出生の秘密を知った日、私の命はもう尽きかけていた

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私、久留島朝葉(くるしま あさは)が重症の再生不良性貧血だと告げられたとき、最初に感じたのは悲しみではなく、安堵だった。 どうせ私は、この家の本当の娘じゃない。 死んだところで、誰にも何も返さなくていい。 6歳のころ、妹の久留島紗月(くるしま さつき)が抱いていたぬいぐるみを、ほんの少し長く見ていただけで、母の久留島冴子(くるしま さえこ)に壁際へ引っ張られた。 「あんたは私たちの本当の子じゃないの。この家で暮らせていることも、何もかも、私たちがしてあげてることなんだから」 それ以来、私は自分から何かを欲しいと言わなくなった。 紗月には新しいワンピース。 私は、紗月のお下がりの制服。 紗月がピアノを習っているあいだ、私は翌朝の食事代をもらうためにキッチンで皿を洗った。 ずっと、この家に一時的に置いてもらっているだけの子みたいに暮らしてきた。 いつ「もういらない」と言われてもいいように。 病気が分かったあと、医師から、造血幹細胞移植を受けるなら血縁者のHLAも調べたほうがいいと言われた。 けれど、家には何も話さなかった。 ひそかに実の両親を探しながら、7年かけて貯めたお金を、榎森市郊外の樹木葬霊園の頭金に充てた。 それが、昨夜までは私にできる精いっぱいのことだった。 39度の熱に浮かされながら水を飲みに行ったとき、寝室から父の久留島隆成(くるしま たかなり)と母の話し声が聞こえた。 「昔のやり方、やっぱりひどすぎたんじゃない?朝葉、どんどんこの家の子じゃないみたいになってる」 母の声に、父はため息をついた。 「仕方ないだろ。紗月は養子なんだ。朝葉に自分が実の娘だと教えていたら、あの子が紗月に何でも譲ると思うか?」 手からグラスが滑り落ちた。 床を転がり、足元で止まる。 私は、養子なんかじゃなかった。 19年間、実の娘として大切にされてきた紗月のほうが、養子だった。 寝室の前で、思わず笑ってしまった。 けれど、真実を知るには遅すぎた。 私の体にはもう、ほとんど時間が残されていなかった。

Chapters (1)

第1章

私、久留島朝葉(くるしま あさは)が重症の再生不良性貧血だと告げられたとき、最初に感じたのは悲しみではなく、安堵だった。 どうせ私は、この家の本当の娘じゃない。 死んだところで、誰にも何も返さなくていい。 6歳のころ、妹の久留島紗月(くるしま さつき)が抱いていたぬいぐるみを、ほんの少し長く見ていただけで、母の久留島冴子(くるしま さえこ)に壁際へ引っ張られた。 「あんたは私たちの本当の子じゃないの。この家で暮らせていることも、何もかも、私たちがしてあげてることなんだから」 それ以来、私は自分から何かを欲しいと言わなくなった。 紗月には新しいワンピース。 私は、紗月のお下がりの制服。 紗月がピアノを習っているあいだ、私は翌朝の食事代をもらうためにキッチンで皿を洗った。 ずっと、この家に一時的に置いてもらっているだけの子みたいに暮らしてきた。 いつ「もういらない」と言われてもいいように。 病気が分かったあと、医師から、造血幹細胞移植を受けるなら血縁者のHLAも調べたほうがいいと言われた。 けれど、家には何も話さなかった。 ひそかに実の両親を探しながら、7年かけて貯めたお金を、榎森市郊外の樹木葬霊園の頭金に充てた。 それが、昨夜までは私にできる精いっぱいのことだった。 39度の熱に浮かされながら水を飲みに行ったとき、寝室から父の久留島隆成(くるしま たかなり)と母の話し声が聞こえた。 「昔のやり方、やっぱりひどすぎたんじゃない?朝葉、どんどんこの家の子じゃないみたいになってる」 母の声に、父はため息をついた。 