息子の命と引き換えに、あなたは全てを失った

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幼稚園へ息子、南里勇人(なんり はやと)を迎えに行った帰り道、1台のポルシェが勇人を撥ね飛ばした。小さい体は、8メートルも宙を飛んだ。 顔中血まみれの勇人は、それでも小さな手に買ったばかりのアニメヒーローのフィギュアを固く握りしめていた。 私、南里真優(なんり まゆ)はその場にへたり込み、勇人を抱きかかえながら、通りすがりの人に119番してくれるよう頼んだ。それなのに、事故を起こした女は車から降りようともしない。 シートに深く寄りかかったまま口紅を塗り直すと、どこかへ電話をかけ始め、甘ったるい声を出した。 「南里社長、私、やらかしちゃった……怖いよぉ、早く助けに来てぇ……」 わずか数分後、黒塗りの大型バンが2台、道を塞ぐように停まった。黒いスーツの男が6人、私と勇人をぐるりと取り囲んだ。 子供が血を吐いている、今すぐ病院へ運ばなければ死んでしまうと、私は必死に叫んだ。 だが、リーダー格の男は表情ひとつ変えず、駆けつけた救急車の進路までも無情に塞いでみせた。 「社長からの指示です。事故の状況が確認できるまで、負傷者を含め、誰もこの場を離れることは許されません」 私は半狂乱になって飛び出そうとしたが、両脇から力づくで押さえ込まれた。 ようやく車から降りてきた女は、コツコツとヒールを鳴らしながら歩み寄り、しゃがみ込んで勇人を一瞥した。 「あら、大したことないじゃない」 女はまた電話を耳に当て直し、甘えた声で言った。 「南里社長、この人たち言いがかりをつけてくるの。私の味方になってくれるわよね?」 「心配するな」 電話の向こうから、聞き覚えのある声が返ってきた。ぞっとするほど冷静な声だった。 「俺が処理する。お前は車の中にいろ」 勇人の唇はすでに紫色に変色していた。私は藁にもすがる思いで、その名前を叫んだ。 「南里章平(なんり しょうへい)!撥ねられたのは、勇人なのよ!」

Chapters (1)

第1章

幼稚園へ息子、南里勇人(なんり はやと)を迎えに行った帰り道、1台のポルシェが勇人を撥ね飛ばした。小さい体は、8メートルも宙を飛んだ。 顔中血まみれの勇人は、それでも小さな手に買ったばかりのアニメヒーローのフィギュアを固く握りしめていた。 私、南里真優(なんり まゆ)はその場にへたり込み、勇人を抱きかかえながら、通りすがりの人に119番してくれるよう頼んだ。それなのに、事故を起こした女は車から降りようともしない。 シートに深く寄りかかったまま口紅を塗り直すと、どこかへ電話をかけ始め、甘ったるい声を出した。 「南里社長、私、やらかしちゃった……怖いよぉ、早く助けに来てぇ……」 わずか数分後、黒塗りの大型バンが2台、道を塞ぐように停まった。黒いスーツの男が6人、私と勇人をぐるりと取り囲んだ。 子供が血を吐いている、今すぐ病院へ運ばなければ死んでしまうと、私は必死に叫んだ。 だが、リーダー格の男は表情ひとつ変えず、駆けつけた救急車の進路までも無情に塞いでみせた。 「社長からの指示です。事故の状況が確認できるまで、負傷者を含め、誰もこの場を離れることは許されません」 私は半狂乱になって飛び出そうとしたが、両脇から力づくで押さえ込まれた。 ようやく車から降りてきた女は、コツコツとヒールを鳴らしながら歩み寄り、しゃがみ込んで勇人を一瞥した。 「あら、大したことないじゃない」 女はまた電話を耳に当て直し、甘えた声で言った。 「南里社長、この人たち言いがかりをつけてくるの。私の味方になってくれるわよね?」 