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しきたりを盾に、危篤の父に会わせないクズ夫
御堂家は掟が厳しく、毎月1日は必ず先祖の供養を行う。 御堂家に嫁いで2年、篠原穂波(しのはら ほなみ)は毎月この日になると、夜も明けないうちに起き出していた。 手を清めて香を焚き、お供え物をして、仏壇の掃除をする。今まで一度も失敗したことはなかった。 誰もが彼女を御堂家の良い嫁だと言い、しきたりを重んじ、分をわきまえていると口を揃えて褒め称えた。 しかし今回の供養が終わった後、穂波は義母・御堂芙美子(みどう ふみこ)の部屋を訪れ、離婚の承諾を求めた。 芙美子は眉をひそめた。「何ですって?私が仏間で正座させたからって、冬凌と離婚するというのですか?忘れないで頂戴。この結婚は、2年前にあなたが自分から望んだことでしょう」 穂波は首を横に振った。「ただ突然気づいたんです。冬凌の心が私に向くことは、この先一生ないのだと。お義母様、結婚してからもう2年です。私は、彼を諦めることにしました」 「穂波、嫁いできた時に言ったはずですよ。冬凌は冷たい人間だと。2年経っても、そんなことにも慣れないのですか?」 穂波はふっと笑った。「慣れました。でも、もう疲れ果てました」 芙美子は手を振った。「いいでしょう、好きになさい。離婚の手続きは、こちらで手配しますから」 「ありがとうございます」
Chapters (1)
第1章
御堂家は掟が厳しく、毎月1日は必ず先祖の供養を行う。
御堂家に嫁いで2年、篠原穂波(しのはら ほなみ)は毎月この日になると、夜も明けないうちに起き出していた。
手を清めて香を焚き、お供え物をして、仏壇の掃除をする。今まで一度も失敗したことはなかった。
誰もが彼女を御堂家の良い嫁だと言い、しきたりを重んじ、分をわきまえていると口を揃えて褒め称えた。
しかし今回の供養が終わった後、穂波は義母・御堂芙美子(みどう ふみこ)の部屋を訪れ、離婚の承諾を求めた。
芙美子は眉をひそめた。「何ですって?私が仏間で正座させたからって、冬凌と離婚するというのですか?忘れないで頂戴。この結婚は、2年前にあなたが自分から望んだことでしょう」
穂波は首を横に振った。「ただ突然気づいたんです。冬凌の心が私に向くことは、この先一生ないのだと。お義母様、結婚してからもう2年です。私は、彼を諦めることにしました」
「穂波、嫁いできた時に言ったはずですよ。冬凌は冷たい人間だと。2年経っても、そんなことにも慣れないのですか?」
穂波はふっと笑った。「慣れました。でも、もう疲れ果てました」
芙美子は手を振った。「いいでしょう、好きになさい。離婚の手続きは、こちらで手配しますから」
「ありがとうございます」
第1話
この結婚は確かに彼女自身が望んだものだった。
自分の誕生日パーティーでプールに落ちた時、飛び込んで助けてくれたのは御堂冬凌(みどう とうり)だった。
それ以来、彼女は彼にどうしようもなく惹かれていった。
御堂家が政略結婚の相手を探していると知り、彼女は父親に頼み込んで縁談を進めてもらった。
芙美子が冬凌の意向を尋ねた時、彼はただ頷き、「ああ」と一言返しただけだった。
その短い返事だけで、穂波は世界を手に入れたかのように喜んだ。
嫁いでからも冬凌の態度は冷ややかなままで、月に一度の決められた日以外、彼女に触れることはほとんどなかった。
それでも穂波は十分に満たされていた。いつかきっと彼に愛してもらえると信じていたから。
たとえ冬凌が常に厳格で、穂波が家のしきたりを破れば決して容赦しな、罰を受けた後にただ薬が届けられるだけで、慰めの言葉一つなくとも、彼女は彼を恨まなかった。
「私への愛情がないわけじゃない、元々こういう冷たい人なのだ」と、何度も自分に言い聞かせてきた。
だが今日、彼女は思い知らされた。決してそうではなかったのだと――!
