遅すぎた約束

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私の一族は桐谷家と、代々敵対してきた家同士だった。余計な噂を避けるため、私は十年間、桐谷蓮(きりたに れん)の恋人でありながら、何の肩書きもないまま彼のそばにいた。 私がいつになったら公にするのかと尋ねるたび、蓮はいつも何かしらの言い訳をした。 「また俺たちの家が、同じ案件を取り合ってるだろ。もう少し待ってくれ」 「最近、両親が海外に行ってるんだ。帰ってきてから話そう」 「昨日、母さんとお前の母親が喧嘩したんだ。今はまだ、そういう話をするタイミングじゃない」 私は、信じていた。 けれどある日、家から縁談を急かされ、私は蓮がいつも通っているビリヤードバーへ彼を探しに行った。 そこで偶然、彼の仲間の声が聞こえてきた。「蓮さん、水野美晴(みずの みはる)とはもう結婚して一年になるんですよね? いつ離婚するんですか? 俺、いつか紗月さんにバレるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてますよ」 蓮は何でもないことのように、キューを構えた。そして、淡々とした声で言った。 「あと数か月くらい待ってもいいだろ。どうせ俺以外の男に、あいつが嫁ぐことなんてないんだから」 その言葉を、個室の外で聞いていた私は、ふっと笑った。笑っているうちに、涙がこぼれた。 蓮は確信に満ちた口調で言った。けれど、彼は忘れていた。私は、手に少し埃がついただけでも、何度も何度も消毒するような人間だ。 そんな私が一度汚れてしまった彼を、どうして欲しいと思えるだろう。

Chapters (1)

第1章

私の一族は桐谷家と、代々敵対してきた家同士だった。余計な噂を避けるため、私は十年間、桐谷蓮(きりたに れん)の恋人でありながら、何の肩書きもないまま彼のそばにいた。 私がいつになったら公にするのかと尋ねるたび、蓮はいつも何かしらの言い訳をした。 「また俺たちの家が、同じ案件を取り合ってるだろ。もう少し待ってくれ」 「最近、両親が海外に行ってるんだ。帰ってきてから話そう」 「昨日、母さんとお前の母親が喧嘩したんだ。今はまだ、そういう話をするタイミングじゃない」 私は、信じていた。 けれどある日、家から縁談を急かされ、私は蓮がいつも通っているビリヤードバーへ彼を探しに行った。 そこで偶然、彼の仲間の声が聞こえてきた。「蓮さん、水野美晴(みずの みはる)とはもう結婚して一年になるんですよね? いつ離婚するんですか? 俺、いつか紗月さんにバレるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてますよ」 蓮は何でもないことのように、キューを構えた。そして、淡々とした声で言った。 「あと数か月くらい待ってもいいだろ。どうせ俺以外の男に、あいつが嫁ぐことなんてないんだから」 その言葉を、個室の外で聞いていた私は、ふっと笑った。笑っているうちに、涙がこぼれた。 蓮は確信に満ちた口調で言った。けれど、彼は忘れていた。私は、手に少し埃がついただけでも、何度も何度も消毒するような人間だ。 そんな私が一度汚れてしまった彼を、どうして欲しいと思えるだろう。 第1話 蓮に会いに行こうと決めたのは、はっきりとした答えが欲しかったからだ。 もう、先の見えない恋を続けたくなかった。 まだ何も聞いていないのに、答えはもう出ていた。 まさかいつか、自分が「不倫相手」になるなんて思ってもいなかった。 私は涙を拭い、これ以上みじめな思いをすることなく、家に入ることもせず、そのまま背を向けて立ち去った。 けれど、タクシーを拾う前に、蓮が出てきた。 私を見るなり、蓮は一瞬だけ目を見開いた。そして、満足そうに笑った。 「もう、ちゃんと考えた? 言っただろ。お前との関係を公にしたくないわけじゃない。ただ、俺たちの家同士の関係があまりにも険悪なんだ。お前が今、ちゃんと考えてくれたなら、それでいい」 この何年もの間、私たちの関係を公にすることで、蓮と何度言い争ったかなんて、もう数え切れない。 そして最後には、いつも私が折れていた。 けれど今回は、蓮が差し出した手を避けて、私は言った。「ただ、通りかかっただけ」 蓮は明らかに信じていなかった。