三度目の番を逃した日、花嫁は選び直した

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今日は、私たちが入籍するはずの日だった。 私、嘉村依織(かむら いおり)は、朝いちばんに役所へ行き、受付で1番の番号札を取って待っていた。誰よりも早く、婚姻届を提出したかったからだ。 それなのに松沢翔大(まつざわ しょうた)は、平気で1時間も遅刻してきた。 怒りをぶちまけそうになったそのとき、車の助手席から身を乗り出した親友の高萩咲子(たかはぎ さきこ)が、私が何か言うより先に声をかけてきた。 「ごめんね、依織。翔大ったら、わざわざ遠回りして私を迎えに来てくれたの。それで遅れちゃって。 でもね、ふたりの入籍、絶対に見届けたくて!」 奥歯を噛みしめ、どうにか怒りを飲み込んで、私は番号札を取り直すしかなかった。 ようやく順番が巡ってきた。 翔大の腕を引いて立ち上がった瞬間、隣の咲子が声を上げた。 「待って!お腹痛いから、お手洗い行ってきてもいい?番号札、もっと後の番号で取り直しておいて!」 私は足を止めず、そのまま進もうとした。 けれど翔大はあっさり椅子に座り直し、彼女に笑いかけた。 「行っておいで。ちゃんと待ってるから」 私は表情を硬くし、振り返りざまに念を押した。 「翔大。のんびり待ってる時間なんてないわ。今日は日曜開庁日で、婚姻届の窓口受付は11時半までなのよ。あと1時間しかないの。12時からはウェディングドレスの試着の予約も入れてるのに」 翔大は顔も上げず、面倒くさそうにスマホを操作していた。 「そんなに焦るなよ。入籍なんて、紙1枚出してすぐ終わる手続きだろ」 翔大のスマホの画面には、咲子に贈るつもりらしい限定ネックレスが表示されていた。それは、私も何度か彼に欲しいと伝えていたものだった。そのたびに「もう手に入らない」とはぐらかされてきたのだ。 ふいに、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。 もう彼を急かす気もすっかり失せた私は、スマホを取り出し、宿敵に電話をかけた。 「私のこと、死ぬほど好きだって言ってたわよね?役所の窓口、11時半で閉まるのよ。 今すぐここに来るなら、私と結婚してあげてもいいわよ」

Chapters (1)

第1章

今日は、私たちが入籍するはずの日だった。 私、嘉村依織(かむら いおり)は、朝いちばんに役所へ行き、受付で1番の番号札を取って待っていた。誰よりも早く、婚姻届を提出したかったからだ。 それなのに松沢翔大(まつざわ しょうた)は、平気で1時間も遅刻してきた。 怒りをぶちまけそうになったそのとき、車の助手席から身を乗り出した親友の高萩咲子(たかはぎ さきこ)が、私が何か言うより先に声をかけてきた。 「ごめんね、依織。翔大ったら、わざわざ遠回りして私を迎えに来てくれたの。それで遅れちゃって。 でもね、ふたりの入籍、絶対に見届けたくて!」 奥歯を噛みしめ、どうにか怒りを飲み込んで、私は番号札を取り直すしかなかった。 ようやく順番が巡ってきた。 翔大の腕を引いて立ち上がった瞬間、隣の咲子が声を上げた。 「待って!お腹痛いから、お手洗い行ってきてもいい?番号札、もっと後の番号で取り直しておいて!」 私は足を止めず、そのまま進もうとした。 けれど翔大はあっさり椅子に座り直し、彼女に笑いかけた。 「行っておいで。ちゃんと待ってるから」 私は表情を硬くし、振り返りざまに念を押した。 「翔大。のんびり待ってる時間なんてないわ。今日は日曜開庁日で、婚姻届の窓口受付は11時半までなのよ。あと1時間しかないの。12時からはウェディングドレスの試着の予約も入れてるのに」 翔大は顔も上げず、面倒くさそうにスマホを操作していた。 「そんなに焦るなよ。入籍なんて、紙1枚出してすぐ終わる手続きだろ」 翔大のスマホの画面には、咲子に贈るつもりらしい限定ネックレスが表示されていた。それは、私も何度か彼に欲しいと伝えていたものだった。そのたびに「もう手に入らない」とはぐらかされてきたのだ。 ふいに、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。 もう彼を急かす気もすっかり失せた私は、スマホを取り出し、宿敵に電話をかけた。 「私のこと、死ぬほど好きだって言ってたわよね?役所の窓口、11時半で閉まるのよ。 