今朝の供養が始まってすぐ、穂波は低血糖でめまいを起こし、持っていたお盆を取り落とし、供え物を床に散乱させてしまった。
芙美子はその場で顔を曇らせ、彼女に仏間で2時間の正座を命じた。
冬凌に庇ってほしい、ほんの一言でいいから口添えしてほしいと彼女は願った。
しかし冬凌は動こうともせず、ただ冷たく言い放った。「母さんの言う通りにしろ。しきたりを破った以上、罰を受けるべきだ」
その時でさえ彼女は自分を納得させ、仏間で丸2時間の正座を耐え抜いた。
ふらつく足取りで母屋へ戻ろうとした時、冬凌が清楚なワンピース姿の女性を労わるように車から降ろしているのを目の当たりにした。
外は激しい雨が降っていた。冬凌は女性が濡れないように深く傘を傾け、自分自身の半身がずぶ濡れになることなど気にも留めていないようだった。
女性に語りかける彼の口元には、かすかな優しい笑みが浮かんでいた。
穂波は雨の中に立ち尽くし、ただ茫然とその光景を見つめていた。
あんな冬凌は見たことがなかった。
「聞いた?旦那様が夏目様を連れてこられたそうよ」
「夏目様って、旦那様の初恋の人のこと?あの人が何も言わずにいなくなってから、旦那様は毎日浴びるように酒を飲んで、事故で死にかけたのよね。
その後、大奥様に強いられて今の奥様と結婚したのに……夏目様が戻ってきたら、奥様はどうなるの?」
「どうなるも何も、私たちが口出しすることじゃないわよ。明日の朝には、この家もすっかり様変わりしているでしょうね!」
使用人たちの噂話を耳にして、穂波ははっきりと悟った。
冬凌は人を愛せないのではなく、ただ自分を愛していなかっただけなのだと。
ならば、この結婚ももう終わりにすべきだ。
第2話
轟音とともに頭上で響いた雷鳴が、穂波の思考を断ち切った。
自室に戻る途中、書斎の前を通りかかると、冬凌の書斎のドアが開いているのが見えた。
彼が書斎への立ち入りを固く禁じていたことを思い出し、そのまま立ち去ろうとした。
その時、突風が吹いて机の上の書類が床に散らばった。彼女は思わず部屋に入り、1枚ずつ拾い集めて綺麗に揃え、机の上に戻した。
書類を置き終えた途端、冬凌が入ってきた。
彼は冷ややかな目で彼女を見下ろした。「俺の書斎には誰も入れるなと言ったはずだ。お前もだ」
穂波は事情を説明しようとした。「ただ、落ちた書類を拾っただけで――」
彼は彼女の言葉を遮った。「出て行け。柴田のところへ行って罰を受けろ」
下げた両手をきつく握りしめ、穂波はそれ以上弁解することなく、そのまま1階へと下りた。
御堂家では、しきたりを破ればいかなる理由があろうと罰を受ける。
また仏間で正座させられるのだと思っていたが、執事の柴田健造(しばた けんぞう)は無言で竹刀を取り出した。
彼女は呆然とした。「柴田さん、仏間で正座ではないのですか?」
「奥様、旦那様から仰せつかっております。書斎には機密書類が置かれており、決して触れてはならない。もし触れた場合は、打ち据え20回の罰を与えるようにと」
「分かりました」
彼女は床に膝をつき、健造が振り下ろす竹刀を、背中に丸20回受け続けた。
ひと打ちごとに容赦なく込められた力に、10回も打たれないうちに全身が痛みに震え出した。
それでも彼女は悲鳴すら上げず、ひたすら耐え忍んだ。
翌朝、彼女は高熱を出した。
朦朧とする意識の中、階下から騒がしい声が聞こえてきた。
「冬凌!この女がかつてあなたに何をしたか忘れたのですか?よくも堂々とこの家に連れ込めたものですね!
