約束の夕日に、彼は親友とキスをした

GoodNovel new Completed

18歳の誕生日、私、水野奈月(みずの なつき)は、高瀬裕真(たかせ ゆうま)と約束した。大学を卒業したら、一緒にセレナ湖の夕日を見に行こうと。 夕焼けが湖いっぱいに広がる頃には、俺たちの未来もきっと輝いている。彼はそう言った。 4年後、私たちは約束どおり、その場所を訪れた。 けれど湖に出かける当日、私は突然高い熱を出し、ホテルに残ることになった。 夕方、解熱剤を飲んだ私は、それでも何年も楽しみにしていた夕日を諦めきれず、一人で湖畔に向かった。 展望デッキに上がった途端、夕焼けの中で裕真が私の親友、森川咲穂(もりかわ さほ)にキスをしているのが見えた。 幼なじみの石田大地(いしだ だいち)がカメラを構え、笑いながら二人を撮っている。 咲穂が裕真の胸に寄りかかった。 「奈月にばれたらどうするの?」 大地が鼻で笑う。 「半年もばれずにやってきて、今さら怖くなったのかよ」 咲穂は裕真を見つめた。 「それで、いつ話すつもり?」 裕真は夕日を眺めたまま、落ち着いた声で答えた。 「帰ったら、ちゃんと話す。一緒にセレナ湖に来る約束は、もう果たしたし」 そして咲穂を抱き寄せ、優しく言った。 「これから、こういう景色はお前とだけ見るよ」 3人の笑い声は、周囲の歓声に紛れていった。すぐ近くにいる私に気づいた様子は、誰にもなかった。 私は裕真にもらったネックレスを外して湖畔のベンチに置き、背を向けた。 18歳の私は、一緒に夕日を見に行くことが、恋のいちばん幸せな結末だと信じていた。 22歳になって、ようやくわかった。 夕日は約束どおり湖に沈む。 けれど、一緒にその景色を見ようと言った人は、とっくに別の誰かのもとへ行っていた。

Chapters (1)

第1章

18歳の誕生日、私、水野奈月(みずの なつき)は、高瀬裕真(たかせ ゆうま)と約束した。大学を卒業したら、一緒にセレナ湖の夕日を見に行こうと。 夕焼けが湖いっぱいに広がる頃には、俺たちの未来もきっと輝いている。彼はそう言った。 4年後、私たちは約束どおり、その場所を訪れた。 けれど湖に出かける当日、私は突然高い熱を出し、ホテルに残ることになった。 夕方、解熱剤を飲んだ私は、それでも何年も楽しみにしていた夕日を諦めきれず、一人で湖畔に向かった。 展望デッキに上がった途端、夕焼けの中で裕真が私の親友、森川咲穂(もりかわ さほ)にキスをしているのが見えた。 幼なじみの石田大地(いしだ だいち)がカメラを構え、笑いながら二人を撮っている。 咲穂が裕真の胸に寄りかかった。 「奈月にばれたらどうするの?」 大地が鼻で笑う。 「半年もばれずにやってきて、今さら怖くなったのかよ」 咲穂は裕真を見つめた。 「それで、いつ話すつもり?」 裕真は夕日を眺めたまま、落ち着いた声で答えた。 「帰ったら、ちゃんと話す。一緒にセレナ湖に来る約束は、もう果たしたし」 そして咲穂を抱き寄せ、優しく言った。 「これから、こういう景色はお前とだけ見るよ」 3人の笑い声は、周囲の歓声に紛れていった。すぐ近くにいる私に気づいた様子は、誰にもなかった。 私は裕真にもらったネックレスを外して湖畔のベンチに置き、背を向けた。 18歳の私は、一緒に夕日を見に行くことが、恋のいちばん幸せな結末だと信じていた。 22歳になって、ようやくわかった。 夕日は約束どおり湖に沈む。 けれど、一緒にその景色を見ようと言った人は、とっくに別の誰かのもとへ行っていた。 第1話 ホテルに戻る頃には、湖から吹く風が服を通して体にしみ込み、すっかり冷えきっていた。 