今すぐここに来るなら、私と結婚してあげてもいいわよ」 第1話 一瞬の沈黙のあと、喉の奥から漏れるような低い笑い声が返ってきた。 「絶対に間に合う!」 電話を切り、私は翔大の隣に座り直した。 彼はスマホをいじりながら、新しく取った番号札を私に差し出した。 「ほら、取り直したぞ。まだ前に5組もいる。咲子から『もうすぐ戻る』ってメッセージも来たし。 大丈夫、どうあっても間に合うから」 私が何か言いかけたそのとき、咲子がお手洗いから小走りに戻ってきて、勢いよく翔大の隣に腰を下ろした。 彼にもたれかかりながら、首を伸ばして私の手元の番号札を覗き込んだ。 「まだ順番来ない?あと何組?」 私は思わず翔大を見た。 彼は距離を取るどころか、咲子の腰に手を回し、倒れないように支えていた。 「まだそんなに待つんだー。 ねえ翔大、ゲームしようよ。ただ待つだけって退屈すぎる」 私は口を挟んだ。 「翔大、やめて。入籍なんてすぐ終わるって、自分で言ったでしょ? もう3組しかいないんだから、すぐ私たちの番になるわ」 けれど咲子はもう自分のスマホを取り出し、ゲームを起動していた。にこにこしながらスマホの画面をこちらに向けて見せた。 「依織、ゲームしない人にはわからないんだよ。1試合なんてあっという間だから、入籍の邪魔にはならないってば」 そのまま翔大を急かす。 「ほら翔大、早くログインして」 翔大はうなずくと、私には投げやりに言った。 「そんな大げさに考えるなよ、ただ紙出すだけだろ。番号呼ばれたらちゃんと教えてくれればいいから」 言い終える頃にはもう、咲子と頭を寄せ合っていて、ゲームの効果音が立て続けに鳴り始めていた。 ぴったりとくっついたふたりの頭を見つめながら、胸が締めつけられるように痛んだ。 それ以上何も言わず、私は手にした番号札を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめていた。 20分と経たないうちに、待合ロビーに呼び出しの電子音が響いた。 「9番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」 私は手を伸ばし、翔大を揺すった。 「私たちの番よ、行こう」 翔大の目はまだ画面に釘付けだったが、体はすでに立ち上がっていた。 「おう、ちょうどこの試合も終わるとこだし」 咲子がすかさず彼の腕にしがみつき、椅子に引き戻した。 「まだだよ!ちゃんと集中してってば! 座って真面目にやって。番号なんて何回か呼ばれるんだから、少しなら平気だって。負けたくないんだもん!」 翔大はまた腰を下ろしかけた。 私はとうとう顔を険しくし、怒りを押し殺した声で言った。 「……入籍とゲーム、どっちが大事なの?」 私の声がいつもと違うことに気づいたのか、翔大は素早く顔を上げ、私をちらりと見た。 それでも結局座り直し、呆れたように笑った。 「そんなに怒ることないだろ。すぐ終わるって、すぐ。 それに、咲子はお前の親友じゃないか。わざわざ頼まれたんだから、途中で手は抜けないだろ」 二度目の呼び出し音が鳴った。 「9番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」 我慢の限界に達した私は、翔大の手からスマホをひったくり、強い口調で言った。 「翔大、いい加減にして!一緒に来て、入籍するの!」 翔大はようやくのろのろと立ち上がり、眉をひそめて私を見た。 「たかが1ゲームだろ。何をそんなに怒ってるんだか。 はいはい、行こう」 最後の呼び出し音が鳴った。 けれど歩き出して数歩も進まないうちに、咲子がまた声を上げ、翔大の袖をつかんだまま、その場に崩れ落ちそうになった。 「足、足つっちゃった! 翔大、痛いよぉ!」 翔大はすぐさま振り返り、その場に片膝をつくと、慣れた手つきで咲子のパンプスを脱がせ、足首を揉みほぐし始めた。 私はその場に立ち尽くしたままふたりを見つめ、思わず笑ってしまった。 そうしているうちに、再び電子音が響いた。 「10番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」 私たちの番号は、とうとう飛ばされてしまった。 第2話 通りかかった職員たちがその様子を見て、翔大と咲子をからかうように声をかけた。 「仲のいいご夫婦ですね。 