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身代わり愛人はやめた~今さら後悔しても遅い
西原美乃里(にしはら みのり)が「初恋の身代わり」であることは、界隈の誰もが知る事実だった。 国内屈指の名門財閥を背負う3人の後継者たちに、手元で囲い込まれた「かごの鳥」こそが、彼女の立ち位置だった。 美乃里が19歳の誕生日を迎えた日、3人は遊園地を丸ごと貸し切った。 山積みの仕事をすべて放り出し、1日中彼女の遊びに付き合う。閉園間際に差し出されたプレゼントは、その遊園地を運営する会社の全株式譲渡契約書。名義はもちろん、美乃里のものだった。 20歳の誕生日には、夜空を埋め尽くす大掛かりな花火ショー。 21歳には、豪華クルーザーを1隻。 宝飾品やブランドバッグ、果ては高級邸宅に至るまで、ちょっとした手土産感覚で買い与えられた。 それだけにとどまらない。 どれほど多忙を極めても、3人は毎日必ず時間を作って美乃里と夕食を共にした。その甘やかしぶりは徹底しており、細やかな気配りはどこまでも行き届いていた。 美乃里は、あらゆる令嬢たちの嫉妬の的となった。 誰もが彼女を激しく羨み、それと同じ強さで蔑んでいた。 一方で周囲の男たちは、下卑た視線で品定めするように彼女を眺めていた。いつか3人に捨てられ、自分にすがりついて媚びを売る無様な姿を妄想しながら。 傍から見れば、美乃里は3人の御曹司からこの上なく溺愛され、甘やかな3年間を過ごしてきた。 ――川瀬侑良(かわせ ゆら)が帰国を果たす、その瞬間までは。
Chapters (1)
第1章
西原美乃里(にしはら みのり)が「初恋の身代わり」であることは、界隈の誰もが知る事実だった。
国内屈指の名門財閥を背負う3人の後継者たちに、手元で囲い込まれた「かごの鳥」こそが、彼女の立ち位置だった。
美乃里が19歳の誕生日を迎えた日、3人は遊園地を丸ごと貸し切った。
山積みの仕事をすべて放り出し、1日中彼女の遊びに付き合う。閉園間際に差し出されたプレゼントは、その遊園地を運営する会社の全株式譲渡契約書。名義はもちろん、美乃里のものだった。
20歳の誕生日には、夜空を埋め尽くす大掛かりな花火ショー。
21歳には、豪華クルーザーを1隻。
宝飾品やブランドバッグ、果ては高級邸宅に至るまで、ちょっとした手土産感覚で買い与えられた。
それだけにとどまらない。
どれほど多忙を極めても、3人は毎日必ず時間を作って美乃里と夕食を共にした。その甘やかしぶりは徹底しており、細やかな気配りはどこまでも行き届いていた。
美乃里は、あらゆる令嬢たちの嫉妬の的となった。
誰もが彼女を激しく羨み、それと同じ強さで蔑んでいた。
一方で周囲の男たちは、下卑た視線で品定めするように彼女を眺めていた。いつか3人に捨てられ、自分にすがりついて媚びを売る無様な姿を妄想しながら。
傍から見れば、美乃里は3人の御曹司からこの上なく溺愛され、甘やかな3年間を過ごしてきた。
――川瀬侑良(かわせ ゆら)が帰国を果たす、その瞬間までは。
第1話
ほんの数秒前まで、3人の男たちは美乃里を取り囲んでいた。
丁寧にステーキを切り分け、優しい指先で口元のソースを拭い、今年の誕生日には何が欲しいかと微笑みかけていたはずだった。
だが次の瞬間、3台のスマートフォンが一斉に鳴り響いた。
特別な通知音だ。
男たちはすぐさまカトラリーを置き、歓喜を露わにして立ち上がった。
「侑良が帰国した!」
短気な北島立貴(きたじま りつき)が椅子を蹴倒すように押しやり、普段は物静かな渡辺邦紀(わたなべ くにとし)の手元でカトラリーが甲高く鳴る。感情を表に出さない日野永翔(ひの ながと)の冷徹な顔にすら、抑えきれない歓喜の笑みが浮かんでいた。
美乃里を一瞥もせず、3人は駆け出していく。
彼女の唇には、変わらず完璧な笑みが張り付いたままだ。ただ、ナイフとフォークを握る指先がこわばり、瞳がわずかに揺らぐ。
美乃里は食器を置き、周囲の令嬢たちから浴びせられる嘲笑には目もくれず席を立った。彼らから買い与えられたマイバッハに乗り込み、夜の街へと走り去る。
30分後、車は古びたアパートの駐車場に滑り込んだ。美乃里は慣れた足取りで部屋へ戻り、鍵を開ける。
養母の西原定子(にしはら さだこ)は、入ってきた美乃里の姿を目にすると、傷だらけの骨張った手を伸ばした。かすかに濁った瞳に優しい光を宿す。
「美乃里、おいで」
美乃里の顔に、心からの笑みがこぼれた。
ヒールを脱ぎ捨ててスリッパをつっかけ、駆け寄って定子の隣に身を寄せる。
養母から漂う清潔な石鹸の匂いを吸い込むと、胸の奥によどんでいた喪失感と鈍い痛みが、少しずつほどけていった。
定子は娘の様子を察し、その手をぎゅっと握り締める。
「母さんも行くよ。美乃里のそばにいる」
美乃里はうなずき、母の体を強く抱きしめた。
「お母さんさえそばにいてくれれば、私は何もいらない」
*
午前3時、美乃里はけたたましい着信音で叩き起こされた。受話器の向こうから屋敷の執事の声が響く。
「西原様、日野社長、北島社長、渡辺社長が泥酔され、あなたに会いたいと騒いでおられます。大至急、お戻りください」
眠気は一瞬で吹き飛んだ。
美乃里は服を着替え、夜道へ飛び出す。
屋敷へ戻ると、リビングには酒瓶が転がり、3人はひどく酔いつぶれていた。
美乃里の姿を認めるなり、立貴が駆け寄って力任せに抱きしめてきた。
「侑良、来てくれたんだな……!」
邦紀と永翔の視線も美乃里へと注がれる。その瞳に宿るのは、狂気じみた執着と愛慕だ。
「侑良、もうどこにも行かないでくれ」
「ずっとそばにいてくれるなら、お腹の子だって3人で大切に育てるから……」
これまでに見たことのない熱量で向けられる愛に焼かれるように、美乃里は思わず一歩後ずさった。唇を引き結び、立貴の胸を押し返す。
「人違いです。私は美乃里です」
バスルームで濡れタオルを絞って3人の顔を拭き、執事が運んできた出汁をひと口ずつ飲ませる。
散々振り回され、ようやく3人が寝静まった頃には、外はすっかり明るくなっていた。
美乃里は再び屋敷を出ると、定子を連れてパスポートの申請と出国手続きへと向かった。
