離婚届を残し、俺は自由の世界へ

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遅めのハネムーンの荷造りをしていると、妻の谷村咲月(たにむら さつき)は目的地を、弟の瀬戸湊(せと みなと)がずっと行きたがっていた南十字島(みなみじゅうじじま)に変更した。 俺・瀬戸陸(せと りく)は手を止め、妻と娘の瀬戸芽依(せと めい)が示し合わせたように顔を見合わせるのを見た。 「パパが反対なら、多数決で決めよう」 俺と湊の意見が分かれると、彼女たちはいつも多数決で公平に決めようとする。 俺の誕生日にフレンチレストランを予約しておいた時も、健康のためにサラダを食べようという湊の提案に、彼女たちは多数決で賛成した。 芽依が初めて表彰台に上がる日、俺は丸1日ステージの下で待っていたのに、彼女たちは多数決で湊を父親の立場としてステージに上げた。 後になって知ったことだが、娘が先生に提出した家族写真でも、俺の場所はとっくに湊にすり替えられていた。 そして今回も票数は2対1で、また俺の負けだ。 俺は喉の奥がざらつくように痛むのを感じながら、静かに反論した。 「咲月、蒼音湖(あおねこ)は俺がお前にプロポーズした場所じゃないか」 咲月は顔を上げず、南十字島行きの格安航空券を共同購入している。 「どこだって海はあるでしょ?同じよ。いい大人の男がそんな細かいこと気にしないで」 そう言って彼女は注文を確定した。3人パックのチケットだ。 「3人パックしかなかったから、あなたは自分で買って」 彼女は自分と芽依、そして湊を一つのグループにまとめ、俺をそこから排除した。 そして俺は結婚指輪を外し、蒼音湖へのチケットを予約した。 辿り着きたい遠い場所へは、俺1人で行けばいい。

Chapters (1)

第1章

遅めのハネムーンの荷造りをしていると、妻の谷村咲月(たにむら さつき)は目的地を、弟の瀬戸湊(せと みなと)がずっと行きたがっていた南十字島(みなみじゅうじじま)に変更した。 俺・瀬戸陸(せと りく)は手を止め、妻と娘の瀬戸芽依(せと めい)が示し合わせたように顔を見合わせるのを見た。 「パパが反対なら、多数決で決めよう」 俺と湊の意見が分かれると、彼女たちはいつも多数決で公平に決めようとする。 俺の誕生日にフレンチレストランを予約しておいた時も、健康のためにサラダを食べようという湊の提案に、彼女たちは多数決で賛成した。 芽依が初めて表彰台に上がる日、俺は丸1日ステージの下で待っていたのに、彼女たちは多数決で湊を父親の立場としてステージに上げた。 後になって知ったことだが、娘が先生に提出した家族写真でも、俺の場所はとっくに湊にすり替えられていた。 そして今回も票数は2対1で、また俺の負けだ。 俺は喉の奥がざらつくように痛むのを感じながら、静かに反論した。 「咲月、蒼音湖(あおねこ)は俺がお前にプロポーズした場所じゃないか」 咲月は顔を上げず、南十字島行きの格安航空券を共同購入している。 「どこだって海はあるでしょ?同じよ。いい大人の男がそんな細かいこと気にしないで」 そう言って彼女は注文を確定した。3人パックのチケットだ。 「3人パックしかなかったから、あなたは自分で買って」 彼女は自分と芽依、そして湊を一つのグループにまとめ、俺をそこから排除した。 そして俺は結婚指輪を外し、蒼音湖へのチケットを予約した。 辿り着きたい遠い場所へは、俺1人で行けばいい。 第1話 俺がスマホで予約の手続きを始めたのを見て、咲月の表情が和らいだ。 