第1章
合同で開いた婚約パーティーの帰り際、私と親友の、それぞれの薬指には真新しい指輪がはまっていた。
宮本綾乃(みやもと あやの)の相手は中西拓海(なかにし たくみ)。私が10年ものあいだ、胸の奥で想い続けてきた人だ。
そして私、相原結衣(あいはら ゆい)の相手は瀬戸圭吾(せと けいご)。社交界の噂好きたちが「あの人は婚約者に首ったけだ」と口をそろえる男だった。
私が乾杯の挨拶に立つと、綾乃は昔の賭けを蒸し返し、招待客に向かって得意げに笑ってみせた。
「さて、うちのお姫様は、もう婚約者をちゃんと飼い慣らせてるのかしら?」
会場のあちこちから、ケーキを私の顔に押しつけろと圭吾をはやし立てる声が上がる。
彼の手が、ふと止まった。
ほんの一瞬、私は馬鹿みたいに信じてしまった。彼が皿を置き、いつも約束してくれたように、私の隣に立ってくれるのだと。
なのに拓海が「なんだよ、結婚前からもう尻に敷かれてんのか」と茶化した。
圭吾が奥歯をぎりりと噛みしめる。
次の瞬間、彼はその手で、ケーキを私の顔に押しつけていた。
どっと湧き返る笑い声のなか、拓海が私にだけ聞こえる声で告げた。圭吾が私に近づいたのは、最初から3人で仕組んだ賭けがきっかけだったからだ、と。
綾乃が、まるで今も親友であるかのように、するりと私の腕に腕を絡めてくる。
「誰も結衣を裏切ってなんかないってば。ただの冗談なのに、またそうやって大げさにするんだから」
圭吾は私の前に立ち塞がった。私が彼のしたことを許すのを、微塵も疑っていない顔で。
「結婚はやめないって言ってるだろ。これ以上、何を証明しろっていうんだよ」
3人とも待っていたのだ。私が泣きわめき、問いただし、そしてまた、彼らが私の気持ちを都合よく解釈する機会を与えるのを。
けれど私は、目元にこびりついたクリームを指でぬぐうと、遠く離れた実家の母に、たった1通のメッセージを送った。
【お母さん、みんなに伝えて。私、実家に帰る決心がついたって】
第1話
クリームで汚れたナプキンを銀のトレーに置き、ドレスの胸元に留めていたブローチを外した。
綾乃はまだ笑っていた。拓海にしなだれかかりながら言う。
「結衣って、今回は本気で怒っちゃったみたい。誰がなだめに行く?」
拓海はグラスを圭吾のほうへ掲げた。
「そりゃ婚約者の役目だろ。来週の土曜には式を挙げるんだし、今のうちに慣れとけよ」
圭吾は、すぐには私のそばへ来なかった。指についたバタークリームを、ようやく事態を呑み込んだような顔で見つめている。
けれど周りにはまだこちらへ向けられたスマホがいくつもあって、彼は人前で頭を下げるような人ではない。彼はイニシャルの刺繍入りのハンカチで手を拭ってから、私の前に立った。
「なあ、もういいだろ」
まるで、騒ぎを起こしたのは私だとでも言うように。
「何が『もういい』の?」
私は訊いた。
「あなたたちの遊びのこと?それとも、それに怒ってる私のこと?」
圭吾の表情がわずかに揺れた。けれど彼が口を開くより先に、拓海が割って入る。
「大げさにするなよ。好きでもない相手のために、圭吾が半年もかけて結婚式の準備なんてするわけないだろ」
「そうそう」
綾乃が拓海の肩に頬を寄せる。完璧に作り込まれた、甘ったるい笑顔で言った。
「たしかに最初は賭けがきっかけだったけど、そのあと圭吾はちゃんと結衣を好きになったんだよ。結衣はハッピーエンドを手に入れたの。始まりなんかにこだわってどうするの?」
シャンデリアの光を受けて、彼女の左手にはめられたダイヤモンドがきらめいた。
4年前、拓海は私へのプロポーズの準備を綾乃に手伝ってもらっていた。そして私が彼の寝室のドアを開けたとき、ふたりは同じ毛布にくるまっていた。
綾乃はカメラを構えていて、拓海は枕の下から指輪のケースを取り出しながらこう言った。お前がヤキモチを焼くところが可愛いから、撮っておきたかったんだ、と。
10年間の想いに、私はその夜、終止符を打った。
その後、綾乃は周りに言いふらした。結衣はいつまでたっても冗談が通じない。拓海が綾乃を好きになったのは、結衣が彼を突き放したあとだ、と。