用事を終えて屋敷へ戻る頃には、すでに昼を回っている。
美乃里は自室に閉じこもり、泥のように眠り込んだ。
意識は、3年前へと引き戻される。
うっとうしい雨が降り続く季節。高熱でもうろうとし、土砂降りの中で倒れた自分を救ったのが永翔だった。
病室で目を覚ました美乃里の前に、書類を手にした彼が立っていた。
個人情報のすべてが記されたファイルと、差し出された1枚の紙。
専属個人秘書契約という名目の、実質的な愛人契約書だった。
「帰る場所もないんだろう。サインしろ、面倒を見てやる」
18歳の誕生日を迎えたばかりの美乃里は、強い警戒心を露わにして契約書を見つめた。
永翔は冷淡な視線を投げかける。
「安心しろ、手を出すつもりはない。俺の愛する女は海外で結婚した。もう二度と、誰かを愛することはない。お前が彼女に7割方似ていなければ、俺と顔を合わせることすら一生なかったはずだ。
住む場所は用意する。大学に通うのも自由だ。お前を虐げていた連中には相応の報いを受けさせるし、服役中の養母の支援もする。条件は呼び出しにいつでも応じること、そして彼女を完璧に演じきることだけだ」
警戒を解かない美乃里に、永翔は淡々と言葉を重ねた。
「体に触れる必要があれば、事前に了解を取る。その分の手当も別途支払う」
逃げ場のない境遇を考え、美乃里は無言でサインした。
その後、病室に立貴と邦紀も現れ、まったく同じ契約書がさらに2通交わされた。
退院後、3人は手配した屋敷に美乃里を住まわせ、毎日決まった時間に姿を見せるようになった。
侑良の動画を繰り返し見せ、立ち振る舞いや言葉遣い、一挙手一投足のすべてを真似るよう求める。
メイクや所作が侑良に近づくにつれ、3人の態度は冷淡なものから情熱的なものへと変わっていった。
屋敷を訪れる頻度も跳ね上がり、やがて美乃里を宝物のように慈しみ、甘やかすようになる。
美乃里自身、最初のうちはビジネスだと割り切り、内心では冷ややかに距離を置いていた。
それなのに、いつしか心の奥底に、ささやかな羨望と淡い期待が芽生えてしまっていた。
だが、侑良の帰国が、美乃里を一瞬で現実に引き戻した。
長い夢から覚めると、頬にはまだ乾ききっていない涙の跡があった。
けれど、夢はもう終わりだ。
美乃里も、完全に正気に戻っている。
養母は無事に出所し、大学の早期卒業手続きも済んだ。
愛人契約の満了まで、あと1週間。
このかごから遠く飛び立つ日は、もう目の前まで迫っていた。
第2話
美乃里は頬の涙を拭うと、手際よく荷物をまとめ始めた。
追い出されるのを待つ気はない。3人ときちんと話し合い、契約を前倒しで終わらせるつもりだった。
乱暴にドアを叩く音が響く。
扉を開けると、永翔、立貴、邦紀の3人が立っていた。
その瞳に複雑な色が交錯していたが、美乃里はもう詮索する気も機嫌を取る気も起きず、ただ淡々と問いかける。
「何の用ですか」
3人は虚を突かれたように息をのんだ。
これまでの従順さを脱ぎ捨て、冷淡に心の壁を築いた美乃里の姿に戸惑っているようだった。
だが、彼らにとってそんなことは些細な問題にすぎない。
立貴が口を開く。
「侑良が帰国したばかりで、実家には戻りたくないらしい。ここに住まわせることにしたから、今すぐ部屋を出ていってくれ」
美乃里は静かにうなずき、まとめてあったスーツケースを引き寄せた。
「わかりました、すぐに出ていきます。契約の期限はあと1週間残っていますが、いっそ――」
言い終わらないうちに、鋭いヒールの音が近づいてきた。
真紅のドレスを華やかに揺らし、侑良が堂々と足を踏み入れてくる。背後には荷物を抱えた2人のボディーガードを従えていた。
美乃里の姿を認めた瞬間、侑良の瞳に侮蔑と嫉妬の色がよぎる。
「これが、あなたたちの用意した身代わり?3年間も甘やかして囲ってたって聞いたけれど」
3人の顔に動揺が走った。口を揃えて否定する。
「違う、誰かのデタラメだ」
永翔がすかさず言い訳を口にした。
「侑良のために手配した使用人だ。ここにいる間、用があれば何でもこいつに言いつければいい」
そう告げると、永翔は美乃里へと冷たい警告の視線を向けた。
「お嬢様の世話をしっかりしろ。満足させられたら、相応の特別手当を弾む」
美乃里はその言葉の意図を察した。
だが、もうこの関係を清算し、彼らと関わること自体をやめたかった。
「日野社長、北島社長、渡辺社長、私たちの契約はもうすぐ満了します。私は――」
邦紀が冷ややかに遮った。
「契約を交わした以上、最後の瞬間まで遵守してもらう」
美乃里は言葉を失った。
3人の険しい表情から、何を言っても覆らないと悟り、受け入れるしかなかった。
彼女は荷物を抱えて1階の使用人部屋へと移った。
3人がボディーガードから荷物を受け取り、かいがいしく侑良の世話を焼く姿を、ただ冷めた目で見つめながら。
やがて専属のヘアメイクチームが屋敷を訪れ、今夜開かれる歓迎レセプションのための身支度が始まった。
侑良は鏡越しに、部屋の隅にたたずむ美乃里の姿を捉える。赤い唇をつり上げ、瞳に底意地の悪い光を宿した。
「今夜はドレスの裾を持つ使用人が必要なの。西原さんって言ったかしら?あなたに決めたわ」
室内の空気が一瞬で凍りついた。
男たちは顔を見合わせたものの、誰一人として口を挟まない。
美乃里は静かにうなずき、その役目を引き受けた。
*
夜の8時、給仕の手によって宴会場の大扉が開かれた。
3人の男たちにエスコートされ、主役の侑良が華々しく登場する。
だが、その背後で腰をかがめてドレスの裾を持つ、すっぴんに使用人服姿の美乃里を認めた瞬間、会場中からどっと大きな嘲笑が巻き起こった。
人々が我先にと侑良を取り囲み、挨拶を交わす。普段から美乃里を敵視していた侑良の親友、香取恵美(かとり めぐみ)が声を弾ませた。
「侑良、やっと帰ってきたのね。あなたがいない間、泥棒が堂々と家に上がり込んで、本当に浅ましくて汚らわしい真似ばかりしてたのよ」
周囲の招待客たちも同調し、思うがままに美乃里をおとしめていく。
永翔、立貴、邦紀の3人が何の反応も示さず、侑良だけに視線を注いでいるのを見て、周囲の連中は状況を察したようだった。
ある男が下卑た笑みを浮かべて口を開く。
