Loading promotion info...
存在感ゼロのまま死んだら、家族が狂い始めた
私・小林青葉(こばやし あおば)は10回、生まれ変わった。けれど毎回、存在感が薄すぎるせいで、あっけなく死んだ。 だから今世は、もう足掻かない。どうせまた死ぬのなら、静かにその時を待てばいい。 5歳のとき、拉致された私は迷わず死んだふりをした。犯人は私が死んだと思い込み、病院の裏口に捨てて逃げた。 病院の職員と警察に見つかり、ストレッチャーに乗せられた私は、目を閉じたままぽつりと呟く。 「……早くして。もうこの人生は終わりでいいから」 17歳になって、ようやく実の両親が私を見つけ出した。名門・小林家へ連れ戻される道中、私は当然のように後部座席を拒み、トランクに収まった。 そんな私を見た母は、胸が張り裂けそうな声で泣いた。 「この子、きっと今までたくさんつらい思いをしてきたのね。どうしてそんな場所で平気で横になれるの……」 けれど私は、感情のこもらない声で答えた。 「大丈夫。どうせこの人生も、もうすぐ終わるから。ここは狭いし、死を待つにはちょうどいい」 それを聞いた父は怒りをあらわにした。 「馬鹿なことを言うな!小林家に戻った以上、もうお前は一人じゃない。何があっても、俺たちがお前を守る」 そうして小林家に戻った、その直後。 今まで小林家の娘として暮らしていた小林桃華(こばやし ももか)が、足を滑らせたふりをして私めがけて倒れ込んできた―― 私を、2階の階段から突き落とすために。
Chapters (1)
第1章
私・小林青葉(こばやし あおば)は10回、生まれ変わった。けれど毎回、存在感が薄すぎるせいで、あっけなく死んだ。
だから今世は、もう足掻かない。どうせまた死ぬのなら、静かにその時を待てばいい。
5歳のとき、拉致された私は迷わず死んだふりをした。犯人は私が死んだと思い込み、病院の裏口に捨てて逃げた。
病院の職員と警察に見つかり、ストレッチャーに乗せられた私は、目を閉じたままぽつりと呟く。
「……早くして。もうこの人生は終わりでいいから」
17歳になって、ようやく実の両親が私を見つけ出した。名門・小林家へ連れ戻される道中、私は当然のように後部座席を拒み、トランクに収まった。
そんな私を見た母は、胸が張り裂けそうな声で泣いた。
「この子、きっと今までたくさんつらい思いをしてきたのね。どうしてそんな場所で平気で横になれるの……」
けれど私は、感情のこもらない声で答えた。
「大丈夫。どうせこの人生も、もうすぐ終わるから。ここは狭いし、死を待つにはちょうどいい」
それを聞いた父は怒りをあらわにした。
「馬鹿なことを言うな!小林家に戻った以上、もうお前は一人じゃない。何があっても、俺たちがお前を守る」
そうして小林家に戻った、その直後。
今まで小林家の娘として暮らしていた小林桃華(こばやし ももか)が、足を滑らせたふりをして私めがけて倒れ込んできた――
私を、2階の階段から突き落とすために。
第1話
抵抗する気力もなく、私はそのまま目を閉じた。静かに死を待つつもりだった。
けれど。
鈍い音と短い悲鳴がして、次の瞬間、階段を転げ落ちていったのは私ではなく、桃華のほうだ。勢い余って、自分で足を踏み外したらしい。
おかげで私は、桃華の突き落としからあっさり逃れることになった。
私はそっと目を開け、小さく肩をすくめた。
残念。死ねなかった。
階下から、桃華の引き裂くような泣き声が響いてくる。
私はそれを無視して、静かに死ねそうな場所を探すことにした。
ぐるりと見回した先で、トイレの天井にある、半端に開いた換気ダクトが目に入る。
薄暗い。狭い。鉄板に囲まれている。
棺桶みたいで、落ち着く。
手際よく這い上がると、その中に身を収め、両手を腹の上で組んで目を閉じた。
ほどなくして、下の階から桃華の泣き声が聞こえてきた。
「お姉ちゃんが……本当の娘が戻ってきたんだから、私はもう邪魔なんだって……」
しゃくり上げる声に混じって、途切れ途切れの訴えが聞こえてくる。
「それで、階段から突き落とそうとしたの……」
その声に、下の階が一気に騒がしくなった。
両親と兄の小林大樹(こばやし たいき)が、怒りをあらわにしたまま2階へ駆け上がってきた。
家中の部屋を探し回り、最後に兄がトイレのドアを乱暴に開け放つ。
懐中電灯の光が天井をなぞり、換気ダクトの中で横たわる私を照らし出す。
一瞬、空気が凍りつく。
桃華の泣き声が、嘘みたいにぴたりと止んだ。
母の美由利(みゆり)が震える指で天井を指す。
「今……この子が、あなたを突き落としたって?」
桃華の顔色がさっと変わる。
けれど次の瞬間には、もう泣き顔を作り直していた。母にしがみつき、しゃくり上げる。
「ちがうの……私、お姉ちゃんに挨拶しようとしただけなの。
なのに避けられて、そのあと天井のほうから音がして……
びっくりして足を滑らせちゃって、その拍子に、お姉ちゃんに押されたんだって思い込んじゃったの……」
母の服を握りしめたまま、桃華は涙声で続ける。
「お姉ちゃん……私のこと嫌いなの?お化けの真似までして、私を追い出したいの?」
それを聞いた大樹は、ダクトの中の私をきつく睨みつけた。
「青葉!何を考えてる。なんでそんなところに潜り込んでるんだ!
