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零れ落ちた8年
誕生日の今日、私・瀧本望(たきもと のぞみ)は願い事をしていた。すると突然、越谷渉(こしや わたる)のスマホが鳴った。 「章太くんから急ぎの用事だって。すぐ戻る」 私が頷くのを待つこともなく、渉はそのまま店を出ていった。 私は長いこと待ち続けたが、渉は戻ってこなかった。電話をかけても出ない。 レストランが閉店する時間になって、ようやく私は店を出た。 冷たい風が吹きすさぶ中、私は彼のルームメイトの林章太(はやし しょうた)に電話をかけた。 ところが、章太は部屋でゲームをしているという。 一瞬、章太は言葉に詰まった。そして、慌てて言い直した。 「いや、今は病院にいる」 胸の奥がずしりと重くなった。私はすぐに渉のスマホの位置情報を開いた。 表示された場所は――カラオケだった。 私は位置情報を頼りにその店まで向かい、該当する個室を探し当てると、そっとドアを開けた。 そこで目にしたのは、渉が俯いて、北野明奈(きたの あきな)の額にキスをしている姿だった。
Chapters (1)
第1章
誕生日の今日、私・瀧本望(たきもと のぞみ)は願い事をしていた。すると突然、越谷渉(こしや わたる)のスマホが鳴った。
「章太くんから急ぎの用事だって。すぐ戻る」
私が頷くのを待つこともなく、渉はそのまま店を出ていった。
私は長いこと待ち続けたが、渉は戻ってこなかった。電話をかけても出ない。
レストランが閉店する時間になって、ようやく私は店を出た。
冷たい風が吹きすさぶ中、私は彼のルームメイトの林章太(はやし しょうた)に電話をかけた。
ところが、章太は部屋でゲームをしているという。
一瞬、章太は言葉に詰まった。そして、慌てて言い直した。
「いや、今は病院にいる」
胸の奥がずしりと重くなった。私はすぐに渉のスマホの位置情報を開いた。
表示された場所は――カラオケだった。
私は位置情報を頼りにその店まで向かい、該当する個室を探し当てると、そっとドアを開けた。
そこで目にしたのは、渉が俯いて、北野明奈(きたの あきな)の額にキスをしている姿だった。
第 1 話
光と影が交差する中、私の恋人とその後輩は、歓声に包まれながら固く抱き合っていた。
その瞬間、ドアノブを握る手にぎゅっと力が入った。抑えようとしても、震えが止まらない。
まるで頭から冷水を浴びせられたように、全身が冷たさに包まれた。
そこへフルーツの盛り合わせを運んできた店員が、怪訝そうに私を一瞥した。
私はこわばった足を引きずるようにして、そっと横へ退いた。
個室の中から「誕生日おめでとう!」と一斉に声が上がったとき、私は背を向けてその場を去った。
今日は私の誕生日でもある。
渉と二人きりで過ごしたくて、友達には声をかけなかった。
両親と幼なじみがお祝いのメッセージをくれただけ。
渉からは、まだ「誕生日おめでとう」の一言すらもらっていない。
私が誕生日の願い事をしている途中で、明奈からの電話に邪魔された。
本当なら、渉が戻ってきてから一緒に願い事をするつもりだった。
でも、もう必要ない。
私の24歳の誕生日、私は渉の浮気を知った。
これだって、彼と明奈からの誕生日プレゼントと言えなくもない。
渉が買ってくれたケーキは、店の受付にいたスタッフにあげた。
二人の女性スタッフが笑顔で言った。
「わあ、ありがとうございます!お誕生日おめでとうございます!」
「ありがとう」
ほら。渉が言ってくれなくても、私に「お誕生日おめでとう」と言ってくれる人はいる。
私は二人に笑いかけたけれど、目頭がひりひりと痛むばかりだった。
外に出て初めて、雪が降り始めていることに気づいた。
胸が苦しくて仕方なくて、私は顔を上げ、胸の奥に詰まっていた息を吐き出した。
白い息が目の前に立ち上る。
寒い。心の底まで震えるほど、寒い。
私は目を閉じ、込み上げてくる熱いものをぐっと押し殺すと、夜の通りを前へ歩き出した。
まだ営業しているパン屋の前を通りかかると、店内から暖かな白熱灯の明かりが漏れていた。
私は足を止め、振り返った。レジ横の透明なショーケースには、小さなケーキが並んでいる。
しばらくして、私はガラスの扉を開け、マンゴーのカップケーキを1つ買った。そして、店員に小さなロウソクをもらった。
「すみません、うちにはライターがなくて……」
「大丈夫です、持ってるので」
