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仰ぎ見ても、届かぬ月
ウェディングドレスを脱いだばかりの結婚式の夜、藤堂拓海(とうどう たくみ)は酔った勢いで私、水瀬結月(みなせ ゆづき)を背後から抱きしめてきた。 「結月、やっとお前を俺のものにできたな。本当に幸せだよ」 振り返って何か言おうとするより早く、熱を帯びた彼の指先が私の背筋をそっとなぞった。 背骨のくぼみに沿ってゆっくりと指を滑らせ、最終的にブラジャーのホックがあるべき位置でその動きを止める。 指先で何度か探るような仕草を見せた後、拓海は酔いの回った舌足らずな声でぼやいた。 「あれ、ホックがない」 その言葉を聞いた瞬間、全身がサッと凍りついた。 拓海と出会った時、私はすでにパーソナルトレーナーとして5年間働いていた。 動きやすいように、働き始めた頃からずっとスポーツブラを愛用している。だから、彼が探しているようなホックなどあるはずもないのだ。 その瞬間、私ははっきりと悟った。彼は不倫をしているのだ、と。 拓海は何度も寝言を呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。私は身を乗り出し、彼の枕元のナイトテーブルからスマホを手に取った。 ロック画面を解除するまでもなく、メッセージ通知が目に飛び込んできた。 【どうだった?結婚初夜に奥さんに向かって私の名前を呼ぶの、スリル満点だったでしょ?】
Chapters (1)
第1章
ウェディングドレスを脱いだばかりの結婚式の夜、藤堂拓海(とうどう たくみ)は酔った勢いで私、水瀬結月(みなせ ゆづき)を背後から抱きしめてきた。
「結月、やっとお前を俺のものにできたな。本当に幸せだよ」
振り返って何か言おうとするより早く、熱を帯びた彼の指先が私の背筋をそっとなぞった。
背骨のくぼみに沿ってゆっくりと指を滑らせ、最終的にブラジャーのホックがあるべき位置でその動きを止める。
指先で何度か探るような仕草を見せた後、拓海は酔いの回った舌足らずな声でぼやいた。
「あれ、ホックがない」
その言葉を聞いた瞬間、全身がサッと凍りついた。
拓海と出会った時、私はすでにパーソナルトレーナーとして5年間働いていた。
動きやすいように、働き始めた頃からずっとスポーツブラを愛用している。だから、彼が探しているようなホックなどあるはずもないのだ。
その瞬間、私ははっきりと悟った。彼は不倫をしているのだ、と。
拓海は何度も寝言を呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。私は身を乗り出し、彼の枕元のナイトテーブルからスマホを手に取った。
ロック画面を解除するまでもなく、メッセージ通知が目に飛び込んできた。
【どうだった?結婚初夜に奥さんに向かって私の名前を呼ぶの、スリル満点だったでしょ?】
第1話
あっけにとられているうちに、背後から拓海にスマホを奪い取られた。その声にはまだ深い酔いが混じっていた。
「結月、俺は本当にお前を愛してるんだ。賭けに負けたとしても、お前を悲しませたくなかった。お前に向かって元カノの名前を呼ぶなんて、そんなことできるわけないだろ?」
背後からは彼の熱い体温が伝わってくるのに、私の体は芯から冷え切っていた。
拓海は甘えるように私の耳たぶを軽く甘噛みした。
「結月、なんで黙ってるんだよ」
長い沈黙の後、ようやく自分の声が喉から絞り出された。ただ、口にした言葉はひどく震え、早鐘のような心音がそのまま声帯を震わせているかのようだった。
「……西園寺真由(さいおんじ まゆ)とは、もうずっと連絡を取ってないって言ってたよね?」
拓海は体を起こすと、私の顎を掴み、無理やりこちらを振り向かせた。
「でもさ、お前の顔を見てると、どうしても真由を思い出しちゃうんだよ」
「特にお前が眉をひそめた顔なんて、あいつと瓜二つなんだもん」
この上なく優しい口調で、私の心をズタズタに引き裂くような言葉を次々と口にする。
「当ててみようか……どこで気づいた?ブラのホックか?