彼女に笑い者にされたのは、それが初めてではなかった。学生時代、綾乃は私に、ある慈善パーティーのテーマは「大正ロマン」だと教えた。
私は矢絣の着物に袴という姿で会場に向かった。ところがそこは正装必須の格式ばった資金集めの場で、ほかの女性は全員ドレスだった。入口で凍りつく私を綾乃は動画に撮り、同期のグループチャットに流した。
消してと頼むと、彼女は目を潤ませて、ドレスコードを勘違いしていたのだと言った。
パーティーがお開きになるころには、なぜかみんなが私に、綾乃に恥をかかせないであげてと言っていた。
彼女の冗談は、いつも同じ結末を迎える。
綾乃が見世物を仕立てる。私が傷つく。そして拓海と圭吾が、場の空気を壊しているのはお前のほうだと諭すのだ。
「わざとじゃなかったって言えば、やったことが全部なかったことになると本気で思ってるの?」
私は綾乃に問いかけた。
綾乃の笑みが陰る。
「私、ずっと結衣のことを家族みたいに思ってきたのに。どうしてそんなひどい人間だと思えるの?」
拓海の顔がたちまちこわばった。
「綾乃はちゃんと説明しようとしてるだろ。なのにお前は、みんなの前で吊るし上げかよ」
圭吾が眉をひそめる。
「結衣、俺たちの婚約パーティーを見世物にするのはやめてくれ」
思わず笑いそうになった。ほんの10分前、私をこの夜の余興に仕立て上げたのは彼自身なのに。今になって、場を見世物にしているのは私のほうだという。
さっきまで私たちの未来に乾杯していた人たちは、急にうつむくか、私と目を合わせるのを避けていた。銀行家、名家の御曹司、政界の後援者、古くからの家族ぐるみの知人。何人かは居心地が悪そうにしていた。けれど、スマホを下ろした人はひとりもいなかった。
何よりやりきれなかったのは、圭吾の愛が、まったくの嘘ではなかったことだ。
私がクローゼットの扉を開けたままでは眠れないことを、彼は知っていた。父が亡くなったときには、知らせを受けてわずか6時間で実家まで駆けつけてくれた。祖母が彼の手のひらに押しつけた古いお守りを、今でもすり切れるほど持ち歩いている。
それなのに、拓海にプライドをつつかれた瞬間、彼は愛していると言った女よりも、その場にいる人々からの承認を選んだのだ。
耳元の、クリームにまみれたダイヤの髪飾りを外し、パーティーバッグにしまう。出口へ向かうと、圭吾が私の肘をつかんだ。けれど私がその手に視線を落とした途端、彼はぱっと手を離した。
「……どこへ行くんだ」
「家に帰るの」
圭吾は声を落とした。
「わかった。頭を冷やしてこい。でも結婚式はやめないからな。土曜の朝、迎えの車を行かせる」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「俺はそれでもお前と結婚するんだ。これ以上、何を望むっていうんだよ」
彼にとって、結婚とはすべての過ちを帳消しにする免罪符なのだ。「妻の座を与えてやるのだから、ありがたく思え」と本気で信じている。
私は、結婚とは男が女に与えるご褒美ではないと教えられて育った。互いへの信頼の上に築かれるパートナーシップなのだと。敬意のない関係など、破られるのを待つだけの契約書にすぎない。
圭吾は、私が遠く離れた実家に残してきた家族のことを、ほとんど何も知らない。ましてや、彼の会社を成長させた資金や人脈の一部が、私を通してひそかに流れ込んでいたことなど、知るはずもなかった。
ホテルを出ると、都会の夜道が雨に濡れて光っていた。案内係に黒塗りのハイヤーへ乗せてもらい、そこでようやく母からの返信を開く。
【彼と別れるなら、うちが瀬戸ハーバーに注いできたものは、全部引き上げるわよ。本当にそれでいいのね?】
私は迷わず打ち返した。
【ええ。もう彼とは別れる】
第2話
タワーマンションの最上階にある自宅に戻ると、私は納戸から茶色い革のスーツケースをふたつ引っ張り出した。
持っていくものは多くない。身分証明書と数日分の着替え、祖母から譲り受けた腕時計、それから父が亡くなる前に私の手に握らせた、家紋入りの銀製の根付。