あなたはもう結婚しているのですよ。穂波が二階にいるというのに、よその女を連れ込んだと知ったらどう思うか考えなさい!」
「どう思おうと俺の知ったことじゃありません。瑶子は不治の病を患っていて、今は行く当てもないんです。数日この家に滞在させるだけです。それ以外の他意はありません。
穂波がそれしきのことで嫉妬するようなら、俺の妻には相応しくありません」
穂波は手すりのそばまで歩み寄り、階下の光景を見下ろした。
冬凌は床に膝をつき、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。
夏目瑶子(なつめ ようこ)も彼と並んで床に膝をついており、並んだその後ろ姿は誰の目にもお似合いの2人に見えた。
「申し訳ありません、大奥様。私が悪いのです。戻ってくるべきではありませんでした。すぐに出て行きます」
立ち去ろうとする彼女の腕を、冬凌が掴んだ。「行くな。俺が面倒を見ると言った以上、一生お前の面倒を見る」
芙美子がドンとテーブルを叩いた。「馬鹿なことを!どうりで昨夜、穂波が私のところへ来て――」
冬凌は瞬時に怒りを露わにした。「あいつ、また何を吹き込んだんですか!俺が瑶子を連れてきたのを見て、告げ口でもしたんでしょう!」
「あの子は、あなたと離――」
「お義母様!」穂波は背中の痛みをこらえながら、足早に階段を下りた。「冬凌が夏目さんを引き留めたいと言うのなら、そうさせてあげてください」
「篠原さん……」
瑶子は床から立ち上がり、穂波に向かって弱々しく微笑んだ。
「お邪魔して申し訳ありません。冬凌は昔のよしみで私を連れてきてくれただけで、彼にも私にも他意はありません。過去のことはすべて、お互い若気の至りでした。
もちろん、篠原さんが私を疎ましく思われるなら、住む場所が見つかり次第すぐに出て行きます」
彼女の顔色は青白く、その今にも倒れそうな姿は確かに庇護欲をそそるものだった。
穂波は笑って首を横に振った。「疎ましくなんて思っていません。ここは御堂家であり、冬凌がこの家の当主です。彼があなたを住まわせると決めたのなら、私に異存はありません」
「では……ありがとうございます、篠原さん」
「お礼を言うのはまだ早いですよ」芙美子は1枚の書類を取り出し、冬凌の前に突き出した。「この女を家に置きたいというのなら、それでも構いません。ですが、先にこれに署名しなさい」
第3話
冬凌は書類を受け取ると、ためらうことなくサインをした。
芙美子は眉をひそめた。「中身も見ずに署名するなんて!冬凌、私はあなたをそんな風に育てた覚えはありませんよ」
確かに、以前の冬凌ならどんな契約書であっても、隅々まで念入りに確認していた。
必要な時には弁護士を同席させるほどだった。
だが今日、彼は見向きもせず、待ちきれないように署名したのだ。
「瑶子がこの家にいられるなら、どんな書類でもサインします」
「あなたって子は……!」
芙美子は激怒したが、どうすることもできなかった。
「いいでしょう、後悔しないことですね」
穂波には分かっていた。冬凌がサインしたのは、自分との離婚協議書だと。
昨夜、離婚を切り出したばかりだというのに、今朝にはもうサインまで済ませてしまうとは。
その後数日間、彼女は静かに御堂家で過ごし、黙って離婚の手続きが完了するのを待った。
冬凌は連日部屋に戻ってこなかった。穂波はふと、彼のいない日々も気楽なものだと感じ始めていた。
瑶子との交流もほとんどなかったが、ある日、彼女が冬凌の書斎に入ろうとするのを見かけた。
穂波は親切心から忠告した。「夏目さん、冬凌の書斎には入らない方がいいですよ。誰も入らないよう彼が固く禁じていますから」
「そうなんですか?」瑶子は微笑んだ。「でも、どうしても取りに行かなければならない物があって」
彼女は穂波の言葉を聞き入れず、中に入ったばかりか冬凌の引き出しを開け、中から彼の私用の万年筆を取り出した。
「篠原さん、この万年筆に何と彫られているかご存じですか?」
瑶子はそばにあった紙を手に取り、キャップを外し、見せつけるように差し出した。
そこには【夏目瑶子】という名前が刻まれていた。
穂波はその文字を見て、胸の奥がずんと重くなった。
冬凌が「決して触れてはならない機密」と言っていたのは、これのことだったのか?
