信号が青に変わっても、私は振り返らない

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郡司千明(くんじ ちあき)が酔った夜、私は初めて彼の代わりに車を運転した。 運転席に座ると、車載ディスプレイにメッセージが表示された。 【おかえりなさい、奥様】 私は一瞬きょとんとして、思わず頬を緩めた。私に内緒で、登録名をこんなふうに変えていたんだ。 けれど次の瞬間、シートが自動で前に動き、ルームミラーが下を向いた。エアコンの設定温度は26度に切り替わり、スピーカーから小形咲実(おがた えみ)のいちばん好きな曲が流れ始める。 笑顔がゆっくりと消えた。 私はエアコンを26度にしないし、シートをこんなに前へ出すこともない。 シートのメモリー設定を開くと、登録されていた名前は3つだけだった。 【千明】 【奥様】 【チビちゃん】 指先が冷たくなった。最後の名前を選ぶと、シートがゆっくり後ろへ下がり、腰のサポートがせり上がった。 ぴったりだった。 ――これが、私の位置だ。 翌日、私は千明に尋ねた。 「どうしてあの人が『奥様』で、私は『チビちゃん』なの?」 彼は一瞬固まったあと、笑って私の頭を撫でた。 「咲実がいつも『自分は結婚できない』って言うから、からかってただけだよ。それにお前は、俺に『チビちゃん』って呼ばれるの、好きだっただろ?」 私は手を伸ばし、メモリー設定から【チビちゃん】を削除した。 千明の笑みが薄れる。 「何をするんだ」 私は車のドアを開けた。 「あなたの奥様に、席を譲るの」

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第1章

郡司千明(くんじ ちあき)が酔った夜、私は初めて彼の代わりに車を運転した。 運転席に座ると、車載ディスプレイにメッセージが表示された。 【おかえりなさい、奥様】 私は一瞬きょとんとして、思わず頬を緩めた。私に内緒で、登録名をこんなふうに変えていたんだ。 けれど次の瞬間、シートが自動で前に動き、ルームミラーが下を向いた。エアコンの設定温度は26度に切り替わり、スピーカーから小形咲実(おがた えみ)のいちばん好きな曲が流れ始める。 笑顔がゆっくりと消えた。 私はエアコンを26度にしないし、シートをこんなに前へ出すこともない。 シートのメモリー設定を開くと、登録されていた名前は3つだけだった。 【千明】 【奥様】 【チビちゃん】 指先が冷たくなった。最後の名前を選ぶと、シートがゆっくり後ろへ下がり、腰のサポートがせり上がった。 ぴったりだった。 ――これが、私の位置だ。 翌日、私は千明に尋ねた。 「どうしてあの人が『奥様』で、私は『チビちゃん』なの?」 彼は一瞬固まったあと、笑って私の頭を撫でた。 「咲実がいつも『自分は結婚できない』って言うから、からかってただけだよ。それにお前は、俺に『チビちゃん』って呼ばれるの、好きだっただろ?」 私は手を伸ばし、メモリー設定から【チビちゃん】を削除した。 千明の笑みが薄れる。 「何をするんだ」 私は車のドアを開けた。 「あなたの奥様に、席を譲るの」 第 1 話 その夜11時、千明は私が泊まっているホテルにやって来た。 7年間、私たちはずっとスマホの位置情報を共有したままだった。彼から逃げるというのに、居場所を隠すことさえ忘れていた。 ドアを開けると、彼はカーペットの上に裸足で立つ私を見て、すぐに眉をひそめた。 「スリッパは?」 私が答えないでいると、彼は返事も待たずに体を滑り込ませ、持っていた袋をテーブルに置いた。 胃薬、メイク落としシート、着替えのパジャマ。それに、駅の南口にある、毎日行列ができる店のモンブラン。スリッパまで、私がいつも履いているものと同じ型だった。 彼は胃薬の箱を開け、白湯を注いだコップと一緒に差し出した。 「車の登録名、直したよ。これからは『奥様』でも『女王さま』でも、好きな名前に変えればいい。