Loading promotion info...
彼女に届かない声
恋人の如月汐里(きさらぎ しおり)には聴覚障害があり、俺・神原颯人(かんばら はやと)が何を言っても、よく聞き取れないことがあった。 俺が「ゲームの装備をワンセット買ってくれ」と言えば、彼女はツーセット買ってきた。 「また聞き間違えちゃった。余ったほうは遠真にあげよう」 俺が「洋食を頼んで」と言えば、彼女はなぜか寿司を注文していた。 「聞き間違えちゃった。遠真は寿司が好きだから、呼んで一緒に食べよう」 俺は新居の設計に心血を注ぎ、汐里には南町で1軒買ってくれと頼んだ。 ところが、完成した新居の引き渡しの日、彼女は車を飛ばし、北町へ向かった。 俺が道中ずっと何も言わずにいることに気づくと、彼女はまた謝った。 「本当に聞き取れなかったの。あなたが北町の景色を気に入ってるんだと思って、何も考えずにこっちで買っちゃった」 けれど、俺は知っていた。 彼女の幼なじみである木村遠真(きむら とうま)が勤める会社は、すぐこの近くにある。 彼女は聞き取れなかったんじゃない。 ただ、一度だって俺の言葉に耳を傾けようとはしなかったのだ。 その瞬間、俺はすべてを諦めたように、ふっと力が抜けた。そして、ひどく穏やかな声で言った。 「汐里、別れよう」
Chapters (1)
第1章
恋人の如月汐里(きさらぎ しおり)には聴覚障害があり、俺・神原颯人(かんばら はやと)が何を言っても、よく聞き取れないことがあった。
俺が「ゲームの装備をワンセット買ってくれ」と言えば、彼女はツーセット買ってきた。
「また聞き間違えちゃった。余ったほうは遠真にあげよう」
俺が「洋食を頼んで」と言えば、彼女はなぜか寿司を注文していた。
「聞き間違えちゃった。遠真は寿司が好きだから、呼んで一緒に食べよう」
俺は新居の設計に心血を注ぎ、汐里には南町で1軒買ってくれと頼んだ。
ところが、完成した新居の引き渡しの日、彼女は車を飛ばし、北町へ向かった。
俺が道中ずっと何も言わずにいることに気づくと、彼女はまた謝った。
「本当に聞き取れなかったの。あなたが北町の景色を気に入ってるんだと思って、何も考えずにこっちで買っちゃった」
けれど、俺は知っていた。
彼女の幼なじみである木村遠真(きむら とうま)が勤める会社は、すぐこの近くにある。
彼女は聞き取れなかったんじゃない。
ただ、一度だって俺の言葉に耳を傾けようとはしなかったのだ。
その瞬間、俺はすべてを諦めたように、ふっと力が抜けた。そして、ひどく穏やかな声で言った。
「汐里、別れよう」
第1話
汐里は困惑したように顔を上げ、無意識に耳元の補聴器に触れた。
「今、何て言ったの?聞き取れなかった」
いつも俺が話しかけても、彼女はろくに聞こうとしなかった。
どうせ俺が辛抱強く、もう一度言い直してくれると分かっていたからだ。
でも、今回は何度も繰り返す気にはなれなかった。
「何でもない」
できるだけ平静を装って、俺は言った。
「その家は解約しよう。俺は南町に家を買ってくれって言ったんだから、南町で買うんだ」
その瞬間、彼女の顔からすっと表情が消えた。
「家なんて、服みたいに簡単に買い替えられるものじゃないでしょ。設計図を描いたのはあなたで、昼も夜も私が付きっきりで監督して完成させたのよ。それを、いらないって言うの?