「心配するな」 電話の向こうから、聞き覚えのある声が返ってきた。ぞっとするほど冷静な声だった。 「俺が処理する。お前は車の中にいろ」 勇人の唇はすでに紫色に変色していた。私は藁にもすがる思いで、その名前を叫んだ。 「南里章平(なんり しょうへい)!撥ねられたのは、勇人なのよ!」 第1話 電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちた。 女はフンと鼻で笑うと、そのまま一方的に通話を切った。 「ツー、ツー、ツー」 無情な電子音が、ざわめく街角でやけに耳障りに響いた。 女はスマホをエルメスのバッグに押し込むと、見下ろすように私を睨みつけた。 「何を騒いでるのよ? うちの南里社長の名前を聞きかじったからって、馴れ馴れしくしないでよ。 社長は毎日分刻みのスケジュールで動いてるんだから。あんたみたいな当たり屋の女を相手にしてる暇なんてないのよ」 私は血走った目で、女を鋭く睨み返した。 「この子は……南里章平の実の息子なのよ! あなたが撥ねたこと、章平が黙っているはずないわ!」 女はよほど面白い冗談でも聞いたかのように口元を押さえ、腹立たしいほど甲高い声で笑った。 「あらやだ、よくそんなデタラメが言えるわねー。 当たり屋をやるにしても、下調べくらいしなさいよ。社長のことを好き勝手に騙っていいとでも思ってるの?」 電話が切れた後、章平は胸の奥にかすかな不安がよぎるのを感じた。 家政婦の安永洋子(やすなが ようこ)に電話をかけ、家の様子を尋ねた。 「洋子さん、妻と息子は帰っているか?」 洋子はその日、午後から友人たちと出かけていた。ランチのあと、そのまま喫茶店で話し込み、さらに買い物までしていたため、まだ家には戻っていなかった。 洋子は咄嗟に嘘をついた。 「奥様と坊っちゃんなら、温室でお花に水をやっていらっしゃいますよ」 そのひとことの嘘が、勇人の命を奪う引き金になるとは、洋子は知る由もなかった。 章平は安堵の息を漏らし、スマホを放り出した。 電話の向こうで最後に聞こえた、あの叫び声に対する不快感だけが胸に残った。心の中で、なんて下品な女だ、と悪態をついた。 「離して!」 私は全力でもがき、ボディガードの拘束を振り解いた。 勇人のそばへ駆け寄る。彼の鼻からは絶え間なく血が溢れ出し、胸元の白いシャツはもうどす黒い赤に染まりきっていた。 勇人は辛うじて目を開け、小さな手を小刻みに震わせた。 「ママ……痛いよ……っ」 心臓をぐちゃぐちゃに引き裂かれるような痛みが走った。 「勇人、怖くないわよ。ママがいるから。救急車もすぐそこまで来てるからね」 私は顔を上げ、声を振り絞ってボディガードたちに叫んだ。 「そこをどいて!救急車はあなたたちのすぐ後ろに来てるのよ! 人の命がかかってるの!あなたたちにだって親や家族がいるでしょう、血も涙もないの!?」 リーダー格の男は、まるで感情を持たない氷の壁のようだった。 冷ややかに私を見下ろし、抑揚のない声で言い放った。 「社長のご指示です。友部夏子(ともべ なつこ)様が怯えておられるので、社長の顧問弁護士が到着するまで、誰であろうとこの場を離れることは許されません」 第2話 「友部様の権利を守ることが最優先です。救急車など待たせておけ、とのご指示です」 周りで見ていた野次馬たちも、さすがに黙っていられなくなった。 若い男たちが数人前に出て、ボディガードを指さして怒鳴りつけた。 「あんたたち、人間の血が通ってないのか!」 「人を撥ねておいて助けもせず、道まで塞ぐなんて、命をなんだと思ってるんだ!」 「みんなで強行突破しよう!子供を助けるのが先だ!」 