招待客のリストも、テーブルセッティングの見本も、革装丁の誓いの言葉の冊子も、置いたままにしておいた。
鍵の回る音がしたのは、午前1時を過ぎてからだった。
入ってきたのは圭吾ひとりだった。
スーツケースが目に入った瞬間、彼は足を止めた。その夜初めて、彼の顔から余裕が消えた。
「どこへ行く気だ?」
ふたつ目のスーツケースのファスナーを閉めながら、私は答えた。
「実家」
「結衣」
その声には、さっきまでとは違う響きがあった。苛立ちではない。怯えだった。
私の腕をつかんでいた手の力がゆるみ、もう片方の手が私の頬に伸びてくる。
「やめてくれ」
ほんの一瞬、危うく絆されそうになるほど、彼はかつて私が愛した圭吾に見えた。喧嘩のあとには必ず私を抱き寄せた人。わだかまりを残したまま眠るのが耐えられないと言っていた人。
彼が顔を寄せてくるが、私は顔をそむけた。
圭吾が凍りつく。私がそうしたのは、初めてだった。彼は私の目の奥を探るように見つめた。
「本気なんだな」
「ええ」
その顔を、一瞬だけ焦りがよぎった。けれどそれは、すぐにプライドに塗り込められた。
「怒ってるんだな。いいさ、好きなだけ怒ってろよ」
親指で私の手首をなぞってから、彼は手を離した。
「でも、今夜のことくらいで3年間を終わりにはさせない」
「今夜のことで終わりにするんじゃないわ」
圭吾の顎に力がこもる。
「今夜のおかげで、やっとこの3年間の意味がわかったから、終わりにするの」
しばらくのあいだ、彼は何も言わなかった。それから、信じられないというように短く笑った。
「昨日まで俺を信じてたじゃないか。昨夜だって俺のベッドにいた。なのに今さら、俺たちのことは全部何でもなかったみたいな顔をするのか?」
「何でもなくなんかないから、あなたのしたことがこんなに痛いのよ。
人を笑い者にしておいて、今さら私があなたを愛してたことを、引き止める理由にしないで」
圭吾が何か言い返すより先に、玄関のドアがまた開いた。
シャンパンを手にした拓海が入ってくる。その後ろから、大きな海鮮の盛り合わせを両手で抱えた綾乃が続いた。
「あ、いたいた」
綾乃がやけに明るく笑う。
「みんなでちょっと落ち着いたほうがいいかなと思って」
拓海は圭吾の顔を見て、それから私のスーツケースに目をやった。
「おいおい、勘弁してくれよ」
綾乃は持ってきたものをキッチンカウンターに並べた。
「今夜を仕切り直しに来たの。何か食べて、一杯飲んだら、明日にはもう誰も覚えてないって」
大皿の中央には、伊勢海老と生牡蠣が盛られていた。
私には、重度の甲殻類・貝類アレルギーがある。
その隣には、小麦不使用のクラッカーがきちんと添えられていた。最近、小麦を食べるとお腹が張る気がする、と綾乃が言い出したからだ。
綾乃が一度口にしただけの好みを、圭吾は覚えていた。
私が4年間、アナフィラキシーの自己注射薬を持ち歩いていることは忘れていたのに。
「どうぞ、ご自由に」
私はスーツケースに手を伸ばした。
拓海が笑う。
「また始まったよ。昔から、喧嘩するたびに実家に帰るって言ってたよな。で、次の日にはけろっと戻ってくる」
「今回は違うわ」
圭吾の目は、私から離れなかった。
「式をやめるって言ってるんだ」
さすがの拓海も、笑みを引っ込めた。
綾乃がまばたきをする。
「……ケーキのことで?」
「ケーキのことじゃないわ」
「じゃあ、賭けのことか」
圭吾は頭を掻いた。
「始まり方がよくなかったのはわかってる。でも、この3年間は本物だった。今夜恥をかいたからって、俺たちの関係を丸ごと書き換えるなよ」
「この3年間が本物だったからこそ、今夜のことを冗談で済ませるわけにはいかないの」
珍しく、圭吾は言い返す言葉を持っていなかった。
拓海は自分のグラスにシャンパンを注ぎ、カウンターにもたれかかった。
「お前は疲れてるんだよ。式も近いし、なんでも深刻に受け取りすぎだ」
「それに、たった一度の判断ミスで圭吾を責めすぎだよ」
綾乃が穏やかに言い添える。
「パーティーで私に言ったことだけ謝ってくれたら、みんな水に流せるから」