もう、わがまま言うのはやめて」
二人の間に張り詰めた空気が漂う中、突然、「カチャッ」と玄関のドアが開いた。
遠真が、まるで自分の家に帰ってきたかのように指紋認証で中へ入ってきた。
三人の視線が交錯する。
俺たちが口論していることに気づくと、遠真はまるでこの家の主であるかのような態度を見せた。
「颯人さん、汐里のことを少し理解してあげて。汐里には聴覚障害があるんだ。聞き間違えたって、わざとじゃないだろう。
俺が料理を作るから待っててくれ。二人のために、先に引っ越し祝いをやろう」
そう言うと、彼は慣れた手つきで野菜を洗い、下ごしらえをし、鍋に放り込んでいく。まるで自分の家の台所で料理をしているかのようだ。
汐里は、彼がキッチンで忙しく動き回る姿を見つめ、その瞳には愛おしげな光が浮かんでいる。
そしていつものように彼のところへ行き、手伝い始める。
息の合った二人の姿は、どこか温かく、親密だった。
けれど、二人とも忘れているようだ。
ここは、本来なら俺たちの新居のはずなのに。
俺が出ていこうとしたとき、汐里が小走りで追いかけてきて、俺の腕をつかんだ。
「せっかく遠真があなたのために引っ越し祝いの料理を作ってくれてるのに、まだそんな顔してるの?いい加減にしたら?」
俺のための引っ越し祝い?
実は家に入ったときから、俺は気づいていた。
家の間取りは、俺が設計したものとはまるで違っていた。
もともと親しい友人や家族を泊めるために用意していたゲストルームは、主寝室の二倍もの広さになっていた。
それどころか、面積を無理やり広げるために、俺が心を込めて設計したゲームルームまで削られ、物置同然の広さにされていた。
壁に貼られているタイルだって、俺が最初に却下した光沢タイルだった。
見れば明らかだった。
この家はすでに、すべて遠真の好みに合わせて造り替えられている。
俺は淡々と言った。
「二人で食べればいい」
そう言ってドアを開けようとした俺を、今度は遠真が先回りして引き止めた。
彼はいかにも傷ついたような顔をしている。
「颯人さんがどうして怒ってるのか、分からないけど……
でも、怒るなら俺を怒ってくれ。汐里には聴覚障害がある。そんな大声で怒鳴ったら、汐里が耐えられない。どうか彼女のことを分かってあげて!」
俺は思わず拳を強く握りしめた。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
これまでに何度も、遠真が汐里に激しく怒鳴りつける姿を見てきた。
一度なんて、彼女が何より大切にしていた補聴器を、うっかり叩き落としたことさえある。
それでも汐里は、慌てて補聴器を拾い上げると、彼にこう懇願していた。
「お願い、さっきのこと、もう一度言って」
何か大切なことを聞き漏らしてはいけないと、必死だった。
なのに、俺と喧嘩するときだけは違った。
彼女はいつも、ためらいもなく補聴器を外した。そして、俺が狂ったように取り乱しても、ただ黙って見ていた。
でも、もう二度と、俺は騒ぎ立てたりしない。
第2話
「食べたくないなら、もういいわ。帰らせて」
汐里の口調には、苛立ちが滲んでいた。
窓の外で雷鳴が轟き、稲妻が走る。
彼女はそれを見て、鼻で笑った。その一言が、俺の胸を容赦なく抉った。
「もう雷が怖いって泣き喚いたりしないでよ」
継父から暴力を受けていた頃、俺はよく大雨の中へ放り出され、意識を失うまで雨に打たれていた。
そのせいで、俺は雷が怖くなった。
そんな俺に、汐里はいつも欠かさず寄り添い、雨の夜を一緒に過ごしてくれていた。
それなのに、俺の弱点を誰よりも知っている彼女は、腹を立てたまま、俺を玄関へと追いやった。
「熱っ!」
遠真が苦痛の声を上げたことで、俺は現実へと引き戻された。
汐里はすぐさま、彼がこぼしてしまった熱湯を拭き取り、優しい声で言った。
「火傷した?残りの料理は私が作るから、そこにいて」
その光景が、かつての俺たちと重なって見えた。
俺は振り返ることなくドアを開け、迷いなく雨の中へ飛び出した。そして、すぐにタクシーを拾った。
