第1章
ある年のことだった。警察官舎の一角にて。
頭部に銃弾の破片が残って以来、須賀江津子(すが えつこ)は須賀和久(すが かずひさ)がずっと望んでいた「理想の妻」そのものになった。そんな噂が、官舎の奥様たちの間でまことしやかに囁かれていた。
彼女はもう、彼が酒の匂いを纏って夜更けに帰宅しても、リビングで待ち構えて、酒は胃に悪いとくどくど小言を言うことはない。
徹夜で訓練計画を練っていても、無理に書類を閉じさせて、根を詰めすぎるなと口うるさく注意することもない。
出動前の彼の鞄に、胃薬がきちんと入っているか何度も確かめることさえしなくなった。
3日前のことだ。彼女は総合病院の廊下で倒れ、駆けつけた看護師に助け起こされた。
「須賀先生、ご家族に連絡しましょうか」
彼女はしばらく言葉を失っていた。記憶の霧は、手で払いのけられないほど重く脳裏に垂れ込めていた。
「……いいんです」
彼女はようやく、小さな声で答えた。
「私に、家族はいませんから」
あの発砲事件から7日が経ち、落ちていた体力が少しずつ戻ってきた。リビングまでたどり着いたところで、和久の視線とぶつかった。
彼は籐椅子に深く腰掛け、指に煙草を挟んだまま、苛立ちを隠そうともせず、暗く沈んだ目をこちらへ向けていた。
「江津子。食事を抜くのも、いい加減にしろ」
絶食しているわけではない。頭の中に残った破片が悪さをしているだけだ。何を口にしても、激しい吐き気とめまいに襲われる。ただそれだけのことだった。
彼女はその顔を見つめた。かつては脳裏に焼き付いていたはずの顔が、記憶の欠落のなかでくっきりと像を結んだかと思えば、たちまち輪郭を失い、薄い影になって溶けていく。
むしろ鮮明に思い出せるのは、撃たれて目を覚ました直後、よろめきながら彼を探しに行った官舎のグラウンドで耳にした言葉のほうだった。
「隊長、俺たちの負けですね。あの高級ウイスキー、まるごと差し上げます」
「須賀先生みたいな用心深い人を、よくも身代わりにできたもんだ。隊長も大したタマですよ。しかし危なかった。本当に、あと少しで手遅れになるところでしたからね」
「ったく、麗子さんを身の回りの世話係として堂々とそばに置きたいからって、ちょっと無茶が過ぎませんか。奥さんに知れたら、出ていかれても文句は言えませんよ」
「出ていくもんか」
紫煙の向こうで、和久の声に少しの揺らぎもなかった。
「撃たれたのは不運な事故だ。それに、おかげでしばらくは麗子のことで騒ぐ元気もないだろうさ。この埋め合わせは、いずれきっちりしてやる」
第1話
鋭い耳鳴りが、唐突に頭に響いた。医師の言葉が、また耳の奥で蘇る。
「破片が神経を圧迫しています。記憶障害は、今後も進行していくでしょう」
彼女は目を閉じ、込み上げる鋭い痛みをこらえ、冷酷な事実を飲み込んだ。
その沈黙は、和久の目には無言の抵抗と映ったらしい。彼は吸い殻を揉み消し、苛立ちの滲んだ声で言う。
「何度言わせるんだ。麗子とは何もない。あの晩、あいつは高熱を出して一人で寝込んでいた。だから、少しそばにいただけだ。
そもそも、お前が我儘を言って飛び出さなければ、俺たちがあの連中に出くわすこともなかった。お前が撃たれることもなかったんだ」
彼は立ち上がり、その影が江津子を覆い隠した。
「近いうちに、麗子に謝っておけ」
謝る?
無数の氷の針を心臓に突き刺されたように、痺れるほど痛んだ。
銃弾で死にかけた自分が、よりにもよってこの「事故」のきっかけを作った女に頭を下げろというのか。
激しい頭痛が、江津子の言い返す最後の気力さえ奪い去っていく。残るのは、果てしない疲労だけだった。
「……わかった」
自分の声が、やけに空ろに聞こえた。
和久は眉をひそめた。いつから、こんなに従順になったのだろう。まるで別人のようにさえ感じられた。
考え込む間もなく、彼のそばに置かれた、麗子との連絡用にしている電話が鳴り響いた。
麗子との連絡のためだけに使われているその電話は、静まり返った部屋の中でひときわ耳障りだった。
彼は急いで受話器を取る。受話器の向こうの声は小さかったが、すぐそばに立っていた江津子の耳にははっきりと届いた。
「和久さん、ひどくめまいがするの。また熱が上がってきたみたい」
「行ってあげたら?」
彼が口を開くより先に、江津子はもう背を向けていた。
和久は一瞬固まり、何か言いかけたようだったが、彼女はすでに寝室へ入り、扉を閉めてしまっていた。
扉越しにも、彼がすぐさま上着を羽織る気配と、これまで見せたことのないような焦りが伝わってきた。
「今すぐ行く。腹減ってないか?食堂で何か食べやすいもの、買っていくよ」
慌ただしい足音が、遠ざかっていく。
和久が出ていってすぐ、家の電話がまた鳴った。同僚医師である高橋久美(たかはし くみ)の声は、心配を隠しきれていなかった。
