちばん端の席に座った。 怜司が私を呼んだのは、恋人だと認めるためではなかった。私たちの会社が共同で入札に参加しているから、契約書の確認を担当する弁護士と引き合わせておきたかった。それだけだった。 食事が始まってからも、話題はプロジェクトのことばかりだった。 怜司は黙々と食べ、ときおり顔を傾けて千晴の話に応じていた。 私の取り皿は、ずっと空のままだった。卓上の料理には、ほとんどピーナッツが入っていた。私は重いピーナッツアレルギーだ。 この店を選んだのは、千晴だった。 付き合って1年目に、ピーナッツのソースをうっかり口にして、病院で手当てを受けたことがある。あの夜、怜司は明け方まで付き添い、私のアレルゲンをスマホにメモしていた。 それくらいは、覚えてくれていると思っていた。 けれど彼は、顔を上げて私を見ただけだった。 「どうして食べない?」 「食べられるものが、ほとんどないから」 「好き嫌いはよくない」 千晴が、すぐに店員を呼んだ。 「サラダを一つ追加してください。ピーナッツは入れないで。怜司、森川さんはピーナッツアレルギーでしょう。忘れたの?」 怜司の手がわずかに止まった。 「……最近、忙しくてな」 謝罪はなかった。代わりに、千晴が優しい声で私を慰めた。 「この人、自分の誕生日も忘れるくらいだから、気にしないで。私たち、10年の付き合いだけど、私のアレルギーまで忘れることがあるの」 同席していた一人が笑った。 「またまた。この前、君がマンゴーアレルギーだって、黒瀬さんは取引先から届いた果物を全部送り返したじゃないか」 別の人が続けた。 「黒瀬さんは物忘れがひどいんじゃなくて、大事なことしか覚えないんですよ」 急に、場が静まり返った。言った本人もまずいと気づいたらしく、気まずそうに酒をひと口飲んだ。 ようやく怜司が眉をひそめた。けれど、その相手は彼らではなかった。 「梓、そんな顔をしないでくれ。みんな冗談を言っているだけだ」 何でもないことのように言われた。 まるで私が恥をかかされたのではなく、場違いな態度を取っただけのように。 私は唇の端をわずかに持ち上げた。 「今夜、私を呼んだのは、仕事の話をするため?」 彼は手を拭いた。 「ほかに何がある?」 「同僚の人たちは、私たちが付き合ってるって知ってるの?」 怜司の目が、少し冷たくなった。 「たかが冗談を、わざわざ人前で問題にするのか? 私的な関係を仕事の場に持ち込む必要はない。君はプロジェクトの協力相手だ。感情的になって、仕事の実力まで疑われるようなことはしないでくれ」 心が一瞬で冷たくなった。私は立ち上がり、バッグを取った。 千晴も立ち上がった。 「帰らないで。あなたに謝るよう、私からみんなに言うから」 「結構です」 私は怜司を見て、静かに言った。 「黒瀬さんのおっしゃるとおりですね。私的な関係で、仕事に影響を与えるべきではありません」 怜司の眉が、ぴくりと動いた。 私は初めて、彼が送ってくれるのを待たずに、一人で個室のドアを開けた。 ドアが閉まりかけたとき、中から同僚のひそめた声が聞こえた。 「黒瀬さん、あの子、本当に恋人なんですか?」 短い沈黙のあと、怜司が平然と答えた。 「まだ、どうなるかわからない。千晴の前で余計なことは言わないでくれ」 …… 確かに怜司は、仕事と個人的な感情をきっちり分けている。そのことが、よくわかった。 翌日の午後、入札に向けたリハーサルの前に、アシスタントが新しい進行表を手に、驚きもあらわに駆けてきた。 「森川さん、メインのプレゼン担当の名前、どうして変わっているんですか?」 受け取って、目を通す。 進行表の、もともと私の名前があったメインのプレゼン担当の欄には、はっきりと千晴の名が載っていた。 この住宅プランは、コンセプトから300枚を超える図面まで、私がチームを率いて半年かけて作り上げたものだ。千晴は会議を2回、傍聴しただけだった。 私は進行表を握りしめ、そのまま会議室のドアを開けた。 「怜司、説明して」 彼は身をかがめ、千晴のためにプロジェクターを調整していた。私の声を聞いても、淡々と目を上げただけだった。 「急な変更だ。千晴が説明して、君は質疑応答を担当する。彼女はマーケティング部門の責任者だ。君より説明がうまい」 私は進行表を机に置いた。 「核になるコンセプトも、平面図も、模型も、全部私のものよ。望月さんは図面の寸法を確認したことすらない。どうして彼女がメインのプレゼンをするの?」 千晴はノートパソコンを閉じ、静かに言った。 「あなたの手柄を横取りするつもりはないの。