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梅が咲くころ、私はもう振り返らなかった
結婚5周年の日、島川千夜子(しまかわ ちよこ)は駐車場で、自分の車に擦り傷がついていることに気づいた。 何があったのか確認しようとドライブレコーダーを再生しただけだった。ところが、思いがけず夫・島川浩輔(しまかわ こうすけ)の声が聞こえてきた。 はっきりとした、落ち着いた声。それなのに、一言一言が刃のように千夜子の胸を抉る。 「俺は一度も千夜子を愛したことなんてない。結婚したのは、妻にするにはちょうどよかったからだ。 紗和、俺の初恋はお前だ。ずっと愛しているのも、お前だけだ」 千夜子は、全身の血が一瞬にして凍りついたような感覚に襲われた。 続いて、笑みを含んだ羽成紗和(はなり さわ)の声が聞こえてくる。 「私なんて一度離婚してるのよ?千夜子さんは大学教授なのに。浩輔、どうして私のことなんか好きだって言えるの?」 「千夜子は淡白すぎる。お前みたいに、生き生きとした魅力がない」 浩輔の声には迷いがなく、紗和へのあからさまな偏愛が滲んでいた。 「千夜子なんて、お前とは比べものにならない」
Chapters (1)
第1章
結婚5周年の日、島川千夜子(しまかわ ちよこ)は駐車場で、自分の車に擦り傷がついていることに気づいた。
何があったのか確認しようとドライブレコーダーを再生しただけだった。ところが、思いがけず夫・島川浩輔(しまかわ こうすけ)の声が聞こえてきた。
はっきりとした、落ち着いた声。それなのに、一言一言が刃のように千夜子の胸を抉る。
「俺は一度も千夜子を愛したことなんてない。結婚したのは、妻にするにはちょうどよかったからだ。
紗和、俺の初恋はお前だ。ずっと愛しているのも、お前だけだ」
千夜子は、全身の血が一瞬にして凍りついたような感覚に襲われた。
続いて、笑みを含んだ羽成紗和(はなり さわ)の声が聞こえてくる。
「私なんて一度離婚してるのよ?千夜子さんは大学教授なのに。浩輔、どうして私のことなんか好きだって言えるの?」
「千夜子は淡白すぎる。お前みたいに、生き生きとした魅力がない」
浩輔の声には迷いがなく、紗和へのあからさまな偏愛が滲んでいた。
「千夜子なんて、お前とは比べものにならない」
第1話
音声が途切れ、車内に一瞬、不自然な沈黙が落ちた。
続いて聞こえてきたのは、顔が火照るような、生々しいリップ音。
その吐き気を催す音がようやく静まると、紗和が甘えた声で文句を言った。
「もう、やだー。口紅、ぜんぶ取れちゃったじゃない」
浩輔が低く笑って、なだめる。
「お前が甘すぎるのが悪い……何年経っても、苺の香りの口紅が好きなんだな」
バンッ。
千夜子は手にしていた箱を、助手席のシートに叩きつけた。
何軒も洋菓子店を歩き回って、ようやく手に入れた苺のショートケーキだった。
浩輔は昔から、物静かで自制の利く人だった。そんな彼が、苺の味や香りにだけは不思議なほどこだわった。
彼らしくないその好みを、千夜子はずっと、ふたりだけが分かち合う秘めやかな愛らしさだと思っていた。
彼自身が取り憑かれたように好むだけではない。贈ってくれるものも、決まって苺だった。苺のチョコレート、苺の香りのアロマ、苺のリップクリーム……
今、すべてがわかった。
浩輔は苺が好きだったのではない。ましてや、千夜子が好きだったわけでもない。
ただ、苺の香りをまとった紗和を忘れられなかっただけ。
あの贈り物は、千夜子に紗和の面影を重ね、別の女を懐かしむためのものにすぎなかった。
千夜子自身もそうだ。「妻」というポジションを埋めるために、彼が丹念に選び抜いた、いちばん都合のいい道具。
車内には、甘ったるい苺の香りが立ちこめていた。傷みかけたクリームの匂いが、そこに重なる。
この瞬間まで、千夜子は疑いもしなかった。自分と浩輔は、運命の糸で結ばれたふたりなのだと。
同じように留学を経験し、帰国後はともに楓川大学の教授を務める。研究では肩を並べ、暮らしでは呼吸が合い、誰もが羨む理想の夫婦。
彼と初めて出会ったのは、留学先でのパーティーだった。
あの夜の千夜子は、非の打ちどころのない微笑みを貼りつけ、次から次へと交わされる社交辞令をそつなくこなしていた。学業のこと、研究のこと、将来のこと。精巧に組み上げられた、完璧な人形のように。
