第1章
婚約者の高間孝太郎(たかま こうたろう)が、私の養妹、米光瑞歩(よねみつ みずほ)と新居に用意したベッドで体を重ねる姿を目撃したあの日――
うつ病の症状がひどくなった私、米光留佳(よねみつ るか)は睡眠薬を30錠、一度に飲んだ。
一命を取り留めた私に、両親は静かに切り出した。瑞歩が不治の病に侵され、余命3か月と宣告されたのだと。
「許すかどうかは、お前が決めろ」
孝太郎も目を潤ませて私の前に跪いた。
「君が許してくれても、くれなくても、1か月後には必ず結婚式を挙げる」
後悔に満ちたその表情に、私はついほだされてしまった。
けれど、それも医師である兄、米光蒼介(よねみつ そうすけ)のスマホで、あるやり取りを目にするまでの話だ。
音声メッセージの中で、瑞歩が甘ったるい声を上げて笑っていた。
「やっぱりお兄ちゃんはすごいよ。偽の診断書1枚で、あのイカれた女を思い通りに操れるんだから」
震える手でスマホを握りしめ、私は家族が集まるリビングへ向かった。
兄は無言で煙草に火をつけ、押し黙っていた。
両親はうんざりした顔で私をなじった。
「お前の心が弱すぎるのが悪いんだろう。お前がまた自殺を図るんじゃないかと心配したから、こんな手の込んだ嘘をつく羽目になったんだ」
孝太郎に至っては、恨めしそうに私を睨み、瑞歩を背後に庇いながら、こう言い放ったのだ。
「少しくらい大目に見てやれないのか。家族を滅茶苦茶にする気か」
誰よりも愛した男と、血のつながった家族が、悪びれもせずに放つ言葉を聞きながら、口の中に広がる血の味を感じ、私は静かに笑った。
彼らは瑞歩を守るため、手の込んだ嘘まで吐いて「不治の病」をでっち上げた。
けれど彼らは知らない。私の重度の鬱病が、本物であるということを。
うつ病の身体症状によって、複数の臓器が機能不全に陥っていることも、紛れもない事実だということを。
もう、この家はいらない。
どうせ私は、この冬を越せないのだから。
第1話
兄が灰皿で煙草を揉み消し、低い声で問う。
「……もう気が済んだか?」
私は黙って兄を見つめた。
幼い頃、注射が怖くて泣きじゃくるたび、兄は私を抱きしめて慰めてくれた。「留佳、怖くないぞ。お兄ちゃんがいるからな」って、いつも言ってくれた。
それなのに、私が本当に病に倒れてからは、一度たりとも「苦しくないか」と気遣ってはくれなかった。
私は小さく頷いた。
「わかった。もう暴れたりしない」
そのひと言に、彼らはかえって戸惑ったように顔を見合わせた。
母が警戒するような目で私を見る。
「留佳、どういうつもり?」
「別に。もう騒がないって言っただけよ」
孝太郎が目を潤ませる。
「留佳、二度と早まった真似はしないでくれ」
その顔を見ていると、ふいに酷い疲労感が押し寄せた。
「うん、しない」
誰も信じてくれないだろうけれど。
身分証を取りに部屋へ戻り、引き出しを開けたところで、孝太郎が後を追ってきた。
彼は私の手首を強くつかんだ。
「何をする気だ」
私は振りほどこうとした。
「離して」
ドアの外から母の声がした。
「孝太郎、しっかり見ていて。また何かやらかすに決まってるんだから」
その言葉に、私はその場で凍りついた。
次の瞬間、兄が物置からひと巻きのロープを取り出した。真っ白で、不気味なほど太いロープ。
「お兄ちゃん、私を縛るつもり?」
兄は私の視線を避けた。
「今のお前は精神的に不安定すぎる。少し落ち着け。一晩頭を冷やせ」
瑞歩のために、兄は私を縛り上げて閉じ込めようとしている。
「こんなことして、許されると思ってるの!?」
