第1章
秋の連休は、私――高梨彩香(たかなし あやか)が借りている部屋で、みんなで食事をすることになった。
幼なじみの藤原圭介(ふじわら けいすけ)、成田嘉人(なりた よしと)、小野翔平(おの しょうへい)の3人が買ってきたのは、飲み物とお菓子だけ。神谷美羽(かみや みう)は、料理ができないと言った。
12品作るため、私は朝6時から午後までずっと台所に立ちっぱなしだった。
ようやく料理を全部テーブルに並べ終えたところで、美羽のスマホが鳴った。電話をかけてきたのは、美羽のルームメイトの吉川真由(よしかわ まゆ)だった。
「真由、連休なのに行くところがないんだって。ここに呼んでもいい?」
私は、5人座ればいっぱいになる小さなダイニングテーブルを見た。
けれど、私が何か言うより先に、嘉人が私の椅子を引いた。
「会社、何かあるかもって言ってたよな?だったらちょうどいいじゃん。先に行ってきたら?」
翔平も笑って口を挟んだ。
「どうせ毎日、自分で作ったもの食ってるんだし、今日くらい別にいいだろ」
美羽は慌てて手を振った。
「やっぱりいいよ。真由には自分で何か頼んでもらうから」
すると、3人はすぐに口をそろえた。
「もう下まで来てるんだろ?今さら追い返すわけにもいかないだろ」
付き合っている圭介が、適当に料理を少し取り分けて、私に差し出した。
「ほら、お前の分。夜、腹減ったら温めて食えよ。
そんな顔すんなって。傍から見たら、俺たちみんなでお前をいじめてるみたいだろ」
自分で買ったテーブルを囲み、私が新しくそろえた食器で食事をしている4人を見て、ようやく分かった。
美羽のルームメイトを帰すくらいなら、私に席を譲らせればいい――みんな、本気でそう思っているらしい。
私は圭介の鍵束に手を伸ばし、うちの合鍵だけを外した。
「今日はもう帰って」
ここは私の家だ。
出ていくべきなのは、私じゃない。
第1話
圭介の顔から、笑みがすっと消えた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味。今日はもうお開きにする」
嘉人が眉をひそめた。
「真由、もう下まで来てるんだろ?今さら帰ってもらうなんて、美羽に恥かかせる気かよ」
「だったら、場所を変えればいいでしょ」
「料理だってもう全部できてるのに、今さら場所変えるのかよ」
すると、今度は翔平がテーブルの料理を指さしながら口を挟んだ。
「それに、みんな一日かけて準備したんだぞ。せっかく集まれたのに、一人増えたくらいでそんなに機嫌悪くすることないだろ」
一日かけて準備したって?
嘉人が持ってきたのは、たったのコーラ2本。翔平に至っては、ポテトチップスを1袋持ってきただけだった。
圭介はグラスを6個洗ったものの、そのうち1個は割ってしまった。
美羽なんて、来てからずっとソファに座って写真ばかり撮っていて、ナプキンがどこにあるかまで私に聞いてきた。
私はこれ以上何か言う気にもなれず、スマホを取り出した。
「下の店、今ならまだ個室取れるよ。
料理は私が詰めるから、そのまま持ってけば?それなら真由も帰らなくて済むでしょ」
圭介が、スマホを持つ私の手を押さえた。
「もういいって。そこまでしなくていいだろ。
俺たちが美羽のこと気にかけてるのが、そんなに気に入らないのか?真由だって初めて来るんだし、今日くらいいいだろ」
そのとき、インターホンが鳴った。
美羽は慌てて玄関へ走っていった。
ドアを開けると、ケーキの箱を抱えた真由が入ってきた。私を見るなり、一瞬固まった。
「え?今日は残業で、晩ごはんには戻らないんじゃなかったの?」
その一言で、部屋の中がしんと静まった。
私は圭介を見た。圭介はさっと目をそらし、嘉人はうつむいたままペットボトルをいじった。翔平も、聞こえなかったふりをした。
その瞬間、全部わかった。
真由は急に呼ばれたんじゃなかった。最初から来ることになっていた。
みんな知っていたのに、私にだけは何も言わなかった。
今日の食事に、最初から私の席なんてなかった。
美羽の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「私、勘違いしてたみたい。圭介から、彩香は残業になるかもって聞いてたから……」