群衆がボディガードたちに詰め寄り、激しい押し合いになった。 リーダー格の男は眼光を鋭くさせると、腰から特殊警棒を素早く抜いた。 鈍い音が響いた。 先頭にいた若者が肩を強打され、悲鳴をあげて後ずさった。 ボディガードたちは一斉に警棒を構え、横一列になってバリケードを作った。 「南里グループへの業務妨害だ。部外者は立ち去れ。 これ以上前に出る奴は、業務妨害とみなす」 人々はその圧倒的な暴力の前に怯み、次々と後ずさった。 夏子はポルシェの車体にもたれ、気怠げに塗りたてのネイルをいじっていた。 「ほんと、底辺の人間ほど正義の味方を気取りたがるわよねー。 あんたたちを怪我させたって、社長には慰謝料くらい払えるけど、あんたたちは自分の治療費を払えるの?」 夏子は私の前まで歩み寄ると、ヒールの先で地面に落ちた泥まみれのフィギュアをコツコツと小突いた。 「このおもちゃ、どう見ても安物でしょ。せいぜい数百円ってとこ? じゃあ言いなさいよ、いくら欲しいの? 200万円?それとも300万円?」 私は震える手でフィギュアを拾い上げ、固く握りしめた。 勇人の呼吸はどんどん弱々しくなり、胸の上下もほとんどわからないほどになっていた。 私は顔を上げ、血走った目で夏子を睨み据えた。 「お金なんていらないッ! お願いです、道をあけて!救急隊員を通してください! 子供を助けさせてくれるなら、何でもしますから!」 夏子は眉を上げ、優越感に浸った笑みを浮かべた。 「本当に、なんでも?」 私は何度も頷いた。 「いいわ」 夏子は自分のヒールを指差した。 「さっき車から降りるとき、靴に埃がついちゃったの。 跪いて、舐めてきれいにしなさい。 私の機嫌が良くなったら、情けをかけて救急車を通してあげなくもないわ」 群衆から一斉に怒声が上がった。 「この女、狂ってる!」 「鬼かよ!」 私は唇を強く噛みしめた。口の中に鉄の味が広がった。 腕の中で、息も絶え絶えの勇人を見つめた。 もう、迷いはなかった。 地面に膝をつき、夏子の前でまっすぐに跪いた。 ガツッ。 膝が勢いよくアスファルトに打ちつけられた。 辺りが一瞬にして静まり返った。 誰もが信じられないという顔で私を見ていた。 あの無表情なボディガードでさえ、わずかに眉をひそめた。 夏子は一瞬呆気に取られた後、すぐに甲高い笑い声を上げた。 「ハハハ!あらやだ、本当に跪くなんてね! このクソガキ、あんたにとってそんなに大事な存在だったのね」 夏子はわざと足を前に突き出し、靴先が私の顎に触れそうになった。 「さあ、舐めなさい。 ちゃんときれいにね。このヒールは社長が海外で特注してくれたものなんだから、あんたみたいな貧乏人には一生買えない代物なのよ」 私は頭を下げ、埃のついた赤いヒールを見つめた。 尊厳など、この瞬間には何の価値もなかった。 勇人を救えるなら、死ねと言われても構わなかった。 目を閉じ、ゆっくりと顔を近づけた。 私の唇が靴の表面に触れる、その寸前。 夏子が突然、勢いよく足を振り上げた。 尖ったヒールの先が、私の肩を思い切り蹴り上げた。 不意を突かれた私は、後ろ向きに倒れ込み、地面に強く打ちつけられた。 「アハハハハッ!」 夏子は腹を抱えて笑いながら、スマホを構えて私を撮影し始めた。 「本当に従順な犬ね! ねえ、みんな、これ見てよ。今日は当たり屋に絡まれちゃってさ、お金欲しさにプライドまで投げ捨てるんだから」 第3話 肩の激痛に構う余裕もなく、私は起き上がり、再び跪いた。 「言われたとおりにしました。だからもう……救急車を通してもらえますか!」 夏子はスマホをしまうと、不満げに唇を尖らせた。 「ごめん、やっぱりやーめた。 なんか気持ち悪くなっちゃったし。 