「仕方ないだろ。紗月は養子なんだ。朝葉に自分が実の娘だと教えていたら、あの子が紗月に何でも譲ると思うか?」 手からグラスが滑り落ちた。 床を転がり、足元で止まる。 私は、養子なんかじゃなかった。 19年間、実の娘として大切にされてきた紗月のほうが、養子だった。 寝室の前で、思わず笑ってしまった。 けれど、真実を知るには遅すぎた。 私の体にはもう、ほとんど時間が残されていなかった。 第1話 「こんな夜中に、何騒いでるの?」 母が寝室のドアを開け、眉をひそめた。 廊下の照明は薄暗かった。それでも、母の目に浮かぶ嫌悪だけは、嫌になるほどはっきり見えた。 母との距離は2メートルもない。 足元には、割れたグラスが散らばっていた。 顔を上げる。 39度の熱で視界はぼやけているのに、母の表情だけは妙にはっきり見えた。 警戒するような目。その奥には、夜中に邪魔された苛立ちまでにじんでいる。 「……落としただけ」 小さく答え、ゆっくりしゃがんでガラスの破片を拾い始めた。 母はため息をつき、立ったまま私を見下ろした。 「ほんと、いつもそそっかしいんだから。紗月は明日ピアノコンクールなのよ。起こしたりしたら、お父さんに怒られても知らないわよ」 寝室の奥から、父の不機嫌そうな声が飛んできた。 「もういい。片づけたら、さっさと部屋に戻らせろ。いつまでもそこにいられたら邪魔だ」 母は腕を組んだまま、冷たい目で私を見た。 「聞こえたでしょ。ちゃんと片づけなさい」 顔が熱で真っ赤になっていることも。 しゃがんでいるだけなのに体が震えていることも。 母は何ひとつ聞かなかった。 黙ったまま、最後に残った破片を拾い上げる。 鋭い縁が人差し指に食い込み、すぐに血がにじんだ。 赤い雫がぽたりと落ち、ウールのカーペットに小さな赤黒い染みを広げていく。 重症の再生不良性貧血で、血小板はひどく減っていた。 こんな小さな傷でも、血はなかなか止まらない。 あっという間に、掌まで真っ赤になった。 そこでようやく、母も気づいた。 けれど、心配するより先に息を呑んだ。 「朝葉、まさかわざとじゃないでしょうね? そのカーペット、紗月が気に入ってるのよ。わざと汚して、私たちへの当てつけでもしてるつもり?」 指先を伝う血を見つめていると、体の芯まで冷えていくようだった。 19年。 6歳のとき、父と母から「朝葉はうちの本当の子じゃない」と聞かされてから、私はずっと、この家で何をするにも遠慮して暮らしてきた。 新しい服が欲しいとも言えなかった。 お小遣いもねだれなかった。 具合が悪くても、病気だと口にすることさえ怖かった。 捨てられるのが怖かったから。 けれど、今はもう分かっている。 私は、この家に遠慮して生きる必要なんてなかった。 実の父と母に、娘として当たり前に持っていたはずのものを奪われていただけだった。 そんなことも知らずに19年も怯えていた自分が、ひどく滑稽に思えた。 「……ごめんなさい」 手を引き、まだ血の止まらない指先を、ぎゅっと掌の中へ握り込んだ。 第2話 「ちゃんときれいにするから」 母は鼻で笑うと、私の目の前で勢いよく寝室のドアを閉めた。 廊下にひとり残された私は、カーペットについた血を少しずつ拭き取った。 それから、窓もない狭い使用人部屋へ戻った。 硬いベッドに横になると、骨の奥の痛みがまた波のように押し寄せてきた。 3日前。 榎森総合医療センターの血液内科。 医師は検査結果を手に、気の毒そうな目で私を見た。 「重症の再生不良性貧血です。かなり厳しい状態です。 できるだけ早く造血幹細胞移植を検討する必要があります。血縁者がいれば、まずHLAを調べたいところですが、ご両親とは連絡が取れますか?」 薄い検査結果の紙を指先でつまんだまま、私は静かに首を横に振った。 「実の親はいません」 私は養子だ。 