そこへ、彼が人波を縫って歩み寄り、静かに尋ねたのだ。
「ここ数年、しんどかったんじゃない?」
たったそれだけの言葉で、彼女が必死に築いてきた体裁は、あっけなく崩れ落ちた。
あれは救いだと、愚かにも信じていた。
けれど今なら思う。あれも、彼が冷静に見極めたうえで選んだ、効率よく心の隙を突くための言葉だったのかもしれない。
そんな言葉に、5年も心を動かされ、5年も尽くしてきたなんて。
滑稽だった。
千夜子は目を閉じ、深く息を吸った。もう一度開いたとき、瞳に残っていたのは、冴えわたった静けさだけだった。
表情ひとつ変えずにスマートフォンを取り出し、中古車買取業者に電話をかける。
業者はすぐに駆けつけ、新車同然に磨き上げられた車の周りを2周して、怪訝そうに首を傾げた。
「いや、こんなに手入れの行き届いたお車ですよ。この程度の擦り傷なら、塗装で直せば済むのに。本当に手放されるんですか?」
「ええ」
迷いのない声だった。
「目障りなものを、置いておく理由はありませんから」
鍵を差し出すとき、彼女は一度も振り返らなかった。
夜。家に帰ると、ひっそりしているはずの部屋は人であふれていた。
友人たちがわっと駆け寄ってきて、紙吹雪と花びらが肩に降りかかる。
「千夜子!結婚5周年おめでとうー!」
「サプライズでしょ?浩輔さんが、みんなを呼んでお祝いしようって!」
「やっぱり理想の夫婦は違うわ。演出まで完璧ね!今夜は飲み明かすわよ!」
口々に飛び交う賑やかな声のなか、千夜子の視線は人垣を越え、まっすぐにリビングの中央へと注がれた。
そこに、浩輔が立っていた。
きちんとプレスされたグレーのスーツ。金縁の眼鏡の奥の眼差しは、いつものように穏やかだ。口元には、かつて千夜子が見慣れていた、完璧と言っていいほど優しい微笑みが浮かんでいる。
そして彼の隣には、赤いドレスに身を包み、気だるげに巻き髪を揺らす女がいた。
ふたりの間には、礼儀正しい距離が保たれている。それなのに、視線だけは、見えない糸で結ばれているかのように、ねっとりと溶け合っていた。
浩輔が千夜子の視線に気づいて顔を上げ、ごく自然に女の手を取ると、人ごみを抜けて歩み寄ってくる。
「千夜子、紹介するよ。大学の後輩の、羽成紗和だ」
第2話
紗和が近づいてくるより先に、苺を思わせる甘ったるい香水の匂いが鼻先へ飛び込んできた。
その匂いは鋭い棘のように、千夜子の脳裏からドライブレコーダーの生々しい音を引きずり出す。
胃が激しくねじれるような吐き気が込み上げ、千夜子は思わず口と鼻を覆って、大きくあとずさった。
隠そうともしない嫌悪に、紗和の足がぴたりと止まる。潤んだ大きな瞳がたちまち霞み、すがるように浩輔を見上げた。
浩輔も呆気にとられていた。千夜子がこんな反応をするとは思ってもみなかったのだろう。
胸に生まれた違和感を押し込めて、彼は紗和の手を取り、千夜子の前へ連れてくる。
「……ふたりとも、そんなに待ちきれなかったの?」
千夜子の冷ややかな声が、不意打ちのように飛んだ。
視線は絡み合ったふたりの手に突き刺さっている。肉を抉るほど鋭い眼差しに、浩輔でさえ背筋に寒気を覚え、思わず紗和の手を振りほどいた。
「千夜子、何を騒いでるんだ」
彼は眉をひそめる。
「お前だって留学中は、挨拶で頬を寄せ合うことくらいあっただろう。あっちのほうがよほど際どい。手を繋いだくらいで、そこまで騒ぐことか?」
責任転嫁のつもり?
千夜子は小さくかぶりを振って微笑み、凍てついた瞳でただ彼を見つめた。
取りつく島もないと悟ると、浩輔の口調はますます強くなった。
「紗和は帰国したばかりで、自分の部屋の片づけも終わってないんだぞ。今日が俺たちの記念日だと知って、誰よりも張り切ってくれたんだ!
あれこれ駆けまわって、この集まりを準備してくれた。みんな、よく行き届いた素敵な会だって褒めてるだろう」
千夜子は、思わず吹き出しそうになった。
浩輔は静けさを好む人だった。付き合っていたころから、はっきり言っていたはずだ。
ふたりのことは、ふたりだけのものだ。どんな形であれ、賑やかに祝ったり、人に見せびらかしたりするのは嫌いだと。
だから丸4年、結婚記念日はいつもふたりきりだった。SNSにひと言書くことすら、彼は許さなかった。
なのに今は?