私の顔色を見たフロントの女性が、慌てて非接触式の体温計を持ってきてくれた。 39.4度。 彼女はぎょっとした。 「お連れの方は?こんな状態なのに、お一人で戻られたんですか?」 私はカウンターに手をつき、かすれた声で答えた。 「みんな、景色を見るのに忙しいので」 解熱剤を飲んで間もなく、ドアの向こうから大地の笑い声が聞こえた。 「あの写真、最高だったな。夕焼けが差して、めちゃくちゃいい雰囲気になってた」 ドアが開いた。 ベッドの端に座る私を見て、裕真が足を止める。 「湖に行ったのか?」 私は答えなかった。 泥と砂のついた靴に目を落とすと、裕真の声が低くなった。 「ホテルで休んでろって言っただろ。熱があるのに歩き回って、本当に入院する羽目になったらどうするんだよ」 その後ろから、裕真の上着を羽織った咲穂が入ってきた。 手には、すっかり冷めたうどんの入った袋を提げている。 何も悪いことなどしていないような顔だった。 「奈月、ご飯買ってきたよ。もっと早く戻るつもりだったんだけど、夕焼けがすごくきれいで、大地もずっと撮ってたから……」 大地がカメラをテーブルに置き、鼻で笑った。 「4年も楽しみにしてた夕日を見損ねたんだから、機嫌が悪くなるのはわかるけどさ。俺たちに当たるのは違うだろ。急に熱出したのは、そっちなんだし」 私は顔を上げ、大地を見た。 裕真と咲穂のキスを撮っていた人間が、今度は私に説教をするらしい。 裕真が近づき、私の額に手を伸ばした。 私は顔を背けた。 伸ばした手が宙で止まり、彼の目に驚きが浮かんだ。 この4年間、彼の手を避けたことは一度もなかった。 喧嘩をしても、目を赤くして、抱きしめてくれるのを待っていた。 けれど今は、ただ嫌悪感しか湧かなかった。 「今度は何だよ」 裕真は早くも苛立ちを隠さなくなった。 「一度夕日を見逃しただけだろ。明日、また一緒に行けばいいじゃないか」 私は彼を見つめた。 「明日は、私と二人だけで?」 咲穂の表情がわずかに変わった。 大地は軽く咳払いをして、カメラをいじり始めた。 裕真は少し黙った。どうして急にそんなことにこだわるのか、わからないとでもいうように。 「みんなで来てるんだから、いちいち分けることないだろ」 当然のようにそう言った。 そのとき、ふとわかった。あのキスを見ていなくても、彼は簡単に私を手放すつもりなどなかったのだ。 咲穂に頼られるのが好きで、私が彼を中心に将来を考えていることにも満足していた。 二人の女が自分を巡って嫉妬する。それは彼にとって重荷ではなく、自分の魅力を確かめるための勲章だった。 突然、咲穂が胸を押さえ、小さく息を吸った。 「裕真、なんだか息が苦しい……」 裕真はすぐに振り返り、彼女を支えた。 「湖で風に当たりすぎたんじゃないか?」 咲穂は彼の肩にもたれた。その弱々しい様子は、いかにも彼の庇護欲をそそりそうだった。 裕真が私を振り返る。 「ベッド脇の薬、取ってくれ」 私は動かなかった。 彼の口調が強くなる。 「奈月、意地張ってる場合じゃないだろ。咲穂が苦しがってるんだぞ」 「私だって、熱がある」 一瞬言葉に詰まった彼は、すぐに眉をひそめた。 「お前は昔から丈夫だろ。解熱剤を飲んだんだから、もう大丈夫だよ。咲穂は喘息持ちなんだぞ。張り合ってどうするんだ」 大切にされている人は、咳一つでも心配してもらえる。 私が39度の熱を出していても、ただ拗ねているだけだと決めつけられる。 薬の箱をテーブルに放った。 「病院に連れていけば。もたもたしてるうちに治っちゃったら、心配してあげる暇もなくなるよ」 裕真の顔が険しくなった。 「奈月、いつからそんな嫌な言い方をするようになったんだ?」 