彼女は愛おしそうに湊の頭を撫でてから、俺の手を引いた。 芽依は湊の太ももに抱きつき、甘えた声を出した。 「じゃあ、水着を買いに行きましょう。湊おじちゃんと芽依、最近サーフィンの特訓してたもんね。南十字島に着いたらさっそく海で遊べるね! その時、湊おじちゃんはきっとビーチで一番かっこいい男だよ!」 娘がこんなふうに愛想のいい言葉を口にするのは珍しい。 彼女は俺に対して妙に壁を作っており、その目には言葉にし難い軽蔑の色が潜んでいる。 父娘の距離を縮めようと、俺は芽依がお気に入りのグルメ系インフルエンサーをチェックし、彼女が「いいね」を押したレシピを必死に練習した。 だが、期待を込めて「美味しいか?」と尋ねるたび、彼女は決まって眉をひそめて口にした俺の手料理をゴミ箱に吐き出し、吐き気を催すような素振りを見せた。 「パパの作ったご飯、本当にマズい」 味は悪くなかった。単に芽依の口に合わなかっただけだと思っていた。 だが今ならわかる。俺という存在が嫌いだから、俺のすることなすこと全てが気に食わないのだ。 俺はハンドルを強く握り、バックミラー越しに芽依が湊の腕の中で静かに横たわっているのを見た。 俺の視線に気づくと、彼女はあっかんべーをして、俺に向かって唾を吐きかける真似をした。 湊はそれを見て吹き出し、たまらず口を挟んだ。 「兄貴と芽依って、絶対に前世からの仇同士だよな。 俺が見てきた中で一番いい子なのに、なぜか兄貴にだけは懐かないもんなぁ」 咲月は目尻を下げて同調した。 「芽依は本当に湊のほうが好きみたいね。毎年の誕生日の願い事だって、『明るくてかっこいい湊おじちゃんがパパになればいいのに』だもんね」 そう言われて、湊は照れ臭そうに顔を赤らめた。 彼はチラリと咲月を見てから、芽依の脇腹をくすぐった。 「こら、そんなこと言うなよ。兄貴が傷つくだろ」 車内に響き渡る楽しげな笑い声が、鋭い針のように俺の胸を刺す。 俺は幼い頃から手のひらで大切に育ててきた我が子を見つめた。湊が家に居候し始めてからというもの、彼女は二度と俺に懐くことはなくなった。 苦い思いを噛み殺していると、咲月が身を乗り出して俺のシートベルトを外してくれた。 俺が落ち込んでいるのを察したのか、彼女は慰めるように軽くキスをしてきた。 「子供の冗談よ。そんなに気にしないで」 ビーチウェアの専門店に入ると、最初は俺と並んで歩いていた咲月が、次第に湊の方へ寄っていった。 湊が芽依と手を繋ぎ、芽依が咲月と手を繋いでいる。 店員が愛想よく声をかけてきた。 「ご家族3人、本当に仲が良くて幸せそうですね」 後ろに取り残された俺に気づく者は誰もいなかった。それどころか、俺こそがこの家族3人の一員なのだと、誰も訂正しようとはしなかった。 俺は芽依が楽しそうに湊の水着を選んでいるのを見て、目頭が熱くなった。 突然、彼女はマリンブルーの水着を1着手に持ち、期待に満ちた目で俺の方へ歩いてきた。 「パパ、これを着たら絶対かっこいいよ」 咲月も相槌を打ち、俺を試着室の方へ押しやった。 「早く着替えて、芽依のセンスがどんなものか見てみようよ」 冷え切っていた心に温かいものが流れ込み、俺は水着に着替えた後、鏡の前で何度かシワを整えたりもした。 ドアを開ければ称賛の言葉がもらえると思っていたが、押し開けた瞬間、無慈悲なフラッシュが焚かれた。 第2話 芽依はその写真を家族のLINEグループに送りつけ、幼い声で強烈な悪意を放った。 「お腹の肉割れマジでキモい。なんでブサイクなくせに無駄に出しゃばって、おじちゃんが気に入ったかっこいい服を横取りしようとするの?」 