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私が一番じゃない恋は、もういらない
映画が終わったあと、私・橘綾菜(たちばな あやな)は駐車券の精算をしに自動精算機へ向かった。 ほんの3分もかからなかったはずなのに、車のあったところへ戻ると、彼氏・周防朔(すおう さく)の車はすでに駐車場を出たところだった。 助手席には親友の水野寧々(みずの ねね)が座っていて、私の折りたたみ傘は後部座席に置きっぱなし。 駐車場の外では、激しい雨が白い壁のように降りしきっていた。 そのとき、スマホが震えた。 【寧々、胃がひどく痛いらしいから、先に病院へ送ってくる。俺のことは待たなくていいから、自分でタクシーを拾って帰ってて】 私は駐車場に立ったまま、朔の車のテールランプが見えなくなるまで見送った。 今回ばかりは、どうしてまた私を置いていったのかと問い詰める気にもならず、私はそっとスマホの画面を消した。
Chapters (1)
第1章
映画が終わったあと、私・橘綾菜(たちばな あやな)は駐車券の精算をしに自動精算機へ向かった。
ほんの3分もかからなかったはずなのに、車のあったところへ戻ると、彼氏・周防朔(すおう さく)の車はすでに駐車場を出たところだった。
助手席には親友の水野寧々(みずの ねね)が座っていて、私の折りたたみ傘は後部座席に置きっぱなし。
駐車場の外では、激しい雨が白い壁のように降りしきっていた。
そのとき、スマホが震えた。
【寧々、胃がひどく痛いらしいから、先に病院へ送ってくる。俺のことは待たなくていいから、自分でタクシーを拾って帰ってて】
私は駐車場に立ったまま、朔の車のテールランプが見えなくなるまで見送った。
今回ばかりは、どうしてまた私を置いていったのかと問い詰める気にもならず、私はそっとスマホの画面を消した。
第1話
雨はいつまでも止まなかった。
映画館は新しく開発された街の中心部からかなり離れたエリアにあり、さらには、公共交通機関もあまりないため、配車アプリを開いても、順番待ちはかなりの人数がいた。
以前の私なら、きっとすぐに朔へ電話していただろう。そして、一度出なければもう一度かけ、それでもつながらなければ、きっと運転中なのだと自分に言い聞かせていたはずだ。
でも、その日は何もしなかった。
終電に乗って2回乗り換え、電車が通っていない駅から家までの最後の区間は、コンビニで買ったビニール傘をさして20分歩いた。
祖母の家に着く頃には、ズボンの裾までびしょ濡れになっていた。
祖母はまだ起きていて、私が鍵を開ける音を聞くと、老眼鏡をかけたまま寝室から顔を出す。
「綾菜ちゃん?こんな時間にどうしたの?」
靴を脱ぎかけた手が止まる。
「おばあちゃんに会いたくなっちゃって」
祖母は嬉しそうに笑った。
「まあ、口がうまいんだから」
祖母はそのまま台所へ向かった。私は玄関にしゃがみ込み、濡れた靴を見つめているうちに、なぜか泣きそうになった。
朔と付き合って4年。
この4年間、私は彼を待つことにすっかり慣れていた。
仕事が終わるのを、会議が終わるのを、図面の修正が済むのを、出張から帰ってくるのを……そして、寧々と一緒に現場を見終わるのも、何度もかかってくる「大事な電話」が終わるのも、いつだって待っていた。
私がもう少し我慢すれば、彼もきっと時間を作ってくれる。ずっとそう思っていたから。
すると、朔からメッセージが届いた。
【家に着いたか?】
その30分後、もう一通。
【寧々、急性胃炎だった。今、点滴を受けてる】
私は返信しなかった。
すると、ほどなくして3通目が届いた。
【明日の朝、仕事に行く時にさ、お前の店の塩ベーグルを二つ作ってくれないか?寧々、しばらく脂っこいものは食べられないらしいから】
画面をしばらく見つめてから、私はふっと笑ってしまった。
彼はようやく、私の仕事を思い出したらしい。
私はパティシエだ。正確に言うと、ショッピングモールにあるチェーンのベーカリーで働くケーキ職人で、普段はデコレーションやスイーツ作りを担当している。