反射的にコートのポケットへ手を伸ばした。けれど、ふと手が止まった。
渉は煙草を吸うくせに、ライターをいつもそこら中に放りっぱなしにする。
だから私は、いつも彼のためにライターを持ち歩いていた。
何年も続いたせいで、すっかり癖になっていた。
私はゆっくり手を下ろし、店員に小さく会釈をして店を出た。
そのまま街を歩き、広場のベンチに腰を下ろした。
周囲にはもうほとんど人がいない。
私は時間を確認した。
11時。まだ今日という日は終わっていない。
細かな雪が舞い落ちる中、私はケーキを取り出してロウソクに火を灯し、目を閉じた。
そして、今年の願いを口にした。
「渉と別れますように。これからの私が、もっと幸せになりますように」
渉から電話がかかってきたけれど、私は出なかった。メッセージにも返信しなかった。
ようやく私の存在を思い出したのだろう。私から何度も電話がかかっていたことにも気づいたらしい。
それでも何度も電話をかけてくるので、私はそのまま電源を切った。
借りている部屋には戻らず、タクシーで大学へ向かった。
中山萌佳(なかやま もえか)は論文のデータを処理していて、まだ起きていた。こんな時間に私が戻ってきたのを見て、驚きを隠せない様子だった。
「望ちゃん、どうしたの?顔、真っ青だよ」
萌佳は椅子から立ち上がった。私が彼女の肩に寄りかかると、反射的に私を抱きしめてくれた。
私は彼女の肩に顔を埋めた。
「ちょっとだけ……寄りかからせて。もう、耐えられそうにない」
あの瞬間から今まで、帰ってくる道中ずっと、呼吸をするだけでも痛かった。何度も道端にしゃがみ込み、苦しそうに息をしたほどだった。
「どうしたの?」
萌佳が心配そうに尋ねる。
「何があったの?」
私は目を閉じた。自分の声が、かすかに震えているのが分かった。
「渉が浮気した。明奈と……」
私は今夜起きたことをすべて萌佳に話した。
萌佳は数秒黙り込んだあと、怒りを爆発させた。
「このクズども!望ちゃん、あんたは優しすぎるのよ!あのとき、乗り込んでケーキを二人の顔にぶちまけて、一人ずつビンタしてやればよかったのに!
それが無理なら、受付の人にケーキを中まで届けてもらえばよかったのよ!思いっきり胸糞悪くさせて、反吐を吐かせてやればよかったのに!」
私は一瞬きょとんとして、それから少し笑った。
「……そうだね。どうしてその手を思いつかなかったのかしら」
「……やっぱり笑わないほうがいいよ。泣いてるほうがまだマシなくらい、ひどい顔してる」
萌佳はそう吐き捨てると、ため息をついた。
「だったら、いっそ泣きなよ。泣いたほうが少しは楽になるから」
でも、私は泣けなかった。目はひどく痛むのに、涙を流したいとは思わなかった。
もう渉は私を愛していない。あんな男のために、これ以上涙を流す価値すらない。
そのとき、萌佳のスマホが鳴った。画面に表示された名前は、渉。
萌佳は一瞥すると、そのまま電話を切った。
「よくも私のところにまで電話してこられるわね。浮気相手と勝手にやってればいいのよ!」
渉から、もう電話はかかってこなかった。
萌佳は私を心配して、そばにいてくれた。そして午前4時、眠気に耐えられなくなった彼女は、そのまま眠りについた。
私は一晩中眠れなかった。頭の中には、二人が見つめ合いながら笑っていた姿が何度も浮かんできた。
まるで自分を傷つけるかのように、どうしても止められなかった。
私はスマホを開いた。不在着信は99件以上、すべて渉からだった。
ラインにも大量のメッセージが届いていたが、私は開かなかった。
彼のトークのピン留めを外した。
インスタのタイムラインの一番上にあったのは、明奈の投稿。
写真には、誕生日用のティアラをつけ、ケーキに向かって両手を合わせて願い事をしている彼女が写っていた。
投稿文は、【21歳の今日、友達がそばにいて、愛する人が目の前にいる。願いが叶った~これからもずっと、思いっきり幸せになります!】
写真の隅には、渉の左手が写っていた。袖をまくった手首には、私がプレゼントした腕時計がついている。
その瞬間になって、私はようやく気づいた。もしかしたら、今回が初めてではなかったのかもしれない。
私が明奈と初めて会った頃には、すでに二人の関係は親密だったのだ。
私と渉が付き合い始めたのは、高校時代だった。
同じ大学に合格して、卒業後はそのまま大学院へ進み、現在に至る。
気づけば、8年もの歳月が過ぎていた。