「川瀬さん、その使用人、なかなか見どころがあるじゃないか。いくら払えば、うちの屋敷でも一晩雇わせてもらえる?」
隣にいた女がその男を肘で突いた。
「そんな素性の女を欲しがるの?一度付きまとわれたら二度と離れなくなるわよ」
嘲笑が満ちる中、3人の男たちは侑良を連れて会場の奥へと歩みを進めた。
美乃里だけがその場に取り残され、浴びせられる侮辱を一身に受け止める。
無表情を保ってやり過ごしていたが、手のひらに爪が深く食い込むほど強く拳を握り締めていた。
下心を持った男たちがすり寄り、美乃里に手を伸ばしかけたその時――侑良が歓談に興じている隙を突き、永翔たちが引き返してきた。美乃里をホールから連れ出し、屋外プールサイドの隅へと押し込める。
永翔の瞳にはいら立ちがにじんでいた。
「嫌な思いをさせただろう。宴会が終わったら、手当として別に2000万払ってやる」
美乃里は唇を引き結んだ。
「お金はいりません。契約について話し合いたいんです」
立貴が侑良のいる方角を気にしながら、焦ったように口を挟む。
「もういいだろ、俺たち3人それぞれ2000万ずつ出せば文句ないだろ?今日は侑良に合わせて、あいつを楽しませてやってくれ」
邦紀もうなずき、侮りを隠そうともしない平然とした声で言い捨てた。
「金はいらないなんて言うなよ。今まで贈ったプレゼントだって、全部売っ払って現金に換えていただろう。お前のような女が、今さらプライドなんて口にするな」
美乃里が言葉を返す間もなく、侑良がプールサイドへと歩み寄ってきた。
首元に輝くダイヤモンドのネックレスを外すと、衆人環視のなか水面へと投げ捨てる。
優雅にリクライニングチェアへ腰を下ろし、美乃里へと指先を向けた。
「ネックレスを落としちゃったの。飛び込んで拾ってきて」
第3話
好奇の視線が一斉に美乃里へと突き刺さる。
どう身を処すべきかためらう間もなく、邦紀の足が容赦なく彼女の体を捉え、プールの中へと蹴り落とした。
「侑良が拾えと言っているんだ。満足するまで拾い続けろ」
激しい水音とともに水中に放り出された美乃里は、何度かもがき、ようやく足の裏をプールの底につけて立ち上がった。
全身ずぶ濡れの、無様な姿をさらす。
周囲に響き渡る嘲笑、女たちの小気味よさそうな歓声、濡れそぼった体つきを品定めする男たちの下卑たささやきが耳に届く。
温水プールのはずなのに、水は氷のように冷たく感じられた。
美乃里は無駄に抗うことも、顔を上げることもせず、ネックレスが沈んだ場所へと足を進めた。
底を手探りし、指先に触れた鎖を拾い上げる。
だが、水から上がろうとした瞬間、侑良の鋭いヒールが彼女のみぞおちを直撃した。
「拾い方が正しくないわ。もう一度やり直して」
沸き起こる大笑いの中、美乃里は再び水面へと沈んだ。指からすり抜けたネックレスが、また底へと落ちていく。息を整え、手探りで拾い上げる。
「左手からプールサイドに触れた。やり直し」
「ネックレスが濡れてる。やり直し」
「表情が気に入らない。私に文句でもあるの?やり直し」
……
侑良の靴先が容赦なく美乃里を打ち据え、何度もプールの中へと蹴り落とす。
その間、永翔たち3人はただ沈黙を守っていた。その無言が、針のように美乃里の胸を深くえぐる。
やがて体力が尽きかけ、プールサイドの縁にすがりついて肩で息をする姿を見て、永翔がようやく口を開いた。
「もう十分だ、侑良」
侑良は面白がっていた顔を一瞬で曇らせ、ひどく傷ついた表情で永翔を見つめた。
「あの子の肩を持つの?」
永翔は何も言わずに首を横に振ると、侑良の前に片膝をついた。その片方の足を持ち上げ、ヒールを脱がせて優しくもみほぐす。
「10回以上も蹴ったんだ、疲れただろう。少し休みなさい」
立貴と邦紀も駆け寄り、かいがいしく侑良を気遣った。侑良はそこでようやく笑みを取り戻し、美乃里がプールから上がるのを許した。
全身ずぶ濡れの彼女だったが、休む暇もなく侑良の背後に控えるよう命じられた。
大広間に戻り、うずたかく積まれたシャンパンタワーを目にした侑良が、ふいに唇を緩めた。
「最近小説をたくさん読んでいるの。シャンパンタワーが崩れて、どちらか1人しか助けられない二者択一の場面がよくあるでしょう?もし私と西原さんが同時に下敷きになりそうになったら、あなたたちはどちらを救う?」
言い終わるやいなや、侑良は美乃里の腕を引いてタワーの正面に立ち、そっと手を伸ばしてグラスを押し倒した。
積み上げられたグラスの山が、2人に向かって雪崩を打って崩れ落ちる。
傍らにいた3人は血相を変え、我先にと侑良へ飛びつくと、一息にその体を引き戻した。
美乃里はとっさに身を翻して頭を抱えたが、倒壊したシャンパンタワーの衝撃をまともに受けて床に叩きつけられた。
額や肌のあちこちを無数のガラス片が切り裂き、鮮血がとめどなくにじみ出る。
3人の男たちは侑良を取り囲んでいた。
「どうしてあいつと比べて、自分の格を落とすような真似をするんだ」
「二度とこんな危険なことはするな。けがでもしたらどうする」
「やりたいことがあるなら俺たちに言えばいい。わざわざ自分の手を汚す必要なんてないだろう」
侑良は床にうずくまる美乃里を見下ろし、唇をとがらせて甘えた声を出す。
「西原さんがあなたたちの愛人だったことくらい、最初から知っていたわ。3年間も私の代わりにちやほやされていたなんて、吐き気がする。
今日ここで証明してよ。あいつのことなんて本気じゃなくて、ただのおもちゃだったって」
3人の視線が美乃里へと注がれた。
血とシャンパンにまみれた痛ましい姿を目にして、わずかにためらう色を浮かべながら目をそらす。重い沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのは立貴だった。
「いい機会だから、ここで断言しておく。過去3年間、美乃里を囲っていたのは事実だが、俺は一度たりともあいつに触れたことはない。あんな女、薄汚くて手を出す気にもなれなかった。俺の心にいるのは、昔も今も侑良、お前だけだ」
邦紀が間髪を入れずに言葉を重ねる。
「その通りだ。俺も指一本触れていない。美乃里は金に浅ましい女だ。手をつなぐのも抱きしめるのも、すべて値札がついていた。裏でどんな汚い真似をしてきたかも分からないような女を、いくら目がくらんだからといって相手にするはずがない」