私は3人の顔を、ひとりずつ見回した。
「人の家に押しかけて、私を救急病院送りにしかねない料理を持ち込んでおいて、それでもまだ、謝らなきゃいけないのは私のほうなのね」
圭吾の視線が、海鮮の大皿に落ちた。
ほんの一瞬、その顔に、ばつの悪そうな色がかすめる。
拓海は鼻で笑った。
「誰も食えなんて言ってないだろ。ちょっとしたミスをいちいち『自分は大事にされてない』って証拠にするのはやめろよ」
手を変え品を変えただけの、いつものやり口だった。
私がそのやり口を指摘すれば、話をねじ曲げていると言われる。
黙っていれば、何も問題はない証拠だと言われる。
綾乃の目が、みるみる潤んだ。
「私のせいだよね。賭けの話なんか持ち出すべきじゃなかったし、みんなが圭吾をはやし立てるのも止めるべきだった。結衣がそこまで気にするなら、ごめんね」
彼女は料理と一緒に持ってきた保温ポットに手を伸ばした。
「スープも作ってきたの。出ていく前に、せめて温かいものだけでも飲んで」
「いらない」
私はスーツケースを閉じようと身をかがめた。
綾乃が一歩近づく。その手から保温ポットが滑り落ち、煮えたぎるようなスープが私のブラウスの脇腹のあたりにかかった。
悲鳴を上げて、私はよろめくように後ずさった。腰のあたりに、たちまち焼けるような熱さが広がる。
「うそ、どうしよう!」
綾乃が口元を押さえる。
「結衣、ほんとにごめん。わざとじゃないの」
圭吾がタオルをつかみ、拓海は綾乃をこぼれたスープから引き離した。
「事故だろ」
拓海が言った。
「こんなことでまた揉め事を起こすなよ」
綾乃が、濡れた瞳で私を見つめる。
「私、ただ結衣のことが心配だっただけなのに」
第3話
火傷の手当てを終えて戻ると、3人ともまだ私の部屋に居座っていた。
「ここは私の家よ。出ていくべきなのは、あなたたちのほう」
圭吾の顔色が変わった。
「俺は来週、お前と結婚するんだぞ」
「それも、もうすぐ白紙になるわ」
一瞬、隠しきれない焦りが彼の顔に浮かんだ。
けれど拓海がちらりと目をやると、圭吾はたちまち、いつもの態度を取り戻した。
「わかったよ」
彼は上着をつかんだ。
「一晩だけ時間をやる。明日、会社に来い。パーティーの後始末をするぞ」
ドアのところで、圭吾は振り返った。
「結衣、お前は俺を愛してる。後悔するような決断はするなよ」
綾乃はふたりに挟まれるようにして出ていった。
廊下の向こうへ消えていく3人の背中を、私はじっと見送った。
かつて拓海は、私がこの世で誰よりも信頼していた人だった。
私たちは幼なじみで、私は10年間、彼を想い続けた。拓海と圭吾が資金繰りに苦しんでいたころも、私はふたりのそばで立て直しを支えた。
実家の資金と人脈が、いくつもの扉をひそかに開いていた。それが私の力によるものだとは、ふたりとも知らないまま。
やがて、悪趣味な冗談が始まった。
綾乃と同じ毛布にくるまって仕掛けた、偽のプロポーズ。
私が恥をかく姿を収めた、いくつもの動画。
私が怒るたびに、拓海は、お前は気にしすぎだと言った。綾乃は泣いた。そしてなぜか、最後に謝るのはいつも私だった。
ようやく拓海から離れたあと、ばらばらになった私を立ち直らせてくれたのが圭吾だった。
眠れない夜には、一緒に起きていてくれた。誰にも言えないような恥ずかしい話にも、黙って耳を傾けてくれた。一度は、彼の会議中に私の胃の持病が悪化したとき、会議を途中で抜けて、看病しに帰ってきてくれたこともある。
圭吾は違う。そう信じていた。
そしていつしか、私は彼を好きになっていた。
けれど私は知らなかった。拓海と綾乃と圭吾が、今夜よりずっと前から、私の気持ちを3人だけの遊び道具にしていたことを。
かつて拓海は、私が彼を想うのをやめるはずがないと信じきっていた。
今、圭吾は、私が彼のもとを去るはずがないと、同じように信じきっている。
そして綾乃は何年もかけて、どこまで踏み込めばふたりのどちらかが自分をかばってくれるのか、その加減を正確に覚えていったのだ。
3人が帰ったあと、私の個人資産を管理している事務所から、暗号化されたメールが届いた。