その晩、俺は40度近い高熱を出した。
一方、遠真のSNSには、すでにテーブルいっぱいに並べられた料理の写真が投稿されていた。
【新居には、俺専用の部屋がある。なんと主寝室より広い!誰かさんが作ってくれた引っ越し祝いも、いつもよりずっと美味しく感じる!】
でも、俺ははっきり覚えている。汐里は以前、「一生、キッチンには入らない」と誓っていた。油や煙の匂いが嫌いだからだ。
それなのに、遠真のためなら彼女はその誓いを、いとも簡単に破ってしまった。
ふと我に返った俺は、連絡先の一番下にしまい込んでいた番号を呼び出した。
「以前、ずっと居場所を残しておくとおっしゃっていましたよね。今でも、そのお約束は有効でしょうか?」
返ってきたのは、興奮したような、力強い肯定の言葉だった。
俺は解熱剤を飲み、そのまま意識が朦朧とする中で眠りについた。
翌朝、1本の電話で目を覚ました。
「颯人、誰にそんな無礼なことを教わったの?家族で食事をするって約束したでしょう。一族みんなが、あなた一人を待ってるのよ!」
俺の頭が割れそうなほど熱かった。
「俺、熱が……」
「そんな言い訳、もういいから。早く来なさい。みんなを待たせないで」
俺は重い体を引きずるようにして、如月家の本宅へ向かった。まさか、汐里の隣に遠真まで座っているとは思わなかった。
家族はそれぞれ複雑な表情を浮かべていた。中でも汐里の母親は、俺に露骨な冷たい視線を向けていた。
俺が汐里と結婚するのは金目当てじゃない。そう何度説明しても、彼女は俺のことを「ヒモ」だと言い続けた。
「昼まで寝てたくせに、ヒモじゃないって言うの?誰がそんな話を信じると思うの」
俺が全身汗だくになり、力が入らず、足を震わせていたことに、誰も気づかなかった。
そして汐里も、かつてのように俺を庇ってはくれなかった。
次々と浴びせられる非難の言葉に、俺は息苦しくなった。そこで俺は箸を置き、静かに口を開いた。
「おばさん、この結婚……やめます」
汐里の母親の表情が、凍りついた。
汐里は慌てて彼女をなだめた。
「お母さん、彼はみんなに冗談を言ってるだけよ。明後日の結婚式だって、もう準備できてるんだから」
そう言うと、彼女は俺を人目のない隅へと連れていった。
「わがままもいい加減にして。お母さんが早く孫の顔が見たいと言ってるの、知ってるでしょう?さっきみたいなこと、年上の人に言っていいと思ってるの?」
皮肉を言われるのも俺だ。責められるのも俺だ。
彼女は延々と俺を責め立て、俺の体調が悪いことなど少しも気づいていなかった。
俺が怒りを爆発させようとしたそのとき、遠真がいかにも物欲しそうな顔で俺を見つめた。
「颯人さんのお守り、すごくかっこいいよね。俺にくれないか?」
俺は無意識に拳を握りしめた。喉の奥に、鋭い棘が突き刺さったようだった。
このお守りは、汐里が俺のために何度も寺へ足を運び、祈りを捧げて手に入れてくれたものだった。
あの頃、俺の母親が継父に殴り殺された。そのとき彼女は、自分の手でこのお守りを俺の手首に結びつけ、「一生、あなたの無事を守ってあげる」と、そう言ってくれた。
俺は悔しさを押し殺しながら、彼女を見た。
「君はどう思う?」
彼女は何も言わなかった。けれど、その目に浮かんだ迷いが、すべてを物語っていた。今の彼女が守りたいと思っている相手は、もう別にいるのだ。
「分かった。やるさ」
あまりにもあっさりとした俺の返事に、汐里は驚いたように俺を見つめた。
でも俺はもう、お守りを外していた。そして、それを遠真の手に無造作に押しつけた。
7年も続いたこの恋を捨てるんだ。こんなお守り一つ、今さら惜しむ理由なんてない。
如月家を出た俺は、正式な入社の誘いを受け取ると、すぐにこの町を離れるための航空券を予約した。
第3話
元の家に戻ると、俺は出ていくための荷物をまとめ始めた。
すると、思いがけず帰ってきた汐里にその姿を見られてしまった。
彼女は、俺が新婚旅行の荷造りをしているのだと勘違いしたらしい。
「こんなに早くから?気が早すぎない?