「何をしているのですか!」
健造が慌てて駆け寄り、瑶子を引きずり出そうとした。「旦那様、申し訳ございません。夏目様が書斎に入られたことに気づきませんでした。しきたり通り、処罰を下されますか?」
いつ戻っていたのか、冬凌が手を挙げて彼を制した。「いや、いい。瑶子は来たばかりで、この家のルールを分かっていないだけだ」
穂波は唇を噛み締めた。背中の傷跡がまだ鈍く痛む。
風を凌ぐために窓を閉め、書類を拾うために足を踏み入れただけの自分には、20回の打ち据えの罰。
部屋に入り、引き出しを漁って私物を持ち出した瑶子には、たったひと言の軽い庇い言葉。
笑えることに、ドアの内側で言葉を交わす彼らを見ながら、彼女はどうしても一歩踏み入れることができなかった。
また彼に罰を下されるのが怖かったからだ。
「私が贈った印鑑、まだ持っていてくれたの?」
瑶子は印鑑を手に取り、満面の笑みを浮かべた。
「お前からの贈り物を捨てるわけがないだろ。これだけじゃない、ここにもある」
冬凌は引き出しの中のものをすべて取り出した。中には瑶子とのツーショット写真、瑶子へ宛てたラブレター、そして彼が自ら折った大量の折り鶴があった……
引き出し一杯に、瑶子にまつわる思い出の品が詰め込まれていたのだ。
穂波は呆然とした――彼が私を書斎に入れなかったのは、これらのものに触れさせたくなかったからなのか?
「全部取っておいてくれたの?冬凌……もしあの時、私が離れていかなければ、私たちはこんな風にならなかったのかな?」
瑶子は目を潤ませたが、ハッと気づいたようにドアの外にいる穂波に慌てて謝った。「ごめんなさい、篠原さん。ただ昔を懐かしく思ってしまって……どうかお気になさらないでくださいませ」
「気にしていませんから、続けてください」
穂波が背を向けて立ち去ろうとすると、冬凌の声が聞こえた。「あいつのことは気にするな。今日は気分はどうだ?」
「随分良くなったわ。冬凌、この書斎って本当に入っちゃ駄目なの?ごめんなさい、これからは気をつけるわね」
「この家では、どんなしきたりもお前には関係ない」
自室に戻ると、穂波の視線は枕元のウェディングフォトに向けられた。
写真の中の彼女は花のように笑っているが、彼の表情は冷たく、その瞳に一切の温かみはなかった。
彼女は写真立てを外し、床に置いた。後で使用人に捨てさせようと思ったのだ。
いつ入ってきたのか、背後から冬凌が声をかけた。「ウェディングフォトを下ろしてどうするつもりだ?」
第4話
「埃を被っていたから、使用人に拭かせようと思って」
「怒っているのか?」
「いいえ」穂波は顔を上げて彼に笑いかけた。「何も怒るようなことなんてないじゃない」
「俺が瑶子を書斎に入れて、お前を入れなかったからだろ」
「あそこはあなたの書斎なのだから、私には口出しする権利なんてないわ」
「穂波、お前は変わったな」
冬凌は眉をひそめた。以前の彼女はこんな風ではなかった。
名家のお嬢様だけあって、少なからず気の強いところがあったのだ。
以前なら、他の女が彼にまとわりついているのを見れば、自ら進み出て牽制し、妻としての所有権を誇示したものだった。
だが今の彼女は、まるで別人のようだった。
長い躊躇いの末、彼は口を開いた。「穂波、瑶子は病気なんだ。俺が面倒を見なければならない。だが、お前が俺の妻であるという事実に変わりはない。それを変えるつもりもない」
その言葉を聞いて、穂波は微笑んだ。
「もうすぐそうじゃなくなるわ」
冬凌は聞き取れなかった。「何だって?」
「何でもないわ。もう遅いから寝ましょう」
彼女が背を向けてベッドに入ると、彼も布団に潜り込み、彼女を抱き寄せて手を這わせ始めた。
彼女はその手を押さえた。「疲れているの」
彼はそれ以上無理強いせず、背を向けるとそのまま部屋を出て行った。
その夜、彼女はひどく寝苦しい夜を過ごした。
午前2時、突然スマホが鳴った。
母親からの電話だった。
「穂波、早く病院に来てちょうだい!お父さんが心臓発作で倒れて、お医者様が危ないって……っ」
「どうしてそんなことに?すぐに行くわ!」
電話を切るなり、穂波は1階へと駆け下りた。
彼女は健造を探し出した。「柴田さん、父が倒れて病院に運ばれたの!早く車を出して、病院まで送って!」
「奥様、現在は午前2時でございます」