血のつながった家族なんて、どこにいるのかも分からない。 だから、治療を諦めた。 子どものころから飲食店のバイトや家庭教師をして貯めてきた140万円を、榎森市郊外の樹木葬霊園に墓所を取るための頭金に充てた。 残りは24万円。 あと2か月生きられれば、どうにか払いきれる。 そう思っていた。 けれど、ついさっき知ってしまった。 全部、嘘だった。 私にはちゃんと、血のつながった父と母がいた。 もしHLAが合えば、どちらかがドナーになってくれるかもしれない。 助かる可能性は、最初からすぐそばにあった。 でも、もう頼る気にはなれなかった。 翌朝。 体中の痛みをこらえて起き上がり、いつものようにキッチンで朝食の支度をした。 紗月は真新しい高級ブランドのワンピースを着て、お姫様みたいにダイニングテーブルについていた。 そのワンピースには見覚えがある。 半月ほど前、百貨店のショーウィンドウで、長いこと見つめていたものだ。 あのとき母は言った。 「高すぎるわ。うちの本当の娘でもないあなたが着るような服じゃないでしょう」 なのに、そのあとすぐ同じものを紗月に買っていた。 「お姉ちゃん、今日すごく顔色悪くない?」 紗月は目玉焼きを切りながら、何も知らないような顔で首をかしげた。 「昨日、ちゃんと眠れなかったの?この牛乳、飲む?もういらないから」 半分ほど残ったグラスを、こちらへ押してくる。 母はすぐにやってきて、グラスをつかむと、そのまま中身をシンクへ流した。 「紗月が親切にくれたからって、何でも受け取っていいと思ってるの?少しは自分の立場を考えなさい。 何の病気かも分からないのに、紗月にうつして今日のコンクールに響いたら、責任取れるの?」 シンクに流れていく白い牛乳を見ていると、胃がひっくり返りそうになった。 「もういい。ごちそうさま」 席を立ち、誰の顔も見なかった。 新聞を読んでいた父が顔を上げる。 「待て。紗月は今日コンクールだろ。荷物を持つためについて行くんじゃなかったのか。どこへ行くつもりだ?」 振り返る。 熱のせいで喉がひりつき、声は少しかすれていた。 「ちょっと用事があるの。青嶺移植医療支援センターに行ってくる」 母が鼻で笑った。 「移植医療支援センター?何しに行くの? 寄付でもして殊勝なところを見せれば、私たちが感心するとでも思ってるの?そういう見せかけだけのこと、やめなさい」 説明する気にもなれず、そのまま玄関を出た。 外に出ると、朝の光がやけにまぶしかった。 道路脇に立ち、青嶺移植医療支援センターへ電話をかける。 「すみません。ひとつ確認したいことがあるんですが。 重症の再生不良性貧血でも、死後に角膜を提供することはできますか?」 「誰に電話してる?」 すぐそばから声がして、顔を上げた。 黒塗りの高級セダンが、ゆっくりと路肩に止まっている。 窓が下がり、薄暗い車内から父の冷たい顔がのぞいた。 私を見るなり、眉間のしわが深くなる。 「乗れ」 電話を切り、ドアを開けて車に乗った。 車内は冷房が強く効いていて、思わず体が震えた。 父は車を出さず、助手席前のグローブボックスから茶封筒を取り出すと、私の膝へ放った。封筒が脚にぶつかった。 「自分で見ろ。何だ、これは」 封は閉じられていなかった。 中から何枚かの検査結果と、血縁照合登録票が滑り落ちた。 病気が分かったあと、ほんの少しでも生きられる可能性があるならと思い、家族には内緒で民間のDNA血縁照合サービスに登録し、検体を提出していた。 この家の本当の子じゃないと言われてきたから、どこかにいる実の親を見つけられるかもしれないと思ったのだ。 第3話 せめて、実の親に命を助けてほしかった。 けれど今、その血縁照合登録票は父の手にある。 「朝葉、お前には本当に失望した」 父はシートにもたれたまま、怒りではなく、見下すような冷たい目を向けてきた。 