それに、新婚旅行は南極に行くんだから、夏服なんて持っていってどうするの?凍え死ぬわよ」
俺は呆然とした。
ずっと前から、結婚したらノルウェーへ新婚旅行に行こうと二人で決めていた。
そこは、俺たちが出会った場所だったからだ。
あのとき彼女は俺にキスをして、こう言った。
「何度思い出の場所を訪れたっていい。でも、隣にいる人だけは、ずっと変わらないからね」
だから3日前、俺は彼女に航空券を買ってもらっていた。
俺はほとんど反射的に口にした。
「ノルウェーじゃなかったのか?」
汐里は苛立ったように2枚の航空券を取り出した。確かに、行き先は南極だった。
その直後、彼女のポケットからもう1枚の航空券が落ちた。日付も行き先も、同じだった。
彼女は一瞬、動きを止めた。そして、どこか不自然に言い訳した。
「たぶん、私が聞き間違えたんだと思う。あなたが南極に行きたいんだと思ってたの。支払いのときに間違えて押しちゃって、もう1枚買っちゃったみたい」
けれど、そのもう1枚に書かれていた名前は、はっきりと遠真だった。
ふと、3日前のことを思い出した。
遠真はSNSに、南極のオーロラの動画を何本もシェアしていた。
【誰か南極にオーロラを見に連れていってくれるかな。ここで願掛けしておこうっと】
今なら分かる。その願いを叶えてやろうとしているのは、汐里だったのだ。
俺の声は、一度だって彼女の心には届かなかった。そして俺という人間も、最初から彼女の心の中には入っていなかった。
俺は顔を上げ、こぼれそうになる涙を必死に堪えた。
「俺の分はキャンセルしてくれ」
それを聞いた汐里は、ついに俺に対する忍耐を失った。
「どこに旅行したって大して変わらないでしょう?一人増えたほうがお互い助け合えるし、そんなことにいちいちこだわる必要ある?
ほんと、どんどん面倒くさくなってるよね」
俺は顔を上げ、彼女の目を見つめた。
まさか、こんな言葉を汐里の口から聞くことになるなんて、信じられなかった。
継父の暴力から逃れ、暗闇から抜け出したあと、俺は一時期、うつ病を患っていた。
俺が怒ったときも、涙を流したときも、彼女はいつだって無条件に俺を慰めてくれた。
不器用な手つきで涙を拭ってくれた。
たどたどしい方言で、俺を笑わせようとしてくれた。
決して、俺のことを「面倒くさい」なんて言わなかった。
俺は深く息を吸った。
「怒ってるんじゃない。ただ、俺は……」
そのとき、汐里の着信音が突然鳴り響いた。
遠真からだった。
彼女は慌ててスマホを手で覆い、書斎へ逃げ込んだ。
バタン!
厚いドアが閉まり、俺が言いかけた「出ていく」という4文字を遮った。
真夜中、書斎から、彼女のため息が聞こえてきた。
「今でさえこんなに私を悩ませるんだから、結婚したらもっと大変になるわ。
昔、私がそばにいて颯人のうつ病を治したでしょう。口には出さなかったけど、私がどれだけうんざりしてたかくらい、彼には分かってるはずよ」
一言一言が、はっきりと聞こえた。そして、その一言一言が俺の胸を深く抉った。
向こうで何が起きたのか分からず、汐里はとっさに身を強張らせた。
「具合が悪そうなの?
