第1章
私の名前は高瀬志穂(たかせ しほ)。
結婚して7年目、夫・高瀬昭彦(たかせ あきひこ)の愛情はすべて、離婚した初恋の女・西園寺玲奈(さいおんじ れな)とその娘・亜衣(あい)へと向かっていた。
それが分かってから、私は娘に、夫のことを「おじさん」と呼ぶように教え始めた。
娘が喘息の発作で顔を真っ青にして苦しんでいる時でさえ、玲奈からの「亜衣が暗いところを怖がって……」という電話一本で、彼は迷わず私たちを置いて出て行った。
私は娘の目をそっと塞ぎ、「おじさん、いってらっしゃい」と小さな声で言わせた。
娘がずっと楽しみにしていたピアノコンクールでも、玲奈が「パパがいないから、亜衣が怖がって舞台に上がれないの」と泣きついてくると、彼は何の躊躇いもなく私たちに背を向けて立ち去った。
胸が引き裂かれるような思いを必死に堪えながら、コンクールに落ちて悲しむ娘に、「おじさん、わざわざ見に来てくれてありがとう」とお礼を言わせた。
その度に、娘は私の腕の中でただ静かに涙を拭うことしかできなかった。
そんな日々が続いた後、彼もようやく私たちに対して微かな罪悪感を覚えたらしい。
珍しく仕事の付き合いを断り、週末に私たちを遊園地へ連れて行くと自分から言い出したのだ。
だが、遊園地の入り口に着いたまさにその時、またしても玲奈から電話がかかってきた。
「昭彦、遊園地にいる他の子たちが、亜衣をパパがいないってからかうの。
お願い、亜衣を迎えに来てくれないかしら……」
一瞬、彼の顔に迷いが浮かんだが、すぐにそれを振り切るようにしゃがみ込み、娘に言い訳を並べ立てようとした。
今回は、私が口出しをして言い聞かせるまでもなかった。
娘は自ら、繋いでいた彼の手をそっと離したのだ。
彼女は涙で濡れた顔に作り笑いを浮かべ、驚くほど聞き分けよく一歩後ろへ下がった。
「大丈夫だよ、おじさん。あの子のところへ行ってあげて。
私はママが買ってくれた綿菓子があるから、これだけで十分だよ」
第1話
足早に立ち去る昭彦の背中を見つめていても、私は涙を流すことすらしなかった。
私は娘の奈々(なな)と手を繋ぎ、振り返って大通りへ向かい、タクシーを拾った。
車内はひどく静かだった。
奈々は後部座席に座り、食べかけの綿菓子をまだしっかりと握りしめている。
タクシーが交差点の赤信号で停まった時だった。
奈々は突然窓を開け、信じられないほど静かな動作で、頭につけていたピンク色のカチューシャを外した。
それは、昭彦が遊園地の入り口で彼女に買ってあげたプレゼントだった。
彼女は一切の躊躇も見せず、そのまま放り投げた。
カチューシャは音もなく、道端のゴミ箱の底へと消えていった。
運転手はバックミラーでそれを見て、驚いたように声をかけた。
「お嬢ちゃん、可愛いカチューシャ、どうして捨てちゃったの?」
奈々は運転手を見ようともしなかった。
ただ、窓の外を飛ぶように過ぎ去る街並みを見つめたまま、幼いながらもひどく落ち着いた声で言った。
「汚れたから、もういらないの……」
その仕草を見て、私は胸が締め付けられた。
分かっていた。
彼女は、昭彦のことを「おじさん」と呼び慣れているだけではない。
父親に対するほんのわずかな期待すらも、自身で断ち切ろうとしているのだ。
家に帰ると、私は真っ直ぐ書斎に向かった。
パソコンを開き、パスワードを入力し、隠しフォルダを開いた。
プリンターが低い音を立てて動き始めた。
やがて、2つの書類がプリントアウトされた。
1つは、会社から出されたメルボルン支社への異動確認書だ。