桃華を怯えさせて、階段から落とすつもりだったのか!」
私は薄く目を開け、虚ろな目で彼らを見下ろす。
「あ、ごめん。ここで横になってただけなんだけど、そんなに驚くと思わなかった。
じゃあ、もう少し奥に入る。音も立てないから。これで平気?」
そう言って身じろぎすると、背中が鉄板に当たり、鈍い音が響いた。
その音で、父の正人(まさと)もさすがに堪忍袋の緒が切れたらしい。
いつの間にか手にしていたゴルフクラブを、ダクトに乱暴に叩きつけた。
「こら!桃華はこの17年、ずっと大事にされてきたんだ!
それをお前、帰ってきた途端に家の中をかき回して……何をするつもりだ!」
父は露骨な嫌悪を浮かべたまま、吐き捨てるように言った。
「家にベッドがないとでも思っているのか!さっさと出てこい!」
私は出なかった。
出たくても、どの部屋へ行けばいいのか分からない。
私のための部屋は、ひとつも用意されていなかったからだ。
結局、ボディーガードに無理やり引きずり出され、私は全身ほこりまみれのままリビングの床へ下ろされた。
母は桃華を抱き寄せたまま、ようやく私に視線を向ける。
「先に体を洗ってきなさい。部屋は……空いているところを使えばいいわ。
でも、もう二度と桃華を怖がらせるような真似はしないで」
そのあと父は使用人に命じて、屋敷中の換気口を塞がせた。私がまた潜り込めないようにするためだろう。
私はほこりまみれのまま、2階を一周した。
家にはたくさん部屋がある。
ピアノ室。書斎。アトリエ。ジム。衣装部屋。
けれど、そのどれもが、もう桃華のものだった。
廊下の突き当たりにある一番奥の物置でさえ、例外じゃなかった。
使用人は目を伏せ、申し訳なさそうに言った。
「申し訳ありません。あちらも昨日、桃華お嬢様のお部屋に決まってしまいまして……」
私は小さくうなずいた。
この家には、私が生きて過ごすための部屋はないらしい。なら、死ぬための場所を探すほうが早いかもしれない。
そう思って、裏庭の温室へ向かった。
隅には、土の入った長いプランターがいくつか並んでいる。
私はその中から、いちばん土の柔らかいものを選び、そっと横たわった。
第2話
真夜中、温室のドアがそっと開いた。
私はプランターの土に身を預けたまま、うとうとしていた。物音には気づいたけれど、わざわざ目を開ける気にはならなかった。
やがて、鼻を刺すような薬品臭が漂い始める。
誰かが温室の花を次々と踏みにじり、除草剤を温室中に無造作に撒き散らした。
最後に、温室のドアに外からしっかりと鍵をかけた。
むせ返るような臭いが、じわじわと温室の中を満たしていく。
喉がひりつき、呼吸が少しずつ苦しくなってくる。
10回も生まれ変わった私にとって、農薬で死ぬことなど、別に珍しくもない。
私は少しだけ体勢を整えると、毒を含んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
これなら、今度こそちゃんと死ねるはず。
意識が遠のきかけた、そのとき。
外から大きな音が響き、夜間の見回りをしていたボディーガードが、温室のガラスドアを蹴り開けた。
冷たい夜気が一気に流れ込み、私は半ば乱暴に引きずり出される。
ほどなくして、屋敷のあちこちで明かりがついた。
両親と兄が、慌ただしい足音を立てて温室へ駆け込んでくる。
母は無残に荒らされた温室を見て、胸を押さえた。
「三年もかけて育てた蘭なのに……!」
父は振り返るなり私の襟元を掴み、思い切り頬を打った。
「青葉!母さんがやっと咲かせた蘭を、よくもめちゃくちゃにしてくれたな!」
頬が焼けるように痛む。
私は打たれた頬に手をやり、残念そうにため息をつくと、天井の隅を指さした。
「私じゃない。そこに監視カメラがあるから、見ればわかる」