咲穂が目を潤ませ、彼の腕を引いた。 「奈月を責めないで。夕日が見られなくて、つらいだけだから」 裕真は咲穂の肩を抱いて部屋を出ていった。 ドアのところで、冷たく言い残した。 「少しは自分で考えろ。悪かったと思ったら、俺のところに来い」 ドアが閉まると、私はパソコンを開いた。 受信箱には、一度断ったプロジェクトへの参加案内が残っていた。 西域歴史建築デジタル映像プロジェクト。期間は1年間。3日後にアルナ市で集合する。 あのとき、裕真は私を抱きしめて言った。 「起業でいちばんお前の力が必要なときに、1年も遠くに行くのか?俺たちの将来はどうなるんだよ」 彼の言う「俺たちの将来」のために、私は2年間準備してきたチャンスを手放した。 今になって、ようやく気づいた。 彼の将来に必要なのは、私の能力と人脈、そして何でも彼に譲ることだった。 私の気持ちは、必要とされていなかった。 指導教員に電話をかけた。 「先生、プロジェクトの枠は、まだ空いていますか?」 少し間があった。 「急に一人辞退したんだ。ただ、出発はあさってだよ。水野さん、本当にそれでいいんだね?」 ドアの外では、裕真が低い声で咲穂をなだめていた。 「泣くなよ。あいつは俺が甘やかしすぎたんだ」 私は目を伏せ、静かに答えた。 「はい。参加させてください」 第2話 翌朝、熱がようやく38度まで下がった頃、裕真が部屋を訪ねてきた。 温かいミルクの入ったカップをテーブルに置き、何事もなかったように言う。 「着替えろよ。近くの病院まで送るから」 彼なりに歩み寄ったつもりなのだろう。 以前の私なら、彼が少しでも折れてくれれば、あとは全部、都合のいい理由をつけて許していた。 けれど私が上着を手に取った途端、隣の部屋から咲穂が出てきた。 白いサイクルウェアを着て、ヘルメットを抱えている。 「裕真、湖を回るレンタサイクル、届いたよ。でも私、昨日の夜、ずいぶん息苦しかったでしょ。大地が、一人で走るのは危ないって」 裕真はほとんどためらわなかった。 「俺がついていく」 そう言ってから、ようやく部屋にいる私を思い出した。 「奈月、病院は近いから、先にタクシーで行っててくれ」 私は彼を見た。 「送ってくれるって、今言ったよね」 「予定が変わることだってあるだろ」 苛立った声だった。 「咲穂は長距離に慣れてないんだ。途中で何かあったらどうする?」 咲穂はすぐにうつむいた。 「いいよ、私、行くのやめる。奈月の体のほうが大事だもん」 そう言いながら、着替えようとはしない。ヘルメットを抱く腕には、むしろ力がこもった。 ドアにもたれた大地が急かした。 「時間で料金かかってるんだぞ。ぐずぐずしてたら、3人分無駄になるだろ」 裕真は咲穂のヘルメットを取り、かぶせてバックルを留めた。 「行こう」 部屋を出る間際、私を振り返った。 「診察が終わったら連絡して。走り終わったら迎えに行く」 私はドアを閉めた。 「迎えはいらない」 廊下が少しの間、静かになった。 やがて3人は、笑いながら階下へ降りていった。 私は一人で病院に行った。 検査結果を見た医師は、厳しい顔をした。 「急性気管支炎ですね。高熱があるのに湖で冷たい風に当たるなんて、無理をしすぎですよ」 点滴を受けた2時間、スマートフォンは静かなままだった。 電話もなければ、具合を尋ねるメッセージもなかった。 代わりに、咲穂がSNSに写真を投稿していた。 走り疲れた彼女が、裕真の背中におぶさっている。 横では大地が飲み物を手に、意味ありげな笑みを浮かべていた。 添えられていたのは、こんな言葉だった。 【面倒だって言いながら、結局こうしてくれるんだよね】 裕真が「いいね」をつけていた。 