妻と娘が選んだのは、俺ではなかった

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妻の高宮香澄(たかみや かすみ)は何事も予定どおりでなければ気が済まず、家ではすべて彼女が作ったスケジュールに従うことになっていた。 ところが娘の桐谷日和(きりたに ひより)の誕生日当日、香澄はアシスタントと一緒に大幅に遅れてやってきた。 母親と同じく予定に強くこだわる日和は、腹を立てるどころか、笑顔で二人をケーキカットへ誘った。 頬にクリームをつけた妻と娘が、アシスタントと楽しそうに写真に収まる姿を見て、俺の中で何かが完全に切れた。 翌日、俺・桐谷修司(きりたに しゅうじ)は香澄の前に離婚協議書を突きつけた。 香澄は、訳が分からないという顔をした。 「日和があなたとケーキを切らなかったくらいで?」 「そうだ」

Chapters (1)

第1章

妻の高宮香澄(たかみや かすみ)は何事も予定どおりでなければ気が済まず、家ではすべて彼女が作ったスケジュールに従うことになっていた。 ところが娘の桐谷日和(きりたに ひより)の誕生日当日、香澄はアシスタントと一緒に大幅に遅れてやってきた。 母親と同じく予定に強くこだわる日和は、腹を立てるどころか、笑顔で二人をケーキカットへ誘った。 頬にクリームをつけた妻と娘が、アシスタントと楽しそうに写真に収まる姿を見て、俺の中で何かが完全に切れた。 翌日、俺・桐谷修司(きりたに しゅうじ)は香澄の前に離婚協議書を突きつけた。 香澄は、訳が分からないという顔をした。 「日和があなたとケーキを切らなかったくらいで?」 「そうだ」 第1話 香澄は鼻で笑い、離婚協議書にちらりと目を落とすと、うんざりした表情を浮かべた。 「修司、予定では今ごろ海外で商談中のはずでしょう。ここで私にくだらないことを言っている時間じゃないわ」 「3分後には会議が始まるの。もう帰って」 まともに取り合おうともしない香澄を見ていると、笑いさえ込み上げてきた。 口を開こうとしたそのとき、アシスタントの相原颯人(あいはら はやと)がいきなりドアを開けて入ってきた。 「高宮社長、準備できました。そろそろ遊びに行きましょう……あれ?桐谷社長もいらしたんですね。僕は席を外します」 颯人が残念そうに引き返そうとすると、香澄はすぐに呼び止めた。 「いいのよ。この人はもう帰るから」 眉をひそめて俺を見る目には、さっさと出ていけという気持ちがありありと浮かんでいた。 俺はゆっくりと離婚協議書を開き、署名欄を指で叩いた。 「署名してくれ。そうしたらすぐに帰る」 香澄は立ち上がり、眉間に深いしわを寄せた。俺をにらみつける目に、怒りが渦巻いている。 室内の空気が張り詰めた。 入り口にいた颯人は異変を感じ取ったのか、すぐにうつむいて俺に謝った。 「すみません、桐谷社長。契約のお話をされているとは知らず、お邪魔してしまいました。失礼します!」 そう言いながら、傷ついたような目で香澄を一度見て、部屋を飛び出していった。 香澄の顔色がたちまち変わった。焦りをあらわにしながらペンをつかむと、乱暴な字で署名した。 「ルールを破ったんだから、帰ったら罰を受けてもらうわよ」 冷たく言い残し、人目も気にせず颯人を追いかけていった。 誰もいなくなった社長室で、俺は小さく笑った。 香澄は何事も決めたとおりでなければ気が済まず、ルールにも異常なほど厳しかった。 結婚してからというもの、家庭内のあらゆることが香澄の作ったスケジュールに沿って進められてきた。 少しでも時間に遅れたり、予定どおりにできなかったりすれば、香澄は何日も口を利かず、家庭の予定から相手を締め出した。 初めのうちは、日和にも容赦なく注意していた。 だが、やがて日和まで香澄のやり方を真似るようになり、家庭の中で責められるのは俺だけになった。 結婚して7年。香澄が取り乱す姿など、一度も見たことがなかった。 それなのに昨日の誕生日会では、酔った香澄が颯人に抱きかかえられるようにして現れ、娘は大喜びで二人の手を引いてケーキカットへ向かった。 