その瞬間、桃華の顔がさっと青ざめた。けれど、スカートの裾をぎゅっと握りしめたまま、何も言わない。
兄が冷笑を浮かべて歩み寄った。
「いいだろう。見せてもらおうじゃないか。またあとで、お前に被害者面されても鬱陶しい」
桃華が慌てて何か言おうとしたけれど、その前に執事が監視映像を再生した。
映像には、桃華が辺りを見回し、蘭を踏みにじり、最後には正気を失ったみたいに除草剤を撒き散らしている姿が、はっきり映っている。
もう言い逃れはできないだろう。
桃華はその場に崩れ落ち、ぼろぼろと涙をこぼした。
「ママ、わざとじゃないの……
お姉ちゃんがプランターの中で寝てるのを見たら、小林家がコケにされたみたいで……
私、ついカッとなっちゃって……」
除草剤を撒かれた温室に閉じ込められ、私がどうなろうと、誰も気にしていなかった。
それどころか、兄は桃華をいたわるように抱き起こしながら、私をきつく睨みつける。
「聞いただろう?お前があんなみっともない真似をするからだ。
桃華だって、家の顔に泥を塗るような真似を見れば腹も立つ。母さんが大事にしてきた花をあんなふうに台無しにしたのも、もとはといえばお前のせいだ」
私は彼らを見つめたまま、ひどく平坦な声で言った。
「この家に私の部屋がないから、ここで寝るしかなかったんだけど」
その言葉に、両親はそろって固まった。
母は思わず父に目をやった。
「あなた、部屋を用意していなかったの?」
父は眉をひそめた。
「お前がやるものだと思っていたが」
兄は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「部屋がないなら、そう言えよ!なんでわざわざダクトやプランターなんかに潜り込むんだ!
他人に、小林家がお前を虐げてるって思わせたいのか!」
私は黙った。これ以上、話す気にはなれなかった。
ただ横になって死を待てるなら、場所などどこでもよかった。
その無反応が、兄の癇に障ったらしい。
「そんなに死体ごっこが好きなら、望みどおりにしてやる!」
兄はボディーガードに命じ、ほどなくして木箱がひとつ運ばれてきた。無造作にリビングの床へ置かれる。
「今日からお前はここで寝ろ!いつまでそんな真似が続くか、見ていてやる!」
「そう?ありがとう」
私はためらいもなく木箱に入り、そのまま仰向けに横たわった。
兄は怒りのあまり、木箱を思いきり蹴りつける。
「なんだ、その気味の悪い真似は!見ているこっちが不快になる。
その中で大人しくしてろ!鍵をかけろ!」
カチッ、と乾いた音がした。
外から鍵がかかる。
周囲は一瞬で、完全な闇に包まれた。
木箱はぴったり閉まり、長さもちょうどいい。まるで最初から私のために用意されていたみたいだった。
包まれる感覚が心地いい。ようやく埋葬されたみたいだ。
私は満足そうに口元を緩め、安心して目を閉じた。
第3話
どれだけ経ったのか、木箱の中をかすかに流れ込んでいた空気が、とうとう止まった。
外から、かすかな足音が聞こえる。
そして最後に残っていた通気口の隙間まで、ガムテープでぴったり塞がれた。
箱の中の温度が上がっていく。息をするたび、喉が焼けるように痛い。頭もぼんやりしてきた。
意識が朦朧とする中、過去10回分の人生の記憶がよみがえった。
炎の中で。深い海の底で。瓦礫の下で。
私は何度も助けを求めた。
でも、誰一人として、私のために立ち止まってはくれなかった。
だから今回も、息が詰まりそうでも、指先ひとつ動かさなかった。声も出さなかった。
ただ静かに、息ができなくなるが訪れるのを待っていた。
これで、ろくでもない11回目の人生も、やっと終わる。
――そう思ったのに。
また目が覚めた。
地獄はない。あるのは、鼻を刺す消毒液の匂いだけだ。
父がベッドの前に立ち、青ざめた顔で私を怒鳴っている。
「青葉!お前、頭がおかしいのか!