最近のあなたは調子がよくないから、本番で取り乱さないか心配だって、怜司が言ってたの」 「私がいつ、取り乱したの?」 怜司が口を挟んだ。 「昨夜、チーム全員の前で俺たちの関係を問い詰めただろう。あれで、協力し合う雰囲気を壊したんだ」 怜司は椅子を引き、私に座るよう促した。 「梓、俺と千晴が親しくしているのが気になるのはわかる。でも、これは40億円の案件だ。君の機嫌を取るために使うわけにはいかない」 彼の口調は、相変わらず落ち着いていた。けれど、ひと言ひと言が、私のデザイナーとしての実力を否定していた。 「だから、私の成果を彼女に渡すの?」 「説明を任せるだけだ」 「じゃあ、誰の名前を載せるの?」 私は進行表の最後のページを開いた。メインデザイナーの欄まで、千晴に変わっていた。 会議室では、誰も何も言わなかった。チームの何人かは俯き、私と目を合わせようとしない。 怜司は眉間をもんだ。 「クライアントは千晴を買っている。彼女の名前を出したほうが、受注しやすい。案件を取れたら、ボーナスも利益の取り分も、きちんと払う」 千晴が、水の入ったコップを差し出した。 「怒らないで。受注できたら、祝賀会であなたのことも話すから」 私は受け取らなかった。 「このプランの初稿、見たことある?」 千晴は答えられなかった。 怜司はとうとう我慢しきれなくなり、冷たい声で言った。 「今日から、君はプレゼンのチームを外れる。残りの資料は千晴に渡して。今後の会議にも出なくていい」 胸が締めつけられた。 「怜司、何の権利があって、私を外すの?」 「俺がこのプロジェクトの総責任者だからだ」 「著作権は私が持ってる」 「契約書に明記してある。プロジェクトの期間中に生まれた設計成果は、共同チームに帰属する」 彼は私のことをよくわかっていた。あのとき、彼と一緒に仕事がしたくて、契約書を一条ずつ確認しなかったことも。 渡すとき、彼が言ったのはひと言だけだった。 「君に損はさせない」 それで、私は署名した。 千晴が私の前へ来て、優しく言った。 「森川さん、恋愛のことで、みんなの仕事を止めないでくれる?怜司だって、プロジェクトのためにやってるの」 私はプロジェクターの接続ケーブルを抜いた。画面が、突然真っ暗になった。 怜司が私の手首をつかんだ。力は加減していても、振りほどくことは許さない握り方だった。 「やめてくれ。ケーブルをつなぎ直して。プロジェクトが終わったら、埋め合わせはする。 千晴がここで足場を固めるには、この案件が必要なんだ。君はもう2つも賞を取っている。今回くらい、なくても困らないだろう」 私は彼の目を見据えた。 「彼女が必要としてるから、私が譲るべきなのね?」 怜司は正面から答えなかった。 「どうして彼女と張り合う?」 ふいに、争う気が失せた。手首の力を抜くと、彼も手を放した。 私は接続ケーブルを千晴に渡した。 「わかった。あなたが説明して」 怜司の表情が、少し和らいだ。 「仕事が終わったら会いに行く。そのとき、また話そう」 「もういい」 私は背を向け、会議室を出た。 エレベーターのドアが閉まる前に、プロジェクトのアシスタントが追いかけてきて、書類の入った封筒を私に押しつけた。 「森川さん、黒瀬さんから処分するように言われた古い資料です。シュレッダーにかけるところだったんですが、森川さんのものが入っているかもしれないと思って」 私は封筒を開けた。いちばん上にあったのは、3年前の新人デザインコンテストでの申し立ての記録だった。 申し立ての対象者は、千晴。申し立てた側にあるのは、私、森川梓(もりかわ あずさ)の署名だった。 そして、対応方針の最後のページに、怜司が直筆で署名した社内メールが一通、挟まれていた。件名は、ただこう書かれていた。 【森川梓に接近し、申し立ての取り下げを促す計画について】 …… 3年前、私は新人デザインコンテストに参加した。決勝の前夜、私の応募作品は何者かによって無断で公開された。千晴は、それとほとんど同じプランで金賞を取った。 私は異議を申し立てた。けれど主催者は証拠不十分だと言い、調停を受け入れるよう勧めてきた。 どうすることもできずにいた私の前に、怜司が現れた。 彼は弁護士に連絡を取り、一緒に証拠を整理してくれた。私が高熱を出したときには、一晩中付き添ってくれた。 その後、証拠を保存したドライブが思いがけず壊れ、申し立てを続けられなくなった。 彼は言った。 「もうやめよう。一度のコンテストのことで、いつまでも立ち止まっていなくていい。君には俺がいる」 それが、彼を好きになったきっかけだった。この3年間、彼が私を愛してくれたと信じられる、たった一つの証拠でもあった。 