朔や寧々の周りにいる建築家やデザイナーの友人たちから見れば、私の仕事はたいしたスキルもいらないものなのだろう。
彼らが建物の外観や人の動線、建材の納まり、コンペの企画案について話す一方で、私が考えるのは生クリームの泡立て具合や、チョコレートをテンパリングする温度のことばかり。
朔は昔、冗談めかして私を「橘シェフ」と呼んでいた。でも、いつの間にかこう言うようになった。
「お前、ケーキ作ってるだけだろ?」
彼に悪気はない。少なくとも、今までの私はずっとそう自分に言い聞かせてきた。
私は一言だけ返す。
「作れない」
すぐに彼から電話がかかってきたけれど、私は出もしないでそのまま切った。
またかかってきたから、今度はマナーモードにする。
すると、祖母が温めたお汁粉を持ってきてくれた。
「朔くんと喧嘩でもしたの?」
「ううん。ただ、ちょっと疲れちゃって」
祖母はそれ以上何も聞かず、ただ私の頭を優しく撫でてくれた。
「じゃあ、今夜はもう寝なさい。考えるのは、ぐっすり眠ってからでいいんだから」
私は俯いて、祖母の手作りのお汁粉を飲んだ。しかも、私のために少し甘さ控えめに作ってくれている。
そういえば朔は、もうずいぶん長いこと、私の好きな食べ物なんて聞いてくれなくなっていた。
翌日、私はいつも通り出勤した。
9時を少し過ぎた頃、朔がやって来た。昨夜と同じ黒いコートを着ていて、目の下にはうっすらとクマができている。
「なんで電話に出ないんだ?」
「忙しかったから」
「昨日の夜は?」
「寝てた」
彼は眉をひそめた。私がこんなに素っ気ない態度を取るとは思わなかったのだろう。
「寧々は一晩中病院で寝てたんだ。医者から、しばらくはあっさりしたものしか食べちゃダメだって言われてる」
私はうなずいた。
「そう」
彼は数秒ほど待ってから口を開いた。
「ベーグルは?」
私はようやく顔を上げ、彼をまっすぐ見つめた。
第2話
「昨日の夜も言ったでしょ。作れないって」
「毎日作ってるんじゃないのか?」
「今日はもう売り切れたの」
朔の視線が、作業台の端に置かれた紙袋に落ちた。
気づかれたと分かった。あれは私が自分のために残しておいた朝ごはんだ。
彼は迷わず手を伸ばした。
「ここに一つあるじゃないか」
私は彼より先に、紙袋をサッと引き寄せた。
朔はハッとして手を止め、私も一瞬固まってしまう。
以前の私なら、ベーグル1個くらい喜んで譲っていただろう。それに、寧々が夜中に「キャラメルプリンが食べたい」と言えば、わざわざ起きて作ってあげたことだってある。なぜなら、寧々は私の一番の親友だったし、そんなとき朔が決まって言ってくれたからだ。
「やっぱり綾菜は優しいな」
でも、いつからだろう。私が何でも聞き入れるのも、自分のものを譲るのも、自分の予定を彼らのために後回しにするのも……彼らにとっては、すっかり当たり前になっていた。
朔がじっと私を見る。
「たかがパン一つだろ」
私は紙袋を自分のロッカーにしまった。
「だから、よそで買えば?」
彼は少し不機嫌そうに顔をしかめた。
「綾菜、最近いったいどうしたんだよ?」
「別に」
「昨日は急だったんだよ。寧々があんなに痛がって、顔まで真っ青になってるのに、先にお前を送っていくわけにはいかないだろ?」
私は手についたクリームをきれいに拭き取った。
「私を先に送ってなんて言ってない」
「じゃあ、なんでそんな態度なんだよ?」
私は朔を見つめたまま、何も言えなくなった。
彼は、私が家まで送ってもらえなかったから怒っていると思っているのだ。
でも私が本当に悲しかったのは、彼が車を出す時、私に一言の連絡すらくれなかったこと。私から電話をしなければ、彼は私がずっと地下駐車場で待っていたことにさえ気づかなかったかもしれない。
けれど、そんなことを今さら説明する気にはなれなかった。
私は静かに目を伏せた。
「これから病院に行くんじゃないの?早く行ってあげたら?」
朔はしばらくその場に立っていたが、やがて背を向けて出て行った。