【件名:至急確認願い 瀬戸ハーバーグループ議決権の件】
添付ファイルによれば、私が持つ38パーセントの議決権は、3日前に綾乃へ譲渡されたことになっていた。
承認書類には、私の署名があった。
そんな書類、私は生まれてこのかた一度も見たことがない。
私は長いあいだ、その画面を見つめていた。
ほとんどゼロの状態から、私は圭吾と拓海が瀬戸ハーバーを築き上げるのを支えてきた。
そのふたりが今、私の署名を偽造し、私の議決権を綾乃に渡したのだ。
出ていくのなら、私のものはひとつ残らず持っていく。
翌朝、私は瀬戸ハーバーグループのビルへ向かった。
役員専用のエレベーターに乗り込んだ直後、足元がふっと沈んだ。
胃がひっくり返るような感覚が襲ってきた。
照明が消える。
手すりにしがみつくと、エレベーターはがくんと揺れて、階と階のあいだで止まった。
「誰かッ!」
返事はない。
スマホは圏外だった。非常ボタンを何度も何度も押す。
反応はなかった。
そのとき、頭上で換気扇がうなりを上げた。
凍えるような冷気が、エレベーターの中へと一気に吹き込んでくる。
数分もしないうちに、私の体が震え出した。
自分の体を抱きしめながら、操作盤のボタンを片っ端から押す。どれも反応しない。
冷気は止まらなかった。
全身の震えが止まらなくなり、視界がかすみはじめたころ、ようやくエレベーターの扉が開いた。
そこに立っていたのは、圭吾と拓海と綾乃だった。
第4話
拓海が私を見下ろした。
「2時間も閉じ込められれば、少しは頭も冷えただろ。綾乃に謝れ。それで帳消しにしてやる」
唇はまだ寒さで感覚がなく、答えようとしても、歯がカチカチと鳴るだけだった。
綾乃が一歩進み出て、私の腕に腕を絡めてきた。
「拓海、圭吾、もうやめて。結衣だって、本気でこんなことしたかったわけじゃないんだから」
それから彼女は、私に優しく微笑みかけた。
「私たち、まだ親友だよね?」
私が身を引くより先に、綾乃は片腕を私の腰に回した。そしてブラウスの下の、火傷を負ったばかりの肌を、わざと指で強く押した。
私は悲鳴を上げ、反射的に彼女を突き飛ばした。
綾乃は小さく悲鳴を上げてよろめいた。その目に、たちまち涙があふれる。
「結衣、まだ私のこと、許してくれないの?」
拓海の顔が険しくなった。
「お前、いったい何考えてるんだよ!」
「綾乃が、私の火傷を押したのよ」
「そんなことしてない」
綾乃がすかさず言う。
「支えてあげようとしただけなのに」
拓海が私を突き飛ばした。
「結衣、いつまでこんなことを続ける気だ!」
腰のあたりが壁に打ちつけられる。ちょうど火傷が水ぶくれになっている場所だった。
息が詰まり、膝から力が抜けそうになる。
圭吾がこちらへ歩いてきた。一瞬、支えてくれるのだと思った。けれど彼は、両手を私の肩に置いた。
「もういい。綾乃に謝れ」
「嫌よ」
その手を振りほどこうとしたけれど、極寒のエレベーターに2時間も閉じ込められていたせいで、脚にはまだ力が戻っていなかった。圭吾が肩を押し下げ、私は綾乃の目の前で膝をついた。
ロビーがしんと静まり返った。
私の膝が鈍い音を立てて床にぶつかったのを見て、圭吾は一瞬固まった。それでも、手を差し伸べようとはしなかった。
拓海はただ、こう言っただけだった。
「いいから謝れよ」
私は3人を見上げた。
綾乃は拓海の背後に隠れるように立ち、潤んだ目でこちらを見ている。
圭吾は私の傍らに立ったままだ。
3人とも、同じものを待っていた。私が屈服する瞬間を。
私が口を閉ざしたままでいると、拓海はスマホを取り出した。
「結衣、ここまでさせたのは、お前だからな」
彼が画面をタップする。
次の瞬間、受付の上にある巨大なモニターが明るくなった。
映し出されたのは、私の顔だった。
それは、3人が何年にもわたって撮りためてきた、プライベートな映像をつなぎ合わせたものだった。
1本目は、拓海と綾乃が同じ毛布にくるまっているのを見つけたあと、泣きじゃくる私。
2本目は、綾乃に嘘のドレスコードを教えられ、パーティーの会場でひとり立ち尽くす私。