もう1つは、奈々の退学および転校の申請書だ。
実は半年も前に、私は奈々をオーストラリアのサマーキャンプに参加させるという口実で、出国に必要なすべての書類に昭彦のサインをもらっていたのだ。
あの時、彼は中身を見ようとすらしなかった。
私はそれらの書類を茶封筒に入れ、しっかりと封をした。
それから、物置部屋から大きなダンボール箱を引きずり出した。
そして、ここからが不要なものの片付けだ。
クローゼットの中、昭彦が買ってきた服はすべて、たとえ1度も袖を通していない高級なドレスであっても残らず選び出し、ダンボール箱に放り込んだ。
おもちゃ箱の中、昭彦が適当に買ってきたぬいぐるみもすべて捨てる。
奈々はお気に入りのウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ドアの前に立っていた。
私があの巨大なバービー人形のお城をゴミ袋に突っ込むのをじっと見つめている。
それは去年の彼女の誕生日に、昭彦が秘書に適当に買わせたものだ。
「ママ」
「ん?」
「そのお城、大きくて邪魔だから、捨てちゃおうよ」
彼女の口調には、微塵の名残惜しさもなかった。
「そうね」
私はゴミ袋の口をきつく縛り、玄関の外へと放り出した。
夜8時。
玲奈のSNSが、時間通りに更新された。
添えられた写真は、遊園地のお城の前に上がる色鮮やかな花火だ。
その中心には、昭彦が亜衣を肩車し、とろけるような笑顔を見せている。
玲奈は昭彦の隣に寄り添い、彼にぴったりと密着していた。
コメントにはこう書かれている。
【亜衣が言ったの。今日から私も、パパがいない可哀想な子じゃなくなったねって。
いつも一番に駆けつけてくれて、私たちのスーパーヒーローになってくれる誰かさん、本当にありがとう!】
その投稿のすぐ下には、昭彦が即座に「いいね!」を押した。
以前の私なら、こんな投稿を見ればすぐに昭彦に電話をかけていただろう。
狂ったように怒鳴り散らし、問い詰めていたはずだ。
そして、一睡もできずに夜を明かしたはずだ。
だが今夜は、その写真を見つめても、私の心は微塵も揺るがなかった。
私は静かに、その投稿に「いいね!」を押した。
それから、玲奈と昭彦のトークルームを非表示にし、二人とも通知オフに設定した。
お風呂から上がった奈々が、お気に入りのパジャマ姿でトコトコと歩いてきた。
彼女はベッドによじ登った時、ふと私のスマホの画面が目に入ったようだ。
写真に写る花火は華やかすぎて痛々しい。
だが、奈々は泣き喚きもしなかった。
ただ大人しく、自分の肩まで布団をしっかりと引き上げただけだった。
「ママ」
「ん?」
「オーストラリアのカンガルーさんには、いつ会いに行けるの?」
彼女は瞬きをしながら、消え入りそうな声で言った。
「おじさんは……一緒に行かないよね?」
第2話
私は胸の奥がチクリと痛むのを覚えながら、布団の端をそっと整えてやった。
「そうよ。私たち2人だけで行くの」
「やったあ」
奈々は目を閉じ、微かな笑みすら浮かんでいた。
深夜11時。
スマホの画面が明るくなった。
昭彦からのLINEだった。
【今日、亜衣が遊園地でパパがいないって他の子にからかわれて、あまりにも泣きじゃくるから、仕方なく行ってきたんだ。
週末にまたお前たちを遊園地に連れて行くから、奈々にはうまく説明しておいてくれ。
あの子は聞き分けがいいから、きっと分かってくれるだろう】
誠意のかけらもない言い訳だ。
謝罪の電話一本かけることすら惜しいということか?