「言い訳しなくていいよ」
私はキッチンから空の容器を出し、料理を詰め始めた。
「最初からそう決めてたんでしょ?だったら、そのままでいいよ」
料理を詰めていると、圭介が苛立った声を上げた。
「もういいだろ。
先に言ったら、お前また気にするだろ。だから黙ってただけだ」
最後の料理まで詰め終え、ふたを閉めた。
「じゃあ、もう私に気を遣わなくていいよ。
これ持って、もう出てって」
さすがにそこまで言われるとは思っていなかったのか、みんな一瞬黙り込んだ。
嘉人が険しい顔で何か言いかけると、圭介が「もういい」と止めた。
圭介は容器をまとめて持ち上げ、鼻で笑った。
「分かったよ。出てけばいいんだろ。
あとで後悔して、泣きついてきても知らないからな」
3人は美羽と真由をかばうようにして、そのまま部屋を出ていった。
ドアが閉まる直前、美羽は目を赤くしたまま、こっちを振り返った。まるで自分が追い出されたみたいな顔だった。
30分後、美羽のインスタに新しい投稿が上がった。
圭介の家のローテーブルを囲んで、4人が私の作った料理を食べている写真だった。真由だけは写っていなかった。
添えられていたのは、たった一文。
【よかった。私にも、居場所をくれる人がいる】
圭介はその投稿に、赤いハートの絵文字だけをコメントしていた。
私はいいねもしなかった。
午前1時になって、ようやく圭介からメッセージが来た。
【鍋と食器はこっち置いとく】
【明日来て洗っとけ。あと、美羽にしじみ汁でも作ってやれよ】
第2話
翌朝7時、玄関を叩く音で目が覚めた。
まだ眠気の残るままドアスコープをのぞくと、外に嘉人が立っていた。足元には大きなプラスチックケースが2つ置かれ、昨夜持っていった鍋や食器が汚れたまま詰め込まれていた。
私はドアを開けたものの、嘉人を中へ通す気にはなれなかった。
嘉人はそんな私を気にする様子もなく、大きなあくびをした。
「起きてたならちょうどいい。圭介が、今日は予定ないって言ってたし、これ洗っといて。夜、屋上でバーベキューやるから、また使うんだ」
ケースの中を見ると、皿には油汚れがべったり残っていた。
「使った人が洗えばいいでしょ」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
嘉人は面倒くさそうに息を吐いた。
「昨日、美羽がずっと泣いてて、こっちは夜中までなだめてたんだぞ。目が腫れるほど泣いてたのに、お前は何事もなかったみたいに寝てたんだろ?」
「それ、私のせいってこと?」
「そうだろ。お前があんな追い出し方したんだから」
思わず笑いそうになった。
昨日、私の家で私が作った料理を食べながら、私には席を空けろと言ってきたのは嘉人たちだ。
それが今では、私が美羽を傷つけたことになっていた。
嘉人はケースを玄関脇へ押しやった。
「とにかく、ここに置いとくから。俺、もう行くわ」
「どこ行くの?」
「美羽とバーベキューの買い出し」
嘉人は当然のように答えた。
「あいつ、肉の選び方も分かんないし。一人で行かせたら、変なの買ってきそうだから」
私はケースを嘉人の足元へ押し戻した。
「じゃあ、これも持ってって。ついでに美羽に洗ってもらえばいいでしょ」
嘉人は露骨に顔をしかめた。
「彩香、もういい加減にしろよ。こんなことで俺たちに突っかかったってしょうがないだろ。
20年以上も一緒にいるんだ。お前がどんなやつかくらい、みんな分かってる。今は散々言ってても、2、3日したらどうせいつも通りだろ」
私は嘉人の顔を見た。
「だから、私になら何しても平気だって思ってるんだ?」
嘉人が何か言いかけたところで、私はドアを閉めた。
その10分後、圭介から電話がかかってきた。
「お前、どこまで意地張れば気が済むんだよ。
嘉人、朝からわざわざ持ってったのに、家にも上げなかったんだって?そこまでしなくてもいいだろ」
「わざわざって何?持ってきたのは、あなたたちが昨日使ったままの食器でしょ」
圭介は一瞬、言葉に詰まった。
「皿くらい洗っとけばいいだろ。そんなに目くじら立てることか?