実を言うと、俺もお前のそういうところにずっと不満があったんだよな。
お前も真由みたいに、もっと女らしければよかったのに。
そう考えると、あいつは俺たちのキューピッドみたいなもんかもな。
だって、真由がいなかったら俺はお前を選んでなかったわけだし」
私は信じられないものを見る目で彼を睨みつけた。
「拓海、この嘘つきっ……!」
彼はわずかに眉をひそめたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。
「そう、それ。怒った顔はもっと真由に似てる」
言いたいことだけを言い放つと、拓海はほどなくして再び寝息を立て始めた。
私は何かに取り憑かれたように再び彼のスマホを手に取り、真由とのLINEのトーク画面を開いていた。
拓海と付き合い始めた当初から、彼には高校から大学にかけて長い間交際していた元カノがいることは知っていた。
破局の理由もよくあるありふれたもので、一方が家庭を望み、もう一方がキャリアを優先したというだけの話だ。
しかし交際中、拓海は「真由とはとっくに綺麗さっぱり縁を切った」と何度も私に誓っていた。
だが今、どれだけスクロールしても底が見えないトーク履歴を目の当たりにして、ずっと騙されていたのだと痛感した。
スマホを握りしめる指は血の気が引いて白くなり、関節が軋むほどの痛みが走る。
混濁する意識を引き戻したのは、突然の手元の振動だった。拓海からの返信がないことにしびれを切らしたのか、画面の向こうの真由からさらに数件のメッセージが届いたのだ。
【やっぱり呼べなかったんでしょ?】
【じゃあ今回の賭けはあなたの負け】
【ハネムーンは私と行く約束だからね】
……
画面に並ぶメッセージを呆然と見つめていると、ポツリと画面に雫が落ちた。その時初めて、自分が泣いていることに気がついた。
なすがままに声を殺して泣いた後、私は決意した。明日、絶対に婚姻届を提出しないと。
最初から嘘で塗り固められていたこんな恋、もう未練はなかった。
第2話
翌朝、私は拓海のスマホのバイブ音で目を覚ました。
昨夜はよほど心身が疲弊していたのだろう。意識が戻ると、私は2人のスマホを抱え込むようにして眠っていた。
画面にメッセージ通知がポップアップしたが、内容を確認するより早く、背後から伸びてきた手にスマホをサッと抜き取られた。
拓海は寝返りざまに私を腕の中へ引き込むと、猫の首根っこでも掴むようにうなじを押さえつけ、そのまま自分の胸元へと押し当ててきた。
「結月、ずいぶん早起きだな」
まだ眠気を引きずった気だるげな声は、昨夜の出来事など初めからなかったかのように平然としていた。
私は身動き一つせず、返答もしない。
私の体のこわばりに気づいた拓海は上体を起こし、品定めでもするように私の顔をじろじろと見つめた。
やがて彼は小さく鼻で笑う。
「まだ昨日のことで怒ってるのか?」
首の後ろを掴む拓海の指にグッと力がこもる。痛みを感じるほどではないが、顔を背けて視線を逸らすことを封じるには十分な力だった。
「わかってるだろ?昨日は俺たちの晴れ舞台だったんだぞ。
嬉しくてつい飲みすぎただけで、全部ただの酔っ払いの戯言だよ。
だから、いい子にして。もう騒ぐのはやめてくれ」
ひどく軽薄なその言葉は、まるで聞き分けのないペットをあやしているかのようだ。
交際を始めたばかりの頃の記憶が唐突に蘇る。あの時も彼はこうして笑いながら私の首の後ろを弄り、「僧帽筋のラインが綺麗だ」と褒めてくれた。
当時の私は、それが恋人同士の親密なスキンシップなのだと信じて疑わなかった。
だが、今は痛いほどわかる。彼はただ、私と真由の首の感触が同じかどうか、自分の手で確かめていただけなのだ。
私は彼の手を振り払い、ベッドから身を起こした。
「婚姻届を出さないわ」
部屋に短い静寂が落ち、拓海の顔からスッと笑みが消え失せた。
「俺のスマホ、見たのか?」
私が口を開くより早く、彼はヌッと顔を近づけ、私がかつて心の底から愛していたその色気のある瞳で、ただじっと私を見据えた。
やがて彼はふと伏し目がちになり、私の右目に軽いキスを落とした。
「でも、怒らないよ。昨夜のお前が怒った顔、本当に真由にそっくりだったからさ。
俺がなんで、入籍より先に結婚式を挙げたがったか知ってるか?
