家族を捨てた私が、もう一度「お父さん」と呼ぶまで

GoodNovel new Completed

実の両親に引き取られてから、私、藤沢遥(ふじさわ はるか)は、家の中にいても、まるで空気のように扱われた。 私の代わりに娘として育てられた莉乃(りの)は、毎日兄に学校まで送り迎えしてもらい、帰れば母が玄関で待っている。 けれど彼らは、私のことを3度も置き去りにした。 最後には誘拐され、3年後に山奥の採掘場で警察に発見されたときには、私はもう生きていなかった。遺体の確認に来た実の母は、私の顔さえ見分けられなかった。 だから、もう一度人生をやり直すことになった私は、育ての父のそばにいようと決めた。 父は忙しくても、毎日決まった時刻に古い自転車で学校へ迎えに来てくれた。後ろに乗って田んぼの間を走り、夕風に吹かれていると、今度こそ置き去りにされずに済むと思えた。 ところが、今度の人生ではなぜか、莉乃が村の我が家に引き取られてきた。 莉乃がこの村で初めて学校へ行った日、抱きついて甘える彼女に、父はすっかりほだされてしまった。申し訳なさそうに私を振り返り、言った。 「遥、悪いが今日は1人で帰ってくれないか?莉乃はまだ道がわからないんだ」 私はうなずいて、「わかった」と答えた。 けれど、翌日も、その次の日も、迎えは来なかった。1か月経っても同じだった。 放課後、私はいつも校門の前で少し待ち、ほかの子たちが迎えに来た家族と帰っていくのを見送った。 結局、私は1人で鞄を背負い、田んぼの脇の道を歩いて帰る。 夕風は変わらず田んぼを吹き抜け、稲がさらさらと音を立てていた。 自転車の後ろに私がいなくても、誰も気にしていないようだった。

Chapters (1)

第1章

実の両親に引き取られてから、私、藤沢遥(ふじさわ はるか)は、家の中にいても、まるで空気のように扱われた。 私の代わりに娘として育てられた莉乃(りの)は、毎日兄に学校まで送り迎えしてもらい、帰れば母が玄関で待っている。 けれど彼らは、私のことを3度も置き去りにした。 最後には誘拐され、3年後に山奥の採掘場で警察に発見されたときには、私はもう生きていなかった。遺体の確認に来た実の母は、私の顔さえ見分けられなかった。 だから、もう一度人生をやり直すことになった私は、育ての父のそばにいようと決めた。 父は忙しくても、毎日決まった時刻に古い自転車で学校へ迎えに来てくれた。後ろに乗って田んぼの間を走り、夕風に吹かれていると、今度こそ置き去りにされずに済むと思えた。 ところが、今度の人生ではなぜか、莉乃が村の我が家に引き取られてきた。 莉乃がこの村で初めて学校へ行った日、抱きついて甘える彼女に、父はすっかりほだされてしまった。申し訳なさそうに私を振り返り、言った。 「遥、悪いが今日は1人で帰ってくれないか?莉乃はまだ道がわからないんだ」 私はうなずいて、「わかった」と答えた。 けれど、翌日も、その次の日も、迎えは来なかった。1か月経っても同じだった。 放課後、私はいつも校門の前で少し待ち、ほかの子たちが迎えに来た家族と帰っていくのを見送った。 結局、私は1人で鞄を背負い、田んぼの脇の道を歩いて帰る。 夕風は変わらず田んぼを吹き抜け、稲がさらさらと音を立てていた。 自転車の後ろに私がいなくても、誰も気にしていないようだった。 第1話 「今まで何してたんだ。飯は鍋に入ってるから、自分で温めて食べろ」 少し開いた居間の戸の向こうから、育ての父、藤沢正一(ふじさわ しょういち)の苛立った声がした。庭の木戸を押し開けようとして、私は手を止めた。 庭のブドウ棚の下には、古い籐椅子に座る一ノ瀬亮介(いちのせ りょうすけ)の姿もあった。 私の実の兄だ。 亮介は仕立てのよい濃いグレーのスーツを着て、手作りの革靴には埃ひとつついていない。苔むした小さな農家の庭や、鶏の羽が散らばる土の地面には、ひどく場違いな格好だった。 