全身の血の気が引いていくのを感じながら、俺は隣の試着室から出てきた湊を見た。 彼は俺と全く同じデザインの水着を着ており、腰から腹部にかけてくっきりとした筋肉のラインが浮かび上がっていた。 店内のすべての人の視線が彼に釘付けになった。 「うわ、あのお兄さんスタイル良すぎ。腹筋バッチリ割れてるじゃん。彼女さん幸せだね」 「隣にいるの誰?お腹は脂肪だらけで、めっちゃキモイ」 まるで大勢の前で丸裸にされたような羞恥心に襲われ、俺は助けを求めるように咲月へ視線を送った。 だが、彼女の熱を帯びた視線は湊にべったりと張り付いており、俺の屈辱には微塵も気づいていない。 LINEグループでは親戚中が俺を笑いものにし、お笑い芸人の罰ゲームにでも出ればいいと好き放題に書き込んでいた。 逃げるように試着室に戻ると、過呼吸を起こしそうになった。 芽依が3歳の時、重度の腎不全と診断された。 俺はドナーの適合検査こそクリアしたものの、元々体が弱く、移植基準を満たせなかった。 そのため俺は必死に体重を増やすしかなく、吐き気を堪えて胃に詰め込み、吐いてはまた食べる生活を続けた。 かつてはすれ違う女子が振り返るほどの容姿だったはずが、今では見る影もない脂肪の塊に成り下がった。無理な増量のせいで、腹には醜い肉割れが残ってしまった。 手術の前、俺は芽依に尋ねた。「パパがブサイクになったら、嫌いになるか?」 彼女はポロポロと涙をこぼしながら、「私の心の中ではパパが世界一だよ」と言ってくれたのだ。 それでも俺は激しい体型コンプレックスに苛まれ、中度のうつ病と診断された。 そんな俺を咲月は慰め、物心ついた芽依もよく励ましてくれた。 「これは家族を愛した勲章だよ」 とっくに塞がったはずの心の傷口が、今、再び無惨に引き裂かれ、息ができないほどの痛みを放っていた。 ドアの外から、母娘のクスクスと笑い合う声が聞こえてきた。 「この前LINEグループで、パパがおじちゃんのこと『片付けができない』ってチクったでしょ?今回恥をかかせたのは、その罰だよ」 俺は力なく壁に背を預けて座り込み、咲月の「もう帰るわよ」と急かす声を聞いて、ようやく重い試着室のドアを開けた。 店を出る時、湊は勝ち誇ったように俺を見下ろし、パンパンに膨らんだショッパーを見せびらかすように揺らした。 「兄貴、次から服買う時は先に俺に相談してよ。ペアルックになると、気まずいだろ」 芽依はプッと吹き出し、湊の持つ重い荷物を争うように手伝い始めた。 咲月は俺に安物の水泳帽を押し付けた。 「もう若くないんだし、自分の体型くらい客観視しなさいよ。こういう実用重視のものが、今のあなたにはお似合いよ」 爪が手のひらに食い込むほど拳を握り、俺は胸の奥底から湧き上がる苦い感情を押し殺した。 実用的だから俺に合っているわけではない。咲月の中では、俺にはその程度の価値しかないということだ。 湊は咲月と肩を並べ、俺に向かって目配せした。 「義姉さん、俺まだサングラス買ってないんだけど」 咲月は俺の手首を掴み、力強く後ろへ引っ張った。 「まだ帰らなくていいわ。買い忘れがあるから」 俺はよろけ、誰かの持っていた硬い紙袋の縁で腕を強く擦りむいてしまった。 すぐに血の玉が滲み出し、痛みに息を呑む。 しかし咲月も芽依も俺には目もくれず、湊に付き添って足早に店へと引き返していった。 すると、耳元で押し殺したような小さな歓声が聞こえた。通りすがりの若い女性がバッグから絆創膏を取り出して俺に差し出した。 「もしかして、月影(つきかげ)先生ですか?」 