これでいいだろ?」 私は受け取らなかった。 彼はしばらく私を見下ろしてから、ふっと笑った。 「前はすぐ機嫌を直してくれたのに、最近は手がかかるな」 千明は、そういう人だった。 この7年間、胃が痛いときは空腹のまま薬を飲んではいけないことも、慣れない場所では眠れなくなりやすいことも覚えていた。 私が「大丈夫」と一言言うだけで、どれほど怒っているかまで察することができた。 この世に、彼以上に私をわかってくれる人はいない――そう思うことさえあった。 そのとき、彼のスマホが鳴った。 咲実からだった。 彼は私の目の前で電話に出た。 「どうした?」 電話の向こうから、泣きそうな声が聞こえた。 「コインがいなくなったの......ベランダの網戸がいつの間にか開いてて、同じ階を全部捜したけど見つからないの......」 千明の顔から、気楽な表情が一瞬で消えた。彼は上着をつかんだ。 胸が沈む。 「行くの?」 「あの子は怖がりだ。外に出たままじゃ、今夜を無事に越せるかどうかもわからない」 「でも、来たばかりじゃない」 「戻ってこないわけじゃないだろ」 彼は私の前まで来ると、頬を軽くつまんだ。 「いい子にして薬を飲んでて。見つかったらすぐ戻ってくるから」 私は道を譲らなかった。 「今日いなくなったのが、私のネコだったら?」 千明は一瞬きょとんとし、くだらない質問を聞いたとでもいうような顔になった。 「そんなわけないだろ。脱走防止フェンスを付けたのは俺だし、毎日、窓とドアの戸締まりも確認してる」 彼は私を見下ろし、なだめるような口調で続けた。 「早智(さち)、わかってるだろ?俺は咲実よりずっとお前のことを気にかけてるって」 彼はそれが当然だと思っているようだった。 目の前でドアが閉まった。 午前1時7分、咲実がSNSに投稿した。 道端にしゃがみ込み、見つかったネコを抱いている。泣きはらした目は真っ赤だった。その後ろに千明が立ち、彼の上着が咲実の肩に掛けられていた。 添えられた言葉は一つだけ。 【よかった。どんなに遅い時間でも、来てくれる人がいる】 コメント欄には、こんな質問があった。 【彼氏?】 咲実は答えなかった。否定もしなかった。 その12分前、千明から私にメッセージが届いていた。 【ネコは見つかった。もう遅いから彼女を送っていく。先に寝てて】 私はテーブルの上で形の崩れたモンブランを見つめた。 急に、可笑しくてたまらなかった。 彼は私を愛していないわけじゃない。 ただ、私が離れていくはずはないと信じ切っているのだ。 だからケーキは後で食べればいい。薬は自分で飲めばいい。私だって、いつまでも待っていられる。 翌朝、チェックアウトする前に、私は一口も食べていないケーキをテーブルに残していった。 ―― 母の命日、千明は朝早く迎えに来た。 車のドアを開けると、後部座席に白い菊と、母が生前好きだった店の栗まんじゅうが置いてあった。私は思わず手を止めた。 千明が私のシートベルトを締める。 「俺が忘れると思った?」 鼻の奥がつんとした。 この7年間、彼は母の命日に一度も欠かさず付き添ってくれた。 車が道の半ばまで来たところで、咲実から電話がかかってきた。彼は一度目の着信を切ったが、すぐにまた鳴る。 私は顔をそむけた。 「出ていいよ」 「いや」 彼は私の手を握った。 「今日は誰よりもお前を優先するから」 私は何も言わず、そっと彼の手を握り返した。 山のふもとに着き、私は彼に道端で待っていてもらって、一人で線香を買いに行った。 十数分後に戻ると、車が消えていた。 風の吹きつける道端で3度電話をかけ、ようやく彼が出た。向こうからは、せわしない車のクラクションが聞こえる。 「悪い、戻るのが少し遅くなる」 私は紙袋を強く握った。 「どこに行ったの?」 「咲実の元彼が酔って、彼女の会社の前で待ち伏せしてる」 「今日は誰よりも私を優先するって言ってたのに?」 千明は一瞬黙った。 「......向こうは手を出してるんだ。殴られるのを黙って見てろっていうのか」 「通報は?」 