私も一つ、つけた。 30秒もたたないうちに、その投稿は消えた。 すぐに咲穂からメッセージが届いた。 【奈月、誤解しないでね。足をくじいたから、おんぶしてもらっただけだよ】 返事はしなかった。 ホテルに戻り、フロントで予定より早くチェックアウトできるか尋ねた。 部屋の情報を確認したスタッフは、ふと思い出したように、棚から茶色い封筒を取り出した。 「高瀬様は半年前にもこちらにお泊まりになっていて、その際に記念撮影をされたんです。お渡しするはずのお写真が、まだ残っていまして。恋人の方ですよね?よろしければ、お持ち帰りいただけますか」 私の指が、ほんの少し止まった。 中には20枚あまりの写真が入っていた。 冬のセレナ湖は、一面真っ白だった。 赤いコートに誕生日用の帽子をかぶった咲穂が、裕真の胸にもたれている。 裕真は彼女のマフラーを直してやりながら、ごく自然にその腰に腕を回していた。 隣では大地がシャンパングラスを掲げている。 額にも手足にも、怪我をした様子はまったくなかった。 写真の右下には、日付が印刷されていた。 12月24日。 半年前、父が手術を受けた日だった。 付き添ってくれるはずだった裕真は、その日の未明、大地が飲酒運転で事故を起こしたから、駆けつけなければならないと言い出した。 大地からは、額から血を流した写真まで送られてきた。 私はすっかり信じ、一人で手術室の前に座って夜明けを待った。 父が運び出されたときには、足に力が入らず、立っているのもやっとだった。壁に体を預けながら、裕真に電話をした。 彼は出なかった。 30分後、病院が騒がしくて気づかなかったというメッセージが届いた。 今思えば、あの怪我の写真も、どこかから拾ってきたものだったのだろう。 大地は事故になど遭っていなかった。 裕真も病院にはいなかった。 咲穂の「おばあちゃんが具合を悪くして、付き添ってるの」という言葉まで嘘だった。 3人は私から遠く離れた場所で、咲穂の誕生日を祝っていた。 私は手術室の扉の前で、信じられる人たちがいてよかったと、何度も思っていたのに。 写真を封筒に戻した。 最後の1枚の裏には、撮影した人の手書きの言葉があった。 【高瀬様と恋人の方の、変わらぬ幸せを願って。これから先も、どうか一緒に夕日を眺められますように】 半年前から、知らない人にさえ、二人は恋人同士だと思われていた。 知らなかったのは、私だけだった。 夕方、3人がサイクリングから戻ってきた。 咲穂は裕真におぶわれていた。白いスニーカーには汚れ一つなく、本当に足をくじいたのかと疑いたくなる。 大地は入ってくるなり、腹が減ったと騒いだ。 私は彼を見て、何気なく尋ねた。 「大地、半年前の事故の傷、額に痕は残らなかったの?」 その笑みが一瞬こわばった。 無意識に、額に手が伸びる。 「とっくに治ったよ。何だよ、急に」 「別に」 私は淡々と答えた。 「ふと思い出しただけ」 大地は目をそらし、うつむいて靴を脱いだ。 「もともと、大した怪我じゃなかったんだ。見た目がひどかっただけで」 裕真が近づいてきて、話を遮った。 「いつの話だよ。今さら聞いてどうするんだ」 咲穂も私の腕に自分の腕を絡めた。 「奈月、お父さんの手術の日を思い出しちゃった?あの日、付き添えなかったこと、裕真もずっと気にしてたんだよ」 心から案じているような口調だった。心配そうなまなざしまで、実に自然だった。 10年来の友人の顔を見て、私はふっと笑った。 「そうだね。もう、済んだことだよね」 部屋に戻ると、封筒をスーツケースのいちばん下にしまった。 3人が私を騙したのは、あの夕日の日だけではなかった。 