すべての視線が、残る永翔へと集中した。黙り込む彼を見て、侑良の瞳に涙が浮かぶ。
「どうして何も言ってくれないの?本当は、あの子と何かあったんじゃないの!」
侑良の涙を前にして、永翔の顔に苦渋の色が走った。床にうなだれたまま、動かない美乃里を一瞥し、重い口を開く。
「何もない。俺が……殺人犯の娘などに心を奪われるはずがないだろう」
うつむいたままだった美乃里の体が、びくりと大きく震えた。
砕け散り、虚ろで、信じられないという色を宿した瞳が永翔を捉える。永翔は無意識に指を丸め、その視線を避けるように顔を背けた。
周囲からどっと大きなどよめきが上がり、誰かが投げつけたケーキが美乃里の体にべっとりと張り付いた。
「殺人犯の娘だって?気味が悪い、そんな人間が同じ会場にいたなんて!」
「道理で若いくせに愛人になって身代わりなんて引き受けるわけだ。蛙の子は蛙ね!」
「日野社長たちが手を出さなかったのも納得だ。あんな女、タダでも願い下げだよ」
飛び交う罵詈雑言は、もはや美乃里の耳には届いていなかった。
頭の中を満たしていたのは、3年前、あの契約を交わした時に永翔が口にした約束の言葉だけだった。
「安心しろ。お前の過去を知っているのは俺だけだ。誰にも調べさせはしない。怖がるな」
あの時、冷淡ながらも真剣な眼差しで告げてくれた彼の顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。
自分にとってはあれほど重く、すがるように信じていた約束が、侑良の問い詰めひとつでもろくも崩れ去った。
美乃里は低く自嘲の笑みをこぼした。
無数の切り傷がついた手の甲に、ぽたりと涙が落ちる。肌を刺す痛みが瞬く間に体を駆け巡り、胸を激しく締め付けた。
散乱するガラスの破片の中から、彼女はふらつく体を必死に支えて立ち上がった。
もう誰の顔も見ることなく、背を向けて宴会場の外へと歩き出した。
第4話
会場を後にして間もなく、美乃里のスマートフォンに振込通知が届いた。
立貴と邦紀からそれぞれ2000万円、永翔からは5000万円。短いメッセージが添えられている。
【補償だ】
美乃里はその文面を一瞥し、冷ややかな笑みを浮かべて画面を伏せた。
傷だらけの痛々しい姿では養母の元へ帰るわけにもいかず、仕方なく屋敷の使用人部屋へと戻る。
シャワーを浴びて手当てを終えた頃、3人が侑良を連れて帰ってきた気配がした。
美乃里は部屋から一歩も出ず、息を潜めてやり過ごした。
*
深夜、激しくドアを叩く音が響いた。
目を覚まして体を起こす間もなく、黒スーツ姿のボディーガード2人がドアを蹴破ってくる。
美乃里はベッドから強引に引きずり下ろされ、リビングへと連行された。
リビングでは、ひどく酔った侑良が潤んだ瞳でソファにもたれかかっていた。3人の男たちが焦りをにじませて取り囲み、蜂蜜水や出汁を我先にと侑良の口元へ運んでいる。
引きずり出された美乃里の姿を認めるなり、立貴はグラスを放り出して駆け寄ってきた。ボディーガードを手で制して下がらせると、容赦なく美乃里の頬を張り飛ばす。
邦紀は冷え切った表情のまま、ボディーガードに度数の高い洋酒を10本持ってくるよう命じた。
衝撃で顔を背けた美乃里の口元から、血がにじみ出る。何が起きたのかも分からず、かすれた声を絞り出した。
「何があったんですか」
立貴がいら立ちをむき出しにして怒鳴りつける。
「よくも白々しくそんな口がきけたな!離婚して妊娠までした女は俺たちにふさわしくないって、お前が侑良に吹き込んだんだろう!」
美乃里は思わず身を引き、首を横に振った。
「言っていません。屋敷に戻ってから一度も顔を合わせていません」
邦紀がボディーガードから酒瓶を受け取り、冷酷な嘲笑を浮かべた。
「侑良が嘘をついているとでも言いたいのか?昔から一緒に育った幼なじみと、人殺しの娘――俺たちがどちらを信じるかなんて、分かりきっているだろう」
美乃里は怒りに全身を震わせた。
肩を激しく上下させ、きびすを返して逃げようとするが、背後のボディーガードに両腕を力任せにねじ伏せられる。
邦紀が彼女の顎を乱暴につかみ上げ、強引にこじ開けた口へ洋酒を流し込んだ。
激しくもがき、むせ返る美乃里を、邦紀は冷え切った目で見下ろす。
「侑良を追い出せば、俺たちのそばに残れるとでも思ったか?身の程を知れ。お前など侑良の足元にも及ばない」
美乃里が窒息しかけたところで、ようやく邦紀はその手を放した。
永翔の胸に顔をうずめていた侑良が、しゃくり上げるように泣き声を漏らした。
「さっきのバーで、男にしつこく酒を飲まされて……体まで触られたの。怖かった……」
侑良がドレスの胸元を少し開くと、白い肌に生々しく赤い指の跡が残っていた。
男たちの瞳が一瞬で怒りに染まる。
沈黙を守っていた永翔の全身から、すさまじい殺気が立ち上った。床にへたり込む美乃里を一瞥し、冷酷に言い放つ。
「残りの10本、すべてこいつに流し込め。あとは好きに扱って構わない。自分のしでかした罪の重さを思い知らせてやれ」
言い捨てると、永翔は侑良を抱き上げた。
「酒は腹の子に障る。病院で検査を受けさせよう」
立貴と邦紀も慌てて後に続く。3人は足早にリビングを出ていき、美乃里を振り返ることは二度となかった。
美乃里の心臓が激しく早鐘を打つ。
本能的に逃げようともがくが、興奮した2人のボディーガードにがっしりと押さえ込まれ、服を乱暴に引き裂かれ始めた。
必死に抵抗し、声を上げながら遠ざかる3人の背中を見送る。底知れない絶望が胸を満たしていった。
脳裏をよぎったのは、17歳のあの雨の日だ。
路地裏へと引きずり込まれ、見知らぬ男の汚れた手が肌をはい回り、立ち込める汗の匂いに激しい吐き気を覚えたあの記憶。
頭がぐらつき、激しい耳鳴りが響く。
酒を強引に流し込まれた体にはうまく力が入らない。それでも、この数年間身につけてきた護身術を頼りに、美乃里は必死に抗った。
もみ合う最中、美乃里の指先に転がっていた酒瓶が触れた。
全力を振り絞り、覆いかぶさってきた男の頭部めがけて叩きつける。
