第1章
結婚式の日。犬猿の仲だった男がアクセルを限界まで踏み込み、私の乗る車へと突っ込んできた。
私、盛岡真夏(もりおか まなつ)を手に入れられないのなら、いっそ道連れにしてしまおうと考えたのだろう。
結果として彼は重傷を負い、私は過去の記憶を失った。
血まみれで折れた足を引きずりながらも、彼は狂喜に満ちた顔で私を抱き締め、「君は俺の恋人だ」と耳元で囁いたのだ。
結婚してからの5年間、森上光貴(もりがみ こうき)は私を宝物のように大切に愛し、守ってくれた。
けれど結局、彼も飽きてしまったらしい。
いつしか友人の集まりには、ひとりの若い女が顔を出すようになった。容姿も性格も、かつての私に酷似した女だ。
彼女はねっとりとした笑みを浮かべながら、自分にあって私にないものを誇示したがった。
「私、光貴さんと昔お付き合いしてたの。
光貴さんったら、真夏さんの結婚指輪をこっそり持ち出して私にプレゼントしてくれたのよ。それにね……」
彼女は挑発するように、当てつけがましく笑ってみせた。
「私、お腹に赤ちゃんがいるの。もう4か月よ。
じゃあ真夏さんの負けね。罰として、これからの半年間、光貴さんは私のもの。子供が無事に生まれるまで、ずっとそばにいるって約束してくれたんだから」
その場にいた全員が、息を呑んで静まり返った。
ただ光貴ひとりだけが、底知れぬ昏い瞳で私と彼女を交互に見つめている。
しばらくの沈黙ののち、ようやく彼が口を開きかけたが、私はその弁明を聞く気になれなかった。
「いいわよ、彼なら譲ってあげる」
光貴の顔色がさっと青ざめた。
彼はまだ気づいていない。ずっと前に、私の記憶が戻っていることを。
彼と出会うよりずっと前、私が心の底から愛した人がいた。
名前は今里朔弥(いまさと さくや)。
呆れるほど整った美貌を持ち、その本性は底知れず狂気に満ちていて、やられたことは何倍にもして返す執念深い男だった。
そして何を隠そう、私も彼とまったく同じ性分なのだ。
光貴、あなたはもう終わりだ。
第1話
「真夏、聞いてくれ。彼女には余計な口出しをするなと釘を刺しておいたんだ。それなのに、どうしても……」
光貴が身を屈め、すがるように私の手を取ろうとした。
私は冷たく足を上げ、爪先で彼の肩を無造作に押しのけた。
そのまま、強すぎず弱すぎない絶妙な力加減で、彼をあの生意気な若い女の方へと突き飛ばす。
渋川雫(しぶかわ しずく)はすかさず彼の腕にすがりつき、顎をしゃくって勝ち誇ったように笑った。
「何をそんなに緊張しているの?あれだけ『彼女の前で騒ぎを起こすな』って口を酸っぱくして言ってたから、どれほどの強敵かと思えば」
彼女は小首を傾げ、私の全身をなめ回すように眺めると、あからさまに嘲りの笑みを浮かべた。
「ほら、見ての通りじゃない?拍子抜けするくらい扱いやすい女。ここまでコケにされても、文句のひとつすら言い返せないなんて、情けないったらありゃしない。
さあ、行きましょ。パパ、一緒に帰って、私に栄養たっぷりの食事を作ってよね」
けれど光貴は、その場から一歩も動こうとしなかった。
ただ昏い瞳を瞬きもせず、じっと私に注いでいる。
私のあまりに素っ気ない態度が気に入らなかったのだろうか。それとも、私の表情に少しでも嫉妬や悲しみの色を見出したかったのだろうか。
私はゆっくりと指を3本立て、口元だけに薄い笑みを浮かべた。
「誰が行っていいと許可したの?まだゲームは終わっていないわよ。
まず1つ目。私は戸籍上のれっきとした妻よ。日陰の愛人なんかじゃないわ」
雫の足がピタリと止まり、その顔に張り付いていた笑みが凍りついた。
「次に。実を言うと、私の結婚指輪は星の数ほどあるの。彼ったら、私がショーケースで少しでも目を留めた指輪は全部買い占めて、日替わりでつけさせてくれていたから。
あなたが盗んだそれは、その中でも私が一番気に入らなかった、いちばん安いものってわけ」