彼が今日ここへ来たのも、莉乃に会うためだ。 物音に顔を上げた亮介は、私の泥だらけのスニーカーを見て、すぐに眉をひそめた。 「遥、何時だと思ってるんだ」 カフスボタンをいじりながら、当然のように私を叱りつける。 「莉乃は慣れない暮らしで体調を崩して、薬を飲んでやっと眠ったところなんだぞ。わざと遅く帰ってきて騒ぎを起こせば、構ってもらえるとでも思ったのか?」 私は洗いざらして色の薄くなった通学鞄を背負ったまま、黙って立っていた。 町の学校から村までは、舗装されていない道が8キロも続く。1時間半歩いてきたせいで、かかとは靴擦れを起こし、血がにじんでいた。 それでも、何も言わなかった。 前の人生では、わざとじゃないと懸命に説明したこともあった。けれど、わかってもらおうとするほど、かえって彼らに疎まれるだけだった。 「足音は立てないから、起こしたりしないよ」 亮介の目を見て、淡々と答えた。素直に従うわけでも反抗するわけでもない態度が気に入らなかったのか、彼は鼻で笑った。 「口だけは達者だな。そもそも莉乃がこんな不便な田舎に来ることになったのも、お前のせいだろうが。自分は本当の娘だとわかって得したんだから、少しくらい我慢して、あの子に譲ってやれ」 私は答えず、台所へ向かった。 薄暗い台所では、コンロに置かれたアルミ鍋のふたの縁に、水滴がたまっていた。ふたを開けても、私のために取っておいてくれた温かい食事などない。 縁の欠けた染め付けの茶碗に、誰かが手をつけた残りのおかずが半分ほどと、冷えきったご飯がひと口分、残っているだけだった。おかずには、莉乃の嫌いな細切りのピーマンまで混じっていた。 私は箸を取り、温め直しもせず、少しずつ口へ運んだ。 第2話 胃がかすかに痛んだ。それでも、私はひと口ずつよく噛んで食べた。 山奥の採掘場で過ごした3年間には、カビの生えたサツマイモの皮を食べたことさえある。冷たいご飯くらい、何でもなかった。 最後のひと口を飲み込んだところで台所の木戸が開き、正一がホーローのマグカップを持って入ってきた。私の空の茶碗を見ると、日に焼けた顔に気まずそうな表情が浮かんだ。 「遥、こんなに遅くなるとは思わなかったんだ。冷めてなかったか?」 長年工事現場で働いてきた父の手は、あちこちがひび割れている。前は毎日、学校まで迎えに来てくれて、家に着くと真っ先に「腹減ってないか」と聞いてくれた。 「ううん。ちょうどよかった」 私は茶碗を持って流しへ行き、洗い始めた。冷たい水が、指の関節にしみる。 後ろで落ち着かなさそうに手をこすっていた正一が、不意にポケットから何かを取り出した。 「今日、莉乃の薬を買いに町へ行っただろ。途中の雑貨屋で見つけてな。かわいかったから、お前に買ってきたんだ」 ラインストーンのついた、リボン形の髪留めだった。安っぽいプラスチック製でも、薄暗い明かりの下できらきらと光っていた。 蛇口を閉め、手の水を振り払う。受け取ろうとするより先に、居間から足音が近づいてきた。 「お父さん、どこ?1人じゃ怖いよ」 ピンクのシルクの寝間着を着た莉乃が、裸足で台所の入り口に立っていた。小動物のように怯えきっていた。 正一はすぐに振り返り、慌てて髪留めを背中に隠した。 「起きたのか、莉乃。まだ具合が悪いのか?」 莉乃は答えず、彼が後ろへ回した手をじっと見た。 「何を持ってるの?きらきらしてたけど、私へのプレゼント?」 首をかしげ、甘えた声で尋ねる。正一は動きを止めて私を振り返った。その目は申し訳なさそうで、助けを求めてもいるようだった。 「ああ、これは……その……」 「前はね、お兄ちゃんが毎日プレゼントをくれたんだよ」 莉乃はうつむき、あっという間に目に涙を浮かべた。 「今はお父さんしかいないのに。莉乃のこと、好きじゃないの?」 正一は女の子に泣かれると弱い。焦って汗をかき、荒れた手を何度もズボンでぬぐっていたが、とうとう私に買ってきたはずの髪留めを、莉乃へ差し出した。 