それでもう一度手を伸ばし、私の手を取って車へ乗せようとする。 「今は帰宅ラッシュでタクシーも捕まらない。家まで送るよ」 さっきまで振りほどこうとしていた手が、その言葉を聞いた途端、止まった。 車に乗ってから、私はいつものように何でも話したがることもなくなり、黙り込んだ。 蓮は時折こちらを見ていた。やがて小さくため息をつき、私の手を弄びながら、宥めるように言った。「まだ怒ってるなら、帰りにおでん買ってやろうか?」 私は固まった。 ふいに思い出した。水野美晴。聞き慣れているのに、今ではどこか他人行儀に響くその名前。あのコンビニで、学費を稼ぐためにアルバイトをしていた大学生。 私はあの店のおでんが好きだった。だから私が怒るたび、蓮はおでんを買ってきて、機嫌を取ってくれた。 二人が関わるようになったのは、私がいたからだった。 そう気づいた瞬間、吐き気が込み上げてきた。抑えきれず、私はえずいた。 蓮が慌てた様子で私の背中をさする。「どうした?どこか具合が悪いのか?病院に連れて行こうか?」 私は身を横にずらして、彼から離れた。その動きが大きすぎたのだろう。ポケットから、一枚の白い紙が落ちた。 蓮は反射的に腰をかがめ、それを拾い上げた。けれど、彼がそこに書かれた内容を目にするより先に、私は口を開いた。 「蓮、私たち……もう終わりにしよう」 蓮の動きが止まった。顔から一瞬で笑みが消え、険しい表情になる。「どういう意味だ?」 「もう、続けたくないってこと」 そう言ったところで、車がちょうど蓮がいつも私を送り迎えしていた場所に止まった。 私は留まらず、診断書を取り返し、ドアを開けて車を降りた。 蓮も後を追って降りてきた。そして突然、私の手首を強くつかんだ。顎も固く引き結んでいる。 「高橋紗月(たかはし さつき)。今回は、お前が体調を崩して、わけのわからないことを言ってるってことにしておく。二度目はないからな!」 けれど、私は本気だった。 私が何か言うより先に、蓮の携帯が鳴った。 彼の表情が一瞬だけ不自然に揺れた。そしてそのまま背を向け、私に一言だけ残した。 「しばらくゆっくり休め。俺たちも、少し頭を冷やそう」 彼がわざと隠そうとしていたにもかかわらず、私はその着信相手をはっきりと見てしまった。 ――水野美晴。 遠ざかっていく蓮の背中を見つめながら、私はとうとう泣いてしまった。 どうしても理解できなかった。人の心は、どうして同時に二人を入れておけるのだろう。 少なくとも、私には無理だった。 私は手にしていた妊娠診断書を引き裂いた。もう迷いはなかった。中絶手術を予約した。 第2話 手術の予定はすぐに決まり、翌日には私は病院へ向かった。 術後の経過観察中、隣にいた人がインスタの投稿を見ていた。 私は普段、インスタを見る習慣がない。けれど今回は、珍しくその人につられるようにインスタを開いた。 最初に目に入ったのは、美晴が少し前に投稿した夕食の写真だった。 私は一瞬、何のことかわからなかった。けれどDM画面を開いて、ようやく思い出した。あれは、あのコンビニがキャンペーンをしていた時のことだった。美晴はキャンペーン達成のために、私にインスタをフォローしてほしいと頼んできたのだ。 私は何気なく、彼女のインスタの投稿一覧を開いた。 そこには彼女の日常を切り取った投稿がたくさん並んでいた。そして、そのほとんどに「夫」という文字が添えられていた。 【今日も夫が仕事帰りに迎えに来てくれた】 【また夫とのデートの日】 【夫が厳選したレストラン】 【夫のことが大好き】 どの投稿にも、蓮の姿が写っていた。時には横顔。時には正面から撮った姿。時には二人で写った写真。 けれど、蓮は写真に映ることをあまり好きではなかった。 私が食事中の彼を何気なく撮った写真は、いつも削除するよう言われた。 付き合って十年。私たちの間には、一枚のツーショット写真すらなかった。 なのに今、彼と美晴はまるで付き合いたての恋人同士のようだった。二人がしていることは、かつての私がどれほど願っても叶わなかったことばかりだった。 ――写真を撮るのが嫌いなわけじゃない。ただ、私と一緒に撮るのが嫌なだけ。 私は携帯を閉じ、立ち上がって帰ろうとしていた。 これ以上見てしまったら、目の奥に溜まった涙が、こぼれ落ちてしまいそうだった。 