「江津子、西京市の大学病院の専門医による診察と手術の日程が決まったわ。来月よ。でも、もう一度だけ言わせて。脳の中枢近くのあの破片を取り出すのは、かなりの危険を伴うわ。手術中に命を落とす可能性だってある。本当に、和久さんには黙っているつもり?」
江津子は窓の外へ目をやった。官舎の明かりが点々と灯っているのに、帰るべき温かい場所は、どこにも見当たらなかった。
長い沈黙のあと、彼女は口を開いた。声は感情の起伏がない、淡々としたものだった。
「……言わないわ。
もうすぐ、あの人は私と何の関係もなくなるんだから」
……
和久は、機動隊史上最年少にして屈指の実力者と謳われる隊長であり、冷静沈着を通り越して、ほとんど薄情とさえ言われる、隊内でも憧れの的だった。
よりにもよってそんな男が、5年前、執念とも呼べる勢いで、当時まだ総合病院の一勤務医だった彼女に猛アタックしてきた。
彼は郊外の空き地で、かなりの金をつぎ込んで一晩中花火を打ち上げてくれた。官舎でもしばらく話題になるほど盛大な結婚式を挙げてくれて、周囲の女性隊員たちを大いに羨ましがらせた。
けれど、同じ彼が、新婚の夜を境に、彼女をまる5年、一人きりの寝室に置き去りにした張本人でもあった。
彼女はかつて、彼がただ無口で冷淡なだけで、表現が不器用なのだと思い込んでいた。
だからありったけの情熱を注ぎ込み、頑なな心の氷を、なんとか溶かそうとした。
梅野麗子(うめの れいこ)が総合病院へ異動してくるまでは。
彼が幼いころから一緒に育ったという、あの「妹分」。
彼女は、彼が病院の倉庫で麗子と言い争いながらもつれ合っているところを目撃した。
麗子の涙ひとつで、彼が我を忘れるほど取り乱すのを見た。
麗子が町でチンピラに絡まれたとき、彼は逆上して相手を殴り飛ばした。やがて和久の同僚から、妻である江津子の職場にまで連絡が入った。
駆けつけた彼女が目にしたのは、処置室のベッドに横たわるそのチンピラが、カーテン越しに、血まみれの顔で嘲笑を浮かべる姿だった。
「馬鹿な女だ。あいつがお前を愛してるとでも思ってるのか。お前はただ、あいつが世間の目を欺いて、本当に好きな女を守るための隠れ蓑にされてるだけだ。
須賀家はとっくに言い渡していたんだよ。ちゃんとした家柄の女を嫁にもらわなきゃ、麗子を異動させるってな。お前は、あいつが選んだその『体裁を保つための飾り』ってわけさ」
彼女は家に帰り、半狂乱になって彼を問い詰めた。返ってきたのは、彼がマグカップを叩き割った後に見せた、いっそう冷え切った嫌悪の眼差しだった。
「江津子、お前、いつからそんなに意地を張るようになったんだ。麗子は妹みたいなもんだろ。少しくらい面倒見てやってもいいじゃないか。そんなに目くじら立てることか?」
その夜、彼女は初めて家を飛び出した。
そして間もなくして起こったのが、あの突然の拳銃強盗事件だった。
病院からの緊急連絡を受け、彼女は気が狂ったように現場へ駆けつけた。目に映ったのは、麗子が震えながら和久の腕の中で縮こまり、黒々とした銃口が彼の背中に向けられている光景だった。
体が、意識より先に動いていた。
銃声が響いた瞬間、こめかみのあたりに衝撃が走り、すぐに果てしない暗闇に呑み込まれた。
再び目を覚ましたとき、世界はすでに砕け散っていた。
皮肉なことに、彼女が手術室で生死の境をさまよっていたころ、彼は麗子が保護した犬の誕生日祝いに付き合っていたという。
記憶は指の間からこぼれ落ちる砂のように、握りしめようとしてもこぼれ落ちていく。
それでいい。
彼女はぼんやりと思った。
これこそ、彼が望んでいたことではないか。もう騒がず、もう問い詰めず、もう愛情を求めない、完璧な人形。
彼の望みどおりだ。
電話を切ると、彼女は電話帳を開き、法律事務所に勤める昔の同級生の名前を探し出し、電話をした。
「お願いがあります。離婚協議書の作成を手伝っていただきたいんです。離婚の原因は彼にあるので」
第2話
「わかりました。須賀和久隊長が結婚に際して本部へ提出した誓約書を確認しました。
そこには、婚姻関係を破綻させる原因を作った側が責任を負う旨が記されています。証拠としても使えます。
手続きにはひと月ほどかかるそうです。順調に進めば、その後、慰謝料や財産分与の請求も進められますよ」
江津子は電話を切ると、静かに受話器を置いた。瞳の奥には、少しの揺らぎもなかった。
かつて彼の「本気」の証だったはずのその誓約書が、今では彼女にとって唯一の頼みの綱になっている。
彼女は荷造りを始めた。
5年間暮らしたこの家に、自分の痕跡と呼べるものは驚くほど少なかった。
普段着のポリエステルのブラウスを最後の一枚、トランクの底に押し込んだところで、部屋の扉が開いた。
和久の視線がトランクをなぞり、口元にいつもの嘲るような笑みが浮かぶ。
「またその手か。今度は何日家出するつもりだ?」