夫婦だけのものだったはずの夜は、見知らぬ顔で埋め尽くされ、紗和が人脈と気配りのよさを披露する舞台になっている。
「そう」
千夜子は口の端をわずかに上げた。
「なら、彼女にお礼を言うべきかしら。それとも……あなたに?」
「千夜子さん、どうかお気になさらないで」
紗和が、か細い声で口を挟む。
「私はただ……千夜子さんがお気の毒で……
浩輔とこんなに長く連れ添っていらっしゃるのに、記念日らしいお祝いもしてもらえなかったなんて。浩輔はあまりにもひどいです。私からも、ちゃんと叱っておきました」
「夫婦のことに」
千夜子は目も上げず、淡々と言った。
「いつから他人が口を挟むようになったのかしら」
紗和の顔から血の気が引き、目の縁がみるみる赤く染まる。涙が睫毛の先で、こぼれそうに揺れていた。
呼吸が浅く速くなり、豊かな胸が上下するたび、仕立てのいいドレスが体のラインを際立たせた。あちこちから、ひそやかな視線が集まる。
「浩輔……っ」
彼女は浩輔のほうを向き、声を震わせた。
「私、また余計なことを言っちゃったよね?口下手で、人付き合いも苦手で……千夜子さんみたいに賢くも立派でもないから、いつも怒らせてしまって……」
いじらしい姿を見て、浩輔の眼差しはたちまち柔らかくなった。
けれど千夜子へ向き直ったときには、苛立ちしか残っていない。
「千夜子、今日がどういう場か、少しは考えろ!みんなの前で、そこまで見苦しくしなきゃ気が済まないのか?自分の体面はどうでもいいにしても、先生方の目にどう映るかも気にならないのか?」
彼が顎で示した先を追って、千夜子の心臓がずしりと沈んだ。
リビングの隅に、何人もの学界の重鎮が腰を下ろしている。彼女がずっと教えを乞いたいと思いながら、それでもなかなか接点を持てずにいた人たちだ。
研究はまさに壁にぶつかっていて、彼らのひと言が喉から手が出るほど欲しかった。
浩輔は代々学者を輩出する家の出で、人脈も潤沢にある。以前、それとなく頼んだこともあった。手を尽くしてほしいとまでは言わない、ただ引き合わせてくれるだけでいい、と。
そのたびに、彼は見下ろしたような口調で諭した。
「地道にやるのが何より確実だ。近道ばかり考えるのは、千夜子、そういうところ、正直がっかりだよ」
それなのに、彼女がどれだけ願っても手の届かなかったその「近道」は、紗和のたったひと言で、こうして一堂に会している。
誰のためか。答えは火を見るより明らかだった。
そのとき、年配の教授がグラスを手に、にこやかに近づいてきた。
「島川くん、いやあ、実に珍しい。羽成さんの心配りがなければ、我々のような年寄りがこれだけ顔を揃えることなど、まずなかっただろうよ。
さあ羽成さん、1杯どうぞ。準備してくれたお礼だ」
グラスが、まっすぐ紗和の前へ差し出される。彼女は困ったように唇を噛んで断ろうとしたが、それより早く浩輔が1歩進み出て、ごく自然にグラスを受け取った。
「柏木先生、彼女は飲めませんので。この1杯は私が」
柏木は豪快に笑った。
「ほう、さっそく庇うのか。それなら、きっちり飲み干してもらわんとな!」
「飲んじゃ駄目——」
千夜子は思わず声を上げた。
だが、間に合わなかった。
浩輔はもう顔を上げ、喉仏を上下させて、強い酒を一息に流し込んでいた。
彼は胃潰瘍の手術を受けている。この5年、千夜子は細心の注意を払い、食生活に気を配ってきた。冷たいもの、辛いもの、刺激の強いものは、一切口にさせなかった。どんなに忙しくても、必ず家に帰って彼の食事を作った。
それを彼は今、紗和のために、眉ひとつ動かさず、胃を焼くような強い酒を飲み干したのだ。
グラスを置くや、浩輔は上腹部を強く押さえ、顔を蒼白にしながらも、声を張り上げた。
「皆さん、今日は私と千夜子の記念日のお祝いに加えて、もうひとつ、嬉しい知らせがあります。
妻の島川千夜子が、初めて大学院生を指導することになりました!」
彼は一拍置き、紗和へ視線を流して、朗々と続ける。
「その記念すべき一番弟子こそ——羽成紗和です!」
わあっ、と拍手と祝福の声が爆ぜた。
すべての視線が、千夜子と紗和に注がれる。
喧騒のなか、千夜子はゆっくりと顔を上げた。痛みをこらえる浩輔の顔も、紗和の得意げな眼差しも越えて、静かに、はっきりと言い放つ。
「お・断・り・し・ま・す」
第3話
拍手が、ぷつりと途切れた。
リビング全体が奇妙な静けさに沈み、ざわめきだけが、顔を見合わせる人々の間を這っていく。