薬を受け取る窓口へ向かった時、私は思いがけず蓮の姿を見つけた。 彼は相変わらずスーツ姿だった。急いで駆けつけてきたのか、少し息を切らしている。 そして、彼の前に立っていたのは美晴だった。 蓮は私に気づいていなかった。意識のすべてを美晴に向け、彼女の額に手を当てる。眉を寄せながら言った。 「少し熱があるな。行こう。診てもらおう」 美晴は、どうやら待たされたことが不満だったらしい。口を尖らせながら呟いた。「会社からここまで十分もかからないのに、私、三十分近く待ったんだけど」 蓮は困ったように笑った。そして彼女の頬を軽くつまむ。「渋滞だったんだから仕方ないだろ。帰ったら、あなたが好きな酢豚作ってやる。それで許してくれる?」 蓮が伸ばしかけた手は、私の姿を見た瞬間、止まった。 彼の瞳に一瞬、動揺が浮かぶ。そして美晴を隠すように体をずらし、硬い声で言った。 「どうして病院に来たんだ?具合、もっと悪くなったのか?」 蓮が無意識に見せた庇うような仕草が、私の胸を締め付けた。私は何も言わなかった。ただ、彼の背後にいる美晴をまっすぐ見つめた。 彼女は、私と蓮の関係を知っている。それどころか、以前、私たちが一緒にコンビニへ避妊具を買いに行く姿まで見ていた。 それでも彼女は、まるで挑発するように私を見つめることもできる。そして次の瞬間には、何も知らないような顔を作る。 「紗月さん、誤解しないでください。私、一人でここに来て大学に通っているから、普段あまり友達もいなくて……今日は体調が悪かったんです。でもちょうど蓮さんが今日時間があったので、お願いして病院まで送ってもらっただけなんです」 私はもう疲れていた。これ以上、彼らと関わる気力はなかった。無理に笑みを浮かべ、軽く頷く。 「私と蓮はもう別れたから。たとえあなたたちが結婚しても、私には関係ない」 「結婚」という言葉を聞いた瞬間、蓮の胸が大きく揺れた。 彼の手が無意識に強く握り締められる。そして、私の目の奥から、冗談なのか嘘なのかを探そうとしているように私を見つめた。 けれど、私は本気だった。 だからこそ、蓮は不安を覚えた。何かが、自分の支配から離れていくような感覚だった。 彼の声が少し強くなる。 「紗月、お前……何を言ってるんだ? もう、いい加減にするのはやめろよ」 昔の蓮は、私が怒るたび、どんな仕事をしていても手を止めて、私を宥めに来てくれた。 花粉症なのに、私を喜ばせるために九百九十九本の花を用意してくれたこともある。 私が感情的になって、「焼きたてのケーキが食べたい」と言っただけで、彼は時間を作って作り方を覚えてくれたこともあった。 けれど、ここ一年の蓮は、もう私に優しくなくなった。私が何かを求めるたび、彼が一番口にする言葉は「わがまま」だった。 あの時の私は、なぜなのかわからなかった。だからずっと、自分を責めていた。 けれど今、その答えは彼の背後にいる。 私は唇を少しだけ動かして、蓮と目を合わせた。そして、淡々としながらも真剣な口調で言った。 「蓮、私はもう騒いでいるんじゃない。私、政略結婚することになったの」 第3話 蓮は眉をひそめ、声にいくらか鋭さをにじませた。 「紗月、俺に公にさせるため、そんな嘘までつくのか」 以前の私なら、必死になって誤解を解こうとした。蓮に勘違いされたくなかったから。 でも今の私は、もう気にしなかった。 私たちの関係はすでに終わったのだから。私は薬を受け取り、その場に留まることなく立ち去った。 背後からは、美晴のわざとらしい甘い声が聞こえた。「蓮さん、やっぱり紗月さんのところへ行ってあげてください。もし本当だったら大変ですから」 怒りで頭に血が上っていた蓮は、言葉を選ぶ余裕もなかった。 「もう俺に散々抱かれた女を、誰かが喜んで妻にするなんて、信じられるかよ」 何度も失望してきたはずなのに。その言葉を聞いた瞬間、鼻の奥がつんと痛み、涙が一気にこぼれ落ちた。 私はタクシーを拾い、蓮と同居していた家へ向かった。向かう途中、風が涙を乾かし、乱れていた心も少しずつ落ち着いていった。 けれど、家のドアを開けた瞬間、私は思わず立ち尽くした。 かつて蓮が選んだ、暗い色調でどこか寂しげだった部屋は、今では美晴が好きなピンク色に変わっていた。 ここは、私と蓮が両親に隠れて買った家だった。 両親が出張に行くたび、私たちはここで数日間過ごした。 