彼女が答える前に、彼は冷たく言い放った。
「この前のことがあってから、麗子を寮に置いておくのは危ない。こっちに越してこさせる。あいつはひどい喘息持ちだ、日当たりのいい一番広い寝室がいちばんいい。お前は隣の小部屋に移れ」
彼の肩越しに、江津子は麗子が拾ってきた白い子犬を抱きしめ、怯えた目で、か細い声で訴えるのを見た。
「和久さん、やめて。私、どこでもいいから。江津子さんを困らせたくないの」
「困ってなんかいない」
和久はそう言って、江津子のトランクをぞんざいに脇へ押しやった。
「隊長の妻が、客への気遣いもできないとはな。話にならない」
彼は彼女を見据え、いつもの言い争いや涙、あるいはとうに聞き飽きた「愛を分かち合うことはできない」という反論を待っていた。
けれど、彼の耳に届いたのは、感情の起伏のない、ただ一言だけだった。
「わかった」
彼は一瞬、固まった。用意していた叱責の言葉が喉に突っかかった。
彼女は押しやられたトランクを一瞥すらせず、ただ洗面用具を取りに行くために背を向けた。
彼女が元の寝室よりずっと狭い小部屋へと歩いていくのを見ながら、和久の胸を違和感がよぎった。だが、それもすぐに「ようやく聞き分ける気になったか」という思いに塗りつぶされた。
小部屋は狭いながらも、きちんと片付いていた。
江津子は荷物を下ろした。激しい頭痛が吐き気とともに襲ってくる。
医者から処方された薬を飲み下し、服も着替えないままベッドに倒れ込んだ。意識はすぐに深い眠りへと沈んでいった。
どれほど経っただろうか。激しい物音が、深い眠りの底から彼女を引きずり出した。
扉が乱暴に蹴破られ、冷たい風が吹き込んでくる。
次の瞬間、万力のような手に手首を掴まれ、乱暴にベッドから引きずり下ろされ、床に叩きつけられた。
目の前には、怒りで歪みきった和久の顔があった。いつも冷淡なその黒い瞳にはぞっとするほどの炎が燃え、理性のかけらも残っていない。
「江津子。俺はお前の性悪さを見くびっていたらしいな!」
彼はほとんど彼女を引きずるようにして冷え切った廊下を抜け、庭の外まで連れていくと、冬の夜風の中に跪かされ、ずぶ濡れになって震えている麗子を指さした。
「俺がたった3時間、家を空けただけだぞ。その隙に、彼女を外に放り出して跪かせるとはどういうつもりだ。熱が下がったばかりなのを知っていて、これじゃ命に関わるかもしれないとわからないのか」
江津子は冷たい泥の上で身を震わせた。頭痛で割れそうで、視界もぼやけている。
必死に焦点を合わせ、麗子のほうを見た。
麗子は唇を紫色にして、涙に濡れた目で和久を見上げながら、気づかれないほどかすかに、江津子に向かって嘲りの笑みをこぼした。
「私はやってないわ」
江津子の声は寒さと衰弱で震えていたが、はっきりとしていた。
「やっていない、だとッ?」
和久が勢いよく手を離し、彼女はよろめいて倒れ込んだ。
「隣の田中さんが、お前が彼女を外に出し、跪くよう命じたところをこの目で見たと言っているんだぞ。みんながお前に濡れ衣を着せているとでも言うのか。それとも、麗子が気が触れて、自作自演までしてお前を陥れようとしたとでも言うのか」
膝が凍てついた地面に打ちつけられ、その痛みに一瞬、頭が冴えた。
彼女は記憶をたどろうとしたが、まるで厚い霧に閉ざされているかのように、頭の中で鈍い痛みが響くばかりだった。
もしかしたら、本当に短い記憶の空白があったのだろうか。
彼女を呑み込まんばかりの和久の怒りと、麗子の微妙な、勝ち誇ったような眼差しを前に、馬鹿馬鹿しさにすべてがどうでもよくなっていった。
この「動かぬ証拠」と、彼の根深い偏った肩入れの前では、弁明することすら虚しく思えた。
彼女は目を伏せ、もう誰の顔も見ないまま、風に紛れて消えてしまいそうなほど小さな声で言った。
「あなたがそう決めているのなら、私にはもう、言うことはない……」
ほとんど自白にも等しいその一言が、和久の怒りに完全に火をつけた。
彼の最後の忍耐も、底を突いた。
「ああ、結構だ。『言うことはない』というなら、行動で反省してもらおうか!」
彼は一歩退き、この一面の寒風よりも冷たい目を向けた。
「上着を脱がせろ。しばらくここで頭を冷やさせる。俺がいいと言うまで、誰もあいつに構うな」
第3話
雪は止んだが、寒さは体の芯まで染み込んでいた。
江津子が部屋へ運び込まれたとき、膝は青紫に腫れ上がり、唇は乾いてひび割れ、紫色に変色していた。
こめかみの古傷が、低温の中でずきずきと脈打っている。
目を覚ますと、和久が彼女の手を握り、温めようと息を吹きかけていた。手のひらから伝わる温もりに、彼女はかすかに身を震わせた。
「気がついたか」
彼はゆっくりと上体を起こした。声音には気遣いとも叱責ともつかないものが滲んでいる。