ウェディングドレスを着たお前が、どこまで真由に似るのかこの目で確かめたかったからだ。
お前が真由の代わりにならない限り、その顔を見ながら残りの人生を過ごすなんて、到底受け入れられなかったからな」
吐き気を催すほどの嫌悪感で、胃袋が激しくよじれるのを感じた。
「拓海、あんたって最低の変態よ……!」
「いい加減にしろ!」
突如として拓海の手が私の首を強く締め上げ、スマホの画面を乱暴に目の前へと突きつけてきた。
そこに表示されていたのは、彼が昨夜投稿したインスタグラムの画面だった。
画像は私たちのウェディングフォトで、彼が私の腰を抱き寄せ、私が満面の笑みを浮かべている1枚だ。
キャプションには【これからの人生、すべて君と共に】と添えられている。
投稿の下には、彼の会社の同僚や取引先、そして両家の親族からの「いいね」や祝福のコメントがすき間なく並んでいた。
「結月、これだけ大勢の人間が見てるんだぞ。今さら騒ぎ立てるつもりか?俺のメンツを丸潰れにする気かよ!」
だが次の瞬間、ふと我に返ったように声のトーンを落とし、私の髪を撫でようと手を伸ばしてきた。
「結月、ハネムーンのホテルも手配済みなんだ。ちょっとした『誤解』で全部台無しにするのはやめよう。
文句があるなら帰ってから聞くから。な?」
私はその手を避けるように立ち上がると、洗面所へと逃げ込み、内鍵をがちゃりと閉めた。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。
無意識のうちに手が上がり、自らの眉骨を押さえていた。薄い皮膚の下には、ゴツゴツとした硬い骨の感触がある。
そこを何度も指でなぞりながら、ふと思う。
もし眉骨の形が真由と似ていなかったら、彼は私を選ばなかったのだろうか。
眉骨を押さえる指先に無意識に力がこもる。まるで骨から皮を削ぎ落とすかのように、そのわずかな皮膚を執拗に擦り続けた。
力任せに擦りすぎたせいで、爪の端が皮膚を引っ掻き破ってしまった。
滲み出した小さな血の滴が、眉尻に沿ってツーッと流れ落ちていく。
鏡に映る傷のついた自分の顔を見て、不思議と解放されたような気分になった。
拓海に真由を連想させるこの目元が、少なくとも今この瞬間だけは、彼女とは違うものになれた気がしたからだ。
洗面台に置いたスマホを呆然と見つめていると、不意に画面が点灯した。
拓海からのメッセージだ。
【支度ができたらすぐ出ろ。12時のフライトだ、遅れるな。
あと、鍵をかけるのは気に入らない。次からは閉めるな】
第3話
到底ハネムーンとは呼べないこの旅行に、結局私は同行することになった。
拓海に宥めすかされたからでも、インスタの「いいね」を盾に脅されたからでもない。
彼が家を出る際、祖母の形見である腕輪を勝手に持ち出したからだ。
車窓から流れるぼやけた街並みを眺めながら、私の脳裏に浮かぶのは、亡くなる直前の祖母の姿だった。
当時、祖母が正気を保てる時間はごく僅かになっていた。
けれど、私が婚約したと聞いたその日だけは、奇跡的にしばらくの間意識がはっきりしていたのだ。
認知症に蝕まれ、すっかり痩せ細ってしまった体の中に、あの優しかった頃の祖母が、ほんの少しの間だけ戻ってきてくれたかのようだった。
祖母は私の手を握り、ひどく痩せた手首から腕輪を外し、震える手で私へと差し出した。
「結月、幸せになるんだよ」
あの時の私は涙ながらに頷き、これから先の未来は間違いなく幸せに向かって進んでいくのだと信じて疑わなかった。
だが今にして思えば、私のその考えはどこまでも滑稽なほど間違っていたのだ。
国際線の出発ロビーで、私はスーツケースを引きずりながら拓海の後を歩いていた。
彼は道中スマホの画面から目を離すことなく、大股でスタスタと歩き、終始一度たりとも私を振り返ることはなかった。
「拓海!」
声のする方へ視線をやると、一人の女性がチェックインカウンターに寄りかかりながらこちらに手を振っていた。
私を視界に捉えた瞬間、彼女の目は私の全身を上から下まで値踏みするように舐め回し、最後に3年近く履き古した白いスニーカーでピタリと止まった。
真由だ。
なるほど、確かに顔立ちは私とよく似ている。