「そんなわけないだろ。莉乃に買ってきたんだよ」 取り繕うように笑って、機嫌を取る。 「田舎暮らしにはまだ慣れないだろうけど、これをつければ、町にいたころみたいにお姫様になれるぞ」 莉乃はすぐに笑顔になり、髪留めを受け取った。私をちらりと見る目が、得意げだった。 「ありがとう。やっぱりお父さんがいちばん優しいね」 正一が私に向き直り、声を落とした。 「遥、莉乃は家を離れたばかりで不安なんだ。わかってやってくれ。これはあの子にあげて、お前には明日また買ってくるから。な?」 私は布巾で手を拭き、洗った茶碗を食器棚へしまった。正一の目を見て、静かに答える。 「いいよ。もういらないから」 …… その夜、長い夢を見た。 村を吹き抜ける夕風も、自転車の荷台の揺れもない。あるのは果てのない暗闇と、息が詰まるほどの粉塵だけだった。 誘拐犯に右脚を折られた私は、生き延びるために湿った坑道を這い回った。動かない脚を引きずりながら、誰かが食べ残した腐りかけのご飯を口にした。 痛みで意識が薄れるたびに思い浮かぶのは、莉乃の手を引き、日の当たる道を歩く亮介の姿だった。 あの日、遊園地に置き去りにした私が、日の光も届かない場所で死んでいったことなど、二人は知りもしなかったのだろう。 第3話 目が覚めると、まだ夜明け前だった。枕は冷たく濡れていた。 いつものように着替え、色あせた学校指定の上着のファスナーを、いちばん上まで引き上げる。部屋を出ると、居間には大小10個以上の立派な箱が並んでいた。 昨日、亮介が持ってきた海外製のサプリメントや、高級なお菓子だ。 莉乃は食卓につき、そのうちの1つをゆっくりと開けていた。隣では正一が、具を多めにすくって味噌汁をよそっている。 「莉乃、この漬物も食べてみろ。父さんが漬けたんだ。町で売ってるやつにも負けないぞ」 皿を寄せられた莉乃は、色の濃い漬物を嫌そうに見て、眉をひそめた。 「私、朝はシリアルに牛乳って決めてるの。お兄ちゃんが持ってきてくれた箱に入ってるから、そっちを用意してくれない?」 正一はすぐに椀を置き、箱の山を探り始めた。 私は食卓から乾いて硬くなったパンを1つ取り、そのまま出ていこうとした。すると、莉乃が呼び止めた。 「遥、ナッツもあるよ。ママに、あなたにも少し分けてあげなさいって言われたの」 手のひらほどの小さな缶を、卓上の端へ押しやる。 「頭にいいらしいから、食べてみたら?高校にも入れなかったら困るでしょ」 私はその缶を見た。凝った包装に、外国語がびっしり書かれている。 けれど、実の母、一ノ瀬美和(いちのせ みわ)が、わざわざ私に分けるよう言いつけるはずはなかった。 莉乃のためには山ほど品物をそろえるのに、私のことは、せいぜい思い出したついでに口にしただけなのだろう。 ――余ったら捨てずに、あの子にやってちょうだい。冷遇しているなんて噂されたら厄介だから。 母なら、そんなふうに言いそう。 「いらない」 パンをポケットに入れて答えたが、莉乃は食い下がってきた。わざわざ立ち上がり、缶を手にして私の前まで来る。 「せっかくあげるって言ってるのに。こんな高級なもの、田舎にいたら一生食べられないよ」 そう言いながら、無理やり私の手に押しつけてこようとする。だが、私が受け取るより早く、莉乃はわざと手を離した。 缶が土間に転がり落ち、開いたふたから高価なナッツがこぼれて土まみれになった。 莉乃はとっさに口元を押さえ、ぽろぽろと涙をこぼす。 「いらないなら、そう言ってくれればいいのに。どうしてわざと落としたりするの?ママが買ってくれたものなのに。私があなたの居場所を取っちゃったから、まだ怒ってるの?」 音に驚いた正一が、箱を探っていた手を止めた。土間に散らばったナッツと泣きじゃくる莉乃を見て、みるみる顔を曇らせる。 「遥、何てことするんだ。莉乃がせっかく分けてくれようとしたんだぞ。いらないからって、食べ物を粗末にするな」 私は正一を見た。