浩輔の眉が、きつく寄せられた。
彼が皆の前で発表したのは、千夜子が、同業の先輩方の前で夫である自分の顔を潰すはずがない、研究者としての立場を自ら傷つけるはずがない、と見越してのことだ。
彼は身を寄せ、押し殺した声に威圧を滲ませる。
「もう、お前の名前で学部と話をつけてある。紗和がお前の学生になるのは、決まったことだ。
今さら撤回して、みんなに恥をかかせるな」
千夜子は彼の視線を受け止めたまま、微動だにしなかった。
浩輔の顎の線がこわばる。やがて彼は、珍しく懇願にも似た調子で、声を和らげた。
「紗和の研究テーマはお前の分野に近くて、俺の専門とは合わない……そうでなければ、お前に頼んだりしない。今回は、俺に貸しを作ったと思ってくれ」
千夜子は彼を見つめた。口の中に、苦いものが広がっていく。
「もし私が」
彼女は一語ずつ、区切るように言う。
「どうしても嫌だと言ったら?」
浩輔の瞳に怒りが灯り、口を開きかけた、そのとき——彼の顔色が、突然変わった。
さっと手で口を覆う。だが、指の隙間から刺すように鮮やかな赤があふれ出した。
次の瞬間、体が前のめりに崩れる。吐き出された血が千夜子の白いブラウスに飛び散る。そして彼は、そのまま床へ激しく倒れ込んだ。
「浩輔ッ!」
千夜子は蒼白になり、とっさに駆け寄って彼の頭を抱きとめた。
千夜子より近くにいた紗和は、悲鳴を上げて1歩あとずさっただけだった。そして千夜子を指さし、叫ぶ。
「千夜子さん!あなたのせいで浩輔が血を吐いたのよ!」
千夜子は言い返す余裕もなく、顔を上げ、周りの人々に必死に助けを求めた。
「お願い、手を貸して!病院へ運ばないと!」
こうして、この入念に準備された結婚5周年のパーティーは、救急車の耳をつんざくサイレンとともに幕を閉じた。
救命処置を受け、浩輔は危機を脱して病室に移された。
医師が立ち去った直後、ひと晩中姿を消していた紗和が現れた。
派手な黄色い菊の花束を抱えている。病室に入る前から、甘ったるい声が先に届いた。
「こーすけ」
浩輔が弱々しく目を開ける。紗和はぱっと目を輝かせ、まっすぐベッドへ向かった。
ベッドの反対側は空いているのに、わざわざ付き添っていた千夜子を押しのけて割り込んでくる。
「ほら、お花持ってきたの!」
紗和は宝物を見せるように、花束を浩輔の鼻先へ寄せた。
むせ返るほど濃い花の匂いが襲いかかり、浩輔はたちまち激しく咳き込んで、顔を真っ赤に染める。
「どうして黄色い菊だと思う?」
浩輔は、なんとか声を絞り出した。
「どう、してっ?」
紗和は首を傾げ、あどけなく笑った。
「だって菊って、お供えにも使うお花でしょ?九死に一生を得たお祝いにぴったりだと思ったの!センスあるでしょ?」
浩輔は苦しげにうなずき、彼女の髪を撫でようと手を伸ばしかけたが、激しいアレルギー反応に襲われ、またも意識を失った。
「浩輔?浩輔!」
紗和は慌てて彼を揺さぶったが、何の反応もない。
途方に暮れて千夜子を振り返り、甲高い声を上げた。
「どうしたの!?早く何とかしてよ!」
千夜子は、枕元のナースコールを指さした。
「彼に重い花粉アレルギーがあるのも知らないの?そのボタン、あなたの手のすぐそばにあるでしょう」
ところが紗和は、火傷でもしたかのように手を引っ込め、逆に千夜子を前へ突き飛ばした。
「あなたが押して!あなたが!」
千夜子はよろめきながら、ベッドへ近づく。
ベッドの上の浩輔は、唇が紫に変わり、顔は腫れ上がって、息も絶え絶えだった。
それが、彼が心から忘れられず、誰を傷つけてでも守ろうとした人なのか。
千夜子には、ただ滑稽に思えた。
もう紗和を見ようともせず、手を伸ばしてナースコールを押す。
医師や看護師がふたたび駆け込んできて、応急処置が始まった。
幸い発見が早く、浩輔はもう一度、死の淵から引き戻された。薬の作用で、深い眠りに落ちていく。
大事に至らないと確かめると、千夜子は踵を返して立ち去ろうとした。1秒たりとも、ここにいたくなかった。
「待って!」
紗和が突然、行く手に立ちはだかる。先ほどまでの狼狽はどこにもなく、代わりに、勝ち誇った色と悪意が入り混じった笑みが浮かんでいた。
「ねえ、浩輔の胃潰瘍がどうしてできたのか、気にならない?」
第4話
「興味ないわ」
千夜子は踵を返そうとした。
「そりゃあ興味なんてないでしょうね!」
紗和は食い下がり、声を跳ね上げる。
「だって千夜子さんはね、あの人が本気で恋をした時の姿を、見たことがないんだものー!