けれど、そのメールの日付は、私たちが初めて会った日の7日前だった。 私は一枚ずつ、めくっていった。千晴が彼に送ったメッセージがあった。 【森川さんは、まだバックアップを持っているかもしれない。叔父様が、この件が大事になれば、会社の次の資金調達に響くって】 怜司の返信。 【俺が彼女に接触する】 【すごく警戒してるけど、うまくいく自信はあるの?】 【愛情に飢えている人間ほど扱いやすい。少し辛抱強く付き合ってやれば、自分から諦める】 最後のやり取りは、私たちが付き合うと決めた翌日だった。千晴が尋ねていた。 【彼女、申し立てを取り下げた?】 怜司は返していた。 【もうすぐだ。なだめるのは簡単だよ】 手の中で、紙がかすかに鳴った。 ちょうどそのとき、スマホの画面が明るくなった。母からの電話だった。 今日は、母が腫瘍の摘出手術を受ける日だった。怜司は、来ると約束していた。 病院に着いたときには、もう看護師から2回、催促されていた。 母は病院のベッドに横たわり、顔色が悪かった。 「怜司さん、渋滞にでも巻き込まれたの?」 「うん。もうすぐ着くよ」 私は非常階段へ行き、怜司に電話をかけた。 1回目は、出なかった。2回目は、切られた。3回目に出たのは、千晴だった。 「森川さん、怜司は今、手が離せないの」 「彼に代わって」 「モチがいなくなって、捜してるの。臆病な子だし、外は雨でしょう。本当に危ないのよ」 私はスマホを握りしめた。 「母は30分後に手術なの。来るって約束したのよ」 千晴は少し黙った。 「でも、手術はお医者さんがしてくれるし、あなたもいるでしょう。モチには、私たちしかいないの」 怜司が電話を代わった。呼吸が少し乱れ、電話の向こうからは雨音が聞こえた。 「梓、お母さんの手術は覚えている。でも、モチがいなくなったんだ」 「今から来れば、まだ間に合う」 「千晴は心配のあまり、喘息の発作を起こした。こんなところに一人で置いていけない」 「じゃあ、私の母は?」 「よくある手術だし、危険性も低い。君がそばにいるなら、それで十分だろう」 少し間を置き、彼は口調を和らげた。 「言うことを聞いてくれ。モチが見つかったら、すぐに行く」 言うことを聞いてくれ。3年前、申し立てを取り下げるよう説得したときも、彼はそう言った。 「梓、言うことを聞いてくれ。もう追及はやめよう。君なら、これからもっといい作品を作れる」 私は冷たい壁にもたれ、尋ねた。 「怜司、最初に私へ近づいたのは、望月さんのためだったの?」 電話の向こうが、急に静かになった。傘をたたく雨音だけが聞こえる。 その沈黙が、すでに答えだった。 「……何を言いたい?」 「そうか、違うか。それだけ答えて」 「昔のことは複雑なんだ。電話では説明しきれない」 「つまり、そうなのね」 怜司の声が低くなった。 「最初に君へ近づいた理由には、確かに彼女が関わっていた。でも、そのあとは違う。梓、そこにこだわりすぎないでくれ」 「証拠の入ったドライブ、誰が壊したの?」 「知らない」 答えるのが、あまりにも早かった。 そばで千晴が泣きながら、モチの名前を呼んだ。 怜司はすぐに言った。 「ひとまず切る。またあとで連絡する」 通話が切れた。 看護師が非常階段のドアを開けた。 「森川さん、お母様が手術室に入られます」 私は頬を濡らしていた涙を拭った。 手術室へ運ばれながらも、母は私を慰めていた。 「怜司さんを責めないでね。仕事は大事だから」 私は母の手を握り、笑顔で頷いた。 4時間後、手術は無事に終わった。 ようやく怜司からメッセージが来た。 【猫は見つかった。お母さんはどう?】 私は返事をしなかった。 昔の申し立ての記録をすべてスキャンし、3年間使っていなかったメールアカウントに再びログインした。 宛先の欄には、コンテストの実行委員会、共同プロジェクトのクライアント、そして業界団体の通報窓口のアドレスを入れた。 添付したのは、当時の手描きの原稿だけではない。怜司の社内メールと、たった今見つけ出したクラウドのバックアップ記録も加えた。 最後に、共同プロジェクトの管理画面を開いた。 設計の使用許諾を取り消す。自分の電子署名を削除する。 画面に、続けて二つの警告が表示された。 【取り消すと、このプロジェクトは入札への参加を継続できなくなります】 【よろしいですか?】 私は確認ボタンを押した。 同時に、怜司から音声メッセージが届いた。 「梓、君の指紋も登録していい。もうすねないでくれ。今夜、病院へ迎えに行く……」 最後までは聞かなかった。 画面の中で、通報メールの送信状況を示すバーが、端まで伸びた。 送信完了。