思いがけない呼称に虚を突かれ、俺はためらいながらも頷いた。 彼女は興奮した様子で声を弾ませた。 「先生の写真作品、全部拝見しました!大ファンなんです!でも、もう8年も更新されていませんよね」 10年前、俺は界隈で一世を風靡した新進気鋭のカメラマンだった。 俺の撮る写真には、被写体の持つ独特の魂と風情が宿ると高く評価されていた。 咲月は俺の作品に惚れ込み、あらゆる手を使って俺の連絡先を探し出した。 彼女は朝には花束を、昼には手作り弁当を、夕方には温かいココアを差し入れてくれた。 俺はその一途な真心に打たれ、プロポーズを受け入れたのだ。 結婚後、彼女の立ち上げた事業は右肩上がりに成長し、俺は家事の合間を縫って大自然を駆け回る生活を送っていた。 だが芽依は生まれつき体が弱く、看病のために俺は専業主夫となり、完全に家庭に入ることを余儀なくされた。それ以来、カメラに触れることはなくなった。 俺がどうしても蒼音湖へハネムーンに行きたいとこだわったのは、かつて咲月が「2人の愛を誓った蒼音湖でウェディングフォトを撮ろう」と約束してくれたからだ。 彼女はとっくにその約束を忘れ去り、俺は1人で旅立つ道を選んだのだ。 第3話 ファンの女性と別れる時、俺は真剣な眼差しで彼女に告げた。 「もうすぐ更新しますよ。これ以上は待たせません」 背後からハイヒールの足音が近づき、咲月が苛立ったように眉をひそめて俺の前に立った。 「一体何をモタモタしてるの?水着も選ばないし、サングラスも買わないなんて。 そんなに拗ねないでよ。次は絶対に付き合うって約束するから」 俺の要求はいつだって「次」に後回しにされるのに、湊の欲求は即座に満たされる。 彼が流行りのストリートブランドの靴を欲しがれば、咲月は街中を駆け回ってプレ値で買い叩き、何が何でもその日のうちに手に入れようと奔走する。 俺が最新レンズを欲しがった時、彼女は海外に行く友人に頼んで買ってくると約束してくれた。 だが、俺が胸を躍らせて1週間待ちわび、どうしてまだ届かないのかと尋ねると、彼女はただ「忘れてた」とだけ返した。 咲月にとって、俺の存在などとっくに重要ではなくなっているのだ。 俺の顔色があまりにも沈んでいたせいか、咲月は少しだけ声音を和らげた。 「陸、湊は弟でしょ?ムキになってどうするの」 俺は静かに頷き、咲月の言葉を肯定して見せた。 彼女は満足そうに微笑み、俺の肩にもたれかかって甘い声で誓った。 「蒼音湖に行ったら、秘書に最高のウェディングドレスの店とメイクさんを予約させるから。 あなたも少しダイエットしてね。私が苦労して準備したプランに釣り合うように」 湊と芽依が大量のショッパーを抱えて出てきて、疲れ切った様子で息を切らした。 「帰ろう。店のもの全部買い占めちゃうところだったよ」 咲月はとろけるような眼差しで、湊が差し出した荷物を嬉々として受け取った。 外はバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨になっており、容赦ない雨水が俺のズボンの裾を濡らした。 数え切れないほどのショッパーが、俺の座るはずの席を完全に占拠している。 激しい雨粒が車の窓を叩きつける中、湊が窓から申し訳なさそうに顔を覗かせた。 「兄貴、悪いけどタクシーで帰ってくれない?兄貴の座るスペース、もうないんだ」 芽依は外にいる俺の手を気にも留めず、「バンッ!」と勢いよく車のドアを閉めた。 指の骨が砕けるような激痛が走り、思わず手を引っ込めて後ずさった拍子に足を踏み外し、俺は側溝に半身を突っ込んでしまった。 