「した。でも、着くまで時間がかかる」 胸の内が少しずつ冷えていく。 「それで、私をここに置いていったの?」 彼はとうとう苛立ったようだった。 「もう山のふもとまで送っただろ。墓参りは二人じゃなきゃできないわけでもないし、お前の母さんの墓も逃げたりはしないだろう」 風が吹き、抱えていた菊が揺れた。 電話の両側で、ふいに言葉が途絶える。 千明も、自分が何を言ったのか気づいたのだろう。すぐに声を和らげた。 「ごめん、口が滑った。そういう意味じゃない。先に行っててくれ。片づいたらすぐ戻る。ちゃんと夜に埋め合わせするから。な?」 彼が現れたのは、午後4時を過ぎてからだった。 シャツの襟元のボタンが一つ外れ、手の甲には擦り傷ができている。言いたいことは山ほどあったのに、血を見た途端、私は反射的に彼の手をつかんだ。 「どうしたの、この傷」 千明は口元を上げた。 「心配してくれるのか?じゃあ、今日のことはこれで水に流してくれ」 私が顔を上げると、彼はまた笑い、親指で私の手の甲を撫でた。 「わかった、水には流さなくていい。夜、気が済むまで怒ってくれ」 以前の彼なら、泣いていた私をいつの間にか笑わせることができた。 けれど、そのとき私の目に入ったのは、彼の手首に巻かれた組紐だった。細い紐に、小さな銀の玉が一つ付いている。 咲実が身に着けているのを見たことがあった。 私は手を離した。 「それ、何?」 千明は自分の手首を見た。 「彼女がどうしてもって結んだんだ。今日はけがをするかもしれないから、お守りになるって」 私は黙ったままだった。 彼は赤い紐を引っ張った。 「嫌なら外すよ」 「千明」 「ん?」 「今日は母の命日なの」 彼の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。 私は紐を見つめたまま言った。 「母の命日に、あなたは私を一人でお墓へ行かせて、別の女の人を守りに行った。 まさか、その人にもらったお守りを着けたまま、私と一緒に母のお墓に参るつもりだったの?それでいいと思う?」 千明は口を開きかけた。 私は後部座席から、すっかり冷めた栗まんじゅうの箱を取り上げた。 「帰って」 彼が眉をひそめる。 「またそれか?せっかく戻ってきたのに、これ以上どうしろっていうんだ?」 私は少し間を置いた。 「......そうだね。来てはくれたんだもんね。ごめんなさい。それ以上を望んだ私が悪かった」 その日、私は一人で石段を上り、山へ向かった。 背後から足音が聞こえることは、いつまでたってもなかった。 ―― 千明は3日間、咲実と連絡を取っていなかった。 少なくとも、私にはそう言っていた。 4日目の午後、彼の父親が突然胸の痛みを訴え、救急車で病院に運ばれた。 連絡を受けたとき、私は会議中だった。ノートパソコンを閉じることも忘れ、バッグをつかんで飛び出した。 救急外来に駆けつけると、千明が壁にもたれていた。顔色がひどく悪い。 私を見るなり、彼は何も言わず、強く抱きしめてきた。その腕には力がこもり、呼吸まで震えていた。 「早智......」 7年間で、彼がこれほど怯えているのを見たのは初めてだった。 私も彼を抱きしめる。 「ここにいるよ」 処置室のドアが開き、検査結果を手にした医師が出てきた。 「患者さんには冠動脈疾患の既往があります。以前のお薬手帳やカルテ、服薬履歴があれば見せていただけますか?今後の治療方針を確認しますので」 私もついていこうとすると、千明が肩を押さえた。 「お前はここで待ってて」 「私も一緒に行く」 「中では治療のリスクについても話す。聞いたら、お前はまた悪いほうに考えるだろ」 そう言った彼が、廊下の向こうに目を向けた。 咲実が診療記録の束を抱え、急いでこちらへ来る。 千明は早口で説明した。 「母さんが呼んだんだ。父さんの資料は前から彼女が預かってたから」 そして記録を受け取る。 「咲実、俺と一緒に来て。去年、薬を変えたときもそばにいただろ」 私は彼を見た。 