私を口説いてたころなんて、心まで差し出しかねない勢いだったのよ」
千夜子の足が止まった。
脳裏に、浩輔の氷のように冷え切った顔が浮かぶ。その冷たさを溶かそうと必死に手を伸ばしては、そのたびに凍えるような思いをし、傷だらけになってきた。
「私が遊びたいって言えば朝まで付き合ってくれたし、ゲームで私が負ければ、罰ゲームのお酒を代わりに飲んでくれた。私が負け続ければ、あの人は黙って飲み続けたの。胃から血が出るほど飲んでも、笑ってた」
紗和は畳みかけ、言葉に棘を含ませる。
「お酒なんて1滴も口にしない人だったのに、文句ひとつ言わずに、胃潰瘍になるまで飲み続けたのよ。千夜子さんのために、1杯でも飲んでくれたことあるかしら?」
千夜子の胸が、ずしりと沈んだ。
思い出したのは、親戚の集まりでの浩輔だった。彼は千夜子の代わりにお酒を飲んでくれるどころか、彼女の背中を押し出して、無理やり何杯も付き合わせたのだ。
「フフフ……ねえ」
紗和は首を傾げ、くすりと笑う。
「浩輔ってね、私のことがこんなに好きなのよ。明日にでも千夜子さんと離婚してって言ったら、すぐうなずくと思わない?」
「ええ、願ったり叶ったりよ」
千夜子は冷ややかに笑って顔を上げた。その目は、氷のように冷たかった。
「今すぐ言ってきたらいいわ。この結婚、私のほうから終わらせるから」
紗和の表情が凍りつく。これほど即答されるとは、思ってもみなかったらしい。
千夜子は蔑むように一瞥をくれて歩き出したが、その手首を、大きな手がいきなりつかんだ。
いつの間にか、浩輔が目を覚ましていた。
顔は紙のように白いのに、瞳の奥では恐ろしいほどの怒りが燃えている。
「俺が倒れた途端に、離婚かッ?」
「離して」
千夜子は、もうこのふたりと関わりたくなかった。言葉を費やす気にもなれない。
「離婚協議書と離婚届は、今日中に送るわ」
「千夜子!」
浩輔の指が、手首の骨を砕かんばかりに食い込む。
「……俺はお前を見誤っていたな!」
「あなたが、これまで誰かを見誤らなかったことなんてあるの!?」
千夜子はついに爆発した。全身の力で彼の手を振り払う。そして、一瞬、呆けたようになった浩輔の瞳へ向けて、きっぱりと告げた。
「私たちは、これで終わりよ」
言い終えるや、呆然とする彼の視線を背に、振り返りもせず病室を出ていった。
病室に、静寂が落ちる。聞こえるのは、浩輔の荒い息づかいだけだった。
紗和がすぐさまベッドへ寄り、彼の胸にそっと手を置く。
「もういいってば、怒らないで。あんな人のために、そこまでする価値なんてないわ……
あなたが倒れたとき、あの人ったら、自分のことしか考えてなかったのよ。私が必死に引き留めなかったら、とっくに逃げてたんだから!
さっきだって廊下で、当直のお医者さんと意味ありげに目を合わせていたの……最初から最後まで、あなたのそばにいたのは私だけよ」
浩輔の視線が、固く閉ざされた扉からようやく離れ、紗和の顔に落ちた。
「……今、何て言った?」
「だから、あの人はあなたのことなんてどうでもよくて、ほかの男に……」
「そこじゃない。千夜子が医者と意味ありげに目を合わせていたって、本当なのか?」
浩輔がさえぎる。声は、低く沈んでいた。
紗和は胸に手を当て、真剣な顔で言った。
「本当よ。絶対に嘘じゃないから!」
浩輔は何も言わなかった。彼はもう一度、あの扉に目をやる。その眼差しは、凍りついたようだった。
長い沈黙のあと、歯の間から、自分にしか聞こえないほどの低い声を絞り出した。
「千夜子……俺が死んだとでも思ってるのか」
第5話
弁護士から離婚協議書の草案がメールで届いた直後、父、尾坂久雄(おさか ひさお)からの着信音が鳴った。
「千夜子!亭主が入院してるってのに、お前はどこへ行った!今すぐ帰ってこい!」
久雄の怒号に、鼓膜がしびれる。
「誰から聞いたの?」
「浩輔くんから直々に連絡があったんだぞ!看病が面倒で、楽をしに逃げたそうじゃないか!彼は心が広いから許してくれたが、お前はさっさと戻って頭を下げろ!」
千夜子は深く息を吸った。
「浮気したのは浩輔よ。私、離婚する」
電話の向こうが、一瞬だけ静まる。そして、さらに激しい怒声が爆ぜた。
「浮気?だからどうした!浩輔くんのご実家がどれほどの家柄だと思ってる。離婚してもっといい相手が見つかるとでも思ってるのか!