健造は慌てる様子もなく答えた。「御堂家のしきたりにより、夜の12時以降はいかなる者も車を使うことは許されておりません」
穂波は気が狂いそうなほど焦っていた。「私でも駄目なの!?今回だけでいいから!私の言葉が聞こえなかったの!?父が心臓発作で病院に運ばれたのよ、今すぐ行かなきゃならないの!」
「申し訳ございません、奥様。旦那様のご命令ですので、我々には逆らえません」
穂波は狂ったように階段を駆け上がり、客室にいる冬凌を探しに行った。
部屋はもぬけの殻で、誰もいなかった。
いくつかの部屋を探したが、冬凌の姿はどこにもない。
瑶子の部屋のドアを開けた時、ようやく見つけた。冬凌は瑶子を抱きしめながら、同じベッドで眠っていたのだ。
その光景は、あまりにもお似合いで、あまりにも残酷だった。
息が詰まるほど胸が痛んだが、それでも彼女はドアを叩いた。
「冬凌」
「穂波、こんな夜更けに何をしている!瑶子の病状が重いことくらい知っているだろう。彼女にとって睡眠がどれほど重要か、分かっているだろう!」
「ごめんなさい。どうしても車を出してもらいたくて、声をかけるしかなかったの」
穂波は泣きながら訴えた。「柴田さんに車を出させて、病院まで送ってもらえない?父が心臓発作で――」
「駄目だ」
彼女の言葉が終わる前に、冬凌が冷酷に遮った。
「夜の12時以降は車の使用を禁じている!」
「どうして!」
そんな新しいしきたりなど、穂波はこれまで一度も聞いたことがなかった。
「瑶子は夜中に発作を起こしやすい。その時に家に車がなければ、彼女は死んでしまう!」
「でも、家には4、5台も車があるじゃない!」涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。穂波にはこのしきたりが到底理解できなかった。「冬凌、1台だけでいいの、お願い……っ」
「駄目だ。家の車は1台たりとも動かしてはならない。万が一どれか1台が故障した時のために、残りの車は予備として置いておくんだ。お前が1台持ち出せば、その分だけ瑶子に危険が及ぶんだ」
「冬凌、私の父なのよ!父が死にそうなのに、まだ起きてもいないことのために、私が父の元へ向かうのを邪魔する気!?あなた、どうかしてるわ!」
耐えきれず怒鳴りつけた彼女を、冬凌は低い声で叱りつけた。「いい加減にしろ。ここで喚くな。瑶子が目を覚ましてしまったら……!」
彼が言い終える前に、腕の中の女が突然目を覚ました。
瑶子は震え出し、全身に冷や汗をかいて、呼吸まで荒くなった。
「瑶子、大丈夫か?」
「苦しい……」
瑶子が苦しげに喘いだ次の瞬間、彼女は意識を失って倒れ込んだ。
冬凌は彼女を抱き上げ、1階へと駆け下りた。
「柴田、車を出せ!病院へ急ぐぞ!」
「かしこまりました、旦那様!」
健造が車を回し、冬凌が瑶子を抱えて乗り込んだ。
穂波は車のドアにしがみつき、自分も乗せていってほしいとすがりついた。
「冬凌、私を病院に連れて行って!お父さんに会いたいの!」
「穂波、お前が騒いだせいで瑶子が発作を起こしたんだろうが!仏間に行って正座でもしてろ!もし瑶子に万が一のことがあったら、ただじゃおかないぞ!」
ドアが乱暴に閉められ、車は猛スピードで走り去っていった。
穂波は冷たい地面に崩れ落ち、完全に絶望した。
第5話
その日は激しい雨が降っていた。穂波は地面から這い上がり、ふらつく足取りで門の外へと歩き出した。
健造は見かねて、傘を広げて彼女の頭上に差し掛けた。
「奥様、やはり屋敷にお戻りください。明日の朝になれば、車をお使いになれますから」
穂波は振り返ることも立ち止まることもなく、ただ前へと進み続けた。
深夜の高級住宅街には、車1台通っていなかった。
10キロもの道のりを歩き続け、ようやく1台のタクシーを見つけた。
だがその車は止まることなく、彼女の脇を通り過ぎる際に泥水を撥ねて走り去っていった。
病院に駆けつけた時、ちょうど医師が父親の顔に白い布を被せ、母親がその傍らで泣き崩れているところだった。
その光景を見た瞬間、穂波は全身から力が抜け落ちた。
彼女は床にへたり込み、大粒の涙をこぼした。
「嘘よ……お父さん……そんなはずないわ!死ぬはずない!」
「どこに行っていたの!」
彼女の姿を見た母親は、駆け寄るなり容赦なく穂波の頬を張り飛ばした。
「お父さん、死ぬ間際までずっとあなたの名前を呼んでいたのよ。あなたに会うために、3時間も耐え抜いたの!