それまでにも、私は何度もこの家を模様替えしたい、雰囲気を変えたいと言ったことがあった。 けれど、蓮は断った。 「俺の実家もこういう色合いだから、もう慣れてるんだ。変えなくてもいいだろ」 以前、私はこの色合いの部屋を新居にすることが嫌で、蓮に不満をぶつけたこともあった。その後、彼は長い時間をかけて私を宥めてくれた。 私は苦く笑った。そういうことだったのだ。変えられなかったわけじゃない。ただ、彼に今までのこだわりを捨てさせる相手が、私ではなかっただけ。 我に返り、私は無意識に寝室のドアを開けた。以前、ベッド脇の棚に飾られていた、私一人の写真はもうなかった。代わりに飾られていたのは、蓮と美晴の幸せそうなツーショット写真だった。 その時になって、私はようやく気づいた。この家には、もう私のものは何も残っていない。あるのは、美晴がここで暮らした痕跡だけだった。 美晴と過ごしたたった一年が、いつの間にか、私が十年かけて築いてきたものを奪っていた。 そして私の荷物は、蓮が物置として使っている場所にまとめて置かれていた。 まるで、ゴミのように。 きっと彼の中での私は、それくらいの存在だったのだ。 今回は、もう泣かなかった。私は一時間をかけて、荷物を整理した。 すべて片付け終えると、私はドアを閉めた。そして、もう二度と戻ることのないように、蓮の世界から完全に離れた。 第4話 あの日、病院で会ってからというもの、数日間、蓮は一度も紗月に会えていなかった。 送ったメッセージにも、返事は一つもなかった。 会議のたびに、蓮の頭には紗月のあの言葉が浮かんだ。「私、政略結婚することになったの」 蓮はネクタイを緩め、秘書を呼び、いつものように同じことを尋ねた。「高橋家は、本当に誰かとの政略結婚の話を進めているのか?」 秘書は調べてきた情報に目を通しながら答えた。「確認できた範囲では、そのような事実はありません」 蓮は、ほっと息を吐いた。そしてますます、紗月が自分を振り向かせようとしているだけだと思うようになった。数日もすれば、彼女のほうから折れて戻ってくる。そう信じて疑わなかった。 そう考えると、蓮の気分は少しだけ軽くなった。 しばらく断っていた付き合いの席にも、出席すると返事をした。 場所は、バーの個室だった。蓮はそのセンターの席に座っていた。 神谷悠真(かみや ゆうま)は手術を終えたばかりで、遅れてやって来た。遅刻の詫びに駆けつけ三杯を済ませ、ようやく席につくと、笑いながら蓮に言った。 「蓮さん、本当におめでとうございます。紗月さん、妊娠したんですよね!」 その場にいたのは、幼い頃から一緒に過ごしてきた仲間たちだった。二人の関係を知っているだけに、その言葉を聞いた瞬間、全員が一斉にからかい始めた。 けれど蓮だけは、その場で固まった。信じられないものを見るように悠真を見る。 「妊娠?」 悠真は、まさか蓮が知らないとは思っていなかった。その場で説明し始めた。「今日、婦人科の患者さんのカルテを確認していた時に、たまたま紗月さんの妊娠診断書を見たんです。まだ蓮さんには話していなかったんですか?」 「おかしいな。紗月さんなら、それを理由に結婚を迫ると思ったのに」 「そうそう。何も言ってこないなんて、紗月さんらしくないよな」 口にしているのは冗談だった。けれど、その中に含まれた皮肉を誰も気づいていないわけではなかった。 ただ一人、蓮だけが、心臓を強く掴まれたような感覚に襲われていた。 彼は突然立ち上がり、テーブルの上に置いてあった鍵を掴んで店を出た。 …… 高橋家に着いた時、蓮はちょうど私が見知らぬ男性の車から降りるところに出くわした。 車が走り去った後、蓮は腕を伸ばして、私の前に立ちはだかった。 「紗月、あいつは誰だ?」 蓮が現れるなんて思ってもいなかった私は、驚いて何歩も後ずさった。 蓮は咄嗟に片手で私を支え、眉を寄せながら言った。「妊娠してるのに、こんなに出歩いて……いつになったらもう少し自分のことを大事にできるんだ?」 蓮が、私が妊娠していたことを知っていることに、私は少し驚いた。 私は一瞬、顔を強張らせたが、すぐに気持ちを落ち着かせ、一言一言はっきりと説明した。 「蓮、私たちの間に確かに子どもはいた。 でも、あの日病院であなたと美晴に会った時には、もう人工妊娠中絶手術を受けていたの」