離婚するなら、お前なんか娘じゃない!うちの家に、そんな恥さらしはいらん!」
罵声が終わらないうちに、母、尾坂幸江(おさか ゆきえ)のすすり泣く声が割り込んだ。
「千夜子、お母さんたち、お詫びの品を持ってもう浩輔くんのお宅へ向かってるの。あなたも早く戻ってきて……」
「行かないで!」
千夜子の心臓がぎゅっと縮んだ。けれど電話はすでに切れ、ツーツーと無機質な音が響くだけだった。
ふたりは、必ず行くだろう。彼女にはわかっていた。
幼いころから、父が自分に向けるのは、厳しい要求と拳だけだった。母は黙って涙を流すことしかできない。
浩輔との結婚は、両親の目には玉の輿に乗ったも同然の、これ以上ない成功だった。ふたりが胸を張っていられる、唯一の拠り所なのだ。
浩輔はもう紗和を選んだはずなのに、どうして両親まで巻き込むのだろう。
自分の尊厳を、もっと徹底的に踏みにじるためなのか。
千夜子は急いで家へ戻り、玄関を開けた途端、ソファにふんぞり返る浩輔の母、島川昭子(しまかわ あきこ)の姿が目に入った。
そして、深く頭を下げて、お詫びの品を差し出している両親。まるで許しを請うように小さくなっていた。
「立って!」
千夜子は駆け寄って贈り物をひったくり、幸江の腕を引き上げた。
「謝るべきは浩輔のほうでしょう!ふたりとも、こんな惨めな真似は……」
パンッ。
容赦のない平手打ちが頬に叩きつけられ、耳の奥が鳴った。
久雄は千夜子の鼻先を指さしたかと思うと、すぐさま昭子に向き直って愛想笑いを浮かべる。
「ハハ……その、娘の躾がなっておらず、申し訳ありません。どうかお気になさらず」
昭子はゆっくりと茶をすすった。表情ひとつ変えない。
「浩輔は優しい子だから、もう気にするなと言ってくれたわ。でも、けじめは必要でしょう。
今日は仏間でしっかり反省して、反省文を書いてもらうわ。終わるまでは、出てこなくて結構よ」
「はい、はい、すぐに書かせます!」
久雄は千夜子の腕をつかむと、抵抗するのも構わず、屋敷の奥にある離れへと引っ張っていった。
「お父さん!正気なの!?」
返ってきたのは、重い扉が閉まる音と、鍵のかかるカチリという音だけだった。
部屋にあるのは、仏壇の前に置かれた座卓と、反省文を書くための紙の束、それに1本のペンだけ。
1秒、また1秒と、死んだような静寂のなかで時間だけが過ぎていく。
飢えと寒さがじわじわと這い上がり、少しずつ千夜子の意志を蝕んでいった。
どれだけ扉を叩き、叫んでも、それは固く閉ざされたままだった。
意識が霞みはじめたころ、扉がようやく開いた。
戸口に、浩輔が立っている。光と影が、彼を半分は明るく、半分は暗く切り分けていた。
表情は冷ややかだった。けれど、床に倒れ伏した千夜子を目にした途端、冷静な仮面が音を立てて砕け散る。
彼は数歩で駆け込み、慌てて彼女を抱き起こすと、鼻の下を指で強く押した。
「千夜子!千夜子っ!」
千夜子はうっすらと目を開けた。彼だと気づくと、最後の力を振り絞って腕を押しのけ、壁に背を預けて身を起こし、距離をとる。
宙に浮いた浩輔の腕がこわばり、瞳に浮かんだ動揺がみるみる消え、再び冷たさに覆われた。
「お前のご両親はもう帰った。これだけ閉じ込められても、まだ非を認める気にならないのか?紗和の指導を引き受ければ、何事もなく済む。
彼女は離婚したばかりで、頼れる人もいないんだ。少しは同情できないのか」
そういうことか。
この屈辱も、この監禁も、結局は紗和のためだった。
最後に残っていたひとかけらの望みも、彼のそのひと言で、完全に消えた。
千夜子は顔を上げた。頬には平手の跡が残り、体は衰弱しきっている。それでも、眼差しだけは驚くほど澄んで、揺るぎなかった。
「浩輔、私は離婚する!」
第6話
浩輔の体が、ほとんど見えないほど小さく揺れた。体の脇で強く握りしめられていた拳が、やがてゆっくりとほどける。
彼は黙ったまま千夜子を見据えた。まるで見知らぬ人を眺めるような目だった。
「離婚協議書は用意してあるわ。あなたの財産は、1円もいらない」
千夜子は息をつく暇も与えない。飢えと衰弱のせいで声は掠れていたが、ひと言ひと言ははっきりしていた。
ようやく口を開いた浩輔の声は、ひどくかすれていた。
「……っ。次の相手でも見つけたのか?財産まで要らないなんて」
千夜子は頭が割れるように痛み、もう説明する気にもなれなかった。
めまいをこらえてバッグから協議書を引き抜き、彼の前に押し出す。ペン先を、署名欄に向けた。
浩輔の視線が、きれいに印刷された離婚協議書の文字に釘づけになる。
ほんの一瞬のことだった。彼は顔を上げた。瞳の底で、暗い感情が渦巻いている。
「……離婚には応じる。ただし、条件がある。
紗和が無事に修了するまで、心から納得したうえで指導すること」
ここまで来てもなお、彼の心にあるのは紗和だけだった。
胸の奥に鋭い痛みが走った。けれど千夜子は、口の端をわずかに動かしただけだった。
錯覚かと思うほど、一瞬のことだった。
「いいわ」
彼女は協議書をもう一度、前へ押しやる。
「あなたが署名するなら」
浩輔は、何の揺らぎもない彼女の顔を見つめ、胸を大きく波打たせた。
ペンをひったくり、紙面を破りそうな勢いで、末尾に自分の名を書き込む。
千夜子は協議書を受け取り、内容を確かめた。
「今日中に、私はここを出ていくわ」
