第1章
大学を卒業して七年目、私、伊藤菜月(いとうなつき)は五人のグループチャットにメッセージを送った。
【リストラされちゃった】
だが、誰も見ていないかのように、チャットは静まり返っていた。
十分後、親友の松本柚葉(まつもとゆずは)からメッセージが届いた。
【昇進した!今夜いつものお店でお祝いしてよ!】
すると、彼氏の山口拓海(やまぐちたくみ)と、二人の男の幼なじみがすぐさま反応した。
【柚葉、おめでとう!】
【店は俺が予約しとく】
【ケーキは柚葉の大好きなモンブランにしよう】
私は画面を見つめ、たまらずもう一度メッセージを送った。
【私、さっきリストラされたって言ったよね?少しくらい慰めてくれない?】
誰からも返事はなかった。
少ししてから誰かがこんなメッセージを送った。
【いつもの店、個室が空いてないって。川沿いのあの店はどう?】
拓海はすぐに返信した。
【いいよ。俺はプレゼントを用意しておく】
柚葉が照れた顔のスタンプを送ってきた。
【ちょっと昇進しただけなのに、みんな大げさだよ】
それでも三人は競うように柚葉を持ち上げた。
【柚葉のお祝いなんだから、適当にはできないだろ】
【ずっと頑張ってきたんだし、五人そろって盛大にお祝いしなきゃ】
その言葉を見た瞬間、涙がこぼれ、スマホの画面を濡らした。
いつからだろう。彼らの言う「五人」の中に、私が含まれなくなったのは。
これまで、柚葉が残業する日は三人が交代で差し入れを届け、失恋すれば夜中でも駆けつけてお酒に付き合った。柚葉の誕生日だって、自分の誕生日以上にしっかり覚えていた。
なのに、私が昇進したときは「今度おごってよ」の一言で終わりだった。
グループチャットを抜けようとしたそのとき、大学時代のルームメイト、加藤志保(かとうしほ)からメッセージが届いた。
【うちの会社、ちょうどプロジェクト責任者を探してるんだけど、来てみない?】
私は次々と流れてくるお祝いのメッセージに目をやり、返信した。
【ぜひ】
十年以上も一緒に過ごしてきたこの人たちとも、そろそろお別れだ。
第1章
志保に返信した直後、拓海から個別メッセージが届いた。
【今日リストラされたんだろ?ちょうど暇になったんだし、ついでにケーキを受け取ってきてくれないか?】
私はそのメッセージを見つめたまま、しばらく動けなかった。
私がリストラされたことは、ちゃんと見て知っていたのだ。それなのに、泣いていないかと心配することも、これからどうするつもりなのかと尋ねることもなかった。
拓海にとって、私が仕事を失ったというのは、ただ暇な時間ができたというだけのことらしい。
私はスマホを伏せてテーブルに置き、数分間ぼんやりと座っていた。それでも結局、靴を履き替えて家を出た。
ケーキ屋に着くと、店員が注文番号を確認し、白いギフトボックスを差し出してきた。
「モンブランですね。中に昇進祝いのメッセージカードも入っていますので、ご確認ください」
私は箱を開けて中を確かめた。カードにはこう書かれていた。
【柚葉へ。昇進おめでとう!これからもますますの活躍を祈ってるよ】
私はカードを戻し、ケーキを持って川沿いのレストランへ向かった。
個室の扉を開けると、柚葉が拓海の腕に絡みつきながら、楽しそうに話していた。
「あ、菜月!来たんだ」
柚葉は私に笑いかけると、立ち上がってケーキを受け取った。
「わざわざありがとうね」
「ううん、大丈夫」
私はケーキを壁際に置いた。拓海はちらりとこちらを見ただけで、隣の椅子を引いた。
「とりあえず飯にしよう。ケーキはあとで開ければいいし」
私が席に着くと、店員が料理を運び始めた。
食事の間、話題はずっと柚葉の新しい仕事のことばかりだった。
新しいオフィスは26階にあって、窓から川が見えるのだと柚葉が話せば、拓海は遮光カーテンを買い替えたほうがいいんじゃないかと心配した。
最近、肩や首が凝ってつらいと柚葉がこぼすと、井上健太(いのうえ けんた)が箸を置いた。
「土曜日、一緒に整体に行こう。知り合いの店があるんだ」
すると、小林航平(こばやし こうへい)は柚葉の皿からパクチーを取り除いた。
「これは食べるなよ。パクチー食べると、いつも胃の調子が悪くなるだろ」