身を翻して逃げようとした私を、孝太郎が力ずくで椅子へ押さえつける。
どうしても抜け出せなかった。
私の体はとうに限界を迎えていた。あの時、薬を大量に飲んで救急搬送されて以来、少しの間立っているだけで手足が震えるのだ。
兄は俯いたまま、無駄のない手つきで私の両手を縛り上げていく。
ロープが手首に食い込んだ瞬間、痛みに思わず息を呑んだ。
兄は一瞬だけ動きを止め、「動くな。怪我をするのはお前だぞ」と冷たく言い放った。
その横顔を見つめながら、なんて偽善的なのだろうと思った。
部屋の中は隅々までひっくり返されていた。
母は目を腫らしながら言う。
「留佳、お母さんを恨まないで。みんな、あなたに何かあったらと思うと怖いのよ」
私は尋ねた。
「私に何かあるのが怖いの?それとも、大事な瑞歩を、私が傷つけるのが怖いだけ?」
母の顔から血の気が引いた。
ドアの外で、父が低く重たい声を出す。
「いい加減にしろ」
ドアが閉まり、鍵がかかる音に続いて、ドアチェーンを掛ける音がした。
その後、私はベッドに移され、横たわっているうちに、縛られた手首が少しずつ痺れていった。
ドアの外からは瑞歩の泣き声が聞こえ、家族みんなが口々に彼女を慰めている声も聞こえた。
夜が更けた頃、ドアの鍵が開く音がした。
瑞歩が部屋に入ってくる。部屋の明かりはつけず、枕元のスタンドライトだけを点けた。
暖かな橙色の光に照らされた顔に、もう涙の跡はない。
ベッドの傍らに立ち、縛られた私の手を一瞥すると、彼女はゆっくりと口角を歪めて笑った。
「お姉ちゃん、そんな姿になって、惨めだね」
私は冷ややかな視線を返した。
瑞歩は腰を下ろし、声をひそめて言った。
「本当はね、この家の誰も、お姉ちゃんのことなんて愛してない。もうみんな、うんざりしてるの。
孝太郎さんがお姉ちゃんのそばにいるのだって、愛してるからじゃない。昔、命を助けてもらった恩があるから、簡単に切り捨てられないだけ」
私は指先をぎゅっと握りしめた。
瑞歩はさらに顔を近づけてくる。
「私といると楽しいって、彼、言ってたよ」
胸の奥を重い泥で塞がれたように、息苦しくなる。
瑞歩は私を見据えたまま、さらに軽やかに笑った。
「お姉ちゃん、どうしてまだ死なないの?
死んでくれたら、みんな楽になれるのに」
私はしばらく彼女を見つめたあと、ふいに口を開いた。
「……夢でも見てなさい」
瑞歩の顔から笑みが消える。
「あなたに譲る気なんて、ないから」
彼女は眉をひそめた。私は構わず、ゆっくりと言葉を続けた。
「私が婚約を解消しない限り、あなたはいつまで経っても、ただの浮気相手でしかないのよ」
次の瞬間、頬に平手が飛んできた。
私はその勢いでベッドから落ち、腰をベッドの角に強く打ちつける。
痛みのあまり、私は床にうずくまった。
瑞歩は勝ち誇った顔で、床にうずくまる私を見下ろしている。
「これが、身の程知らずの報いよ!」
言い放った直後、彼女は突然、泣き声を上げ始めた。
「お姉ちゃん!どうして私を叩くの!」
そして、薄れゆく意識の中で、私が最後に見たのは――血相を変えて駆け込んできた孝太郎が真っ先に瑞歩へ駆け寄り、その名を呼ぶ光景だった。
第2話
目を覚ますと、消毒液の匂いがした。頬は腫れ上がり、腰は折れたように痛む。
目を開けた瞬間、瑞歩がベッドのそばに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、やっと目を覚ましたのね」
泣き腫らした目は真っ赤で、頬には薄い赤い痕が残っている。
「私、本当に説得したかっただけなのに。どうして私を叩いたの?そのうえ自分で転んで、みんなを怖がらせて」