その瞬間、頭の中が真っ白になった。 そのあとのことは、ほとんど覚えていない。 香澄の首筋に残る赤い痕と、楽しそうに颯人の頬へキスをする娘を見たとき、頭に浮かんだのはただ一つだった。 離婚しよう。 だからこそ、香澄が去り際に放った言葉がひどく滑稽に聞こえた。 ルールだと? そんなもの、香澄がとっくに破っている。 会議があると俺に嘘をつき、その足でアシスタントの颯人と遊びに出かける。 俺が会いに来るときは事前の連絡を求めるくせに、颯人は社長室へ勝手に入ってこられる。 署名済みの離婚協議書を手に、俺は会社を出た。 車に乗り込み、ネクタイを緩めて煙草に火をつけた。 何も考えず、ただぼんやりと座っていた。 突然スマホが鳴り、そこでようやく、指に挟んだ煙草がすっかり灰になっていることに気づいた。 画面に表示されていたのは、娘の担任からの着信だった。 「桐谷日和さんの保護者の方でしょうか。日和さんが慌てて下校したため、通学バッグを学校に忘れています。お手数ですが、取りに来ていただけますか」 その話を聞き、疑問が湧いた。 スケジュールどおりなら、日和は今ごろ学校で数学コンテストの準備をしているはずだ。予定より早く帰るなど、あり得ない。 第2話 事情を尋ねると、担任から返ってきた言葉に心が冷え切った。 「1時間ほど前、お母様のアシスタントの方が迎えにいらっしゃいました。急用があるとのことでしたが、ご存じなかったのでしょうか」 「ええ、聞いています。通学バッグはしばらく学校で預かっておいてください。用事がありますので、これで失礼します」 どうにか話を合わせて電話を切った。 家族のグループLINEに貼られた完璧なスケジュールを見ていると、吐き気がした。 いつからこれは、俺を欺くための道具になっていたのだろう。 深く息を吸って気持ちを落ち着かせ、日和のスマートウォッチから位置情報を確認した。 表示された場所へ車を走らせる。 目的地は遊園地だった。 日和を見つけた瞬間、俺はその場に立ち尽くした。 香澄はTシャツとジーンズというラフな格好で、颯人に肩を抱かれながら話していた。 日和はメリーゴーラウンドに乗り、二人に向かって笑顔でポーズを取っている。 颯人は日和の写真を撮る合間に、香澄の頬へキスをした。 どこからどう見ても、仲のいい家族そのものだった。 足が地面に縫いつけられたように動かなかった。 三人の幸せそうな姿を、俺は離れた場所から見つめていた。 この遊園地は人気が高く、以前、俺は何度も日和を連れてこようと誘ったことがある。 だが、そのたびに日和は真顔で言った。 「パパ、大人なのにそんなにはしゃがないで。遊園地なんて、時間の無駄だよ」 香澄も仕事が忙しかったため、俺は連れてくるのを諦めた。 今になって分かった。 来たくなかったのではない。俺とは来たくなかっただけだ。 普段は食べ物にあれこれうるさい母娘が、颯人と一緒にファストフードをうまそうに食べている。 誕生日会のために俺が時間をかけて用意した料理には、一度も笑ってくれなかったというのに。 スマホが震えた。 知らない番号から、三人が寄り添って写る写真が送られてきていた。 【妻と娘を失望させない。それが、よき夫というものです】 俺はその写真を保存し、踵を返した。 桐谷家を背負う俺が、いつまでも黙って踏みにじられているつもりはない。 日和が帰宅したとき、俺は荷物をまとめていた。 服や腕時計は使用人に任せればいい。重要な証明書や資料だけは、自分で確認する必要があった。 俺の姿を見るなり、日和は事情を知っていたかのように冷たい顔で責め立ててきた。 「パパ、たったあれくらいのことで離婚するの?学校のみんなに知られたら、私がどんな思いをするか考えた?もっと大人になってよ!言っておくけど、離婚しても絶対パパのところには行かないから。自分のことしか考えない人なんて、私のパパじゃない!」 話すうちに、日和の声はどんどん大きくなっていった。 その目にあったのは、俺への苛立ちだけだった。 これまで大切に育ててきた娘を見つめた。 いつものように優しく言い聞かせることはせず、冷たく告げた。 