それより、バーベキューコンロとレジャーシート、どこしまってる?あとで翔平が取りに行くから」
私は物置代わりにしている部屋へ向かった。中には、キャンプ用品一式がしまってあった。
テントもバーベキューコンロも、全部私が買ったものだ。4人分の折りたたみチェアも、セールのときに私がまとめて買ってきた。
先月、秋の連休にキャンプへ行こうと誘ったとき、3人とも断った。
圭介は休日出勤になると言った。嘉人は休みくらい寝て過ごしたいと言った。翔平に至っては、キャンプなんて金を払って蚊に刺されに行くようなものだと言い切った。
それなのに、美羽がバーベキューをしたいと言い出した途端、3人ともあっさり予定を合わせていた。
「貸さない」
「は?」
「私のものだし、貸すつもりはない」
「どうせ使ってないんだろ?今夜だけでいいって。美羽も楽しみにしてるんだし」
「だったら、自分たちで用意すれば?」
圭介の声がだんだん険しくなった。
「彩香、いい加減にしろよ。
昨日だって、一回飯食えなかっただけだろ?いつまで怒ってんだよ。こっちだって、そこまで責められるようなことした覚えないぞ。
美羽はこっちに頼れる家族もいないんだ。俺たちが少しくらい気にかけてやったっていいだろ」
その言葉は、もう何度も聞かされていた。
美羽は暗いところが苦手で、圭介はいつも家まで送っていた。胃が弱い美羽のために、嘉人は食べられないものを全部覚えていたし、仕事で嫌なことがあったときは、翔平が2時間かけてでも会いに行っていた。
それなのに、私が高熱を出したとき、3人が送ってきたのは2000円分のフードデリバリーのギフトカードだけだった。
私なら一人でも大丈夫だし、薬を飲んで寝ていれば治る。そう言われただけだった。
私だって、最初から一人で平気だったわけじゃない。
ただ、私のことになると、3人にはいつも私より先に気にかける相手がいた。
私は電話を切ると、物置にしまってあったキャンプ用品を次々と写真に撮り、フリマアプリに出品した。
30分もしないうちに、バーベキューコンロは同じマンションの住人に売れた。テントやランタン、折りたたみチェアにも次々と問い合わせが来た。
昼ごろ翔平が来たときには、物置の半分がもう空いていた。
玄関先に立った翔平は、信じられないという顔で私を見た。
「知らないやつに売るくらいなら、なんで俺たちには貸さないんだよ?」
「貸さないって言ったでしょ」
「だから、なんで?」
私は最後の段ボールにガムテープを貼った。
「知らない人は、ちゃんとお金を払ってくれるから。
翔平たちは払わないでしょ」
そのとき、スマホに通知が届いた。
大家さんからのメッセージだった。
【来月末が契約更新の時期ですが、予定どおり2年間の更新でよろしいでしょうか?】
この部屋を選んだのは、圭介の会社に近かったからだ。
圭介がいつかここへ越してくる。そのつもりで、私は毎日1時間半かけて通勤する生活を3年も続けてきた。
私は一言だけ返した。