私は彼女を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
病室には家族全員が揃っていた。ベッドの足元には両親、窓際には兄が寄りかかり、孝太郎は椅子に腰かけている。
目の下には隈ができ、私を見る目には疲れが滲んでいた。
先に口を開いたのは母だった。
「留佳、瑞歩は心配であなたの様子を見に行っただけなのよ。
腹が立ったからって、手を上げていいわけがないでしょう」
私の喉が、ひりつくほど渇いていた。
「あの子の言うことなら、なんでも信じるのね」
父が眉をひそめる。
「じゃあ聞くが、瑞歩がお前を傷つける理由があるとでもいうのか」
私は兄に視線を向けた。
「防犯カメラの映像を確認して。
廊下にカメラがあるはずよ」
瑞歩の指先がぴくりと強張った。
孝太郎が立ち上がる。
「もう確認するよう頼んである」
30分後、防犯カメラの映像が届いた。はっきりと映っていた。深夜1時過ぎ、瑞歩が私の部屋に入っていく姿が。
私は皆を見回した。
「深夜に私の部屋へ入って、何をしていたのか聞かないの?」
瑞歩は泣きながら首を振る。
「私はただ、お姉ちゃんに謝りたかっただけ……っ」
母はすぐに瑞歩を抱き寄せた。
「瑞歩はもう十分つらい思いをしているのよ」
父はこめかみを揉んだ。
「留佳、いい加減にしろ」
兄は手元のカルテを閉じ、淡々と言った。
「お前は昨夜、明らかに精神状態が不安定だった」
私は兄を見つめた。その口調に迷いの色は一切ない。医者というのは、患者の顔すら見ずに診断を下せるものなのか。
孝太郎がベッドのそばに来て、声を落として言った。
「留佳、結婚式は予定通りに挙げる。
マンションが欲しいなら、君の名義にしてもいい。
これ以上騒がないでくれるなら、なんだって話に応じる」
私は尋ねた。
「孝太郎、そんなもので私を丸め込もうとしてるの?」
彼は一瞬、言葉に詰まった。
瑞歩が突然お腹を押さえ、顔を青ざめさせた。
「お姉ちゃん、孝太郎さんを責めないで。
私たちの子には、何の罪もないの」
病室が一瞬で静まり返った。彼女のお腹に目をやった瞬間、私の顔からも血の気が引く。まるで目の前で扉を閉ざされ、私ひとりだけが外に締め出されたような気がした。
母が慌てて瑞歩を支える。
「瑞歩、お腹が痛いの?」
孝太郎の顔色まで変わった。瑞歩を庇うように前に立ち、私を見る目には警戒の色が浮かんでいる。まるで、次の瞬間にも私が襲いかかるとでもいうように。
私はゆっくりと口を開いた。
「あなたたちの、子?」
瑞歩は唇を噛んだ。
「あっ、わざと隠してたわけじゃないの。私、妊娠して……」
血の味が喉の奥にこみ上げる。慌てて飲み込んだせいで、胸が痺れるように痛んだ。
瑞歩は孝太郎の胸に寄りかかり、小さな声で言った。
「お姉ちゃん、怒らないで」
私は二人を見つめた。長い沈黙のあと、ようやく口にした。
「おめでとう」
母は明らかにほっとした顔をした。
「あなたが分かってくれるならよかった。
瑞歩は今、大事な時期なの。もう刺激を与えないであげて」
孝太郎は私を見つめ、何か言いたげな目をしていた。けれど結局、口にしたのはそれだけだった。
「君は、ゆっくり休んでくれ」
家族は瑞歩を囲むようにして病室を出ていった。あまりにも気遣わしげに、あまりにも優しく。まるで死線をくぐり抜けてきたのが、彼女のほうだとでもいうように。
ドアが閉まると、病室は静寂に包まれた。
私はスマホを手に取り、SNSを開いた。
瑞歩の投稿には祝福のコメントがあふれていた。ピンクの風船がパーティールームいっぱいに飾られている。