少しも疑う様子はなく、莉乃の言葉を完全に信じきっている。 「私が落としたんじゃないよ」 事実を伝えただけなのに、正一はさらに声を荒らげた。 「嘘までつくのか!莉乃に謝って、ちゃんと掃除してから学校へ行け」 私は謝らなかったし、ほうきを取りに行こうともしなかった。ただじっと、正一の顔を見つめ返した。 かつて肩車をして、祭りに連れていってくれた人。私が熱を出したとき、大雪の中を5キロも背負って走ってくれた人。 人生をやり直して生じたわずかな歯車の狂いが、この優しい父まで、まるで別人のように変えてしまったのだ。 「学校、遅れるから」 それだけ言って庭を出た。背後の居間からは、正一が莉乃を優しくなだめる声が聞こえてくる。 私はその瞬間、心の奥に残っていた最後の期待も手放した。 学校へ着くと、担任の高橋恵子(たかはし けいこ)に職員室へ呼び出された。 「遥さん、この前の学力テスト、また成績が上がっていたわよ。この調子なら、市内で1位は間違いないわね」 恵子は眼鏡を押し上げ、申込用紙を差し出した。 「数学のコンテストよ。企業が協賛していて、最優秀賞には賞金10万円が出るの。あなたなら狙えると思って」 第4話 「10万円」という文字を見つめながら、私は思わず用紙を握りしめた。 それだけあれば、遠く離れた南の町へ行く長距離バスのチケットが買える。向こうに着いてからの当面の生活費にもなるはずだ。 「ありがとうございます。頑張ります」 私は申込用紙を丁寧に折り、制服の内ポケットにしまった。 放課後のチャイムが鳴ると、生徒たちは一斉に校門へ向かって飛び出していく。迎えに来た親のもとへ笑顔で走っていく同級生たちを、私はいつもの古い木の下から見つめていた。 道路の向こうには、古い自転車を止めた正一がいる。 白いワンピース姿の莉乃が、蝶のように彼のもとへ駆け寄っていく。正一は目尻を下げ、自転車の荷台にわざわざきれいなタオルを敷いてから、莉乃を乗せてやった。 自転車はゆっくりと走り出し、私の目の前を通り過ぎていく。 夕風に吹かれながら、私はすっと目をそらし、鞄を背負い直した。ぬかるんだ田んぼのあぜ道へと、1歩ずつ足を踏み出す。 「遅いな……」 私はぽつりとつぶやいた。 「もっと早く、お金を貯めないと」 …… コンテストで最優秀賞を取り、賞金の10万円を受け取った。 それから数日後の朝、村に黒いベンツがやってきた。 でこぼこの農道で泥水を跳ね上げながら、藤沢家の古い木戸の前に止まる。重厚なドアが開き、7センチのヒールを履いた美和が降りてきた。 シルクのワンピースにカシミヤのショール。隙のないメイクも相まって、周囲のさびれた農村の風景から浮いていた。 この人が私の実の母だ。前の人生で、「どうして帰ってきたの。死んでくれればよかったのに」と私に言い放った人でもある。 「ママ!」 家から飛び出した莉乃が、その胸に飛び込んだ。 「莉乃、顔をよく見せて……なんだか少し痩せたんじゃない?」 美和は莉乃の頬をなで、あっという間に目に涙を浮かべた。 「こんなひどい環境に住まわせて、かわいそうに。今日は町へ行きましょう。新しいお洋服を買って、おいしいものをたくさん食べようね」 隣に立つ正一はもみ手をして、上司に叱られた部下のように縮こまっていた。 「奥さん、莉乃ちゃんはここでもすごくいい子にしてますよ。ご飯もしっかり食べてますし」 美和は正一の顔をまともに見ようともせず、そっけなく相槌を打った。そして、裏庭から汚れた水の入ったたらいを運んできた私を横目で捉える。 「遥、あなたも来なさい」 恵んでやるとでも言うような口ぶりだった。 「一ノ瀬家が実の娘を冷遇しているなどと、外聞の悪い噂を立てられたくないから」 正一もすぐに調子を合わせた。 「そうだな。遥、顔を洗っておいで。町でいろいろ見てくるといい」 私は断らなかった。逆らえば、また説教されるだけだとわかっていた。それに私も、町へ行きたかった。高速バスのターミナルで、行き先と時刻表を確かめるために。 