こんなところで足を揉んであげるなんて、見てるこっちが照れちゃいますよ」 咲子は恥じらうように頬を染めた。 翔大は気まずそうに笑っただけで、特に否定もせず、誤解を解こうともしなかった。 私は何も言わず、椅子へと戻った。 鼻の奥がツンとしたが、どうにか涙をこらえた。 咲子は電光掲示板をこっそり確認し、私たちの順番が過ぎたのを確かめると、つっていたはずの足もすっかり治ったようだった。 翔大の手を取って立ち上がり、振り向いて気まずそうに私へ笑いかけた。 「依織、本当にごめんね。私のせいで順番過ぎちゃって」 翔大は咲子を支えて椅子に座らせてから、ようやくこちらを向き、咎めるような目を私に向けた。 「何をそんなに急かすんだよ! お前が急かすから咲子の足までつったんだろ。少しくらい待ってやれないのか?」 咲子はいかにも申し訳なさそうに翔大の袖を引き、まるで私をかばうように言った。 「翔大、そんな言い方しないで。 依織も入籍のことで焦ってるだけだから。ただ……番号札はもう一度取り直さなきゃね」 私は何も言い返さず、ふたりのほうも見なかった。 立ち上がって番号札の発券機のところへ行き、新しい番号札を取った。 機械のそばにいた職員が私のことを覚えていたのか、ため息まじりに声をかけてきた。 「もう何度も順番を逃していますよね。今度こそ順番を逃さないようにしてくださいね。 本日の日曜開庁での受付は、これが最後になります。間に合わなければ、平日にもう一度お越しください」 私は振り返り、座席のあたりへ目をやった。 翔大が咲子の耳元に顔を寄せ、何か話している。ふたりとも肩が揺れるほど笑っていた。 「わかりました。ありがとうございます」 翔大。これが、あなたに与える最後のチャンスだ。 私は番号札を手に、また席へと戻った。 バッグの中でスマホが鳴った。母からだった。 私は電話に出た。 「依織、翔大くんと婚姻届、もう出した? 朝8時に家を出たんじゃなかったの?ご飯、もう2回も温め直したのよ。どうしてまだ帰ってこないの?」 私は俯いたまま、母に何と言えばいいのか、一瞬わからなくなった。 長い沈黙のあと、母も何かがおかしいと気づいたようだった。 「またあの咲子って子も一緒なんでしょう?またあの子が何かやらかしたんじゃないの」 鼻の奥がツンと熱くなり、こらえていた悔しさが一気にこみ上げてきた。 「うん……2回も順番を逃しちゃって」 母は大きく息を吸い込んだ。 「依織、仏の顔も三度までって言うでしょう。彼に誠意がないなら、たとえ婚姻届を出したところで、結婚してからだってろくな暮らしにならないわよ。 電話、翔大くんに代わりなさい。私から言うから」 私は振り返り、スマホを差し出した。 「母が、あなたと話したいって」 翔大はちょうど咲子と楽しそうに話し込んでいたところを、不意に遮られた形になった。 目の奥に不快そうな色を浮かべながらも、電話を受け取った。 声の調子を和らげて応じた。 「お義母さん、どうしました?」 「まだ婚姻届、出してないんでしょう。まだ入籍してないんだから、『おばさん』で結構よ。依織は朝早くから支度して出かけて、1番の番号札まで取ったのよ。一番乗りで出そうとね。あなたの遅刻はもういいとして、どうしてまだ出せてないの?」 翔大は私をちらりと睨んで答えた。 「依織、また愚痴ったんですか? 本当に大したことじゃないんです。ただ途中で咲子にちょっと用事があって、順番を逃しちゃって。今はもう取り直してます。あと少し待つだけで、ちゃんと間に合いますから」 母は翔大のその投げやりな口調にますます腹を立てた。 そのまま大きな声で言い放った。 「大したことじゃない?婚姻届を出し損ねることが大したことじゃないの? 翔大くん、依織と入籍するっていう日に、よその女の子を連れ歩いて邪魔させるってどういうつもり?咲子もよ、人の結婚に割り込むようなことして、図々しいにもほどがあるわ!」 母の声はかなり大きかった。 そばにいた咲子にも聞こえていたのだろう。たちまち目を赤くして涙をこぼし始めた。 咲子は私のそばへ駆け寄り、電話越しの母に、いかにも傷ついたような声で訴えた。 「おばさま、ごめんなさい。 本当に、わざとじゃないんです。依織とは長い付き合いの友達で……依織が入籍するって聞いて、ただこの目で見届けたかっただけなんです。他意なんてありません」 咲子が泣き出したのを見て、翔大の母に対する口調もきつくなった。 「おばさん、咲子にも、もう少し礼儀をわきまえて接してもらえませんか。