彼はいつもこうだ。信じられないほど軽い口調で、堂々と私たちに都合のいい言い分を押しつけてくる。
私は返信しなかった。
代わりに彼のアイコンをタップし、新しく作ったリストへと移動させた。
そのリストの名前は【カウントダウン3日】だ。
私はスマホを置き、熟睡している奈々の寝顔を見つめた。
彼女のベッドのそばで、私はそっと呟いた。
「説明なんて、もう必要ないわ。
だって奈々には、これから先、あんたのようなパパなんて必要ないんだから」
翌朝。
ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
昭彦が高価そうな海外ブランドのイチゴのマカロンの箱を片手に持って入ってきた。
その顔には徹夜の疲れが浮かんでいた。
そして同時に、「わざわざご機嫌を取りに来てやったんだから、ありがたく思えよ」と言わんばかりの表情をしていた。
彼は靴を脱ぎ、リビングへ入ってきた。
マカロンをローテーブルに置き、ネクタイを緩めた。
私はソファに座ったまま、彼の方を見ようともしなかった。
淡々と一言だけ言った。
「季節の変わり目だから、いらないものを片付けてたのよ」
「ああ」
昭彦はそれ以上深く追及しなかった。
むしろ、ホッと肩の荷が下りたような深い安堵の息を吐き出した。
私が以前のように泣き喚かないのを見て、昨日の約束を破ったことをすでに許してくれたのだと勘違いしたらしい。
奈々がちょうど洗面所から出てきた。
昭彦の姿を目にした瞬間、彼女は無意識に止まった。
昭彦はマカロンを片手に持ったまましゃがみ込み、わざとらしい笑みを浮かべ、奈々に向かって手招きした。
「奈々、おいで。昨日はパパが悪かったよ。
ほら、奈々が一番好きなイチゴのマカロンを買ってきたぞ。
明日は奈々の7歳の誕生日だろ。
パパ、町で一番素敵なレストランを予約したんだ。
奈々のために盛大な誕生日パーティーをしよう!」
そこで言葉を区切り、まるで決定事項のようにいとも当然の口調で付け加えた。
「亜衣ちゃんと玲奈おばさんも一緒にお祝いに来てくれるよ」
奈々はその場に立ち尽くし、動こうとしなかった。
そのマカロンに触れようともしない。
彼女はちらりと私の顔を見上げた後、怯えたような視線を昭彦に向けた。
「おじさん、私、イチゴのアレルギーなのよ?」
その言葉を聞いた瞬間、昭彦の顔に浮かんでいた笑顔がピシッと凍りついた。
昭彦は呆然と手元のマカロンに目を落とし、それから奈々の顔へと視線をさまよわせた。
実の娘のアレルギーすら完全に忘れていたのだ。
なぜなら、玲奈の娘である亜衣が一番好きな食べ物がイチゴだったからだ。
気まずさを誤魔化すように、昭彦はわざとらしく咳払いをして、勢いよく立ち上がった。
「アレルギーだったか……パパ、うっかり間違えちゃったな。明日、別のものを買ってやる」
彼はもう奈々の目を見ることができなかった。
慌てて話題を変え、奈々の部屋へと向かった。
「そうだ。明日、亜衣ちゃんの幼稚園で舞台劇のお遊戯会があるんだ。
玲奈が亜衣ちゃんにちゃんとしたドレスがないって困っててな」
彼はクローゼットの中をしばらく引っ掻き回した。
そして、ハンガーに掛かっていた一着のドレスを引きずり出した。手縫いで仕上げられた、見事なシルクの刺繍ドレスだった。
それは、亡くなった祖母が身を削る思いで、ひ孫娘の奈々のために縫い上げてくれた特別なプレゼントだった。
奈々にとってはかけがえのない宝物だ。
昭彦はそれを無造作に腕にかけ、何食わぬ顔でリビングに戻ってきた。
「このドレス、なかなか見栄えがいいな。亜衣に貸してやってくれ」
奈々は下唇をぐっと噛み締め、涙が溢れないよう必死にこらえていた。
小走りで近づき、そのドレスを掴み取ろうと手を伸ばした。
「だめっ……それは、ひいおばあちゃんが私に作ってくれた……」
昭彦は面倒くさそうに眉をひそめ、苛立ちを隠さなかった。
不機嫌そうに奈々の伸びてきた手をさらりとかわした。
「たかがドレス1着で騒ぐなよ。ひいおばあちゃんが型紙くらい遺しただろ?