町で一番大きな百貨店に入ると、美和は莉乃の手を引いてさっさと歩き出した。私は3歩ほど後ろを、誰にも気に留められないままついていく。 子ども服売り場の高級ブランド店へ入ると、店員が愛想よく迎えに来た。 「一ノ瀬様、いらっしゃいませ。こちらは新作でございます。お嬢様によくお似合いかと」 美和は並んだワンピースを指さした。 「好きなものを選んでいいわよ、莉乃」 莉乃は数万円もする服を品定めしていたが、ふと隅の花柄のワンピースを指さした。 「ママ、あれ、かわいいと思うんだけど」 店員が少し戸惑った。去年の型で、色も地味な服だった。 「そちらでしたら……こちらのお嬢様にお似合いかもしれませんね」 店員は私を見て、遠慮がちに勧めた。美和は不機嫌そうな顔をしたものの、手を振った。 「じゃあ、着せてみて」 私は試着室へ押しやられた。 着替えて外へ出ると、それまで服を選んでいた莉乃が、不意に黙り込んだ。 第5話 去年のデザインとはいえ、仕立てはよく、驚くほど私の体に合っていた。青白く沈んでいた顔色も、服のおかげで少しだけ明るく見える。 莉乃は唇を噛み、美和を振り返った。 「ママ、やっぱりそれ、私のほうが似合うと思う。遥は毎日お父さんの畑仕事を手伝ってるんでしょ?そんな服着てたら、すぐに泥だらけになっちゃうよ」 美和はためらうことなく私の前に立ち、値踏みするように冷たい視線を送った。 「脱ぎなさい」 相談ではなく、命令だった。 「あなたには地味すぎるわ。それに莉乃の言う通り、畑仕事の邪魔になるでしょ。自分の身の丈に合った服を選びなさい。何でも欲しがればいいってもんじゃないのよ」 手入れの行き届いた美和の顔を見つめる。その言葉は鈍い刃のように、私の心をじわじわと痛めつけた。 前の人生なら、悔しくて泣いていたかもしれない。私だって新しい服を着ていいはずだと、必死に訴えただろう。 けれど今は、ばかばかしいだけだった。 「わかった」 私は試着室へ戻り、未練もなくワンピースを脱いだ。洗いすぎて黄ばんだ、古いTシャツに着替える。 外へ出るころには、莉乃が鏡の前で、あのワンピースを体に当てていた。 いつの間にか正一も来ていて、入り口に立ち、莉乃へ愛想笑いを向けていた。 「莉乃は色が白いから、よく似合うな。お姫様みたいだ」 私に気づくと、正一は少し笑みを引っ込めた。 「ほら、莉乃にぴったりじゃないか。村は泥だらけなんだから、お前がそんな高い服を着たってどうせ汚れるだけだ。あとで汚れの目立たない丈夫な服を、お前にも2枚買ってやるからな」 私は父を見て、うなずいた。 「ありがとう、お父さん」 会計を待つ間に、トイレへ行くと言って、1人で百貨店を抜け出した。通りを2本渡ると、高速バスのターミナルがある。 私は窓口へ行った。 「すみません。南川市へ行くバスは、いちばん早くていつ乗れますか?」 「空席があるのは、明日の夜の便ですね」 係の女性がモニターを確認して答えた。 「それを1枚、お願いします」 チケット代を払ったあと、ポケットに残った賞金を、私は確かめるように握りしめた。自分の力で手に入れたこのお金が、あの家族との縁を完全に断ち切る唯一の希望になる。 百貨店へ戻っても、誰も私を捜してはいなかった。 「どこをほっつき歩いてたのよ」 美和がブランドのロゴが入った買い物袋をいくつも押しつけてきた。 「これ、持ちなさい。本当に気が利かない子ね」 私は素直に袋を受け取り、後ろをついて歩いた。仲むつまじく並ぶ3人の背中を見つめながら、息を吐く。 明日の夜には、もう取り繕わなくて済む。 …… 翌朝。いよいよ家を出るまで、あと半日ほどになった。 この日は学校で、校外の大会やコンクールで活躍した生徒を表彰する集会があった。数学コンテストで最優秀賞を取った私も、壇上に上がることになっていた。 出かける前、正一はわざわざ、きれいに洗った青いシャツに着替えた。ボタンを留めながら、人のよさそうな笑顔を私に向ける。 