三人は代わる代わる柚葉に声をかけ、至れり尽くせりの世話を焼いていた。
私は箸を握ったまま、何度か話に入ろうとした。
「私、今日ね……」
そのとき、柚葉のスマホが鳴った。彼女がうつむいてメッセージに返信していると、拓海が声をかけた。
「新しい部署の人たちとは、うまくやっていけそうか?」
話題はそのまま、また柚葉の仕事のことに戻っていった。私は魚の身をひと口つまみ、ゆっくりと飲み込んだ。
食事が終わると、拓海が椅子の脇からプレゼントの箱を取り出した。
「柚葉、昇進おめでとう」
柚葉が箱を開けると、中にはプラチナのネックレスが入っていた。
「これ、この前デパートで見たやつ?」
「三回も見てただろ」
続いて、健太がマッサージ器を差し出した。
「毎晩15分くらい使うといいよ。面倒くさがらずに続けろよ」
航平は香水のボトルを取り出した。
「ウッディ系の香りが好きって言ってただろ。何軒も探して、やっと見つけたんだ」
柚葉は口元を手で覆い、目を輝かせた。
「えー!みんな、なんでそんなに覚えてるの?」
拓海が優しく笑った。
「柚葉のことなんだから、忘れるわけないだろ」
私はそっと目を伏せた。
去年、私が昇進したときも、同じグループチャットで報告した。
拓海は「今度お祝いしよう」と言い、健太は拍手のスタンプを送ってきた。航平からは「また夜に話そう」と返事があった。
けれど、そのあと柚葉が「胃が痛い」と一言送ると、みんなは夜遅くまで柚葉の心配ばかりしていた。
結局、私の昇進祝いが話題に上がることは二度となかった。
そのとき、拓海が突然、私の手にスマホを押しつけてきた。
「菜月、俺たちの写真撮ってくれないか?もうすぐロウソクに火をつけるから」
私はスマホを受け取り、個室の反対側へ移動した。
ロウソクに火がともると、柚葉が真ん中に立ち、拓海たち三人がその周りを囲んだ。
私はシャッターを切った。写真を確認した柚葉が、こちらに手招きした。
「菜月もおいでよ!あとで五人でも撮ろうね」
私が一歩踏み出したところで、拓海が口を開いた。
「先に柚葉の写真を撮ろう。ロウソクが燃え尽きちゃうから。五人のはあとでいいだろ」
私は足を止めた。
そのあと、みんなはケーキを切り分け、プレゼントを開け、SNSに写真を投稿して盛り上がっていた。
けれど、五人で写真を撮ろうと言い出す人は、最後まで誰もいなかった。
第2章
柚葉はお酒を何杯か飲んでいたせいか、立ち上がったときに足元がふらついた。
拓海がすかさず彼女を支え、健太はバッグを持ち、航平は個室の扉を開けてあげた。
私はその後ろについて、レストランの入口まで歩いた。拓海が振り返って言った。
「菜月はタクシーで帰りな。家に着いたら連絡して」
「うん」
三人は柚葉に付き添い、そのまま車に乗り込んだ。
私は一人道端に取り残された。タクシーがつかまるまで十数分も待つことになった。
家に帰ると、拓海からメッセージが届いていた。
【柚葉がちょっと具合悪そうだから帰るの遅くなる。先に寝てて】
私はそのメッセージを見つめたあと、志保から送られてきた会社の資料をもう一度開いた。
もう後回しにされるだけの関係に期待するのはやめよう。
翌日、私は元の職場へ退職手続きに向かった。人事担当者は書類を差し出す前に、私の顔色をうかがった。
「伊藤さん、本当にいいんですか?今回の件は部署の再編が理由で、あなた個人に問題があったわけじゃないんですよ」
「わかっています」
私は書類の最後のページを開き、署名した。
デスクを離れる前に、引き出しの中身を一つずつ段ボールに詰めていった。マグカップ、専門書が数冊、それから三年間育ててきたミントの鉢植え。
同じチームの後輩が荷物を運ぶのを手伝おうとしてくれたけれど、上司に呼ばれて行ってしまった。
私は最後の一本のペンを箱に入れると、スマホを取り出し、グループチャットにメッセージを送った。
【六時には会社を出る。荷物が多いから迎えに来るの忘れないでね】
拓海からすぐに返事が来た。
【わかった。仕事が終わったらそのまま向かう】
健太も返信した。
【俺は車で行く。予備の段ボールも持ってく】
航平からもメッセージが届いた。
【俺も仕事が終わったら合流する】