ママにもう1着作ってもらえばいいだけのことだ。
亜衣ちゃんはな、小さい頃からパパがいなくて可哀想な子なんだ。
奈々は亜衣ちゃんより年上なんだから、もっと気前よくしてやれよ」
第3話
彼は震える奈々を見下ろし、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「ワガママを言うんじゃないよ」
私は前に進み出て、奈々の手を握った。
そして、彼女を自分の背後に庇った。
昭彦の白々しい顔を見据え、私はただ冷たく言い放った。
「分かったわ、持っていきなさい」
昭彦は一瞬ぽかんとした。
まさか私がここまで素直に引き下がるとは思っていなかったのだろう。
以前なら、祖母に関わることとなれば、私は死に物狂いで彼に抵抗していたはずだ。
彼はすぐに満足げな表情を浮かべた。
「そうこなくっちゃな。家族なんだから、お互い助け合わないと」
彼はドレスを持ち、玄関へと向かった。
家を出る直前、振り返って念を押すことも忘れなかった。
「明日の誕生日には、絶対に顔を出すからな。
お前たちも早めに準備しておけ」
バタンとドアが閉まった。
その音が響いた瞬間、奈々はついにこらえきれず、大声を上げて泣き崩れた。
息も絶え絶えになりながら泣き叫び、小さな胸を激しく上下させている。
喉の奥からは、まるで壊れた笛のようなヒューヒューという苦しげな喘鳴が漏れ始めていた。
喘息の発作が起きかけていた。
私は慌てて吸入器を取り出し、彼女の口に当てて2回プッシュした。
そして、奈々を抱きしめ、背中を優しくさすりながら、言葉を紡いだ。
「奈々、もう泣かないで。
あんな強盗どもに、いらないものを全部持ち逃げさせてやっただけよ。
明日の誕生日パーティーが終わったら、ママが奈々を強盗どももおじさんもいない場所へ連れて行ってあげるからね」
奈々は私の首元に顔を埋め、涙で私の服の襟を濡らした。
彼女はヒックヒックとしゃくり上げながら、それでも強く頷いた。
3日目。
奈々の7歳の誕生日。
私は朝早く起き、キッチンでケーキを作った。
これが奈々の本当の好物だ。
イチゴは一切使わず、濃厚なチョコレートとクリームチーズだけで作ったケーキだ。
昼の12時、私たちは何もない空っぽの部屋に座っていた。
物置部屋はすでに綺麗に片付いている。
私はサイン済みの離婚届をダイニングテーブルのど真ん中に置いた。
その横には家の鍵と7年間はめ続けていた結婚指輪を並べた。
午後2時。
約束のレストランでの誕生日パーティーまで、あと2時間に迫っていた。
静まり返った部屋の中で、テーブルの上に置かれたスマホが突如として振動した。
画面には、昭彦の名前が光っている。
応答ボタンを押した。
電話の向こうからは、病院の救急外来の騒々しい音と玲奈のわざとらしい泣き声が聞こえてきた。
昭彦の声にはひどい焦りが滲んでおり、反論など一切許さない響きだった。
「志穂、亜衣が高熱を出したんだ。それに軽い肺炎も併発してるみたいでさ。
玲奈は1人でどう対応していいか分からず、完全にパニックになってるんだよ。
俺はどうしても手が離せないんだから、誕生日パーティーはキャンセルだ。
来週、ちゃんと改めてお祝いしてやるからさ」
彼は一息つき、まるでそれが当然である口調で付け加えた。
「奈々にはうまく説明しておいてくれ。
あの子は聞き分けがいいから、きっと分かってくれるだろう」
以前なら、こんな身勝手な言い草を聞けば、声を荒らげて彼を責め立てただろう。
実の娘の誕生日より他人の子供の風邪を優先するつもりかと、泣き叫びながら彼に絶望していたはずだ。
だが今日は、テーブルの上の離婚届を見つめながら私はたった一言だけ答えた。
「分かったわ」
電話の向こうの昭彦は、逆に言葉を失ったようだった。
彼の呼吸の音が2秒ほど止まった。
私が何一つ文句を言わず、彼を責め立てなかったことが想定外だったのだ。
「……怒ってないのか?」
彼は探るように聞いてきた。
「ううん、怒ってないわよ」
私の声はどこまでも穏やかだった。
彼は肩の荷が下りたように、ホッと息を吐いた。
「ならよかった。今から玲奈を手伝ってやらなきゃならないから、切るぞ」
彼は何の罪悪感も抱くことなく電話を切り、初恋の女を慰めに向かった。
奈々が部屋から出てきた。
その手には、彼女が一番大切にしている絵日記帳が握られていた。
最初のページには、家族3人で動物園に行った絵が楽しそうに描かれている。
ページをめくるごとに、そこに描かれた「パパ」の輪郭はどんどん薄くなっていた。