半年前にはもう、同じ側に立っていたのだ。 私だけが部外者として、3人から警戒されていた。 第3話 その夜、セレナ湖では急に風が強まった。 湖畔の道路が一時通行止めになると知らせが入り、翌日の予定も中止せざるを得なくなった。 裕真は何事もなかったように、パソコンをスイートルームのリビングに持ってきた。 「どうせ出かけられないんだし、卒業後のことを決めよう」 事業計画書を開き、続けてあのマンションの間取り図を表示した。 「大家さんから、本契約を急いでほしいって連絡が来てる。帰ったらすぐ引っ越そう。もう先延ばしにするのはやめようぜ」 私より先に、咲穂がパソコンを受け取った。 間取り図をスクロールする咲穂は、まるで自分の家のことを決めているかのように真剣だった。 「リビング、木目でそろえると地味じゃない?アイボリー系のほうが写真映えするよ。それに、この部屋がいちばん明るいから、配信用にしたらよさそう」 裕真はうなずいた。 「いいよ。好きなようにして」 私は咲穂を見た。 「私と裕真が借りる部屋なのに、どうして咲穂の好みに合わせるの?」 咲穂は言いすぎたことに今気づいたような顔をして、慌てて説明した。 「奈月、誤解しないで。卒業後に住む部屋が、まだ見つからなくて……裕真が、3部屋あるから、しばらくいてもいいって」 裕真は平然としていた。 「咲穂を一人で住まわせるのは心配だろ。どうせ部屋は空いてるんだし、しばらく泊めてやったっていいじゃないか」 当然だと言わんばかりだった。 まるで私のほうが、突然割り込んできた他人のように。 私はパソコンを閉じた。 「私は嫌」 裕真は明らかに面食らった。 この4年間、私は彼の頼みをほとんど断らなかった。 起業したいと言われれば、希望していた就職先を諦め、チーム作りに付き合った。 大地に機材がなければ、予備のカメラを貸した。 咲穂がプロジェクトに入りたがれば、応募書類を3回書き直してやった。 3人とも、私が譲ることにすっかり慣れていた。 だから私が「嫌」と言うと、誰もが私のほうをわがままだと思うのだ。 大地の顔が険しくなった。 「十何年も付き合ってる友達だろ。たった数か月泊めるだけなのに、そんなに心狭かったっけ?」 咲穂が目を赤くして立ち上がった。 「もういい。自分で探すから。私のせいで二人が喧嘩するのは嫌だよ」 そう言いながらも、視線はまだ、あのいちばん日当たりのいい部屋に向いていた。 裕真が彼女の肩を押さえた。 「お前が出ていくことはない」 そして冷たい目で私を見た。 「家賃はお前一人が払うわけじゃないだろ。どうしてお前の一言で決まるんだよ」 私は答えなかった。 気まずい空気を取り繕おうと、大地がスマホを取り出した。 「とりあえず部屋の動画でも見ようぜ。細かいことは、実際住んでから話せばいいだろ」 テレビにつなぎ、前に内見したときの動画を再生した。 カメラが玄関からリビングへと向けられる。 ソファはまだ届いていないのに、床にはスリッパが何足か置いてあった。 寝室が映ったとき、出窓にあぐらをかき、ケーキを食べる咲穂が見えた。 髪は濡れていて、裕真の白いシャツを着ている。 ローテーブルにはワイングラスが2脚。 バスルームのドアが開いた。 裕真がドライヤーを持って出てきて、慣れた手つきで彼女の髪をすくい上げた。 ほんの数秒の映像だった。 けれどリビングは、一瞬で静まり返った。 大地が慌ててテレビとの接続を切る。 裕真はその手からスマホを奪った。 「あの日は、水道と電気を確認しに行っただけだ」 咲穂が青ざめ、急いで言葉を重ねた。 「急に雨が降って、服がびしょ濡れになったの。それでシャツを借りただけだよ。