「久留島家は19年もお前を育ててきた。食べるものも着るものも与えてきた。それなのに、これが恩返しか? 家族に黙って血縁照合に登録して実の親探しか。そんなにこの家が嫌で、さっさと次の居場所を探したかったのか?」 登録票を見つめる。 喉の奥に、血を含んだ綿でも詰まっているように苦しかった。 実の親を探したのは、生きるためだった。 父の目には、育ててもらった恩も忘れた恩知らずにしか見えていない。 「違うよ」 静かに書類を茶封筒へ戻した。 「自分がどこから来たのか、知りたかっただけ」 父は鼻で笑い、ハンドルを切った。 「そこまで知りたいなら、望みどおりにしてやる。家に戻るぞ」 車は勢いよく走り出し、久留島邸の前で止まった。 リビングでは、母と紗月がソファに座っていた。 その向かいには、くたびれた服を着た中年の男女が、落ち着かない様子で腰を下ろしている。 男は日に焼け、手はごつごつと荒れていた。 女は乱れた髪のまま、部屋の中をきょろきょろと見回していた。 父は中へ入ると、2人を指した。 「朝葉、こっちへ来い」 言われるままローテーブルのそばまで行く。 「実の親を探してたんだろ?」 父は、どうでもいい話でもするような口調だった。 「人に頼んで調べてもらった。この2人がお前の実の両親だ。樫尾勝治(かしお かつじ)さんと、樫尾久美子(かしお くみこ)さんだ」 久美子はすぐに立ち上がると、私の手をつかみ、無理やり涙を浮かべた。 「朝葉ちゃん、やっと会えた。お母さん、ずっと会いたかったのよ。 昔は本当にお金がなくて、どうしても育てられなくてね。それで仕方なく道端に置いていったの。恨んでないわよね?」 近づいた瞬間、安いタバコのにおいと、すえた汗のにおいが混じって鼻についた。 私は冷たく手を引いた。 父と母を見る。 あまりにも芝居が見え透いていた。 昨夜、真実を聞いていなければ、本当に信じていたかもしれない。 自分はこんな家の生まれだったんだ、と。 でも、私はもう知っている。 私は久留島家の実の娘だ。 目の前の2人は、父と母がどこかの田舎から連れてきて、親のふりをさせている赤の他人にすぎない。 母はティッシュを取り、目元をそっと押さえた。 「朝葉、私たちを冷たいなんて思わないでね。 そこまで実のご両親に会いたかったなら、私たちだって親孝行を邪魔するわけにはいかないでしょう。 荷物をまとめて、しばらく2人のところで暮らしてきなさい」 紗月は母の腕にそっと寄り添い、やさしい声を出した。 「お姉ちゃん、大丈夫だよ。田舎だから少し大変かもしれないけど、本当の家族なんでしょ? 向こうで少し暮らしてみたら、きっとお父さんとお母さんがどれだけ大事にしてくれてたか分かると思う」 私はその場に立ったまま、この茶番を演じる3人を見ていた。 少し苦労させれば、久留島家がどれだけ恵まれていたか分かる。 そんな理由で、父と母は重い病気を抱えた実の娘を、見ず知らずの他人に預けようとしている。 急に、何もかもどうでもよくなった。 もう言い返す気力さえ残っていない。 どうせ、長くは生きられない。 この家で死んだら、また高価なカーペットを汚してしまうだけだ。 田舎で死ぬのも、悪くない。 「分かった」 小さくうなずいた。 「荷物、まとめてくる」 母は一瞬、言葉を失った。 こんなに素直に従うとは思っていなかったのだろう。 言おうとしていた小言が、すべて喉につかえたようだった。 私は2階へ上がり、窓もない狭い使用人部屋に戻ると、持っている数少ない古着をバッグへ詰めた。 下へ戻ったころには、勝治はもう待ちくたびれた顔をしていた。 第4話 勝治は私のバッグを乱暴にひったくると、吐き捨てるように言った。 「行くぞ。いつまでお嬢様気分でいるつもりだ」 私は2人のあとについて玄関へ向かった。 