渉は冷淡でプライドが高く、口数の少ない人。興味のないことや人には、決して関心を向けない。わざわざ覚えておこうともしない。
そんな彼が、明奈のことは覚えていた。
明奈は彼と同じ専攻の後輩で、渉は大学院1年のとき、新入生の指導担当に選ばれた。
その頃、彼は私にこう話していた。
「ちょっと面倒な後輩がいる」
当時の私は気にも留めず、むしろ彼をなだめた。
「大学に入ったばかりなら、分からないことも多いよ。何でも気になる時期だし、もう少し気長に付き合ってあげたら?」
今になって思えば、あの頃から渉は頻繁にスマホを見て、メッセージを返していた。
彼は「やることが多いんだ」と言っていた。私はそれを理解していた。
大学院の研究だけでも大変なのに、1年生の面倒まで見なければならないのだから。
私が明奈と初めて会ったのは、大学の体育祭だった。
彼女は長距離走に出場していて、途中で転んでしまった。渉が彼女を保健室まで連れていった。
ちょうど私も渉に用事があって探しに行った。
そこには、涙を浮かべていかにも傷ついたような顔をしている明奈と、隣で険しい顔をしている渉がいた。
私は不思議に思った。渉は、いったい何に怒っているんだろう?
その後、明奈と顔を合わせることが増えていった。なぜなら、いつも渉のそばには彼女がいたからだ。
私を見るたび、彼女は笑顔で挨拶してきた。少し甘えたがりなところを除けば、特に問題があるようには見えなかった。
アルバイトの帰りに雨が降ったから、タクシーを呼ぶことも思いつかず、渉に迎えに来てもらったこと。
渉は私を置いて、「明奈はまだ若いんだ。こんな時間に女の子が一人で外にいたら危ないだろ」と言った。
でも、私たちだって外にいた。
彼は行ってしまい、私は一人で大学まで戻った。
深夜に明奈が熱を出して、渉にだけ電話をかけてきたこと。
渉は夜中に彼女を病院へ連れて行き、夜遅くまで付き添った。
スライドの作り方、選択科目のこと、弁論大会、サークルへの加入、学生会の面接……
何かにつけて、明奈は渉を頼った。
一見すれば、どれも大したことではない。大学1年生なら分からないことも多いのだから。
でも、おかしかったのは、新入生の指導担当が渉一人ではなかったことだ。
それなのに、明奈が頼るのはいつも渉だった。そして、私の存在を知ったあとも、彼女は遠慮するどころか、かえって図に乗って渉に近づいていった。
3年生になっても、明奈は変わらなかった。
インターンのこと、大学院入試のこと、奨学金の申請……
何かあるたびに渉を頼った。
もともと渉は気が長いほうではない。最初の頃は面倒くさそうにしていたのに、いつしか根気よく説明し、彼女を手伝うようになっていた。
そんな忍耐強さを、彼が他人に見せることはほとんどなかった。
「先輩が後輩を助けているだけ」
そう言われれば筋は通っている。誰かに見られても、いくらでも説明できる。
私だって、もし自分の目で見なければ、きっと二人に騙され続けていた。
そうだったのだ。裏切りは、一朝一夕に始まるものではない。
長い年月をかけて、少しずつ積み重なっていく。
私は目を閉じた。胸の奥がきゅっと締めつけられ、また息が詰まりそうになった。
8年間の愛情が、この瞬間、完全に消え去った。
翌朝、萌佳はまだ眠っていた。私は静かに起き上がり、寮を出た。
荷物はすべて借りている部屋に置いたままだ。取りに戻らなければならない。
空はどんよりと曇っていた。
1階の照明はまだ点いたまま、辺りは静まり返っている。授業が始まる時間にはまだ早く、みんな眠っていた。
カードをかざして寮のゲートを出たところで、私は足を止めた。
渉が壁にもたれて立っていた。昨日と同じ服を着て、両手をコートのポケットに入れ、俯いている。足音に気づいたのか、ゆっくり顔を上げた。
一晩中眠っていないせいか、顔色は青白く、目の下には濃い隈ができていた。
昨夜、萌佳が電話を切ったことで、渉は私が寮に戻ったのだと察したのだろう。
彼は手を伸ばし、私を自分の前へ引き寄せると、強く抱きしめた。
私は寒がりだった。冬になると、彼はいつも手を温めてから、私の手を包んでくれた。
でも今、渉の手は驚くほど冷たかった。彼の体から漂う冷気が、私を包み込む。
「ごめん。俺が悪かった」
渉は私の首元に顔を埋め、掠れた声で言った。
「昨日はずっと病院にいて、言うのを忘れてた。
来年は絶対、君と一緒に過ごすって約束する。もう二度と君を置いて行ったりしないから」
来年?