奈月、何もしてないから。変なふうに取らないで」 映像が途切れる直前の光景が、目に焼きついていた。 出窓に座る咲穂。 その後ろに立ち、髪を乾かしてやる裕真。 ずっとそこで暮らしているかのように、二人は自然だった。 あの部屋は、私が街中を探し回って、ようやく見つけた場所だ。 立地も日当たりも、キッチンもベランダも。どこを見ても、これからの暮らしへの期待が詰まっていた。 私が引っ越すより先に、二人はそこでお酒を飲み、シャワーを浴び、互いの服まで身につけていた。 あの夜、何があったのか。もう知りたいとも思わなかった。 スマホを取り出し、不動産会社の担当者に電話をかけた。 「長谷川さん、あの部屋の申し込み、取り下げます」 裕真が手を伸ばし、スマホを奪おうとした。 「奈月、いい加減にしろよ!」 私はその手を避けた。 「申し込んだのも、予約金を振り込んだのも私だよ。やめるのに、誰の許可がいるの?」 彼の顔つきが、いっそう冷たくなった。 「たったこれだけの誤解で、卒業後の計画を全部台無しにするのか?嫉妬するにも限度があるだろ」 咲穂がうつむき、その手の甲に涙が落ちた。 大地はすぐにティッシュを渡した。 「咲穂はちゃんと説明しただろ。まだどうしろっていうんだよ」 私は、10年来の付き合いになる3人を見た。 これまでは、いちいち線を引く必要なんてないと思っていた。 私の人脈を使ってもいい。 機材を持っていってもいい。 私の時間や労力も、3人のために使われて当然だと思っていた。 けれど、想像もしなかった。 いつか恋人まで、「みんなで使っていいもの」にされるなんて。 私は4人の起業グループを抜け、自分が手配した撮影場所、機材の調達先、顧客とのつながりを、チームに提供するのをやめた。 裕真のスマホが、立て続けに震えた。 通知を読んだ彼が、ようやく顔色を変えた。 「俺への当てつけで、これからの仕事まで潰すつもりか?部屋のことはあとで話せばいい。まず取引を元に戻せよ」 「それは、あなたたちの将来でしょ」 私は彼を見た。 「私のじゃない」 そのとき、私のスマホが光った。 先生から、参加の最終確認書が届いていた。 【チームの車で、予定より1日早く迎えに行ける。明日の朝までに、迎えに行く場所を知らせてほしい】 私は書類に署名し、ホテルの住所を送った。 裕真はまだ、部屋の申し込みと取引を元に戻すよう求めていた。 私は最後に一つだけ尋ねた。 「私と咲穂が同時にあなたを必要としたら、どっちを選ぶ?」 彼は苛立たしげに眉間を揉んだ。 「咲穂は喘息があるし、体も弱いんだ。どうして張り合おうとするんだよ」 私はうなずいた。 もう尋ねなかった。 答えは、すでにもらっていたから。 第4話 翌朝、風はやんでいた。 湖畔の立ち入り規制も解除され、大地がヨットの体験クルーズを予約した。 白いワンピースに着替えた咲穂が、ホテルのロビーで不安そうに裕真の袖をつかんでいた。 「こんなに深い湖に落ちたら、どうしよう」 裕真はしゃがんで、彼女のライフジャケットのバックルをしっかり留めた。 「俺がいるんだから、怖がることないだろ」 大地が私にカメラを押しつけた。 「お前、熱が下がったばかりだし、船には乗らないほうがいいだろ。岸に残って、ついでに俺たちを撮ってくれよ」 私はカメラをロビーのベンチに置いた。 「撮らない」 大地が顔をしかめる。 「シャッター押すだけだろ。今度は何なんだよ」 「具合が悪いから、部屋で休みたい」 裕真が顔を上げ、ちらりと私を見た。 どこがつらいのかとは聞かず、面倒そうに言った。 「好きにしろよ」 外に出ようとした咲穂が、ふと手首に触れた。 「あれ、ブレスレットは?」 