10分後、ガラス戸越しに、別の店の袋を提げて通り過ぎる彼が見えた。
ホットミルクにサンドイッチ、それから暇つぶしになるようにと雑誌や漫画まで。まったく……至れり尽くせりだ。
その姿を見て、私は半月ほど前のことを思い出した。あの夜、胃が痛くてソファにうずくまっていた私は、家に胃薬があるか朔に尋ねた。けれど、書斎で図面を直していた朔は振り返りもせず、「救急箱に入ってないか、自分で探してみて」と答えただけだった。
昼休み、同僚の井上美咲(いのうえ みさき)が休憩室でカップ麺を食べていた。
「今日、彼氏さんは仕事終わりまで待っててくれないんですか?」
私は最後のクリームの花を絞りながら答えた。
「忙しいみたい」
美咲は「そうですか」と頷き、少ししてからまた口を開いた。
「そういえば、朝、彼氏さんと一緒にくる髪の長い人って、橘さんのお友達ですよね?最近、あの2人でよくお店に来るんですよ」
絞り袋を持つ私の手がピタリと止まった。
「いつですか?」
「あなたが休みの日ですよ。先週の水曜日と、その前の日曜日も来てましたよ。女の人がコーヒーを買ってる間、橘さんの彼氏さんは隣で待ってて。てっきり同じ職場の人なのかと思ってました」
同じ職場なのは間違いない。
2年前、寧々が前の会社を辞めたとき、朔の勤める設計事務所に紹介したのは私だった。
寧々とは高校時代からの付き合いだ。同じ通りに住んでいて、一緒に授業をサボったことも、夜通し語り合ったこともある。寧々の大学合格発表があった夜には、2人で抱き合って泣いた。
寧々は難関大学に進み、インテリアデザインを学んだ。
一方、成績が平凡だった私は製菓の専門学校へ進み、卒業後は今の店に就職した。
朔は、寧々の大学の同級生で、私が彼と初めて会ったのは、寧々の24歳の誕生日だった。
あの日の帰り、私の原付バイクが道端で故障してしまった。みんなが帰ってしまう中、朔だけが残って、2キロの道のりを一緒に押して歩いてくれたのだ。
道中、朔はほとんど何も話さなかった。ようやく修理屋に着いたときにはもう閉店していて、どうしようかと思っていると、朔は袖をまくってその場にしゃがみ込み、20分以上も私の原付を調べてくれた。
そして、外れていたチェーンを本当に元どおりに直してしまったのだ。手は真っ黒な油で汚れていた。
私がウェットティッシュを差し出すと、彼は顔を上げて私を見た。
「動くか試してみて」
それがきっかけで、彼を好きになり、私から告白をした。
朔は無口で打ち解けるのに時間がかかる人だったけれど、付き合い始めてからは、本当によくしてくれた。
第3話
私が早番の日には、朝6時半に起きて車で送ってくれたし、新作スイーツの開発に失敗したときも、見た目の悪いケーキを一つ残らず食べてくれた。
初めて店の社内コンテストに出たときは、緊張で一睡もできなかった私のために、控室の前で4時間も待っていてくれた。
あの頃の朔は甘いものが苦手だったのに、私が作った甘さたっぷりのイチゴのケーキをきれいに平らげて、こう言ってくれた。
「うちの橘シェフが作るものは、何でもおいしいよ」
だから、朔がだんだん忙しくなっても、仕方がないと思っていた。いつまでも付き合い始めのようにはいかないし、今は仕事が忙しいだけなのだと。
寧々が朔の設計事務所に入ってから、二人はいくつもの案件を一緒に担当するようになった。寧々は頭の回転が速く、専門知識も豊富で、人とのやり取りもうまい。
朔が建築設計を担当し、寧々が内装の詳細設計を進めるうちに、二人の息はどんどん合っていって、食事中も、歩いているときも、私の家に遊びに来たときでさえ、二人は仕事の話ばかりしていた。
最初の頃は、私もわざと会話に割って入っていた。
「私にわからない話は禁止!」
すると、寧々は笑いながら手を挙げるのだ。
「了解!じゃあ、今日は仕事の話をした人が罰ゲームね!」
けれど10分もしないうちに、二人はまた何かの建材をめぐって議論を始める。
口を挟めない私は、仕方なくキッチンへ行ってフルーツを切り、そしてリビングに戻ると、二人はさっき私とした約束なんてすっかり忘れているのが常だった。