そのやり取りを見て私はようやく少しだけ安心した。
午後六時ちょうど、私は段ボールを抱えて、オフィスビルを出た。
辺りはすでに薄暗く、入口の街灯がともり始めていた。
階段の脇に立ち、まず十分待った。六時二十分になっても、拓海は来なかった。
健太も航平も姿を見せない。私はスマホを取り出し、メッセージを送った。
【着いた?】
誰からも返事はなかった。
さらに数分待ってから拓海に電話をかけたが、呼び出し音が鳴り続けた末に、電話は切れてしまった。
もう一度かけようとしたとき、SNSに柚葉の新しい投稿が表示された。
広々としたリビングに立つ柚葉の背後には、段ボールが山積みになっていた。
【やっと新居の引き渡しが終わった!でも荷物が多すぎて、一人じゃ全然片付かないよ〜】
次の写真には、床にしゃがんで収納棚を組み立てる拓海、本棚を運ぶ健太、フロアランプを抱えた航平が写っていた。
私は写真を拡大し、しばらく見つめてから、ゆっくりと元の大きさに戻した。
なんだ。三人とも柚葉のところにいたんだ。
段ボールを抱えたまま動かない私を見かねたのか、警備員さんが近づいてきた。
「彼氏さん、まだ来ないんですか?」
私は無理やり口角を上げた。
「ちょっと用事ができたみたいで」
警備員さんは段ボールをタクシーのトランクに積み、ミントの鉢植えも座席の脇に置いてくれた。
タクシーが走り出してしばらくすると、ようやく拓海から個別メッセージが届いた。
【菜月、まだ会社にいるのか?】
続けてもう一通。
【今日、柚葉の引っ越しだったんだよ。健太が迎えに行ってると思ってた】
すぐに健太からもメッセージが来た。
【俺は拓海が迎えに行ったと思ってた】
航平も言い訳するように送ってきた。
【俺は二人でうまくやってると思ってたよ】
三人の言い訳を眺めているとなんだか笑えてきた。みんな誰かがやってくれると思っていた。
だから結局、会社の前で待ちぼうけを食らったのは、私一人だったのだ。
拓海からまたメッセージが届いた。
【今から迎えに行こうか?】
私は段ボールを抱えていたせいで赤くなった手のひらを見つめ、返信した。
【もういいよ】
その夜、家に帰って玄関の扉を開けると、リビングにはスーツケースのそばに座る柚葉の姿があった。
上着を着たまま、スキンケア用品の入ったポーチを抱えている。
「菜月、ごめんね。急にお邪魔しちゃって」
私は靴を脱ぐ手を止めた。
「どうしたの?」
「新居の給湯器が壊れちゃって。管理会社に聞いたら、修理は早くても明日になるって言われたの。今日だけ泊めてもらってもいいかな?」
すると、キッチンから出てきた拓海が、当然のように柚葉のスーツケースを引き寄せた。
「もちろんいいよ。ゲストルームも空いてるし」
健太も彼女からポーチを受け取った。
「必要なものがあったら、何でも言って」
航平はすでにゲストルームの電気をつけ、ベッドにシーツまで敷いていた。
柚葉は部屋の入口に立ち、私に向かって言った。
「一晩だけだから。明日には帰るね」
私は黙ってうなずいた。
柚葉の荷物は、三人が一つずつゲストルームへと運び込んでいく一方、さっきタクシーから降ろしてもらった私の段ボールは、玄関にぽつんと置かれたままだった。
第3章
ゲストルームのドアの裏には柚葉のパジャマが掛けられ、洗面所には彼女のスキンケア用品が並んでいた。
冷蔵庫の中まで、柚葉の大好きなジュースでいっぱいになっている。
その一方で、私がいつも飲んでいたものは、もうずいぶん前から買い足されていなかった。
夕食を作ったのは拓海だった。食卓についた柚葉が胃の調子が悪いと言うと、拓海はあっさりした料理を彼女の前に移した。
健太は柚葉の皿から唐辛子を取り除き、航平は温かいお茶を差し出した。
「ゆっくり食べろよ。また胃が痛くなるぞ」
私は黙って食事を続け、食べ終わると、食器をまとめてキッチンへ運んだ。
誰かに頼まれたわけでも、催促されたわけでもない。ただ、柚葉がいると、洗い物は決まって私の役目になった。
柚葉は仕事で図面を描かなければならないし、ネイルもしたばかりだからと言う。
拓海は、柚葉は胃が弱いから、冷たい水に触ると体調を崩すかもしれないと言う。