彼女の顔から一切の表情が削げ落ち、瞳の奥に剣呑な殺気が宿った。
光貴の友人たちが慌てふためき、取りなそうと口を挟む。
「真夏さん、もうそのくらいにしておいて!雫は本気でキレたら何をしでかすか分からないって、この界隈じゃ有名なヤバい奴なんですから!」
私は優雅に薄く微笑み、彼女の膨らみかけたお腹へと冷たい視線を落とした。
「最後に。光貴はね、陣痛を疑似体験したことがあるの。
『こんなに痛いなんて、君には絶対に苦しい思いをさせたくない』って涙ぐんでいたわ。
だからこの先は子供を作らないか、養子を迎えるつもりだって明言していたのよ。
でも今になって思えば……もしかして最初から、誰か都合のいい女に代理母として産ませる腹積もりだったのかしらね?」
雫の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
私は立てていた指を下ろし、彼女に向かってふわりと笑いかけた。
「ふふ……あなたの完敗よ」
場は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
しばらくして、ようやく我に返った周囲の人間たちが、慌ただしくその場を取り繕い始める。
「ははっ!真夏さん、やっぱり光貴さんのこと、なんだかんだ諦めきれないんだな。こうしてちゃんと正妻の座を主張しに来たわけだし!」
「まあまあ、所詮はただの遊びなんだから、お互い本気にならないで。真夏さんも雫ちゃんも、もうその辺で矛を収めて……」
光貴はあからさまにほっとしたような息を吐いた。
すぐさま雫の手首を振り払い、安堵の笑みを浮かべて私の方へと歩み寄ってくる。
けれど私は静かに首を振り、微笑んだまま雫から視線を外さなかった。
「光貴は、あなたに譲ってあげる。でもその代償として、あなたのそのお腹の子供を置いていきなさい」
「あんた、本気で死にたいの!?私が命がけで産む子なのよ。母親はこの私ひとりに決まって……」
私は退屈そうに頬杖をついて微笑を深め、彼女の金切り声をあっさりと遮った。
「今すぐに、と言ったのよ」
私は一本の鋭い果物ナイフを、テーブルの上でそっと雫の方へ滑らせた。
刃の表面に映り込んでいたのは、信じられないという驚愕と怒りで歪んだ、彼女の凶暴な素顔だった。
第2話
その瞬間、雫の理性が完全に吹き飛んだ。
彼女は手近にあった酒瓶をわし掴みにすると、テーブルの角に力任せに叩きつける。鋭く割れたガラスの首部分を握りしめたまま、獣のように私めがけて突進してきた。
「あんた、本当にぶっ殺してやるーッ!」
光貴と彼の友人たちが血相を変え、慌てて止めに入ろうとする。
けれど、私の動きの方がずっと速かった。
凶器の瓶が振り下ろされるほんの一瞬前、果物ナイフの切っ先はすでに彼女の腹部にぴたりと突きつけられていたのだ。
薄手のニットワンピース越しに、腹部のぬくもりと、わずかな膨らみが伝わってくる。
雫の動きが、嘘のように硬直した。
冷や汗が頬を伝い落ち、凶器を握る手が小刻みに震えている。
私は恐怖に引きつるその顔をじっくりと鑑賞しながら、思わず声を上げて笑いそうになった。
本気でキレたら何をするか分からない、ね。
なるほど、この雫という女は、確かに昔の荒々しかった私によく似ている。
けれど、所詮は安い模造品でしかない。
この数年間、私は光貴のそばで大人しく爪を隠しすぎたようだ。おかげで彼は、私が本性を現せばどれほど狂気を孕んだ女なのか、すっかり忘れてしまったらしい。
「真夏!」
光貴が慌てふためき、雫を背中へ庇うように割って入った。
大きな手のひらを彼女のお腹に当てるその仕草は、ほとんど本能に根ざした保護の姿勢に他ならなかった。
「もう、いい加減にしてくれ」
私は冷ややかに片眉を跳ね上げた。
「いい加減にしてって、一体誰に向かって言っているの?
私の目の前で、彼女をけしかけて私を挑発させたのはそっちでしょう?