救急車が家に来たんだぞ。近所にどう思われるか、わかってるのか!
人死にでも出たら、小林家が実の娘を虐待してるって町中に知れ渡るんだぞ!」
私は無表情のまま、天井を見つめる。
兄は腕を組み、虫でも見るような目で私を見下ろしている。
「だから言っただろ、父さん。こいつはわざとだって。
丸1日箱に閉じ込められて、板も叩かない、助けも呼ばない。そんなやついるかよ。
どうせまた、命懸けの芝居を打って、俺たちに気味の悪い思いをさせたいだけだろ」
桃華はすかさず兄の袖をつかみ、目を真っ赤にして涙をぽろぽろこぼした。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんを怒らないで。悪いのは私なの。もっと早く見に行けばよかった……」
しゃくりあげながら、悲しそうに顔を歪める。
「でもお姉ちゃん、窒息しそうになっても、助けを呼ぼうともしなかったの。
きっと私を恨んでいて、こんなやり方で仕返ししようとしたんだわ……」
「何言ってるんだよ」
兄はすぐに言い返した。
「桃華、お前が気にすることじゃない。こんなの、あいつが勝手にやったことだ!」
母はベッドのそばに腰を下ろし、私の青白い顔を見て、困ったようにため息をついた。
そっと布団を整える手つきはやさしいのに、言葉はひとつひとつ胸に刺さる。
「青葉、あなたは考えすぎなのよ。頑固すぎるの。
何か不満があるなら、どうしてちゃんと私たちに言わないの?
私たちは血のつながった家族でしょう?
大樹だって、あなたに少し反省してほしかっただけよ。
それなのに、どうして助けも呼ばなかったの?私たちが放っておくとでも思っていたの?」
兄が鼻で笑い、呼び出しボタンを私の布団に放り投げた。
「持ってろ。
そんなに辛いなら、次からはそれを押せ。
いつまでもそんな顔をするな。まるでこっちが何かしたみたいだ」
白いボタンが手のひらに当たる。冷たくて、硬い。
助けを求めれば、本当に来るのだろうか。
私はうつむき、手のひらの上のボタンを見つめて、そっと押してみた。
兄のスマホから、耳障りな電子音が鳴り響く。
兄は露骨に嫌な顔をした。
「青葉、何のつもりだ。当てつけか?くだらない真似はやめろ」
私は手を引っ込め、淡々と言った。
「別に。ただ、ちゃんと鳴るんだなと思って」
母が歩み寄り、私の頭を撫でた。
「もういいわ、拗ねないで。退院したら、郊外の別荘へ行きましょう。家族みんなで、少しゆっくり過ごしましょう。
気晴らしにもなるし、姉妹で仲を深めるいい機会にもなるわ」
私は呼び出しボタンを握りしめたまま、窓の外の曇り空を見つめた。
何も言わなかった。
彼らがそこまで言うのなら。
もう一度だけ、この人生を試してみよう。
第4話
退院して3日後、私たち家族はそろって別荘へ向かった。
今回は、言われたとおり渋々後部座席に座った。
ここ数日降り続いた雨で、山道はひどくぬかるんでいる。
別荘に着くなり、両親と兄は真っ先に桃華のもとへ向かった。
「桃華、この部屋はお前の好みに合わせて整えたんだ。どうだ、気に入ったか?」
「足りないものがあれば、すぐ言いなさい。すぐに持ってこさせるから」
桃華は父の腕に甘えるようにしがみつき、いかにも愛らしく微笑んだ。
「パパとママが用意してくれたものなら、桃華、何でもうれしい」
みんなの部屋が決まってから、母はようやく私にどの部屋がいいかと尋ねた。
けれど、どうせ残っているのは山側のいちばん奥の部屋だけだ。聞く意味なんてない。
部屋に入ると、私はいつもの癖で中を見回した。
悪くない。ベッドの下は、身を潜めるには十分な広さがある。
私は慣れた手つきでベッドの下に潜り込み、両手を腹の上で組んだ。
夜明けを待つ。あるいは、死を待つ。
真夜中、外から鈍い轟音が響いた。
次の瞬間、地面が大きく揺れる。
裏山が崩れ、土砂が一気に別荘へなだれ込む。
山側に最も近い私の部屋が、真っ先に直撃を受ける。
目を開けたときには、梁と岩がベッドの上に落ち、ベッドはほとんど押し潰されていた。残骸の隙間に、どうにか私の頭上だけわずかな空間が残っている。