そんな言葉を何度も聞かされているうちに、私自身もそれが当たり前だと思うようになっていた。
蛇口をひねると、リビングから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
最後のお皿を洗い終え、手を拭いてリビングへ戻ると、部屋の照明はすでに消されていた。
テレビの青白い光だけが辺りを照らしている。画面にはホラー映画が流れていて、ちょうど廃病院の廊下が映し出されていた。
柚葉が拓海の隣の空いた場所をぽんぽんと叩いた。
「菜月、早くおいでよ!席、空けておいたよ」
私はソファに近づき、テーブルの上にミルクティーが二杯置かれていることに気づいた。
私の分は、一杯買うともう一杯無料でもらえるキャンペーンのマンゴーミルクティーだった。
私はマンゴーアレルギーだ。そのことはみんな知っているはずだった。
柚葉の前に置かれているのは、彼女の大好きな栗のクリームがのったミルクティーだった。
拓海が私をちらりと見た。
「菜月、なんで飲まない?」
「私、アレルギーだから」
「じゃあ飲まなくていい。そのまま置いとけば?」
柚葉が慌てて口を開いた。
「ごめんね、知らなかった。よかったら私のと交換する?」
すると拓海は、柚葉のミルクティーを少し遠ざけた。
「柚葉は自分のを飲んでなよ。菜月は飲まないならそれでいいだろ」
そのとき、映画から突然悲鳴が響いた。驚いた柚葉が拓海の腕をつかむと、彼はすぐにその手を握り返した。
「もう見ないほうがいいよ。次はもっと怖いシーンだと思うから」
三人は柚葉を囲んで声をかけていた。ソファの端に座る私のことなど、誰も気に留めていなかった。
私はマンゴーミルクティーを見つめながら、ふと大学に入ったばかりの頃を思い出した。
あの頃は、まだ四人だった。拓海、健太、航平、そして私。
一緒に授業を受け、一緒にご飯を食べ、週末には車で郊外へ遊びに行ったりもした。
柚葉が私たちの学科に転入してきたとき、最初に仲良くなったのは私だった。
彼女はよく私の腕に絡みつきながら、こう言っていた。
「これからは五人だね!」
私はそれが嬉しくて、いつしか柚葉を一番の親友だと思うようになっていた。
けれどいつからだろう。五人で旅行に出かけると、五人乗りの車では決まって私が後部座席の真ん中に座るようになった。
柚葉は車酔いしやすいからと、助手席はいつも彼女のために空けられていた。
映画を観に行ったとき、チケットを一枚買い忘れたこともあった。
そのとき拓海は軽く手を振り、私だけ次の上映まで待っていればいいと言った。
みんなでアクセサリー作りに出かけたこともある。だが私が会計を済ませて顔を上げると、周りには誰もいなかった。
ショッピングモールの中をさんざん探し回り、ようやくレストランで四人を見つけた。
私に気づいた航平は、ただこう言った。
「柚葉がお腹すいたって言うから、先に来て注文してた」
一言メッセージを送ろうとすら、思わなかったのだろう。
テレビから再び悲鳴が響いた。柚葉は拓海の胸に飛び込むように身を寄せ、健太と航平も笑いながら彼女をなだめていた。
私は視線をそらし、一人で部屋に戻った。
服、身分証明書、パソコンの充電器など、必要なものを一つずつスーツケースに詰めていく。
パソコンだけは、まだ机の上に残してあった。私はスマホを取り出し、志保にメッセージを送った。
【航空券はもう取った。明日、用事を済ませたら出発するね】
志保からすぐに返信が来た。
【了解!こっちで待ってるね】
私はスマホを置き、スーツケースのファスナーを閉めた。
第4章
翌朝、私はパソコンを開き、転職先に提出する資料を整理しようとした。
ところが、デスクトップに置いていたフォルダがいくつか消えていた。
ごみ箱を開いてみたけれど、そこにも見当たらない。デザイン案も、契約書も、何日も夜更かししてまとめたプロジェクト資料も、すべてなくなっていた。
私は検索欄を開き、ファイル名を一つずつ入力し直したが、画面にはただ一行、こう表示されるだけだった。
【一致する項目が見つかりません】
私はパソコンを抱えて部屋を出た。柚葉は洗面所で歯を磨いていた。
「昨日の夜、私のパソコン使った?」