「数時間も外に跪いただけで倒れるようじゃ、この先、隊長の妻としてどうする気だ」
江津子はゆっくりと手を引いた。
和久は自分の空になった手のひらを見つめ、一瞬、動きを止めた。
再び口を開いたとき、声には硬い響きがあった。
「今夜、本部主催の懇親会がある。支度しておけ」
「わかった」
あまりにも素直な返事に、彼の胸の奥に、何かがつかえるような感覚が生まれた。
以前の彼女なら、きっと騒ぎ立て、涙目で「麗子も行くの?」と問い詰めてきただろう。
それが今では、よどんだ水たまりのように静まり返っている。
部屋の中で、江津子は鏡に映る青白い顔に安いクリームを塗り、口紅を引いた。
和久は扉枠にもたれ、その姿を見つめながら、ふと5年前の結婚式を思い出した。
鮮やかな色打掛に身を包み、振り返って幸せそうに笑いかけてきた、あの日の彼女の姿を。
あのころ、彼女の目には光があった。
今は、何もない。
彼の視線が、彼女のがらんとした首元に落ち、眉がひそめられる。
「俺があげた表彰章はどうした」
江津子の反応はひと呼吸遅れた。
彼女は目を上げ、鏡の中で茫然とした眼差しを彼と合わせた。
「……表彰章?」
和久の顎の線が、ぴくりと強張った。
あの真鍮製の表彰章は値打ち物ではなかったが、彼が初めて手柄を立てたときに授かったものだった。
彼女がそれを受け取ったとき、顔中を涙でぐしゃぐしゃにして「一生、身につけているから」と言ったのを、彼は覚えている。
官舎でボヤがあったとき、彼女が狂ったように煙の中へ駆け戻ろうとして、「あれは、あの人がくれたものなの」と叫んでいたのも覚えている。
それを、今の彼女は忘れている。
「江津子」
彼の声が低く沈む。
「いい加減にしろ」
ちょうどそのとき、麗子が目を赤くしながら扉を開けて入ってきた。
「和久さん」
声には涙が滲んでいる。
「スカートにうっかり味噌汁をこぼしちゃって。江津子さんが、お母様の形見の青いスカートを持ってるって聞いたんだけど、それを……」
「だめ」
江津子の声はきっぱりとしていた。
ずっと虚ろだった目にふいに焦点が戻り、彼女は和久をまっすぐに見据えた。
「あれは母が唯一遺してくれたものよ。他のものならともかく、それだけは譲れない」
和久は笑った。
彼女にも、大事にしているものがあったのか。
怒りはまだ収まっていなかった。
彼は彼女の前まで歩み寄り、身をかがめ、ふたりにしか聞こえない声でこう囁いた。
「お前の母親が昔、薬代を工面するために引き受けていた『ヌードデッサンのモデル』のことを、細かいことまで思い出させてやる必要があるか。あのデッサンなら、俺が大事に保管してある」
江津子の体が、びくりと強張った。
「スカートか、それとも亡くなった母親の名誉か」
彼は身を起こし、まるで天気の話でもしているかのような平静な声で言った。
「選べ」
部屋の中が、ぞっとするほど静かになった。
長い沈黙のあと、江津子は目を閉じた。
再び開いたとき、瞳の奥の光が完全に消え失せていた。
「……持ってくるわ」
折り畳んだ青いスカートを麗子に手渡すとき、彼女の指は関節が白くなるほど強く握りしめられていた。
「丁寧に扱ってください」
麗子はそれを受け取りながら、指先で「何気なく」彼女の手の甲をかすめ、薄い赤い筋を残した。
「ふふ。安心して、江津子さん」
麗子は甘く微笑んだ。
「ちゃんと『大切に』扱うから」
深夜、懇親会が終わった。
江津子は廊下の突き当たりのゴミ箱の中に、あの青い布切れを見つけた。
木綿の布はズタズタに切り裂かれ、裾は油で汚れ、ボタンはばらばらに散らばっていた。
麗子は白い子犬を抱いてゴミ箱のそばに立ち、無邪気さと残酷さの入り混じった笑みを浮かべていた。
「あら、うっかり引っ掛けて破れちゃった。どうせ江津子さんはもう着ないでしょ。
それに、お母様って昔、裸であんなふうに描かれていたんでしょ。そんな服、着てたって縁起が悪いだけよ」
パァン、と乾いた音が、静まり返った廊下に鋭く響いた。
麗子は頬を押さえ、信じられないという顔で彼女を見つめ、やがてぼろぼろと涙をこぼし始めた。
ほぼ同時に、和久の怒声が飛んでくる。
「江津子。何のつもりだ!」
彼は足早に歩み寄り、麗子を背後にかばい、刃のような鋭い視線を向けた。
「謝れ」
江津子は床に散らばった破れたスカートを見つめ、それから彼に視線を移し、ふいにすべてがばかばかしく思えてきた。
「彼女が、母の遺品を台無しにしたのよ!」
「それがどうした」
和久は冷たく言い放った。
「服1枚くらいで、そこまで怒ることか?江津子、お前、最近ちょっと意地になりすぎじゃないか」
彼は一拍置き、麗子の腕の中の子犬に目をやった。
「そんなに元気が有り余っているなら、シロの体を洗ってやれ。きれいに洗えなかったら、今夜の飯は抜きだ」
江津子の体が、かすかに強張った。
彼女は犬の毛に強いアレルギーがある。