甲高い破砕音とともに瓶が砕け散り、男の額から鮮血が噴き出した。逆上した男から強烈な平手打ちを食らい、服をさらに力任せに引き裂かれる。
床に頭を強打し、視界が真っ暗に明滅した。
だが、背中にめり込んだガラス片の激痛が、かろうじて彼女の意識をつなぎ止める。
床に散らばる鋭い破片を力任せに握りしめ、血走った目で、覆いかぶさる男の顔面めがけて突き立てた。
絶叫が室内に木霊し、温かい返り血が美乃里の顔を濡らす。
奥歯をかみ締め、さらに破片を振り下ろそうとしたその瞬間――上にいた男の体が、横合いから激しい勢いで蹴り飛ばされた。
戻ってきた永翔、立貴、邦紀の3人が目を血走らせ、床のボディーガード2人をつかみ上げて滅茶苦茶に殴りつけている。
美乃里はその光景を冷ややかな瞳で見つめながら、ふらつく体をどうにか起こした。
めまいと吐き気をこらえ、肌に刺さったガラス片を抜き、乱れた衣服を整えて散乱した破片を片付け始める。
そこへ、血相を変えた侑良が部屋に飛び込んできた。
血まみれで打ちのめされたボディーガードの姿を見るなり、甲高い金切り声を上げる。
「車に私を置き去りにして戻ってきたのは、この女を助けるためだったの!?絶対に好きになるはずがないって言ったじゃない!」
男たちは殴る手を止め、慌てて侑良の肩を抱いた。
「安心しろ、侑良。今日起きたことをこのまま終わらせる気はない。お前を陥れようとした報いは、必ず美乃里に払わせる」
第5話
美乃里の意識は途絶えかけていた。
永翔、立貴、邦紀の3人は執事に彼女を運ばせ、日野家が所有するプライベート病院へと向かった。
正面玄関で待ち構えていた院長は、一行の背後で執事に抱えられたその姿を真っ先に捉えた。
全身が無数の傷で覆われた惨状に血相を変え、慌てて医療スタッフを手招きする。
だが、立貴が容赦なく院長の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「どこ見てやがる!侑良が見えないのか!酒を飲まされたんだぞ。全科の医師を総動員して診察しろ。どうでもいい奴の処置なんざ後回しだ!」
永翔の冷徹な眼差しを受け、院長はすぐさま医師たちに侑良の検査を指示した。静まり返っていた病院が一瞬で蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
一通りの検査を終えた医師たちは、侑良の体に何の異常もないと告げた。それでも男たちは安心せず、入院させて経過観察を続けると言い張る。
遠巻きにその光景を眺めていた美乃里は、自嘲気味に口元をゆがめ、とうとう限界を迎えて意識を手放した。
*
再び目を覚ました時には、すでに3日目の朝を迎えていた。
体の傷には簡単な手当てが施されている。看護師に尋ねると、3人は揃って最上階の特別病室で侑良に付き添っているという。
ベッドから起き上がり、契約の件を話し合おうとしたその時、枕元のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
大学のゼミを担当する教授からだった。
電話口から響く声は、ひどくこわばっている。
「西原さん、今すぐ研究室に来なさい。確認しなければならないことがある」
3人が口にした脅し文句が脳裏をよぎり、胸に嫌なざわめきが走った。美乃里はタクシーを拾い、大学へと急いだ。
正門をくぐった途端、行き交う学生たちが美乃里を指差し、あからさまな侮蔑の視線を浴びせてくる。
彼女は表情を引き締め、研究室へと足を速めた。
キャンパスを通り抜ける間も、周囲の学生たちがスマートフォンをのぞき込み、ひそひそと自分の名を口にしているのが耳に届く。
研究室の扉を開けると、苦々しい表情の教授が机の上に3通の書類を突きつけてきた。
かつて自分が署名した、身代わりの愛人契約書だった。
目の前が真っ暗になり、全身の血が引いていく。この書類が表に出た以上、早期卒業はおろか、大学にいられるはずもない。
教授は署名を指差し、厳しい口調で詰問した。
「正直に言いなさい。この書類は本物なのか」
喉が引きつり、否定の言葉など出てこなかった。美乃里はただ、小さくうなずく。
教授はやりきれなさに眉をひそめ、激しい音を立てて机を叩いた。
「愛人契約が3通だぞ!その画像が学内の掲示板にさらされているんだ。早期卒業の審査もすべて通っていたというのに……こんなことを起こされて、大学がどう判断すると思う!」
美乃里はうつむいたまま口を閉ざした。
拳を爪が食い込むほど握り締め、底知れぬ怒りに全身を震わせる。
「大学側はすでに決定を下した。君を退学処分とする。本学の学生として籍を置くことはもう許されない」
美乃里は弾かれたように顔を上げた。
「先生、少しだけ時間をください。私が必ず解決します――」
「解決できる段階はとうに過ぎた。理事会に直接横槍が入ったんだ」
教授は力なく手を振り、冷たい声音を落とした。
「西原さん、関わってはならない相手がいる。怒らせてはならない者たちに手を出した代償だ。これで思い知っただろう」
美乃里は脱力し、唇をかんだ。
静かに一礼すると、魂の抜けた足取りで研究室を後にした。
キャンパスの中庭へ戻ると、今も噂話に興じる学生たちの姿があった。スマートフォンを見比べながら耳打ちし合う何人かの前へ、美乃里は真っ直ぐに歩み寄る。
感情の抜け落ちた声で、淡々と問いかけた。
「気が済むまで見た?」
学生たちは気まずそうに顔を見合わせ、くもの子を散らすように逃げ去っていく。
美乃里はその場に残されたベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見つめた。
選べる立場にあったなら、誰が好き好んで愛人になど身を落とすものか。
希望の大学に合格し、自らの力で養母と共に明るい未来を切り開くはずだった。それなのに――
*
3年前。
大学入試を終えた美乃里のもとに、志望校の合格通知書が届いた。
飛び上がるほど嬉しかったあの日、親しい同級生たちに強く誘われ、祝勝の食事会に顔を出した。
夜10時を回り、集まりを終えて家路についたところで、見知らぬチンピラに裏路地へと引きずり込まれた。
激しい雨が降りしきる中、どれほどもがき叫んでも助けは現れない。