ずっと、それが普通なのだと思っていたが、最近になって気づいた。長い間ないがしろにされ続けると、人は自分を後回しにする相手のために、いつの間にか自分から言い訳を考えるようになるのだと。
午後3時、朔からメッセージが来た。
【寧々が退院したよ】
私は返信しなかった。
しばらくして、また連絡が来る。
【夜、マンションに帰ってくるか?】
やっぱり返信しなかった。
朔とは1年以上同棲していて、住んでいるマンションは彼が借りたものだった。
今年の初め、朔はローンを組んで家を購入した。リフォームが終わったら一緒に引っ越そうと言われ、私はこっそりキッチンの寸法を測って、ビルトインオーブンを買おうと考えていた。
でもその夜、仕事が終わった私はそのまま祖母の家へ向かった。
朔から電話がかかってきた。
「いつ帰ってくるんだ?」
「しばらく、おばあちゃんのところに泊まるから」
彼は一瞬、黙り込んだ。
「昨日の夜のことで怒ってるのか?」
「怒ってないよ」
「じゃあ、なんでだよ?」
私は少し考えた。
「ただ、おばあちゃんと一緒にいたくなっただけ」
「好きにしろ」
彼は不機嫌そうな声でそれだけ言うと、電話を切った。
暗くなった画面を見つめていると、やっぱり胸は痛んだけれど、前とは何かが違った。
昔の私なら、彼の声が少し冷たいだけで「自分がわがままだったかな」と反省していたが、今は、ただどっと疲れを感じるだけ。
祖母がフルーツを切ってくれて、私の隣に座る。
「朔くん?あなたたち、もうすぐ結婚するんじゃなかったのかい?」
私はぽかんとした。
「誰がそんなこと言ったの?」
「あなたのお父さんよ。朔くん、マンションを買ったんでしょ?キッチンの内装も、あなたの好みを聞いてくれたって話だけど」
私は何も言えなかった。だって結局、キッチンは私の希望通りにはならなかったから。
翌日は休日で、朔から新しい家へ建材を見に来るように言われた。
新居に着くと、すでに寧々がいた。作業用のパンツをはき、何枚もの色見本を手にしている。その隣には朔が立ち、二人でキッチンの壁を眺めていた。
寧々は私に気づくと、すぐに手を振った。
「綾菜!今ね、朔と話してたんだけど、キッチンの壁を取っ払って、オープンキッチンにするのはどうかなって」
私は朔の方を見た。
「キッチンは独立型のままにするって言ってなかった?」
家を買うとき、私が出した希望はたった一つ。
仕事では毎日バターや生クリームを扱っているけれど、家では食べ慣れた家庭料理を作るのが好きだから、リビングに油や料理のにおいが広がらない独立型のキッチンがいいということ。
朔もその希望を聞き入れてくれたはずなのに、今は図面を見ながら眉を寄せている。
「寧々の言うことも一理あるんだ。広い家じゃないし、壁をなくしたほうが開放感が出るだろ」
寧々は笑顔で私の腕を引っ張った。
「見た目もおしゃれになるし、アイランドキッチンなら綾菜もお菓子を作りやすいでしょ?型を収納できる棚も、壁一面に作ってあげるから」
彼女を見つめているうちに、なんだか無性におかしくなってきた。
ここは私と朔が住むはずの家なのに、タイルから照明、棚の取っ手に至るまで、彼女の方が私よりずっと詳しく把握している。
私は彼女の手から、自分の腕をすっと引き抜いた。
第4話
「私の分は、もう考えなくていいよ」
寧々はきょとんとした顔になり、朔も私の方を向く。
「どういう意味だ?」
「べつに。二人がいいと思うなら、それでいいよ」
私がドアの方へ歩き出すと、朔が追いかけてきた。
「綾菜、いちいち嫌味っぽい言い方するの、やめられないのか?」
私は足を止めて、彼を振り返った。
「じゃあ、これからは二人の好きなように内装を決めて。どうせ私は住まないから」
彼は言葉を失っていた。
寧々が先にふっと笑った。
「綾菜、またそんな冗談ばっかり言って」
私も笑った。
「冗談じゃないよ」
数日後、私たちが付き合って4年目の記念日がやってきた。
朔は忘れていたし、実を言えば私も忘れかけていた。