「あなた」彼女は小さく言った。「私がアレルギー持ちだって、知ってるでしょう」
「だから、何だ」
彼は口の端を上げた。
「江津子、これは罰だ。間違いを犯したなら、代償を払うのが筋だろう」
麗子が子犬を手渡しながら、ふたりにしか聞こえない声で耳元に囁いた。「江津子さん、気をつけてね。シロ、ちょっと気が荒いから」
浴室の扉が閉められた。
白い子犬が洗い桶の中で暴れ、毛が舞い散る。
江津子はゴム手袋をはめていたが、むき出しの腕にはすぐに赤い発疹が浮き上がり、呼吸も苦しくなり始めていた。
不快感を懸命にこらえながら、慎重に洗い流していく。
あと少しで終わるというところで、子犬が突然怯え、彼女の手の甲に激しく噛みついた。
「ああっ!」
痛みに思わず手を離すと、子犬はその隙に洗い桶から飛び出し、浴室を飛び出していった。
「シロ!」
麗子の悲鳴が響いた。
直後、耳をつんざくような急ブレーキの音と、短く鋭い鳴き声が聞こえた。
第4話
シロは死んだ。
猛スピードで走ってきたトラックに撥ねられ、即死だった。
麗子は血まみれの子犬の亡骸を抱きしめ、気を失わんばかりに泣き崩れた。
和久は彼女を胸に抱き寄せ、暗く沈んだ目を戸口に立つ江津子へと向けた。
彼女の腕は赤く腫れ、手の甲には犬の歯形がはっきりと残り、呼吸も荒い。アレルギー反応は誰の目にも明らかだった。
「江津子」彼は一語一語、区切るように言った。「わざとか」
「あの子が噛みついてきて、自分で飛び出していったの」
彼女の声は、息が乱れて途切れがちだった。
「嘘つき!」麗子が泣き叫ぶ。「私、ちゃんと見てたの。あなた、わざと手を離したでしょ。私のことも、シロのことも嫌いだったんだよね。和久さん、シロはまだ2歳だったのに……」
和久は彼女の背を優しく撫でながら、再び目を上げたとき、その瞳にはもうわずかな温もりも残っていなかった。
「お前がそれほど命を軽んじるというなら、罪滅ぼしをしてもらおうか」
その夜、官舎裏の空き地に、小さな墓がひとつ増えた。
和久は官舎の掲示板に告知を貼らせ、騒ぎを知った住人たちが、遠巻きに様子を見守っていた。
和久は江津子を墓の前に立たせ、冷たく言い渡した。
「跪け。みんなの前で、自分が動物を虐待し、シロをわざと逃がして死なせたことを認めて謝れ。二度と小さな命を傷つけないと誓え」
江津子は寒風の中に立ち、全身が冷えきっていた。
赤い発疹はすでに首元まで広がり、息をするたびに灼けるような痛みが走る。
彼女は小さな墓を見つめ、遠くで和久に抱き寄せられている麗子を見つめ、後ろ指をさしてひそひそと囁き合う住人たちを見つめた。
ふいに、笑った。悲しみに満ちた笑いだった。
「跪け」和久が繰り返す。
彼女はゆっくりと膝を折った。膝が冷たい泥の中に沈み込む。
「私、須賀江津子は」
彼女は見守る住人たちに向かって、平坦で機械的な声で言った。
「本日、動物を虐待し、故意にシロを逃がして、車に撥ねられて死なせてしまいました。深く反省し、今後、二度と小さな命を傷つけないと誓います」
一語発するたびに、喉が刃物で切られるようだった。
言い終えると、和久は住人たちを帰らせたが、彼女を立たせようとはしなかった。
「夜が明けるまで跪いていろ。よく反省するんだな」
夕食時、麗子は目を赤く腫らし、食が進まない様子だった。
和久は彼女の前に料理の皿をそっと寄せながら、優しく宥めていた。
焼き鮭の皿に箸をつけたところで、麗子が小さく言った。「和久さん、手に力が入らなくて……」
和久はまだ庭先に跪いたままの江津子に目を向けた。
「お前、入ってこい」
彼女はよろめきながら入ってきた。全身が冷え切っていた。
「麗子の食べる魚の骨を取ってやれ」彼は命じた。「皿にある分、全部だ。身が少しでも無駄になったら、跪く時間を1時間追加する」
江津子はその皿を見つめ、それから自分の赤く腫れ、発疹の浮いた手を見た。
「私、魚介類にもアレルギーがあるのよ……」彼女は小さく言った。
「はっ、それがどうした」
和久は笑った。
「これはお前が麗子に払うべき代償だ」
彼女は腰を下ろし、最初の骨を取り始めた。
骨の先は硬く尖っており、すでに赤く腫れた指先を傷つけていく。血が鮭の身に滲み、目を背けたくなるほどだった。
アレルギー反応はどんどん悪化し、呼吸はますます荒くなり、視界が暗くなり始めていた。
1本、2本、10本。
手の甲の傷口に鮭の塩気と脂が触れ、刺すような痛みが走った。
流れた血で皿の鮭が真っ赤に染まっていくのを、麗子は頬杖をついて、笑みを浮かべて眺めていた。
半分ほど取り終えたとき、江津子の服のポケットから一枚の紙切れが滑り落ちた。昔の同級生が人づてに届けてくれた、まだ目を通していないものだった。
彼女はわずかに手を止め、テーブルクロスの陰に隠すようにして、血に染まった指でその紙を開いた。