絶望に飲み込まれかけたその瞬間、馬乗りになっていた男の頭部へ、コンクリートブロックが力任せに叩きつけられた。
帰りの遅い美乃里を心配して探しに来た養母、定子だった。
路地の入り口に落ちていた傘を見つけ、物音に気づき、道端のブロックを拾い上げて飛び込んできた。
泥水にまみれた美乃里の姿を見た定子は、目を血走らせ、狂ったように男の頭へ何度も破片を打ち据えた。
男は動かなくなった。
恐怖に震えながら、2人は自宅へ戻った。
定子は落ち着いた手つきで、温かい味噌汁を1杯作ってくれた。
なぜだか、そのあと昼過ぎまで泥のように眠り込んでしまった。
目を覚ました時、定子の姿はすでになかった。
1人ですべてを背負い、警察へ自首した。
第6話
あの年、養母は50歳だった。
若い頃に元夫の家庭内暴力を受けて離婚し、それからは独り身で、子どもにも恵まれなかったという。
道端に捨てられていた段ボール箱から赤ん坊の美乃里を拾い上げ、たった1人で大切に育ててくれた。
だが、養母が刑務所に収監されるや否や、疎遠だった叔父が押し寄せてきた。遺族への賠償金を工面するという名目で、母が残した唯一の財産である古い持ち家を二足三文で売り払い、金を着服したあげく美乃里を路上へ叩き出した。
住まいを守ることもできず、従兄に乱暴されかけた美乃里は、着の身着のままで逃げ出した。
学費を稼ぐため、日雇いのアルバイトをいくつも掛け持ちするしかなかった。
しかし、命を落としたチンピラの実家は裏社会とつながりがあり、地元でそれなりの力を持っていた。
あらゆる嫌がらせやクレームを入れられ、どのバイトも2日と続かない。
八方塞がりになった美乃里の元へ、連中が直接乗り込んできた。
法外な違約金が設定された風俗店の専属契約書を突きつけ、サインしなければ刑務所にいる母に地獄を見せると脅しをかける。
あの日も、バイト先をクビになった日だった。
一文無しで、行くあてもなく、土砂降りの雨の中をさまよい歩いた。
あの夏の雨はやけに多く、夜空はどこまでも暗かった。
どれほど足を前に進めても出口は見つからず、希望の光などどこにもない。
力尽きて路上に倒れ込んだところを、永翔に拾われた。
大学に通わせてやる。獄中の養母の面倒も見る。チンピラたちにも二度と手出しはさせない――永翔から提示された条件を受け入れ、美乃里は3年間の庇護を手に入れた。
この3年間、美乃里は完璧に侑良を演じきった。
3人が求める心地よさを過不足なく提供し、決して一線は越えない。
手を握ることや抱擁に対価を求めたのも、彼らをけん制するための防壁だった。
高価な贈り物をすべて現金に換えていたのも、養母が出所したあと2人で遠くへ逃げ、過去を清算するためだ。
身代わりを務める以外のあらゆる時間を学業に注ぎ込み、がむしゃらに単位を取ってきたのも、早期卒業の資格を手に入れたかったからにほかならない。
必死に生きてきた。
分不相応な望みを抱いたこともなく、侑良を傷つける気など毛頭なかった。
それなのに、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。
美乃里は途方に暮れた。
一体、どこで間違えたというのか。
直接、3人へ問いただすしかなかった。
タクシーで病院へ引き返し、最上階の病室にたどり着くと、永翔、立貴、邦紀が侑良を取り囲んでかいがいしく機嫌を取る声が聞こえてきた。
立貴が切り分けた果物を侑良の口元へ運び、邦紀は妊娠中のケアについて熱心に語り聞かせ、永翔はベッドで退屈しないようにと小説を朗読している。
やがて3人は、腹の子の父親の座を巡って軽い言い争いを始めた。だがそれも、「誰を本命にするか決めるまで、3人で支えてほしい」という侑良の言葉にあっさりと丸め込まれる。
冷めた感情が美乃里の胸をかすめた。
病室へは入らず、漏れ聞こえる声を聞き流しながら、廊下のベンチに腰を下ろしてひたすら待ち続けた。
深夜になり、体の芯まで冷え切った頃、ようやく侑良を寝かしつけた3人が足音を忍ばせて病室から出てきた。
ベンチにたたずむ美乃里の姿を認め、3人の瞳にそれぞれ異なる感情がよぎる。
最初に口を開いたのは立貴だった。いら立ちを隠そうともしない。
「何の用だ」
美乃里は立ち上がり、逃げることなく彼らを見据えた。静かな声で問いかける。
「大学の件、あなたたちが仕組んだことですね」
3人は事も無げにうなずいた。
「そうだ。お前への罰だ」
邦紀が冷え切った眼差しを向けてくる。
「少しは利発な女だと思っていたが、所詮は他の愚かな女と同じだな。身代わりを長く務めるうちに、自分の立場を見失ったか。
過去3年間のお前の贅沢は、すべて侑良の存在があってこその施しだ。その侑良を傷つけ、取って代わろうなどと身の程知らずな真似をしたんだ。相応の報いを受けるのは当然だろう」
永翔も淡々と告げた。
「まだ俺たちのそばに残り、庇護と今の生活を維持したいのなら、大人しくしていろ。これ以上騒ぎ立てるな。さもなくば、持っているすべてを奪うことになる」
覚悟はしていた。
それでも理不尽な脅迫を突きつけられ、美乃里の胸の奥底から激しい怒りと虚しさが込み上げる。瞳が一瞬潤んだが、即座に押し殺し、震えそうになる声を整えて言葉を返した。
「3つ、お話しさせてください。まず1つ目。この3年間、一緒に過ごす中で心動かされた瞬間や、浅はかな夢を見たことがあったのは認めます。けれど私は常に冷静でした。自分がただの身代わりであることをわきまえ、あくまで仕事として割り切っていました。
2つ目。川瀬さんが帰国された時点で、私は身を引く準備を進めていました。彼女を傷つける意図など毛頭ありません。
一昨日の夜、宴会から戻って以降、彼女とは一度も顔を合わせていません。疑うなら防犯カメラの映像を確認してください。この件を口実に罰を与えられ、退学処分にまで追い込まれたことには強い憤りを覚えます。
ですが、愛人契約を結んでいたこと自体は事実ですから、それについて言い訳するつもりはありません。
3つ目。契約満了まであと3日残っていますが、今すぐ解約してください。そうすれば、私が川瀬さんに害をなすのではないかという心配も消えるはずです。そして、もう二度と私を陥れたり、傷つけたりしないでください」