弁護士が来るまで、大人しく待ってなさいよ」 私の中で、何かが完全に切れた。 「この、悪魔っ!」 私は勢いよく立ち上がると、子を守る雌ライオンのように夏子へ飛びかかった。 両手で彼女の首を思い切り締め上げ、ポルシェのボンネットに押さえつける。 「救急車を通して!息子を助けて!お願いだから!」 夏子は悲鳴を上げた。 「人殺し!誰か助けて!」 ボディガードが2人、すぐさま駆け寄り、左右から私の腕を強く押さえ込んだ。 そのまま力任せに、私の体を宙吊りにする。 「離して!この人殺し!」 私は必死に両脚をばたつかせた。 リーダー格の男が冷ややかな目で近づいてきた。 「情けをかけてやったというのに、身の程を知らん女だ」 彼は革靴の硬い爪先を振り上げると、容赦なく私の右膝に蹴りを入れた。 ゴキッという鈍い音。 神経を引き裂くような激痛が、一瞬で全身を駆け抜けた。 私は悲鳴を上げ、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。 右脚は、不自然な角度に折れ曲がっていた。 冷や汗が瞬く間に全身を濡らしていく。 夏子は首をさすりながら歩み寄ると、私の頬を平手で打った。 「このクソ女!よくも私に触ったわね! あんたたち、ぶちのめしなさい!死んだって私が責任を取るから!」 その時だった。 人垣の外から、激しい騒ぎが起こった。 「突っ込め!くそっ、何かあっても俺が全部責任取る!」 荷物を満載した大型トラックが突然エンジン音を轟かせ、道を塞いでいた黒塗りの大型バンに突っ込んでいった。 ドンッ! 凄まじい衝突音が街中に響き渡る。 バン2台の間に、大きな隙間ができた。 トラックを運転していた男が車から飛び降り、手には大きなスパナを握っていた。 「刑務所に入ることになったって構うもんか!この畜生どもが子供を見殺しにするのを黙って見ていられるか!」 その瞬間、人々の怒りに火がついた。 数十人の通行人が一斉に押し寄せ、体当たりでボディガードたちの壁を突き崩す。 「早く!救急隊の人たちを通して!」 救急隊員たちが救急バッグを抱えて全力で駆け込んできた。 すぐに勇人へ酸素マスクを装着し、担架に乗せる。 「出血がひどい、瞳孔の反応も鈍い!一刻も早く病院へ搬送しないと!」 私は折れた脚を引きずりながら、地面を這うようにして担架の縁にすがりついた。 「お願い……助けてください……っ」 救急隊員は目を赤くしながら、私も一緒に救急車に乗せてくれた。 車のドアが閉まる間際、夏子が血相を変えて電話をかけているのが見えた。 「社長!あいつら私を殴ったの!しかもあの小僧を明徳病院に運んだのよ! 絶対に痛い目見せてよね!」 電話の向こうから、章平の低く冷ややかな声がスピーカー越しにはっきりと聞こえてきた。 「大丈夫だ、俺がすぐに手を打つ。 明徳病院は、うちのグループが100%出資している病院だ。 約束する。今日、あの病院では誰にも手術させない」 救急車は帰宅ラッシュの渋滞を、狂ったように縫って走る。 甲高いサイレンの音も、私の早鐘のように打つ心臓の音を消してはくれなかった。 勇人は担架に横たわり、小さな顔は紙のように白くなっていた。 心電モニターの波形はどんどん平坦になり、警告音がまるで命を急かす音のように鳴り続ける。 「血圧、さらに低下! すぐ輸血が必要だ、明徳病院の輸血部に連絡!Rhマイナスの血液を用意させろ!」 救急隊員が無線機に向かって怒鳴った。 私は勇人の冷たくなっていく小さな手を握りしめ、涙を手の甲に落とし続けた。 「勇人、もう少しだけ頑張って。すぐ病院に着くからね」 第4話 「ヒーローが怪獣と戦うところ、見たいって言ってたよね?