【江津子先生へ。専門医の診察日が決まりました。来月15日です。新幹線の指定席はこちらで手配してあります。列車名と発車時刻は下記のとおりです】
彼女はその一文を長い間見つめていた。
それからまた、骨を取る作業に戻った。
血が、1滴、また1滴と皿に落ちていく。
和久は彼女の機械的な動き、その血の気のない顔と腫れ上がった手を見つめながら、胸の奥をかすかな不快感がよぎるのを感じた。
だが、それもすぐに押し殺した。
これは、彼女が受けるべき報いなのだから。
第5話
医師が立ち去ると、寝室には重苦しい静けさだけが残った。
和久はベッドの端に腰掛け、江津子の包帯を巻かれた手に目を落としていた。傷は深く、包帯の端から薄黄色い滲出液がにじみ出て、消毒薬の鼻を突く匂いと混ざり合っている。
腕の発疹はまだ引いておらず、青白い肌の上でひときわ痛々しく浮き上がっていた。
彼はようやく、医師が口にした「命に関わる」という言葉を思い出した。
「江津子……」
彼の声は低かった。彼女の指先に触れようと手を伸ばしたが、触れる直前で止める。
「麗子に手を上げるべきじゃなかった。あいつも、ただ少し我儘を言っただけだ」
江津子はベッドの頭にもたれたまま虚空を見つめ、何も答えなかった。
その沈黙はどんな言い争いよりも和久を苛立たせた。
彼は立ち上がり、声をいつもの冷淡さに戻した。
「2日後に、幹部懇親会がある。お前も来い。いつまでもそんな様子でいるな、俺に恥をかかせる気か」
懇親会は大ホールで開かれた。
会場は賑わい、和久は余裕たっぷりに人々と談笑し、麗子は「妹分」という立場でそばに付き添い、愛らしく微笑んでいた。
誰も、須賀隊長の妻がまるで存在しないかのように静かにしていることを気に留めなかった。
座が盛り上がり、誰かが余興の質問ゲームを提案したときのことだった。
順が和久に回ってくると、酔った分隊長のひとりが笑いながら聞いた。
「須賀隊長、最後に女性関係で問題を起こしたのは、いつ、誰とです?」
どっと笑いが起こる中、和久はグラスを揺らしながら淡々と答えた。
「5年前の、結婚初夜だ」
空気が、ふっと静まり返った。
誰もが、5年前に和久が江津子と結婚したことを知っていた。
「あの夜」
彼は続けた。視線は何気なく江津子に向けられた。
「俺の寝室で、麗子とだ」
死んだような沈黙。
麗子は頬を染めて彼の肩を軽く叩いた。
「和久さんったら、冗談ばっかり言って」
「事実を言っただけだ」
和久は笑いながら、彼女の手を握った。
無数の視線が江津子に注がれる。同情、嘲り、見世物を眺めるような目。
彼女はグラスを手にしたまま、指先は氷のように冷たく、顔にはこれといった表情もなかった。まるで今話されているのが、自分とは関係のない誰かの物語であるかのように。
彼女の番が回ってくると、誰かがわざと尋ねた。
「奥様、須賀隊長がいちばん大事にしているものって何でしょうね。答えられなかったら、何か一曲いきましょうか」
和久がいちばん大事にしているもの?
かつては彼の勲章だと思っていた。その後は麗子だと思った。そして、その後は。もう、わからなかった。
記憶の霧は、払いのけられないほど濃い。
彼女は長いこと考え、やがて小さく答えた。「……忘れました」
罰ゲームとして、歌を1曲歌わされることになった。
かすれた歌声がホールに響く。音は外れていたが、誰も笑わなかった。
和久は彼女を見つめ、ふと動きを止めた。
彼女は人前で歌うことなど決してない人だったはずだ。なのに、どうして……
そして何より、その目に浮かぶ茫然とした色は演技ではなかった。
彼女は本当に忘れているのだ。
懇親会が終わると、外は土砂降りの雨だった。
和久は部下に先に麗子を送らせ、江津子を振り返ると、冷ややかな目で言った。「お前は、自分で歩いて帰れ」
彼女は何も言わず、ただ頷くと、そのまま雨の中へ歩き出した。
たちまち、全身がずぶ濡れになった。
服が体に貼りつき、髪が頬に張りついている。
彼女はふらつく足取りで歩き、靴が水たまりに踏み込んだ拍子に足首を捻った。
和久は車の中から、バックミラーに映る、どんどん小さくなっていくその後ろ姿を見ていた。
雨が強すぎて、やがて何も見えなくなった。
彼は苛立たしげに煙草に火をつけ、運転していた部下に言った。「ゆっくり走れ」
車は這うような速度で進んだが、バックミラーにその姿が戻ってくることはなかった。
「戻れ」ついに、彼はそう言った。
元の場所に戻ったとき、江津子はすでに泥水の中に倒れていた。
顔は蒼白で全身ずぶ濡れ、手の甲の傷は泥水にまみれ、首元の発疹は一面に広がっていた。
彼女を抱き上げたとき、和久はその体の熱さにぞっとした。
総合病院で、医師は険しい表情を浮かべた。
「40度の高熱です。重いアレルギー反応から喘息発作を起こし、手の傷にも感染が起きています。もう少し遅ければショック状態に陥っていたでしょう。