中央に座る瑞歩が、お腹にそっと手を添えている。背後に立つ孝太郎の手は、彼女の椅子の背に置かれていた。両親は、柔らかな笑みを浮かべている。
投稿にはこう添えられていた。
【幸せのゴールは、新たなスタート~】
私はその写真を、長い間見つめ続けた。コメント欄は、ふたりへの祝福の言葉で埋め尽くされていた。
大学時代の友人グループを開き、ひと言だけ書き込んだ。
【みんな、知ってたの?】
さっきまで賑やかだったグループが、一瞬で静まり返った。
しばらくして、ひとりの女友達から個人宛てにDMが届いた。
【留佳、ごめん。みんな、あなたも知ってると思ってた】
その文字を見つめていると、涙が画面の上に落ちた。
ウェディングドレスの試着をした日、みんなは私を綺麗だと褒めてくれた。1か月後に式を挙げると話した時には、たくさんの祝福をくれた。
あの時すでに、みんなは全部知っていたのだ。
私は画面を暗くし、ゆっくりと目を閉じた。もう、何も聞きたくなかった。
この家は、もういらない。
第3話
私は3日間、病院に入院していた。担当の看護師以外、誰も顔を見せなかった。
4日目の朝、看護師が入院費の支払いを催促しに来た。そこで初めて、入院費が未払いのままになっていることを知った。
私は尋ねた。
「あの人たち、お金を払ってないの?」
看護師は少し困った顔をした。
「昨日、ご家族が一度病院を出られて、あとで支払いに戻ると……」
朝から晩まで待ち続けたけれど、スマートフォンは一度も鳴らなかった。
夜になって、瑞歩がSNSを更新した。
位置情報には、海辺のホテルの名前が表示されていた。
麦わら帽子をかぶり、夕陽を背に立つ彼女の写真だった。
孝太郎が彼女の鞄を持ち、母が上着をかけてやり、父はそばで大切そうに彼女を守っている。
兄はカメラを構え、彼女のどんな表情も見逃すまいとしているようだった。
添えられた一文。
【赤ちゃん、はじめての海】
その写真を見つめるうち、指先が少しずつ強張っていった。
看護師が2度目の支払いを催促しに来た時、私は自分で会計を済ませた。残高は大きく目減りしたが、家に帰るぶんはなんとか残っていた。
家には誰もいなかった。確かに空っぽのはずなのに、家じゅうに彼らが帰って来てはまた出て行った痕跡だけが残っていた。
自室に戻ってドアを閉め、机のそばまで来たところで、突然、血が喉の奥からせり上がり、思わず咳き込んだ。
床に血が飛び散った。
机の角に手をついたまま長く咳き込み、何度も目の前が真っ暗になった。
ようやく咳が治まり、手を洗おうとした。
手を洗っていると、指の間にひと塊の髪の毛が絡みついているのに気づいた。
私はしばらく呆然としたあと、そっと頭に触れてみる。
またひと房、はらりと抜け落ちた。
鏡に映った自分は、別人のように痩せ細っていた。顔は土気色で血の気がなく、唇にも色がない。
孝太郎が以前、言っていたことを思い出す。
「君、いつもそんな暗い顔じゃ、見ているこっちが疲れる」
あの時私は聞いた。
「私、そんなに見苦しい?」
彼は、そうじゃないと答えた。
「ただ、瑞歩がいる時のほうが、部屋の中が明るくなる気がするだけだ」
床にかがみ込んで血を拭き取り、抜けた髪をゴミ箱に捨てた。まるで誰か他人のものを片づけているかのように、その動きはひどく緩慢だった。
それからパソコンを開き、婚約解消の合意書を作成した。
書き終えると、もう1枚紙を取り出した。「遺書」という2文字を書き付けたところで、ペン先が長く止まった。
本当はもっとたくさん書くつもりだった。けれど結局、残したのはほんの数行だけだった。