分かった。颯人が寝たら、すぐ新居に行くから」
分厚いドアを隔てて、俺は苦笑した。
もう、そんなに気を遣わなくていい。俺はもう、二人の邪魔をするつもりはない。
ドアにもたれながら、俺は彼女が何度も遠真に甘い言葉をささやく声を聞いていた。
他人からボイスメッセージが送られてくるのをあれほど嫌っていた彼女が、遠真から届いたボイスメッセージだけは、何度も何度も繰り返し再生していた。
俺はもう聞き続ける気にはなれず、寝室へ戻った。そして、久しぶりに深い眠りについた。
汐里がいつ家を出ていったのかさえ、俺は知らなかった。
翌朝、1階から突然、楽しそうな笑い声が響いてきた。
第4話
広間には親族や友人たちが所狭しと集まり、グラスを手に談笑していた。
皺だらけのパジャマ姿で現れた俺を見ると、汐里は不機嫌そうに眉をひそめた。
「今日が結婚式のリハーサルだって忘れたの?両親はもう来てるのよ。それなのに、そんな格好で降りてくるの?」
周囲から、侮蔑や嘲笑の視線が俺に突き刺さる。
まるで、こんな格の低い男と汐里が結婚するなんて、とでも言いたげだった。
汐里は自分まで恥をかいたような顔をして、苛立たしげに手を振った。
「ちゃんとした礼服に着替えてきて。まるで如月家があなたを粗末に扱ってるみたいじゃない」
その一方で、遠真はまるで新郎本人であるかのように、結婚式用のタキシードを身にまとっていた。
俺は汐里の横柄な態度を無視した。そして、みんなが集まっているこの場で、正式に婚約破棄を告げようとした。
ちょうどそのとき、遠真が足早に近づいてきて、俺をある男の前へと連れていった。
「こんなおめでたい日に、せっかくだからおじさんも呼んで、一緒にお祝いしてもらおうと思ってさ。颯人さん、余計なことしたなんて怒らないでよ」
俺は顔を上げた。
その瞬間、心臓が止まったような気がした。
そこに立っていたのは――俺の目の前で母親を殴り殺した、あの継父。
耳元で、継父の声が悪魔のように響いた。
「颯人、結婚なんて大事な祝い事なのに、どうして父さんを呼ばないんだ?俺もお前を祝ってやろうと思って来たんだ」
瞬間、恐怖と憎しみが電流のように全身を駆け巡った。
すると遠真が突然、俺の耳元へ顔を寄せ、興奮した様子で囁いた。
「この人、お前の母親を殴り殺したんだって?しかも遺体はいまだに見つかってないらしいじゃないか。なのに、よくこんなところで結婚なんかしてられるな。
それに、こんな幸せな日に家族がいないなんて寂しいだろ?そう思わないか?」
昼も夜も俺の悪夢に現れる、あの悪魔を目の前にして、俺は怒りで目を血走らせた。
「どうして、そんなことを知ってる?」
声は震え、俺の姿は自分でも恐ろしいほど狂気じみていた。
遠真は、何も知らずに立っている汐里へ視線を向けた。
「一度、汐里にイラッとさせられてしまって。そのとき、汐里が俺を慰めるためにこの話をしてくれたんだ。ああ、颯人さん、そんな怖い顔で睨まないでよ」
パァン!
俺は拳を振り上げ、遠真の顔面を殴りつけた。
次の瞬間、汐里は一切手加減せず、俺を力いっぱい突き飛ばした。
「颯人、恩を仇で返すなんて!
遠真はあなたのことを思って、わざわざ家族を呼んで結婚式のリハーサルまでしてくれたのよ。それなのに、よくも手を出したわね!早く謝って!」
遠真は彼女の背後に隠れ、勝ち誇ったような顔で俺を挑発していた。
俺はまるで狂った人間のように、不意に笑い出した。
自分が負った見るに堪えない傷を、すべて彼女にさらけ出した。
それなのに彼女は、振り返った途端、それを幼なじみを喜ばせるための笑い話にしてしまった。
呆然とする彼女を見つめ、俺は一字一句、噛みしめるように言った。
「夢でも見てろ。
汐里。俺たちは、ここで終わりだ」
汐里の表情がたちまち険しくなり、瞳の奥に信じられないという色が浮かんだ。
俺はもう彼女を見なかった。そのまま2階へ上がり、荷物を手に取ると、家の裏口から出ていった。
別れの言葉すら、もう余計だった。
……
結婚式まで、あと1時間だ。
汐里は苛立ったように、控室のメイクルームのドアをノックした。
「颯人、いい加減にして。家にいるときとは違うのよ。今日は誰もあなたの機嫌が直るまで待ってなんかくれないから」
次の瞬間、彼女は怒りに任せてドアを開けた。
だが、そこから出てきたのは見知らぬ新郎だった。
「何をノックしてるんだ?人違いじゃないか?」
汐里が呆然と立ち尽くしていると、会場責任者が息を切らしながら駆け込んできた。
「如月さん、申し上げ忘れていました!昨日、神原さんがもう結婚式場をキャンセルされたんです!」