服のポケットを探り、たちまち目を赤くした。 「裕真にもらった卒業のプレゼントなのに。さっきまで、ちゃんとつけてたんだよ」 裕真はすぐになだめた。 「落ち着けよ。部屋に落ちてるかもしれないだろ」 咲穂は首を振った。 「下に降りるときにも触ったもん。絶対この辺にあるはず」 裕真は彼女と一緒に、ホテルの入口から来た道をたどって探し始めた。 大地もスマホのライトをつけ、植え込みのそばにかがんで探した。 私の横を通るとき、裕真が慌ただしく言った。 「先に部屋に戻っててくれ。ブレスレットが見つかったら、昨日の話をしよう」 私は、遠ざかっていく3人を見送った。 部屋に戻り、昨夜のうちに荷物を詰めておいたスーツケースを引き出した。 帰りの航空券は、二人分ともキャンセルした。 部屋の予約金のうち、裕真が出した分も、元の口座に振り込んだ。 ペアのブレスレット、合鍵、そして交際4周年の記念アルバムを、テーブルにきちんと並べた。 アルバムには、二人で思い描いた将来が書き込まれていた。 卒業したら、一緒に会社を立ち上げる。 仕事が軌道に乗ったら結婚する。 毎年、初めての場所を一つ訪れる。 30歳になるまでに、西域地方の湖を全部見て回る。 最後のページには、18歳の裕真が私に宛てて書いた言葉があった。 【奈月、振り返れば、俺はいつだってそこにいるから】 アルバムを閉じ、ペアのブレスレットの隣に置いた。 あのキスを見た瞬間、4年分の気持ちが消えたわけではない。 胸は痛んだし、納得できない思いもあった。夜になると、18歳のときのあの約束を何度も思い出した。 それでも、裕真を好きになったのは、過去の私が選んだことだ。 彼から離れるのは、今の私が、自分をこれ以上みじめにしないために選ぶことだった。 下から車のクラクションが聞こえた。 先生が手配してくれたチームの車が着いたのだ。 私はスーツケースを引いてホテルを出た。 フロントの女性が追いかけてきて、水の入ったカップを渡してくれた。 「車の中で飲んでください。まだ熱が下がったばかりですから」 彼女は私の後ろに目をやった。 「恋人の方は、ご一緒ではないんですか?」 「もう、恋人ではないので」 口にしてみると、思っていたほどつらくはなかった。 運転手がトランクに荷物を積んでくれた。 乗り込もうとしたとき、裕真から電話がかかってきた。 受話口からは強い風の音と、とぎれとぎれに咲穂の泣き声が聞こえた。 「どこに行ったんだ?」 「ホテルの前」 彼は明らかにほっとした。 「じゃあ、そこにいろ。勝手にどこか行くなよ。咲穂のブレスレットがまだ見つからなくて、今は離れられないんだ。戻ったら、ちゃんと話そう」 私は顔を上げ、遠くに見えるセレナ湖を眺めた。 朝の光が湖面に差し、細かな金箔を散らしたように輝いていた。 「裕真、私があなたを待つのは、今日までだよ」 少し沈黙があった。 ようやく、彼の声が和らいだ。 「わかった。いい子で待ってろよ。もう別れるなんて言って、脅すなよな」 私が彼を折れさせようとしているのだと、まだ思っていた。 戻って少し機嫌を取れば、これまで何度もそうしたように、私が許すと信じていた。 電話の向こうで、咲穂が彼の名を呼んだ。 裕真はすぐに言った。 「じゃあ、またあとで」 慌ただしく通話が切れた。 私は電源を落とし、SIMカードを抜いて、ホテル前のベンチに置いた。 運転手が車のドアを開けてくれた。 乗り込むと、ドアがゆっくり閉まった。 車は湖畔の道路を走り出した。 バックミラーの中でホテルが遠ざかり、やがて朝もやに紛れて見えなくなった。 セレナ湖の夕日は、もう見た。 一緒に見ようと約束した、あの人は。 もう、いらない。