【もし私が死んでも、悲しむふりはしなくていい。
火葬して、きちんと骨にしてほしい。
そして、もうこの家と関わらせないで】
書き終える頃には疲れ果てていて、机に突っ伏したまま眠りに落ちた。
どれくらい経っただろうか。リビングから物音が聞こえてきた。旅行から戻ってきたのだ。
真っ先に聞こえてきたのは瑞歩の笑い声。母が「ゆっくり、転ばないようにね」と声をかけ、孝太郎は瑞歩に、疲れていないかと小声で尋ねていた。
私は部屋から出なかった。
すぐにドアが開かれた。瑞歩が顔を覗かせ、机の上の紙にすぐ目を留める。彼女は足早に歩み寄り、迷いなく遺書を手に取った。
はっと目を覚ました私は、慌てて奪い返そうとした。
「返して」
彼女は身をかわし、ざっと目を通すなり、すぐに目を赤くした。
「お姉ちゃん、どういうつもり?
こんなものを書いて、私がお姉ちゃんを追い詰めたって、家族みんなに思わせたいの?」
外にいた家族がすぐに駆け込んできた。父は彼女の手の中の紙を見るなり、顔を曇らせた。
母の声が強張る。
「留佳、一体何を考えてるの!?」
私は怒りで胸が締めつけられた。
「それは私のものよ。返して!」
孝太郎が先に紙を取り上げた。読み進めるにつれ、その表情がみるみる険しくなっていく。
母はその場で泣き出した。
「あなたはどうしても妹を死に追いやりたいの!?
妊娠してる子に、こんなものを見せつけてどうするつもり?」
私は母を見つめ、ふいに笑いが漏れた。
「私ひとりを病院に置き去りにして、あの子を連れて海に行ったのはそっちでしょう。
それなのに、私が紙切れを数枚書いただけで、今度は私があの子を追い詰めたことになるの?」
父が冷ややかに言った。
「瑞歩を刺激しちゃいけないのは分かっているだろう。
こんなものをわざわざ見せるのは、あの子に罪悪感を抱かせたいだけじゃないのか」
瑞歩はお腹を押さえ、孝太郎の胸に身を寄せた。
「やっぱり、お姉ちゃんは私とこの子を許せないのね。
私を死に追いやりたいだけなんだ」
何を言っても、誰も信じてはくれない。それが分かっていたから、私はいっそ頷いてみせた。
「ええ、その通りよ。私はそういう狂った女なの。これで満足?」
不意に孝太郎が口を開いた。
「留佳」
手にした紙を握りしめ、その目が赤く染まっていく。
「あの年、実験棟が火事になった時。君が俺を引きずり出してくれた。
俺は君に、命を救ってもらった借りがある」
私は言葉を失った。大学時代のあの火事、私は実験棟に飛び込んで彼を助け出した。
自分自身は煙を吸い込み、半月も入院することになった。
あの時、彼は私の手を握って言ったのだ。
「留佳、俺は一生君を大事にする」と。
孝太郎は紙を机に叩きつけた。
「俺が君に借りがあると思っているんだろう?
それなら、今ここで清算してやる」
言い終えるなり、彼は身を翻して部屋を飛び出していった。その場にいた全員が、一瞬動けなくなった。真っ先に母が悲鳴を上げた。
「孝太郎!」
私は机の角に手をついて立ち上がり、よろめきながら後を追った。廊下の突き当たりに駆けつけた時、3階のベランダの縁に彼の姿が見えた。
孝太郎は一度だけ、私を振り返った。そして、手すりを越え、飛び降りた。
階下から鈍い音が響いた。悲鳴と足音が入り乱れる。
みんなで階下に駆けつけた時、孝太郎は地面に倒れていた。脚が不自然な角度に折れ曲がっている。
命に別状はなかったものの、脚の骨を折っていた。
瑞歩は立っていられないほど泣き崩れていた。母が私を振り返った目は、氷のように冷え切っていた。
次の瞬間、母は駆け寄ってきて私の頬を打った。
「これで満足!?