柚葉は歯ブラシをくわえたまま、寝ぼけた様子でうなずいた。
「急に仕事しなきゃいけなくなったんだけど、パソコン持ってきてなくて。拓海が菜月のを使っていいって言うから、ちょっと借りたの」
「私のファイル、どうしてなくなってるの?」
柚葉は口をゆすぎ、ようやく少し目が覚めたようだった。
「間違えて消しちゃったの」
「転職先に提出する資料も入ってたんだよ。ずっと前から準備してたデザイン案だってあったのに」
柚葉はその場で固まった。
「ごめんね。今日使うなんて知らなかったの。デスクトップに置いてあったから、前の会社の古いデータだと思っちゃって……」
声を聞きつけた拓海がリビングからやってきた。彼はまず柚葉を見て、笑いながら言った。
「柚葉はほんと、そそっかしいな」
それからようやく、私のほうを向いた。
「もういいだろ、菜月。柚葉だってわざとやったわけじゃないんだし。お前ならそれくらいすぐ作り直せるだろ?」
「今日、提出しなきゃいけないの」
「リストラされたばっかりなんだろ?今は時間もあるんだし、一日くらい遅れたって別にいいじゃん」
私は拓海をじっと見つめた。
「つまり、私のファイルが消されても、大したことじゃないってこと?」
拓海は眉をひそめた。
「そんなこと言ってないだろ。柚葉は今日、昇進してから初めての部署の報告会があるんだ。こんな大事なときに失敗させるわけにはいかないだろ。
お前、こういうトラブルに対処するの得意だったじゃん。もう一回作るくらい、難しくないだろ?」
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。朝食の入った袋を提げた健太と航平が入ってきた。ちょうど拓海の最後の言葉が聞こえたらしい。
健太が袋をテーブルに置いた。
「どうしたんだよ?朝っぱらから何を揉めてるんだ?」
拓海が簡単に事情を説明した。健太は私を見ると、飲み物を一杯取り出した。
「菜月、とりあえず何か食べなよ。デザイン案が何枚か消えただけだろ?お前なら仕事も早いし、また作ればいいじゃん」
航平も朝食の袋を開けた。
「柚葉もわざとじゃないんだから、いつまでも責めるなよ。先に飯食って、それから落ち着いてファイルを探せばいいだろ」
私はテーブルに並べられた朝食を見つめ、ふと尋ねた。
「この中に、私の好きなものはある?」
誰も答えなかった。私は小さく笑った。
「どうせ柚葉の好きなものしかないんでしょ?」
拓海の表情が険しくなった。
「たかが朝飯だろ?そんなことでいちいち大げさに騒ぐなよ」
健太も口を挟んだ。
「とりあえず飯食おうぜ。こんな些細なことで怒るなって」
航平も眉をひそめた。
「ファイルは作り直せばいいし、朝飯だってまた買えばいいだろ。今日のお前、なんでそんなに突っかかってくるんだよ?」
私は三人を見つめた。この数日間、胸の奥にたまり続けていた思いが、とうとう抑えきれなくなった。
「みんな、いつもそう言うよね。たかが、それくらい、って」
私はパソコンを手に取った。
「でも私にとって大切なものも、ちゃんと大事にしようって思ってくれたこと、一度でもある?」
誰も答えなかった。私は背を向け、そのまま家を出た。
パソコン修理店に持ち込むと、店員さんが長い時間をかけて調べてくれた。
「誤って削除されたみたいですね。これ以上データを保存しないでください。一部は復元できると思います」
私は店内で待つことにした。二時間後、幸いにもほとんどの資料を取り戻すことができた。
家に帰ると、四人はすでに仕事へ出かけていた。
私は服や身分証明書、パソコンをスーツケースに詰め、家の合鍵をダイニングテーブルの上に置いた。
空港に着くと、またスマホが震えた。拓海からのメッセージだった。
【柚葉がUSBメモリを家に忘れてないか?会社まで届けてやってよ】
私はしばらくそのメッセージを見つめたあと、迷わず拓海をブロックした。
続いて、柚葉、健太、航平の連絡先も一人ずつ削除した。
そして最後に、あの五人のグループチャットを退会した。
飛行機が雲を突き抜け、窓の外では街並みがゆっくりと遠ざかっていく。
もう二度と彼らの集合写真に無理やり入ろうとしなくていいんだ。