永翔、立貴、邦紀は虚を突かれたように美乃里を見つめ、言葉を失った。
目の前にいるのは、一度も見たことのない美乃里だった。
冷静沈着で、感情に流されず、理路整然と自らの意志を告げる姿。
過去3年間、美乃里は侑良という傲慢でわがままな令嬢を完璧に演じ続けていた。だからこそ彼らは、美乃里自身もそうした女だと思い込んでいた。
理由は分からない。
だが、目の前で毅然とたたずむ美乃里を見ていると、契約を終わらせることへの強烈な拒絶感が胸に湧き上がった。
その割り切れない感情の正体を突き止める間もなく、3人の口からは拒絶の言葉が飛び出していた。
「認めない。契約は最後の瞬間まで、まっとうしてもらう」
第7話
深い無力感が美乃里の胸を覆った。
それでも何か言い返そうとした矢先、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面には、母の世話を頼んでいる家政婦の名前が表示されている。心臓が跳ね上がり、嫌な胸騒ぎが背筋を走った。
予感は的中した。電話口から切迫した声が届く。
「西原様、お母様がいなくなってしまったんです!早く来てください!」
乾いた音を立ててスマートフォンが床へ落ち、画面に無数の亀裂が走った。
美乃里は顔色を失い、震える手で端末を拾い上げる。
最悪の事態が脳裏をよぎった。
よろめきながら駆け出そうとした瞬間、腕を強くつかまれる。
永翔が眉をひそめて問いかけてきた。
「どうした」
立貴と邦紀の表情にも、わずかな懸念が浮かんでいる。
美乃里は瞳を潤ませ、せり上がる嗚咽を懸命に押し殺しながら、すがるように3人を見つめた。
「母がいなくなったんです。野坂(のさか)家が復讐に来たんじゃないかって……」
野坂家――かつて定子が美乃里を守るために殴り倒した、あのチンピラの実家だ。
出所したばかりの母と同居することはできず、元の家にも戻れず、美乃里がアパートを借りて住まわせていた。
まさかこんな事態になるとは思ってもみなかった。
当時の事情を知っている立貴と邦紀の顔にも、険しい色が差す。
「落ち着け。俺たちが人を手配して捜してやる」
3人のなだめるような言葉に、美乃里は深く感謝した。丁寧にお礼を告げると、その場から足早に立ち去った。
だが、彼らにすべてを委ねるわけにはいかない。心当たりのある場所は、自分の足で捜さなければならなかった。
移動しながら家政婦に詳しい状況を聞くと、定子は昼下がりに散歩へ出たきり戻らず、近所を探し回っても姿を見かけた者はいなかったという。
定子の携帯に何度も電話をかけたが、電源が入っていないという無機質なアナウンスが繰り返されるだけだった。
美乃里は最寄りの警察署に駆け込んで捜索願を出すと、かつて2人で暮らしていた屋敷や、定子が立ち寄りそうな場所を片っ端から当たったが、それでも見つからなかった。
深夜も構わず、記憶を頼りに昔なじみの家を1軒ずつ訪ね歩き、自分を家から叩き出した叔父の元にまで足を運んだが、何の収穫もなかった。
警察からも有力な情報は上がってこなかった。
東の空が白み始めた頃、美乃里の焦りは限界に達していた。
助けを求めようと永翔、立貴、邦紀へ何度も電話をかけたが、誰一人として出なかった。
その時、見知らぬ番号から着信が入った。
跳ね上がる心臓を抑え、美乃里はすがる思いで通話ボタンを押す。
「お母さん、お母さんなの……?」
だが、電話口から返ってきたのは、侑良の嘲笑だった。
「西原さん、まさかあの3人が人殺しの母親を助けてくれるなんて、本気で信じていたの?」
美乃里は思わず声を張り上げた。
「川瀬さん、彼らは昨日、捜すのを手伝うと約束してくれました――」
「それがどうしたの?」
侑良は笑い声を響かせた。
「私の飼い犬がいなくなったのよ。だから、あなたのために出すはずだった人手を全部、私の犬を捜すほうに回してもらったの。あははは!
今あの人たちが何をしているか当ててみて。私の犬が見つからないからって、今まさに――」
美乃里は力任せに通話を切った。
焦燥と激しい怒りに胸が波打つ。一晩中走り回った体はとうに限界を迎えており、目の前が真っ暗になりかけた。
胸中に広がったのは、底知れない惨めさと悲哀だ。
自分の母親が生死の境をさまよっているかもしれないというのに、侑良の飼い犬1匹にすら劣るというのか。
これほど残酷な話があるだろうか。
美乃里は舌の先を強くかみ、激痛で意識をつなぎ止めた。
ふらつく体を奮い立たせて近くのコンビニに入り、朝食を手早く買って席に腰を下ろした。
その瞬間、スマートフォンにメッセージが届いた。
添付されていたのは、血にまみれて冷たい床に倒れる定子の写真。意識はなく、生死すら定かではない。
【助けたければ、1人で西の倉庫街にある第36倉庫に来い。さもなければどうなっても知らんぞ】
美乃里は息を切らせて倉庫へ駆けつけた。
だが、扉の前で見張っていた黒服の男2人に両腕をねじ上げられ、強引に中へと引きずり込まれた。
薄暗い倉庫の中央に、1人掛けのソファが据えられていた。誰かが腰掛けている。
パチリと照明が点き、周囲が一気に照らし出された。
ソファに座る人物の顔を認めた瞬間、美乃里は息をのんだ。
「侑良……!」
第8話
侑良の背後に控えていたボディーガードが歩み寄り、容赦のない平手打ちで美乃里を床へ打ち倒した。
激しい耳鳴りが頭の中で響き、口の中に鉄の味が広がる。床に突っ伏したまま、彼女は必死に顔を上げた。
「私に恨みがあるなら、私だけにしてください!母には手を出さないで!」
侑良は嘲笑を浮かべて立ち上がると、ボディーガードから差し出された鉄パイプを受け取った。
「何様のつもり?よくも私の電話を切ってくれたわね」
美乃里の前へ歩み寄るなり、侑良は容赦なく鉄パイプを振り下ろした。
鈍い音とともに左腕を叩き折られ、美乃里の口から悲鳴がほとばしる。激痛に襲われ、額から大粒の冷や汗が噴き出した。
侑良はナイフを取り出すと、その切っ先で美乃里の顎を押し上げた。
「愛人に身を落とすような娘を育てた母親だもの、少しばかり教育してあげただけよ。あの女を気にかける前に、自分の心配をしたらどう?