須賀隊長、前にもはっきり申し上げましたが、奥様の体は限界まで張り詰めた糸のようなものです。これ以上の無理は、命取りになります」
和久は病室の外に立ち、ガラス窓の向こうに横たわる、意識のないその姿を見つめていた。
彼女はひどく小さく、ひどく脆く見えた。まるで今にも砕け散ってしまいそうに。
第6話
江津子は2日間、意識を失ったままだった。
目を覚ますと和久がベッドの脇に座っていて、目の下にはうっすらと隈ができていた。
彼女が目を開けたのを見て、彼は珍しく柔らかな声を出した。
「気がついたか。
医者が、静養が必要だと言っていた」
彼は温かい白湯を彼女の唇に運びながら言う。
「しばらくは、俺がそばについている。
それと、あの懇親会で言ったことはただの冗談だ。気にするな」
江津子は白湯を受け取らず、ただ彼を見つめていた。
その眼差しがあまりにも澄んでいて、あまりにも見知らぬもののようで、和久の胸の奥にわけもなくざわめきが広がった。
「江津子」彼はふいに言った。「体が良くなったら、家に代々伝わる指輪をお前にやる」
それは須賀家に代々、跡取りの妻だけに受け継がれる品だった。
彼女はかつて、その指輪のことで彼と揉めたことがあった。
「あなたは心の中で私を妻だと思っていない」と。
今、彼はそれをくれるという。
けれど彼女はただ茫然と尋ねた。「指輪……そんなに大事なものなの?」
和久の動きが止まった。
「前はあれほど欲しがっていたじゃないか」
彼は彼女の目をじっと見つめた。
「そうだったのね」
彼女は小さく笑った。
「ふふ……それなら、たぶん昔のことなんでしょうね」
あの苛立ちがまた込み上げてくる。
「お前さ」
彼の声が沈んだ。
「俺にそんな態度を取り続けるつもりか。指輪もやる、謝りもした。これ以上、何を望むんだ」
彼女は答えず、ただ窓の外へ目をやった。
退院した日、和久は彼女を連れてある医学会へ向かった。
「お前は昔、こういう会がいちばん好きだったろう」彼は言った。「今日は、お前の母親が受賞した当時の研究を振り返る特別展示もある」
江津子の目にようやく光が宿った。
会場で、彼女は母のパネル展示の前に長い間立っていた。
それは母が研究者として最も評価されていた時期に手がけた研究で、かつて大きな話題を呼んだものだった。
だが、立ち去ろうとしたところで、最新成果の展示コーナーに見覚えのある症例分析報告が目に入った。
署名、梅野麗子。
論文名、「急性外傷感染に対する革新的治療法」。
それは3年前、江津子自身が書いた研究原稿だった。ずっと研究室の机の引き出しに鍵をかけてしまい込み、誰にも見せたことのないものだ。
その場に立ち尽くしたまま、彼女は全身が冷たくなっていくのを感じた。
「この論文、気に入ったか」
和久の声が背後から聞こえた。
「麗子が今回発表した論文、ちょうど若手医学賞を取ったところだ」
江津子はゆっくりと振り返り、彼を見つめた。
「これは私の研究よ」
和久は眉をひそめた。
「何を言っている」
「この『急性外傷感染に対する革新的治療法』は、私が3年前に書いたもの」
彼女は一語一語、はっきりと告げた。
「原稿はずっと私の研究室の机の引き出しに鍵をかけてあったわ」
和久の顔色がわずかに変わった。
もちろん知っている。あの引き出しの鍵を持っているのは、彼と彼女のふたりだけだ。
そして1カ月前、麗子が江津子の研究を見てみたいと言い出し、彼は確かに引き出しを開けたことがあった。
「記憶違いだろう」彼は冷たく言った。「これは麗子が独自に研究したものだ」
「原稿を出すこともできるのよ!」
「江津子」彼が遮った。「やめろ。今日はこれだけ人がいるんだぞ。麗子に恥をかかせたいのか」
彼女は彼を見つめ、ふいに何かを悟った。
「……あなたが、彼女に渡したのね」
和久はしばらく沈黙し、やがて認めた。「そうだ。麗子にはチャンスが必要だった。あの論文は彼女が持っていたほうが価値を発揮できる。お前が何か欲しいなら、俺が与えてやる」
「あれは母の十回忌に捧げるつもりだった研究なのよ!」
「発表できるように俺が手配してやる」彼は当然のように言った。「お前の名前を共同研究者として加えてもいい」
江津子は笑った。目の縁が赤くなっていた。
彼女は演台のほうへ歩いていき、マイクを手に取った。
「皆様にご報告があります。今回の若手医学賞受賞論文『急性外傷感染に対する革新的治療法』は、私の未発表の研究を盗用したものです」
会場がどよめいた。
麗子は真っ青になり、涙ぐみながら言った。
「江津子さん、どうしてそんなひどい濡れ衣を……この論文は私が半年かけて……っ」
和久がマイクを奪い取り、鋭く言い放った。
「江津子。いい加減にしろ!」
彼は、その場にいる全員に向かって宣言した。