「その必要はない」
浩輔は立ち上がり、背を向けたまま、冷たく言い放つ。
「出ていくべきは俺だ。この家には……お前の気配が染みついていて、1分だっていたくない」
そう言うと、まっすぐ戸口へ向かった。
光の加減だろうか。去っていく足取りが、わずかにふらついて、頼りなく見えた。
……
翌日、千夜子は大学に戻った。研究室に入るなり、先に来て待っていた紗和の姿が目に入る。
浩輔は、その隣に立っていた。
紗和はまるで別人のような顔つきで、しおらしくお辞儀をした。
「これからご指導のほど、よろしくお願いいたします」
「紗和、無理はするなよ」
浩輔は愛おしげに紗和を見ていた。だが千夜子へ視線を移した瞬間、その眼差しは冷え切った。
「指導教員として、きちんと見てやってくれ」
千夜子は答えなかった。
大学教員としての矜持は、彼に念を押されるまでもない。
浩輔は、口で言うだけでは足りないと思ったらしい。その日から毎日、夕方、講義が終わるころになると、決まって千夜子の研究室の戸口に現れるようになった。
最初のうち、同僚たちは笑って冷やかした。
「浩輔先生、最近どうしたんですか?毎日顔を出して。あの鉄仮面もついにデレましたか?」
やがて、冷やかしの声も消えた。
誰の目にも明らかだったからだ。彼は千夜子を迎えに来ているのではない。
その視線は、いつもたったひとりを追っていた。紗和だ。
ある日、千夜子がトイレの個室にいると、洗面台のほうから同僚たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「浩輔先生、毎日あの紗和を迎えに来て……千夜子先生の立場がないわよね」
「紗和って、バツイチなんでしょ?大学院に入れたのも、浩輔先生が裏で手を回したって聞いたけど……」
「知らないの?紗和が結婚する前の晩、浩輔先生、彼女のマンションの前でひと晩中立ってたのよ……離婚して戻ってきたんだから、手放すわけないでしょう」
「でもまあ、あのスタイルにあのルックスで、情熱的なんだもの。冷たい千夜子先生と比べたら、男ならどっちを選ぶかなんて、わかりきってるわよね……」
バタン。
個室の扉が開き、千夜子が出てきて、静かに手を洗った。
同僚たちは気まずそうに顔を見合わせ、慌ただしく立ち去ろうとする。
「みなさん。島川先生とは、離婚しました。私は旧姓の尾坂に戻ります」
千夜子は、その背中に向かって、声をはっきり張って言った。
同僚たちは振り返り、笑ってうなずいた。けれどその目には、疑いと憐れみがありありと浮かんでいた。
昼になり、千夜子は初めて学食に足を踏み入れた。もう、誰かの食事を作りに急いで帰る必要もない。生まれて初めてではないかと思うほど、心が軽かった。
そして、人混みのなかに浩輔の姿を見つけた。
外食は一切せず、学食など避けて通っていたはずの浩輔が、激辛ラーメンのカウンターに並んでいる。
千夜子は視線を逸らし、隅の席を選んで腰を下ろした。箸を取ったところへ、浩輔と紗和がトレーを持って現れ、斜め向かいの席に座る。
トレーの上は、真っ赤なラー油が浮いた、激辛の海だった。紗和は手に大きなチョコレートソフトクリームを掲げ、甘えた笑い声とともに、浩輔の口元へ差し出した。
「これも食べてみて。すっごくおいしいの」
浩輔の眉がほんのわずかに寄った。それでも、彼は口を開け、大きくひと口かじった。
冷たさが胃を締めつけたのだろう。テーブルの下で、左手がそっと胃のあたりを押さえる。
「おいしい?」
紗和が瞬きしながら尋ねる。
「……ああ」
彼はどうにか飲み下して、そう答えた。
千夜子は、まだ数口しか食べていないのに箸を置き、トレーを持って、席を立った。
彼女が背を向けたその瞬間、浩輔の視線が、すぐさま後を追った。そこに浮かんでいたのは、複雑で、読み取れない色だった。
第7話
千夜子が研究室で待ち始めて、1時間近くが過ぎた。紗和はようやく、悠々と姿を現した。
悪びれる様子はまるでない。腰をくねらせながら千夜子の机の前まで歩いてくると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「浩輔がお昼を『あーん』してくれて、ちょっと遅くなっちゃったわ。次からは、あの人も気をつけてくれると思うよ」
「あーん」して食べさせてくれた、という部分だけ、わざとゆっくり、ねっとりと嫌らしく強調する。千夜子の反応を、期待に満ちた顔で待っていた。
千夜子はパソコンの画面から目も上げず、淡々と告げた。
「私の指導では、遅刻も評価に響く。修了が延びるのは、困るでしょう」
紗和の顔色が変わった。バン、と乱暴に机を叩く。
「私を脅す気なの!?」
千夜子はゆっくり立ち上がった。紗和より少し背が高い。見下ろす眼差しには、おのずと冷ややかな圧が宿っていた。
「食事まで人に食べさせてもらわないといけないのは事実でしょう。それが受け入れられないなら、退学なさい」
「千夜子!」
戸口で、浩輔の怒声が弾けた。
大股で入ってくる彼の目は、刃のように鋭い。
「約束したことを忘れたのか。もしわざと紗和に嫌がらせをするなら、俺はお前のお父さんに直々に電話して、離婚のことを話してもいいんだぞ。
そうしたら彼は、またお前を『教育』しに来るんじゃないか?」
千夜子の背筋が、一瞬でこわばった。
知っていたの?