「俺を父親だと思わないなら、もう好きにしろ」 日和の表情が凍りついた。 目にはみるみる涙がたまったが、意地を張ってそっぽを向いた。俺がなだめてくれるのを待っているのだろう。 だが、俺は日和に構わず荷造りを続けた。 しばらく待っても声をかけられないと分かると、日和は鼻を鳴らして部屋を出ていった。 昔の日和はこんな子ではなかった。 聡明で明るく、誰よりも俺になついていた。 日和にとって、香澄は憧れの存在だった。 だから香澄の真似をして、何度も俺の我慢を試し、やがて完全に見下すようになった。 もういい。 これ以上、父親だからというだけで一方的に尽くす気はなかった。 荷物を少しまとめ終えたところで、困り果てた様子の執事がドアをノックした。 第3話 「旦那様、お嬢様がどうしても物置に入って、幼い頃のぬいぐるみを捜すとおっしゃって……私どもでは止められません。物置は埃っぽいので、もし喘息の発作でも起きたら……」 俺はスーツケースを閉じ、息を吐いた。 「俺が捜す。お前たちは日和を止めていろ」 ところが、物置に足を踏み入れた途端、背後でドアが閉まった。 外から、得意げな日和の声が聞こえてきた。 「パパは今日、ルールも予定も破ったから、罰を受けなきゃいけないの。私に謝ったら出してあげる。謝らないなら、今夜はずっとそこにいて」 俺が答えずにいると、日和の声に焦りが混じった。 「スマホは外にあるから、誰も助けに来ないよ」 俺は物置の明かりをつけ、冷たく答えた。 「好きにしろ」 「今夜はママが颯人さんを連れて帰ってきて、お祝いのパーティーをするんだから。邪魔しないで、そこでおとなしくしてて!」 日和の声が急に甲高くなった。 それから感情に任せてドアを蹴り、そのまま立ち去った。 遠ざかる足音を聞きながら、俺はドアに背を預け、力なくうつむいた。 物置に置かれているものを見回すと、また胸が痛んだ。 その大半は、俺が香澄と日和のために用意したプレゼントだった。今では分厚く埃をかぶり、中には包装すら解かれていないものもある。 埃も気にせず、プレゼントを一つずつ開けていった。どれも、家族と過ごした幸せな日々を思い出させるものばかりだった。 舞い上がった埃にむせて咳き込み、目に涙がにじんだ。 最後の包みまで開け終えると、俺はプレゼントを一か所に積み上げ、ライターで火をつけた。 狭い物置はたちまち煙に包まれ、火災報知器がけたたましく鳴り響いた。 使用人たちが慌ててドアを開け、俺を外へ引っ張り出すと、すぐに消火を始めた。 そこへ血相を変えた香澄が駆けつけ、いきなり俺の頬を平手で打った。 「修司、正気なの?家に火をつけるなんて!颯人が気に入らないからって、あの人のお祝いを台なしにするつもりだったんでしょう!」 ドレスを着た日和も、整った顔を怒りでいっぱいにしていた。 「パパがルールを守らなかったんだから、罰を受けるのは当然でしょ!」 そう言うと、使用人たちに命じ、俺がまとめたスーツケースを火の中へ放り込ませた。 日和は、俺が取り乱して怒鳴り散らすのを待っていたのだろう。 だが俺は、燃えるスーツケースを一瞥しただけで、まっすぐ広間へ向かった。 俺の行き先に気づいた香澄が腕をつかみ、冷たい声で問いただした。 「何をするつもり?」 俺はその手を力任せに振り払い、大股でパーティー会場へ向かった。 背後から香澄の痛がる声と、日和が心配そうに呼びかける声が聞こえたが、一度も足を止めなかった。 広間へ入ると、颯人が俺の服を着て、満面の笑みで招待客と談笑していた。 すっかり主役気取りだった。 だが、それ以上に俺の息を詰まらせたのは、颯人の腕に巻かれた時計だった。 両親が俺の成人祝いに贈ってくれたものだ。 時計は鍵のかかる棚にしまってあり、暗証番号を知っているのは俺と香澄だけだった。 誰が颯人に与えたかなど、考えるまでもない。 俺は颯人の驚いた顔にも構わず近づき、その腕から時計を強引に外した。 引っ張られた颯人はよろめき、危うく転びそうになった。 追ってきた香澄が慌てて颯人を支え、怒りを押し殺した声で言った。 「修司、いつまで騒ぐつもり?