「妻は最近、頭部の怪我の影響で記憶が混乱し、おかしなことを口走っています。皆さんにご迷惑をおかけし、申し訳ない」
その日の午後、江津子が3年前に受賞した医学賞について、「研究不正の疑いがある」という匿名の告発が相次いだ。
関係する審査機関は緊急に対応し、彼女が3年前に受賞した医学賞をすべて取り消した。
和久がその受賞取消通知を目の前に投げつけたとき、その声は氷のように冷たかった。
「これが、お前が騒いだ結果だ!」
「……あなたが?」彼女は小さく尋ねた。
「そうだ」
彼はあっさりと認めた。
「これは教訓だ。お前が大人しく言うことを聞くなら、今後、名誉を回復してやることも考えてやる。
麗子にはチャンスが必要だ。そしてお前は……」
彼は一拍置いた。
「隊長の妻として、譲ることを覚えるべきだろう」
江津子はその通知を長い間見つめていた。
そして最後にそれを静かに、細かく引き裂いた。
第7話
麗子はあの論文で一躍脚光を浴び、総合病院の本院に異動し、輝かしい日々を送るようになった。
和久は彼女を溺愛し、惜しみなく資金やコネをつぎ込んだ。誰もが、この「須賀家の妹」が医学界の新星になると噂していた。
だが、医学界の重鎮である蒲生博士が記者会見を開き、麗子の最新論文「外傷治療体系」が、20年前の自身の研究成果をまるごと盗用したものだと告発するに至って、事態は一変した。
動かぬ証拠が、容赦ないほど鮮明な比較図とともに示された。
世間は一瞬で騒然となった。
麗子はぽろぽろと大粒の涙をこぼし、和久の袖にすがりついた。
「和久さん、私知らなかったの……!あの資料は人に頼んで探してもらったもので、オリジナルだって言われて!」
「その相手とは誰だ」
和久の顔が青ざめた。
「それは……江津子さんが紹介してくれた人……」麗子は震えながら言った。「資料には問題ないって言われたから、私、信じてしまって……」
和久は、はっと江津子を見た。
彼女は窓辺に静かに立ち、まるでこのすべてが自分には関係ないことのように佇んでいた。
「江津子」
彼の声は凍てついていた。
「麗子を陥れたのか」
「していない」
「あの資料はお前が彼女に渡したんじゃないのか」
「彼女が私の研究室から持ち出したものよ」江津子は静かに言った。「証人が必要なら、あの日の当直看護師が見ているはず」
麗子の顔が真っ青になった。
ところが、和久は笑った。
「当直看護師は先月もう異動になったのを知らないのか」
江津子は彼を見つめ、ふいに悟った。
「つまり」彼女は小さく言った。「彼女が盗むとあなたは最初からわかっていて、だからあらかじめ病院側に働きかけて、あの人を異動させておいたのね」
「いい加減にしろ」和久が鋭く遮った。「江津子、麗子に嫉妬したからといって、こんな卑劣な手を使って彼女の将来を潰すのか。お前には本当に、呆れ果てる」
和久は病院側に強く働きかけ、ただちに臨時の会議が開かれた。
2時間後、院内掲示板に声明が掲示された。
【総合病院勤務医・須賀江津子について、私怨から梅野麗子氏に不適切な資料を提供し、その名誉を著しく傷つけた疑いがあるため、当院は調査が終了するまで須賀江津子をすべての職務から外し、追って正式な処分を決定する】
一夜にして、江津子は優秀な医師から業界の恥さらしへと転落した。
発表済みの論文も次々と撤回扱いとなり、出身大学は過去に授与した卒業生表彰を取り消し、共同研究先は次々と関係を打ち切った。
さらには彼女の母がかつてヌードデッサンのモデルをしていたという古い話まで掘り返され、心ない噂が津波のように押し寄せた。
「母親が母親なら、娘も娘だな」
「こんな女に医者が務まるものか」
「病院から出ていけ」
和久が麗子を庇いながら裏口から去っていくとき、江津子は人だかりの中で指をさされていた。
誰かが彼女を強く突き飛ばした。
彼女はよろめいて倒れ、額を階段にぶつけ、たちまち血が噴き出した。
和久は一度だけ振り返った。
車の窓越しに、人だかりの中に倒れ、血が地面を染めている江津子の姿が見えた。
その一瞬、何かに心臓をきつく掴まれたような感覚があった。
だが彼はただ視線を戻すと、運転していた部下に言った。「出せ」
江津子は同僚に病院へ運ばれ、7針縫った。
病院を出たとき、頭には包帯が巻かれ、手にはすっかり皺だらけになった新幹線の切符と、離婚届受理証明書が握られていた。
電話が鳴った。病院の上司からの切羽詰まった連絡だった。
「江津子先生、大変なことになった。本部幹部の視察に備えて用意していた救急対応計画を、麗子が勝手に肝心な部分まで書き換えて、まったく要件を満たさない内容にしてしまったんだ。明後日には本部幹部の視察が入る。これは病院全体の信用に関わることだ」
彼女は静かに聞き終え、電話を切った。
タクシーが目の前に停まった。
「駅までお願いします」彼女は言った。
車が動き出す。この街を離れる、最後の道のりへと。