私に正面から喧嘩を売ったからには、それ相応の痛い代償を払ってもらわないと。筋が通らないわよね?」
息が詰まるような、長い沈黙が場を支配した。
やがて光貴は深くため息をつき、まるで聞き分けのない子供に手を焼いているとでも言いたげな、甘やかな声に切り替えた。
「……分かった。俺が代わりに払うよ」
言い終えるが早いか、彼は躊躇うことなく1歩ずつ私の方へと間合いを詰めてきた。
鋭利な果物ナイフが、彼の脇腹へとゆっくり沈み込んでいく。
純白のシャツに、鮮烈な赤い血。
みるみるうちに広がっていく濃い紅の染みをじっと見つめていると、目の奥が針で刺されたように痛んだ。
それでも彼は、痛みなど微塵も感じていないかのように振る舞った。
甘く蕩けるような狂気の笑みを私に向け、血に染まっていない方の手を伸ばして、私の頬を愛おしげに撫でた。
「どうだ?これで少しは、気が済んだか?」
「光貴さん、あなた頭がおかしいんじゃないの!?」
雫が金切り声を上げてすがりつこうとする。
けれど光貴は彼女を無理やり横抱きに抱え上げると、そのまま大股で部屋を後にしてしまった。
光貴が一歩遠ざかるごとに、雫は暴れ狂い、泣き喚き、耳を塞ぎたくなるような汚い罵り声が階下からいつまでも響いてくる。
私は静かに目を伏せ、バルコニーからその惨めな様子を見下ろした。
雫は私を殺してやると喚き散らしながらも、涙声で必死に光貴の傷の深さを確かめている。
そして光貴はといえば、自分の傷には目もくれず、終始彼女の膨らんだお腹だけを大事そうに庇い続けていた。
夜の闇に寄り添い合う、ふたつの影。
私は声も出さず、自嘲するように唇の端をわずかに持ち上げた。
人の心というものは、本当に複雑で不可解なものだ。
昔、光貴と私は絵に描いたような犬猿の仲だった。ある日は奴が私の大型案件を横取りし、その翌日には私が奴の会社を徹底的に叩き潰す。そんな血みどろの間柄だったのだ。
私はずっと、彼が私のことを「いっそ死ねばいい」と憎悪しているのだとばかり信じ込んでいた。
おかしな話よね。彼が私を狂おしいほど愛していたなんて。
そして何より反吐が出そうなほど気持ち悪いのは、彼がすでにあっさりと心変わりしてしまったという事実だ。
私はそっと自分の左胸を押さえ、じわじわと全身に広がる鈍い痛みを、どうにかして無視しようと努めた。
さらに気持ちが悪いのは、この5年間で、いつの間にか私自身までもが、彼を愛してしまっていたことだ。
その日の午後、私は自室でスマホを手に、ある画面を何度も何度も見返していた。
私の本当の恋人である朔弥は、この5年間、狂ったように私を探し続けてくれていた。
けれど光貴は無数の偽の手がかりを世界中にばらまき、彼を遠く離れた海外へと誘導し続けていたのだ。
さらに「君がかつての敵から報復されるのが心配だから」というもっともらしい名目で、自分で、あるいは人を雇って常に私を監視し、縛り付けていた。
スマホに埋め込まれたチップが、私の現在地を24時間特定している。
通話の内容はすべて裏で監視され、写真をたった1枚ネット上にアップしようとするだけで、即座にブロックされる仕様になっていた。
光貴は私を黄金の鳥籠に閉じ込め、その出口の扉を自らの手で固く溶接して塞いでしまっていたのだ。
ぼんやりと過去の記憶に浸っていると、不意にSNSの友だち追加申請を知らせる通知音が鳴った。
表示されたアイコンは、光貴と雫の親しげなツーショット写真。
女は彼のたくましい腕の中にすっぽりと寄り添い、甘ったるく目を細めて笑っていた。背景に写っているのは、どこかの島の美しい夕焼けだ。
私が申請を承認した途端、相手は待ってましたとばかりに矢継ぎ早にメッセージを送りつけてきた。
まずは、見せつけるような何枚かの写真。
光貴がベッドの端にゆったりと腰かけ、雫の肌に妊娠線予防のオイルを塗ってやっている1枚。
膨らんだお腹に、この上なく優しい眼差しを向けながら、ゆっくりと円を描くように。
キッチンでは、エプロン姿の彼がコンロの前に立ち、忙しなく立ち働いている。
カウンターには、彩りも香りも申し分ない、栄養満点の妊婦向けの料理がずらりと並んでいた。
続いて送られてきた音声メッセージをタップすると、雫の得意げな声が流れ出した。
「彼の友達からこっそり聞いたんだけど、前はあんたのこと、ものすごく愛してたんでしょ?あんたが彼の『かけがえのない人』だったとか?