腕時計が硬いアスファルトに打ち付けられ、ガラス盤面にクモの巣状のヒビが入った。 咲月は慌てて車を降りようとしたが、湊が心配そうな声を作って引き止めた。 「雨がどんどんひどくなってる。このまま視界が悪くなったら、運転危ないよ」 彼女はあっさりとエンジンをかけ、「気をつけて帰ってね」という言葉だけを残して走り去っていった。 豪雨が体に打ち付けて痛い。俺は口の中の肉を噛み破るほど強く歯を食いしばった。 この時計は、咲月がわざわざのプロの職人に特注して作らせた、結婚8周年のプレゼントだった。 泥水の中でもがいているうちに、文字盤の割れたガラスが皮膚の奥深くに食い込んだ。それはまるで、俺と咲月の愛情が長い年月の中で少しずつ風化し、顔を合わせれば互いに嫌気が差すほど変わり果てた姿そのものだった。 俺は腕時計を外し、肉の奥に深く突き刺さったガラスの破片を自らの手でえぐり出した。それは、長年咲月に抱き続けてきた愛への執着を、ひとつひとつ清算する儀式のようでもあった。 豪雨が全身をずぶ濡れにした。風が吹くと、寒さでガタガタと震えが止まらない。 今の咲月は、俺が道端で凍えていようが気にも留めないのだろう。 俺は自嘲気味に笑い、スマホを取り出して配車アプリを開こうとした。 だがスマホは完全に水没しており、一瞬だけ光ってプツンとブラックアウトした。 ヒビ割れた腕時計が、無惨に濁水の中に転がっている。俺は屋根のあるバス停に立ち尽くし、ただ雨が止むのを待った。 どれくらい時間が経っただろうか。雨の勢いが次第に弱まってきた頃、同じバスを待つ女性が俺に声をかけてきた。 「ねえ、あの落ちてる時計、あなたのじゃないですか?もういりませんか?」 俺は静かに微笑み、何も縛るものがなくなった自分の手首を見下ろした。 「ええ。もう、必要ないんです」 第4話 なんとか家までたどり着くと、ちょうど咲月が温かいホットミルクの入ったマグカップを手にして、キッチンから出てくるところだった。 俺の心がまた一段と冷え込んでいくのを感じた。 「なぜ料理などしない彼女が突然キッチンに立ったのか」なんて、野暮な問いをぶつける気にもなれない。 先月、俺が30歳の誕生日を迎えた時、俺は咲月に「お前の手料理が食べたい」と頼み込んだ。 だが彼女は取り付く島もなく、冷たい一言で切り捨てたのだ。 「私、料理なんてできないもの」 びしょ濡れの俺を見て、咲月の顔に珍しく気まずそうな表情が浮かんだ。彼女は慌てて取り繕おうとした。 「湊も芽依も濡れちゃったから、風邪を引かないようにホットミルクを温めたのよ。まだ残ってるけど、あなたも飲む?」 俺はキッチンのコンロに目をやった。ミルクパンの中には、焦げ付いた牛乳の膜と、洗い水を張ったような濁った残り汁しかない。 「いらない」 芽依が鼻で笑い、無邪気な残酷さで真実を突き刺した。 「ママ、最初からパパの分なんか作ってないよ。ママの愛情は、私と湊おじちゃんにだけあげるって約束したもん」 もう咲月のことなどどうでもいいと言い聞かせているはずなのに、心は制御不能なほどズキズキと痛んだ。 「その手、どうしたの?」 血まみれの腕を見ると、咲月は息を呑み、リビングで救急箱を探し始めた。 俺はまだ、彼女が俺を豪雨の中に置き去りにしたことを許しておらず、その中途半端な同情を受け入れたくなかった。 「大丈夫だ」と突き放そうとした瞬間、手首に鋭い痛みが走った。 咲月は汚物でも見るように口と鼻を覆い、狂ったように俺に向かって除菌スプレーを吹きかけ始めたのだ。 