父はソファに座ったまま、こちらを振り返りもしない。 「朝葉」 母に呼び止められ、足を止めた。 「向こうに行ったら、ちゃんと言うことを聞きなさい。ここにいたときみたいに、いつまでも不満ばかり言うんじゃないのよ。 自分がどれだけ恵まれてたか分かったら、いつでも電話してきなさい。そのときは迎えに行くから」 振り返ると、母の向こうに、壁いっぱいに飾られた大きな家族写真が見えた。 父と母、そして紗月。 3人とも幸せそうに笑っている。 そこに、私の姿だけがなかった。 「分かった」 玄関のドアを開ける。 「でも、電話はしないから」 長く、ひどく揺れる道のりだった。 長距離バスで山道を4時間ほど走り、途中からは古びた軽バンに乗り換えた。 車内には、肥料と湿った土のにおいが染みついていた。 奥白村に着いたころには、すっかり夜になっていた。 連れて行かれたのは、今にも崩れそうな古い木造家屋だった。 窓の隙間から風が入り込み、庭には湿った薪や農具が雑然と置かれている。 家に入った途端、それまで勝治と久美子の顔に浮かんでいた遠慮や愛想は、跡形もなく消えた。 久美子は私のバッグを奪い取ると、中身を土間へぶちまけた。 何度も洗って色の落ちた古着が数枚。 画面にひびの入った古いスマホ。 あとは、少しばかりの現金だけ。 「これだけ?」 久美子は顔をしかめ、床に落ちた服をつま先で蹴った。 「都会の金持ちの家で十何年もいい暮らししてたんでしょ?アクセサリーの1つも持ってないわけ?」 勝治は悪態をつくと、こちらへ歩いてきて肩をつかんだ。 指が骨に食い込むほどの力だった。 「金ばっかりかかる厄介者だな。迎えに行くだけで、こっちは交通費まで払ったんだぞ。 明日から庭の片づけも、薪割りも、飯の支度も全部お前がやれ。タダで置いてもらえると思うなよ」 熱はずっと下がっていなかった。 何日も移動の疲れも重なり、骨の一本一本を叩かれているように痛む。 肩をつかむ手から逃れようとした瞬間、勝治に強く突き飛ばされた。 地面に倒れ、膝を尖った石にぶつける。 皮膚が破れ、血がすねを伝って流れた。 重症の再生不良性貧血で血が止まりにくくなっているせいで、傷は見る見る赤く染まっていった。 久美子は一度だけ傷を見ると、ぺっと唾を吐き、鼻で笑った。 「何をそんなにお嬢様ぶってるの?都会でしばらくいい暮らししたくらいで、自分がそんなに大事な人間だとでも思ってるわけ? ほら、裏庭の薪を割ってきなさい」 その夜、私は農具や段ボールが積まれた物置に閉じ込められた。 ベッドはなく、床には湿った古い毛布が1枚あるだけだった。 壁の隙間から冷たい風が吹き込み、肌を刺した。 隅にうずくまり、冷えきった指で膝の傷を押さえる。 それでも血は止まらず、毛布を少しずつ赤く染めていった。 そのとき、紗月が久留島家でどんなふうに暮らしていたかを思い出した。 6歳のころ。 紗月が抱いていたぬいぐるみを、ほんの少し長く見ていただけで、母に腕を引かれて壁際に立たされた。 そのまま、夜が明けるまで立たされた。 その後、紗月がピアノを習い始めると、1回4万円もする個人レッスンに通うようになった。 その一方で私は、翌朝の食事をもらうために、毎朝5時に起きてキッチンへ向かった。 シンクいっぱいにたまった食器を、全部洗うためだ。 ちゃんと言うことを聞いて、できるだけ身を低くしていれば。 いつか父と母も、私のことを見てくれる。 ずっと、そう思っていた。 けれど2人の目に映っていたのは、いつだって私の「不満」だけだった。 翌朝。 頭から冷たい水を浴びせられて目が覚めた。 顔を上げると、久美子がポリバケツを手に、険しい目で立っている。 「いつまで寝てるの?もう朝よ。死ぬまで寝てるつもり?」 どうにか起き上がると、視界が激しく揺れた。 高い熱で唇は乾いて裂け、額には細かな汗が浮かんでいる。 