でも、だから何?それがどうしたっていうの。結局のところ、すっかり飽きられて捨てられたじゃない。
私は正妻だの愛人だの、そんな肩書きにはこだわらないの。最後に愛された方が、絶対的な勝者なんだから。
素敵な贈り物を贈っておいたから、ちゃんと受け取ってね」
ちょうどその音声が途切れたとき、絶妙なタイミングで玄関のチャイムが室内に鳴り響いた。
届いた宅配便の封筒を開けると、中に入っていたのは1通の離婚届だった。
夫の欄には、すでに光貴のフルネームがしっかりと記入されている。
鋭く、どこか癖のあるその筆跡は、紛れもなく彼自身の字だった。
私はそのフルネームの署名を、しばらくの間じっと見つめていた。
やがて、今度こそ心の底から、堪えきれない笑いがこみ上げてきた。
あの雫という女は、私が未練がましく彼にしがみついて泣き喚くとでも想像していたのだろうか。
冗談じゃない。こっちこそ、願ったり叶ったりの最高の贈り物だというのに!
私は一瞬の迷いもなく、妻の欄にペンを走らせた。
完成した書類の写真を撮り、メッセージアプリから光貴へと直接送りつける。
添えたメッセージは、たった一言。
【ご結婚、本当におめでとう】
送信ボタンをタップしてから1秒も経たないうちに、私のスマホが狂ったように着信音を鳴らして震え始めた。
第3話
私はすべて無視して、電話に出なかった。
5分後、玄関の扉が激しく蹴破られた。
息を切らした光貴が、ドア枠にもたれかかるように立っていた。
全力で走ったせいで傷口が開き、脇腹に滲む血の染みが痛々しく広がっている。
それでも光貴は気にする様子もなく駆け寄ると、私がサインした離婚届を引き裂いた。
さらに破片に火をつけ、灰にしてしまう。
顔を上げた瞬間、彼の視線が私を射抜いた。
危うい狂気と、どす黒い支配欲を孕んだ眼差しだった。
「真夏、知ってるだろう。俺は死んでも君を離さない。
そっちだって分かってたはずだ。あの離婚届は、雫が俺を騙して書かせたものだって。
なのに、どうしてサインした!」
答える間もなく、嵐のようなキスを奪われた。
荒々しく性急で、血の匂いが混じっている。
私は必死で顔を背け、息を切らしながら笑い声を漏らした。
「……へえ。死んでも離さないって言いながら、不倫はできるのね」
彼の動きが止まる。
「それとも、こう思ってるの?私があなたを愛してる限り、どうあがいても逃げられないって」
私の皮肉げな視線を受け、光貴の表情が和らいだ。
頬を私の首筋にそっと擦り寄せる。
「俺が悪かった。どうしたら機嫌を直してくれる?」
「雫に、子供を堕ろさせて」
光貴は一切の迷いなく、「分かった」と答えた。
「彼女と別れて」
今度は、少し沈黙があった。
「……分かった」
私は何も言わず、低く笑った。
その時、枕元のスマホから引き裂かれるような泣き声が響く。
「森上光貴!あんたって人は!」
光貴の表情が一変した。
私は笑いながら画面を見せる。通話中の表示。
あの女にずっと、このやり取りを聞かせていたのだ。
電話の向こうで雫がヒステリックに泣き叫んでいる。
「私と子供を見捨てたくせに!後悔させてやる!」
一方的に通話を切った。
光貴は苛立ちを隠せず、何か怒鳴りたそうにしていたが、私の顔を見ると歯を食いしばって飲み込んだ。
荒々しく私を押しのけ、大股で飛び出していく。
のんびりと位置情報を頼りに後を追うと、大きな橋にたどり着いた。
ふたりはすでに、痴話喧嘩の真っ最中だった。