【今回は更新しません】
第3話
大家さんから、すぐに電話がかかってきた。
「急にどうされたんですか?この前は更新の書類まで確認されてましたよね」
「仕事の都合が変わったんです」
「そうなんですね。でも、この前彼氏さんといらしたとき、連休明けから一緒に住むっておっしゃってましたよね?」
私は少し黙ってから答えた。
「もう別れるので」
電話を切ると、そのまま荷物の整理を始めた。
クローゼットの半分は圭介の服で埋まっていた。洗面所にはカミソリ、靴箱にはスニーカー。部屋の一角には、ゲーム機や周辺機器まで置きっぱなしになっていた。
圭介はいつも、まだ同棲してるわけじゃないと言っていた。
けれど気づけば、私の部屋には圭介の物が当たり前のように増えていた。
なのに私はずっと、圭介の生活の外にいた。
午後、美羽から一枚の写真が送られてきた。
写っていたのは、きれいに片づけられた寝室だった。ベッドには圭介と一緒に選んだライトグレーのシーツが敷かれ、机のそばには、私が圭介のために買ったフロアランプまで置かれていた。
【彩香って、ほんとセンスいいよね。
部屋が雨漏りしてるって話したら、圭介がしばらくこっちにいればって。彩香も別に気にしないよね?】
写真の中のフロアランプに目が止まった。圭介が新しい部屋で使うために、私が選んで買ったものだ。
連休明けに引っ越して、落ち着いたら二人で両家に挨拶に行こう。圭介とは、そう話していた。
なのに、その部屋で先に暮らし始めたのは美羽だった。
美羽には返事をせず、そのまま圭介に電話をかけた。
電話の向こうはかなり騒がしかった。家具を組み立てているらしく、工具の音に何人かの男の声が混じっていた。
「用があるなら早く言ってくれ。今、手が離せないんだ」
「なんで美羽が、あの部屋にいるの?」
「あいつの部屋、雨漏りしてるんだよ。大家に連絡してもすぐには直らないらしいし、行くとこないっていうから、しばらく泊めるだけ」
「結婚したら、あそこに二人で住むって話してたよね?」
圭介は面倒そうに息を吐いた。
「数日泊めるだけだろ。まだ結婚もしてないのに、いちいち自分の家みたいに言うなよ」
電話の向こうで翔平が笑った。
「そうそう。まだ結婚もしてないのに、今からそこまで気にするのかよ」
そこへ嘉人の声も聞こえてきた。
「彩香は自分の部屋があるだろ。美羽は今、本当に行くとこないんだぞ。今はそっちを何とかするのが先だろ」
スマホを握ったまま、一年前にあの部屋を見に行った日のことを思い出した。
圭介と寝室の広さを測りながら、ベッドの両側にランプを一つずつ置こうと話した。
一つは圭介がゲームをするときに、もう一つは私が本を読むときに使うためだった。
そのうちの一つが、さっきの写真では美羽のベッドのそばに置かれていた。
「美羽、いつまでいるの?」
「部屋が直るまで」
「一週間?それとも一か月?」
圭介の声が少し荒くなった。
「そこまで細かく聞く必要あるか?