ママ、明日連れて行ってあげる」 勇人の睫毛がかすかに震えたが、目を開ける力はもう残っていなかった。 15分後、救急車は明徳病院の救急外来の搬入口へと滑り込んだ。 救急外来の搬入口は大きく開け放たれていたが、ストレッチャーを準備して待ち受ける看護師は1人もいない。 救急フロア全体が、不気味なほど静まり返っていた。 救急隊員は一瞬固まると、すぐに車を飛び降りて叫んだ。 「誰かいないのか!ストレッチャーを!」 返事はない。 受付の奥に数人の若い看護師が身を隠すように縮こまり、目を伏せて私たちを見ようとしなかった。 救急隊員が思わず悪態をつき、自らストレッチャーを引っ張ってきた。 救急隊員が勇人をストレッチャーに乗せ、処置室へと運んでいく。 私も折れた脚を引きずりながら、必死にその後を追った。 処置室の扉の前まで来たところで、白衣を着た中年の男が行く手を阻んだ。 明徳病院の院長だった。 額に脂汗を浮かべ、視線が定まらない。 「待ってください。そこへは入れないんですっ」 救急隊員が院長の襟元を掴み上げた。 「正気か!この子は内臓が破裂しているんだ。一刻も早く手術しなきゃ死ぬぞ!」 院長は救急隊員の手を無理やり振りほどき、声を落とした。 「上からの厳命なんです! 社長直々の電話でね、事故の責任が確定するまで、一切の治療を止めろと。 輸血部はすでに閉鎖され、外科の責任者は全員、会議に呼び出されています。 私にも養わなきゃいけない家族がいます。社長の命令には逆らえないんですよ!」 私は雷に打たれたような衝撃を受けた。 章平、あなたは本当にそこまで血も涙もない人間なのか? 愛人の鬱憤を晴らすために、罪のない子供の命まで奪うつもりなのか? 私は折れた脚を引きずりながら、どさりと院長の前に跪いた。 「……院長、お願いします、助けてください! まだ5歳なんです! 助けてくれるなら、一生恩に着ます。何でもしますから!」 院長は顔を背け、私の目を見ようとしなかった。 「お母さん、私を困らせないでください…… この街で社長の機嫌を損ねたら、私だって生きていけないんですよ。 他の病院に連れて行ったほうがいい。今ならまだ間に合うかもしれません」 他の病院? ここから一番近い総合病院まで、渋滞がなくても30分はかかる。 勇人はもう5分だって持たないのに! 私は絶望の中でスマホを取り出し、震える指で章平の番号を押した。 1回目、切られた。 2回目、また切られた。 狂ったように何度もかけ直す。 ようやく、電話が繋がった。 「章平!今すぐ部下を退かせて!勇人の手術をさせて!」 私は電話に向かって、声を振り絞って叫んだ。 電話の向こうから、甘ったるく作ったような女の声が返ってきた。 「あらやだ、またあんたなの、この頭のおかしい女」 夏子だった。 彼女はくすくすと笑っている。 「社長は今、私の膝の擦り傷を見てくれているのよ。すごく心配してくれちゃって。 あの当たり屋のガキは自分とは一切関係ないって言ってたわ。もううざいんだけど? あ、そうそう、社長が言ってたけど、もし明徳病院で騒ぎを起こすなら、あんたたち一家をこの街から完全に追い出す方法なんて、いくらでもあるんですって」 全身の血が、一気に凍りついた。 「電話代わって!章平に話させて! 私は南里真優よ!事故に遭ったのは、章平の実の息子なの!」 夏子は苛立たしげに舌打ちをした。 「いい加減にしてよ。まだそんな芝居続けるつもり? 南里社長の奥さんが南里真優って名前なのは知ってるわよ。でも、その人なら今頃ご自宅で坊っちゃんとアニメでも見てるんじゃないの? そんな三流の手口、他所でやってちょうだい」 そう言うと、彼女は一方的に電話を切った。 