この家を壊したくて仕方なかったんでしょう」
私はその場に立ち尽くしたまま、顔を横に向けていた。
孝太郎は、自分の意思で飛び降りたのだ。
それはみんな、その目で見ていたはずだった。
けれど結局、悪いのは私だということになっていた。
第4話
孝太郎が飛び降りてから、家はすっかり混乱に包まれた。
けれどどれほど混乱していても、私を気にかける者は誰もいなかった。
私は救急外来のロビーに立ち尽くし、額には冷や汗が滲んでいた。
腹の奥が何度も引きつるように痛み、腰は伸ばせないほどだった。
壁際に寄りかかるように立ち、まるで居場所のない人間であるかのように、夜明けまでそこで待ち続けた。
手術室のほうから戻ってきた兄が、私をちらりと見た。
「これで満足か!お前みたいな性根の腐った女が、こんなに大勢を傷つけておいて、どうしてまだ死なずにいるんだ!」
私は何も答えず、ただ小さく頷いた。
「信じないなら、それでいい」
それから数日、家族は私をいっそう厳しく監視するようになった。どこへ行くにも、誰かの目が付きまとう。
孝太郎は特別個室に入院し、脚の怪我は重かった。
瑞歩がベッドのそばで泣き続け、逆に彼のほうが彼女を慰めていた。
両親は口では「もうこれ以上何かあってはいけない」と言いながら、私を見る目はまるで泥棒でも見るようだった。
3日後、父が1通の書類を私の前に差し出した。表題には【家族の安全に関する誓約書】とあった。数行読み進めたところで、指先の動きが止まった。
【今後、瑞歩を刺激してはならない。
瑞歩を脅してはならない。
彼女と胎児を傷つけてはならない。
もしこれに反した場合、家族との縁を切り、必要に応じて、本人の意思にかかわらず専門医の診察や入院治療を受けさせる】
読み終えて、私は静かに尋ねた。
「つまり今、一番警戒すべき人間は、私だということ?」
母がそばに立ち、目を赤くしていた。
「私たちだってどうしようもないのよ。
瑞歩はお腹に子がいるし、孝太郎もあんなことになって、この家はこれ以上のトラブルはごめんだわ」
私は母を見つめた。
「それで、私は?
誰か一度でも、私に聞いてくれた?」
母は私の視線を避けた。
「……今の状態じゃ、誰も安心できないでしょう」
父が重い声で言った。
「署名しろ。
それで皆が楽になる。
しないなら、この家にお前の居場所はもうない」
私は手元の書類を見下ろした。
署名してもしなくても、同じことだった。
もともと、この家に残るつもりなどなかったのだから。
私はペンを取り、最後のページに署名した。
母は明らかに安堵した様子を見せ、父もようやく厄介事を片づけたとでもいうような顔をした。
けれど、その署名がほんの第一歩にすぎないとは、思いもしなかった。
翌朝、兄が白衣姿の2人を連れて家に入ってきた。私のほうを見ようともせず、ただひと言。
「診察を受けてもらう」
私は一歩後ずさった。
「どういうこと?」
母は顔を上げられずにいた。
「最近の様子があまりにもひどいから……しばらく病院で過ごして」
私は尋ねた。
「何の病院?」
誰も答えなかった。
2人の職員が私の両腕をつかんだ。兄が手にしていた書類に記された病院名が目に入った。
【精神科病院】
私は必死にもがいた。
「行かない!