3時間よ、それなのにあなたは病院に来なかった!穂波、あの冬凌に嫁いでから、あなたは私たちをすっかり見放してしまった!
普段ならそれでも構わないわ、母さんは一度もあなたを責めたりしなかった!でもお父さんが心臓発作で倒れたのよ……あんなにあなたを可愛がってくれたお父さんに、どうしてこんな残酷な真似ができるの!」
「お母さん、ごめんなさい!私が悪かったの!」
穂波は泣きながら母親の足にすがりつき、胸が張り裂けんばかりに号泣した。
「私が悪いの!冬凌なんかと結婚するべきじゃなかった。結婚さえしていなければ、お父さんの最期に立ち会えないなんてことにはならなかった!
私が間違っていたわ、本当に間違っていた!お父さん、許して!お母さん!ごめんなさい!」
冬凌に嫁いでからの数年間、穂波が実家に帰る回数は確かに減り続けていた。
冬凌の態度があまりに冷たかったため、彼女は毎日、どうすれば彼に喜んでもらえるかばかりを考えていたのだ。
彼が会社に行き、その日家に帰らないと聞けば、丁寧なお弁当を作り、会社まで届けた。
たとえ冬凌が気に入らず、毎回ゴミ箱へ直行させたとしても、彼女は諦めずに作り続けた。
冬凌が出張すればこっそり後を追い、突然彼の前に現れてサプライズを仕掛けようとした。だが彼にとって、彼女の出現はただの不愉快な驚きでしかなかった。
盆や正月、親戚回りに同行する時も、行きたくない気持ちを押し殺して1日中笑顔を作り続けた。
両親から帰省するように言われても、いつも時間がないと断っていた。
彼女の心は、すべて冬凌に向けられていたからだ。
強い意志を持って尽くし続ければ、どんな困難も乗り越えられ、いつかは思いが通じると信じていた。
どれほど冷酷な男でも、いつかは自分に心を開いてくれると。
だが彼女は間違っていた。今になってようやく、自分の愚かさを思い知ったのだ!
「穂波!母さんもわざと叩いたわけじゃないの、本当に……悲しくて!お父さんは、あなたに会えなくて……無念のまま逝ってしまったのよ!」
母親が彼女を抱きしめて泣き崩れる中、穂波の心はナイフで何度も抉られるように激しく痛んだ。
篠原家の親族が駆けつけ、母親を手伝って父親の遺体を霊安室へと運んでいく。周囲の者たちが葬儀の話し合いを始めた。
穂波は病院の廊下のベンチに座り、うつむいたままひと言も発しなかった。
涙はとうに枯れ果て、もう1滴も出なかった。
今の彼女に残されているのは、果てしない後悔と苦痛だけだ。幸いにも、あと6日経てば、彼女は冬凌と離婚できる。
呆然としていると、不意に遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「冬凌、大丈夫よ。ただの風邪なんだから、そんなに大げさにしないで。お医者様をあんなにたくさん呼んだら、大病だと思われちゃうわ」
「馬鹿言うな。お前の体は今弱っているんだ。ただの風邪でも心配に決まっているだろう」
穂波が顔を上げると、冬凌が瑶子を支えながらこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
穂波の姿に気づいた瞬間、冬凌の顔色は凍りついた。
「なぜここにいる?俺を尾行でもしたのか?」
第6話
穂波は彼をちらりと見ただけで何も言わず、ただ黙ってうつむいた。
彼女は今日になってようやく思い知った。冬凌の心の中で、自分の存在は瑶子の足元にも及ばないのだと。
そうと分かった以上、これ以上冷たくあしらわれてまで彼にすがりつく必要がどこにあるだろう?