そのまま庭へ追い出され、外水栓の冷たい水で山ほどの洗濯物を手洗いさせられた。 水に手をさらしているうちに、指先はすぐ真っ赤になり、やがて関節の奥まで刺すような痛みが走った。 第5話 3日間、重い仕事を続け、ろくに食べられなかったせいで、体調は一気に悪化した。 4日目の午後。 庭で薪を運んでいる途中、前触れもなく足から力が抜け、そのまま倒れ込んだ。 鼻血が止めどなくあふれ、汚れた土の上にぽたぽたと落ちる。 勝治が近づいてきて、倒れている私の脇腹を靴先で蹴った。 「死んだふりしてないで、起きて働け!」 顔を上げ、かすかな声を絞り出す。 「病気なの……病院に、連れていって……」 久美子も寄ってきたが、私の顔を見るなり口を曲げた。 「病院?病院だってお金がかかるのよ。 向こうの金持ちからは、しっかり鍛えて少しくらい苦労させてくれって言われてるの。病人のふりなんかしても無駄だからね!」 2人は私を引きずるように物置へ戻すと、外から鍵をかけた。 暗闇の中、手探りでポケットから画面の割れた古いスマホを取り出す。 弱い光が、血まみれの手をぼんやり照らした。 連絡先を開き、母の番号を押す。 あの家に助けを求めるのは、これで最後。 生き延びるためじゃない。 あの人たちが、どこまで私に冷たくなれるのか、最後に知りたかっただけだ。 長い呼び出し音のあと、ようやく電話がつながった。 「もしもし?」 母の声には、少し苛立ちが混じっていた。 電話の向こうでは、紗月のピアノが流れている。 「……お母さん」 弱々しく呼ぶと、勝手に涙がこぼれた。 「痛いの……血が、たくさん出て……殴られるし、ご飯ももらえない……お母さん、お願い。迎えに来て……」 「もういい加減にして、朝葉!」 母が鋭い声で遮った。 「いつまでそんな芝居を続けるつもり?向こうへ行かせたのは、少しくらい苦労して考え方を改めてもらうためよ。そんな同情を引く真似をさせるためじゃないの。 紗月は今、コンクール前の大事な時期なの。余計な電話で気を散らさないで。 いつまでも甘えたり、人を困らせて思いどおりにしようとしたりするのをやめたら、迎えに行くか考えるわ」 通話が切れた。 スマホを握ったまま、短い電子音を聞いた。 口元に、自嘲するような笑みが浮かぶ。 考え方を改めさせる。 その言葉を理由に、あの人たちは私をここへ置き去りにした。 私にとっては、死ねと言われたのと同じだった。 目を閉じ、スマホを部屋の隅へ放った。 「……分かった。もう、病気のふりなんてしない」 暗い物置の中には、壁の隙間を抜ける風の音しかなかった。 熱は恐ろしいほど上がり、意識が少しずつ遠のいていく。 なのに、十何年も押し込めてきたつらい記憶だけが、死を前にした今になって、妙にはっきり浮かんできた。 10歳のとき。 学校のテストでクラス1位になった。 もらった表彰状を握りしめて家へ帰り、父に見せようとした。 けれど父は、ろくに目も通さず、そのままゴミ箱へ落とした。 「いくら勉強ができたって、お前はうちの本当の子じゃないだろ。久留島実業を継ぐわけでもないのに、何の役に立つ? そんな暇があるなら、紗月のピアノの練習にでも付き合ってやれ」 15歳のとき。 急性虫垂炎で、ベッドの上を転げ回るほど痛かった。 けれど母は、夜中に騒いで紗月の眠りを邪魔したと怒り、そのまま地下の物置へ私を閉じ込めた。 翌朝、家政婦が意識を失っている私を見つけ、ようやく病院へ連れていってくれた。 あのころは、本当の娘じゃないから紗月より大事にされないんだと思っていた。 死ぬ間際になって、やっと分かった。 血がつながっていても、偏った気持ちの前では何の意味もなかった。 鼻血は顔にこびりつき、もう乾き始めている。 呼吸はどんどん弱くなった。 息を吸うたびに喉が切れるように痛み、胸からひゅうひゅうと苦しい音が漏れた。 