そして最後のページには、ママと手を繋いでいる自分の姿しか描かれていなかった。
第4話
奈々はダイニングテーブルへ向かい、椅子によじ登った。
黒のカラーペンを取り出し、絵日記帳を開いた。
そして、絵日記帳に書かれている「パパ」という文字をすべて真っ黒に塗りつぶしていった。
あまりに力強く塗ったせいで、紙がビリビリに破れてしまったほどだ。
「ママ、黒く塗っちゃえば、もう何も見えなくなるね」
彼女はカラーペンを置き、絵日記帳を自分の小さなリュックにしまい込んだ。
午後3時。
私は不用品回収の業者を家に呼んだ。
数人の作業員が手際よく動いてくれる。
昭彦の髭剃り、スーツやネクタイなど、壁に飾られていた大きな結婚写真でさえ、残らず綺麗に運び出してもらった。
この家は今、昭彦が全く知らないところで徹底的に「リセット」されているのだ。
午後4時。
私は2つの大きなスーツケースを引き、奈々と手を繋いで玄関に立っていた。
最後に壁に掛かった時計を一瞥し、もぬけの殻になったリビングを見渡した。
「行こうか」
私は奈々に声をかけた。
「私たちの新しい生活まで、あと3時間の道のりだけよ」
私たちは家を出て、ドアを閉め、鍵をかけた。
未練など微塵もなく、空港行きのリムジンバス乗り場へと歩き出した。
午後5時。
空港のロビーは人でごった返し、フライトを知らせるアナウンスが響いていた。
私はベンチに座り、スマホを取り出して、あらかじめ用意しておいた新しいSIMカードに差し替えた。
そして、10年間使い続けた古いSIMカードを、真っ二つにへし折った。
パキッという乾いた音がした。
それを隣のゴミ箱に投げ捨てた。
これで昭彦と完全に連絡を絶ったのだ。
奈々はお気に入りのウサギのぬいぐるみを抱きしめ、顔を上げて、電光掲示板に映し出されたメルボルン行きのフライト情報を見つめていた。
その小さな顔に悲しみの色は一切ない。
あるのは、重荷から解放されたような安堵だけだった。
同じ頃、中央病院。
亜衣の熱は、実はとっくに下がっていた。
玲奈はベッドの傍らに座り、時間が午後5時を過ぎたのを確認すると、スマホを取り出して写真を1枚撮った。
写真にはあの奪い取られたシルクの刺繍ドレスを着た亜衣が、昭彦の買ってきたおもちゃを握りしめ、ベッドに寝そべっている姿が写っていた。
彼女はその写真をSNSに投稿した。
【病気になっても、昭彦パパがいれば、亜衣は世界一美しい綺麗なお姫様よ】
そして、わざわざその写真を私のLINEにも直接送りつけてきた。
こういうやり方で、私を挑発して怒らせようとしているのだ。
病室の外。
昭彦は廊下の壁に寄りかかり、タバコを吸っていた。
ふと、ナースステーションの壁に掛かっているカレンダーが目に入った。
彼の視線がピタリと止まった。
カレンダーの「今日」の日付には、大きな赤い丸が書かれていた。
それは半月前、彼がわざわざ秘書に丸をつけさせたものだった。
今日は奈々の7歳の誕生日だった。
突然、得体の知れない激しい焦燥感が彼を襲った。
彼は勢いよくスマホを取り出して私にメッセージを送り、奈々の状況を聞こうとした。
だが、画面にポップアップ通知が表示された。
市内バイク便の配達通知だった。
差出人の住所は私たちの家、受取人は昭彦本人だった。
昭彦の指が理由もなくかすかに震えた。
彼はナースステーションの電話を借りて、自宅に電話をかけた。
受話器からはひたすら無機質な呼び出し音が響くばかりだった。
その音が彼の焦りを一層募らせた。
玲奈は彼が電話をかけているのを見て、すぐに病室から飛び出してきた。
彼の袖を引き、甘えるような泣き声で訴えた。
「昭彦、亜衣がめまいがして吐きそうだって言ってるの。
早く診てあげて……」
昭彦はうつむき、涙に濡れた玲奈の顔を見つめた。
だが彼の脳裏をよぎったのは、昨日奈々が「私、イチゴのアレルギーなのよ?」と言った時の、寂しげな眼差しだった。
そして、遊園地のゲートの前で、奈々が彼の手を離し、驚くほど聞き分けよく一歩後ろへ下がって、「おじさん」と呼んだあの瞬間を思い出した。
心臓が今までにないほど激しく波打ち、胸の奥が締め付けられた。
首を締め上げられたかのように呼吸もできないほどの苦しさに襲われた。
彼は玲奈の手を力任せに振り払った。
その力があまりに強かったため、玲奈はよろめいて数歩後ずさった。
「いい加減にしろ!」
彼は充血した赤い目を剥き、怒鳴りつけた。
「熱はもう下がっただろ!
娘は誕生日を祝ってくれるのをずっと待ってるんだよ!」