それに、父親はもうこの世にいない。今さら彼と口論したところで何の意味もない。
彼女が黙り込んでいるのを見て、冬凌の顔色はさらに険しくなった。
「穂波、答えろ!だんまりを決め込む気か!」
「ちょっと、冬凌。そんな言い方しないで!」
瑶子が彼を遮り、心配そうな顔で言った。「篠原さんの顔色、とても悪いわ。どこか具合が悪くて、病院へ診察に来ただけじゃないかしら?」
彼女は歩み寄り、穂波の手を取った。
「すごく熱い!篠原さん、お熱があるんじゃありませんか?」
「触らないで!」
触れられた瞬間、穂波は無意識に瑶子を強く突き飛ばした。
瑶子はよろけて、そのまま床に尻餅をついた。
彼女は痛みに顔をしかめた。「痛っ……!」
「穂波、何をする!よくも瑶子を突き飛ばしたな!」
冬凌が掴みかかり、穂波を椅子から引きずり下ろすと、容赦なく床に投げ飛ばした。
「くっ……」
元々心身ともに限界を迎えていた彼女は、その衝撃で気を失ってしまった。
意識が遠のく直前、冬凌が瑶子を抱き起こす姿が見えた。
「怪我はないか?医者に診てもらおう」
「冬凌、篠原さんが倒れてしまったわ。早く見てあげて!」
「芝居だ。どうせ俺の気を引くためだろう。昔からこういう手ばかり使ってきたんだ。放っておけ」
彼は一度も振り返ることなく、立ち去っていった。
穂波の心は、完全に冷え切った。
確かに、かつて彼の気を引こうと仮病を使ったり、あの手この手を使ったことはあった。
しかし、それはすべて彼を愛していたからこそだ。
もう彼を愛していない今、気を引くために小細工などするはずがない。
目を覚ますと、穂波は病院のベッドに横たわっていた。
医師によれば、家族には連絡したものの、篠原家は父親の葬儀の準備で手が離せず、付き添いを雇って彼女には病院で休むよう伝えてきたらしい。
彼女は布団を跳ね除けてベッドから降り、退院の準備をした。
看護師が彼女を引き留めた。「篠原さん、お体がまだ弱っています。まだ退院はできません」
「家に帰ります。父の葬儀に出なければならないんです」
「ですが――」看護師は困り顔で言った。「すでに御堂様にもご連絡しておりまして。もうすぐいらっしゃると……」
「あの人は来ません」
穂波は笑った。「それに、顔を見に来てほしいとも思いません」
彼女は歩み出し、迷うことなく病院を後にした。
父親の葬儀は母親が取り仕切っていた。わずか2日の間に、母はすっかり老け込んでしまったようだった。
葬儀の席で、親族の叔父や伯父たちは厳しい顔をして並んで座っていた。
「どういうことだ?今日のような大事な日に、御堂の婿殿が姿を見せないとは」
「穂波、冬凌君には今日がお父さんの葬儀だと伝えたのかい?」
穂波は焼香を終えると、静かに首を横に振った。
「いいえ」
「伝えていないだと?」
伯父が怒って椅子から立ち上がった。「なぜ言わなかったんだ!あいつは篠原家の婿だぞ。当然来るべきだろう!」
「あの人は忙しいんです」
「義父の葬儀より大事な用事なんてあるのか!」
穂波は無表情のままスマホを取り出し、瑶子のインスタを見せた。
今日アップされたいくつかの投稿には、すべて冬凌の姿が写っていた。
彼は瑶子に付き添って遊園地へ行き、メリーゴーランドに乗り、クレーンゲームで遊び、急流すべりを楽しみ、満面の笑みを浮かべていた。
彼女の父親の葬儀に来る暇など、あるはずがない。
「これ……これはどういうことだ?」
穂波は顔を上げ、ひと言ひと言はっきりと告げた。
「叔父様方、今日は父の葬儀です。父が会いたかった人たちは、もう全員集まってくれました。冬凌が来るかどうかなんて、まったく重要ではありません。私はもう、彼と離婚しますから」
その話を聞いた母親は、目を赤くして穂波に尋ねた。「離婚?いつの間にそんな話を?あんなに冬凌君のことを愛していたじゃないの」
穂波の瞳の奥に、静かな決意の色が浮かんだ。「もう愛していないわ。お母さん、私はもう二度とあの人を愛することはないの!」