「湊は体が弱いのに、泥だらけで帰ってくるなんて……絶対に外からバイ菌をいっぱい持ち込んでるわ! もし病気にでもなったら、私が付きっきりで看病しなきゃならないのよ!」 その身勝手な言葉が、重いハンマーのように俺の心を粉々に打ち砕いていく。 咲月が除菌スプレーを撒き散らし、何度もアルコールティッシュで手を拭いた挙げ句、最後には使い捨ての防護服を俺に投げつけてきた。そんな彼女を、俺はただその場に立ち尽くし、呆然と見つめていた。 リビングでは、湊がホットミルクをすすりながら、あてつけのように得意げな顔で芽依とマグカップをぶつけ合って乾杯していた。 すると彼は突然書斎に駆け込み、何台もの一眼レフカメラを抱えて戻ってきた。 「兄貴、カメラ1台譲ってくれない?明日飛行機乗る時に、エモい写真撮りたくてさ」 その数台のカメラは、俺と共に世界中を飛び回ってきた、自分の分身とも言える大切な相棒だ。 「ダメだ」 湊は不満そうに唇を尖らせ、助けを求めるように咲月を見た。 咲月はひどく苛立たしげに俺を睨みつけ、カメラをすべて湊の腕の中に押し付けた。 「欲しいなら持って行きなさい。最悪、また陸に新しいの買ってあげるから」 湊は勝ち誇ったように眉を上げた。 彼は値踏みするようにカメラを見比べ、一番状態の良い最新モデルを指差した。 「義姉さん、俺はこの1台だけでいいや。全部持ってったら兄貴が泣いちゃうからさ」 咲月は目を細めて微笑んだ。 「湊は本当に優しいわね」 俺は湊が勝ち取ったカメラに目をやる。そのボディには、俺と咲月のイニシャルが刻印されていた。 彼女はもう忘れているのだ。それがかつて、彼女が俺に贈ってくれたプレゼントだったということを。 だが、それでよかった。誰かが持っていってくれるなら、俺がゴミ箱に捨てる手間も省けるというものだ。 芽依は意地悪な笑みを浮かべると、テーブルに残っていた他のカメラを次々と力任せに床へと払い落とした。 「ガシャッ!」という鈍い破砕音と共にレンズは割れ、ボディはバラバラに砕け散り、中のSDカードまで床に弾き飛ばされた。 頭の中が真っ白になった俺は、這いつくばって散らばった部品を拾い集め、必死に電源ボタンを押したが、液晶が点灯することは二度となかった。 俺の夢と情熱が、最も愛していたはずの家族の手によって、無残なガラクタの山へと変えられてしまったのだ。 強烈なめまいが脳を揺らし、俺はテーブルの角に頭をぶつけ、そのまま起き上がる力すら失って床に突っ伏した。 咲月は心底呆れたように大きなため息をつき、俺のふくらはぎを爪先で小突いた。 「壊れたって言っても、たかが古いカメラ数台でしょ?わざとらしく被害者ぶらなくてもいいじゃない。 お芝居が終わったらさっさと起きて荷造りしなさい。明日は朝9時のフライトなんだから」 そう冷たく言い放つと、彼女は湊と芽依を連れて、さっさと寝室へと消えていった。 俺は冷たい床に横たわったまま、長い時間をかけてようやく体を起こした。 主寝室からは、芽依の甘ったるい声が漏れ聞こえてくる。 「湊おじちゃんとママ、一緒に寝ようよ」 俺は凄惨な有様になった床を見つめながら、引き出しから予備のスマホを取り出した。役所のサイトから離婚届のPDFをダウンロードし、かつて自分の作品を出力していたA3対応のプロ用プリンターへWi-Fi経由でデータを送って印刷した。 署名捺印を済ませた後、俺はそれをリビングのテーブルの上に置いた。 寝室の明かりが消え、静まり返った家の中で、俺の存在を気にかける者はもう誰もいない。 俺は最小限の荷物だけを手に取り、足音を殺して家を出た。 俺の居場所ではない家も、俺を愛していない妻と子供も、もういらない。