俺が美羽に何かすると思ってんのか?そこまで疑われたら、結婚したってうまくいかないだろ」
いつもそうだった。私が何か言えば、気にしすぎだと言われて、最後には私のほうが悪いことになっていた。
「分かった。
じゃあ、結婚はやめよう」
圭介は一瞬黙ったあと、呆れたように笑った。
「またそれかよ。
昨日はみんな追い出して、今日は結婚やめるって?いい加減にしろよ。
落ち着いたらまた連絡してこい。今、相手してる暇ないから」
圭介はそう言って、先に電話を切った。
今回も、そのうち私から折れると思っているんだろう。昔から、先に折れるのはいつも私だった。
圭介が記念日を忘れても、忙しかったんだと自分に言い聞かせた。嘉人が私の秘密をネタにして美羽を笑わせたときも、冗談だと笑って流した。翔平が私の誕生日に美羽に付き添ってコンサートへ行ったときでさえ、帰ってきた二人に夜食まで用意した。
3人は、私が傷つかないと思っていたわけじゃない。傷ついても、どうせ離れないと思っていただけだ。
そのとき、スマホがまた震えた。今度は会社の人事から、異動の件で連絡が来ていた。
半年前、会社から南ヶ丘の新規プロジェクトへの異動を打診されていた。今より一つ上のポジションで、給与もかなり上がる話だった。
それでも私は断った。近いうちに両家へ挨拶に行くことになっていて、遠くへ異動すれば結婚の話もまた先延ばしになると、圭介に言われたからだ。
私は人事から届いたメッセージを開いた。
【以前お話しした南ヶ丘の件ですが、まだポジションに空きがあります。ご希望は変わっていませんか?】
もう迷わなかった。
【お願いします】
続けて確認した。
【最短だと、いつから勤務できますか?】
すぐに返事が来た。
【連休明けから可能です】
連休明けの切符を取ると、本棚に飾ってあった二人の写真を一枚ずつ外していった。
その途中、グループチャットに通知が来た。
美羽が載せたのは、テーブルいっぱいに料理が並んだ写真だった。圭介、嘉人、翔平の3人がグラスを手に、楽しそうに笑っていた。
【3人がいてくれて、本当によかった。私にもちゃんと居場所があるんだって思えた】
その直後、圭介がグループチャットで私をメンションしてきた。
【そろそろ機嫌直せよ】
【明日の夜、みんなでそっち行くから。飯でも食いながら話そう】
そのあと、もう一通届いた。
【あと、美羽が鮭の南蛮漬け食いたいって。材料、先に買っといてくれ】
私はそのまま画面を閉じた。
ここを出るまで、あと3日。
第4話
出発する前、部屋の中を片づけた。
自分の物は持っていく荷物にまとめ、圭介の物は箱に詰めた。嘉人と翔平がここ数年置きっぱなしにしていた物も、まとめて玄関の外へ出した。
嘉人のスニーカーに翔平のゲーム機。それから、クローゼットの半分を占めていた圭介の服も全部。
しばらくすると管理会社から電話がかかってきて、廊下に出してある荷物は処分する物なのかと聞かれた。
「ゴミではありません。今日中に本人たちが取りに来るので、それまで一時的に預かっていただくことはできますか?」
管理会社から連絡がいったらしく、ほどなくして圭介から電話がかかってきた。
「管理会社から連絡きたんだけど。俺の服、預けたってどういうこと?」
「捨ててないよ。ちゃんと箱にまとめてある」
「なんでそんなことすんだよ。今夜そっち行くって言っただろ。そのまま置いとけばよかったじゃん」
クローゼットから圭介の物がなくなると、ずいぶんすっきりした。
あれだけこの部屋に物を置いていたのに、まとめてみれば箱数個に収まった。
あんなに生活に入り込んでいた圭介も、片づけてしまえばこれだけだった。
「今夜はいないよ」
けれど、圭介は気にも留めなかった。
「また仕事?じゃあ飯だけ作っといてよ。帰ったらこっちで温めるから」
そのあと、嘉人がグループチャットに料理のリクエストを送ってきた。
【鮭の南蛮漬け、手羽先の甘辛煮、えびのバター醤油炒め】
【美羽、この2日くらい胃の調子悪いから、辛いのはやめといて】
続いて、翔平がグループチャットに書き込んだ。
【食材代、2000円送っといた。足りなかったらあとで出す】