でも、来年、私はもうあなたと一緒にはいない。
私は大学の並木道に目を向けた。
冬になり、木々の葉はすっかり落ちている。残っているのは裸になった枝だけ。その上に、消え残った雪が積もっていた。
胸の奥がひどく冷えた。
今になっても、彼は章太を言い訳に使っている。しかも章太まで巻き込んで、私を騙そうとしている。
そこへ、明奈が2杯のホットコーヒーを持って歩いてきた。
渉が私を抱きしめているのを見ると、彼女の顔に一瞬、苛立ちと不満が浮かんだ。
ほんの一瞬だった。それでも、私ははっきりと見ていた。
「瀧本さん、昨日電話に出なかったんですね」
明奈は早足で近づいてきて、心配そうな顔を作った。
「越谷さんがすごく心配してたんですよ。大丈夫ですか?」
あの写真は、彼女がわざとあの角度を選んで撮ったのだろう。私への当てつけに決まっている。
なにしろ、あの腕時計を一番よく知っているのは私なのだから。
渉は私を抱く腕を解いた。そして明奈が差し出したコーヒーを、慣れた様子で受け取った。
一人は何も聞かずに差し出し、もう一人は当然のように受け取る。きっと、これまで何度も繰り返してきたのだ。
明奈はもう1杯を私に差し出した。私は受け取らなかった。
どうせ彼女自身のために買ったものだ。
「まだ7時にもなってないのに、あなたはこんな朝早くから渉に何の用?」
萌佳は私のことを優しすぎると言う。でも、私にだって怒りの感情はある。
これまでは、好きだったから、多くのことを信じて、我慢することを選んできた。
なのに二人は、私の信頼を利用して、何度も私の許容範囲と気持ちを踏みにじった。
それでも、私が我慢し続ける理由なんてあるのだろうか。
「わ、私は越谷さんのことが心配で……」
明奈はまた、弱々しく可哀想な顔を作った。
「瀧本さん、越谷さんと喧嘩しないでくれませんか?」
目を少し赤くして、怯えたようにおずおずと話す。まるで私を怖がっているかのように。
彼女はいつもそうだった。私を見ると、決まって弱い立場の人間を演じる。
まるで私が彼女に何かするかのように。以前の私は、それを真に受けていた。
もしかしたら、知らないうちに彼女を傷つけていたのではないかと考えたことさえある。
でも、私は彼女とほとんど話したことすらなかった。
今になってようやく分かった。彼女はただ、この弱者の姿を利用して、自分を優位な立場に置いていたのだ。
そのうえ私に「性格が悪くて、きついことを言う女」というレッテルまで貼る。
私自身まで騙されていたのだから、事情を何も知らない他人が騙されるのも当然だった。
「もう帰れ」
渉が明奈に言った。
「まだ風邪が治ってないんだから、これ以上冷やすな」
言葉に合わせるように、明奈は口元を手で覆って小さく咳をした。
そして首を横に振る。
「帰りません。瀧本さんがあなたを許してくれるまで、私は帰りません」
そう言って、明奈は私を見た。
「知ってますか?越谷さん、昨晩一晩中ここであなたを待ってたんですよ」
その口調には、私を責めるような響きがあった。
私はもともと怒るつもりはなかった。
今はまだ、二人との関係を完全に壊すわけにはいかない。警戒されれば、私にとって不利になるからだ。
でも、こうも何度も挑発されて、いつまでも我慢しているわけにはいかない。
私は声を冷たくした。
「彼が私を待つことも、私が彼を許すかどうかも、あなたに何の関係があるの?」