午前中、美咲が私に声をかけてくれた。
「今日って、記念日じゃありませんでした?」
それでようやく思い出したのだ。
去年のこの日、朔はネックレスをプレゼントしてくれた。
その前の年は一緒に海へ行ったし、もっと前には、夜11時まで店の前で待っていてくれたこともある。あのとき朔が抱えていたトルコキキョウの花束は、風に吹かれてすっかり形が崩れていた。
でも今年は、メッセージが一通届いただけ。
【今夜は残業になるから、先に寝てて】
私は画面を数秒見つめてから、返信した。
【わかった】
それでも私は、とても小さなケーキを一つ焼いた。彼を待つためではなく、すでに材料を用意してしまっていたからだ。
祖母が好きな、マロンクリームのケーキ。
夜の8時、私はケーキを持って祖母の家へ行った。
ケーキを切り分けたところで、朔から電話がかかってきた。
電話に出ると、向こうは工事現場らしく、周囲がひどく騒がしかった。
「今どこ?」
「おばあちゃんの家」
「なんでまたそっちに行ったんだ?」
「残業じゃなかったの?」
彼は少し言葉に詰まった。
「寧々の現場で急にトラブルがあったから、様子を見に来たんだ」
やっぱり。
私は尋ねた。
「今日が何の日か、覚えてる?」
電話の向こうが急に静まり返り、数秒後に彼は言った。
「綾菜、最近本当に忙しいんだよ」
私はふっと笑った。
「わかってる」
「わかってるなら、こんな時にそんなこと言うなよ。もう4年だぞ。いちいち日付にこだわる必要があるのか?」
私は答えなかった。
彼は言葉を続ける。
「このプロジェクトが終わったら、埋め合わせするから」
「いらない」
「え?」
私はフォークでケーキを小さく切り分けた。
「朔、私たち別れよう」
電話の向こうは長い間、沈黙していた。風がマイクに当たる音まで聞こえてくる。
やがて彼は、疲れをにじませてふっと笑った。
「最近、暇すぎて余計なことばかり考えてるんじゃないのか?」
私はフォークをぎゅっと握りしめた。
「本気だよ」
「記念日に一緒に過ごせなかったから?」
「違う」
「じゃあキッチンのことか?」
「それでもない」
彼の声に、ようやく少し苛立ちが混じった。
「じゃあ、いったい何なんだよ?」
答えようとしたけれど、言いたいことがあまりにも多すぎて、何から話せばいいのかわからない。
あの日の雨、胃薬のこと、ベーグルのこと、キッチンのこと……それに、何度も一緒に食事をしているのに、朔と寧々だけで私にはわからない話を続けていたこと、私が名前を呼んでも、寧々が話し終わるまで朔は振り向いてくれなかったこと。
寧々が朔を必要とするときは、いつだって大事な用事になるのに、私が朔を必要とすると、ただ感情的になっているだけだと思われること……
どれも小さなことばかりで、一つずつ取り上げれば、きっと私のほうが大げさに騒いでいるように見えるのだろう。
だから最後に、こう伝えることしかできなかった。
「もう、一緒にいたくないから」
そのとき電話の向こうから、「周防さん」と呼ぶ声が聞こえ、続いて寧々の声がした。
「朔、ちょっとこっち見てもらえる?」
朔が小さく返事をするのが聞こえ、そして私にこう言った。
「綾菜、とりあえず落ち着いてくれ。仕事が終わったら帰って話そう」
「そんなことしなくていいよ」
「綾菜、別れるなんて言って俺を困らせるな」
彼は電話を切った。
祖母は私が電話で何を話していたのか聞かず、ただ一番大きく切ったマロンケーキを私の前に差し出してくれた。
「ほら、食べなさい」
俯くと、涙がぽろぽろとこぼれ、皿の縁に落ちた。
祖母は気づかないふりをして、ゆっくりと言う。
「このケーキ、おいしいねえ。去年のも美味しかったけど、今年のはもっと美味しい」
私は泣きながら笑った。
「去年は甘すぎるって言ってたのに」
「人は変わるものよ。好みだって、気持ちだってね」
第5話
その日の夜11時すぎ、寧々からとても長いボイスメッセージが届いた。
「綾菜、朔に別れ話をしたって聞いたけど、本当?お願いだから、私のことで怒らないでね。今日は本当に現場でトラブルがあって、消防関係の確認がなかなか通らなかったの。