「どうして彼女なの?」 千明は焦りで眉間にしわを寄せていた。 「父さんが何年にどんな検査を受けて、いつ薬が変わったか、彼女ならわかる」 「私も説明を聞けるよ」 「早智」 彼が振り向く。 「無理して意地を張るな」 「意地なんて張ってない。私だって覚えられる」 医師が先を急かしていた。 千明はとうとう苛立ちをあらわにした。 「何をだよ?父さんが中で横になってるんだ。お前はリスクの話を少し聞いただけで顔色をなくして、結局、俺がなだめることになる。お前が入ったって、泣くことぐらいしかできないだろ?少なくとも咲実は、何を質問すればいいかわかってる」 最後の一言が落ち、廊下は数秒間、静まり返った。 咲実まで顔色を変える。 「千明、そんな言い方しなくても」 千明は目を閉じた。だが、医師はもう行くよう促している。 彼は「出てくるまで待っててくれ」とだけ言い残した。 ドアが閉まる。 私は長椅子に座り、処置室の入り口の上にともる赤いランプを見つめた。 不思議と、涙は出なかった。 1時間あまりして、彼の父親の容体は落ち着いた。 千明は出てくるなり私のところへ来て、目の前にしゃがんだ。 「怒ってるのか?」 私は答えなかった。 彼が私の手を握る。 「ごめん、さっきは気が動転して、考えずにしゃべった。俺の口が悪いのは知ってるだろ」 そう言いながら、ポケットからみかん味の飴を一つ取り出し、私の手のひらに載せた。 子どもの頃、私がいちばん好きだった銘柄だ。 「ほら、そんなに目を赤くするなよ」 彼は少し口元を緩めた。 「そんな顔してたら、まるで自分の父親が倒れたみたいに見えるぞ」 私が顔を上げると、千明の笑みが固まった。 今度こそ、本当に失言したと気づいたのだ。 「早智、俺は――」 私は手のひらを開いた。飴が一つ、そこに静かに載っている。 「私には飴を与えておけばいいって、ずっと子ども扱いしてたの?」 彼は呆然とした。 私は飴を彼の胸ポケットに戻した。 少し離れたところから、診療記録を抱えた咲実が声をかける。 「千明、おじさん、明日の朝、手術前に薬の確認をもう一度するって」 彼は反射的に振り向いた。 「わかった。診療記録は預かっておいて」 二人で何度もこんな場面を乗り越えてきたかのような、あまりにも自然なやり取りだった。 私はうつむき、飴の包み紙が食い込んでできた手のひらの赤い跡をこすった。 そして初めて、彼が振り返るのを待たずに立ち去った。 ―― 千明の父親が退院してから、彼は本当に変わろうとしているように見えた。 もう私に「お前にはできない」とは言わなくなった。家の契約で更新が必要なものがあれば、私を隣に座らせ、一つずつ手続きを教えてくれた。 父親の次の診察についても、日時と診療科、担当医の名前を送ってきた。 6年前に立ち上げた彼の外食チェーンが年次監査を受けるときには、書類をテーブルに広げて私に尋ねた。 「見てみる?」 私はわざと「見てもわからないよ」と答えた。 彼は椅子の背にもたれて笑う。 「わからなければ聞けばいい。もう子ども扱いしないようにするから」 咲実から電話が来ても、彼は距離を置くようになった。 その夜、彼女は胃が痛いと言い、電話越しの声は弱々しかった。 千明はスピーカーホンにして尋ねた。 「歩ける?」 「うん」 「なら、タクシーを呼んで病院に行って」 咲実はしばらく黙った。 「前はいつも付き添ってくれたのに」 千明は私をちらりと見た。 「前は俺の距離の取り方が間違ってた」 電話が切れると、彼は腕を伸ばして私を引き寄せた。 「これでいい?」 私は意地を張って答えた。 「私には関係ないでしょ」 「まったく」 彼は額を私の額にくっつけ、憎らしいくらい楽しそうに笑った。 「前は嫉妬して、俺に噛みつきそうな勢いだったのに。今度は物分かりのいい女のふりか?」 思わず彼を押すと、彼はその手を握り、ポケットから新しい鍵を取り出した。 「家の鍵を替えた。暗証番号はお前が決めて。咲実の指紋登録も消した。