汚い言葉で罵り合いながらキスをし、殴り合いながら抱き合っていた。
私を見た瞬間、光貴は背筋を強張らせ、雫をさらに背後に庇った。
苛立ちを抑えた声で言う。
「真夏、今度は何のつもりだ?雫は今、精神的にも不安定なんだ。これ以上刺激するな!」
ところが雫が、ふいに彼の背後から飛び出してきた。
頬に涙の跡を残しながらも、瞳の奥には勝ち誇った光が戻っている。
素早く私に駆け寄ると、耳元でそっと囁いた。
「男の言葉なんて、適当に聞き流しておけばいいのよ。
言葉じゃなくて、やったことを見なきゃ。
今の私は、ふたり分の命を抱えてる。ねえ、彼がどっちを選ぶと思う?」
言い終えるが早いか、彼女は私の首を掴み、勢いよく身を躍らせた。
冷たい水面が激しく水しぶきを上げ、私は骨まで凍るような冷たさの中に突っ込んだ。
無数の水の刃が、肌を容赦なく刺していく。
雫の焦りと自信が入り混じった叫びが響いた。
「光貴!私はあなたの子を身ごもってるのよ!できるものなら、見殺しにしてみなさいよ!」
砕けた水しぶきの間へ、光貴が飛び込んでくる。
必死に私たちの方へ泳いでくる。
けれど数秒迷った末、彼が抱き寄せたのは、雫だった。
「真夏、君は泳ぎが得意だから自力で上がれるだろ。でも雫は無理なんだ!」
雫は彼の肩にもたれかかり、振り返って私に勝ち誇った笑みを浮かべる。
声を出さず、口の動きだけで告げた。
「今回は、私の勝ちね」
私も彼女に笑い返す。
「もしかしたら、勝つのは私かもしれないわよ?」
彼女は呆気に取られ、警戒心をあらわにした。
けれど私は助けを呼ばなかった。
岸に泳ぎ着くこともしない。
雫の言う通り、私は昔から泳ぎが得意だ。
ふと、気づいてしまったのだ。
生きている限り彼から逃げられないのなら、死んだふりをすればいい。
水面越しに差し込む陽光が、ひどく遠く、薄らぎながら見えた。
固く抱き合うふたつの影を見つめながら、私は静かに水の底へ沈んでいく。
さようなら、光貴。
そのまま音もなく遠くへ泳ごうとした、その時。
水面に映る影が不意に、ぴたりと止まった。
第4話
振り返っても私の姿が見当たらず、光貴は魂が抜けたように血の気が引いた。
迷わず雫を突き放し、死に物狂いで水の中へ潜る。
水は骨まで凍るほど冷たいのに、彼の体は異様なほどの熱を帯びており、私を抱きしめて離さなかった。
私を岸へ送り届けると、すぐさま踵を返して雫を助けに戻る。
だが、遅すぎた。
水はあまりにも冷たかった。
岸に上がった雫は、お腹を押さえて全身を震わせていた。
血が白いワンピースを伝って流れ落ちる。
病院に運ばれた時には、もう子供の命はなかった。
雫は胸が張り裂けんばかりに泣き、爪を立てて彼の手を掴んだ。
「光貴!あんたなんて大嫌い!
あんたが私たちの子供を殺したのよ!全部あの女のせいよ!彼女を殺して、仇を取ってよ!」
光貴の瞳には、今まで見たことのない痛ましさが宿っていた。
けれど私の方を振り向いた途端、その表情から一切の感情が消え失せる。
私は彼に笑いかけた。
「泣いたの?
珍しいこともあるものね。あなたが泣くところ、初めて見たわ。
それなら、さっきはどうして私を助けたの?おかげで、みんな不幸になる羽目になったじゃない」
光貴の目が、一瞬で赤く染まった。
生まれて初めて、彼は私に向かって手を振り上げた。
胸を激しく上下させ、歯を食いしばって吐き捨てる。
「いい気になるのもいい加減にしろ!