そのとき、物置のドアが激しい音を立てて開いた。 勝治が太い木の棒を手に入ってくる。 その後ろには久美子がいた。 私を叱りつけ、起こして夕飯を作らせるつもりだったらしい。 第6話 けれど、私の体の下に広がった血と、青黒くなった顔を見た瞬間、久美子もようやく様子がおかしいことに気づいた。 「か、勝治……この子、息……ほとんどしてないんじゃない?」 声が震えている。 勝治は一瞬固まり、それから近づいてくると、木の棒で私の腕をつついた。 「おい!死んだふりしてんじゃねえ!」 私は動かなかった。 目は半分開いたまま、瞳の焦点も合わなくなっている。 それでも、冷たく2人を見ていた。 勝治もようやく慌てた。 木の棒を放り出し、鼻元に手を近づけると、びくりとしてすぐに手を引っ込めた。 「くそっ!あの金持ち、こんな重病だなんて聞いてねえぞ!ここで死なれたらどうすんだよ。警察に来られたら、どう説明するんだ!」 久美子はその場にへたり込んだ。 「じゃ、じゃあどうするの?早く病院に連れていかないと!」 「病院なんか連れていけるか!金だってかかるし、こっちが殴ったせいだって言われたらどうする! 勝手に病気で死んだことにする。鍵をかけろ。誰にも言うな!」 2人は逃げるように物置を出ていった。 外から、鍵のかかる鈍い音がした。 暗闇の中で、完全に逃げ道がなくなった。 もう、どうにかしようとは思わなかった。 力を抜き、最後のときを静かに待った。 そのとき。 部屋の隅に放り投げたスマホが、突然明るくなった。 ひび割れた画面には、【お父さん】の文字が浮かんでいた。 残っている力を振り絞り、床を這うようにしてスマホまで近づく。 震える指で、どうにか通話ボタンを押した。 「朝葉、いつまで拗ねてるつもりだ?」 父の声は、いつもと変わらず冷たく、威圧的だった。 「お母さんから聞いたぞ。昼間も病気のふりをして電話してきたそうだな。そんなことして面白いのか? 田舎で不便なのは分かる。だが、あそこにいるのはお前の実の親だろ。文句を言える立場か?」 口を開いた。 けれど、声が出ない。 喉の奥は血の泡でいっぱいで、息をするたびにかすかな音が漏れるだけだった。 父は構わず続ける。 「明日は紗月のピアノリサイタルだ。本当なら一度迎えに行って、見せてやろうと思ってたんだ。紗月と自分がどれだけ違うか、少しは分かるだろうからな。 その態度なら、まだ向こうにいろ。しばらく反省しろ。俺がいいと言わない限り、あの2人だって勝手にお前を帰したりしない」 偉そうな口調を聞いているうちに、目尻から涙がこぼれ、顔の血と混ざって流れた。 これが、私の父親だった。 私を懲らしめるために用意した「実の両親」が、すぐ近くで私の死体をどうするか相談していることも知らない。 「……お父……さん……」 息だけで、どうにか呼ぶ。 「私……もう……死ぬ……」 電話の向こうが、一瞬静かになった。 けれど次の瞬間、父の声が荒くなる。 「親に向かって、よくそんな縁起でもないことが言えるな!もう、お前はどうしようもない!」 通話が切れた。 その電子音が、私がこの世界で最後に聞いた音だった。 手から力が抜ける。 スマホが床に落ち、画面の明かりも消えた。 同時に、体が突然軽くなった。 ずっと背負っていた重いものから解き放たれたように、痛みも寒さも消えていく。 ゆっくり目を開けた。 気づけば私は、物置の天井近くに浮かんでいた。 床には、骨ばかりに痩せ、顔を血で汚した遺体が横たわっている。 それが、私の体だった。 私は死んだ。 そのころ。 遠く離れた久留島邸では、母が翌日の紗月の衣装を整えていた。 そこへ、奥白駐在所から電話が入った。 「突然のお電話、失礼いたします。久留島隆成さんのご家族の方でしょうか。 奥白駐在所の者です。娘さんの朝葉さんですが、先ほど死亡が確認されました」