折れた木片がふくらはぎに深く食い込み、焼けつくような痛みが走った。
息が詰まり、思わず歯を食いしばる。額には冷や汗がにじんだ。
これまでの10回は、どれもあっさり終わった。
どうやら今回は、死ぬまできっちり苦しめということらしい。
「みんな無事か!」
父の切羽詰まった声が、外から響いてくる。
「俺が気づいて叩き起こさなかったら危なかったぞ。
別荘が土砂を受け止めてくれなきゃ、逃げ場なんてなかった」
懐中電灯の光が闇の中をせわしなく走る。瓦礫の隙間から差し込んだ細い光が、ちょうど私の顔をかすめた。
私は黙って、そのやり取りを聞いていた。
瓦礫の隙間越しに、外の様子がぼんやり見えた。
「青葉は?青葉は出てきたの?」
母は少し離れた庭石にもたれ、肩を震わせながら息を切らしている。
そのそばで、桃華が兄の背に身を寄せ、青ざめた顔のまま、おびえたように口を開く。
「さっき……お姉ちゃんが裏口から走っていくのが見えた気がするの。
すごく速くて、振り向きもしなかった……
呼び止めようとしたけど、怖くて声が出なかった」
兄は拳を握りしめ、低く吐き捨てた。
「あの恩知らず……やっぱり何かあれば、真っ先に自分だけ逃げるんだな。せっかく気分転換に連れてきてやったのに」
母は深いため息をつき、失望したように首を振った。
「こんなときに妹まで見捨てるなんて。本当に薄情な子ね」
瓦礫の下で、頭上の重みがじわじわと増していく。
泥と石が、私の上に残されたわずかな空間を少しずつ押し潰していく。
私は体の脇へそっと手を滑らせた。指先が、ポケットの中の冷たいボタンに触れる。
兄と両親の言葉が、脳裏をよぎった。
――試してみよう。
私はボタンを押した。
一度、二度、三度。
残る力を振り絞って、さらに二度。
外で、不意に耳障りな電子音が鳴った。
隙間越しに、兄がポケットからスマホを取り出すのが見えた。
兄は画面を見るなり、ふっと嗤った。
母はその表情に息をのみ、兄の手元にあるスマホを見てから、崩れた別荘へと視線を移した。
「青葉が……助けを求めてるの?まさか、まだ中にいるの?」
兄は薄く笑った。
そして両親の目の前で、ためらいもなく通知を切った。
「そんなわけないだろ。桃華が見たって言ったじゃないか。あいつはもう外に出てる。
それなのに呼び出しボタンなんか押したってことは、まだ中に取り残されてるふりをしてるだけだ。俺たちをあの中に戻らせるつもりなんだろう。
あの木箱のことをまだ根に持って、仕返ししようとしてるんだ。
ほんと、底意地が悪い。そんなやつに付き合う必要はない」
母は唇を噛み、わずかにためらった。
「でも、もし本当に……」
「母さん、桃華がこの目で見たんだ」
兄は苛立ちをにじませながら、言葉を遮った。
「あいつは、俺たちが慌てるのを見たいだけだよ。
こうやって人を振り回すのは、いつもの手だ」
それきり、もう誰も何も言わなかった。
やがて、懐中電灯の光も遠ざかっていく。
家族は皆、桃華を囲んで気遣うばかりで、私のほうを振り返る者はもういない。
泥と石の重みがついにベッドを完全に押し潰し、そのまま私の上へのしかかった。
私はそっと目を閉じる。
どうやら、死を待つまでもなく、もう終わるらしい。
……
サーチライトで崩れた別荘を照らしながら、救助ヘリが轟音とともに到着した。
ヘリから降り立った救助隊長が降り立ち、大声で叫ぶ。
「別荘の中に、まだ人は残っていますか!」
「いません」
父親の正人、母親の美由利、そして兄の大樹が、口をそろえて答えた。
そのとき、別荘の管理人が真っ青な顔で駆け寄ってきた。
「違います!まだ中に一人います!」
彼は監視用のタブレットを掲げ、震える声で訴えた。
「記録では、土砂崩れのあと外に出たのは、ここにいる四人だけです。
それ以外に、どの出入口からも外へ出た人は確認されていません!」
隊員が生命探知機に目を落とす。無機質な電子音が短く鳴った。
「別荘下部、生体反応……確認できません」