真夏、俺が君を愛してるからって、何度も何度も付け上がるな!」
その手は宙で止まったまま、しばらく震え続けた。
最後には、拳が壁に叩きつけられる。
「出て行け。君の顔なんて見たくない!」
その日を境に、光貴は二度と家に帰ってこなかった。
以前は1分に10通もメッセージを寄越したのに、今ではスマホは死んだように沈黙している。
雫が退院する日。
子供を供養するための小さな墓碑も、すでに用意されていた。
私は光貴の部下に「お連れします」と連れ出された。
私の顔を見た途端、雫の瞳に憎しみの光が迸り、鋭い声で叫ぶ。
「這いつくばりなさいよ!私の子に謝罪しなさい!」
私は片眉を上げ、光貴を見た。
けれど今回、彼はいつものように無条件で私を庇わない。
表情を強張らせたまま、私の背後に回り込んだ。
膝裏を強く蹴られ、私は不意を突かれて崩れ落ちた。
大きな手が後頭部を掴み、有無を言わさず地面へ押しつける。
額を冷たい石畳に強く擦りつけさせられた。
目の前が真っ暗になるほどの衝撃だった。
頭上から、低くかすれた声が落ちてくる。
「雫はもう3日間、何も食べてない。君が来て土下座して謝るまで絶食するってな。
真夏、君のせいで子供が死んだんだ。これくらい当然だろう」
地面に伏したまま、私は墓碑に刻まれた小さな名前を見つめた。
【森上怜(もりがみ れん)】
光貴がつけたのだろう。やはり、彼はあの子の誕生を心待ちにしていたのだ。
雫は冷笑を浮かべて私の前に立ち、手を振り上げた。
彼は反射的に止めようとしたが、涙目で睨まれ、動きを止める。
「何、今更この女のことをかわいそうにと?
じゃあ私たちの子は?誰が庇ってくれるの?」
パンッ。
手のひらが容赦なく私の頬を打った。
頬がじんと痺れ、口の中に鉄の味が広がる。
視界の端で、光貴の拳が固く握りしめられ、激しく震えていた。
けれど、それだけでは終わらない。
光貴は私たちをまた家へと連れ帰った。
雫は戦利品を検分するように、私の寝室のドアを蹴り開けた。
私のウェディングドレスは彼女にハサミで切り刻まれ、見る影もない。
いくつかの結婚指輪も、すべて彼女の両手の指にはめられていた。
雫は両手を振って見せびらかし、勝ち誇って笑う。
「これから光貴とハネムーンに行くの。もうひとり、子供を授けてくれるって約束してくれたわ。
ねえ、今度はどっちが惨めな安物かしらね?」
私は目を伏せたまま、何も言わなかった。
玄関の扉が、バタンと閉まる。
階下から、雫の高らかな笑い声が聞こえてきた。
「奥さんって呼んでみてよ!」
続く、光貴の友人たちの恐る恐るといった声。
「お、奥さん……」
ベランダに出た時、すでに車は遠ざかっていた。
雫は挑発するように振り返り、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。陽の光を浴びて、指のダイヤが眩く輝いた。
その瞬間、私はようやく心の底から笑えた。
手すりにもたれ、にっこりと手を振って見送る。
光貴はずっとバックミラー越しに私を見ていた。
その様子に眉をひそめ、無意識に車の速度を落とす。
けれど雫が彼の手を引き寄せ、自分のお腹に押し当てた。
結局、彼は視線を戻し、車は遠ざかっていった。
やがて車が市街地を抜け、高速道路に乗った頃。
雫が突然、甲高い声を上げた。
「ちょっと!スマホがない!」
その時、友人のひとりが声を上げる。
「雫のSNSで、勝手にライブ配信が始まってるぞ?
いや……これ、真夏さんじゃないか?」
画面の中、私はベランダの手すりにもたれていた。
風が髪をさらい、背後から夕陽が射し込み、全身がほんのりと金色に染まっている。
周囲の景色まで、すっかり映り込んでいる。
私は心から楽しそうに笑っていた。
光貴は私のスマホを厳重に管理していた。
でも、他人のスマホを拝借すればいいだけの話だ。
パスワードは彼の誕生日。これ以上なく簡単に当てられる。
これがなければ、わざわざ大人しく殴られてやるものか。
私は小さく咳払いをして、カメラのレンズを見つめた。
「会いたかった」
車内に、どっと笑い声が響く。
「真夏さん、さすがだな。こんな手で光貴を引き戻そうとするなんて」
光貴は画面を見つめたまま、唇の端をわずかに上げ、瞳の奥に柔らかな光を滲ませた。
それでも、表情は強張らせたまま言う。
「俺は戻らない。今度こそ、あいつには思い知らせないと」
彼の声と重なるように。
動画の中の私が、涙を浮かべて笑っていた。
少し首を傾け、カメラに向かって、ひと言ひと言、優しく囁きかける。
「会いたかったの、朔弥」
ほんの少しの手がかりさえ渡せば、彼なら必ず見つけ出してくれる。
私の恋人、今里朔弥。
言葉が終わるのと同時に、高速道路に、耳をつんざくような急ブレーキの音が響き渡った。