ほぼ同時に、PayPayから2000円の送金通知も届いた。
その直後、圭介が笑い転げるスタンプを送ってきた。
【2000円って。少なすぎだろ】
圭介と嘉人は、そのまま翔平の2000円をネタにして盛り上がっていた。
けれど、私が何を食べたいか聞く人はいなかった。今夜はいないと言ったのに、どうしてなのか聞く人もいなかった。
2000円には手をつけず、そのままグループチャットを抜けた。
すると十数秒もしないうちに、圭介から個別にメッセージが届いた。
【いちいち抜けるとか、子どもかよ】
【誰かがまた招待してくれるとでも思ってんの?】
私は返事をせず、圭介からの着信を拒否する設定にした。
午後2時、不動産会社の担当者が、結婚したばかりの若い夫婦を連れて内見に来た。
女性はキッチンを見るなり、ぱっと顔を明るくした。
「わあ、キッチン広い。ここなら料理するの楽しそう」
すると夫が笑った。
「じゃあ、洗い物は俺の担当な。作ってもらって、片づけまで任せるのはさすがに悪いし」
女性は「ありがとう、じゃあお願いね」と笑った。
何でもない、夫婦のやり取りだった。それなのに、私はしばらくその場を動けなかった。
あの二人を見て、料理を作る大変さを分かってくれる人も、相手のしてくれることを当たり前だと思わない人もいるのだと、初めて気づいた。
内見が終わると、退去の手続きを済ませた。そのあと、引っ越し業者が荷物を運び出していると、大きな箱を抱えたスタッフの一人がふと聞いてきた。
「彼氏さん、今日は来ないんですか?」
「もう別れました」
「そうだったんですか……」
スタッフは少し意外そうな顔をしたあと、荷物の積まれたトラックを見た。
「でも、これだけあると一人じゃ大変ですよね。こういうときくらい、手伝ってくれてもよさそうですけど」
私は何も返さなかった。
部屋を出る前、最後に一度だけ玄関を振り返った。
圭介は、結婚してからもこの部屋は残して、いつでも帰ってこられるようにしようと言っていた。嘉人は、仕事がなくなったらここに飯を食いに来ると言っていた。翔平は、いつかみんなに子どもができても、近所に住んで今までみたいに集まろうと言っていた。
3人とも、これから先も今まで通り、みんなで一緒にいるつもりだったんだろう。
その中から私だけがいなくなるなんて、考えたこともなかったはずだ。
駅へ向かう途中、見覚えのない番号から電話がかかってきた。
出てみると、美羽だった。
「彩香、私と圭介、本当に何もないから。勘違いしないでね。やっぱり私、今夜出ていくね。私のせいで二人がこんなふうになるのも嫌だし……」
そう言いながらも、美羽は私が引き止めるのを待っているようだった。
「じゃあ、今夜出ていって」
美羽は少し黙った。
「でも、まだ部屋直ってなくて……」
「それ、私に言われても困る。
ホテル取るとか、管理会社に相談するとか、圭介たちに頼むとか、いくらでもあるでしょ。もう大人なんだし、そのくらい自分で考えてよ」
すると、電話の向こうから圭介の声がした。
「彩香、そんな言い方しなくてもいいだろ。美羽だって出ていくって言ってるんだから、もういいだろ。これ以上どうしてほしいんだよ」
私はそのまま電話を切り、その番号も着信拒否にした。
電車の発車を待っていると、またスマホが鳴った。
嘉人からだった。
【鮭、もう買った?】
続けて翔平からも来た。
【飲み物もお願い】
最後は圭介だった。
【7時までには戻ってこい。
お前が帰ってくるまで待ってる。それでいいだろ?】
時間だけ確認して、3人からの通知をミュートにした。
電車が発車してしばらくすると、スマートロックのアプリから通知が届いた。
【暗証番号の入力に失敗しました】
そのすぐあと、今度は玄関カメラのアプリから通知が来た。
画面を開くと、圭介が玄関の前に立っていた。手に提げたスーパーの袋からは、鮭のパックがのぞいていた。嘉人と翔平は飲み物を抱え、その後ろには美羽もいた。
4人は玄関の前に立ったまま、まだ私が帰ってくるのを待っているようだった。
その直後、圭介がインターホンを鳴らした。