それとも、あの日の父の暴力は、最初から彼が黙認していた、いえ、焚きつけていたからなの?
鋭い氷の刃で心臓を真っ直ぐに貫かれたようだった。それでも、声はますます硬く冷えていく。
「好きにすれば。学内掲示でも校内放送でも、公表したいならどうぞ。一人ひとりに説明する手間が省けるわ」
浩輔の顎がこわばり、眼差しが陰鬱に沈んだ。
「お前なんかのために、そこまでする価値もない」
そのとき、ひとりの教員が慌てて駆け込んできた。
「尾坂先生!大変です、正門で問題が起きて、先生に会いたいという人が来ています。ものすごい剣幕で!」
千夜子の胸がざわつく。ふたりにかまっている場合ではなく、すぐに後を追って外へ出た。
正門に着いた瞬間、相手の顔を確かめる暇もなく、いきなり拳が飛んできて、顔面をまともに殴られた。
不意を突かれた千夜子は、目の前に火花が散り、よろめいてアスファルトに倒れ込んだ。
襲撃者はすかさず覆いかぶさり、雨あられと拳を振り下ろす。聞き慣れた、酒臭い怒鳴り声とともに。
「ふざけやがって!離婚だと!うちの顔に泥を塗りやがって!この家の恥さらしめ、ぶち殺してやる!」
久雄だった。
拳が千夜子の顔面や体に容赦なく叩き込まれ、鈍い痛みが広がっていく。
周囲の音が遠のき、ただ怒声と鈍い打撃音だけが耳の奥に響いていた。
またあの無力な小さな女の子に戻って、部屋の隅で身を丸め、「父」という名の理不尽な暴力に耐えている。
周囲の悲鳴も、引き離そうとする手も、どんどん遠くなっていく。
浩輔のことが、彼女の頭をよぎった。
あの人だ。父に知らせたのは、きっとあの人……!
紗和の機嫌を損ねたというだけで、まるで機会を待っていたかのように、自分をまた奈落へ突き落とすなんて……
もう紗和を引き受けた。もう席を譲った。それなのに、どうしてここまで追い詰めるのか?
自分が惨めに膝をついて、犬のように尻尾を振って許しを乞うまで、気が済まないのか?
警備員や同僚たちがようやく、逆上した久雄を羽交い絞めにして引き離したとき、千夜子の顔は青紫に腫れ上がり、口の端からは血が滲んでいた。
同僚たちは彼女を支え、警察を呼ぶべきかと口々に問う。
千夜子はその手を押しのけ、口元の血を拭って、背筋を伸ばした。少し離れた場所でまだ罵声を上げている父を見つめる。その瞳から、最後の温もりが完全に消え失せた。
「警察を呼んでください」
彼女は一言だけ、吐き出す。
「俺はこいつの親父だぞ!親が子を殴って何が悪い!」
久雄が喚き散らした。
千夜子はもう彼を見もせず、スマホを取り出して、110番を押した。
「楓川大学の正門前で、暴行事件です。加害者はまだ現場にいます。すぐに来てください」
電話を切ると、駆けつけた学科長に告げる。
「先に、あの人を押さえておいていただけますか。もうひとつ、やることがありますので」
そう言い残して、顔中に痛々しい傷を負ったまま、数えきれないほどの好奇の視線を浴びながらも、彼女は構内の放送室へ向かって歩き出した。
放送室に着くと、USBメモリを取り出し、静かに言った。
「流してほしい音声があります。今すぐ放送してください」