やがて彼女はくすりと笑い、「奥さん、すごく従順なのね」と口にした。
だがその視線は終始拓海に向けられており、まるで2人にしか通じないジョークでも共有しているかのようだった。
「来いって言えば尻尾振ってついてくるんだもん。フリップとそっくりじゃない」
フリップというのは、2人が交際中に飼っていた犬の名前だ。
スーツケースのキャリーバーを握る手にギリッと力が入り、プラスチックの硬い感触が関節に食い込んで痛みを走らせる。
私は錆びついた機械のようにギクシャクと首を巡らせて拓海を見据え、震える声で尋ねた。
「……私たちのハネムーンなのに、どうしてこの人がいるの?」
真由は極めて自然な動作で拓海から搭乗券を受け取り、記載事項を確認し、座席の指定まで済ませる。すべての手配を終えると、彼女はようやく私ににっこりと笑いかけた。
「もう知ってるんでしょ?彼、賭けで私に負けたから、ハネムーンは私と過ごす約束になってたのよ。
ただ、まさか本当にあなたまで連れてくるとは思わなかったけどね。でも、あなたがついて来たのって、おばあさんの形見が理由だとか?」
真由は勝手知ったる様子で拓海のポケットに手を突っ込み、中から祖母の腕輪を取り出した。
「これのことよね?」
三日月のようになだらかな弧を描く彼女の笑みの奥に、底知れぬ悪意を秘めた昏い光が宿るのを私は見逃さなかった。
次の瞬間、彼女のしなやかな指先からスッと力が抜ける。腕輪はターミナルの硬い床に落下し、乾いた音を立てて無残に砕け散った。
声を裏返して絶叫する自分の悲鳴が聞こえた。とめどなく溢れる涙で、顔がぐしゃぐしゃになるのがわかる。
拓海が背後から私の腰をきつく抱きすくめる。その優しい声音は、今や毒蛇が耳元を這い回るかのようなおぞましさを伴っていた。
「しっ、騒ぐな。たかが腕輪1つだろ」
その後、自分がどうやって2人に引きずられるようにして飛行機に乗せられ、ホテルに辿り着いたのか、記憶が完全に抜け落ちている。
ハッと我に返った時、手元に2枚のカードキーを弄りながら、真由がフロントからこちらへ歩いてくるところだった。
彼女は1枚目のカードキーを拓海に手渡した。
「あなたのオーシャンビュースイートよ。夕日が正面に見えるバルコニー付きの部屋をわざわざ取っておいたの」
それから手元のバッグをごそごそと探り、数秒後、これ見よがしに薄っぺらいカードキーを抜き出して私に突き出した。
「奥さんはスタンダードルーム。別館のね。なんせ繁忙期だから、この部屋しか空いてなかったのよ」
彼女はそこで言葉を切り、2人にしか聞こえないほどの小声で耳打ちしてきた。
「もし夜中に部屋を替えてほしくなったら……」
彼女はパチリと片目をつぶり、悪びれもしない笑みを浮かべた。
「私に土下座でもしてみる?」
私は無意識に拓海の方へ視線を泳がせた。
彼はちょっと離れた場所に立ち尽くしたまま、うつむいてスマホの画面をスワイプしており、初めから終わりまで一度たりとも顔を上げることはなかった。
部屋に入り、スーツケースを床に寝かせた途端、スマホの画面が明るく光った。
真由が拓海のスマホを使って送りつけてきた、1枚の画像だ。
画像の中で、彼女と拓海はオーシャンビューのバルコニーに肩を並べて立ち、それぞれシャンパングラスを掲げていた。
頭は拓海の肩へと親しげに傾けられ、ひまわりのようにこれ以上ないほど燦々と輝く笑みを浮かべている。
画像の下には、短い一文が添えられていた。
【安心して。あなたの代わりに、彼のお世話はしっかりしておくから】
それを食い入るように見つめ続けるうち、ふと腑に落ちた。
この新婚旅行の主役は、最初から私なんかじゃなかった。
これは彼らのための旅行だったのだ。
私はただ別館の安部屋に隔離され、2人の感動の再会を見せつけられるためだけに呼ばれた、滑稽なエキストラに過ぎなかったのだ。
第4話
翌朝、レストランの大きなガラス窓越しに、拓海と真由の姿を見つけた。
2人は最も海側の景色の良い席に陣取っていた。
真由の前のプレートにはゆで卵が1つ転がっており、拓海は脇目も振らずにその殻を剥いてやっている。
その横顔には、真剣で、どこまでも甘やかな優しさが張り付いていた。あの優しさを、私も知っている。