離してッ」
兄がようやく顔を上げた。
「今のお前を治療せずに、どうしろと言うんだ。
本当に瑞歩に何かあってからじゃ、遅いんだぞ」
私は兄を見つめた。
「私は、あなたの妹よ!」
兄の唇が動きかけたが、言葉にはならなかった。
両親に目を向けた。父は硬い表情のまま。母は泣きながら言った。
「留佳、お母さんのお願いだと思って。しばらく行って、良くなったら帰っておいで」
思わず笑いが漏れ、同時に涙がこぼれた。
「帰っておいで」というのは、まず私を追い出すための言葉だったのだ。
私の声が誰にも届かない場所へ。
瑞歩が家で安心して出産を待てるように、私を追い出したのだ。
車に乗せられる間、近所の人たちが遠巻きに見ていた。
誰かが小声で「長女さん、また具合が悪くなったのね」と囁き、また誰かがため息まじりに「ああいう病気の人って、やっぱり怖いわね」とこぼすのが聞こえた。
誰も知らなかった。私は自分から入院を望んだわけではない。
家族自身の手によって、ここへ連れてこられたのだということを。
精神科病院に着くと、私は診察室へ連れていかれた。
医師が私を診察し、家族からもこれまでの経緯を聞き取った。
私は必死に事情を説明した。
けれど、すでに家族から伝えられていた話と、これまでの自殺未遂や言動の記録が重く受け止められた。
やがて、私の意思にかかわらず入院することになった。
病棟の扉が、私の背後で閉ざされた。
その瞬間、もう二度とここから出られないような気がした。
最初の数日間、私は必死に説明を続けた。けれど誰も信じてはくれない。
入院の手続きは、すべて正式に整っていた。
ここへ連れてきたのは、両親と兄だった。
ここでは、家族のひと言のほうが、私の百の言葉よりも重みを持つように思えた。
薬を飲むのを拒むと、職員たちに押さえつけられ、無理やり薬を飲まされた。
夜中、痛みに身を丸めていると、それも精神状態の不安定さとして記録された。
頭が痛いと訴えると、鎮静薬を増やされた。
昼間はずっと朦朧とし、夜中に目を覚ませば、舌の奥に薬の苦味だけが残っていた。
身体は日に日に弱っていった。少し歩いただけで息が上がり、何を食べても吐き戻し、枕には抜け落ちた髪が散らばっていた。
医師を探しては、身体に本当に異常があるのだと真剣に訴えた。若い医師は私の話に少し耳を傾け、家族の同意書に目を通したあと、まずは今の治療に協力するようにとだけ言った。
ようやく理解した。ここにいる限り、私がどれほど痛みを訴えても、すべて精神症状として片づけられてしまうのだと。
どれくらいの時が過ぎただろう。
両親が一度だけ面会に来た。
面会室のガラス越しに、母は涙を流しながら、言うことを聞いていればすぐに迎えに来ると言った。
私はただ蒼白な顔のまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
その夜、痛みに震えながら、命の火が急速に消えようとしているのを感じた。
血圧を測りに来た看護師の顔色が、見る間に変わる。
何度測り直しても、血圧は異常なほど低かった。
やがて、ストレッチャーの音と慌ただしい足音が響き始めた。
私はすぐに救命処置室へ運ばれることになった。
救命処置室へ運び込まれる頃には、意識はすでに朧げだった。
最後に残ったわずかな意識の中で、ふと、ずっと昔のことを思い出していた。
私は本当に生きたかった。
孝太郎と結婚して、自分だけの家族が欲しかった。
一度でいいから、きちんと愛されてみたかった。
けれどそれは、すべて叶わぬ願いだった。
それから先のことは、何も覚えていない。
両親と兄、そして孝太郎が病院に駆けつけた時には、すでに夜が明けていた。兄は強張った顔で、必死に自分を落ち着かせようとしていた。
救命処置室の前に辿り着いたその時、ちょうど扉が開いた。
医師がマスクを外した。
「残念ですが……
午前5時40分、救命処置の甲斐なく、お亡くなりになりました」