前々からその顔が気に食わなかったのよね。道端で拾われた孤児のくせに、私に似た顔をしているなんて身の程知らずもいいところだわ」
冷え切った刃先が肌に押し当てられ、美乃里の体が小刻みに震える。恐怖と絶望に押し潰されそうになりながら、かすれた声で乞うた。
「母を解放してください……私なら、何をされたって構わないから……」
侑良は冷ややかに唇をつり上げた。
「安心なさい。母親ならとうに家に帰してあるわ。でも、あなたはそう簡単に済むと思わないことね。
この前はあの3人があなたを助けるために私を車に置き去りにしたけれど、今回もそんな運があるかしら?」
言い放つと同時に刃先へ力が込められ、美乃里の頬を容赦なく切り裂いた。
目尻から顎にかけて深い傷が刻まれ、鮮血がとめどなく滴り落ちる。
激痛に全身をけいれんさせ、美乃里は奥歯をかみ締めてうめき声を漏らした。
侑良は高らかに笑い声を上げ、満足そうにうなずく。
「これで少しは見られる顔になったわ」
背を向け、出口へと歩き出しながら男たちに言い捨てた。
「この女はあなたたちにあげる。好きにしていいわよ。息の根さえ止めなければね」
ボディーガードたちが下卑た笑みを浮かべて詰め寄ってくる。美乃里にはもう、抵抗する力すら残っていなかった。
絶望の中、静かに瞳を閉じる。
男たちの下品なささやきが耳元に響いた。
薄れゆく意識の狭間で、突如として倉庫の重い扉が蹴破られた。警察が一斉になだれ込んでくる。
*
次に目を覚ました時、ベッドの傍らには永翔、立貴、邦紀の3人が付き添っていた。
顔に焼けるような激痛が走り、思わず手を伸ばそうとして、ギプスで固定された左腕の存在を思い出す。
美乃里の覚醒にいち早く気づいた永翔が、ベッドのリクライニングを静かに起こした。
美乃里は焦りをにじませて問いかける。
「母は……?」
立貴が苦々しく口元を引き結んだ。
「無事だ。ひどく怯えてはいるが、隣の病室で休んでいる。それより、お前の顔だが……」
3人は一様に気まずそうな、後ろめたい表情を浮かべていた。
永翔が重い口を開く。
「傷が深く、痕が残るそうだ。だが心配するな。最高の医師を手配する」
邦紀も静かにうなずいた。
「けがを負わせた責任の一端は俺たちにもある。安心しろ、これからも俺たちのそばにいればいい。何不自由のない暮らしを保証してやる」
美乃里の口元に、冷え切った嘲笑が浮かんだ。
「川瀬侑良は?私を拉致して傷つけたあの女は、どう処分されたんですか」
3人の間に、再び重苦しい沈黙が落ちる。やがて邦紀が視線を泳がせながら口を開いた。
「侑良はお前が連れ去られたと聞き、人を率いて助けに向かったんだ。そのせいで体に負担がかかり、今は安静にしている」
美乃里は弾かれたように上体を起こした。胸を激しく波打たせ、震える声を鋭く尖らせる。
「でたらめを言わないで!どうして事実をもみ消すんですか?倉庫に残されたナイフには、あの女の指紋が残っているはずでしょう!」
永翔の瞳がかすかに揺らいだ。
美乃里をなだめるように1歩歩み寄る。
「お前の勘違いだ。警察の調べでは、ナイフに付着していたのはお前を襲おうとした男たちの指紋だけだった。この件は、もう捜査が終わっている」
第9話
抗っていた美乃里の体が、ふいにぴたりと止まった。
大きく見開いた瞳で3人を見つめる。
「捜査が終わった……?」
3人はその視線から逃れるように目をそらし、無言でうなずいた。
美乃里の口から乾いた笑いがこぼれる。
力が抜け、ベッドの背もたれへ深く身を沈めた。
長い沈黙のあと、彼女は低く笑い声を立てた。ゆがんだ口元が頬の傷を引きつらせ、激痛とともに涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
視線を上げ、目の前の男たちを凝視した。
かつて心を揺さぶられ、甘い夢を見た相手。だが今となっては、その顔は浅ましく醜悪で、吐き気すら覚える。
彼女の冷え切った眼差しを前に、3人は一様に胸を締め付けられた。
永翔は唇を引き結び、隠しきれないためらいと憐れみを瞳ににじませる。
「そんな顔をするな。約束する、こんなことはこれが最後だ。これからは必ずお前を守る。二度と傷つけさせない」
立貴も焦りと心配を露わにしてうなずいた。
「そうだ。最高の医師を用意してやる。お前と母親の生活だって、一生何不自由なく保証する」
邦紀の瞳にも複雑な色が揺れる。
「これからは口の利き方も改める。二度と見下したりしない。侑良にお前をいじめさせもしない」
独りよがりな約束を耳にして、美乃里の笑い声はさらに大きくなった。
「日野社長、北島社長、渡辺社長。一体どういう立場で私を守るおつもりですか?私たちはただの契約関係です。その契約すら終わろうとしているのに、なぜ私がこのまま残って、あなた方や川瀬さんからの屈辱に耐え続けると思うのですか」
3人は顔を見合わせ、覚悟を決めたように視線を交わした。
「結婚してもいい」
美乃里は呆然と息をのんだ。
「……何ですって?」
3人は神妙な面持ちのまま、美乃里をまっすぐに見据えた。
「俺たちが侑良にどんな想いを抱いているかは知っているだろう。あいつは妊娠している。誰か1人を選ぶまで、俺たち全員で支え続けると約束した」
「侑良が夫を選んだあと、残った2人のうち、お前が好きな方を自由に選べばいい。そうすれば、これからの人生に困ることもない」
「その代わり約束しろ。今回の件は水に流し、二度と蒸し返さないと」
美乃里は喉を詰まらせた。
真面目な顔でそんな狂った提案を口にする3人を見つめ、唇を震わせたものの、言葉が出てこない。
侑良のためなら、ここまで常軌を逸した真似ができるのか。
あまりにも滑稽だった。
やがて、美乃里は胸中で渦巻く感情をすべて無理やりねじ伏せた。
「もう休みたいです。この件はこれで終わりにします。あなた方に付きまとう気もありませんから、残りの数日は静かに過ごさせてください」
3人はうなずき、「約束はいつでも有効だ」と言い残して病室を後にした。
3人が立ち去って間もなく、枕元のスマートフォンが短い通知音を鳴らした。
養母と自分の移住ビザが正式に発給された知らせだった。
美乃里はその文面を何度も確かめ、ようやく安堵の息を吐き出す。
口元に心からの笑みを浮かべ、航空券の予約アプリを開いて2日後のチケットを確保した。
それからの2日間、栄養剤や高価な贈り物が病室へ湯水のように運び込まれた。全国各地から名だたる名医が次々と訪れ、美乃里は言われるがまま、無言で診察を受けた。
永翔、立貴、邦紀は毎日見舞いに現れたが、彼女は頑なに扉を開けず、面会を拒絶し続けた。3人は腹を立てる様子もなく静かに引き返し、機嫌を損ねて騒ぎ立てる侑良の元へ向かう。
3人の気配が完全に消えたのを見届け、美乃里は私服へと着替えた。
隣の病室から養母を連れ出すと、2人は足早に病院を抜け出し、タクシーを捕まえて空港へと直行した。
ロビーに搭乗案内が響き渡る中、美乃里は3人の連絡先を端末から消去し、着信拒否に設定してから電源を落とした。
過去のすべてときっぱり決別する。
機体が滑走路を離れ、空へと舞い上がった瞬間、張り詰めていた緊張がようやく解けた。
母の肩に寄り添い、美乃里は深く、穏やかな眠りへと落ちていった。