朔も仕事で仕方なく来てくれただけだし、それに、朔が記念日とか覚えない人だって、前から知ってるでしょ?あんなに仲がよかったんだから、こんな些細なことで……」
半分まで聞いたところで、私は再生を止めた。
午前1時、朔が帰ってきた。しかも、祖母の家まで私を探しに来たのだ。
私が外に出ると、彼は疲れ切った顔で廊下に立っていた。手を伸ばして私に触れようとしたけれど、私が一歩後ろに下がると、その手は空中で止まる。
「まだ怒ってるのか?」
「ううん」
「じゃあ、帰るか?」
「帰らない」
「綾菜」
彼は眉間をもみほぐした。
「俺ももう疲れてるんだ。毎回、何を考えてるのか察しろっていうのはやめてくれないか?」
私は彼をまっすぐ見つめた。
「じゃあ、これで最後にするね。私たち、もう別れたから」
彼は私をじっと見つめ、しばらくしてふっと笑った。
「わかったよ。ここにいたいなら、気が済むまでいればいい」
そう言って背を向け、階段を数段降りたところでまた振り返った。
「明日はちゃんと起きろよ。朝、ついでに迎えに来るから」
もう朔の車に乗るつもりはないけれど、それを伝えることもしなかった。
どうやら朔の中では、私たちはまだ別れていないらしい。
一緒に撮った写真も消さず、荷物を引き取りに来いとも言わない。それどころか翌朝、本当に祖母の家の前まで車で迎えに来た。
しかし、私は30分早く家を出て、先にバスで行っていた。
10時すぎ、彼から連絡が来る。
【先に行ったなら、どうして言ってくれなかったんだ?】
私は返事をしなかった。
すると、お昼にまたメッセージが来た。
【夜は帰ってきて、家で飯を食おう】
やっぱり私は無視する。
彼もさすがに腹を立てたのだろう。それから3日間、朔からの連絡は途絶えた。
以前なら、朔が急に連絡をくれなくなるだけで不安になり、こちらからコーヒーを買って届けたり、夜に設計事務所まで迎えに行ったりしていた。そして最後には、決まって私から謝る。
「もう、私が悪かったって。ごめんね」
でも今回、私も何もしなかった。
4日目、寧々がやってきた。
彼女が白いチューリップの花束を持ってきたので、それを見た美咲がニコニコして言う。
「お友達、すごく素敵ですね」
寧々は店の一番窓際の席に座り、私の仕事が終わるのをずっと待っていた。
私は着替えて席へ向かうと、彼女は開口一番こう言う。
「綾菜、いつまでこんなこと続けるつもり?」
私は思わず聞き返した。
「こんなこと?」
「朔、ここ数日ずっと調子が悪いの。昨日なんて会議中に建材の品番を間違えかけたんだから」
「だから何?」
「二人とも好き同士なんでしょ?まあ、私に嫉妬する気持ちはわかるから、これからはなるべく朔と距離を置くようにする。それでいい?」
あまりにも見当違いな言葉に、私は呆れてしまった。
「寧々、本当にあなたたちの距離が近すぎることだけが問題だと思ってるの?」
きょとんとした寧々。
私は続ける。
「私が別れ話をしたとき、朔は寧々と一緒にいたでしょ?なのに、本人は話しに来ないで、先に寧々が来るんだね」
寧々の表情が曇った。
「私はただ、二人のためを思って……」
「本当に私たちのためを思うなら、これからはもう首を突っ込まないで」
寧々の目がたちまち赤くなった。
「綾菜、それどういう意味?」
私は彼女を見つめた。
「言葉通りの意味だよ。朔は寧々の彼氏じゃないし、私たちのことの間に入ってもらう必要もないから」
寧々は勢いよく立ち上がった。
「私のことを疑ってるの?」
周りの客がちらちらとこちらを見始めたので、私は声を潜めた。
「疑うつもりはないよ。ただ、もう疲れたの。だから、これからは朔の話を私にしないで」
寧々は数秒間私を睨みつけ、ポロポロと涙をこぼした。
「わかった」
彼女はバッグをひっつかむと、そのまま出ていった。
私がその場に座ったままでいると、美咲がやってきて小声で尋ねた。
「追いかけなくていいんですか?」
私は首を横に振った。
「ええ、大丈夫です」