第7話
葬儀が終わった後、穂波は一度御堂家へ戻った。
屋敷に着いた時、冬凌と瑶子はまだ帰っていなかった。
芙美子は彼女を書斎に呼び、冬凌との離婚届受理証明書を手渡した。
「もう手続きが済んだのですか?」
証明書を受け取ると、穂波は感情が高ぶり、わずかに手が震えた。
手続きはスムーズに済んだようだった。
「ええ、滞りなく進みましたよ」
芙美子は彼女の手をポンポンと軽く叩いた。「お父さんのことは聞きましたよ。あいにく、私が戻った時にはもう葬儀が終わっていました。そうでなければ、必ず私自身で弔問に伺ったものを」
穂波の目から涙がこぼれ落ちた。「お心遣い、感謝いたします」
「穂波、実を言うと、私は以前からあなたのことがあまり好きではありませんでした。ですが、腐っても御堂家の嫁だったのですからね。冷遇して追い出すような真似はしませんよ。
このカードには600億円入っています。あなたがこの数年間、御堂家に嫁いで尽くしてくれたことへの慰謝料だと思いなさい。この家を出てから、もし何か私に頼みたいことがあったら、いつでも訪ねていらっしゃい」
芙美子が自分の手に握らせたカードを見て、穂波は再び涙を流した。
「おかあ……大奥様、ありがとうございます。どうかお元気で。荷物をまとめたら、すぐに出て行きます」
「冬凌の帰りを待たないのかい?」
「結構です」
離婚したのだ。彼が帰ってくるのを待って何の意味があるだろう?
穂波は自室に戻り荷物をまとめ始めたが、私物の大部分はすでに整理してあった。
彼女は薬指の結婚指輪を外し、机の上に置いた。
そして、スーツケースを引きながら部屋を出た。
玄関まで来た時、突然スマホが振動した。
【どうだ?体調は少しは良くなったか?】
冬凌からのメッセージだった。
穂波は一瞬呆然とした。冬凌が自分の体調を気遣うメッセージを送ってくるなんて思いもよらなかった。
返信しようとした矢先、2通目のメッセージが届いた。
【篠原さん、ごめんなさい、私よ!冬凌ったらちっともあなたのことを気にかけないから、彼のスマホを借りて送っちゃった。
私たち、今『グラン・ブルー』にいるの。冬凌はかなり飲んで酔っているから、今夜は帰らないわ。あなたが病院にいるって聞いたから、明日は私たちが迎えに行くわね!】
瑶子からの挑発的なメッセージを見て、穂波はふっと笑みをこぼした。
冬凌のそばにいられる女が、そう単純なわけがないと思っていた。
しかし今や、こんなメッセージで彼女が傷つくことはもうない!
彼女は迷わずスマホからSIMカードを抜き取り、真っ二つに折ってゴミ箱へ捨てた。
――御堂冬凌。あなたが根っからの最低な男だというなら、私の方から捨ててあげる。これから先、私たちは赤の他人。もう二度と関わることはない!
グラン・ブルーにて。
冬凌はかなりの量の酒を飲んでいた。機嫌が悪く、あおるように飲めば飲むほど酔いが回った。
しかし酔えば酔うほど、脳裏には絶えず穂波の姿が浮かんでくる。
あの日、目の前で倒れた穂波の姿と生気を失ったその瞳が、いつまでも頭から離れなかった。
席を立って帰ろうとしたが、立ち上がった途端、足元がふらついてそのまま瑶子の胸へ倒れ込んだ。
誰かがからかった。「冬凌、何年経っても、お前が一番愛しているのはやっぱり瑶子なんだな!」
冬凌は眉をひそめた。「黙れ、誰がそんなこと言った」
「誰の目にも明らかだろうが。しかし、あの穂波ちゃんが2年間も尽くしに尽くしたのに、お前の心を動かせなかったとはな!
そういえば、穂波ちゃんはお前にくっついて歩くのが大好きだっただろ?今日はなんで来てないんだ?」
その男が言い終わるか終わらないかのうちに、VIPルームのドアが開いた。
入ってきた男は冬凌の姿を見るなり、驚いて尋ねた。「冬凌、今日はお前の義父さんの葬儀だろ?行ってないのか?なんでこんなところで飲んでるんだよ?」
体が徐々にこわばり、冬凌の顔色は一瞬にして蒼白になった。
「お前……葬儀って、誰の?」