咲子だって依織の友達なんです。 悪気があってやったわけじゃないんですし、そんなに強く責めることでもないでしょう」 第3話 翔大が母にそんな態度を取るのを見て、私の中の怒りも限界を超えた。 スマホをひったくるようにして取り返し、電話を切った。 そして、翔大に食ってかかった。 「私の母親に向かって、なんて口の利き方なの! 母はあなたより年上の、敬うべき人なのよ。ただ電話で入籍のことを気にかけてくれただけじゃない。それの何がいけないの?」 翔大の顔色も険しくなった。 「だからって、咲子をあんな風に言うことないだろ!」 「お母さんの言ってることのどこが間違ってるの?そもそもあなたが咲子を連れてこなければ、とっくにふたりとも手続きを終わらせてたのよ!」 怒りのあまり、それ以上言葉を重ねる気にもなれず、私は単刀直入に告げた。 「この婚姻届、今日の午前中に絶対出す。 これ以上遅れるなら、別れましょう」 翔大は私の剣幕に一瞬呆気に取られた。 やがて怒りのあまり、かえって笑い出した。 「は?別れるって、それで俺を脅すつもりか? ただの入籍だろ。今日ダメなら今度にすればいいだけの話だろ。それをいちいち、そんなにヒステリックに、みっともなく騒ぎ立てる必要があるのかよ」 よりによってそのタイミングで、咲子がまた、仲裁するふりをして火に油を注いだ。 翔大の腕を引きながら言った。 「翔大、そんな言い方しないで。依織だって、ただ頭に血が上って言ってるだけだから。 もう役所まで来てるのに、別れるなんてありえないよ。ふたりとも喧嘩しないで。私が悪いの。おばさまを怒らせちゃって……ひとまず座って、落ち着こう」 翔大は鼻で笑って、椅子に座り直した。 私もそれ以上何か言う気になれず、ただ番号札をきつく握りしめた。指の関節が白くなるほどに。 ロビーは人の出入りが絶えず、周りのカップルたちはみな楽しそうに言葉を交わしていた。 その中で、私たちのいる一角だけが、異様なほど静まり返っていた。 ようやく少し静かになったと思ったら、咲子がまた余計なことを言い出した。 肘で翔大を小突いた。 「翔大、もうお昼だよ。 ちょっとお腹すいちゃった。この近くにランチが美味しいお店があるんだけど、先に何か食べに行かない?」 翔大は少し迷ってから、ぎこちない手つきで私の手を取ろうとした。 「一緒に行くか?」 私は大きく身を引いて、その手を避けた。 「お腹空いてないから。それに今日は、手続きが終わったら実家でご飯を食べるって決めてたでしょう? 母、もう何回もご飯温め直してるのよ」 咲子が物分かりのいいふりをして口を挟んだ。 「依織、翔大さっきおばさまと気まずくなったばっかりでしょ。そんな状態で依織の実家にご飯を食べに行くなんて、翔大も気まずいよ。ちょっとは翔大の立場も考えてあげなよ。 それに今から依織の実家に戻っても、もうお昼には間に合わないし。だったら近くで食べちゃったほうがいいよ」 私は座ったまま動かなかった。 「今日の受付は、これが最後のチャンスなの。間に合わなかったら、また別の日に来るしかないよ」 翔大は困ったように言った。 「……今日じゅうじゃなきゃだめなのか?飯を食ってからでもいいだろ?」 「午後はもうドレスの試着の予約が入ってるし、明日はウェディングフォトの撮影、明後日は両家顔合わせの会場で料理の試食があるの。結婚準備でこんなに予定が詰まってるのに、入籍のためだけにもう1日なんて取れるわけないでしょう」 翔大は言葉に詰まり、一度は妥協して座り直そうとした。 しかし咲子がまた彼の腕を取って立ち上がらせた。 「どんなに忙しくても、翔大をお腹空かせたままにしておくわけにはいかないでしょ。じゃあこうしよう、依織はここで待ってて。私と翔大はこの近くで何か食べてくるから。 もうすぐ番号呼ばれそうだったら、少し前にメッセージちょうだい。それなら絶対に間に合うから」 翔大はうなずき、それなら問題ないと考えたようだった。 「それでいいか?」 私は首を横に振った。 「だめ。お腹空いてるならひとりで行けばいいでしょう。どうしてあなたまで付き添う必要があるの」 咲子がまた笑った。 「翔大だってお腹空いてるはずだよ? 依織、そんな言い方しないでよ。入籍っておめでたいことなのに、どうしてずっとそんな仏頂面なの」 翔大は、私が一歩も譲らない様子を見て、彼のほうも苛立ちが込み上げたようだった。 咲子の手を取って、そのまま外へ向かって歩き出した。 