私はその場に崩れ落ち、手にしていたスマホが床に落ち、粉々に砕けた。 絶望というブラックホールに、私は跡形もなく呑み込まれていった。 第5話 その時、処置室の前のモニターが、突然長く平坦な警告音を鳴らし始めた。 ピ—— それは、無情な1本の直線だった。 救急隊員の体が、その場で固まった。 彼はゆっくりと振り返り、もう動かなくなった緑の線を見つめ、苦しげに目を閉じた。 「……駄目です」 救急隊員は、死亡時刻を告げることすらできなかった。 必要な救命処置すら受けられないまま、この子はすでに命を落としていたのだ。 私は地面に跪いたまま、動けなかった。 周りの世界から、音が消えたようだった。 看護師のすすり泣きも、救急隊員の怒号も、何も聞こえない。 私の目に映るのは、ストレッチャーの上の小さな体だけだった。 勇人の顔は、すでに土気色に変わっていた。 胸元の白いシャツは血に染まり、乾いてどす黒く変色している。 ヒーローのフィギュアを固く握りしめていたはずの小さな手は、今はだらりと担架の縁から垂れ下がっていた。 フィギュアは床に落ち、乾いた音を立てた。 私は折れた脚を引きずりながら、少しずつ這って近づいた。 フィギュアを拾い上げ、もう一度その手に握らせる。 「勇人、ヒーロー、ちゃんと握ってて…… ヒーローが、ママを守ってくれるんでしょう?」 私は自分の頬を勇人の冷たい小さな顔に押し当てた。涙はとっくに涸れ果て、ひりひりとした痛みだけが残っていた。 「どうして……ママを守ってくれないの…… 起きて……ねえ、ママを見て……」 何の返事もない。 廊下全体が、死んだように静まり返っている。 その時、廊下の奥から、ヒールの硬い音が響いてきた。 甘ったるい女の愚痴とともに。 「この病院、消毒液の臭いがほんとキツいんだけど。 章平ったら、私はもう平気だって言ってるのに、わざわざ全身検査させるんだもん。 膝の擦り傷なんて、もう血も止まっているのに」 聞き覚えのあるその声に、私の背筋は瞬時に凍りついた。 ゆっくりと振り返る。 章平はオーダーメイドの黒いスーツを身にまとい、背筋を伸ばして立っていた。 片手で夏子の腰を抱き、私が1度も見たことのないような、甘さと呆れの混じった表情を浮かべている。 「事故を起こしたのなら、念のため病院で検査しておくに越したことはない。 あとになって何か症状が出たら困るからな」 その声は、驚くほど優しく、甘かった。 夏子は彼の胸にもたれかかり、得意げに甘えた声を出した。 「全部、あの当たり屋の女のせいよ。あんな怖い思いさせられて。 あの女のこと、絶対に許さないでよね」 章平は顔を上げ、興味なさげな視線を救急処置室のほうへと流した。 「心配するな。俺の女に手を出そうとする奴は、誰であろうと許さない」 彼は大股で歩み寄ってくる。背後のボディガードが即座に前へ出て道を開けた。 「そこをどけ」 ボディガードが乱暴に、周りの看護師や医師たちを押しのける。 章平は、私から2メートルほど離れた場所で足を止めた。 地面に座り込む私には目もくれず、まっすぐ救急隊員を見据える。 声は、氷のように冷たかった。 「うちの病院で騒ぎを起こしているのは、お前たちか! 警備を呼べ、つまみ出せ」 救急隊員は怒りに全身を震わせ、章平を指差して怒鳴りつけた。 「あんたは人間じゃない! あんたのひとことのせいで、5歳の子供が手遅れになって死んだんだぞ! 夜な夜な悪夢にうなされると思わないのか!」 章平は眉をひそめ、その非難をまるで的外れだとでも言うように受け流した。 「どうせ当たり屋だろう。死んでも自業自得だ」 彼はようやく、見下すような視線を担架の上へと落とした。 その瞬間。 章平の体が、はっきりとこわばった。