生理痛に苦しむ私のお腹を、優しくさすってくれた時の顔だ。
誕生日に私の頬を包み込み、「本当に綺麗だよ」と囁いてくれた時の顔だ。
だが真由の視線は、卵を剥く彼の手元ではなく、真っ直ぐにこちらへと向けられていた。
そして、勝者の余裕をこれでもかと口元に浮かべながら、挑発するように私に向かってヒラヒラと手を振ってみせたのだ。
その瞬間、私の脳裏を無数の記憶がフラッシュバックした。
昨夜真由が送りつけてきたあの画像。
カードキーをひけらかし、「土下座でもしてみる?」と嗤ったあの顔。
私が怒った顔は真由にそっくりだと告げた拓海のあの眼差し。
それらが鋭利なガラス片のように喉の奥にへばりつき、容赦なく私の心を切り裂くような痛みを走らせた。
次の瞬間、私は弾かれたようにレストランのドアを押し開け、一直線に2人のテーブルへと突進していた。
「西園寺真由、いい加減にして!」
私が怒鳴りつけるや否や、真由の唇が小刻みに震え出し、瞬く間に目頭が赤く染まっていった。
そして、ぽろりと涙が彼女の目尻を伝い落ちる。
それを見た拓海がガタッと勢いよく立ち上がり、私の腕を掴んでレストランの外へと乱暴に引きずり出した。
大股で歩く彼に引きずられ、体勢を崩した私の膝が隣のテーブルの脚に激突する。あまりの痛みに息が止まりそうになった。
廊下へ出るなり、彼は私を壁に向かって力任せに突き飛ばした。
肩甲骨が壁の出っ張りに強打され、ゴンという鈍い音が廊下に響く。
「みっともない真似すんなよ!真由がせっかくお前も連れてきていいって許可してくれたのに、わざわざレストランまで来て喚き散らすなんて、頭おかしいのか!?
周りの目が気にならねぇのかよ!」
私は彼の顔をまじまじと見つめ返した。この丸2年、ずっと見つめてきた顔を。
けれど今この瞬間、目の前にいるこの男が、得体の知れない赤の他人に思えた。
「……私たちの新婚旅行なのに、真由が許可したってどういうこと?
それに、あの女が私をコケにしてたの、あなたも見てたでしょ」
自分の声が情けなく震えるのがわかる。
「おばあちゃんの形見だって、あいつがわざと壊したんじゃない!
安部屋のカードキーをよこしたのも、昨日の夜わざわざ見せつけるように画像を送ってきたのも、全部あいつが仕組んだことよ!
あなただって全部見てたくせに!なんで……なんであなたは、いつもあの女の肩を持つの?」
拓海は数秒の沈黙の後、ひどくうんざりしたように深い溜息を吐き出した。
「……結月」
「はっきり言ってやる。俺と真由は知り合って10年になるんだ。お前なんか、最初から真由の足元にも及ばないんだよ。藤堂夫人にしてやっただけでも、身に余る光栄だと思え。これ以上図に乗るなよ」
私は呆然と彼を見つめ返し、やがて力なく小さく頷いた。
「……わかったわ」
私は壁に手をついて道を塞ぐ彼の腕を退け、その脇をすり抜けて歩き出した。
部屋に戻るなり、私は手当たり次第に荷物をスーツケースに放り込んだ。
パッキングの最後に洗面台へ向かうと、そこに置きっぱなしにしていた婚約指輪がふと目に入った。
拓海からプロポーズされたのは、2人が初めて出会ったスポーツジムでのことだった。
彼は大勢のギャラリーが見守る中で片膝をつき、「これからの人生をよろしく頼む」と言ってくれた。
あの時の私は、彼がしっかりと私の瞳を見つめながら誓ってくれたのだと信じ込んでいた。
だが今なら痛いほどわかる。彼はただ私に真由の面影を重ね合わせ、彼女に向けて愛を囁いていただけなのだ。
チェックアウトの手続きのためにフロントへ向かうと、ロビーで拓海と鉢合わせた。
おそらくフロントスタッフが真由の部屋へ確認の電話を入れ、私がまた何か面倒を起こす気ではないかと慌てて追ってきたのだろう。
「結月!いい加減、ヒステリー起こすのはやめろ!」
けれども私は彼に一瞥もくれず、足も止めなかった。
そのままスーツケースを引きずってホテルを出ると、タクシーに乗り込む。
車が発進する直前、リアウィンドウ越しに、ホテルのエントランスで何事か喚き散らしている拓海の姿が見えた。
何を言っているのかは聞こえない。
だが、もうどうでもよかった。
運転手がルームミラー越しに私をちらりと窺う。
「お客さん、どちらまで?」
「……空港へ」