「いいも悪いもあるかよ。飯を食いに行くくらいで文句言われる筋合いはないだろ! もうすぐ番号来るなら、先にメッセージくれればいい。咲子、行くぞ」 第4話 遠ざかっていくふたりの背中を見つめながら、私はこわばっていた指先を、ゆっくりとほどいた。 ひとり、静かに役所の中で待ち続けた。 順番まであと5組というところで、翔大にメッセージを送った。 【あと5組で私たちの番。そろそろ戻ってきて】 翔大の返信は早かった。 【咲子とまだ並んでるとこ。まだ飯も食えてない。5組ならまだ余裕あるだろ、そんなに焦らなくていい】 私はスマホの画面を消した。心が少しずつ冷え切り、彼への期待が死んでいくのを感じた。 電光掲示板の番号がさらに2つ進むのを見つめた。 もう一度メッセージを送った。 【あと3組で私たちの番。これ以上遅れたら間に合わない】 今度はなかなか返事が来なかった。 さらに1組呼ばれたあとになって、ようやくのんびりとした返事が来た。 【そんな焦るなって。やっと料理来たとこなんだ。もうちょっと待ってろ】 私たちの前があと1組になったとき、背後で慌ただしい足音が響いた。 胸がどきりとして、私は立ち上がり、振り返った。 賀来淳一(かく じゅんいち)だった。 目が合った瞬間、彼は息を切らしながら、私に笑いかけた。 「依織、今度こそ……ようやく間に合った!」 ほとんど同時に、私の番号を呼び出す電子音が鳴った。 「21番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」 私の顔には自然と笑みがこぼれた。 淳一の腕を取って、窓口の椅子に腰を下ろした。 淳一が持参した、証人欄まで記入済みの婚姻届を広げ、ふたりで必要事項を確認し、それぞれの欄に署名していく。ふと横目で見た淳一の手は、興奮のせいかかすかに震えていた。 署名を終えると、職員が事務的に尋ねてきた。 「おふたりとも、内容にお間違いありませんね。 それでは、正式に受理させていただきます」 私はうなずいた。 その瞬間、隣の淳一が突然声を上げた。 「待ってください!」 そして私のほうを向いて言った。 「依織、本当にこれでいいのか?俺と結婚したら、一生君につきまとうことになるぞ。 たとえ松沢が……」 言葉が途中で止まったのと同時に、翔大から電話がかかってきた。 出てみると、向こうは少し騒がしかった。 「依織。やっぱり入籍は、また今度にしよう。 もうそろそろ11時半だろ。俺たち、さっきお店を出たところなんだ。今から行っても間に合わない。 それに咲子が、ジュースだと思って飲んだらお酒だったみたいで、今すごく酔っててさ。先に家まで送っていくから、お前は先に帰っててくれ」 私は小さく笑い声を漏らした。電話の向こうの男に対する未練は、すっかり消え去っていた。 「もういいの。婚姻届は、もう午前中に出したから」 「は?何言ってんだよ。俺がいないのに、どうやって婚姻届なんて出せるんだよ。本当に事情があったんだって。咲子が……」 もう翔大の言い訳を聞く気にはなれず、私はそのまま言葉を遮った。 「翔大、別れましょう」 それだけ言って、電話を切った。 改めて顔を上げ、職員に向き直った。 「内容、確認しました。受理、お願いします」 淳一は何も言わず、ただ私の手をしっかりと握りしめてきた。 受付印が、ポンと小気味よい音を立てて押された。 婚姻届は無事に受理された。 窓口を出たあと、提出前に撮っておいた婚姻届の写真をSNSに投稿した。 【あなたと、これからの人生を】 隣の淳一を振り返り、笑いかけた。 「行こう。母が家でご飯を用意して待ってるから」 …… その頃、翔大は酔いつぶれた咲子を助手席に乗せ終えたところで、友人からの電話が入った。 電話に出ると、相手の弾んだ声が飛び込んできた。 「翔大、おめでとう! さっきSNSで依織さんが婚姻届の写真を上げてるの見たよ。ついに入籍したんだな。結婚式の日は、ご祝儀しっかり包むからな!」 翔大は一瞬固まり、思わず聞き返した。 「は?何の話だ。 俺、役所にいないぞ。依織がひとりで、どうやって届け出せるんだよ」 電話の向こうの笑い声が、ぴたりと止まった。写真を確認し直しているのか、しばらく沈黙が続いた。 そして、低い声で悪態をついた。 「おい、マジかよ。翔大、まずいことになってる。 依織さんが投稿した婚姻届、夫になる人の欄に書かれてるの、お前の名前じゃないぞ。どうやら……別の男と、入籍したみたいだぞ」