車の登録名からも『奥様』を消したよ」 急に鼻の奥がつんとした。 7年間は、7日間とは違う。 何度か傷ついたからといって、愛情を一刀両断に消せるわけじゃない。 その夜、私は本気で考えた。 これを最後に、もう一度だけ。 彼が本当にわかってくれたのなら、私たちは元に戻れるかもしれない。 帰り道、千明は水を買うために車を降りた。彼のスマホは車載システムにつながったままで、かかってきた電話が自動でつながった。 スピーカーから男性の声が流れる。 「郡司さん、三上です。5年前に当事務所で作成された遺言書と、それに伴う財産管理の取り決めについて、今年の定期確認をさせていただきます。 現在も遺言執行者として登録されているのは小形咲実さんです。万一、郡司さんに何かあった場合、会社の株式、預金、その他の個人資産は、まず小形さんが確認と処理を行い、その後、遺言の内容に従って水島早智(みずしま さち)さんに引き渡す取り決めとなっています。こちらは変更なしでよろしいでしょうか」 ちょうどそのとき、千明が車のドアを開けた。 目が合う。 彼の顔色が一瞬で変わった。 電話の向こうから、再び声がした。 「郡司さん?」 千明は手を伸ばして通話を切った。 「早智、聞いてくれ、これは――」 私は彼を見つめた。 「私たちは7年前から付き合ってる。そしてあなたが遺言書を作ったのは5年前。最終的にあなたの財産を全部受け取るのは私。なのに、あなたの葬儀の手配をして、会社を管理して、財産に触れるのは、どうしてあの人なの?」 彼の喉が動いた。 「それは......」 車内が恐ろしいほど静かになった。 しばらくして、彼は低い声で言った。 「彼女のほうが、しっかりしてるって、あのときは思ってたから......」 その一言が、まっすぐ胸に落ちた。 冗談でもなければ、私のためだという言い訳もなかった。 私は手の中の鍵を強く握った。 「で?」 「あの頃は会社を立ち上げたばかりで、体調も悪かった。いつ何があるかわからないと、本気で思ってたんだ。俺が怪我しただけで、お前はあんなに泣いただろ。本当に死んだら、お前は立ち直れないと思って」 彼は私の手をつかんだ。 「遺言に書いた財産は、全部お前のものだよ。これは間違いない。咲実に会社や口座のことを先に整理してもらって、それからお前に渡すつもりだった。それだけだ」 私は彼を見つめた。突然、涙がこぼれた。 「つまり、あなたが死んだら、彼女が葬儀を取り仕切って、財産を調べて、何をいつ私に渡すかも、彼女が決めて。最後には、私がどう生きていけばいいかまで、あなたの代わりに教えてくれるというの?」 「教えるんじゃない」 「じゃあ、何?」 千明は問い詰められ、声を荒らげた。 「お前が耐えられないと思っただけなんだよ!もしものときのことを考えて手配したのに、それも間違いなのか?」 私は笑ってしまった。 「ねえ、もしかして私をものすごく愛してると思ってるの?生きてる間はあの人に私の代わりに家族の役目をさせて。死んだあとまで、彼女を私の後見人にするほど?」 彼は険しい顔になった。 「そんな言い方しなくても」 「じゃあ教えてよ!私はあなたの恋人なの?将来の妻なの?それとも、あなたとあの人が飼ってきたペットなの?!」 「早智!」 彼はとうとう怒鳴った。 「俺は、彼女のほうがお前より頼りになると思っただけだ!これの何が悪い?!」 怒鳴り声が途切れると、彼自身が固まった。 私の中に最後まで残っていた何かも、静かに消えた。 千明が私を抱き寄せようと手を伸ばす。 「違う、そういう意味じゃ――」 私は、さっきまで握りしめて熱くなっていた鍵を、そっと彼の手のひらに戻した。 「あなたはいつも、私がもう少し大人になったら、全部渡すって言ってたよね」 私は涙を拭った。 「千明。私、今日、大人になったよ」 彼の顔から、少しずつ血の気が引いていく。 「どういう意味だ?」 私は車のドアを開けた。夜風が一気に吹き込む。 「もう、あなたたち二人に面倒を見てもらう必要はないってこと」