海外案件を取れたのは颯人のおかげなのよ。これ以上暴れるなら出ていって!」 香澄の目に宿る怒りと、日和の嫌悪に満ちた視線を見ても、もう胸は少しも痛まなかった。 時計を掲げ、香澄に尋ねた。 「この時計を渡したのも、お前か?」 第4話 香澄は一瞬目をそらしたが、すぐに開き直った。 「成果を上げた社員には、それに見合う報酬が必要でしょう。この時計がちょうどいいと思ったの。あなたは高級時計をいくつも持っているんだから、それくらいでけちけちしないで」 そう言うと客たちのもとへ戻り、笑顔でその場を取り繕おうとした。 颯人はわざと最後まで残り、先ほどまでの低姿勢を捨てて、挑発するように言った。 「桐谷社長が取ってくださった案件で、僕までいい思いをさせていただきました。ありがとうございます」 勝ち誇った目を見た瞬間、俺は颯人を殴り倒していた。 会場の空気が凍りつき、水を打ったように静まり返った。 颯人のうめき声が響く。 香澄は慌てて颯人を抱き起こし、怒りに満ちた目で俺を見た。 「修司、何をするの!」 日和まで颯人の前に立ちはだかった。 「パパなんか大嫌い!」 俺は二人を無視し、グラスを手に早足で壇上へ上がった。 「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。ですが、あいにく私と高宮社長は離婚協議中です。そして、この家は彼女の所有ではなく、私のものです。本日の非礼については、改めてお詫びいたします。申し訳ありませんが、今夜はこれでお開きとさせてください」 そう告げ、グラスの酒を一気に飲み干した。 招待客の大半は仕事上の付き合いがある者たちだった。状況を察すると、次々に理由をつけて帰っていった。 香澄は、自分がどうやって今の地位まで上り詰めたのか忘れているらしい。 桐谷家の後ろ盾がなければ、あの小さな会社がここまで成長できたはずがない。 これまで回してやった仕事も投資も、その多くは俺が間に入って実現させたものだった。 俺を失っても、今までどおり強気でいられるのか。見せてもらおうじゃないか。 にぎやかだった会場が瞬く間に閑散とし、香澄の顔はひどくこわばっていた。 とうとう体面を取り繕う余裕までなくしたのか、人目もはばからず俺に怒鳴った。 「修司!よくも私にこんな恥をかかせたわね!離婚の話が広まったら、会社がどれほど損害を受けるか分かっているの?いつからそんなに心が狭くなったのよ。こんな小さなことで、いつまでも根に持って!」 俺は、取り乱して詰め寄る香澄を静かに見つめていた。 かつて俺が、香澄と颯人の親密な振る舞いに耐えられず取り乱したとき、香澄もこんなふうに冷めた目で俺を見ていた。 立場が逆になって初めて分かった。怒りに我を忘れた人間は、ひどく滑稽に見えるものらしい。 颯人は青ざめた顔で腹を押さえながらも、自力で立ち上がった。 「高宮社長、全部僕のせいです。僕が桐谷社長に誤解させてしまったんです。すぐに退職しますから、どうかそんなに怒らないでください」 「颯人のせいじゃないわ。今すぐ病院へ連れていく。パーティーは日を改めて開きましょう」 「颯人さんは悪くないよ!パパがすぐ怒るからいけないの!」 妻と娘が代わる代わる颯人をかばう姿を見て、俺は冷笑した。 「香澄と娘の荷物をまとめろ。明日の午前中までに、すべて外へ出しておけ」 執事は眉をひそめ、ためらいがちに口を挟んだ。 「旦那様、さすがにやりすぎではありませんか。お腹立ちはごもっともですが、ここまでなされば、もう後には引けなくなります。奥様もお嬢様も、そう簡単に折れる方ではありません。どうか、もう一度お考え直しください」 その言葉を聞いた瞬間、俺の目は冷たくなった。 もっともらしい忠告に聞こえるが、この家の持ち主より香澄の都合を優先していることに変わりはなかった。 「分かった。お前は今日で解雇だ」 慌てる執事を残し、その場を離れた。 スマホを取り出し、桐谷家の本邸を任せている執事の坂井へメッセージを送った。 【坂井さん、悪いがこちらへ来てくれ。部外者の荷物をすべて片づけてほしい】 【かしこまりました、坊っちゃん】