最後は、「どうしていつも、冗談の最後に謝るのは私なの」と圭吾に問いかける私の姿だった。
画面には、拓海がつけたタイトルがひとつ、大きく表示されていた。
【相原結衣 悲劇のヒロイン気取りの3年間】
社員たちが足を止めた。モニターを見上げ、それから床に膝をついた私に目を向ける。
ひそひそと言葉を交わす者もいた。
私は拓海を見た。
「……あなたが作ったの?」
彼はスマホをポケットにしまった。
「ネタを提供したのはお前だろ」
綾乃が拓海の腕にそっと触れる。
「拓海、もうそのくらいでいいわ」
けれど、止めてとは言わなかった。
圭吾はモニターを見つめていた。
「あの動画は、誰にも見せないって言ってたよな」
「見せてなかったさ」
拓海が答える。
「こいつがたかが冗談を真に受けて、みんなの人生をぶち壊そうとするまではな」
圭吾の表情がこわばった。
今度こそ、かばってくれるのかもしれない。一瞬、そう思った。
けれど彼は、私を見下ろしてこう言っただけだった。
「結衣、立て。あの映像は止めさせる」
それだけだった。
私を撮っていたことを謝りもしない。なぜあんな動画を撮っておいたのかと、拓海を問いただしもしない。ただ、これ以上騒ぎが大きくなる前に、画面を消したいだけなのだ。
私は、自分の力で立ち上がった。
圭吾の背後では、モニターが私の古い映像を流し続けていた。
『どうして、傷つくのが私のときだけ、いつも笑い話になるの?』
圭吾にそう言ったことを、覚えている。
あのとき彼は私の額にキスをして、わかるよと言ってくれた。
その彼が今、私を笑い者にした人間たちの側に立っている。
綾乃がまた、こちらへ歩み寄ってきた。
「結衣、お願い。何年も友達だったじゃない。どうして私たちを何もかも捨てようとするのか、わからないよ」
私は綾乃を見て、それから拓海と圭吾を見た。
「何も捨ててなんかないわ。あなたたち3人に、こんなふうに扱われるのをもうやめるだけ」
私はバッグを拾い上げた。
圭吾が、私の前に立ちふさがる。
「どこへ行くんだ」
「家に帰るの」
「ちゃんと話し合おう」
「嫌よ」
私は彼の横をすり抜けた。
背後で、拓海がため息をつく。
「放っておけよ。どうせ泣きついて戻ってくるんだから」
綾乃がうなずいた。
「少し時間が必要なだけだよ」
圭吾はふたりを見て、それから私を見た。数秒ためらったあと、彼は脇へ退いた。
「わかった。帰れ。話は今夜だ」
彼はまだ、私が落ち着けば終わるいつもの喧嘩だと思っているのだ。
私は何も答えずに、その場を後にした。
地下駐車場にたどり着いても、脚はまだ寒さで震えていた。腰の火傷からは血がにじみ、ブラウスを赤く染めはじめている。
私の駐車スペースは、空っぽだった。
車がない。
その時、スマホが震えた。圭吾からだ。
【綾乃が寿司を食べに行きたいって言うから、お前の車を借りた。
今日のことで少しは懲りただろ。家に帰って、自分がどれだけやりすぎたか考えろ。
式は明日だ。今夜のうちに身なりを整えておけ。朝、迎えに行く】
私はそのメッセージを見つめて、笑ってしまった。
この期に及んでも、圭吾は式が行われると信じている。
配車を頼もうとしたそのとき、黒いSUVが2台、駐車場に入ってきた。
1台目から母が降りてきて、そのあとに実家の警護担当が何人か続いた。
私を見た瞬間、母の表情が変わった。
血の気の引いた私の顔から、震える手、そしてブラウスの脇腹に広がる血の染みへと、母の視線が鋭く動いた。
「結衣」
数歩も歩かないうちに、膝が崩れかけた。
母が私を受け止め、腕の中に抱き寄せる。
「ごめんなさいね」
母が静かに言った。
「お母さんが来るの、遅すぎたわね」
私を車に乗せて落ち着かせると、母は弁護士の真壁涼子(まかべ りょうこ)のほうを振り返った。
「結衣の株式を凍結して。瀬戸ハーバー関連の保証はすべて引き揚げること。それから、うちが瀬戸ハーバーに紹介した銀行と海外の取引先には、すべて手を引くよう連絡を。
明日の朝までに、うちのものは全部引き揚げてちょうだい」