「遥、今日はステージで表彰されるんだな。約束通り、父さんもちゃんと見に行くからな。一番大きな拍手をしてやるぞ。大きなケーキも買って、ちゃんとお祝いしような」 嬉しそうに赤くなった顔を見て、私は珍しく、素直に返事をした。 「うん。待ってる」 この人との親子のつながりを、最後にもう一度だけ確かめたかったのかもしれない。 午前10時、講堂で表彰式が始まった。保護者で埋まった室内には、安い香水と汗の匂いがこもっていた。 最前列の端に座った私は、さびの浮いた入り口の鉄扉を、ずっと見つめていた。 第6話 とうとう、校長が私の名前を呼んだ。 「それでは、数学コンテストで最優秀賞を受賞した、藤沢遥さん。ステージへどうぞ!」 大きな拍手の中、私は立ち上がり、ゆっくりとステージへ向かった。客席を埋める人たちを見渡しても、あの青いシャツも、見慣れた父の姿もなかった。 両手で学校からの表彰状を受け取り、カメラに向かって、ただ形どおりに頭を下げる。 ステージから降りると、恵子が気遣わしげに尋ねた。 「お父さんは?いつもあんなにあなたを大切にしているのに、こんな大事な日に来られなかったの?」 私は表彰状に目を落とし、静かに答えた。 「もっと大事な用事があったんだと思います」 放課後になっても、正一は来なかった。 鞄を背負い、薄い表彰状を持って、1人で家へ帰った。木戸を開けると、家の中から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 正一だけでなく、美和と亮介の姿もあった。みんなが囲む食卓には、大きな3段のチョコレートケーキが置かれている。 真ん中に座る莉乃は、プラスチックの王冠をかぶり、切り分けられたケーキの皿を手に満面の笑みを浮かべていた。 「莉乃、よく頑張ったわね。注射されても全然泣かなかったものね」 美和が愛おしそうに莉乃の髪をなでる。そのとき初めて、莉乃の左手の人さし指に、白いガーゼが巻かれているのに気づいた。 正一がスープを持って台所から出てきた。入り口にいる私を見て、急に足を止め、顔をこわばらせた。 「遥、帰ったのか」 慌てて器を置き、エプロンで手を拭く。 「いや、違うんだ……今朝、莉乃がカッターで指を切ってしまってな。結構血が出たもんだから、慌てて診療所へ連れて行ったんだ。手当てをしてもらっていたら一ノ瀬さんたちも駆けつけてきて……お前の表彰式に、わざと行かなかったわけじゃない。ただ……」 父が言い終わる前に、莉乃が口を挟んだ。 「お父さん、また指が痛くなってきた」 正一はすぐに振り返った。 「どこかにぶつけたのか?ほら、父さんがふうふうしてやろう」 私はその場に立って、2人を見ていた。手にした表彰状の端が、指に食い込んでいた。それなのに、悲しみは少しも湧かなかった。 むしろ、ようやく何もかも諦めがついて、肩の荷が下りたようだった。 居間を通り、自分にあてがわれた小部屋へ戻る。誰にも気づかれないよう、古い丈夫なリュックを引っ張り出した。 着替えを2組、櫛を1本、日記を1冊。入れたのは、それだけだった。 表彰状を、机のガラス板の下にまっすぐ挟み、その横に賞金から1万円を置いた。正一が学用品に使ってくれた分として、自分で計算したお金だ。 支度を終えるころには、すっかり日が暮れていた。居間ではまだ笑い声が続いている。 「莉乃、これからやってみたいことを話してごらん」 亮介の優しい声が聞こえた。 私はリュックを背負い、裏庭へ通じる腐りかけた木戸をそっと開けた。ひんやりした夜風が、土と草の匂いを運んでくる。 振り返らず、音も立てず、白い月明かりを頼りに、バスの乗り場へ続く道を歩き出した。 いつまでも自分へ向けられると信じていた愛情も、眠れない夜に、強く抱きしめてほしいと願った気持ちも、今夜、自分の手で終わらせる。 誰もいない夜道で、私はつぶやいた。 「今度は、私のほうからあなたたちを捨ててやる」